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文部省著作「民主主義」

文部省著作「民主主義」

この章は、民主主義の成り立ちについて、書かれています。70年近く前に書かれているので、今の考えや学説と違うところもあり、GHQの占領か出版物などへの規制があり、しかも文部省が出しているので、偏向しているところもあるが、大筋は、古代から近代までの民主主義の発展の過程について書かれています。
民主主義の発展について、初めて学ぶのによいテキストと言えるでしょう。
現代では民主主義は一言で言うと、「人民の、人民による、人民のための政治」のリンカーンの一言につきるでしょう。しかし、ギリシャの都市国家などでは、民主政治が行われたと言うが、それは現代からみるととうてい、民主政治と言えるものではないです。一人の権力者の独裁政治ではなかったが、一部の特権階級の人々がその特権を享受していたに過ぎず。奴隷や苦役を課せられそれから役務逃れることができない人もいました。

それが、イギリスの民主主義を呼んでいると、日本の江戸時代を思わすところがあります。徳川幕府は各藩に対して、徳川家に脅威を与えるものでなければ、かなり各の独自性を大認めていた、と言うより無関心立ったと言った方がよいかもしれない。
ここで紹介する「イギリスにおける民主主義の発達」と次に紹介する「アメリカにおける民主主義の発達」を読むと、明治政府は近代国家をめざしたが、明治憲法下では、とうてい民主主義とは言えない。天皇中心の国家で、国民は天皇の家来で臣民とされ、天皇の為なら命もいとわないとされた。そのために先の大戦の、日本兵の不幸な犠牲がでたと言えるます。
この章を読むと、民主主義を育てるためには、憲法の12条に書かれている「この憲法が国民に保障する自由及び権利は不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」の条文の大切とそれを実現するための、努力の重大さを感じます。
いま、まさに、国会で今までの日本の方向を180度の舵をきろうとしています。今国会の安保法政の法案は、健保解釈をねじ曲げてつくられたものです。つまり、この法案を通すということは、今後も憲法や法律をねじ曲げて解釈し、したいことはどのようなことでもすることになりかねないです。

文部省著作「民主主義」
第二章一民主主義の発達
一 古代の民主主義
人はよく、民主主義の政治は遠く古代ギリシアおよびローマから始まる、と言う。デモクラシーということばは、ギリシア語のデモス-クラートスから出た。デモスは国民であり、クラートスは支配である。そうして、単にことばたけでなく、ギリシアの都市国家、たとえばアテネでは、実際に国民の会議による政治が行われていた。また、ローマは、最初のうちは王政であったが、紀元前五百年ごろから共和政になった。そうして、自由人たちの組織する民会や元老院があって、そこで政治上および法律上の決定を行っていたのである。だから、単に政治の形態だけからいえば、民主主義の起源は
ギリシアやローマにあるといっても、あながちまちがいではない。
けれども、それらの古代国家には、一般の国民すなわち市民の外に、多数の奴隷があった。市民は自由を認められ、いろくな権利を持っていたが、奴隷は全くそうではなかった。かれらは、家畜のように、また、物品のように、持ち主の思うまヽに売られたり買われたりしていた。奴隷は、家畜や物と同じように、その持ち主の財産であり、持ち主の意のまゝに働くためにのみ生きていたのである。かれらは、人間でありながら、人問でなかった。そのような世界に、どうしてほんとうの意味での民主主義がありえよう。奴隷を持つ国民が行う政治は、決してほんとうの民主政治ではない。人間が相手の人格を認めないで、自分の思うがまゝに行動し、他の人々を支配するところには、真の民主主義はない。
だから、民主主義の発達は、西洋でも近世をまたなければならなかった。近世になって、一番早く民主主義の進歩しはじめたのは、イギリスである。ついで、アメリカ合衆国が独立し、フランス革命が行われた。しかし、それらの国々でも、決して一足とびに民主主義の世の中になったわけではない。おヽぜいの人々の長い間の努力と、国民の間にだんだん高まって来た政治上の自覚とが、次第に民主主義の社会を築き上げて行ったのである。その歴史的な発達の跡を、しばらくふり返ってみることにしよう。

二 イギリスにおける民主主義の発達
むかし、サクソン人の王たちがこの国を治めていた時代にも、イギリスの国民はある程度の地方自治の下にあった。しかし、国全体としてある程度の自治が行われるようになったのは、第十一世紀の半ば過ぎになって、この国にノルマン人たちが入りこみ、この国を征服して治めるようになってからのことである。もちろん、それは、自治といってもきわめて低い程度のものであった。その、わずかな芽ばえのような自治が、あらゆる権力の圧迫とたゝかって、今日のイギリスのたくましい民主主義の大木にまで育ち、そびえるためには、約九百年の歳月を必要とした。
この国を征服して治めるようになったノルマン人の王は、ウィリアム征服王とよばれた。この王は、強い支配力を持った、ぬけめのない人で、諸地方を領有する封建諸侯を手なずけ、それによって王の地位を強固なものにするという政策を採った。そのころのイギリスには、バロンとよばれる多くの貴族がいて、その貴族たちがそれぞれ領地を専制的に治め、ちょうど日本の徳川時代の藩の制度のようになっていたのである。ウィリアムは、一方では、これらの貴族たちが互に力を合わせたり、ひとりで王に対抗できるほどに強くなったりしないように努めた。しかし、またその反面では、貴族たちが王の権力に心服するように、いろくな権利をこれに与え、そのきげんをとることも忘れなかった。
ところが、そののち百五十年ばかりたって、その当時のジョン王が、貴族を無視して自分の思うがまヽの政治を行い、ウィリアムが貴族たちに対して認めていた権利を奪おうとしたので、貴族は大いに怒って王に反抗し、王に迫って、再びそういう暴政を行うことがないような約定書を作らせた。これが有名な大憲章であって、そのできたのは一ニー五年のことである。
この大憲章は、イギリス人の「自由のとりで」どよばれて来だ。ある点では、それはまさにその通りである。なぜならば、大憲章には、王が税を取り立てるには、原則として議会の承認を受けること、自由民は、法律や適法の裁判によらないで捕えられたり、財産を奪われたり、禁錮されたり、追放されたりしてはならないこと、王は自由民に対して武力を用いたり、止当な権利を否認したりしないこと、などか定めしれた。そうして、これらの約束を王に守らせるために、貴族は自分たちの組織する会議でこれを監視し、王が約束を破った場合には、この介議は王に抗議し、それでもなお王が改めない時には、貴族は全国の平民とともに王の財産を差し押さえたり、その他の方法で、王を苦しめることができるものとされたからである。しかし、この文書の直接の目的は、国民の自由を増進し、その運命を改善するにあったということはできない。というのは、それはむしろ、貴族たちの特権を、王の侵害から守ることを主眼としていたからである。
このように、大憲章は、王と貴族との間に取りかわされた、封建的な文書にすぎないものではあったが、それでも、大憲章ができたことは、イギリスの歴史にとって大きな意味を持つ出来事であった。王の権力は、これによってある程度まで拘束をうけることになり、王の権力の上には、王といえども守らなければならない規律が設けられたわけである。そうして、もしも王がこの規律にそむいた時には、国民は実力で、王のこのような行為を正すこどが、公然と許されることになったのである。したがって、それは、そののち幾百年、イギリスの議会の力を大きくするためのたゝかいの武器どして役立った。
イギリスの議会に加わる者の範囲は、だんだんととひろげられて行ったが、それには代々の王もあずかって力がある。しかし、王が議会を保護し、議会を育てるのに力を尽くしたように見えるのは、ほんとうは、国民に対する愛や民主主義への熱望から出ているのではなかった。それは、むしろ、金銭への愛による場合の方が多かったのである。というのは、王たちは、貴族からだけでは十分に金を集めることができなかったので、租税を取り立てる範囲をひろげる道具として議会を利用し、租税を納める者の数をぶやしたのである。したがって、王権が強化された時にも、王たちは議会を廃止しなかった。かれらは、それを存続させて、よろしくこれを利用しようとしたのである。王たちは、議会の協賛を得ることによって、王の意志を国民の意志らしく見せかける方が、政治を行うのに都合がよいと考えたのである。
だから、イギリスに議会が生まれても、初めのうちは国民の代表者によって作られたものではなかった。イギリスの議会は二院制で、貴族院と庶民院とから成り立っているが、貴族院の方は最初から、貴族の、貴族による、貴族のための組織であったし、庶民院は決してその名のような庶民的なものではなかった。肉屋やパン屋や農民のような「庶民」からその名が出たのではなく、町どいうことばから出たので、それらの町々を代表する大金持や、その他の地方の財産家たちが、それを組織していたのである。このことは、王が財源を得るために、議会に代表者を送る人たちの範囲をひろげたという由来からも、容易に理解しうるところであろう。
イギリスの民主政治の発達が、支配者たちの我欲や利己心によって、かえって促進されたということは、興味のある事実である。たとえば、ジョン王のぜいたくど貪欲とは、かれらをかり立てて、貴族を圧迫する無理な政治を行わしめ、その結果として、大憲章に署名しなければならなくなった。エドワードー世は、貴族から税金を取り立てるだけでは不十分であると考え、もっと広く財源を富裕な平民の中に求めようとしたために、議会の発達を助長した。更にジェームズ一世は、君権の強化を図ろうとして、自分を神と同一視し、王は神の意志に基づいて統治するのであるという、帝王神権説を唱えたが、その強引な政治がたヽつて、一六四九年に反乱が起り、かれの後継者たるチャールズ一世はついに議会によって死刑に処せられた。
このようにして、議会の力はだんくに強くなって行ったが、その歴史上の発達に重要な一時期を画したのは、権利章典である。権利章典が有効になったのは、一六八八年の光栄革命の結果てある。それによって、王は、法律を停止または廃止することも、議会の同意なしに税を課することも、できなくなった。また、議員の選挙は自由になされなければならず、議員は演説や討論について完全な自由を有し、議会はしばしば開かれなければならないというような、いろくな原則が定められた。それは、王の権力を抑制し、議会の地位を高め、国民に対して多くの自由を保障したところの、憲法的な規定であった。したがって、この権利章典は、その後アメリカその他の諸国の憲法起草者によって、参考とされたところが少なくない。
一方、行政をつかさどる制度としては、最初、枢密院が設けられた。枢密院は、王が政治をするに当たって相談相手とし、その意見をたずねるために設けたものである。王は、やがてその中から更に数人の人々を選んで、おもだった行政事務についてはもっぱらそれらの人々に意見を聞き、かれらが議会に対して持っている勢力を利用して、王の望むような法案を議会で通過させようど図った。それが、イギリスの内閣の起りである。初めのうちは、王は内閣の閣議に出席してこれを主宰していたが、おいおいに王の出席はまれになり、大臣たちに政治がゆたねられるようになった。そうして、王の代わりに内聞の中心となって閣議を司会し、これをまとめて行くものができ、それが内閣総理大臣とよばれるにいたった。
そのころまでは、王は自分の意にかなった人々を選んで内閣を作らせ、それと同時に、いろいろな方法で議会を懐柔し、議会が内閣を支持するようにしむけるのが常であった。したがって、国を治めるのは王とその大臣たちの仕事であると考えられ、議会が政治の中心となるというところにまでは、まだまだほど遠かった。議会は、大臣たちが協賛を求める法律案を、原則としては政治のために必要なものとして承認し、たゞ、国民に不当な政治的圧迫を加え、または、国民の財政上の負担を非常に重くするような法案に反対したり、それを修正したりするこどを、おもな任務としていた。
ところが、一七二一年に首相となったウォールポールは、王の力にたよって議会をおさえて行く代わりに、いろくな方法を用いて議員たちをあやつり、庶民院の中にかれを支持する多数党を作り出して、それを足場に政治を行った。そうして、その内閣が議会の信用を失うにいたった一七四二年に、まだかれ自身に対する王の信任があったにもかゝわらず、その職をしりぞいた。イギリスの今日の政党政治の始まりは、こゝにあるといってよい。
イギリスの議会には、第十七世紀に既に宗教開題に関連してトーリーおよびホイッグの二党が生まれ、それがのちの保守党・自由党となった。そこへ今述べたようなことが起って、内閣は議会の多数の信任に基礎をおかなければならないと考えられるようになった。多数の議員を持つ政党は、それだけ多くの選挙民の意志と利益とを代表するどみられうる。したがって、内閣は、議会の多数党を基礎どして政治を行うべきであり、庶民院の多数の信任を失った場合には、辞職して、新たに選挙を行うのが当然だという考え方が、次第に強くみられるようになって来た。
 しかし、そのような政党内閣制度がほんとうに国民の政府となるためには、選挙権の範囲をひろげる必要がある。ところが、有力な権限を持つ貴族院は、門閥と富の代表であり、庶民院の議員も、ほどんど中流階級上層部の出身であった。光栄革命ののち百五十年近くも、このような人々による権力の独占が続けられていたのである。権力の独占は、一八三二年の選挙法の改正によって初めて破られた。すなわち、それによって新たに興って来だ工業経営者たちが、議会に代表者を送ることができるようになったのである。更に、一八六七年の第二次選挙法改正により、小市民階級および都市の労働者にも選挙権が与えられ、一八八四年の第三次改正によって、その範囲は鉱山労働者および農業労働者にも拡大された。そうして、第一次世界大戦の終った一九一八年には、二十歳以上のすべての男子並びに三十歳以上の女子で、一定の財産資格を備えた者に参政権が与えられ、一九二八年に至って、男女平等の完全な普通選挙制がしかれるに至ったのである。
ところで、このように選挙権がひろげられて行っても、それによって選出されるのは庶民院の議員である。したがって、それに対する貴族院の勢力が強い間は、議会はまだまだほんとうの国民の意志を代表するものとはいえない。そこで、議会が国民による政治の中心として重きをなすにつれて、庶民院と貴族院との間の争いが激しくなって来たのは、当然のことである。庶民院には、自由党の進歩主義と保守党の保守主義との対立があるのに対して、貴族院の空気が特に保守的であることは、いうまでもない。ゆえに、この争いは、自由党が庶民院の多数をしめて内閣を組織した場合に、特に激化する。かくて、一九〇九年に、自由党内閣が有産者階級に対して大増税を行うために金銭法案を提出した時、貴族院がこれを否決したのが機会となって、ついに一九一一年に国会法の制定をみるにいたった。それによって、貴族院は金銭法案を修正または否決することができないばかりでなく、法案が三会期つゞいて庶民院を通過した場合には、その議案は、貴族院が否決しても法律として成立するという原則が認められた。これは、まさしく、貴族院に対する庶民院の優位の確立である。庶民院は、こゝに、名実ともに議会の中心となり、イギリスのすべての政治組織の中心となったのである。
このイギリスの憲法発達の歴史を通じてみても、民主主義の制度をりっぱに作り上げるためには、いかに長い、しんぼうづよい努力が必要であるかがわかる。近世民主主義の源流たるイギリスも、最初は専制君主の支配する国であった。その、たゞひとりの王の手の中に独占されていた権力が、まず貴族たちに分けられ、ついで都市の大商人や地方の大地主がこれに参与し、次第に小市民や工場労働者や農民へと、権力の主体がひろめられて行った。そのたびに、国民の権利と自由とを守るための激しいたゝかいが行われたのである。そうして、第二十世紀になってから、労働者の利益を代表する労働党が庶民院の中に勢力を得て、ついに、労働党内閣も出現する世の中になった。
「ローマは一日にして成らず」というこどばがあるが、イギリスの民主政治は九百年の長きにわたる国民の努力によって成ったのである。そうして、ローマは帝政の腐敗によって滅びたが、健全な民主主義の政治は、あらゆるたゝかいに打ち勝って、人間の運命を希望と幸福の道へと切りひらいて行く。私どもは、この大きな歴史の流れから、汲めども尽きない教訓を学び取らなければならない。

(次にアメリカの民主主義、フランスの民主主義と続き、それらも、テキスト化してみます。)
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  • 安倍内閣改造
    アジシオ次郎 (08/05)
    こんにちは。

    お友達内閣と揶揄された反省から、今回は異なる派閥からすすんで入れた改造内閣、バランスいいとはいうものの、女性閣僚が2人だけというのは男性優位色が
  • 見ざる聞かざる言わざる
    竹林泉水 (07/30)
    いつもコメントありがとうございます。
    三猿の教えは、子どもより大人の方が三猿について考えないといけないでしょうね。

    一つのことしか知らない大人になるのは、人それ
  • 見ざる聞かざる言わざる
    アジシオ次郎 (07/26)
    こんにちは。

    周りをよく見る・すすんで自分の意見を言う・人の話を聞く。当たり前の常識だが、子供に説くのも大事だが大人も改めてそれを認識してそれに基づく正しい行
  • アベ政治はクーデター
    竹林泉水 (07/19)
    政権を握っているのでクーデタだと言えるのでは

    しかし、安倍晋三の頭の中の辞書には、民主主義の言葉はあるが、政治家としての誠実さをなかなか感じることができないので
  • アベ政治はクーデター
    雲と風 (07/18)
    勉強になりましたが、「安倍政権はクーデター」でしょうか? 権力と威嚇によるテロリズムだと思います。内閣府の中の一派が壊憲と日本の民主主義制度の堕落無力化を共謀し
  • 教育福祉などへの株式参入は
    竹林泉水 (07/12)
    なんでも自由競争になれば、サービスの質が向上すると考えるのは間違いで、鉄道などで見ると都市部はサービスが向上するが、過疎部では反対で最悪の場合は撤退になります。
  • 教育福祉などへの株式参入は
    アジシオ次郎 (07/10)
    おはようございます。

    教育や福祉に株式参入することは、教育や福祉をビジネスに利用しかねないし、アメリカ式の市場主義経済に基づく価値観を正当化しかねないです。た
  • 食べることは殺生をすること
    竹林泉水 (07/06)
    日本人は頂きます・ご馳走様と日本人なら誰でもいいますが、外国の方はどうなのでしょうか。キリスト教のクリスチャンなら食前食後の祈りがあります。
    私は中高とミッショ
  • 食べることは殺生をすること
    アジシオ次郎 (07/05)
    こんにちは。

    人間は生きる為に他の生物の命を奪わなければいけない。と言う「原罪」を背負っている以上、食べると言うことはそうなのかも知れないです。動物の命を奪い
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