西遊記と謡曲「大般若」
謡曲の「大般若」というのがある。
この謡曲、三蔵法師が、流砂河を通る時の話です。西遊記の話では、第二十二回に流砂河を渡る話がでてきます。そして、沙悟浄を弟子にするのもこの回です。すでに、孫悟空、緒八戒、白馬は弟子になっています。
「西遊記」では、沙悟浄は、もと、霊霄殿の捲簾大将だったが、玻璃の盃を落として壊したために、流砂河に流された。その地で通る旅人を喰らい過ごしていた。沙悟浄は、今まで取経僧を七人(一説に九人)を喰らって、その髑髏を河に投げ込むが沈まず浮いてくるので、髑髏に紐を通し首に掛けていました。
そこに取経僧を助ける者を探している観音菩薩があらわれ「天竺に取経をもとめる唐僧の弟子になり、無事に取経が完遂できれば、元の職に戻れる」と沙悟浄につたえる。
取経の旅をしてりう三蔵法師が通りかかり弟子になります。
私のもっている謡の本には「大般若」は載っていませんが、内容は次のようなものです。
唐の僧玄奘が、大般若経を伝来しようと、天竺へ向かう途中、西域の流砂河に通りかっかると、一人の男が現れて語る。
この河は千尋の難所であり、その向こうに見える高山は葱嶺で険しく、超えることは困難でできないであろう。男はさらにこの河の主は深沙大王といい、姿かたちは恐ろしい怪物だが、仏法を敬っていると語る。実は三蔵は前世でも七度、大般若経を得ようと志していたがいずれも、この流砂河で命を落としてきたと語る。
実は自分こそがその深沙であり、以前は志を試すために旅人の命を奪ってきたが、今度こそ取経を成し遂げさせようと言って姿を消す。
その夜、三蔵のもとに菩薩が現れて舞楽を奏す。三蔵を拝すると大般若経の笈を背負った深沙大王が現れる。笈を開いて三蔵とともに大般若経を読み上げ、この経の守護神になろうと約束する。三蔵は喜び笈を背負って流砂に向かうと河は二つに割れ、三蔵は河を渡ることができ深沙大王は見送る。
ワキ(三蔵)「流沙葱嶺の謂は承りぬ。扨々身はいかなる人ぞ。(*葱嶺はパミール高原)
シテ「今は何をか包むべき。我此川に住んで年久しき、
真蛇大王とは、我事なり。汝の前世七度迄、障をなし〃も我ぞかし。疑ふべからず疑ひの、
地「深沙(真蛇)神力の感応、般若の御経与ふべしと、夕波の川づらを、瑠璃の面を走るが如くに、さら/\と向ひに渡りて、三蔵よ待ち給へと、云ひ捨て姿は失せにけり、
地「落ち来る両端に雲水うづまき、山河大地も六種に震動し、自然の洞の岩戸の内より、般若の御経を胆頭に背負い、深沙の御姿顕れるたり。
シテ「すは/\汝が所願の御経、
地「/\今こそ汝に与へんとて、懸けたる笈を、汀におろし、扨彼の笈の上段を開き般若の初白の諸軸を押取り、三蔵に与へ、我も岩ほの上に上りて御経を開き。
ワキシテ「大般若波羅密多経第一、三蔵法師玄蔵訳と、
地「高らかに読み上げた給へば、悪事悪魔は万里に退き、十方世界の渡天の来現、吉事は日夜に限りなし。扨こそ汝が所願も叶ひぬるよと、又此経を押取って、笈の上段に納め給い、早々汝も下向して、四方に御経をひろめ給はば、我法身の姿を現じ、此の経の守護神たるべし。頼もしく思ふべし。
ワキ「三蔵御経の笈を負い、/\、真蛇を礼し奉り、流沙の波を平沙と渡り向ひに行けば、
シテ「真蛇も巌の上に立ちて、
地「留るぞ玄蔵/\よばわり給えば、三蔵も帰り、名残の御暇川越に申し、真蛇も千尋の淵に臨み、/\、姿は泥犂に入りにけり。
この曲は、ながらく廃曲になっていたが、昭和58年に梅若記彰らによって復曲されたものです。
それはともかく、「西遊記」や、そのもととなる史実の「大唐西域記」などの話とはだいぶ違います。西遊記や史実では玄 は、天竺まで行き、経mを持ち帰っています。「西遊記」では、三蔵が流沙河につくと、妖怪があらわれ三蔵をさらおうとし、そこで何合りもの戦いになります。この謡曲の「大般若」では、流沙河につき流沙の幅の広さと、葱嶺の険しさに途方に暮れていると、真蛇大王があらわれもう取経僧を食べない、大般若波羅密多経を与えると名乗りでます。そして、三蔵は天竺まで行かずに、ここ流沙河で引き返し唐に帰ったことになります。また、三蔵は、ここで「大般若波羅密多経」を中国語の訳したとなっていますが、史実は唐に帰り訳したとされています。
それはともかく、「西遊記」を読むときシルクロードの風土と「大唐西域記」などを読み比べて読んでいくと、単にストーリーの荒唐無稽さだけでなく、別の面白さを見つけられそうです。
この謡曲、三蔵法師が、流砂河を通る時の話です。西遊記の話では、第二十二回に流砂河を渡る話がでてきます。そして、沙悟浄を弟子にするのもこの回です。すでに、孫悟空、緒八戒、白馬は弟子になっています。
「西遊記」では、沙悟浄は、もと、霊霄殿の捲簾大将だったが、玻璃の盃を落として壊したために、流砂河に流された。その地で通る旅人を喰らい過ごしていた。沙悟浄は、今まで取経僧を七人(一説に九人)を喰らって、その髑髏を河に投げ込むが沈まず浮いてくるので、髑髏に紐を通し首に掛けていました。
そこに取経僧を助ける者を探している観音菩薩があらわれ「天竺に取経をもとめる唐僧の弟子になり、無事に取経が完遂できれば、元の職に戻れる」と沙悟浄につたえる。
取経の旅をしてりう三蔵法師が通りかかり弟子になります。
私のもっている謡の本には「大般若」は載っていませんが、内容は次のようなものです。
唐の僧玄奘が、大般若経を伝来しようと、天竺へ向かう途中、西域の流砂河に通りかっかると、一人の男が現れて語る。
この河は千尋の難所であり、その向こうに見える高山は葱嶺で険しく、超えることは困難でできないであろう。男はさらにこの河の主は深沙大王といい、姿かたちは恐ろしい怪物だが、仏法を敬っていると語る。実は三蔵は前世でも七度、大般若経を得ようと志していたがいずれも、この流砂河で命を落としてきたと語る。
実は自分こそがその深沙であり、以前は志を試すために旅人の命を奪ってきたが、今度こそ取経を成し遂げさせようと言って姿を消す。
その夜、三蔵のもとに菩薩が現れて舞楽を奏す。三蔵を拝すると大般若経の笈を背負った深沙大王が現れる。笈を開いて三蔵とともに大般若経を読み上げ、この経の守護神になろうと約束する。三蔵は喜び笈を背負って流砂に向かうと河は二つに割れ、三蔵は河を渡ることができ深沙大王は見送る。
ワキ(三蔵)「流沙葱嶺の謂は承りぬ。扨々身はいかなる人ぞ。(*葱嶺はパミール高原)
シテ「今は何をか包むべき。我此川に住んで年久しき、
真蛇大王とは、我事なり。汝の前世七度迄、障をなし〃も我ぞかし。疑ふべからず疑ひの、
地「深沙(真蛇)神力の感応、般若の御経与ふべしと、夕波の川づらを、瑠璃の面を走るが如くに、さら/\と向ひに渡りて、三蔵よ待ち給へと、云ひ捨て姿は失せにけり、
地「落ち来る両端に雲水うづまき、山河大地も六種に震動し、自然の洞の岩戸の内より、般若の御経を胆頭に背負い、深沙の御姿顕れるたり。
シテ「すは/\汝が所願の御経、
地「/\今こそ汝に与へんとて、懸けたる笈を、汀におろし、扨彼の笈の上段を開き般若の初白の諸軸を押取り、三蔵に与へ、我も岩ほの上に上りて御経を開き。
ワキシテ「大般若波羅密多経第一、三蔵法師玄蔵訳と、
地「高らかに読み上げた給へば、悪事悪魔は万里に退き、十方世界の渡天の来現、吉事は日夜に限りなし。扨こそ汝が所願も叶ひぬるよと、又此経を押取って、笈の上段に納め給い、早々汝も下向して、四方に御経をひろめ給はば、我法身の姿を現じ、此の経の守護神たるべし。頼もしく思ふべし。
ワキ「三蔵御経の笈を負い、/\、真蛇を礼し奉り、流沙の波を平沙と渡り向ひに行けば、
シテ「真蛇も巌の上に立ちて、
地「留るぞ玄蔵/\よばわり給えば、三蔵も帰り、名残の御暇川越に申し、真蛇も千尋の淵に臨み、/\、姿は泥犂に入りにけり。
この曲は、ながらく廃曲になっていたが、昭和58年に梅若記彰らによって復曲されたものです。
それはともかく、「西遊記」や、そのもととなる史実の「大唐西域記」などの話とはだいぶ違います。西遊記や史実では玄 は、天竺まで行き、経mを持ち帰っています。「西遊記」では、三蔵が流沙河につくと、妖怪があらわれ三蔵をさらおうとし、そこで何合りもの戦いになります。この謡曲の「大般若」では、流沙河につき流沙の幅の広さと、葱嶺の険しさに途方に暮れていると、真蛇大王があらわれもう取経僧を食べない、大般若波羅密多経を与えると名乗りでます。そして、三蔵は天竺まで行かずに、ここ流沙河で引き返し唐に帰ったことになります。また、三蔵は、ここで「大般若波羅密多経」を中国語の訳したとなっていますが、史実は唐に帰り訳したとされています。
それはともかく、「西遊記」を読むときシルクロードの風土と「大唐西域記」などを読み比べて読んでいくと、単にストーリーの荒唐無稽さだけでなく、別の面白さを見つけられそうです。