水徳四訓と水五訓
これも五訓で曹洞宗の大本山永平寺諸禅師略伝のWebページ「石徳五訓」の下の方に載っている「水四訓の紹介です。
高階管長さんの水徳四訓 水四訓
水四訓
自から活動して他を動かしむるは水なり。
常に己れの進路求めて止まざる水なり。
障害に逢ひて激しく勢力を倍加するは水なり。
自から潔くして他の汚濁を洗ひ清濁合せ入るる量あるは水なり。
(曹洞宗)管長 (高階)瓏仙書
水の訓と言えば、黒田如水の「水五訓」」がよく知られています。
黒田如水(黒田官兵衛)
「水五訓」
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
二、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
三、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
四、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
五、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失はざるは水なり
一、川の流れは小石を動かす事も在れば、大雨になると大きな岩をも押し流します。自ら動いて模範を示すことで周囲を牽引する。いわゆる率先垂範でしょうか。
二、水の一滴も繰り返されれば、岩をも穴をあけます。たとえ障碍や障壁があっても、その間に貯える力は増してものです。苦しい時も耐えて努力を続ける。一所懸命とでみ言うのでしょうか。
三、流れを止めることなく、信じた道に向かって動き続けていこう。所信(初心)貫徹
四、意見が違うから、嫌いな人だからといって排除したり、追いやったりするのでなく、良いところを見つけそれを伸ばし共に頑張ろう。
五、水はその入れる容器によってその容器の形に収まり形をかえます。しかし水は水で水としての質は変わらない。与えられた環境の中で柔軟に変化し成長するが、自分が持っている芯がぶれたり周囲にあわせて変えて偏向してしまってはいけない。
また、守屋洋氏によれば、老子にも「水徳五訓」があるようです。「老子の人間学」に次のようにかかれある。
一、淡々無味なれども、真味なるものは水なり
一、境に従って自在に流れ、清濁合わせて心悠々たるものは水なり
一、常に低きにつき、地下に在りて万物を生成化育するものは水なり
一、無事には無用に処して悔いず、有事には百益を尽くして、功に居らざるものは水なり
一、大川となり大海となり、雲雨氷雪となり、形は万変すれどもその性を失わざるは水なり
これは、老子の第八章に次のようにある。
上善如水。水善利万物、而不争。処衆人之所悪。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。
上善は水の若し 水は善く万物を利して争わず 衆人の憎む所に居る 故に道に幾し。
居は地を善しとし 心は淵を善しとし 与るは仁を善しとし 言は信を善しとし 正は治を善しとし 動は時を善しとす。
夫れ唯だ争わず 故に尤無し
最高の善とは、水の働きのようなものだ。水はこの地上の万物の成長を助け、自ずからあらそうことがない。衆人が嫌う低い場所の留まっている。それだかあ人の道に近いものといえる。
住みかとして大地を善しとし。心の持ち方としては、淵のようになかなか抜け出すことのできない苦しい境遇ところにも善しとし。人の交わりとしては、いつくしみの心が深いことを善しとし。言葉としては、真心を込め詭辯をつかないことを善しとし。政治は乱れを鎮め安定したありさまをつくるのを善しとして。行動に対しては、その時にぴったりあっているのを善しする。そもそもこの水のように争わないでいれば、間違うことがない。
水のような生き方を心掛けて行くのも善いものだとおもうほどです。
高階管長さんの水徳四訓 水四訓
水四訓
自から活動して他を動かしむるは水なり。
常に己れの進路求めて止まざる水なり。
障害に逢ひて激しく勢力を倍加するは水なり。
自から潔くして他の汚濁を洗ひ清濁合せ入るる量あるは水なり。
(曹洞宗)管長 (高階)瓏仙書
水の訓と言えば、黒田如水の「水五訓」」がよく知られています。
黒田如水(黒田官兵衛)
「水五訓」
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
二、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
三、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
四、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
五、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失はざるは水なり
一、川の流れは小石を動かす事も在れば、大雨になると大きな岩をも押し流します。自ら動いて模範を示すことで周囲を牽引する。いわゆる率先垂範でしょうか。
二、水の一滴も繰り返されれば、岩をも穴をあけます。たとえ障碍や障壁があっても、その間に貯える力は増してものです。苦しい時も耐えて努力を続ける。一所懸命とでみ言うのでしょうか。
三、流れを止めることなく、信じた道に向かって動き続けていこう。所信(初心)貫徹
四、意見が違うから、嫌いな人だからといって排除したり、追いやったりするのでなく、良いところを見つけそれを伸ばし共に頑張ろう。
五、水はその入れる容器によってその容器の形に収まり形をかえます。しかし水は水で水としての質は変わらない。与えられた環境の中で柔軟に変化し成長するが、自分が持っている芯がぶれたり周囲にあわせて変えて偏向してしまってはいけない。
また、守屋洋氏によれば、老子にも「水徳五訓」があるようです。「老子の人間学」に次のようにかかれある。
一、淡々無味なれども、真味なるものは水なり
一、境に従って自在に流れ、清濁合わせて心悠々たるものは水なり
一、常に低きにつき、地下に在りて万物を生成化育するものは水なり
一、無事には無用に処して悔いず、有事には百益を尽くして、功に居らざるものは水なり
一、大川となり大海となり、雲雨氷雪となり、形は万変すれどもその性を失わざるは水なり
これは、老子の第八章に次のようにある。
上善如水。水善利万物、而不争。処衆人之所悪。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。
上善は水の若し 水は善く万物を利して争わず 衆人の憎む所に居る 故に道に幾し。
居は地を善しとし 心は淵を善しとし 与るは仁を善しとし 言は信を善しとし 正は治を善しとし 動は時を善しとす。
夫れ唯だ争わず 故に尤無し
最高の善とは、水の働きのようなものだ。水はこの地上の万物の成長を助け、自ずからあらそうことがない。衆人が嫌う低い場所の留まっている。それだかあ人の道に近いものといえる。
住みかとして大地を善しとし。心の持ち方としては、淵のようになかなか抜け出すことのできない苦しい境遇ところにも善しとし。人の交わりとしては、いつくしみの心が深いことを善しとし。言葉としては、真心を込め詭辯をつかないことを善しとし。政治は乱れを鎮め安定したありさまをつくるのを善しとして。行動に対しては、その時にぴったりあっているのを善しする。そもそもこの水のように争わないでいれば、間違うことがない。
水のような生き方を心掛けて行くのも善いものだとおもうほどです。