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民主主義  文部省著作 17 

民主主義とは、何もしないでほっておいて育つものではなく、逆に劣化してしまったり、別のものに置き換わってしまうと、この章にはかかれています。憲法 第12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と、書かれています。もし、国民が自覚して不断の努力を怠れば、自由や民主主義をこころよく思っていない人の思う壷になってしまう。自由や民主主義は利己主義に陥り、また公益の妨げになるという展開をして、自由や民主主義を制限し、個人個人の人権も国や社会のために制限されるのは正当だといい。過去に歩んだ国家主義、全体主義的な方向に進みかねないです。そのため、私たち国民は、個人個人違うということを認め、いろいろな意見を聞き入れながら、右にぶれたり左によったり、前に進んだり一歩下がったりしていくのが、民主主義です。民主主義はまだるっこいもので時間がかかるものです。それを決められない政治として、否定してはいけないです。決められる政治は悪くないですが、それは反対の意見も耳を傾け聞き入れながら決めていくことです。そうではなく、議員の決議数が過半数を超えているからと、強引に決議を強行するのは、民主主義でなく独裁と言います。
産経新聞が書評で絶賛している本がある。ビジネス社がだしている「本当は怖ろしい日本国憲法」 長谷川三千子著 倉山満著。その本とこの文部省の「民主主義」と逆のことが書かれています。70年程前に書かれた本と最近書かれた本であるが、一度読み比べてみて、どちらがよいかを判断してみるのもよいと思う。

ところで、この「民主主義」の赤茶けたこの本を、パソコンに打ち込んでいるが、結構骨が折れます。この本は終戦直後に出版されたもので、漢字はいまの常用漢字でななく、旧字体ですがそれを新字体に変えています。(國→国)また、ひらがなの繰り返しは、/\となっていますが、ひらがなでの繰り返しにかえました。(めい/\→めいめい)です。一字の繰り返しは、本に書かれている通りです、(ひらがなは ゝ、濁点が付く場合は ゞ、漢字は 々)、ルビは省略しています。ほかは、私の誤字打ち間違いがあると思いますが、本を読みながらエディターにテキストの打ち直していて、これは間違いだと思われるようなものも、特に注を付けずにそのママにしました。そろそろ、この「民主主義」の内容の紹介も終了します。

青空文庫には、新憲法が発布された時にあわせて、文部省が「あたらしい憲法のはなし」という中学生向けの小冊子が、テキスト化されて登録が完了しています。この「民主主義」も、多くの人に読んでいただければと思いますが、青空文庫にはまだ登録されていないようです。
ひょっとして著作権の問題? それなら、このブログの記事も削除するか、大幅に註釈や説明を書き加え本文も要点だけ残し後は削る必要があるでしょう。

わたしは、「民主主義 上」1948年と「民主主義 下」1949年に出された本を持っていますが、誰かほかに持っておられる方はいるでしょうか。また、国会図書館のデジタルライブラリーには、「民主主義 上」が登録されいて、PDFファイルをダウンロードできます。この本は出版から67年経っているので、著作権は切れていると思うのですがどうでしょう。


「民主主義」文部省著作 教科書

第八章 社会生活における民主主義

三 個人主義

人間を個人として尊重する立場は、個人主義である。たから、民主主義の根本精神は個人主義に立脚する。軍国主義の時代の日本の政治家や思想家たちは、民主主義を圧迫した。したがって、その根本にある個人主義を、いやしむべき利己主義であるどのゝしった。しかし、これほど大きなまちがいはない。個人主義は、個人こそあらゆる社会活動の単位であり、したがって、個人の完成こそいっさいの社会進歩の基礎であることを認める立場である。すべての個人が社会人としてりっぱになれば、世の中は自然とりっぱになる。個人個人の生活が向上すれば、おのずと明かるい幸福な社会が作り上げられる。ゆえに、尊重さるべきものは、「一部の人間」ではなく、ましていわんや「おのれひとり」ではなく、生きとし生ける「すべての個人」である。その考え方のどこに、いやしむべさ利己主義がひそんでいるてあろうか。
民主主義に反対するものは、独裁主義である。ゆえに、独裁主義は個人主義を排斥する。そうしてその代わりに、全体主義全体主義を主張する。
全体主義は、個人を尊重しないで、個人をこえた社会全体を尊重する。民族全体とか国家全体とかいうようなものを、一番尊いものと考える。民族や国家は、個人をこえた全体として、それ自身の生命を持ち、それ自身として発展して行くものであるとみる。そうして、すべての社会生活の目的は、その上うな尊い全体を発展させ、繁栄させて行くにあると説く。全体がまず尊ばれるどいうことは、部分の価値をそれに従属させるということである。社会全体の部分をなしているものは、個人である。だから、全体主義は、個人の尊さを認めない。個人は、全体のための犠牲とならなければならないと教える。戦時中の日本では、滅私奉公ということが盛んに唱えられた。個人の幸福、否、個人の生命をも捨てて、国家のために殉じなければならないという意味である。国民に対しては、「命を鴻毛の軽さに比する」ということが要求された。イタリアのファシズムも、同じような極端な国家主義を採った。ドイツのナチズムは、国家の代わりに民族全体を至上、絶対の尊いものにまでまつり上げた。のみならず、今日のソ連その他の共産主義者の中にも、これに似通った全体主義の考え方があるようにみえる。
なるほど、民族や国家はたいせつなものである。しかし、民族のひとりひとりが栄えないで、どこに民族全体の繁栄がありえようか。国民のすべてを犠牲にして、どうして国全体が発展する余地があるであろうか。民族や国家の繁栄といっても、その民族や国家に属するすべての個人の繁栄以外にはありえないはずなのである。それなのに、個人の尊さを否定して、社会全体を絶対に尊いものだと教えこむのは、独裁主義のからくり以外の何ものでもない。
独裁者は、国民にそういうことを教えこんで、国民が犠牲をいとわないようにしむける。そうして、これは民族のためだ、国家のためだといって、「滅私奉公」の政策を強要する。その間に、戦争を計画し、戦争を準備する。戦争ほど個人の犠牲を大量に必要とするものはない。だから、戦争という大ばくちをやろうとする者は、国民に、国家のために命をさゝげるのが尊いことだと思いこませる。道徳も、宗教も、教育も、すべてそういう政策の道具につかわれる。
全体王義者は、民主主義をけなすために、民牛王義は個人主義だから、民主国家の国民は国家観念がうすく、愛国心に乏しいという。愛国心に乏しいから、いくら軍艦や飛行機をたくさん持っていても、戦争には弱いという。それがどんなに大きなまちがいであるかは、今度の戦争でよく証明された。
民主主義者は、国家の重んすべきことを心得ている。祖国の愛すべきことを知っている。しかし、国家のためということを名として、国民の個人としての尊厳な自由や権利をふみにじることに対しては、あくまでも反対する。国家は、社会生活の秩序を維持し、国民の幸福を増進するために必要な制度であってこそ、重んぜられるべきである。国民がともに働き、ともどもに助けあい、一致団結して築き上げた祖国であればこそ、愛するに値する。民主主義が最も尊ぶものは、個人生活の完成であり、すべての個人の連帯・協力によって発達して行くところの社会生活である。国家は、さような社会生活の向上・発展を保護し、促進するために存在する政治上の組織にほかならない。
全体主義の考え方が危険であるのは、内に向かって国民の個人としての基本的権利や生活をふみにじるためばかりではない。それはまた、外に向かっては他の国家の利益を侵害してはゞからない態度となる。全体主義は、すべての国々の主権と安全を等しく尊重するのではなくて「わが国」だけが世界で一番すぐれた、一番尊い国家であると考える。したがって、他の国々はどうなっても、自分の国さえ強大になればよいと思う。そこから導き出される結論は、自分の国を強くするためには手段を選ばないという国家的な利己主義であり、外国を武力でおどしたり、力ずくで、隣国の領土を奪ったりする侵略主義である。全体主義は戦争の危険を招きやすい。だから、恐るべき戦争を繰り返さないためには、再び全体主義の誤りに陥ってはならない。
これに反して、民主主義は個人の価値と尊厳とに対する深い尊敬を基礎としている。自分の国の国民を尊重するばかりでなく、外国の国民も等しく人間として尊重する。だから、自分の国が栄えるとともに、他の国々もともに栄えることを願う。そこから出て来るものは、偽りのない国際協力の態度であり、崇高な世界平和擁護の精神である。民主主義によってこそ、世界はだんくと一つになる。おのおのの国がその特色を生かし、その任務を果たすことによって、生きとし生けるすべての人間に平安と幸福とをもたらすべき、たゞ一つの世界が次第に築き上げられて行く。


四 権利と責任

個人主義は、自分であると他人であるとを問わず、すべての人間を個人として尊重する。自分を尊重するのは、自分の人格をたいせつにすることであり、自己の正当な権利を擁護することである。人格を重んずる者は、自分の人格をみがくことに努めなければならない。自己の正当な権利を主張する者は、同様に、他人の正当な権利を重んじなければならない。自分の人格がいやしいのに、どうして他人から尊敬されることを期待しえようか。他人の立場を重んじないで、どうして自分の立場だけを認めさせる資格があろうか。だから、個人主義は、個人の権利を重んずると同時に、個人の責任を重んずる。個人個人がその責任を自覚することによって、すべての社会活動が円滑に行われるようになることを期待する。
民主主義の社会生活では、すべての人々が、自分のいっさいの行動について責任を持たなければならない。何か仕事をやってみて、うまく行った時には大いにその権利を主張する代わりに、失敗すればすぐ他人のせいにするというようなやり方は、最もひきょうな態度である。すべての人がそれぞれその持場を守り、その個性を発揮し、責任をもってその任務を遂行するのでなければ、社会生活の向上は望まれない。
野球を見ても、投手はボールを投げ、捕手はボールを受ける。遊撃をゴロがおそえば、はっしとこれを取って二塁に投げ、二塁手は直ちに一塁に転送して、みごとにダブループレイを演ずる。ライトーセンター間の大飛球をふたりの外野手がともに追っても、右翼手が一歩球に近ければ、中堅手は功名争いをやめて、捕球を右翼手にゆずる。九人がそれぞれ別々の行動をし、おのおのその特色を発揮しながら、ちょうどひとりの人が手足を動かすように全体の統一がとれ、みんなで共同の目的に向かって一糸乱れず協力している。民主主義の社会生活も、一流チームの野球のようになればたいしたものだ。
しかし、社会生活は、よりすぐったわずか九人の選手だけでやる野球とは違う。村だけでも何千という村民がある。町には二万、三万の人が集まって生活している。国全体となると何千万どいう人口である。その中には、悪い人間もある。したいほうだいなことをして、他人に大きな迷惑をかける者もある。どろぼうもいれば、強盗もいる。それをそのまゝにしておいたのでは、社会生活は成り立たない。そこで、法律があって、犯罪を処罰する。悪い人間を取り締まる。良民の正当な権利を擁護してくれる。所有権を侵された場合には、それを取りもどしてくれる。不当の損害を受けたならば、裁判所に訴えて、賠償を求めることができる。法律といえば、こわいもののように思い、裁判ざたになるといえば、いまわしいことのように考えるのは、権力をびくびくと恐れていたころのくせが残っているからだ。民主国家の国民は、権利の上に眠っていてはいけない。止しい権利は、堂々と国法に訴えて争うべきだ。法律と裁判所とは、国民によって作られた、国民のための味方でなければならない。
それと同時に、法律上の権利を主張することにだけ急であって、義務を行うことをなおざりにするようであってはならないことは、いうまでもない。まして、法律をたてにとって弱い者をいじめ、非道な契約を押しつけて、不当な利益をむさぼるようなことは、はなはだしい法律の悪用である。
むかし、イタリアのヴェニスに、アントニオという善良な市民がいた。友人のために金を用立てる必要があって、高利貸のシャイロックから三千両を借りた。その証文には、返金できない場合には肉一ポンドを切り取ると書いてあった。アントニオは金を返すことができなかったために、シャイロックはこれを訴えて、約束通り肉一ポンドを切り取ると言って迫った。アントニオの恩を受けた友だちの妻ポーシャは、裁判官に変装して法廷に現われ、証文には肉一ポンドを切り取るとあって、血を取るとは書いてない、一滴の血も流さずに、しかも一ポンドかっきり狂いなく肉を切り取ることができるか、できるものならばやってみよ、と判決し、とうとうシャイロックを恐れ入らせた。これは、シェークスピアの「ヴェニスの商人」の物語である。今の世の中に、こんなばかげた契約があるはずはない。しかし、財産というものは、用い方によっては、弱者を苦しめる強大な武器となる。財産家の利益だけを一方的に保護するような法律制度は、国民の意志によって改めて行く必要がある。
財産は、人間の生活を維持するためになくてならぬ意義を持っ。だから、憲法は財産権を保障し、法律は所有権を保護する。しかし、社会に生活する人々の間の富の不平均が大さくなって来ると、金持の利益はますます増大し、貧乏人はいよいよ不利な立場に追いこまれる。そうなっては、国民のすべてに幸福を分かとうとする民主主義の理想は、だいなしになってしまうことを免れない。この弊害を除き去るためには、経済生活を民主化することが何よりもたいせっである。しかも、それと同時に、社会生活を営む人々が、財産というものについて持つ考え方を変えてぃかなければならない。財産権は、財産家の利益だけのためにあるものであってはならない。財産を持っ者は、それが大きければ大きいだけ、それだけその財産を活用して世の中の福祉を増進して行く責任かある。権利の保護が個人の社会的責任を伴うものであることは、このような現代社会的な財産権の観念の中にもはっきりと現われている。


五 社会道徳

社会に生活する人々が、それぐ責任を重んじ、本分を守り、互に協力しあうのは、人間の踏み行う道徳である。道徳と法律とは、社会の秩序を保つためにどちらも欠くことのできないものであるが、同じ内容の責任にしても、強制的にこれを守らせるのが法律であるのに対して、道徳上の責任となると、自分でそれを自覚し、自らすゝんでそれを実行して行くところにねうちがある。しかも、法律上の責任も、国家から強制されるまでもなく、国民がすゝんで行うようになることが必要であり、道徳上の責任も、どうしてもそれを守らない者があれば、法律的な強制に訴えるほかはなくなる。だから、法律も道徳によって基礎づけられなければ十分に行われないし、道徳も法律が伴なわないと力が弱い。
たとえば、電車の運転手は、いつも信号に注意し、責任をもって運転に従事しなければならない。友だちとの話に気を取られて事故を起したり、不注意で人をひいたりすると、法律によって罰せられる。しかし、多くの運転手は、法律上の処罰を恐れてではなく、たくさんの人命をあずかる責任の重大さを感じて、自らすゝんで注意に注意を重ね、いやしくもあやまちが起らないように気をつけて電車を運転しているたろう。それらの運転手は、法律上の責任を道徳的に守っているのである。また、たどえば、人から借りたものを返すのは、道徳上の義務である。友たちから本を借りたならば、忘れずに返そうと思うであろう。困った時に金を用立ててもらったならば、さいそくされないでも都合のつき次第に返済するたろう。けれども、中には、言を左右にして借財をふみたおす者もある。そういう場合には、法律によって弁済を強制する必要が起る。すなわち、道徳上の義務を法律的に強く行わしめるこどが必要になって来る。
このように、道徳と法律とは、車の両輪のように密接に結びついて、秩序正しい人間の共同生活を維持しているのである。しかし、日常の社会生活では、法律に訴えるまでもなく、道徳の力によって正しい秩序が保たれているに越したことはない。
ところで、日本では、昔から人間の間の「縦の道徳」が非常に重んぜられて来た。下は上を敬い、上は下をいつくしむ、というようなことが、縦の道徳である。特に、君に対する忠ど、親に対する孝とが、国民道徳の根本であるどされて来た。これに対して国民相互の対等の関係を規律する「横の道徳」は、その割にいっこう発達していなかった。「旅の恥はかき捨て」などと言って、だれも知っている人のいない所へ行けば、不道徳な行いをしても平気だというような態度があった。「免れて恥なし」と言って、法律で罰せられる心配がなければ、どんな悪いことでもやってのけるといった連中もあった。そのために、日本人は、やゝもすれば、見ず知らずの人にぶあいそで、非社交的で、公衆道徳を守らないどいう不評判を取るきらいがあった。
このように、縦の道徳だけが重んぜられて横の道徳が軽んぜられたというのは、日本の社会にまだ封建的な要素が残存していることの一つの証拠である。民主主義の社会では、何よりもまず、だれもが同じ対等の人間どして尊敬しあうという気持を養わなければならない。個人の自由の尊さを認識せず、個人の尊厳を自覚しない者は、他人の自由を侵し、他人の人格を傷つけることを意に介しない。日本人には、特にそういう欠点が多い。他人の私生活に不必要に干渉し、それを悪いことと思わないばかりか、どうかすると、かえってそれが親切ででもあるかのように勘違いしている。むやみに他人のことを気にしたがるくせがあり、人の悪口に興じあったり、人をけなしてむなしい優越感を味わったりする傾きがある。こんなありさまでは、政治や法律が民主化されても、民主国家の国民たるにふさわしい社会道徳を備えているとは、とうてい言いえない。
人間どして生まれて来だ以上、何人どいえども、ひとりだけで生きて行けるものではない、人間はお互に持ちつ持たれつの世の中に生まれ、お互のために働き、他人の勤労のおかけで不自由のない生活をすることができるのである。それゆえ、みんなの住む社会をできるだけ住みよい、気持のいいものにして行くことは、お互の義務である。そのためには、各人がお互の個性を認めあい、自分も他人から不当に自由を束縛されることがないようにすると同時に、自分も他人の自由を尊重しなければならない。そうして、常に真実を語り、真実を実行する誠意ど、正義のためには断乎として譲らぬ勇気とを持ち続けなければならない。社会生活における民主主義の成否は、そのように、社会公共の福祉のために尽くそうとする誠意と勇気とを持った人々が、多いか少ないかによって決まるのである。
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  • 茶番の衆議院選挙
    アジシオ次郎 (10/05)
    おはようございます。

    民進党の解体、小池百合子東京都知事が立ち上げた希望の党、ハッキリ言って今回の選挙は乱立の様相を呈しそうですが、野党票割れを起こして自民党
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/26)
    > 政策に反対表明するための無抵抗なデモ行進、座り込みや集会を無理に解散させようとする警察官たちが、職務とは言え反対する人たちを排除しようとするのを見るとむし
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/24)
    民主的な選挙で政権交代がなされるようになり、政府への反対で暴力を使うことは、民衆の支持を失い反発され逆効果になるようになりました。>政策に反対表明するための無抵
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/24)
    日本人は長いものにはまかれろ、付和雷同性の国民性もあるのは確かだと思います。それは別段日本人に限ったことではないと思います。
    第二次世界大戦でフランス政府はドイ
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/23)
    かかる為政者の存在を許してきたのは、日本人の「ながいものにまかれる、お上に任せば・・、なるようにしかならない」と付和雷同性の強い国民性に由来するものではないでし
  • フェイクニュース
    アジシオ次郎 (09/16)
    おはようございます。

    ネットの普及に伴い様々なニュースが見れるようになった昨今、ただ自分の好みに合った情報しか信じないという弊害が出ることもそうだし、多様性を
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    竹林泉水 (09/10)
    顔認証技術が進み、個人の識別だけに利用されるならまだしも、個人の管理に利用されるのは非常に問題が多いと思います。

    松井知事の発言があまり問題になっていないのも不
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    アジシオ次郎 (09/09)
    こんにちは。

    いくらギャンブル依存症対策とはいえ、入場確認や顔認証システムを導入するのは一部から「プライバシーの侵害だ」と批判を浴びてもおかしくありませんね。
  • 終戦の日の前後のテレビ番組
    竹林泉水 (08/23)
    国際的な政治・外交問題は素人的な言い方をすれば、早い者勝ちで勝ち逃げすればセーフ的なところがありますね。
    国の名前に「帝国」冠して大日本帝国として、そのころ時代
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