反パラリンピック宣言
反パラリンピック宣言
2020年に東京オリンピックが催される。国立競技や競技場指定の問題や開催経費の問題、オリンピックが終わってからの問題その運用などたいしての課題がある。しかし、なし崩し的に東京五輪開催へ向けて進められ、問題点は不問に付されている。そしていつの間にかマスコミは歓迎ムードが作り出され、東京五輪反対を唱えるのはよくないことだとして、周囲から白眼視され敵視される空気が醸し出されている。しかし、これらの問題は開催地の都民だけでなく、ツケはいずれ国民が総じて国民みんなに押しつけられ、払わなくてはならなくなる問題のはずです。
またもう一つ、私が心配しる深刻な問題に感じるものがある。それはオリンピック開催後に開かれるパラリンピックです。
パラリンピックは身体障碍者の国際スポーツ大会だが、もともとは脊椎損傷の人の国際スポーツ大会だった、肢体不自由者や視覚障碍者等も参加し、知的障碍者の国際スポーツ大会としてスペシャルオリンピックもIOC公認で開かれている。このように健常者と同等の条件で競技をするのに、障害があり難しい障碍がある人が活躍できる場所と、障碍がある人にとってのやりがいのあるものとして、障碍者スポーツは注目されることは非常に意味があることだといえる。
ではなぜ私はパラリンピックが開催されることへの盛り上がりに対して、深刻な問題を感じるのだろうか。
そこには、障碍を乗り越え一つの目標にチャレンジする能力や環境がある人は、それに向かって活動していることは賞賛に値することです。ただ、皆にもっと知っておいて欲しいことは、それらの障碍者がすべてでなく、障碍がもっと重度で複数の障碍を併せ持った重度重複障碍者もいれば、成人になってから障碍を負った中途障碍ではなく、生まれた時から障碍がある先天的障碍者がほとんどだということです。そしてそれらの人の中には、人工呼吸器をつけていたり、四肢を動かせないので常に支援者が必要な人、話すことが困難な人や、コミュニケーションの疏通が難しい人も多くいます。
それらの人も一人一人が一日一日一所懸命に日々の生活を過ごしています。しかし、傍目にそれらの人を見ると、コミュニケーションのサインが弱く、受け手がそれを取りにくいことから、何ら意思表示もせずにただ車いすに座っているだけだと感じてしまう人がいるようです。このような考えが、相模原の障碍者施設で起きた事件を産む種になっているといえる。
犯人は、自分を特別な損ぞあいと思い込む「自己愛性パーソナリティー障害」との検察の精神鑑定結果がでました。犯人は重度障碍者は生きている価値がないと断じ自分は正しいことをしたと言っていました。個人を一つの人格がある個人として見るのではなく、単に動物との対比としての人としてしか見ていないといえます。
またマスコミも普通は殺人事件などは実名が公表されるのだが、異常な事件なあまり障碍者だということで、被害者の名前の報道を避けて伏せていまいました。マスコミも障碍者を一人の個人として見ずに差別をしてしまいました。
スポーツで華々しく活躍する障碍者だけでなく、日々を地道にコツコツト生活して、その中で日々楽しみわずかだが新たな変化をしています。それらの重度重複の障碍がある人たちにも目を向け、それらの人への立場や気持ちをくみ取り理解すされる世の中にならなければならないです。
日本国憲法の第一三条には、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあります。自民との憲法草案には、「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」となっています。「個人」が「人」に替わっているだけですが、そこには大きな違いがあるといえます。
私が反パラリンピック宣言とうは、もっと重度重複の障碍者、生まれながらの障碍がある人にも、個人としての人格を尊重し共存できる社会にということを言いたいです。
2020年に東京オリンピックが催される。国立競技や競技場指定の問題や開催経費の問題、オリンピックが終わってからの問題その運用などたいしての課題がある。しかし、なし崩し的に東京五輪開催へ向けて進められ、問題点は不問に付されている。そしていつの間にかマスコミは歓迎ムードが作り出され、東京五輪反対を唱えるのはよくないことだとして、周囲から白眼視され敵視される空気が醸し出されている。しかし、これらの問題は開催地の都民だけでなく、ツケはいずれ国民が総じて国民みんなに押しつけられ、払わなくてはならなくなる問題のはずです。
またもう一つ、私が心配しる深刻な問題に感じるものがある。それはオリンピック開催後に開かれるパラリンピックです。
パラリンピックは身体障碍者の国際スポーツ大会だが、もともとは脊椎損傷の人の国際スポーツ大会だった、肢体不自由者や視覚障碍者等も参加し、知的障碍者の国際スポーツ大会としてスペシャルオリンピックもIOC公認で開かれている。このように健常者と同等の条件で競技をするのに、障害があり難しい障碍がある人が活躍できる場所と、障碍がある人にとってのやりがいのあるものとして、障碍者スポーツは注目されることは非常に意味があることだといえる。
ではなぜ私はパラリンピックが開催されることへの盛り上がりに対して、深刻な問題を感じるのだろうか。
そこには、障碍を乗り越え一つの目標にチャレンジする能力や環境がある人は、それに向かって活動していることは賞賛に値することです。ただ、皆にもっと知っておいて欲しいことは、それらの障碍者がすべてでなく、障碍がもっと重度で複数の障碍を併せ持った重度重複障碍者もいれば、成人になってから障碍を負った中途障碍ではなく、生まれた時から障碍がある先天的障碍者がほとんどだということです。そしてそれらの人の中には、人工呼吸器をつけていたり、四肢を動かせないので常に支援者が必要な人、話すことが困難な人や、コミュニケーションの疏通が難しい人も多くいます。
それらの人も一人一人が一日一日一所懸命に日々の生活を過ごしています。しかし、傍目にそれらの人を見ると、コミュニケーションのサインが弱く、受け手がそれを取りにくいことから、何ら意思表示もせずにただ車いすに座っているだけだと感じてしまう人がいるようです。このような考えが、相模原の障碍者施設で起きた事件を産む種になっているといえる。
犯人は、自分を特別な損ぞあいと思い込む「自己愛性パーソナリティー障害」との検察の精神鑑定結果がでました。犯人は重度障碍者は生きている価値がないと断じ自分は正しいことをしたと言っていました。個人を一つの人格がある個人として見るのではなく、単に動物との対比としての人としてしか見ていないといえます。
またマスコミも普通は殺人事件などは実名が公表されるのだが、異常な事件なあまり障碍者だということで、被害者の名前の報道を避けて伏せていまいました。マスコミも障碍者を一人の個人として見ずに差別をしてしまいました。
スポーツで華々しく活躍する障碍者だけでなく、日々を地道にコツコツト生活して、その中で日々楽しみわずかだが新たな変化をしています。それらの重度重複の障碍がある人たちにも目を向け、それらの人への立場や気持ちをくみ取り理解すされる世の中にならなければならないです。
日本国憲法の第一三条には、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあります。自民との憲法草案には、「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」となっています。「個人」が「人」に替わっているだけですが、そこには大きな違いがあるといえます。
私が反パラリンピック宣言とうは、もっと重度重複の障碍者、生まれながらの障碍がある人にも、個人としての人格を尊重し共存できる社会にということを言いたいです。