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愛国心とはなにか

愛国心とはなにか。
将棋面貴巳の「日本国民のための愛国の教科書」百万年書房 を読んで思ったこと。

古代ローマの政治かキケロは、「自然的な祖国」と「市民的な祖国」があるとし、共和制ローマにおいては「市民的な祖国」の愛国心を重要視していたとし。そこで、現代でもヨーロッパの国での愛国心は、「共和的な政治的価値や制度を防衛するという政治的姿勢」といわれている。つまり、暴政に抵抗することを認めていると将棋面はのべている。
権力者が共通善のためでなく、私利私欲私益のため権力を私物化した場合は、市民はその暴政に抵抗しても道理がある。市民の共通善を脅かす権力の乱用に対する抵抗権は正当化される。だとすればつまりは、「愛国心」は本来は、野党である反体制側に望みを託されたものだといえる。
哲学者カントも愛国心は、「自由で平等な市民から成る共和国家への忠誠心」と定義しているのも、一つの抵抗権が正当なものだとみることができるだろう。また、国によっては、憲法に抵抗権が明記されているものもある。日本でも、明治初期に作られたいくつかの私擬憲法のなかには、明確に暴力をもちいた抵抗権が明記されているものもある。
現行の「日本国憲法」の、12条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。略・・」も、捉えようによっては、国民の抵抗権を謳ったものだと言えるのではないだろうか。
しかし日本では、明治時代になるまでは今で言う「愛国心」などの概念はなかった、それまでは藩がお国で庶民には、生まれた郷土を思う気持ちはあったろうが、武士のように殿様に忠義を尽くすよな考えは微塵もなかった。しかし、明治政府が今までの幕藩制度から、近代国家にするためには一つ日本国を形づくる必要があったそのため。「愛国心」というものを教育勅語によって作りだされた。天皇を頂点とする一つの日本を国民に訴えた。それが、昭和になり戦争に利用されるようになり、日本の臣民は天皇の子であり、天皇のため命を奉げよとなり、天皇に絶対服従を国是として「愛国心」と定められた。
そのため、戦地では投降は許されず、お国のため天皇万歳と殉死を強いられた、人がなんと多いことか。
このように、日本の場合、戦前に国家神道の考えが戦争にも使われ、それが正しい戦争となり、正義のためならなにをしても許されるとなり、悲惨な結末を生むことになった。宗教の教えによる戦いは時に、神聖な目的のために戦う戦争だ聖戦だとして、他国民の虐殺などを生んだり、ISイスラム国の自爆テロや、自国民の命を犠牲にする悲惨な結末を生むことがある。

本来は愛国心は、「日本人でよかった」などの自国愛ではなく、キケロの望むパトリオティズムの、愛国心であるべきだろう。しかし現在、グロバル化と新自由主義経済の進み経済格差が拡大する中では、どのようにしたらよいのだろうか。
キケロの時代は奴隷(アメリカの黒人奴隷のようなものではない)がいて、カントの時代は貴族が特権を振るっていた時代だった。カントの「自由で平等な市民」とは、現代の庶民のことではなく、貴族階級の人々や富裕者や知識人のことで、それらの人から視点で、支配階級の一部の権力の実権者が、その特権を濫用した場合の抵抗でしかなかった。

しかし、現在の自由と個人の一人ひとりの人権が尊重される民主主義の世の中です、一般庶民の抵抗権はどこまでどのようなことが認められるだろうか。
一つに、抵抗は、選挙で時の政権の交代をさせること。一つに、抵抗は、庶民が抗議の声を上げたり、デモをして行動で抗議を示すこ。一つに、情報を余すことなく開示させること。一つに、行われている政治の真実を知りそれについて考えること。などがあげられる。
これらをどのように、政治の実権を握っている人に訴えていけばよいのか。
デモにしても、香港の抗議行動がしだいに過激になっていったのは、行政府の対応のまずさまあるが、抗議集団が大きくなりすぎそのなかから、一部に過激な行動をとる者でてきたのは、抗議行動のデモが統制とるものがいなかたので、一部に過激に暴走するものがいたのだろう。しかし、抗議行動に参加する人の数を見ると、行政府はその参加人数を見過ごすことは今後の香港や中国にとて、火種を後に残すことにしかならないだろう。
抗議行動のしかたも、よく考えないと「公益を損ない、秩序を乱す」として逆に、弾圧されなくないので慎重にすべきだろう。
その、抵抗権については、現行の「日本国憲法」では、何でも自分勝手に抵抗権を行使は認めていない。第12条には、そのことを次のようにかいてある。「 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」。ここで述べてある、「公共の福祉のため」と書かれていることで、「公益と秩序」でも「法の下で」もないことです。この「公共の福祉のため」は何かと議論になるが今後も何かをよく考えていきたい。

話はもどしでは、現代の問題点とはなにか。今までになかった、新たな課題が生まれてきている。経済の成長の限界が見えてきているなか、企業が成長しようとするには、市場競争経済では寡占化の道に進むしかない。それにより一部の人が富を独占するようになってきている。そのため、勝ち組で富を独占した者は、その富をどうするかを庶民を視点で考え、富の再分配をどうするか考えることが今後の課題といえる。富裕者が富の再配分を拒否したり、国が富の再配分を怠ったり拒むなら、一般国民の庶民がそれを国に求めることが、現代の本当の「愛国心」となるのではないだろうか。
政治が富の独占を容認するなら、庶民はどうしたらよいのだろか。

それは、政府のすることを鵜呑みにした、愛国心ではなく、カントの言う「自由で平等な市民から成る共和国家への忠誠心」のようなものだろう。
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愛国心とはなにか 離脱発言忠誠

愛国心とはなにか 離脱と発言と忠誠

・望ましくない政治をする国から離脱するのか。
・抵抗権を行使して、望ましくない政治に抗議の発言をするのか。
・進んで国家に忠誠をつくす。
・それとも、なにもしないで為政者に自分の未来を、無条件でゆだねるのか。
この四つのうちのどれが、非国民で愛国者といえるのか。
しかし、発言と忠誠を区別をつけるのは難しい。例えば自分の勤めている会社が不正なことをしていること知り、それに対し発言する。不正に進んで荷担するのが忠誠なのか。それとも、上司に不正はよくないと発言したり、告発するのが会社を思っての忠誠なのか。前者は会社でなく上司に対しての忠誠の場合もある。後者は会社をよくしたい、また自分の倫理感が会社のためになるとの愛社精神からの忠誠と見ることができる。
同じように、自分の住んでいる国の政権を批判して、改善をするように働きかけるのは、間違ったことか。
国がうまくいかないときに、国のあり方を批判し、事態の改善を図る人々こしが愛国者といえるのではないだろうか。

フランスの随一のモラリストよばれた、ラ・ブリュイエールに箴言集がある。『カラクテール 中 第十章 至尊について或いは国家について』岩波文庫 関根秀雄訳(漢字を新字に改めるなどした)

一、「誰でも自分の国のことを別にして、あらゆる政治形態を一わたり調べてみると、さてそのいずれを採るべきかに迷う。最も理屈にかない且つ最も安全なのは、自分の生まれた国の政体を最良のものと考えてこれに服することである」。

現在でも世界は様々な政治制度があるが、どの制度もよい面と悪い面がある。簡単にいうと、共産主義は平等を目標としているが、その平等を実現させるため、全体主義になりがちで個人の自由は制限される。資本主義では自由は保障されるが富の格差が拡大していく。最もよい制度は今のところ見つかっていない。チャーチルは民主主義について、「最悪の制度だ,ただし今までの制度を除けば」といっている。民主主義や共和制は、一人の考えや独裁ではなく、多数の人で評議・相談し意見を出し合ってきめる。
しかし、会社などなら、職場をかえたり会社を辞めればいいが、これが国となると国を離脱することは難しいので、自分の生まれた国の政体を最良のものと思うようにしてしまう。あるいはそう思うしかないばあいもあるだろう。

・・・・
二、「暴政を施くには学問も技術もいらない。いや、唯人の血を流すだけを目的とする政治には、殆ど知的な所がなく、洗練されたものなどは少しもないのである。それは、生かしておいて我々の野心の妨げをなすような者共は殺してしまえと教えるのだが、残忍に生まれついた男にはそれもわけなく出来るのである。つまり暴政とは、自己を維持ないし強大にする最も恐ろしい野蛮なやり方のことである」。

暴政とは人民を苦しめる暴虐な政治のことだが、国民から乱暴な政治から目をそらすには、おもしろいドラマや陰謀論を作り出すことことにより、国民は目をそちらにそらされる。そすると。暴君は政治をしやすくなるが、それは施政が洗練さず荒々しくなることを意味する。ことを忘れてはならない、さらに暴政がつづくと、しだいに丁寧な説明や細やかな心配りを欠いた政治になってゆく。どこか聞いたことのある話だ。

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三、「古来諸国家の用いている確実な政策は、人民を饗宴や演劇や贅沢や華美や淫楽や虚栄遊惰の中に眠らせておくこと、空虚に充満した浮華に心酔するがままに放任すること、である。この寛大政策によって、実に巨大な数歩を、人は専制政治に向かって進めたのである!」。

なんか「桜を見る会」の招待問題のようだ。そして、饗宴に招待されたことを名誉に思ったり、権力者に進んでへつらってしまったりする。明人上皇が天皇時代に開かれた園遊会で、東京都の教育委員をしていた棋士が、「わたしは国旗掲げられ国歌歌われることが全国に広がるようsるのが努めです」と語ったのは、陛下の気を引くよう、お世辞を言ったり機嫌をとったりして相手の気に入るようにふるまったのだろう。これと同じようなことが、「桜を見る会」でどれほどあったのだろうかと思うと背筋が寒くなる。
このようなことが、広がることは、巨大な数歩を、人は専制政治に向かって歩むことになる。

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四、「専制政治の中には祖国なんかない。他のものがそれに代わっている。即ち、利益、栄誉、帝王への忠勤」。

専制政治とは、独断で思うままに事をはこぶことなので、政治を私物化しそれに国民は政府のいうことにまじめに従うように強いられることになる。
世界の多くの国で暴政を倒した英雄が、政権の座につきいて国を運営することはよくある。しかし、その英雄が長期間政権をつづけていると。中に、国を私物化することがり、政権の座を守ろうとなりふり構わない暴政になっていくことがある。政権を握った英雄はしだいに、利権や利益を私物化し配下の臣下に自分への忠誠を誓わせたりする。
これらのことは、ラ・ブリュイエールの生きていた十七世紀に限らず、現代もこのいましめの言葉は当てはまることがあるだろう。
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昨日の続きである、「カラクテール」から

昨日の続きである、「カラクテール」から。

五、「一国において革新を行おうと欲する時、人は物事よりもむしろ時期の方を重く考えるべきである。人民をいくらいじめてもいじめ足りないと思われる場合もあれば、いくら庇ってやってもかばい足りないことの明白な場合もある。*あなたは今日この都市からその免除や特権などを取り上げてもよろしいが、明日はその看板を改めようとさえ考えてはいけないのである」。

これを読んだだけではその意味がよくわからない、*注にかかれている、ルイ十四世の時代の世相ことを知っておくべきだろう。*の注は訳者関根秀雄の訳注
*王国内統一が相当にとれて来てからも、諸都市その自由都市であった時代からの古い特権(privilege)いろいろ残っていて、国王からの諸種の賦課賦役を免除されていた。それを(franchise)免除という。国王はそれを段々に己の手中におさめて行ったが、それに堪えて来た同じ人民が1669年に、コルベール宰相の時、店の看板を通りに向かって突き出さず、壁面に平らにはりつけよとか、その大きさを限れとか、布令したした時には、俄然叛乱を起こしたのであった。

政治にはその事をなすタイミングが熟成されているかいないかによって。政権が行う政策や対策を立てて実施することが、国民に受け入れられる受け入れられないか。成功するか成功しないかが決まるとよくいわれる。
しかし、政権が長期になり横暴になってくると、その見定めができなくなり、看板のような叛乱が起きるろだろう。
物言わぬ庶民とみてじわじわと締め付けていっても、庶民には少しずつその締め付けは、はけ口のない感情がとなり、心の中にとどこおりたまっていく。
それが、噴出したのが、香港の本土への犯人引き渡し法の反対運動が拡大していったののだし。将来の先行きにフアンをかんじた、フランスの年金抗議運動や、スペインのカタルーニャ地方の独立運動などへと、発展拡大していくのだろう。

・・・・
六、「人民が動揺している時には、一体どこから平穏が再び彼等の許に帰って来るものか、てんで見当がつかない。又平和である時には、一体どこからその平穏がぬけ出してゆくのか、これもまた想像がつかぬ」。

出口の見えない混沌とした混乱の不安と、空気のようになった自由や民主主義や人権はいつまでも続くと思いがちだ。高度経済成長のころ、工業地帯は段々と大気が汚染されていき、ついには気がついたら大気汚染は深刻になり、住民は喘息を患ったり、光化学スモッグに悩まされてた。
政治にも同じことがいえる。往々にして政治家は国民を思うようにしたがわせようと都合のよいことをするものだ。
・・・・
七、「国家と言われるもののうちには、それがより大きな悪を予防するというので我慢させられる幾つかの悪がある。そうかと思ふとある種の悪は、唯それらのよくよくの始り方のために悪と見られるだけであって、その根源においてこそ悪弊ないし悪い習わしであったと言え、その結果と実際について見れば、より正当な法律やより理屈にかなった習わしよりも却って遙かに弊害が少ない*1。又もう一種の悪を見ると、それは変更ないし革新*2によって矯正することが出来るけれども、その革新なるものもまた一つの悪であって、なかなか危険なものである。中には掃き溜めの中の汚物のように押しかくされた悪もある。つまりそれは恥辱や秘密や暗闇などの底に埋もれかくれた悪のことであって、こういうふうになると、ほぢくったり掻きまわしたりすればする程、毒と穢れとを撥散せずにはすまない。最も賢明なる仁も、時々、それらの悪を知ることは果たしてそれらを知らずにいるのよりまさっているかどうかと、疑っている。ある国に置いては時にかなり大きな悪が大目に見られるが、それは百万の小さな悪ないし不幸をそらせるからで、このような小さな悪は、およそ此世で避けることも癒すこともできないのである。また各個人を呻吟せしめる悪にして、そのまま公衆の善となる悪もある。公衆は個人の總和にほかならぬけれども。個人の悪にして各家庭の善及び利益に寄与するものもある。諸諸の家庭を悲しませ破滅させ不名誉にするけれども、国家及び政府の機構を善くし保全する悪*3もある。ある悪は国家を顛覆してその廢址の上に新しい国家をたてる。*4とうとう最後にやって来た悪は、大帝国の基をひっくりかえし、この地上から消滅させ、以て世界の表面を変化更新させてしまった」。

これを読むときも、時代背景などを顧慮しなくてはならないだろう、訳者の訳注を付記したい。
*1ラ・ブリュイエールは、いかなる国も凡そ国家と言うからには、切っても切れない悪が附随しているとして、それらの霊を列挙する。彼はここに、モンテーニュの緒論を想起しているように見える。(『随想録』三のニ、三の九、一のニニ等参照)
*2ラ・ブリュイエールはここに、諸種の特権、官職の売買、徴税制度に伴う諸種の悪弊を考えているのもと思う。
*3軍隊の存在、逮捕、投獄、慮刑等の諸制度について言っているのであろう。
*4これは、例の追加というより、むしろ一種の警告であるまいか。上流貴族が人民のためにつくすべき義務を忘れ、生まれと金ばかりが物を言い、一方の奢侈(ゼイタク泉水記)が他方の貧苦の因をなしているような国家は、やがて顛覆するぞと、警告ではないまでも、ひそかに彼は憂いているのではあるまいか。

ここに、現代の国家のあり方をいま一度、どのようなあり方がよいかを考えてみるのに、熟慮して読みたい。21世紀のあるべきこれからの国家は、トランプなどが言うような、自国第一主義では現代のグローバル化した世界、豊かな国と貧しい国と格差、新興国が発展しようとする、途上国が豊かになろうとするのを、豊かな国はより豊かになるのを阻むものだとして、いろいろな豊作で苦心するのは間違っている。国に限らず企業もそうである。企業は収益を社会還元することが、求められていたが、自由主義資本主義経済で競争が激化しているが、収益を社会還元することを怠ると、訳者関根が言うように、いずれその国家や企業などは顛覆してしまう怖れがあると指摘するの当たらずともであろう。
富めるものがその享楽のため、あるところでそれにより個人が呻吟していることを、忘れてはならない。いま、この日本で豊かに暮らせるのは、他の国の国土を破壊していること、また工業製品や農産物の生産のため、低賃金で働かされたり苦役を強いられていることをしておかなければならない。
曹洞宗では食事の前の、五観の偈を唱える。そのなかで、目の前の食べ物ががどのようにして出来たかを考え、自然の恵みと多くの人々の働きを思い感謝致しますとある。また、つぎに、今日一日また今までの行いを振り返りると、尊い生命と労力で出来た食を頂くに価するものであるか問い反省する。そして、食事は心を清浄に保ち、誤まった行いを避けるために、貪り と いかり と 愚痴 持たないことを誓って食事をいただく。
このことは、食事に限らず私たちの生活全般にもいえることだろう。自分の着ている服や持っている持ち物の来所をしり、自分の行いがそれに値するものかを反省し、貪欲な貪りを戒め、怒りを抑え、愚痴ばかり言ったり思慮分別をわきまえること大切だろう。
国家を神社のように崇めたり、企業は利潤を追求するものとしてではなく、公共の福祉のサービス・提供者として捉えることが重要で、それは本来の共和主義的な愛国者に必要不可欠な視点ではないだろうか。
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日本の難民受け入れ

1月30日 のニュースで、 東京高裁が「地球上で行き場を失う」無国籍男性を難民と判断を下したとあった。

ソ連が崩壊し、ジョージアでう生まれた、男性がアルメニア民族であることから人種差別を受け、ジョージアを出国して無国籍になり、世界の国を転々として10年前に日本政府に難民の申請をしたが、認定を認められず認定を認める訴えを起こした。一審は退けたが東京高等裁判所の野山裁判長は「」無国籍者で人種を理由に迫害を受ける恐れがあり、難民に当たる。男性に退去強制命令を出せば地球上で行き場を失いうことは明白だった」として、一審が難民と認めなかったことの国の処分を取り消し、当時の入国管理局の退去強制命令を無効とした。
この裁判の結果について、出入国在留管理庁は「判決の内容を十分に精査し、適切に対応したい」とコメントをだした。

この管理庁のコメントをどのように受け取ったらよいのか、政府や役人の「検討する」とか「適切に」という言葉は、おうおうにして何もしないことを意味るることがある。出入国在留管理庁は取り消しを無効とするよ公訴するのだろうか。
アルメニア民族の一男性の人権がかかっているので、戦後に民主主義国になった日本として、新たなブローバル国際社会の中での対応が問われるだろう。

日本は、いまだ政治家の中で単一民族だとか言う人がいるので、この男性についての民族の多様性を認め、それらにつていの政府の対応の仕方によって、いまだ、戦前のような意識のままなのかがわかるだろう。
政府を変えるには、このジョージア生まれの男性への支援を輪が広がることにより、今後の日本の在り方を適切な方向へ向かう後押しになるのではないだろうか。

また、NHKによると弁護士は、無国籍の人を難民と判断した判決は初めてとみられ、男性は判決について「裁判所に理解してもらい、将来についてようやく考えられる」と話していると伝えている。


国際条約で無国籍に関する条約には、1954年の無国籍者の地位に関する条約と1961年の無国籍の削減に関する条約がある。しかし、日本はいずれにも締結すらしていない。
さらに、締約国でない国でも、無国籍認定手続の設置や国籍法の改正などに多くの国で、無国籍の人に対しての展が見られている。しかし、日本の国籍法などの関係などから、世界から見ても無国籍者に対して、日本は冷たい国のようだ。
日本は無国籍条約を締結していないが、国籍法や出入国管理法や難民認定法等の関連する国内法において、その運用や解釈の仕方により、大幅に無国籍者に弾力的、寛容な処置が出来るのではないかと思う。
(国籍法は出生地ではなく血の方をを重んじているが、国籍法2条3号では、日本で生まれた場合において「父母ともに知れないとき、又は、国籍を有しないとき」に日本国籍を付与する規定があり、8条4号では、簡易帰化の規定もある。
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ふたたび、「いただきます」について。

食事をする前の「いただきます」。は、なんで言うの?と聞かれ。
「いただきますとは[いのち]を「いただきます]という意味だ」と、答えるとチコちゃんにしかられそだ。
1983年に明治生まれの人々を対象にした、食卓上生活史調査が行われ、それによると、こどものころ「いただきます」というのは一般的なものではなかたと言う。また、民間伝承の会(現・日本民族学会)が昭和16年に全国各地の農村地域で、食習調査がおこなった、こちらもも同じような結果がでた言う。(吉村昇洋 精進料理考)。

こんにち日常で「いただきます」と言うのは、吉村によると、戦前の帝国主義時代の教育統制下の、昭和初期に小学校で「箸取らば、天地御代の御恵み、君や親の御恩あじわえゑ、いただきます」。と唱えて食事をした。それが戦後「箸取らば・・・・・」の部分が取り除かれ「いただきます」だけが残ったという。戦後に育ったそのころの子どもたちが、親にとなって家庭を持つようになり、家庭内のの食事の作法として「いただきます」と「ごちそうさま」を取り入れて、いまのように一般的に広がったと指摘している。

しかし、昔から商家などは、奉公人が主人に「いただきます」「ごちそうさま」と言って食事をする。信心深い人などは、食べるときに手を合わせてから食事をするのは、ごく普通にされていただろう。私はカトリックのミッションスクールで学んだが、食事の前後には十字を切り食前食後の祈りをしていた。しかし、それは神への感謝の言葉で「いただきます」「御馳走様」の文言は言わなかった。また、小笠原流の食事の作法について、調べてみたが食事の前後に、「いただきます」「ごちそうさま」をするなど細かは書かれていなかった。
つまり、命をいただくという意味ではなく、それが礼儀的なものだたのだろう。

それより、食事をするとき吉村は曹洞宗の僧であるので、道元が赴粥飯法の食事前の五観の偈についてくわしくのべている。
しかし、道元が中国に留学した時に、修行をした南宋の叢林でカルチャーショックをうけた。道元が留学した鎌倉時代の日本では食事について重きを置いいなかった。食事を作る僧も典座はあったが、自己の修行として料理をつくるのではなく、雑用としての仕事だととらえられていた。
道元は、食事に関わらず中国では、日常生活のすべてが修行とされていたので、食事法についてもこと細かく取り決められていた。そこで、道元は日本に「真の仏道を日本に持ち帰れ伝えなければならない」思い、日本に帰り永平寺を建て曹洞宗を起こした。

ここでは、「いただきます」について考えているので、曹洞宗宗の食事の仕方についてだが、食事前の祈りである「五観の偈」につていみると、それは、曹洞宗宗だけでなく、浄土宗にも真言宗にも他の宗派にも同じようなものがあるが、これらのものは、曹洞宗の五観の偈がもととなっているようです。

五観の偈は、・功の多少を計り彼の来処を量る。・己が徳行の全欠を忖って供に応ず。・心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。・正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり。・成道の為の故に今此の食を受く。とあるが、来処を量り、己の徳行の振り返り、心に三毒をふせぎ、そして感謝をこめて食を受ける(いただく)。となると考える。
つまり、「いただきます」には、仏教の修行での食事の祈りの考えがこめられていると私はとらえたいと考える。また、曹洞宗の修行は、生活のすべてで修業が行なわれるとするので、当然に食もそれに入るからだといえる。
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カエル幹細胞から生体ロボット

NewsWeekJapan(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/01/post-92231.php)によると、カエルの幹細胞から作製した生体ロボットがつくられたという

米国のバーモント大学やタフツ大学らの共同研究チームが、カエルの胚から取り出した幹細胞を用いて、人工知能(AI)によって設計した、生体ロボットが世界で初めて開発したと発表された。
この研究成果は、米国科学アカデミーの機関誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」2020年1月13日号で公開されている。
ニュースを読んでいても、よく理解できないが、おおむね次のようなことがかかれていた。
コンピュータシミュレーションが自動生成した設計をもとに、アフリカツメガエルの胚から抽出した幹細胞を組み合わせて、生体ロボット「ゼノボット」を作製したという。「ゼノボット」は、自己再生でき、ほぼ半分に切られても、自然に修復する。タフツ大学は、アフリカツメガエルから抽出した幹細胞を集め細胞を切断し、コンピュータシミュレーションが作成した、最適な設計案に沿ってつなぎ合わせ、人為的に結合させた。その細胞は間もなく一体となって機能し始めたという。皮膚が構造を形成する一方、心筋細胞の収縮機能が設計通りに前方運動をつくり出したという。

これを読んでいると、スタートレックのヴォイジャーシリーズに登場するボーグに改造された地球人のセブンオブナインの血液中にはナノマシンであるナノプローブと呼ばれる。人造血漿プローブが流れている。ボーグのナノプローブは、身体の機能が衰えたところや欠損した部分を自動修復する。また、他のヒューマノイドの体にナノプローブを注入して、ボーグに改造していき同化させる。話を感じさせる。
この、カエルの胚から抽出した幹細胞を組み合わせた生体ロボット、「ゼノボット」はどのような機能があり働きをするのだろうか。
これが人間に応用され、サイボーグが本当に実現して、将来の地球ははホモサピエンスに替わって、ボーグが支配しているかもしれない。
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日本は祖先がえりするか

日本の神話といえば、まずは誰しもが「記紀」が頭に浮かぶだろう。しかし、「記紀」である「古事記」「日本書紀」は、奈良時代に天皇家が日本を統治するのに、都合のよいように正統な系統であることを裏付けるために編纂されたものにしかすぎないことを知っておくべきだろう。古事記などには伊勢神宮が皇祖皇宗が祀られるとする。しかし、伊勢地方の豪族を征伐した天皇家が、その地にあった神話を自分たちの話だとして取り入れて、天皇家の神話を作りだしたものと言われている。
つまり、日本各地にはさまざまな多くの神話があり、また大和地方にも記紀に類似するものまた、それとは対峙するような神話も数多くあのを、上手く都合のよいように取り入れたのものといえる。これは何も天皇家に限らず、日本の武士家もそうであるし、商家も同じようなことをしている。商家・会社でも時どき経営権を巡るお家騒動が、本家と分家で起きたり、関係ない会社が勝手にこのブランドは私の者だと主張することもあるので不思議なことではない。日本だけでなく、世界に国においても正統性を主張して争いになることもあるので不思議ではないです。
それのことはいつでもあり、それはそれでいいのだが一つ思い出しておく必要があることがある。
日本の心は祖先がえりすると言われるが、明治時代にも、尊皇と愛国と国粋主義が闊歩して、日本を天皇が統治する正統性に利用されていった。
明治時代以降を振り返ってみると、幕府が大政奉還をして、明治政府が樹立された。それまでの日本は幕藩体制で三百余りの各藩は独立国のようなものだった。それは、米国の州以上や連合王国イギリスのブリテン島の三つの王国と北アイルランドよりも藩の自治権はあった。しかし、アジアにイギリスや米国などが日本に開国を要求し、ロシアも日本近海に現れるようになった。そのように西欧列強の食指が伸びるなか、日本の独立を守るため、日本を一つにまとめるため必要が出てきた。徳川幕府は大政奉還し、明治新政府は廃藩置県をしてたが、藩閥政治が行われていった。
日本を一つの国にするためには、他の元藩の不満をそらす必要があり、天皇家と「記紀」を格好のものとして利用したといえる。そこで、西欧の政治制度を取り入れるのに、神話にでてくる「高天原の安の河原で神々が会議をした」と言う話を、民主主義と一致させたり、聖徳太子の十七箇条憲法の、「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」を、民主主義だと始りだと言ったり、五箇条のご誓文の、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を、封建制度から民主主義への復活だと主張する人がる。それらを持ち出して、日本は太古の時代から民主主義の素地があった国だと憚らずに言う人がいつもいる。
これらのことや、学校教育で道徳が教科科化され、育勅語はよいことも書いているので、学校教育の現場で使ってもよいと言うのに憚らないようになってきている。

これらのことを考えると、「日本の心は祖先がえりする」となると、1937年に文部省が「国体の本義」発布し、そこに、「我が国民性の特色たる敬神・尊皇・没我・和などの精神…」「中心に向かって統一せられる没我的な特色…」とあるように、ファシズム体制への教育政策が教育勅語の下で利用されていった。
さらに、1941年には文部省が「臣民の道」を出し「我が國は、皇祖天照神が皇孫瓊瓊杵ノ尊に神勅を授け、この豐芦原の瑞穗の國に降臨せしめ給ひしより、萬世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて永遠にしろしめし給ふ。臣民は億兆心を一にして忠孝の大道を履み、天業を翼賛し奉る。萬古不易の我が國體はここに燦として耀いてゐる。」として、古事記など様々な史料を引用して神国たる所以や忠君について国民に従うように述べている。

歴史は繰り返す祖先がえりするなら、いつまでもこんなことをしていたら、歴史を都合のよいようにしか見ることができず、物事の自省ができずそれにより、責任をとらなくてもよいと考えるようにならないか心配だ。現に今の長期政権は長期が故の驕りがでてきているのではないだろうか。

こんなことをしていたら、これからの国際社会の流れから取り残される恐れもあるだろう。
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人間と動物のあいだ

私たち人間が営んでいる地球にには、人間であるホモ・サピエンス以外にも、哺乳類やそれ以外の爬虫類や両生類などの動物や、昆虫や植物さらに、さらに微細な生物である、細菌・酵母・原生動物などが生息している。その中で、だれが地球の主人公なのかという思いが太古の昔にはあった。
それは、アニミズムや原始宗教に見られる、あらゆる生物・無生物に霊が宿り、自由に遊離することができると思い、それらに霊的存在がある考えいた。そして、罪ある魂は慰撫されなければならず恐れ畏まった。また、天空にあるものの方が、地下の暗い世界の方より、気まぐれであるが、穏やかだと感じ取り、いまだ天国と地獄という概念はもっていないと考えられる。
しだいに、宗教がまとまってくると、絶対神があらわれ、神々の頂点が現れる。それが、リシャの最高神ゼウスや、ローマのユピテルといえるだろう。

しかし、時代が進みホモ・サピエンスが文明を作り歴史を作るようになると、人間こそがこの宇宙船地球号の主人公だと考えて、いや思うようになりそのように振るまってきている。そしてその主人公である、私たちの周りにイヌやネコなどのペットなどの動物がいる。さらに、家畜のウシやブタやニワトリなどがいる。その他にも野生動物のトリやシカやイノシシやクマなどがいる。また、外国にはその地の固有種が棲息している。だが、私たち人間の歴史をふりかえると、洋の東西問わず動物と人間をわけて考えてきている。特に欧米圏でその傾向が強いのは、キリスト教の影響を受けた考えにもとづいているからであろう。
旧約聖書の創世記第二章の神は人をエデンの園に連れて行き15にあるように「これを耕やさせ、これを守らせた」。そして神は人に命じた。「あなたは園のどの木もからでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっとしぬであろう」。と、書かれている。このことは、キリスト教以外の宗教にも多く見られる。しかし、世界の神話や民話を見ると。必ずしもそのようなものばかりでなく、人間と他の動物は同等だと物語っているものも少なからずある。

 自然のことについて未知だったころは、自然を畏れおののいた頃はともかく、科学が進み自然について多くのことが解き明かされると、いろいろなことが分かってきたなか、人間はこれからも動物を支配してよいと考え、人と動物を分けて考えてよいだろうか。
しかし現代の状況を見ると、人間と動物などを、この宇宙船地球号の客室の等級をわけている。しかし、どこに人間と他の動物などの、客室をわける正当性の理由が必要があるのだろうか。残念ながら先に述べてた傾向がより強くなってきてるように思える。たしかに、人間至上主義に対して疑念を持ち振り替えて考えようとする声もあがっているが、この宇宙船地球号の主人公だとする人間至上主義を支持する方が多い。

太陽系が誕生し、45億年前に太陽系が形成され、38億年前に地球に生命の兆しが見え、6億年前に大きな生命が誕生し、2億2800万年前に恐竜が出現し、6550万年前に地球に巨大隕石が衝突。恐竜を含む殆どの生命が絶滅する。
700万年前にチンパンジーの系統から、猿人が分岐し200万年前にホモ・ハビリスから原人へ、さらにか旧人が、さらに20万年前に現世人類のホモ・サピエンスが出現する。そのようなことを考えると、人間がこの地球にあらわれてからまだ目をまばたきをした時間ぐらいしかたっていない。
地球に生命が生まれてから、長い年月棲息したが絶滅した種もいるが、ホモ・サピエンスの出現により、いままで生存していた、人間と同種に新人などは絶滅していった。それと同時に他の種の動物たちも消えて行った種も多い。
ダーウィンが『種の起源』の適者生存(survival of the fittesの)により、消えていったものもあるが、ホモ・サピエンスが要因なものもある。特にホモ・サピエンスが文明を持ち、さらに技術を発展させ科学文明と産業を発展させて以降、他の種の動物を絶滅させたのは知っての通りである。
そのように、ホモ・サピエンスが出現してから、多くの種が個体数を減らし絶滅してしまっている。それは動物だけでなく、植物や昆虫なども個体数を減らし絶滅している。

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洪水神話

旧約聖書 日本聖書協会 1955年改訳版 創世記 第六章に次のようにある。
 (1)人が地のおもてにふえ始めて、 略 (5)主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い悪い事ばかりであるのを見られた。(6)主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、(7)「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いてる」と言われた。(8)しかし、ノアは主の前二恵みを得た。
(9)ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 略 。
(11)時に世は神に乱れ、暴虐が地に満ちた。(12)神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。(13)そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。 略 」

洪水伝説・神話はキリスト教やユダヤ教の旧約聖書の「創世記の」のノアの方舟や、ギリシャ神話のデウカリオーンまた、インドのヒンドゥー教のプラーナのマツヤがあり、ギリシャ神話のデウカリオーンがあり、アメリカの原住民のウェーチョル族の洪水と箱船、南米でもインカ神話のビラコチャは大洪水で巨人を倒した話、マヤにも洪水の話がのこされている。
このように世界中の神話や伝説には、洪水の話や終末の神話などがいくつもみられる。洪水伝説はその一つで、この世の汚れを一切を洗い流し清めることを意味しているのではないだろうか。

どういうわけで、世界中でノアの洪水のような神話があるのだろう。それも単なる終末論ではなく、ノアの方舟のように神が人間のおこないを罰し、世界を新たに再生させる話になっている。しかし、人間の愚かさを罰するのに、人間だけでなく他の生物も含め、世の中全体を滅びさせる物語なのはなぜだろうか。
どうも人間であるホモ・サピエンスは、20万年前に現れてから、いくども自分たちを自然の営みが絶滅の危機に直面してそれを予感したり、また自分自身のおこないに行き過ぎあって、他のものを絶滅させたり、自身の生存環境を脅かしてしまったことを知り。それを、反省し絶滅するのではないかと予感してきたのではないだろうか。

また、逆に太古の人は、森林火災が起き焼き野原になったあと、雨が降るとすぐに新しい芽が生えてくるのを見て、古いものが滅び、新しいものが再生するのだと考えたとしても不思議ではない。それが、洪水神話につながっていったと考えられる。
太古の時代から人類は、大雨による河川の氾濫による洪水や、津波などで住んでいるところが壊滅してしまうのを幾度も見てきて、その荒涼とした後すぐに自然が再生されるのをみて、天変地異や天災は紙が起こしたもので、それにより人間の罪や過ちを呑み込み消し去ってくれると考えたのではないだろうか。
つい、200年ほど前以前は、天変地異や天災は神の怒りだと思い恐れ神の力を畏れた。しかし、今までは科学が進み科学的に多くのことが解明されてきている。しかし、今度はその科学の力で神以上の力を持ち始めているかに見えるが、それこそ神を畏れぬ仕業だといえるほどになってている。昨日に書いたように、自分たちは万物の霊長だとして、人間以外の生命を思うままにしている。そのような状況がさらに続くと、地球の今の生命体系が完全に狂ってしまうのではないだろうか。そして、それは新しい生命の体系が作りだされていくが、それが今後人間にとって都合のよいものとは限らない。

この宇宙船地球号のすべての生命や自然は互助しながらその体系が成り立っていることを忘れてはならないです。このままでいくと、宇宙船地球号の一乗員であるホモサピエンスは、ふたたび洪水伝説を繰り返してしまうのだろうか。
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刑の厳罰化 は必要か

刑の厳罰化
最近、事件の加害者を擁護するようなことを言うと、特に凶悪な殺人事件などで、被害者や遺族の気持ちを考えろとか、自分が被害者になった時にも同じことが言えるのかと詰問する人がいる。
また凶悪事件に対して、被害者の気を思い諮らんとしか、刑の厳罰化を望む声がある。そして厳罰かを正当化する理由として、犯罪の抑止力になると主張する。
本当に刑の厳罰か重罰かは犯罪の抑止になるだろうか。世界に国々で刑を重くしたからといって、犯罪が少なくなったと言う統計はない。むしろ世界的にみて刑法犯は少なくなっている。犯罪が少なくなるのはむしろ社会的要因、経済的な要因によるところが多いと言う。
刑の厳罰化が犯罪よくしになるとうなら、鞭打ちや石打刑を公衆の面前で執行するのを復活させ、死刑の執行も公開の場でし、公衆の面前で見せしめにするがいいと思う。
現代は、罪に服している人は、壁の向こうで社会から隔離されている。一般の市民はその実体を知ることはないのである。それでは厳罰化しても抑止力になるだろうか。
現代の刑務所の役割の国際社会の主流の流れは、刑を懲役する視点より、社会更正のほうに重きが置かれるようになってきてる。

聞くところによると、日本では以前、死刑執行前に、家族など親族と面談し別れを偲んだ時期もあった。しかし現在は死刑がされたこともあまり明かされない。ましてや事前に死刑執行されることは、世間にも本人にも通知されない。また、死刑のがどのようになされるも秘密にされ、一般の人は日本は絞首刑ということしか知らない。
死刑がいつ執行されるかが、本人に知らされないことは、死ぬ人の心の準備をする事を認めない事でもある。それは死刑囚の人権を疎かに見ているとも言える。通常死刑の判決をうけると、罪に対して死に対して向かい合えるように、教誨師がつけられるが、教誨師にも知らされないそうだ。
死刑の執行が本人に伝えれなくなったのは、死刑囚が刑の執行を伝えられた死刑囚が、刑の執行前に自殺した事件?事故・が合ったからだという。死んでしまった人を死刑にすることはできないので、刑の執行ができなくなると困るからだと聞いたことがある。

一部の国では刑を厳罰に処している国もある。その多くは、言論の自由や表現の自由について、法律の範囲内で条件が付けられていたり、公益を損なわないとか、秩序を乱さないという条件が付けられてる。
それらのことを考えると、刑罰の厳罰かを望む声が、市民民衆のなかからあがってくることは、為政者としては喜ばしいことで、為政者としては統治の秩序を管理する上で都合のよいことです。
私たちは決してそのようなことを望むべきではないです。
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AIが神になるか

AIが神になるか

技術的な進歩は、狩猟採取社会は貧富の差はなく平等だったが、農耕社会は仕事の分担を作りだし貧富を作りだし、ヒエラルキーを作りだし、政治が生まれ人々の生活が変わっていった。そしてさらに技術が進化すると、政治の統治の仕方をも変えていった。現代ではAIの技術で、いままで以上の革新が起こり、AIh神の力のようになってしまう恐れがある。

少し前の時代の人が、タイムスリップして現代の進んだごく一般的な文化的なをものを見て、どう思うだろうか。特権階級のごく一部の人の生活だと感じるのではなく、その人たちを神だと感じるのではないだろうか。
江戸時代以前の人が、現代の水道やガスや電気などのインフラを見ると、それは魔法にように見るだろう。ましてやもっと遙か以前の、狩猟採集時代の人は、それを扱う人は神のように見えるかもしれない。
そのような時代に生きている人がもし現代にタイムスリップして、彼らの時代では病気などにかり死んでしまう病気も、現代では入院もしないで完治する病気がいくつもある。それを見てそれを治す人は、医者ではなく神のように見えるのではないだろうか。
その原理や法則などを知らない人や、初めて見る未知のものに対して、偉大なものとして畏れ、敬いもったいなく感じるのではないだろうか。

狩猟採集時代から、農耕社会の時代になてもそれはほぼ同じだろう。いや初期の農耕時代の人は狩猟採集時代の人よりそれをより強く感じるのではないだろうか。農耕時代になるろ、麦や稲を育て家畜を飼育するために、狩猟時代の人より知識の蓄積ができ、自然のなかに自分たちでは物事の筋道がわからないことがあることを体験があり、未知への畏敬あるだろう。

文明が生まれる前の農耕時代では、田畑を耕し、種を蒔き、雑草を刈り、収穫したり、家畜を飼い餌をやり、牛の乳を搾り、鶏の卵を採り、植物から糸を紡ぎ布を織る。柴を刈ったり薪を割ったりし、木の実や肉を焼いて食事をつくった。やがて土器を考えだし、煮炊きをして食事をつくる。これらは、一万数千年前に始まった初期の農耕時代の社会では、数千年つづいたが、その集落の住民はみな関わっり、生活の大半はそれらの活動が占めていた。それが時代が進むとしだいに人々の仕事は、分担され分業化していく。それにより狩猟時代や初期の農耕時代は、それぞれの人がすべてのことを知っていて行なうことができた。しかし仕事の分担により分業化され、在ることはできるが他のことはできない人が出てきた。

日本でも150年程前の農村の人々は、多くのことが自分たちだけでできていたが、近代化が進むにつれ効率化が求められ、分業化が進み作物の生産性は上がったが、自分たちだけでできることが少なくなっていった。
現代と70年程前を比べてみると、田畑を耕すのに人力や馬や牛を使っていたが、いまは耕運機で短時間でできるようになった。収穫も多くの人の共同作業で稲麦を手作業で刈りとり干して乾燥さ脱穀していたのが、いまはコンバインで刈取りから脱穀の最終作業までしてしまう。
いままで、手作業でしていたことが、すべて機会がしてしまう。それによい手作業でどのようにしたらよいかがわからなくなっていく。これがあらゆることで起き出すだろう。
そうすれば、機械は自分たちが知らないことをしてくれるブラックボックスになり、それは神になる。その予兆はすでに始まっている。
私たちは日常生活をするのに、さまざまな便利な機械を使っているが、その使い方を知っているが、その原理をほとんどの人は知らない。また、その機械をつく人や設計した人も、その機械をすべてを知らない。
また、私たちの生活を支えているインフラもどのようなシステム化を詳しくしらない。先にもかいたが昔の人がそれを見ると、神の仕業のように見えるだろう。
私たちは、もっとAI技術が進み便利なものが出現するとそれが当たり前にないり、人間は深く考えにようになるのではないだろうか。
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横暴が止まらない

安倍政権は、戦後の今までの日本の根幹とな方針を、戦後レジュームからの脱却と言って、自分たちの政権に都合のよいように変えていっている。最近はあまり「戦後レジューム」使わないがその傾向は今もつづいている。
第一次安倍政権では、憲法改正の国民投票法、と教育基本法の改悪などをしている。
第二次政権では、今まで歴代の自民党政権が踏み込んでいなかった、集団的自衛権の憲法解釈の変更や、機密法やテロ等準備罪法などを強硬に押し通してきている。
制度面でも、NHKの会長に、このところ民間企業からの登用が続いている。報道の使命を詳しく理解していない人が会長になり、民間企業の経営手法の方を重視するようになれば、報道の自由が侵害され重大な問題と言える。その前例が籾井元会長だろう。

さらに安倍政権は次なるステップに進もうとしているのだろうか。数年前に、私は「行政府の長」と言うべき所を、「立法府の長」と言い間違ったことがあるが、行政と立法の区別をよく考えていないから言い間違ったのだろう。
今回は、さらに、内閣に任命権があることをよいことに、司法の独立性の重要性を深く考えていこたが明らかになったといえることがおきている。
今回は、東京高等検察庁の定年延長について、昭和56年の衆議院内閣委員会で、「検察官には国家公務員法の定年は適用されない」答弁している。それにより検事長のいままで延長をしてきていないが、その解釈をかえ東京高等検察庁の黒川弘務検事長が、誕生日をむかえた2月8日から8月まで退職延長をしている。

検事長の定年延長は、なぜ好ましくないのか。
アメリカの州などでは、検事は終身で時の政権とは独立が確保され、それにより、時の政権に都合のよい人事が侵害されることがなく、検察の中立性や独立性をが担保されている。アメリカの大統領の任期は最長2期8年だが、これが大統領の任期の制限がなくなると話は変わってくるが。
今回の検事長の退職時期の延長は、検事が時の政権の都合の良い人事になるおそれがあり、どのようなことがあっても、そのような前例をつくることは好ましくない。それは、内閣が独断で検察官の勤務を延長できれば、検察の独立性や中立性が侵害され都合のよいようにされる。政治的な問題があることに対しての、最高裁の判断が侵される危険性がある。これは、三権独立であある、立法と行政と司法の独立を壊すもので、全体主義・独裁政治に一歩踏み出すことになりかねない。

安倍総裁は党規約を改定し、二期から三期にしたが、さらに四期にしよとする声があることも考えると、全体主義・独裁政治は夢どころではないかもしれない。
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日本人の食性

日本人の食性
 9日の日刊ゲンダイに、日本の江戸時代の食生活のことが書かれていた。
 というより、いま、新型コロナウイルスで感染源がコウモリかネズミなどと噂が流れえいることに対して、中国に悪食について中国を悪くいうのでなく。日本の食文化などにつてふり返ってみている。日本も結構むかしは悪食だったし、今も日本には悪食会なるものがあるときく。

日本も元来、悪食なのかもしれない。それは日本に広く仏教が普及し、仏教に三厭五葷(さんえんごくん)がり、三厭に、獣・鳥・魚介を指し動物性のものを指し。五葷は一般的にニンニク・タマネギ・ネギ・ニラ・ラッキョウの5種類を指、また、戒律に不殺生戒がありそれにより三厭は、獣・鳥・魚介を指し動物性のものを指している。もっとも、声は仏教の修行僧に対してのもので、庶民には関係のないものだ。しかし、一般的に江戸時代以前は日本には牛や豚などを飼育する牧畜などはなかった。それにより、肉を手に入れるのは野生の動物になる。
そこで、江戸時代以前は、肉屋で買うのは野生の獣で、鹿、猪、熊が一般的で、他にも、ウサギ、キツネ、タヌキ、オオカミ、などがあり、なかにはイタチやカワウソやサルまで食べてい記録がり、犬も食肉として売られてい記録もある。

では、新型コロナウイルスで話題になっている。コウモリはどうかというと、コウモリも食べていたようで、そうなると当然蛇やカエルなどはしっかりした食用となる。私も中華料理の店でカエルの足を揚げた料理を食べたことがる。私は初めからカエルと思っていたが、一緒に食べあ者は美味しいと言って食べていたが、はじめカエルとは知らずビックリしていた。
江戸時代に人はどう食べていたかというと、猪肉と同様に味噌で炊き込んだりして食べていたようです。いまでも、ジビエ料理が注目されて人気のようです。

徳川綱吉が「生類憐みの令」を出したのは、江戸っ子が肉が好きで、野生の獣や野良犬を捕って食べるのが横行しすぎたからだという説もあるという。(話はそれるが、野良犬と野犬とは違い、野良とは特定に飼い主がおらず地域の人が面倒を見ている犬のことらしい、そのよう野良犬が落語にもでてくる。)
江戸時代は現代の一般的なウシやブタの肉より、猟師が野山でとってきた野性のジビエの方が一般的だったといえる。落語にも「池田の猪買い」という話もあるぐらいだ。明治時代に初期には奈良の鹿も食べられほとんどいなくなっていたという。もともと、日本人の肉食は多様だったのだろう。それが、明治になり近代とともに西洋の牧畜産業が入ってきて、野生の動物を食べるのは野蛮だと、考えるようになっていった。それにより、肉と言えばウシとブタとトリとなってしまった。
しかし、考えようによっては日本の和牛の肉より、ジビエの肉の方がコレステロールも少なくヘルシーだといえ、健康によいだろう。

もともと、人間は狩猟採取生活をしていて、何でも手当たり次第に食べていたようだ。それも、20万年前のホモ・サピエンスは、何でも手当たり次第にではなく、一定にものを食べていたのだろう。しかし、ホモ・サピエンスしだいにその、グループの人数を増やしていき、また、グループの数も増えていき、食べ物を得るためにその食べ物の種類を増やしていき、食べられるものは何でも食べるようになっていったのだろう。
バッタの大量発生で、バッタの個体の生態が変わるという、バッタは単独では一定に決まった植物しか食べない、しかしバッタが異常大量に発生すると、あたりにある植物を手当たり次第に食べ尽くしてしまうのと同じように・・・・。

現代は、牧畜や養鶏などの産業が発達し、昔では考えられないほどの数のウシやブタやニワトリが飼育されて供給されている。それにより野生の動物を狩猟しする必要がないといえる。しかし、逆に牧畜産業などがなく、狩猟で肉を賄うとなると、すでに人間以外の野生動物はネズミやコウモリも含めていなくなっているだろう。見方によってはそれは人間はこの地球にそれほどはびこりすぎていることになる。つまりはっきり言うと、ホモ・サピエンスは、好ましくないものが勢いを得て広がりすぎていることになるのではないだろうか。

バッタのことを考えてみたい、バッタは単体だと、一種類の植物しか食べないが、大量に発生するとその生態は豹変するのです。

ホモ・サピエンスである人間は、「君子は豹変す、小人は面を革(あらた)む」と言う言葉があるが、自分たちのはっきりと誤りを正すだろうか。それとも、現在使われているようないみでの、自分たちの立場を守るためにより凶暴な手段で直面の課題を解決しようとするだろうか。
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EUの食肉税

EUは域内の国で、肉食に課税をすることを検討し始めている。どうして課税するかというと、地球温暖化問題を深刻に受け止めていることからによる。
牛肉を生産するのに、牛のゲップは、豚の6倍以上の温室効果ガスを排出すると言う。それは、牛は「温暖化ガス排出」の畜産分野の約80%を占めるというから、その対策として牛肉の消費の抑制と、畜産の牛肉偏重の見直しを図るものと見られる。
そこで、その改善を畜産業に促すためと、課税により出た増税の収益を、温暖化対策に充てるのだという。しかし、そうなれば牛肉の値段が上がることになる。消費者の理解と協力が必要だろう。また、いままでの牛肉産業の構造に対する影響もあり、さまざまな問題がある。しかし工業や商業活動ででる「温暖化ガス排出」と同時に見過ごしてはならないのは、農業による「温暖化ガス排出」もそうだといえる。
このことは、この宇宙船地救号の定員を考えないといけないだろう。果たして地球はどれだけの人口を賄えるのだろう。現在70億以上に人が暮らしているが、それ以上の乗員を増やすことができるだろうか。
この地球の世界中の人が、米国並みの生活をしようとするなら、いまの人口の半分も賄えないだろう。
では、ヨーロッパや日本並みだったら?、新興国のインドや中国並みだった?、さらに人口が増えて100億人になったらどうなるか。

わたしは、ここで、「足を知る」ことが重要だと思う。もっといえば「唯吾足知」である。
多くの人は飽くなき欲望を追い求め、むさぼりつづけているが、その意識の改革が必要になってくると考えている。いささか宗教的な話になってしまうが、それがもう待ったなしのところまできているのではないだろうか。

しかし、先進国と言われる国の人のなかには、満足することなく欲しがり続ける。ことは、いままで経済を発展させてきたことには違いないことです。それは、いま限界にきているのではないだろうか、人口が増え産業活動が発展したが、特定の地域ではそれはそろそろ特異点を超えようとしているのではないか。この宇宙船地球号には、現在70億以上の人が暮らしている。その3分の1以上の人は飢餓に直面している。また、半分以上の人が貧しい生活をしていると言ってよい。同じ船の中で一等船室や特等船室があり、方や三等船室、また大きな空間の集団船室や船艙の乗客がいることを忘れてはならない。それらの人とともに地球号の未来の旅をどうすればよいかを真剣に考える時にきているのだろう。
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温暖化に対する意識

EUの幹部が、地球温暖化を求める若者の活動を、疑問を呈して、グレタ・トゥーベリさんを引き合いにだし、「グレタ症候群」などと冗談ぽっく皮肉ったことについて、批判が集まっり謝罪に追い込まれた人がいる。
(余談だが、日本の首相が国会の委員会で終了間際にヤジ飛ばした、その国会での冗談に看過できないとしているが、党はそれを擁護しようとする。もともと今の首相がよく冗談をヤジをするひとだが、ちゃんんと謝罪するのはまっとうだが、さて・・・・)

ヨーロッパの、メディアによると外交を担当するボレル上級代表が5日、ベルギーの首都ブリュッセルでの会合で、「若者たちが自分たちの生活水準を下げてもかまわないと、ちゃんと認識しているかは疑わしい」と指摘し、若者が温暖化対策によるコストを認識せずに活動を行っているとして疑問を投げかけた。
そして、「グレタ症候群」についてが、SNS上で拡散すると、「情けない態度で、EUを代表するような人物に値しない。若者を見くびるな」などの多くの批判があつまり、それに対してボルト上級代表は、「気候変動と戦う若者の重要な働きに対する私の不適切な言及で不快に感じたかもしれないすべての人に謝りたい」。と述べた。

私は、地球の温暖化問題は深刻な問題だと考えるが、それを解決するにはたしかに、温暖化対策によるコストのことを考えないといけないのと同時に、いまの経済的に豊かな国々の人の便利な生活の質を考え落とさなければいけないことを考えないといけない。コストがかかるからと先送りすれば今の、温暖化問題がさらに深刻になるも考えないといけないです。私はあと10年か20年ぐらいで死んでしまうので、21世紀の2050年がどのような状況になっているかは関係ないので、今よりもっと便利な生活をと考えてもよいが、それでは後世に対してあまりにも無責任ではないかと思う。

ボルト上級代表のいうことは、確かに間違っていないが、それはコストがかかるのでもっとコストをかけて対策を立てないといけない、温暖化運動を否定するような方向に考えが向くことは間違ている。

世界中の国々がこのことをよく考えないといけないといえる。
アメリカや欧州や日本の国の人の生活をいかにスローにするか。BRICs(ブリックス)の国の人々の生活を考え、発展途上の国々の人の生活をいかに向上させるか。などを考えていくには、世界の国々は共通の目標をもって進めなければ解決できないだろう。自分の国第一主義や至上主義でとてもこの問題は解決できないだろう。
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■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

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記事へのコメント
  • 臨時国会の開催はいつか
    風と雲 (08/04)
    一体今の日本はどうなってしまったのだろうかと思う。アベ内閣も与党も憲法に違反することを完全に無視して悪びれもせず堂々と実行してきた。、政府高官も最高裁も報道機関
  • 難病と尊厳死
    竹林泉水 (07/29)
    コメントありがとうございます。

    自ら生きる権利、自ら死ぬ権利があるのはよくわかります。
    それにはどちらも人・個人としての尊厳が保たれている必要がある考えます。
  • 難病と尊厳死
    風と雲 (07/28)
    意識して自ら命を絶つことができるのは人間だけだと思います。人には生きる権利と自由があるように、自らの命を絶つ権利も自由もあって然るべきではないでしょうか。このA
  • 不自由な国、日本
    アジシオ次郎 (07/01)
     自分よりも周りを優先する集団主義的な考えが同調圧力などがまかり通る社会なことについて前に
    >日本的なこの価値観は、海外から見たら奇異の目でしか見られないでしょ
  • 不自由な国、日本
    竹林泉水 (06/29)
    日本語に「世間」と言葉があります。「世間体が悪い」「世間がうるさい」「世間を渡る」「世間に顔向けできない」「世間の目を気にする」「渡る世間に鬼はいない」などとつ
  • 不自由な国、日本
    アジシオ次郎 (06/27)
     おはようございます。

     日本はやはり集団主義が根強い社会であり、いわゆる「ムラ」社会的価値感が強い為に変に「和」を重んじる傾向の上に上の言うことは絶対だという
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    竹林泉水 (06/26)
    なんで日本人は欧米人に対してコンプレックスを持っているのだろうか。明治政府は今までの幕藩体制をぶっ壊し廃藩置県をし、国内の不平不満のエネルギーを外に敵を作ること
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    アジシオ次郎 (06/25)
     こんにちは。

     日本人は長年欧米コンプレックスを抱いたせいで白人に対して好意的に見る一方でアジア人や黒人を平気で見下すような傾向が強いけど、自分たちが置かれて
  • 長期政権
    アジシオ次郎 (06/24)
     おはようございます。

     長期政権がもたらすもの、それは腐敗と閉塞感以外の何物でもないが、一人の人間が十何年、何十年と居座ってては健全さなど皆無だし、変化を知ら
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