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抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利70周年

在日中国大使館の程永華駐日大使が『抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利70周年』の記念するレセプションで、「今日の日本、日本国民を標的にするものではない」と強調しました。
中国政府は、以前から先の戦争は当時の政権がしたもので、当時の日本人民はその被害者であり、今の日本国人民には責任はないとし、善隣友好をとなえていました。そのことから、この発言はそんなに目新しいことではないです。

日本は敗戦を終戦といい、ポツダム宣言を受諾したが、その宣言の一つの条件を未だ満たしていないところがある。その条件は、戦前の体制を解体して近代的な民主主義国家に新生することでした。しかし、その時の日本の政権は、始めから戦争責任を負うことから逃げ、国体を維持しようとしました。また、アメリカの日本統治に、天皇制を維持しすること容認しました。また、今の日本の政治家や官僚のなかに、太平洋戦争を大東亜戦争といい、そ正当性を唱える人がいます、それも一人や二人でなく、今その人達が政治の中心にいます。

しかし、今の政権は、戦前の国家主義的なことを、主張し先の戦争責任を否定する人がいます。アジアの人の為に戦ったのだと正当性を唱える人もいす。そのような人がが多くいると、日本国外からみると、今の政権が戦前の政治に、戻って行くのではないかと、見えてしまいます。

中国での抗日戦勝利の行事は、軍事パレードなどもあるようで、平和推進と言えないのは事実で、その記念行事に進んで参加する必要はないとです。
ただ、先の首相の70年談話にみるように、当時の責任を曖昧にしたものでは、今後の日本がどのように進むのかが曖昧に見えてしまうでしょう。
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戦後70年談話を改めて読む

戦後70年談話を改めて読むと、戦後はまだ終わっていないように感じる。

8月15日は、日本では終戦記念日としています。しかし国際的、国際法的に、実際に戦争が終わったのは、ポツダム宣言を受諾した9月2日とするのが正しいでしょう。15日は玉音放送のあった日です。天皇が国民いポツダム宣言を受諾すると、勅語を発せられた日を、終戦の日としています。
また、戦争に負けたと言わず、終戦という。これは、国体を護る、いわゆる国体護持をするため、天皇や戦争を始めた人の、戦争責任を曖昧にするためでしょうか。
国民いいや臣民は、充分な後方支援が保障されないままに戦地に駆り出され、多くの人が銃弾に倒れ、餓死したり病死したり、負傷して自決させられたり置き去りにされました。また平民の臣民は経済は崩壊し、生活に困窮した上に、空襲で町は焼け野原にされた被害者でした。その上に、近隣の国や東南アジアの国に、被害をもたらしたことを、臣民に自責の念を負わすことから免れるためだったのでしょう。
しかも、GHQに占領されて、ポツダム宣言に書かれている、新生日本をつくろうとしたが、マッカーサは天皇体制の護持を許容し、戦犯として公職追放された人が、冷戦が始まると公職復帰し、戦前の官僚や政治家や軍人たちが、政治の場に復帰してきました。
これが、そのことが逆にいまだに、その自責の呪縛から逃れられていないようでう。

首相の70年談話では、「侵略」「尊厳などを傷つけた」「断腸の念」「反省」などの鍵になる言葉が網羅され、注目されていた「心からのおわび」も、過去の談話どうように一応、繰り返し表明しました。
しかし、談話を聞くだけでなく、それを改めて文字で読むとその問題点が浮かび上がってきた。それは、「主語」がきわめてあいまいになっていることです。つまり、先に述べた、「侵略」「尊厳などを傷つけた」「断腸の念」「反省」などは誰がしたのかが、曖昧にぼやかされている。このことは、その責任が誰にあるのかももあいまいにしてしまっている。

安倍晋三は、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と、主語や目的語などをを明確にしています。つまり、先の戦争は自分は悪くない、責任はないのだと言い、もう謝らないと言っているのに等しいと思う。

このことは、先の戦争責任をあいまいにして、先の大戦の敗戦を日本は終戦と言うのと同じで、戦争に負けたことを素直に認めようとしないことをいまだに引きずっていることになる。つまり、逆にこれからも、子々孫々と謝罪を続けざる得なくなってしまったのではないでしょうか。

長さだけは今までの談話の2倍以上あるが、その中身は今までの談話の半分ほどしかないお粗末な談話と、読めば読むほど感じてしまう。
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反知性主義と国のゆくえ

「知性とは何か」佐藤優 詳伝社 の後書きに、反知性主義にとらわれない三箇条が紹介されていた。

佐藤優の言う、三箇条とは。
・自らが置かれた社会的状況を、できる限り客観的にとらえ、それを言語化することだ。自分の考えていることをノート、PC、スマートフォンなどに記録する週間を身につけよう。
・他人の気持ちになって考える訓練をすることである。
・LIN(ライン)などのSNSを用いた「話し言葉」的な思考ではく、頭の中で自分の考えた事柄を吟味してから発信する「書き言葉」的思考を身につけることだ。重要なことがらについては、SNSを用いずに、PCで文を綴り、プリントアウトして、推敲した後で送付する習慣を身につけると「書き言葉」的思考力が向上する。

私自身、この三つの箇条書きを読んでいて、まず恥ずかしくなった。私のこのブログを読んで戴いくと直ぐにわかることだが、思いついた事をだらだら綴って、ほとんど推敲をしていないことが直ぐにわかるとだ。ほら、ここでも「直ぐに」と言う言葉を繰り返し使ってしまった。それ以外にも脱字や誤字や誤変換などが多い。これは、私も反知性主義者であることと言える。反省しきりです。

国会や内閣のしていることを見ると、リーダーの暴走が目に付き、そのリーダーを諫める人が周囲にいないこと。ここの政治家自身も自分の意見主張を言わず、リーダーに従うだけの人がいます。さらに、リーダーに迎合するだけでなく、こう考えているだろうと推し量って先走りし、失言したり顰蹙をかう人も増えています。これは、政治家の劣化であり反知性主義からくるものです。

最近の政治の劣化は、反知性主義から来るものだと、佐藤優氏はいい、反知性主義の大雑把な定義は「実証聖や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」としています。そして、そのような人は「新しい知識や見識、論理性、他者との関係性などを等身大に見つめる努力をしながら世界を理解していく作業を拒み、自分に都合の良い物語の殻に籠もるところに反知性主義者の特徴がある」と指摘してる。
そして、「政治エリートに反知性主義者がいると、国内政治、国際政治の両面でたいへんな悪影響を与え、日本の国益を毀損することになる。」と言っている。

この反知性主義の政治が後三年も続くとなると、この日本はどうなるでしょうか。それを考えると「夜も眠れなくなる」から「責任者出てこい!」と言いたくなります。いま春日三球・照代や人生幸朗・生恵幸子が、生きているとどのようなボヤキ漫才をするでしょうか。
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2020年のオリンピック・パラリンピック組織委員会

先日発表された、2020年東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムの使用を中止し新たに決め直すことになりました。

2020年のオリンピック・パラリンピックの、誘致プレゼンで安倍首相は、アンダーコントロールされているとして、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」といいました。しかし、現状はコントロールされるどころか、制御はおろか今後の処理の仕方も未だ不透明なままです。

さらに、新しくメイン会場を建設するといって、早々と今まであった国立競技場を潰してしまいました。しかし、新しく作る新国立競技場の建設費はべらぼうに額になることが明らかになり、0から見直すことになりました。

こんどは、大会のシンボルとなるエンブレムが、ベルギーの劇場のマークに似ているとして、裁判沙汰になってしましました。それではエンブレムのイメージが悪くなると、企業は協賛企業となることを躊躇するじたいになり、ようやくシンボルとして決まったデザインを使わないことになりました。

この、2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、東日本大震災で甚大な被害からの、復興としていますが、東京はオリンピック景気に沸き、資材の高騰と人材が取られ、東北の復興の足枷になてきているといわれます。

このように、オリンピック・パラリンピックのためのことの多くが、逆目裏目にでてしまっているようです。

これでは、2020年のオリンピック・パラリンピックの成功はおぼつかなくなてきます。2020年のオリンピック・パラリンピックを成功させるために、一度組織委員会をなどの、人員の刷新をさせてオリンピックムラを解体して、組織の立て直しをした方がよいのではないかと思うほどです。

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自民党総裁選

自民党総裁選が続投を表明している安倍首相の無投票再選が色濃くなってきた。

野田聖子前総務会長の立候補が取りざたされているが、安倍氏やその周辺では、安保法案(戦争法案)に影響があると、対立候補が出ないように圧力をかけているようです。自民党はここまで劣化いや腐ってしまったのかと思う。
もともと、日本の選挙制度は中選挙区制だったが、アメリカのように2党が政権交代しながらの、2大政党政治を目指し小選挙区制が導入されました。そして、ようやく2009年の総選挙で民主党が政権をとりました。今まで長期間政権を獲っていた、自民党は野党に転じその屈辱を味わい、二度と野党に転落しないと身に染みて思ったようです。
しかし、そのれ自体が自民党の驕りで、小選挙区制により政権交代をしながら、日本の政治のバランスをとるとする趣旨にはんします。さらに、最悪なのは少数党が多数でき、自民党の一教他弱の構図になっていまったことです。驕った自民党は何振りかまわず、何をしてもよいと今の国民を無視した、暴走が始ったと言ってよいでしょう。

安倍総裁自民党になる前までは、多様な意見がある自民党でしたが、民主党に政権を奪われたためか、それとも安倍政治がそうなのかわからないが、党内の多様な意見を封じ込めたり、意見を言うのを控えたり自粛する風潮が蔓延しているようです。

しかし、そのようななかでも、少数ですが安倍政治の在り方に異を唱えたりする人もいます。また今度の総裁選あり方自体、誰が総裁になろうと対立候補がいて意見を戦わしてこそ健全な自民党総裁選だと言う人もいますが、それを実際に行動にする人が、出づらい雰囲気が自民党の中にあるようです。

そのような中、野田氏は、1日の会合で「安倍党総裁の無投票再選は国民への欺隔だ。傲慢で不誠実だ」と述べ立候補に意欲を示したが。しかし、2日の札幌での講演では「私の立候補の話でなく、総裁選をどう捉えるかだった」と一転して自身のことについては曖昧にした。
新聞によると、野田氏は谷垣禎一幹事長と官邸で会談し、党総裁選に関し「国会審議に影響してはいけない」と述べ、総裁選が行われても安保法案の参院審議に影響を与えないよう配慮が必要だと言っています。
また、次のようにも言っている。「総裁選で公開討論し、首相の思いを多くの国民に聞いていただき、それ以外の(候補者の)意見も知ってもらいたい」と。このれがまともな考えです。

しかし、多くの国民が反対の声を上げ、法案自体に不信感を持っているのに、安倍自民党は今年の春にアメリカに行き、法案の成立を勝手に約束してきました。そしてその約束をなにがなんでも、戦争法案を可決してその約束を守ろうとしています。この、国民よりアメリカとの約束を大切にするのことをなんというか、これを売国といい、アメリカのご機嫌をとる政権を傀儡政権という。

安倍晋三周辺だけでなく、以前は安倍氏と対立していた人たちも、安倍総裁に気をつかってかいるようです。細田派の幹部は2日、「今、総裁選なんなかやったら安保法案は成立しなくなる。立候補を妨害するのは当然だ」と露骨です。
また、野田氏に近い議員すら次のようにいってる「出たいという思いは分る。でも今は逆風すぎるし、安保法案もあって支持できない」と胸のうちをかたっています。
しかし、推薦人となることを引き受けた一人は「次の総裁任期3年間は、冷や飯を食うかくごだ」と強気な発言をする人もいるようですが、そのような人はごくわずかで、20人に満たないとされいます。

それだけ自民党の議員が劣化してしまったのか、安倍氏の党運営の締め付けが全体主義的独裁的なのでしょうか。自民とは今まで派閥の抗争があったが、各党員が自由にものを言えた党でした。しかし、その党風は今や過去のものようです。

この安倍自民党の運営をしかたが、国政や国民にも同じ手法で締め付けてこないかと心配です。
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文部省著作「民主主義」

文部省著作「民主主義」

この章は、民主主義の成り立ちについて、書かれています。70年近く前に書かれているので、今の考えや学説と違うところもあり、GHQの占領か出版物などへの規制があり、しかも文部省が出しているので、偏向しているところもあるが、大筋は、古代から近代までの民主主義の発展の過程について書かれています。
民主主義の発展について、初めて学ぶのによいテキストと言えるでしょう。
現代では民主主義は一言で言うと、「人民の、人民による、人民のための政治」のリンカーンの一言につきるでしょう。しかし、ギリシャの都市国家などでは、民主政治が行われたと言うが、それは現代からみるととうてい、民主政治と言えるものではないです。一人の権力者の独裁政治ではなかったが、一部の特権階級の人々がその特権を享受していたに過ぎず。奴隷や苦役を課せられそれから役務逃れることができない人もいました。

それが、イギリスの民主主義を呼んでいると、日本の江戸時代を思わすところがあります。徳川幕府は各藩に対して、徳川家に脅威を与えるものでなければ、かなり各の独自性を大認めていた、と言うより無関心立ったと言った方がよいかもしれない。
ここで紹介する「イギリスにおける民主主義の発達」と次に紹介する「アメリカにおける民主主義の発達」を読むと、明治政府は近代国家をめざしたが、明治憲法下では、とうてい民主主義とは言えない。天皇中心の国家で、国民は天皇の家来で臣民とされ、天皇の為なら命もいとわないとされた。そのために先の大戦の、日本兵の不幸な犠牲がでたと言えるます。
この章を読むと、民主主義を育てるためには、憲法の12条に書かれている「この憲法が国民に保障する自由及び権利は不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」の条文の大切とそれを実現するための、努力の重大さを感じます。
いま、まさに、国会で今までの日本の方向を180度の舵をきろうとしています。今国会の安保法政の法案は、健保解釈をねじ曲げてつくられたものです。つまり、この法案を通すということは、今後も憲法や法律をねじ曲げて解釈し、したいことはどのようなことでもすることになりかねないです。

文部省著作「民主主義」
第二章一民主主義の発達
一 古代の民主主義
人はよく、民主主義の政治は遠く古代ギリシアおよびローマから始まる、と言う。デモクラシーということばは、ギリシア語のデモス-クラートスから出た。デモスは国民であり、クラートスは支配である。そうして、単にことばたけでなく、ギリシアの都市国家、たとえばアテネでは、実際に国民の会議による政治が行われていた。また、ローマは、最初のうちは王政であったが、紀元前五百年ごろから共和政になった。そうして、自由人たちの組織する民会や元老院があって、そこで政治上および法律上の決定を行っていたのである。だから、単に政治の形態だけからいえば、民主主義の起源は
ギリシアやローマにあるといっても、あながちまちがいではない。
けれども、それらの古代国家には、一般の国民すなわち市民の外に、多数の奴隷があった。市民は自由を認められ、いろくな権利を持っていたが、奴隷は全くそうではなかった。かれらは、家畜のように、また、物品のように、持ち主の思うまヽに売られたり買われたりしていた。奴隷は、家畜や物と同じように、その持ち主の財産であり、持ち主の意のまゝに働くためにのみ生きていたのである。かれらは、人間でありながら、人問でなかった。そのような世界に、どうしてほんとうの意味での民主主義がありえよう。奴隷を持つ国民が行う政治は、決してほんとうの民主政治ではない。人間が相手の人格を認めないで、自分の思うがまゝに行動し、他の人々を支配するところには、真の民主主義はない。
だから、民主主義の発達は、西洋でも近世をまたなければならなかった。近世になって、一番早く民主主義の進歩しはじめたのは、イギリスである。ついで、アメリカ合衆国が独立し、フランス革命が行われた。しかし、それらの国々でも、決して一足とびに民主主義の世の中になったわけではない。おヽぜいの人々の長い間の努力と、国民の間にだんだん高まって来た政治上の自覚とが、次第に民主主義の社会を築き上げて行ったのである。その歴史的な発達の跡を、しばらくふり返ってみることにしよう。

二 イギリスにおける民主主義の発達
むかし、サクソン人の王たちがこの国を治めていた時代にも、イギリスの国民はある程度の地方自治の下にあった。しかし、国全体としてある程度の自治が行われるようになったのは、第十一世紀の半ば過ぎになって、この国にノルマン人たちが入りこみ、この国を征服して治めるようになってからのことである。もちろん、それは、自治といってもきわめて低い程度のものであった。その、わずかな芽ばえのような自治が、あらゆる権力の圧迫とたゝかって、今日のイギリスのたくましい民主主義の大木にまで育ち、そびえるためには、約九百年の歳月を必要とした。
この国を征服して治めるようになったノルマン人の王は、ウィリアム征服王とよばれた。この王は、強い支配力を持った、ぬけめのない人で、諸地方を領有する封建諸侯を手なずけ、それによって王の地位を強固なものにするという政策を採った。そのころのイギリスには、バロンとよばれる多くの貴族がいて、その貴族たちがそれぞれ領地を専制的に治め、ちょうど日本の徳川時代の藩の制度のようになっていたのである。ウィリアムは、一方では、これらの貴族たちが互に力を合わせたり、ひとりで王に対抗できるほどに強くなったりしないように努めた。しかし、またその反面では、貴族たちが王の権力に心服するように、いろくな権利をこれに与え、そのきげんをとることも忘れなかった。
ところが、そののち百五十年ばかりたって、その当時のジョン王が、貴族を無視して自分の思うがまヽの政治を行い、ウィリアムが貴族たちに対して認めていた権利を奪おうとしたので、貴族は大いに怒って王に反抗し、王に迫って、再びそういう暴政を行うことがないような約定書を作らせた。これが有名な大憲章であって、そのできたのは一ニー五年のことである。
この大憲章は、イギリス人の「自由のとりで」どよばれて来だ。ある点では、それはまさにその通りである。なぜならば、大憲章には、王が税を取り立てるには、原則として議会の承認を受けること、自由民は、法律や適法の裁判によらないで捕えられたり、財産を奪われたり、禁錮されたり、追放されたりしてはならないこと、王は自由民に対して武力を用いたり、止当な権利を否認したりしないこと、などか定めしれた。そうして、これらの約束を王に守らせるために、貴族は自分たちの組織する会議でこれを監視し、王が約束を破った場合には、この介議は王に抗議し、それでもなお王が改めない時には、貴族は全国の平民とともに王の財産を差し押さえたり、その他の方法で、王を苦しめることができるものとされたからである。しかし、この文書の直接の目的は、国民の自由を増進し、その運命を改善するにあったということはできない。というのは、それはむしろ、貴族たちの特権を、王の侵害から守ることを主眼としていたからである。
このように、大憲章は、王と貴族との間に取りかわされた、封建的な文書にすぎないものではあったが、それでも、大憲章ができたことは、イギリスの歴史にとって大きな意味を持つ出来事であった。王の権力は、これによってある程度まで拘束をうけることになり、王の権力の上には、王といえども守らなければならない規律が設けられたわけである。そうして、もしも王がこの規律にそむいた時には、国民は実力で、王のこのような行為を正すこどが、公然と許されることになったのである。したがって、それは、そののち幾百年、イギリスの議会の力を大きくするためのたゝかいの武器どして役立った。
イギリスの議会に加わる者の範囲は、だんだんととひろげられて行ったが、それには代々の王もあずかって力がある。しかし、王が議会を保護し、議会を育てるのに力を尽くしたように見えるのは、ほんとうは、国民に対する愛や民主主義への熱望から出ているのではなかった。それは、むしろ、金銭への愛による場合の方が多かったのである。というのは、王たちは、貴族からだけでは十分に金を集めることができなかったので、租税を取り立てる範囲をひろげる道具として議会を利用し、租税を納める者の数をぶやしたのである。したがって、王権が強化された時にも、王たちは議会を廃止しなかった。かれらは、それを存続させて、よろしくこれを利用しようとしたのである。王たちは、議会の協賛を得ることによって、王の意志を国民の意志らしく見せかける方が、政治を行うのに都合がよいと考えたのである。
だから、イギリスに議会が生まれても、初めのうちは国民の代表者によって作られたものではなかった。イギリスの議会は二院制で、貴族院と庶民院とから成り立っているが、貴族院の方は最初から、貴族の、貴族による、貴族のための組織であったし、庶民院は決してその名のような庶民的なものではなかった。肉屋やパン屋や農民のような「庶民」からその名が出たのではなく、町どいうことばから出たので、それらの町々を代表する大金持や、その他の地方の財産家たちが、それを組織していたのである。このことは、王が財源を得るために、議会に代表者を送る人たちの範囲をひろげたという由来からも、容易に理解しうるところであろう。
イギリスの民主政治の発達が、支配者たちの我欲や利己心によって、かえって促進されたということは、興味のある事実である。たとえば、ジョン王のぜいたくど貪欲とは、かれらをかり立てて、貴族を圧迫する無理な政治を行わしめ、その結果として、大憲章に署名しなければならなくなった。エドワードー世は、貴族から税金を取り立てるだけでは不十分であると考え、もっと広く財源を富裕な平民の中に求めようとしたために、議会の発達を助長した。更にジェームズ一世は、君権の強化を図ろうとして、自分を神と同一視し、王は神の意志に基づいて統治するのであるという、帝王神権説を唱えたが、その強引な政治がたヽつて、一六四九年に反乱が起り、かれの後継者たるチャールズ一世はついに議会によって死刑に処せられた。
このようにして、議会の力はだんくに強くなって行ったが、その歴史上の発達に重要な一時期を画したのは、権利章典である。権利章典が有効になったのは、一六八八年の光栄革命の結果てある。それによって、王は、法律を停止または廃止することも、議会の同意なしに税を課することも、できなくなった。また、議員の選挙は自由になされなければならず、議員は演説や討論について完全な自由を有し、議会はしばしば開かれなければならないというような、いろくな原則が定められた。それは、王の権力を抑制し、議会の地位を高め、国民に対して多くの自由を保障したところの、憲法的な規定であった。したがって、この権利章典は、その後アメリカその他の諸国の憲法起草者によって、参考とされたところが少なくない。
一方、行政をつかさどる制度としては、最初、枢密院が設けられた。枢密院は、王が政治をするに当たって相談相手とし、その意見をたずねるために設けたものである。王は、やがてその中から更に数人の人々を選んで、おもだった行政事務についてはもっぱらそれらの人々に意見を聞き、かれらが議会に対して持っている勢力を利用して、王の望むような法案を議会で通過させようど図った。それが、イギリスの内閣の起りである。初めのうちは、王は内閣の閣議に出席してこれを主宰していたが、おいおいに王の出席はまれになり、大臣たちに政治がゆたねられるようになった。そうして、王の代わりに内聞の中心となって閣議を司会し、これをまとめて行くものができ、それが内閣総理大臣とよばれるにいたった。
そのころまでは、王は自分の意にかなった人々を選んで内閣を作らせ、それと同時に、いろいろな方法で議会を懐柔し、議会が内閣を支持するようにしむけるのが常であった。したがって、国を治めるのは王とその大臣たちの仕事であると考えられ、議会が政治の中心となるというところにまでは、まだまだほど遠かった。議会は、大臣たちが協賛を求める法律案を、原則としては政治のために必要なものとして承認し、たゞ、国民に不当な政治的圧迫を加え、または、国民の財政上の負担を非常に重くするような法案に反対したり、それを修正したりするこどを、おもな任務としていた。
ところが、一七二一年に首相となったウォールポールは、王の力にたよって議会をおさえて行く代わりに、いろくな方法を用いて議員たちをあやつり、庶民院の中にかれを支持する多数党を作り出して、それを足場に政治を行った。そうして、その内閣が議会の信用を失うにいたった一七四二年に、まだかれ自身に対する王の信任があったにもかゝわらず、その職をしりぞいた。イギリスの今日の政党政治の始まりは、こゝにあるといってよい。
イギリスの議会には、第十七世紀に既に宗教開題に関連してトーリーおよびホイッグの二党が生まれ、それがのちの保守党・自由党となった。そこへ今述べたようなことが起って、内閣は議会の多数の信任に基礎をおかなければならないと考えられるようになった。多数の議員を持つ政党は、それだけ多くの選挙民の意志と利益とを代表するどみられうる。したがって、内閣は、議会の多数党を基礎どして政治を行うべきであり、庶民院の多数の信任を失った場合には、辞職して、新たに選挙を行うのが当然だという考え方が、次第に強くみられるようになって来た。
 しかし、そのような政党内閣制度がほんとうに国民の政府となるためには、選挙権の範囲をひろげる必要がある。ところが、有力な権限を持つ貴族院は、門閥と富の代表であり、庶民院の議員も、ほどんど中流階級上層部の出身であった。光栄革命ののち百五十年近くも、このような人々による権力の独占が続けられていたのである。権力の独占は、一八三二年の選挙法の改正によって初めて破られた。すなわち、それによって新たに興って来だ工業経営者たちが、議会に代表者を送ることができるようになったのである。更に、一八六七年の第二次選挙法改正により、小市民階級および都市の労働者にも選挙権が与えられ、一八八四年の第三次改正によって、その範囲は鉱山労働者および農業労働者にも拡大された。そうして、第一次世界大戦の終った一九一八年には、二十歳以上のすべての男子並びに三十歳以上の女子で、一定の財産資格を備えた者に参政権が与えられ、一九二八年に至って、男女平等の完全な普通選挙制がしかれるに至ったのである。
ところで、このように選挙権がひろげられて行っても、それによって選出されるのは庶民院の議員である。したがって、それに対する貴族院の勢力が強い間は、議会はまだまだほんとうの国民の意志を代表するものとはいえない。そこで、議会が国民による政治の中心として重きをなすにつれて、庶民院と貴族院との間の争いが激しくなって来たのは、当然のことである。庶民院には、自由党の進歩主義と保守党の保守主義との対立があるのに対して、貴族院の空気が特に保守的であることは、いうまでもない。ゆえに、この争いは、自由党が庶民院の多数をしめて内閣を組織した場合に、特に激化する。かくて、一九〇九年に、自由党内閣が有産者階級に対して大増税を行うために金銭法案を提出した時、貴族院がこれを否決したのが機会となって、ついに一九一一年に国会法の制定をみるにいたった。それによって、貴族院は金銭法案を修正または否決することができないばかりでなく、法案が三会期つゞいて庶民院を通過した場合には、その議案は、貴族院が否決しても法律として成立するという原則が認められた。これは、まさしく、貴族院に対する庶民院の優位の確立である。庶民院は、こゝに、名実ともに議会の中心となり、イギリスのすべての政治組織の中心となったのである。
このイギリスの憲法発達の歴史を通じてみても、民主主義の制度をりっぱに作り上げるためには、いかに長い、しんぼうづよい努力が必要であるかがわかる。近世民主主義の源流たるイギリスも、最初は専制君主の支配する国であった。その、たゞひとりの王の手の中に独占されていた権力が、まず貴族たちに分けられ、ついで都市の大商人や地方の大地主がこれに参与し、次第に小市民や工場労働者や農民へと、権力の主体がひろめられて行った。そのたびに、国民の権利と自由とを守るための激しいたゝかいが行われたのである。そうして、第二十世紀になってから、労働者の利益を代表する労働党が庶民院の中に勢力を得て、ついに、労働党内閣も出現する世の中になった。
「ローマは一日にして成らず」というこどばがあるが、イギリスの民主政治は九百年の長きにわたる国民の努力によって成ったのである。そうして、ローマは帝政の腐敗によって滅びたが、健全な民主主義の政治は、あらゆるたゝかいに打ち勝って、人間の運命を希望と幸福の道へと切りひらいて行く。私どもは、この大きな歴史の流れから、汲めども尽きない教訓を学び取らなければならない。

(次にアメリカの民主主義、フランスの民主主義と続き、それらも、テキスト化してみます。)
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文部省著作教科書「民主主義」18

新生国家、アメリカ合衆国の新大陸発見から今までの歴史が書かれている。歴史の浅いアメリカであるが、この数ページでアメリカの歴史が、書き尽くせるものではないが、大まかだがよくまとめられていると思う。アメリカ合衆国の歴史を知りたいかたには、ハワード・ジンの「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史 上・下」がお薦めです。もっと詳しく勉強したいかたは、この本の同じ元となる同じ著者の「民衆のアメリカ史 上・下」があります。
合衆国の成り立ちは、イギリスの植民地であった入植者たちが、本国からの搾取に反対して反乱を起こしたことに始ります。そして、イギリスからの独立を果たしたときに、どのような統治制度にするのかが問われたとき、最高指導者の在り方が問題になりました。それまでの国のように王を置くのがよいとされる意見もあったが、任期のある大統領制をとることになり、しかも初代の大統領は始めから2期しかしないと明言、その後アメリカの大統領はみな2期しかしていない、ただ、日本では民間人を大虐殺し戦争犯罪人の悪評な大統領、第二次世界大戦時のルーズベルト大統領は3期しているが、3期目は任期途中で急死している。これも、一人の指導者が永くその地位に就き権力を握ることは、独裁や汚職癒着につながるとことは望ましくないしたからです。
この項を読んでいるとそのアメリカも、紆余曲折しながら今日まであり続けています。今のアメリカ合衆国は、自由は守られてもその自由の恩恵を受けるのは、ほんの一握りの人で多くの人は貧困にあえいでいる今のアメリカを見ると考えさせられます。
戦後日本は戦争の荒廃から復興し、経済成長をし一億総中流という言葉が生まれる程、貧富の格差は縮小していました、しかし高度経済成長が終わりバブル系ぜいの崩壊により、貧富の格差が拡大して今は社会問題になっています。
アメリカでは2大政党政治が何とか機能し、共和党と民主党がお互いに政権を獲り争っています。日本も2大政党政治を目指し小選挙区制が導入されたが、2大政党が育たず、いま一強他弱の状態になってしまっています。一強他弱でも第一党が過半数を割るぐらいならよいですが、政党の暴走を許すほどになるのは問題でしょう。以前の中選挙区制ならここまで日本の政界は愚かにならなかったと思います。


文部省著作「民主主義」

第二章 民主主値の発達

三 アメリカにおける民主主義の発達

アメリカ大陸に最初に植民地を作ったヨーロッパ人は、スペイン人であった。スペイン人のアメリカに対する支配的な影響はずいぶん長く続いたが、その時代を通じて、この新スペインとよばれた新大陸には、民主主義のほんのかけらも一見いだされえない。それは、黄金をたずね求めて海を渡って行ったスペイン人が、原住民の労働の結実をしぼり取って、たゞひたすらにスペインを富ますための支配であった。新スペインの総督たちは、中世ヨーロッパの貴族と同じような絶対の権力を持ち、広い土地を領有して、そこに住む原住民たちを家畜のようにこさつかった。やがて、新大陸の生む無限の富の分けまえにあずかるために、フランス人が渡って来て、封建制度を打ち立てようとしたが、その試みは失敗に終った。つゞいて、オランダ人も同じようなことを試みたが、それはフランス人よりもなお成功しなかった。それは、白人による暴政と残虐の歴史であり、その犠牲となっだのは、原住民であった。 民主主義のほのかなあけぼのの光が、この新大陸の空にさしはじめたのは、イギリス人がこゝに植民地を作るようになってからのことである。
そのころ、イギリス本国で次第に有力な地位を占めるようになって来た商人や貿易業者は、新大陸の富源に着目しだんくとこゝへ渡って来た。そこには、かれらの期待した宝石や黄金はなかったけれども、地味豊かな広野があり、おののはいったことのない大森林があり、本国の産業のために必要な豊富な原料があった。こゝと本国との間に交易がひらかれれば、多くの職のない人々に職を与えうるという期待もあった。ヨーロッパでは、かねてイギリスとスペインとの間に勢力争いがあっだので、これに打ち勝とうとする強い愛国心もはたらいていた。更にまた、イギリス人の独立心や、自由、ことに信仰の自由を求める性格も、植民地の基礎を築くのに役立った。
これらの植民地の経営は、経営者の利益を目じるしとして営まれる私企業であったが、それがだんだんと大きくなって行くにつれて、貿易会社が設立されるようになった。貿易会社には、特定の地域の貿易を独占する権利が与えられ、かなりの程度にまで自由に事業を営むことを許された。しかし、植民地の統治権は本国の王ど議会の手中にあって、王はこれを治めるために代官を派遣した。こういう形で、イギリス人のアメリカでの植民地経営は、次第にその地歩を固めて行ったのである。
ところで、これらの植民地の経営をあやつっていた商人や貿易業者たちは、自分たちの利益を守るために、植民地にある程度の自治を許す方が都合がよいと考えた。なぜならば、そうしておけば、植民地経営のための費用も少なくてすむし、事業がうまく行かなかった時の損失もうちわになるからである。また、それによって移民たちを引き寄せ、植民事業を盛んにすることもできる。こういう動機によって、一六一九年に、ヴァージニア会社が、アメリカでの最初の代議制議会の設立を許した。そののち、利益のあからないことを怒ったイギリス王が、会社を解散してこれを王領に改めてからも、この議会はそのまゝ残った。
このヴァージニアの議会は二院制で、上院は総督と六人の参議員とから成り、すべて王によって任命され、それは植民地の実際の支配権を握っていた。これに対して、下院の方はヴァージニアの各地方区から選出されたふたりずつの代表者から成り、その力は弱いものではあったが、おおぜいの人々の利益を少数の支配者の権力から守るために、ある程度の役割を果たした。これが先例となって、アメリカの大西洋岸のイギリス植民地には、おいおいに代議制がしかれ、第十七世紀の末ごろには、各植民地が大同小異の人民議会を持つようになった。
このように、アメリカに民主主義が芽ばえたのは、最初は決して民衆のためを思う好意から出たことではなく、むしろ、支配者の利益を図ろうとする打算が動機となっていたのである。しかし、どのような動機から出たものにせよ、ひとたび民主主義の芽が出れば、それはあらゆる雪や霜の寒さともたゝかって、すくくと伸びて来る。
ことに、そのころアメリカに渡って行った移民の中には、イギリス本国での宗教上の圧迫からのがれて、信仰の自由を新大陸に求めた多くの清教徒たちがあった。かれらは、信仰の自由が政治上の自由と離れてはありえないことを確信し、強い信念と不屈の意志とをもって、不合理な伝統のない新天地に、理想の政治社会を建設して行こうとしたのである。中でも、「メイ=フラワー」という船に乗ってアメリカに移住したこれらの信徒の一団が、一六二〇年十一月十一日、はるかに新世界の陸影を望みながら、各人の意志と約束とによって自治的な政治組織を作り上げることを誓ったという事実は、のちのアメリカ独立の精神のさきがけどなった。本国の支配者たちが自分の利益のために種子をまいた民主主義の芽ばえは、こういう精神につちかわれて、だんだんと深く根を張って行ったのである。
このように、方々の植民地に民主主義が生長して行くにしたがって、それと本国の支配者たち、特にイギリス王との間に次第に激しい衝突が起るようになったことは、怪しむに足りない。植民地の人々が、自分たちの意志によって事業を経営し、生活を規律して行こうとするのに対して、支配者がこれを圧迫しようどした結果は、ついには武器によって自由を守ろうとするたゝかいとなって現われた。「われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ。」と叫んだパトリック=ヘンリーのことばは、これらの人々の、情熱にもえる理想をよく言い表わしている。
もちろん、それとならんで、植民地の人々の間にも、いろいろな対立があった。商人と農民との間にも争いがあり、都市と農村との間にも利害の対立があった。更に、各植民地相互の間にもねたみがあり、摩擦が起った。しかし、何にもまして、本国からの政治上および経済上の圧迫に対抗しなければならないという切実な気持が、対立するこれらの人々を結びつけ、各植民地を共同させて、これらを一つの戦線に統一した。かくして、独立のための大規模な戦争が起った。そうして、人々は、自分たちの立場を、民衆に対しても、また全世界に対しても明らかにするために、フィラデルフィアに代表者を送って、一つの声明書を起草することを託した。それが世界の歴史に名高い「独立宣言書」である。
一七七六年の独立宣言書に署名した人々は、決して植民地の全人民の代表者であったとはいえない。植民地の初期の住民の大部分は農民であるのに、これらの人々は、ほとんどすべて都市の出身者であり、法律家や商人が多かった。しかし、実際にこの宣言書を書いたトーマス=ジェファーソンは、農村の人々のために努力して来だ理想主義者であって、五十六人の署名者たちの大部分からさえ、むしろあまりに急進的であると考えられていたのである。それだけに、その文章には強い迫力がみなぎり、単にアメリカ建国の精神をよく言い表わしているばかりでなく、ひろく民主主義の理想を明らかにし、専制政治や独裁政治をあくまでも排斥しなければやまないという強烈な意志を表明して余すところがない。その中でも特に有名な部分には、次のように書いてある。
「われわれは、次に掲げる真理を自明のことと信ずる。すなわち、人間はすべて平等に造られ、造物主によって一定の譲り渡すことのできない権利を与えられている。その中には、生命、自由、および幸福を追求する権利が含まれている。政府は、これらの権利を保障するために人間の間に設けられたのであって、政府の持つ正当な権利は、被治者の同意を基礎としているのである。どんな形態の政府であっても、それがこれらの目的を破壊するようになった場合には、国民は、その政府を変革または廃止して、自分たちの安全と幸福とを実現するのに最も適していると考えられるような、そういう原理に立脚し、そういう形の権力組織を持つ新しい政府を樹立する権利を有する。」
このような理想を掲げて始められた独立戦争は、ついに植民地の勝利に帰した。アメリカ東部十三州は、イギリス本国の支配から完全に離れて、輝かしい独立をかちえた。中央政府の組織を定め、大統領、議会および最高裁判所の権限を明らかにしたところの憲法が制定された。そうして、長い困難な戦争を指導して、これを勝利の栄冠に導き、国の内外の尊敬を集めたジョージ=ワシントンが、新たに建設されたアメリカ合衆国の初代の大統領に選ばれた。
しかし、民主主義の根本原理を建国の精神として掲げたアメリカが、それだから最初から民主主義を高い程度に実現していたと思ったら、まちがいである。独立宣言書には民主主義の原理が高く示されていたけれども、できあがったアメリカ合衆国の政治が、ほんとうに民主主義的に運用されるようになるまでには、やはり、長い歳月と国民の大きな努力とが必要であった。そうして、その努力は、今日もなお絶えず続けられているのである。
アメリカの議会は、初めは、もっぱら財産のある人々によって組織されていた。それらの議員は、何よりもまず、自分たちの財産を守ることと、その商業を有利にひろげて行くこどとを欲した。かれらは民主主義を信用せず、むしろその成長を恐れた。そうして、政治の根本の目的は、財産を守り。特権を持つ人々の特権を維持するにあると考えた。ジェファーソンの書いた独立宣言書け、人問の平等と人権の擁護とを強調しているけれども、それはまだく、多くの人々から紙に書かれたことばであるど考えられていた。憲法は、「われら合衆国国民は」ということばで書き出されているけれども、憲法を作った人々がまず第一に考えたものは、決してすべての国民の利益ではなかった。選挙権は、初めのうちは国民のわずか八分の一にしか与えられていず、したがって、それは国民すべての意志を代表するものではなかった。これに対して、国民の間に、政治上の権力に参与する資格をあまねくひろめて行こうとする運動が起ったことは、もとよりいうまでもない。
これらの二つの動きは、やがて二つの政党によって代表されるようになった。一つは、有産階級の利益を代表し、財産家たちの特権を守るために中央政府の力を強めようとするもので、連邦党と呼ばれる。他の一つは、中央政府の力があまり強くなることを好まず、政治権力が少数の財産家の手に集中することに反対するもので、共和党と名づけられた。最初に共和党を指導したのはジェファーソンであったが、その勢力は時とともにだんくと強くなり、もはや連邦党の存続を許さないまでになった。そののちになって、今度は、共和党の中が二つの派に分かれるようになった。一方は、主として商業に利害関係を持つ人々から成り、共和党の中では中央集権を歓迎する傾きが強く、他方は、主として農業と西部辺境の発展とに関心を持つ人々で、各川の地方分権を支持する傾向かあった。そうして、第一の派が依然として共和党と称したのに対して、第二の派は民主党と名のった。これが成長して、今日のアメリカ政界を二つの分野に分かっている二大政党となったのである。
このような政治の動きとともに、選挙権の拡大が行われ、選挙資格として財産上の制限をつけることは、おいおい減少し、ついに、その制限の撤廃を見るにいたった。そうして、のちには、人種や性別による選挙権の差別もだんだんと取り除かれ、ほんとうの意味での国民の政治の実現へと近づいて
行った。これらの新しい有権者の大部分は、民主党に参加したので、民主党の勢力は次第に強くなり。さかのぼって、既に一八二八年の大統領選挙には、民主党の候補者たるアンドルー=ジャックソンの当選をみた。これは、民衆の力が政治の上に大きな影響を与えうることをはじめて明らかに示した意味で、アメリカの政治史上の新しい時期を画した出来事であったどいってよい。
民主党は、主として西部辺境に利害関係を有する人々によって支持されたが、この西部辺境は、大陸の開発かすゝむにつれて、だんだんと西方に向かって移動して行った。西部は、あらゆる失業問題や社会不安を解決する安全弁であり、ヨーロッパやその他の地方からあい次いで流れこんで来る多数の移住民をも吸収する希望の国であった。しかし、西部への発展の可能性も、決して無限ではありえない。やがて、西部への動きがとまり、アメリカは、更に新たに政
治と経済との関係を調整しなければならない時期を迎えた。
なぜならば、産業が興り、資本の集中が行われ、大規模な企業が発達して、財産のない人々の数が多くなり、失業者がたくさん出ても、西部の辺境にそれらの人々の働く場所があるうちはたいした問題はなかったが、辺境がそれまでのように、いくらでも仕事の場所を提供するというわけには行かなくなってみると、そういう社会問題は、改めてなんらかの政治上の革新によって解決されなければならなくなって来るからである。そこで、一八九〇年ごろから、なお残存している金権政治の弊害を除き、今まで以上にすゝんだ民主政治を行って、ひろく民衆の福利を増進することを目ざす革新主義の運動が起って来た。第一次世界大戦のころには、ウィルソン大統領が革新主義によって新しい政治を行い、第二次世界大戦の前には、ルーズヴェルト大統領によっていろいろな新政策が実施された。かくて、新しい国アメリカの民主主義は、絶えず発展して来た。今も発展しつゝあるし、これからも発展して行くであろう。ただ一つの目標に向かって、国民の、国民による、国民のための政治を完成して行くために。

次回は「フランスの民主主義」の発達です
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文部省著作教科書「民主主義」19


フランスの民主主義は、フランス革命に始まるとされますが、フランス革命で王政が倒されても、王政が復活したり。ナポレオンが王政を倒しても、自らが皇位につくなど、共和制に移行するのに紆余曲折しています。
民主主義を問う時に、主権がどこにあるかが論点でです。
「Nation 国民」か「People 人民」すなわち、フランス革命は、王ではなく、ブルジョワジーすなわち資本家層が政治参加に着いていくと、こんどは、その資本家層が、民衆層、無産階級の政治参加をするのを退けてゆき、金持ちだけが政治を操り、それによる特権を利用して自分たちだけの幸福を追求できるようにしていきます。
これらは、選挙制度をみればわかります。選挙の年齢制限や税金を収める金額制限や、男性だけにしか選挙権を認めなかったりしました。これは、アメリカも同じだし、日本の戦前の明治憲法もそうです。
しかし、労働運動や民衆運動が高まり、民主主義や平等思想が国民の間に浸透していくと、一般の民衆にも選挙権が与えられるのですが、そのためには永い時間がかかり、多くの血が流れることもありました。フランスやアメリカの憲法と民主主義は自分たちで血を流しながら、作り上げられたものです。
日本の憲法と民主主義は、GHQから与えられたものですが、戦後70年間自分達の血と肉となるよう、紆余曲折しながら今まで何とか保ってきていいます。それが、今否定されようとしてきているが、日本の若い人たちも年寄りも、それぞれの職に就いている人も、そのそれぞれの立場で考え、今の政治の流れを考えるようになりました。このことこそが、民主主義を本当に血と肉とする、機会になればよいと思います。この章を読んでそのことを考えていきたいと思います。


文部省著作教科書「民主主義」

第二章 民主主義の発達

四 フランスにおける民主主義の発達

終りに、ヨーロッパ大陸に民主主義の時代を迎え入れたフランス革命前後のありさまを、簡単に省革命の起る前のフランスには、専制君主を中心とする貴族および僧侶の特権階級があって、政治上の権力はその手に握られていた。これらの特権階級は、地方に大きな土地を有する大地主で、政治上の権力とともに社会の富をも独占していた。これに対して、地方の農民はもとよりのこと、都会で商業を営んでいた市民たちは、被支配階級として、その下に長いこと屈従していたのである。
しかし、商業や工業が発達して来るにつれて、市民の富もだんくど増加し、それだけその社会的な勢力も向上するようになった。そうして、政府の発する公債を引き受け、政府の事業をうけおって、国の財政をさゝえていたのも、これらの商人や銀行家であった。それなのに、支配階級はあいもかわらず、ぜいたくなくらしを続け、国の財政が傾くような状態になることを省みなかったばかりでなく、租税を免除されるという特権を持っていた。こういうありさまが長く続くはずはない。これに対する市民の不満がだんくと強くなり、次第に爆発点に近づいて行ったのは、自然の勢いであるといわなければならない。
そのころのフランスには、民主主義の思想が既にかなり発達していた。モンテスキューという学者は、一七四八年に「法の精神」という大著を著わして、専制的な権力の濫用によって国民が苦しめられることを防ぐためには、立法・行政・司法の三権を、別々の機関によって分立させるのがよいと説いた。また、スイス生まれではあるが、フランスで活躍した民主主義の思想家ルソーは、一七六二年に出版された名著「社会契約論」の中で、いかなる国でも主権は国民にあるのであるから、国民の総意によって作られた法律を、あらゆる政治の根本としなければならないと論じた。これらの思想がたんたんと知識階級の中に行きわたるにつれて、専制政治の不合理がいよいよ明らかに認められ、革命の機が熟して来たのである。
第十八世紀の終りごろになって、ますく財政の困難に悩んだブルボン王朝のルイ十六世は、一七八九年に、貴族・僧侶および市民をそれぞれ代表する三つの議院から成る等族会議をひらいて、これに財政難を切り抜ける方法をはかった。ところが、貴族および僧侶の代表者たちと市民の代表者たちの間に、たちまち大衝突が起り、市民の代表者を中心とする第三院は、独立して国民議会を組織し、その手によって、今までの専制主義の秩序の変革を断行することを声明するにいたった。大革命の幕は、こゝに切って落されたのである。
そこで、国民議会は、貴族や僧侶の持っていた特権を廃止することを議決すると同時に、その年のうちに有名な人権宣言を制定して、革命の根本原則を明らかにした。この宣言によれば、人間は生まれながらにして自由および平等の権利を有する。そうして、すべての政治組織は、人間が天から与えられたこれらの権利を、保護するために設けられているのである。したがって、政治組織を動かして行く権力の根源は国民に存しなければならない。言い換えれば、主権は常に国民にある。国民は、その総意によって法律を作り、国民の権利を保障するど同時に、社会にとって有害な行為を禁止する。
ゆえに、国民はすべて法律の前に平等であり、法律に反しない範囲内であらゆる自由を持だなければならない。各人は自由であるが、その自由は、他人の自由を侵すものであってはならないのである。人権宣言は、このような原則を確立して、新しい民主主義の時代のいしずえとした。だから、その精神は、「自由」と「平等」と「友愛」の三つに帰着するといわれる。
つゞいて、国民議会は、一七九一年に憲法を作り、人権宣言をその初めに掲げて民主政治の基礎とした。しかし、ものごとすべて、破壊はたやすいが、建設はむずかしい。フランス革命は、まもなく民主政の廃止というところにまですゝみ、前王ルイ十六世に死刑を宣告したが、一方には、革命に反対の勢力があり、他方には革命の不徹底をいきどおる急進派があって、国内の対立は激しくなるばかりであった。そこへ、ヨーロッパの諸外国の支配者たちは、フランス革命の影響が自分だもの国に及ぶことを恐れて、これに圧迫を加えたので、革命政府の前途はますく困難となって行った。その時、ナポレオンが現われ、無力となった革命政府を倒して独裁制をしき、一八〇四年には国民投票を行って皇帝となったのである。
その後まもなくナポレオンは没落して、ブルボン王朝のルイ十八世が王位につき、立憲君主制が行われるようになったが、これも長くは続かなかった。なぜならば、反動的な傾きの強い政府は、小市民階級を政治から締め出そうとしたので、これらの民衆の不満は強まるばかりであった。そこへ、近代工業の発達につれて、新たに広い労働者階級ができあがり、それらの人々もまた激しく政治に参加する権利を求めた。それらの新興政治勢力は、一八四八年に至って、いわゆる二月革命を起し、王政は倒れて共和政にもどった。
ところで、今度は、同じ革命勢力の中に、経済上有利な立場にある市民階級と、社会主義の色彩を強く持つ労働階級との争いが起り、労働階級は、社会主義の共和国を作り出そうとして同じ年の六月に革命を起したが、激しい市街戦ののちにやぶれた。それがいわゆる六月革命である。その間に、普通選挙による憲法議会が設けられ、一(四(年の憲法を作って、立法権を持つ国民議会と、行政権を有する大統領とに権力を分けた共和政の組織を定めた。しかも、六月革命は市民階級の心に社会主義に対する恐怖を植えつけたし、農民の間には、ナポレオン崇拝の気持が残っていたために、まもなく反動勢力が強くなって来て、ナポレオンのおいのルイ=ナポレオンが大統領となり、一八五二年には皇帝となって、ナポレオン三世ど称するにいたったのである。けれども、ナポレオン三世もまた、一八七〇年のドイツとの戦いにやぶれて失脚し、フランスはこゝに三たび共和政に立ち返った。
フランスは、そののちも、急進勢力と反動勢力との間に一進一退の争いが繰り返され、君主政への復帰を図る王党の力の方がむしろ強いくらいであった。しかし、王党の中にもいろくな派か分かれていたために、まとまりがつかず、結局、王政復古の運動はものにならないで終った。だから、フランスは、それ以来ずっと共和国として存続している。
これで見てもわかるように、フランスでは、君主政と共和政とが互に目のまわるように交替を続けて来た。そうしてそれとともに、民主主義と反動主義との間に激しい争いが繰り返された。バスチーユの牢獄破壊を発端とする大革命によって、専制政治を一挙にくつがえし、重い封建時代のとびらを押しあけて、近代民主主義の光をヨーロッパ大陸に導き入れたのは、フランス国民である。しかし、それからすぐあとでナポレオンの武勲を賛美し、ついにこれを皇帝にまでまつり上げたのも、同じフランス国民である。そこには、君主政にあこがれる保守党が根強い勢力を持ってぃたかと思うと、労働者の利益のために市街戦を繰り返す急進派もあるというふうであった。
これは、一方では、感情的なフランス国民性にもよるし、他方では、フランス人の強い愛国心の表われでもあって、そのために、フランス民主主義の歴史は、イギリスやアメリカについて見たように、一つの方向にだんだんと発展して行くというようなわけには行かず、行きつもどりつの経過をたどったのである。しかし、どんなに反動勢力が押さえようとしても、ついに押さえることのできない民主主義の力が、最後にはいつも歴史を導いてきたのである。
第二次世界大戦において、フランスはナチス-ドイツの攻撃を受け、ひとたびはその全本土をドイツ軍のために占領せられたが、連合軍の協力によってついに光栄ある自由を回復した。フランス国民は、この大きな試練を経て、民主主義に対する信念をいっそう深め、改めてそのゆるぎない基礎を確立する必要を痛感するにいたった。このような信念と必要に基づいて、一九四六年の九月に新しいフランス共和国憲法が憲法議会を通過し、同年十月十三日の国民投票によって確認せられたのは、まことに意味の深い事柄であるといわなければならない。
フランス共和国の新憲法は、一七八九年の人権宣言によって定められた基本的人権をおごそかに再確認し、共和国の標語が自由と平等と友愛とであることを改めて宣言し、共和国の根本原則が、国民のための、国民による、国民の政治であることを明言している。それと同時に、男女の完全な同権を保証し、各人が労働の義務と就職の権利とを持つことを約束している。そればかりでなく、労働者はだれでも、その代表者を通じて労働条件を団体的に取り決め、更にすゝんで、企業の経営に参加しうることを明らかにした。それらの点て、この新憲法は、フランス革命の精神をたゞ単に守り抜いているばかりでなく、その精神を新しい時代にふさわしく拡充しようとしているものであるということができる。
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安保法案、腐った法律

脳科学者の茂木健一郎さんが9月4日、安全保障法案に反対する学生グループ・SEALDsの国会前デモに参加し、故・忌野清志郎さんの替え歌を絶叫しました。



茂木健一郎4さんは、「清志郎さん、みてますかー?」と掛け声をかけて、フジテレビの生放送番組で歌って物議をかもした「忌野清志郎 エフエム東京罵倒ソング」の替え歌を歌った。

「安保法案、腐った法律
安保法案、ダメな法案
何でもかんでも強行採決さー

安保法案、腐った法律
安保法案、アメリカの言いなり
絶対廃案、安保法案

安保法案、こそこそすんじゃねえ
安保法案、いい加減に諦めろ
くだらねえ法律、安保法案

ええい、ざまあみろ
何が、『憲法違反かどうかわからない』って?
『学者が憲法違反だと決められない』って?
じゃあ誰が決めるんだ?
最高裁の元長官も『憲法違反だ』って言ってるぞ?
君たちよりも、よっぽど、そっちのほうが信用できるんじゃねえのかよ?

くだらねえ法律、安保法案
ざまあみやがれー

安保・反対、人間・賛成!
安保・反対、自由・賛成!
安保・反対、SEALDs・賛成!
安保・反対、平和・賛成!
安保・反対、民主主義・賛成!」

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再び自民党総裁選

自民党の七会派が、安倍晋三の総裁再選を支持する足内をそろえた。なぜ七会派すべてが安倍氏を押すのだろうか。過去の会派の考えなどを振り返ると、安倍氏と考えが違う会派もいるはずだが、それに対立する会派はいない。自民党はこうも劣化してしまったのかと思う。

しかも、党執行部は対立候補が立候補しにくいように、総裁選の実施時期を当初予想された日程より早めて、立候補に必要な国会議員の20人の推薦人を集める時間を難しく使用としているように思える。

読売新聞の社説は、「自民党総裁選無投票再選も前向きな選択肢」として評価しているが、国内外の厳しい状況を踏まえるなら、無駄な労力を使うのではなく、安保法成立に全力を使えというのである。それは、誠意ある安保法案の説明があってこそです。責任政党と言いながら丁寧な誠意ある説明をしないのは責任を果たしていると言えるだろうか。

安倍政治は、国会運営の強引な進め方と同様に、党の運営も国民の意見や思いではなく、自分の思いを強引に実現使用としてるとしか思えない。本当に正しいとの信念があるなら、正々堂々と対立候補が立てられるようにして、対立候補と論戦をすべきだ。
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どっこいどっこ

中国の天津での爆破事故の事故処理が終えず、行方不明者がまだ見つからず、その原因が未究明な状況です。天津の爆破事故後も中国で相次いで化学工場などの爆破事故が起きています。

中国政府はそのようななか、現場をエコパークとすることを発表しました。中国国民はそれに対して、行方不明者の発見と事後原因の究明を急ぐことを優先すべきと訴えています。
中国は共産党の一党独裁政治体制ですから、政府のいうことが絶対で、党中央の方針に沿って政治は進められます。天津爆破事故の反省と犠牲者の追悼を祈念し、爆破事故により化学物質の環境汚染も心配されるので、環境問題を考える施設として、エコパークを位置づけるようです。
その趣旨はよくわかるが、この大きな自己の原因究明が曖昧にされえはならないです、中国高速鉄道事故では、車両を穴を掘って埋めようとしました。それと同じような発想でしょうか、政府の行うことは正しいと強引に進められるのでしょうか、これからの中国の民主化がどう進むのかを窺うことができるでしょう。

中国の隣の国も今、政府が強引に平和のためだと押し進めよとしているものがあります。しかし、それに対し多くの学者が異論を唱え、多くの市民が反対しています。市民の声に一見耳を傾けているようなふりをして、国会でのその法案可決のために粛々と準備をすすている。また、リーダはテレビに頻繁にでて、その法案に対して分けの分らない説明をして、法案に理解を得ようとして、近々法案を数の力に頼って可決しようとしている。

これをみると、その中国の隣の国は民主主義国といいながら、一党独裁の中国の政治手法と五十歩百歩の違いしかないのだろうか。
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軍産学 政

レーダー、ロケット、コンピュータ、インターネット、電子レンジ、ボールペン、すぷれー、ナイロンなど。
これらは軍事目的で開発されたものです。
どれも私たちの生活に役立つものばかいりです。

しかし、軍事開発の研究は、採算を度外視して研究開発をする、その中には多くの失敗があるが、その失敗は表にでてこない、開発の不正もあるが秘密だから明らかになっていない可能性もある。民間企業の開発と違って、軍事研究は功利的や採算を度外しておこなわれる。今までにも人体実験も繰り返されている。軍事研究は秘密に関わる事が多いので、その研究成果は秘密にされ公にされない。

昔から軍学、軍産、軍政の共同研究は問題にされたが、いまや軍政産学の共同研究は加速しているようです。
わたしの高校・大学時代は産学の共同研究も、大学の自治と学問の自由が脅かされると反対され、また大学もそれを避けていました。軍との共同研究となると、戦前の反省と民主憲法のもと、大学と軍事とが結びつくことに反対し避けていました。また、日本学術会議は2回軍事研究はしないと決議していました。
2013年に施府は防衛計画大綱で大学や研究機関で開発された技術を防衛に積極的に使う方針を打ち出しました。それにより、国からの補助金が削減されるなか、資金不足に悩む大学や研究者は、自衛隊からの共同研究・技術交流の名の下に、資金援助を受けるところが増え、軍学の共同研究によりどのようなことが起きその責任はどのように取るのかを考えなくなってきているようです。

そのようななかにおいて、政府は軍と研究機関との共同研究を押し進め積極的平和主義に役立てるのだとだと叫んでいる。ますます、研究者が開発された技術の結果を事前に考えないようになってきているようです。

アメリカやロシアなどをみても、軍は国内外を問わずあらゆる研究機関が何を研究しているかを、調べ把握するのに勉めているようです。それはインターネットによるデータベースの蓄積や公開により外国のものでもたやすくなています。物理学や科学などなら戦争利用にされる恐れがある考えやすいが、一見軍事ととうてい関係が付かないと思われるようなもの、微生物研究や昆虫の研究や植物学なども戦争に利用できないかを調べているといいます。そしていつ何時軍事研究の誘いが来てもおかしくないようです。

軍事関連の研究は、秘密のベールに覆われているんので、それらの研究は公にされていたのが秘密にされたりします。そして、秘密ゆえに、不正と無駄を生み、市民生活に知らない間に進入し侵されて、いつ何時巻きもまれてしまうかもしれない。そのような事がないように、政府は軍との各界との共同研究は、公開することを原則にすべきだとおもう。それには、それらに携わる人の自覚と良識と勇気が必要だし、それを保障し押し進めるためのルールづくりが必要だろう。
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安倍晋三総裁再選と民主主義

安倍晋三の自民党総裁選が、無投票で決まってしまいました。
無投票で総裁が決まるのは、自民党が今考えていることを国民に理解してもらう必要があり、その一番の機会を自ら放棄するのはよくないと、野田聖子氏が、立候補に向けて推薦人確保に動いていましたが、推薦人20人集めることは困難だったようです。
また、野田氏立候補を阻止しようと、安倍周辺は周囲に推薦人にならないように圧力をかけ、野田氏自身への断念するよう働きかけたと言われています。
いま、党総裁に権力が集中し、意見が違う者は排除しようとする気風が強まっているようです。今までの自民党は、各派閥が足を引っ張るように見えるぐらい、各派閥の意見を戦わしいました。しかしもはやその風は吹いていないようです。

この事は、自民党の今後の在り方がますます、党内の独裁的体質を強めることにならないか心配です。この独裁的体質をもたらしたのは、小選挙区制といわれています。
小選挙区制は一つの選挙区から一人を選ぶ制度でが、それにより各党派一つの選挙区から一人の立候補者を出すことになます。そのため、党執行部の選挙人選が強くなり、自民党の党総裁の顔色を窺う議員が多くなってしまったようです。各党員の多様な意見が活発に交換されるのではなく、党中央すなわち総裁や執行部から、選挙への出馬に選ばれるようになり、自分の意見を言わない議員が増えてしまったとされています。
この、各自の個人的な考えより総裁や執行部の考えにならへは、見方によれば共産党より、中央集権的で全体主義てきです。この事が党内だけでの問題だったらよいですが、その雰囲気が日本の国全体に及んでしまうことが懸念されます。

今安保法が国会で審議されています、そして国民の間でも大きな関心がもたれています。しかし、その国民の中の意見をみていると、安保法に反対する人に対して、議論を戦わすのでなく、利己主義だとか非国民だとか売国者などと非難し、それを封じ込めようとする人がいます。この雰囲気が強まっ行くことは民主主義国家として、今後日本が歩んで行くのを危うく感じます。
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食料品の軽減税率

日経新聞によると、財務省は2017年4月に消費税率を10%に引き上げるさいに、酒を除く外食含む飲食料品が対象の2%の税額を、還付しその額の上限、年4000円超す水準で軸に検討にはいたそうです。

私は以前から、事業者は事務が煩雑に大変だが、食品と医療費は無税がよいと思っている。高級酒や首相が利用する料亭などはともかく、食料品は全額消費税を課さない方が、私はよいと思う。

まだ、全容が明らかになっていないが、高額所得者・低額所得者関係なく、一律無税にする。ただし、高級品は10%なりの税額をかける。医療費は所得や医療額に関係なく無税にすべきだ。


財務省はいろいろな方法を考えているようです。還付額の上限はすべての国民に対して年4000円か、それを超す還付額を考えているようです。4000円の場合、酒を除く飲食料品の購入額が年20万円程度の場合、負担軽減制度の適用を受けられる計算です。この場合、率からみると、高所得者ほど消費額は多い傾向があるので、低所得者の方が恩恵が大きくなる。
また、高所得者の還付額を制限することや、適用を受けられなくする所得制限は検討を検討してりうようです。しかし、この場合消費者が確定申告をする必要があるのではないか、そうなると、現実としていまも、高額所得者ほど確定申告をしてるが、低所得者で確定申告をしていない人も多い、つまり制度があっても実際に還付されるだろうか。また、領収書を全部確定申告の時に提出しないといけないことになる。
また、マイナンバーカードの利用も考えられているが、これでは、買い物の時に常時持っていないといけないし、家族のだれが買っても適用されるよう煮るには、システム的にも非常に混乱が予想される。また、国に国民の個々の人が、どのような食生活を送っているかが、把握されることになる。

しかし、複雑なシステムにすると、必ずその抜け穴からそれを悪用する人がでてくるだろう。公平の確実に軽減税率を導入するなら、複雑なことはしないで、一律無税が一番わかりやすいと思うがどうだろうか。

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二百二十日

台風j8号は、鬼怒川が決壊して、茨城常総市に大きな被害をもたらしました。被災された方には何とも言葉がでません。

今日9月11日は、立春から数えて220日目の二百二十日です。

このころは、台風がよく日本に来る時期で、農家の人から見ると厄日とされています。
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■竹林乃方丈庵の主から■

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記事へのコメント
  • アベ政治はクーデター
    雲と風 (07/18)
    勉強になりましたが、「安倍政権はクーデター」でしょうか? 権力と威嚇によるテロリズムだと思います。内閣府の中の一派が壊憲と日本の民主主義制度の堕落無力化を共謀し
  • 教育福祉などへの株式参入は
    竹林泉水 (07/12)
    なんでも自由競争になれば、サービスの質が向上すると考えるのは間違いで、鉄道などで見ると都市部はサービスが向上するが、過疎部では反対で最悪の場合は撤退になります。
  • 教育福祉などへの株式参入は
    アジシオ次郎 (07/10)
    おはようございます。

    教育や福祉に株式参入することは、教育や福祉をビジネスに利用しかねないし、アメリカ式の市場主義経済に基づく価値観を正当化しかねないです。た
  • 食べることは殺生をすること
    竹林泉水 (07/06)
    日本人は頂きます・ご馳走様と日本人なら誰でもいいますが、外国の方はどうなのでしょうか。キリスト教のクリスチャンなら食前食後の祈りがあります。
    私は中高とミッショ
  • 食べることは殺生をすること
    アジシオ次郎 (07/05)
    こんにちは。

    人間は生きる為に他の生物の命を奪わなければいけない。と言う「原罪」を背負っている以上、食べると言うことはそうなのかも知れないです。動物の命を奪い
  • しあわせ
    竹林泉水 (06/27)
    そうですね、国会はもっと開かれたほうがよいでしょうが、選挙があるので地元の支持を集めるためと、情報集めなどのためにそれぐらいしかないのでしょう。
    >「立法府の
  • しあわせ
    風と雲 (06/26)
    何故?国会は一年の半分以下しか開催されないのでしょうか。国内外に毎日大きな動きのある現代に於いては、さまざまな問題を国民の前に提示し、議論を深め理解を求め、国民
  • 森友・加計問題を見ると、今の日本は法治国家だろうか
    竹林泉水 (06/20)
    まずは自分を正当化して自画自賛をしてさらには、「印象操作のような議論に対して、つい、強い口調で反論してしまう。そうした私の姿勢が、結果として、政策論争以外の話を
  • 森友・加計問題を見ると、今の日本は法治国家だろうか
    風と雲 (06/18)
    >自分が思うことは法を飛び越えてでも粛々と進める安倍政権・・

    飛び越えてではなく、→ 潜り込み裏をかき開き直って、鉄面皮と二枚舌で、 と言うのが最近の安倍政権
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