ホモサピエンスは尊大でいいのか 2
昨日は、人類であるホモサピエンスが知能・知性を発達させ文明・文化を発展させ豊かな社会を築いてきた。それにより動物を家畜に支配してきた。それに対しって私は地位さときから疑問に思ってたとかいた。
また、三大発明をし、蒸気機関を発明し産業革命以降めまぐるしく文明を進化?さえてきた、そして1940年あたりから、科学が等比級数的に進化して発展してきたいま、今まで大きな自然の力や理解しがたいことは、神の仕業と解釈したりしてきた。しかし、分子生物学やIT技術の発展により、人類は「我はゴッド」の智慧や力を得たりといえるまでになってきたことに疑問があると書いた。
私はもう一つ小さいときから、疑問というか分からないことがある。それは人間には感情とか情念と言うものもっっているとされている。それが動物との違いだと説明されてきた。しかし、私は本当に動物にはそのようなものをもっていないのだろうか。他の動物ももっているのに、人間が理解したり感じたりする事ができないだけではないだろうかと。
家畜とペットでは、明らかに牛や馬や犬や猫とはそれぞれ違い、飼い主などに対しての接し方が違い、特にペットは飼い主の思いを感じとっている。多くの学者は動物には意識はあるが、人間のように自分自身を唯一無二のものとしての自己意識がないと言う。しかし、私はいや多くのひとはそのように思ってだろうか。
昔から寓話や民話や神話などで、動物を擬人化したり、神が宿っていると描かれている。また現代ではアニメなどで、多くの動物を擬人化してストーリーを展開させている。そちらの方がわたしたあち一般人には受け入れやすい。
しかし、目の前のいる動物やペットなどに対していくら思い入れを持っていても、主人と動物の関係は、人間でいうと雇い主と雇用人の間には、その前提として人間としての人権が前提としてある。しかし、ペットにはそれはないのはよいとして、自然界で自然に自由に生息している動物は、それなりの動物としての生息権などの権利を認めてよいのではないかと思っていた。
私が小学生のころ、小学校の裏山がブルドーザーで切り開かれていったが、そのとき思ったのはここに住んでいた、リスやイノシシなどの野生動物は、どこに追いやられたのだろうかと思った。
私が30代前の勤務地の前の広がる緑の丘陵が、1年の間に瞬く間に切り開かれてしまった。そして今では多くおの人間がそこで暮らしている。
いま、私たちの便利な生活を支えている、電気エネルギーや電化製品などの原材料は、自然豊の地の森の木を伐採して採掘されている。そこの暮らす動物や植物には何ら了解をとっていない。
私たちは別段動物の許可を必要だと思っていない。自然保護団体や動植物保護活動をしている人も、多くの人はそれらを絶滅させてしまったら将来自分たちに降りかかってくるものがあるとして、それらの保護活動をしている。
だれも、人間がその生息圏に入る前から生息している動植物のことを中心には考えようとしない。
わたしたち、人類はあまりにも増えすぎてしまっている。だからといって、この宇宙船地球号の一員は人間だけであるという考えをあらため、たのあらゆる生物も同じ一員だという考えでこれから生きていくことはできないのだろうか。
また、三大発明をし、蒸気機関を発明し産業革命以降めまぐるしく文明を進化?さえてきた、そして1940年あたりから、科学が等比級数的に進化して発展してきたいま、今まで大きな自然の力や理解しがたいことは、神の仕業と解釈したりしてきた。しかし、分子生物学やIT技術の発展により、人類は「我はゴッド」の智慧や力を得たりといえるまでになってきたことに疑問があると書いた。
私はもう一つ小さいときから、疑問というか分からないことがある。それは人間には感情とか情念と言うものもっっているとされている。それが動物との違いだと説明されてきた。しかし、私は本当に動物にはそのようなものをもっていないのだろうか。他の動物ももっているのに、人間が理解したり感じたりする事ができないだけではないだろうかと。
家畜とペットでは、明らかに牛や馬や犬や猫とはそれぞれ違い、飼い主などに対しての接し方が違い、特にペットは飼い主の思いを感じとっている。多くの学者は動物には意識はあるが、人間のように自分自身を唯一無二のものとしての自己意識がないと言う。しかし、私はいや多くのひとはそのように思ってだろうか。
昔から寓話や民話や神話などで、動物を擬人化したり、神が宿っていると描かれている。また現代ではアニメなどで、多くの動物を擬人化してストーリーを展開させている。そちらの方がわたしたあち一般人には受け入れやすい。
しかし、目の前のいる動物やペットなどに対していくら思い入れを持っていても、主人と動物の関係は、人間でいうと雇い主と雇用人の間には、その前提として人間としての人権が前提としてある。しかし、ペットにはそれはないのはよいとして、自然界で自然に自由に生息している動物は、それなりの動物としての生息権などの権利を認めてよいのではないかと思っていた。
私が小学生のころ、小学校の裏山がブルドーザーで切り開かれていったが、そのとき思ったのはここに住んでいた、リスやイノシシなどの野生動物は、どこに追いやられたのだろうかと思った。
私が30代前の勤務地の前の広がる緑の丘陵が、1年の間に瞬く間に切り開かれてしまった。そして今では多くおの人間がそこで暮らしている。
いま、私たちの便利な生活を支えている、電気エネルギーや電化製品などの原材料は、自然豊の地の森の木を伐採して採掘されている。そこの暮らす動物や植物には何ら了解をとっていない。
私たちは別段動物の許可を必要だと思っていない。自然保護団体や動植物保護活動をしている人も、多くの人はそれらを絶滅させてしまったら将来自分たちに降りかかってくるものがあるとして、それらの保護活動をしている。
だれも、人間がその生息圏に入る前から生息している動植物のことを中心には考えようとしない。
わたしたち、人類はあまりにも増えすぎてしまっている。だからといって、この宇宙船地球号の一員は人間だけであるという考えをあらため、たのあらゆる生物も同じ一員だという考えでこれから生きていくことはできないのだろうか。
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