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民主主義 文部省教科書 11

民主主義 文部省教科書
第十七章 民主主義のもたらすもの
五 討論と実行

民主主義の理想は、人間が人間たるにふさわしい生きがいのある生活を営み、お互の協力によって経済の繁栄と文化の興隆を図り、その豊かなみのりをすべての個人によって平和に分かちあうことができるような世の中を築いていくにある。ある一つの国が、与えられた歴史的な条件の下で、どうすればこの理想の実現に向かって一歩でも近づいていけるかは、何よりもまず、その国の政治によって解決されるべき問題である。その方針は、国により事情によって種々さまぐであるが、いかなる方針を採用する場合にも、それを決定するものは国民の多数の意志でなければならない。国民のための政治は、国民自らの力によって発見されなければならない。国民の意志で決めた政治の方針は、ときにはまちがうこどがあるであろう。しかし、政治の決定権が国民の手にあるかぎり、更に国民の意志によって政治の誤りを是正していくことができる。民主主義の理想に一歩一歩と近づいていく道は、それであり、それ以外にはない。
これが、今まであらゆる角度から見てきた、民主主義の根本の態度である。しかし、これに対して、人は不幸にしてなんべんとなく疑いを新たにする。すなわち、そのように、やりそこなってはまたやりなおして、漸進的に理想に近づいていこうとする政治の方針は、なんべんでもやりなおしをしているたけの余裕のある国、余裕のある時代の話である。そんなのんきなことをしている余地のない、せっぱつまった状態では、すみやかにたゞ一つのいちばんよい方針、または、たゞ一つの絶対的な進路を見つけて、国民全部の力をその一筋の道に集中していくほかはないのではないか。それには、あちらになびき、こちらに動く、そのときぐの国民の多数意志で政治の方向を決めていくのではだめなのであって、やはり、少数の賢明な人々に全権をまかせるのがよいのではないか。あるいは、歴史の必然的な法則にしたがって、わき目もふらずに直進することにならざるを得ないのではないか。人は、そのように疑う。そうして、そういう疑いをいだくところに、ふたゝびみたび、独裁主義への誘惑が忍びこむ。
ことに、日本の現状は、そういう疑いをいだくのにつごうのよいような材料がたくさんある。敗戦と戦災とは、日本の産業に大打撃を与えた。その結果として、日本の経済ははなはだしい窮乏状態に陥っている。そこからくる社会の不安は、やゝもすれば議会政治に対する不信の気持を強め、この本で説明してきたような民主主義では日本は救えないのではないかどいう疑問をいだかせる。過激な政治の方針を実行しようとする一部の人々は、そこをねらって、ますく社会不安を増大させるような運動を展開し、危機が迫りつゝあるという宣伝を行い、自分たちの方針についてくる以外に、日本民族の生きていく道はないと思いこませようとする。そうして、国民を、あらゆる分野での闘争にかり立てていこうとする。
なるほど、今日の日本は、実に苦しい、実にむずかしい立場におかれている。こういう状態では、どのような政治の方針によるべきかについて、国民の間に激しい意見の対立が生ずることも、ある点まではやむをえない。
しかし、その中のどの意見といえども、それだけが絶対に正しく、それ以外の意見はすべて絶対にまちかってぃるといいきる権利はない。なぜならば、人間の考えることには、どうしても誤りがありうる。それなのに、自分たちの方針たけが絶対に正しいと信ずる人々は、ひとたび政治の実権をにぎってしまえば、国民をその一つの方針で引っぱってぃくだけで、それに対する批判や反対を許そうとしない。したがって、その方針がまちかっていた場合にも、その誤りを是正することができなくなってしまうからである。そればかりでなく、一つの立場を絶対のものとし、他の立場を絶対に許すまいとすれば、違った意見と意見との間に、妥協の余地のない闘争が行われることにならざるを得ない。国民の生活が一日もゆるがせにできない困難な状態にあるとき、その上うな闘争を激化させることは、自ら求めて、困難を克服する機会を永久に失うゆえんである。だから、意見の対立も、対立する意見の間の争いも、国民が協同の力を発揮して困難に打ち勝つための討論の範囲を越えてはならない。それが、民主義の規律である。

日本の前途に幾多の大きな困難が横だわっていることは、だれの目にも明らかである。それに打ち勝つためにどうすればよいかについて、国民が真剣に討論しようとするのは、当然のことである。けれども、近代国家としての歴史が短く、民主主義の社会生活の経験に乏しい日本国民にとっては、討論が机の上の討論としてからまわりをしてしまう場合が少なくない。たとえば、人々はよく資本主義の弊害を論ずるが、今日の先進資本主義の国々は、資本主義の制度の根本は変えないで、経済の民主化をはかるために、さまざまなくふうをしている。またある国々では、急激な変革を避けつゝ、資本主義と社会主義のそれぐの長所を採った政策が実行されている。大資本に対する中小商工業の立場を守るために、きわめてよく組織された協同組合を発達させたり、大規模な消費組合を作って、消費者の利益をはかったりすることも、行われている。日本では、まだ、そういう経験があまりない。だから、今日の日本としては、いたずらに議論をたゝかわせているよりも、それらの諸外国の実例や経験をよく研究して、それを日本に適合するようなしかたで実行してみる方が早道であるどいえる。議論もたいせつだが、実行してみたうえでの議論の方がもっど効果がある。日本国民のうえに、大きな苦難がのしかゝつていることはたしかだが、その苦難は、それらの建設的な試みを実行してみることを許さぬほどの、絶対にどうすることもできぬ苦難ではない。
かくて、日本の将来の希望は、かゝつて、今まで人類の経てきたいろくな経験を生かして、討論しつゝ実行し、実行しつゝ討論する、国民すべての自主的な意志と努力とのうえに輝いている。議論するのもよい。が、まず働こう。やってみよう。日本人が日本を見捨てないかぎり、世界は日本を見捨てはしない。民主主義の理想は遠い。しかし、そこへいたるための道が開かれうるか否かは、われわれが一致協力してその道を切り開くか否かにかゝつている。意志のあるところには、道がある。国民みんなの意志でその道を求め、国民みんなの力でその道を開き、民主主義の約束する国民みんなの安全と幸福と繁栄とを築き上げていこうではないか。



この「民主主義」の教科書はこれで上下おわりです。
この、最後の討論と実行は、若い人には想像力をもって、終戦のころの日本はどのような状態にあったかを読んで欲しい。また、このころと今の資本主義のありかたが大きく変わってきている、65年程前は、日本は無論そうであるが、世界が戦争により経済の混乱に疲弊し、また、世界大戦が終り新平和の世界での経済活動に希望を持っていたといえる。しかし、いまは経済はグローバル化し多国籍企業の活動が、ゆやもすれば現地工場の労働者を酷使していたりする。また経済的格差が広がり、ごく一部の富裕層が豊かになり、貧困にあえいでいる人はそこから脱け出せないでいる。経済は物を作ることより金融でいかに利益を上げるかになってしまっている。投資家は会社で働く人のことより、自分の株などの配当を貪っることに、一喜一憂しています。そのことを見ると、この「民主主義」の文部省が書いた教科書を読むと、そのことがいかに愚かしく民主主義に反し、それがとどのつまりは自分に降り返ってきたとき、取り返しのつかないことになるかを、考えさせられます。
今の政権は、自分たちを批判するマスコミは「こらしめないといけない」とか、自分たちは「大局を見て」やっているのだとか、「私が責任者だ」とか、「いましかない」などと、国民を煽っています。
そして、国会の質疑では質問に正面から答えようとせず、争点をずらしたりしています。これは、民主主義は反対の意見位対して、討論を行うことに対して逃げているとしか言いようがないです。
この教科書が65年以上前に書かれたのに、新鮮に感じるのは日本の政治がそれだけ成長していないか、劣化しているからなのでしょうか。
ただいえることは、議論しあいながら、「国民みんなの意志でその道を求め、国民みんなの力でその道を開き、民主主義の約束する国民みんなの安全と幸福と繁栄とを築き上げていくこと」だと思います。
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一枚の写真と一枚の自画像

戦後70年経って宮内庁は初めて、終戦の詔書を読み上げ、レコードに録音したものが放送され、国民に終戦を告げた「玉音放送」と言われています。そのレコード盤の原版が、戦後70年経って宮内庁は初めて公開しました。今まで国民は。天皇の姿は愚か、声を聞くことなどありえなかったので、大変なことだったと思います。
また、ポツダム宣言により、マッカーサが東京の第一生命ビルに、拠点を置いたのち、昭和天皇が連合軍総司令官のマッカーサーを訪問したときの写真でがあります。「マッカーサーと昭和天皇の写真」です。わたしがこの写真を見たのは、小学校低学年の教科書か何かとおもう。そのとき、軍の平服で両手を腰にあてなんていばった態度のマッカーサーとその横でモーニング姿でちょこんと立っている見窄らしい昭和天皇の写真だと思った。そしてなぜこのような写真を公開しているのかと思った。日本人として恥ずかしく思ったものです。
戦前は天皇は現人神として、神聖にして侵すべからずものとされいた。しかし、ポツダム宣言受諾により、民主国家としての道を歩むにおいて、天皇は人間宣言をしたのです。アメリカは勝者、日本は敗者だということ。また、天皇は一人の人間であることを、決定的に印象づけるためにもでした。
私は決して国粋的な考えでないし、皇国史観をよきものと思っていないし、右翼主義者でもない。しかし今に思うに、この写真をみて惨めさを感じ得ないです。

戦国の武将で戦乱の日本を統一した徳川家康は、若いころに血気に逸って、自国の領土を横切る武田軍に、立ち向かってしまった。そのころ、武田軍は最強であり、徳川軍は弱小で、周りの臣下も武田軍に戦いを挑むことを諫めた。しかし、家康は武田軍に向かって、突撃してしまたが、さんざんに討ちのめさせられ、家康は必死の敗走をしてしまう。そのとき、家康はあまりにもの恐ろしさにより、馬上で脱糞してしまった。このとき、城に帰った家康が一番最初にしたことは、絵師を呼んで今の自分の姿を描かすことでした。血気逸って、二度と過ちを犯さない、戒めにしたと言われています。有名な「徳川家康三方ケ原戦役画像」です。

戦前が日本と米国の国力は、十分の一ほどあったといわれています。武田軍と徳川軍以上のひらきがあったでしょう。当時の郡部はそのアメリカに、後ろからポカント殴ったのです。そしてその結果、二つの原爆を落とされ、国内の主要都市は焦土と化し、軍人民間人をあわせて350万人以上が戦死させられたといいます。
いま、政権は再び日本を戦争ができる国にしようとしています。それが、国際社会の中での責任を果たすことになると言っています。しかしその、言葉の表面だけを聞いていると。なんかいい言葉に聞こえますが、その言葉の意味をよく考えてみると、わからない意味不明、意味不明瞭な言葉ばかりです。

今の与党は、国会議員の数に驕って、血気にあふれているのでしょうか、国民の声に耳を貸さず、自分の主張を無理矢理に通そうとしています。また、自民党議員の国会外での言葉を聞いていると、今の政権以外を否定し、自分たちと違う考えや意見の発言を、封じ込めようとする発言が目に付きます。全く代議員としての自覚が無いように思う、そのような人ばかりの国会になると、再び日本が誤った道に、突き進んでしまわないかと思う。

二度と、天皇陛下がマッカーサーを訪問したときのような写真は、二度と見たくないです。しかし、このまま突き進めば、二枚目の写真ができなくないように思えてしまいます。
是非ともそのようなことが、起きないようにすべきです。

この二つの写真は、みなよく知っているので、ここに表示しませんが、ネット上にある写真のリンクを貼っておきます。

昭和天皇がマッカーサーを訪問したときの写真
http://blog-imgs-66.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/2014042819301986a.jpg


徳川家康三方ケ原戦役画像
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Mikatagaharasenekizou.jpg/200px-Mikatagaharasenekizou.jpg

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戦争を知らない政治家たち

1970年に、ジローズが「戦争を知らない子供たち」歌って、ヒットした曲がありあす。
詞は北山修、作曲は杉田二郎です。
この曲の替え歌があります。

題して「戦争が大好き安倍晋三内閣」



7月16日に紹介した、こちらも面白いです、[ヒトラー最期の日]の映画のパロディーです。
「総統閣下は、「安保法制」審議にお怒りのようです」
http://tikurinnnohoujyoann.blog.fc2.com/blog-entry-2307.html


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民主主義 文部省 目ざめた有権者 1

1948年に文部省が作った教科書「民主主義」を、読んでこのブログで紹介している、しかし、順番は飛び飛びでまちまちです。
今までは、民主主義とは何か、またその大切さを読んできた。

今回は、日本の民主主義は間接民主主義である。その代表者を選ぶにおいて大切なことは何かを考えてみたい。いま、若者の選挙離れが問題になっている。しかし来年は、参議院の国政選挙がおこなわれ、その選挙は今まで選挙権がなかったが高校生が、法律の改正により18歳に引き下げられた。ぜひとも今から65年以上前に書かれた文であるが、ここに書かれている内容はその新鮮さを保ち続けているといえる。多くの中高生に民主主義とはなにか、選挙とは何かを考える機会になればと思う。

民主主義 文部省編纂
第六章 目ざめた有権者

民主主義と世論

民主主義は、単なる政治の形をさすものでもなければ、古い政治組織を進歩したしくみに改めることたけを意味するものでもない。それは、もっともっと大きな事柄を意味している。真の民主主義とは、われわれが日常生活を送るその方法なのである。世の中には、人間の個人としての力ではどうすることもできないいろくな事柄かある。そのように、個人個人の努力では到底実現できない仕事を、国民のお互の協力によって達成しうる方法が、民主主義であり、民主政治なのである。
民主国家では、すべての政治の源は国民の意志にある。言い換えれば、主権は国民に存する。しかし、国民がみんなで朝から晩まで政治のこどを考えているわけには行かないから、白分たちに代わって政治を行ってくれる代表者を選ぶことになっている。これは、前に述べた通りである。そこで選挙民は、村長・市長・知事・市会議員・国会議員などのような代表者を、自分たちの中から選び出すことになる。これらの代表者が、国民の支持と協力とを基礎として、国民の個個別々の力では実行しえないようなたいせつな事業、たとえば、学校を作ったり、道路を開いたり、水利を図ったり、疫病や火災や犯罪を防止したりするような仕事を行うのである。だから、国民の代表者は、国民の大多数が何を求めているか、国民にとって何か一番たいせつであるかをつかむことに、絶えず努力して行かなければならない。
ところで、国民の数は非常に多い。だから、国民のひとりひとりが何を考え、何を望んでいるかを、いちく聞いて歩くわけには行かない。といって、国民の代表者が一部の人々の意見だけを聞いて、それで政治のやり方を決めるというのは、きわめて危険である。そこで、国民は、広く一般に知れわたるようなしかたで、その希望や意見を言い表わそうと努める。政治を行う代表者たちは、そういうふうにして表明された国民の気持を公平に判断し、できるたけ国民の意志にかなうように、実際の政策を決めて行かねばならない。このように、世の中の注目をひいている問題について、たとえば新聞やラジオへの投書とか、雑誌や書物への寄稿とか、国民大会その他の会議での発言とかいう方法によって、一般的なしかたで表明された国民の声を、世論という。

 今日の社会には世論を伝える道筋がいろいろと発達している。自分で新聞や雑誌に書いたり、講演をしたり、ラジオの街頭録音に出かけて行って意見を述べたりしないでも、ある問題について論じている雑誌がどのくらい売れたか、ある人の講演にどんな人々が集まり、どれだけ熱心に拍手したか、どんな映画や芝居が人気があるか、というようなことを通じても、ある程度まで世論を知ることができる。それは、国民に対して、現在どういうことが問題となり、どんな点に関心が持たれているかをらせる道であると同時に、国民の代表者たちに世論の傾向を判断させる有力な材料ともなるのである。
しかし、新聞や雑誌やラジオや講演会などは、用い方のいかんによっては、世論を正しく伝える代わりに、ありもしない世論をあるように作り上げたり、ある一つの立場たけに有利なように世論を曲げて行ったりする非常に有力な手段どもなりうる。もしも、自分たちだけの利益を図り、社会の利益を省みない少数の人々が、巨額の金を投じて新聞や雑誌を買収し、一方的な意見や、ありもしない事実を書き立てさせるならば、国民大衆が実際には反対である事柄を、あたかもそれを欲しているように見せかけることができる。そうして、国民の代表者がそれにだまされるだけでなく、国民白身すらもが、いつのまにかそれをそうたど思いこんでしまうこともまれではない。人々は、その場合、「宣伝」に乗せられているのである。
報道機関を通じて行われる宣伝は、何も悪い働きだけをするわけではない。偽らない事実、国民が知らなければならない事柄を、新聞やラジオや講演会によって広く国民に伝えるのは、ぜひしなければならない宣伝である。そういう正確な事実や情報を基礎にして、良識のある国民が、これはこうでなければならないと判断したことが、ほんとうの世論なのである。しかし、宣伝は、悪用されると、とんでもない方向に向かって、国民の判断を誤らせるこどになる。小人数だけの計画しているこどが、金と組織の力を通じて議会を動かし、国民に大きな不利益をもたらすような法律を制定させてしまうこともありうる。
だから、宣伝の正体をよくつかみ、それがほんものであるか、にせものであるかを明らかに識別することは、民主国家の国民にとっての非常にたいせつな心がけであるといわねばならない。


この本が書かれた当時と、宣伝技術は格段に巧妙になってきているし、テレビの本放送が始まったのはこの後です。いまは、インターネットが普及し携帯電やスマートホンなどで、情報の洪水と言ってもよいほどです。この後の五に書かれている、報道に対する科学的考察が大切になってきます。
いま、国会で重要な法案などが審議されています。それは、安全保障に関連することばかりでなく、岩盤規制にドリルで穴をあけるといっています。それは、さまざまな規制が緩和されたり、その規制が無力化されたりしています。なぜその規制があるかを考えなくてはなりません。権力や特権や利権を持っている人たちがますますその特権や利権が拡大するのを防ぐためのものか。それとも弱い人の立場を守るためのものかを見極めて、その規制のある善し悪しを見ていかないといけないです。それは労働者派遣法のように、過労死する労働者を増やすような法律であってはならないです。
また、安保法案が国会で審議されているなか、国民も日本の国を守る自衛権のことについて関心がたかまっています。街の本やさんにいくと、それらに関する本が、賛成の意見でまた、反対の意見で書かれた本が、高く積まれています。
わたしたち国民が政治を動かすのですから、今国会で審議されていることに関する本や、テレビやインターネットや新聞などで、多様な意見を読み聞き分析し、自分たちの考えも直接行動にでたり、インターネットなどで表明して行くことは大切になってきちいます。
いま、改めてこの文部省の教科書「民主主義」を読むことは、民主主義を考えるうえで、今の政治のゆくえを考える上で、非常に参考になるものです。ぜひ多くの人がこの本を手に取って読んでもらいたいものです。

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民主主義 文部省 宣伝とはどんなものか

今日は二つの項を紹介してみます。この 「ニ、宣伝とはどんなものか 三、宣伝によって国民をあざむく方法」 を読んでみると、なにか思いませんか。今の政権が行なっていることと合致する所がいかに多いかと、私は感じてしまします。その私は、反政権側に毒されてしまっているから、そう感じるのでしょうか。これを読まれた方はどう思うでしょうか。わたしがかなりおかしいのでしょうか。



民主主義 文部省編纂
第六章一目ざめた有権者

 ニ 宣伝とはどんなものか

宣伝のことをプロパガンダという。プロパガンダということばが初めて用いられたのは、一六二二年であった。それは、ローマ法王の作った神学校の名まえで、キリスト教の信仰を異教徒に伝えひろめるために、世界に送り出さるべき青年たちを、そこで教育した。それ以来、それが、組織的な宣伝を行う技術の名称となったのである。
しかし、人類が宣伝を行ったのは、もっとずっと古い時代からのことである。昔の日本でも、大名同士が戦った時、軍事上の作戦を有利に展開するために、耳から耳へ伝える私語宣伝が行われた。た
とえば、人民たちに強い敵対心を植えつけるために、敵を惨酷、非道なもののように言いふらしたり、大義名分は自分の方にあると思いこませる手だてが行われた。
このように、昔は、耳から耳へのことばによる宣伝がほとんど唯一の方法であったが、第十五世紀に印刷術が発明されてからは、文書による宣伝が長足の進歩をとげた。特に第十九世紀にはいってから、世界の国々での教育の普及はめざましく、字の読める人の数が一躍増加し、広い読者を目当てにする新聞や雑誌などの印刷物が非常に多く刊行され、それを通じて宣伝がきわめて有力に行われるようになった。たから、印刷機械の進歩と一般教育の普及とは、宣伝技術を発達させる最も大きな要素となったといってよい。

    無題

ひろい意味でいえば、宣伝とは、ある事実や思想を、文書やラジオや講演などを通じて大衆に知らせる方法である。たから、一つの目的をもっておゝぜいの人々を感化し、大衆をそれにかなったような行動に導くための報道は、すべて宣伝であるといってよい。しかし、前にも言ったように、宣伝はきわめてしばく悪用される。そういう悪い意味での宣伝どは、利己的な目的をわざと隠して、都合のよいことたけをおゝぜいの人々に伝え、それによって自分たちの目的を実現するための手段なのである。
たとえば、ある種の雑誌や新聞がある政党と特別の関係を持っているとする。それらの雑誌や新聞がその党から金を出してもらっているという事実を隠して、この党の主張に有利なような論説や記事を載せるとする。その場合、それらの新聞雑誌はこの党の宣伝の道具になっているのである。その外、おかゝえの弁士が大衆の考えを変えさせるために派遣されることもある。多くの資金を投じて映画や芝居や小説を作らせ、それを見、それを読む国民が、知らず知らずのうちに一つの考えだけをほんとうだと思いこんでしまうこともある。
日本国民に大きな悲劇をもたらしたあの太平洋戦争でも、政府や軍部が権力と金とをつかって宣伝したために、初めは戦争をしたくないと思っていた人々も、だんだんと戦争をしなければならないという気持になり、戦争に協力するのが国民の務めだと信ずるにいたった。実際には負け続けてばかりいたのに、まことしやかな大本営発表などというものにあざむかれて、勝ちいくさだと思いこんでしまった。戦争がすんで、これほどまでにだまされていたのかとわかっても、あとの祭であった。宣伝の力の恐ろしさは、日本国民が骨身にしみるほどに知ったはずである。
民主主義世の中になって、議会政治が発達すると、政党が重大な役割を演ずるようになる。政党人の多くは真剣であり、経済の再建や、産業の復興や、社会の改革のためにいろいろと考え、それに役立つような計画を立てているに相違ない。しかし、また、なるべく多くの当選者を出すために、そうして自分たちの政策通りの立法を行い、政府の実権を握るために、パンフレットを出したり、党の大会や演説会を開いたり、ラジオによって国民に呼びかけたり、さまぐな活動をすることも、事実である。その中には、正々堂々たる宣伝もあるが、隠れた目的のための宣伝がまざっていることもある。そうなると、一般の有権者は、どれを信じてよいかわからなくなり、途方にくれ、健全な判断力を失い、まちがった主張を支持することになりやすい。それを冷静に判断しうるのが「目ざめた有権者」である。理想的な民主主義の国を築くためには、選挙に加わる国民のすべてが目ざめた有権者にならなければならない。
そこで、たくみな宣伝によって国民がどんなふうにだまされるかを、もう少し立ち入って考察してみることにしよう。


三 宣伝によって国民をあざむく方法

これは政治ではないが、商品の広告も宣伝の一種である。産業革命以来、商業か盛んになり、広告も非常に進歩した。じょうずに広告をするのとしないのとでは、比較にならない違いがある。どんなよい品を作っても、広告をしなければ売れない。悪い品物でも、きかない薬でも、うまく広告すると、飛ぶように売れる。そこで、広告のしかたを研究する専門家があったり、広告ふ旦伝を引き受ける業者ができたりするようになった。広告を信用して、どんでもないものをつかませられる場合があることはたれでも知っている。それにも、かゝわらず、きれいな絵や、好奇心をそゝることばなどに乗せられて、ついまた買う気になる。政治の宣伝も、それと同じようなものだ。
せん動政治家、特にせん動的共産主義者が決まって目をつけるのは、いつもふみにじられて、世の中に不平を持っている階級である。こういう階級の人たちは、言いたい不満を山ほど持っている。しかし、訴えるところもないし、自分たちには人を動かす力もない。それで、しかたなく黙っている。せん動政治家は、そこをねらって、その人たちの言いたいことを大声で叫ぶ。その人気を取る。もっともらしい公式論をふりまわして、こうすれば富の分配も公平に行き、細民階級の地位も向上するように思いこませる。自分をかつぎ出してくれれば、こうもする、あゝもできると約束する。不満が爆発して動乱が起っても、それはかれらの思うつぼである。そこを利用して政権にありつく。公約を無視してかってな政治をする。結局、一番犠牲になるのは、政治の裏面を見抜くことのできなかった民衆なのである。
せん動政治家が民衆をせん動することを、英語でデマゴジーという。日本では、略してデマという。日本語でデマを飛ばすといえば、いい加減な、でたらめなことを言いふらすという意味である。デマがデマだとわかっていれば、弊害はない。まことしやかなデマには、よほどしっかりしていないと、たいていの人は乗せられる。自分に有利なデマ、相手に不利なデマ、それが入り乱れて飛び、人々はそれを信ずるようになってしまう。
これをもう少し分析してみると、宣伝屋が民衆をあざむく方法には、次のような種類があるといいうるだろう。
第一に、宣伝屋は、競争相手やじゃまな勢力を追い払うために、それを悪名をもってよび、民衆にそれに対する反感を起させようとする。保守的反動主義者。右翼・ファッショ・国賊・左翼・赤・共産主義者など、いろいろな名称が利用される。今までの日本では、自由な考えを持った進歩的な人々が、「あれは赤だ」という一言で失脚させられた。民主主義がはやり出すと、「あれは反動主義者だ」と言って、穏健な考えの人々を葬ろうとするだろう。それに、あることないこと、取りまぜて言えば、いっそう効果があるに相違ない。
次は、それとは逆に、自分の立場にりっぱな看板をかゝげ、自分のいうことに美しい着物を着せるという手である。真理・自由・正義・民主主義などということばは、そういう看板には打ってつけである。しかし、ひつじの皮を着たおゝかみを仲問だと思いこんたひつじたちは、やすやすとおゝかみのえじきになってしまうだろう。
三番めは、自分たちのかつぎ上げようとする人物や、自分たちのやろうとする計画を、かねてから国民の尊敬しているものと結びつけて、民衆にその人物を偉い人だと思わせ、その計画をりっぱなものだと信じさせるやり方である。たとえばドイツ国民には、民族というものを大変に尊く思う気持があった。ナチス党は、そこを利用して、ヒトラーはドイツ民族の意志を示すことのできる唯一の人物であるように言いふらした。また、日本人には、昔から天皇をありかたいと思う気持がある。戦争を計画した連中は、そこをつかって、天皇の実際の考えがどうであったかにかゝわらず、自分たちの計画通りにことを運ぶのが天皇のお心にかなうところだと宣伝した。そうして、赤い紙の召集令状を「天皇のお召し」だど言って、国民をいやおうなしに戦場に送った。
四番めには、町の人気を集めるために、民衆の気に入るような記本を書き、人々が感心するような写真を新聞などに出すという手もある。たとえば、ふだんはりっぱな官邸に住んで、ぜいたくな生活をしている独裁者でも、労働者と同じように、スコップで土を掘っている映画を見せれば、人々はその独裁者を自分たちの味方たと思う。総理大臣が自動車で遠い郊外にでかけて、貧しい村の入口でうまに乗り替え、農家を訪問して慰労のことばを語っている写真を出せば、人々は、忙がしい大臣が自動車にも乗らずに民情を視察しているのだと思って感心する。
五番めは、真実とうそをじょうずに織りまぜる方法である。いかなる宣伝も、うそだけではおそかれ速かれ国民に感づかれてしまう。そこで、ほんとうのことを言って人をひきつけ、自分の話を信用させておいて、だんくとうそまでほんとうだと思わせることに成功する。あるいは、ほんとうの事実でも、その一つの点だけを取り出して示すと、言い表わし方次第では、まるで逆の印象を人々に与えることもできる。その一例として、次のようなおもしろい話がある。
印度洋を航海するある賃物船で、船長ど一等運転士とが一日交替で船橋の指揮にあたり、当番の日の航海日誌を書くことになっていた。船長はまじめ一方の人物だが、一等運転士の方は老練な船乗りで、暇さえあれば酒を飲むことを楽しみにしていたために、二人の仲はよくなかった。ある日、船長が船橋に立っていると、一等運転士が酔っぱらって、ウイスキイのあきびんを甲板の上にころがしているのが目にっいた。船長は、それをにがくしく思ったので、その晩航海日誌を書く時に、そのことも記入しておいた。翌日、一等運転士が任務についてその日誌を読み、まっかに怒って、船長に抗議を申しこんだ。
「非番の時には、われわれは好きなことをしてよいはずです。私は、任務につきながら酒を飲んだのではありません。この日誌を会社の社長が読んだら、私のことをなんと思いますか。」
「それは私も知っています。」ど船長は静かに答えた。「しかし、君がきのう酔っぱらっていたことにほまちがいはない。私は、たゞその事実を書いただけです。」
内心の不満を押さえて任務に服した一等運転士は、その晩の航海日誌に、きょう、船長は一日じゅう酔っぱらっていなかった。」と書いた。次の日にそれを見て怒ったのは、船長である。
「私か酔っていなかったなどと書くのは、けしからんではないか。まるで、私は他の日はいつも酔っぱらってでもいるようにみえる。私か酒を一滴も飲まないことは、君も知っているはずだ。君は、うその報告を書いて私を中傷しようとするのだ。」
「さよう。あなたが酒を飲まないことは、私もよく知っています。しかし、あなたがきのう酔っていなかったことは、事実です。私は、たゞその事実を書いただけです。」と一等運転士はひやゝかに答えた。
航海日誌に書かれたことは、どちらも事実である。しかし、言い表わし方のいかんによっては、事実とは反対の印象を読む人に与えることが、これでわかるであろう。
もう一つ、忘れてならない重要なことは、民衆がよほど注意しないと、宣伝戦ではいろいろな立ち場の党派が金をつかって世論を支配しようと努め、一番多くの資金を持つている者が勝を制するどいうことである。たとえば、ある党派が、企業の国家管理のように、企業家にとって不利な法案が議会を通過するのを妨げようとして運動し、それがうまく行かないとみると、こんどは、その法律をほどんど骨抜きにするような条文を入れようと努力する。もしも、そのような企てが金の力で成功したとするならば、民主主義は、それだけ金権政治に道をゆずったことになるのである。

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本の紹介「日本国憲法の大義」

   民主主義上
   日本国憲法の大義
   民衆史と地域から考える15氏の意見
   農山漁村文化協会
   1,080円

「日本国憲法」を考えるのに、平和だけでなく、憲法というもののありかた、民主主義とは何か、自由とは何か、平等とは何か、人権とは何かなど、今の安倍政治は日本は何処に向かわされようとしているのかを、考える上で一つの参考書になると思う。

その一つを紹介してみたい、元専修大学教授の新井勝紘氏の「自由民権期の民衆憲法こそ日本国憲法の源流」の著作のなかで、東京の五日市(現あきる野市)で作られた「五日市憲法」について書かれている。明治憲法ができる前であるが、五日市憲法には明確に「地方自治」の規定が明確にあげられ、地方分権をうたっている。廃藩置県により、今まで各藩は徳川幕府とは独立して、各々の藩は独自に藩を治めていたが、目地政府の一下部組織になりさがってしまった。明治憲法ができても、県知事などは中央から勅撰で、県民が選ぶような制度ではなく、明治政府の方針にしたかったことしかできなかたです。
しかし、五日市けんぽうには、地方自治規定が条文で、さらにはっきり明文化されていると新井氏は指摘し、五日市憲法を高く評価している。
五日市憲法には次のように書かれている、「府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例二因ル者ナルカ故二、必ラス之二干渉妨害ス可ラス、其権域ハ国会卜雖トモ之ヲ侵ス可ラサル者トス」。
そして、新井氏は次のように言っている。「日本国憲法の自治権規定は、第8章(第92から95条)として独立させているが、これほど明確な条文ではない。まず最初に、地方公共団体の組織や運営は、「地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」とあるが、地方自治の本旨とは何かが明確ではない。住民が長、議員、吏員を直接選挙で選ぶこと。財産管理や事務処理、行政を執行する機能を持つこと。条例の制定などを条文化しているが、地方自治の原理という視点でみると、130余年前の五日市憲法のほうがより明確ではないか。」
このほか、高知で構想された「東洋大日本々憲杏」と、東北で構想された「憲法草稿評林」が紹介されているが、現行の憲法よりももっと革新的といえる内夜もある。明治維新のころに、日本の民衆がいかに国づくりに心血を注いでいたかがわかる。しかも、明治前期に構想されたものが100を超えるというのも、驚きと頼もしく思える。それに引き替え、自民党が作った、憲法草案のお粗末さには何ともみっともなく感じるのは、私だけだろうか。


他に15人の人が、それぞれの立場から憲法について書かれている。
[目次]
・色川大吉 現憲法の理想の実施こそが人類の歴史の新しいページを開く―現憲法成立の経緯から「押しつけ憲法」論を批判する
・相田和弘 憲法を「押し付けられた」のは誰か―ベアテさんの遺言
・内山節  戦後憲法のふたつの意味―政府の政策を縛る憲法と、自分たちの生きる世界の規範としての憲法
・新井勝紘 自由民権期の民衆憲法こそ日本国憲法の源流―「五日市憲法」草案からみえるもの
・平川克美 正すべきは法に合わない現実のほうである―日本国憲法という歴史遺産
・楠本雅弘 近代日本の民主主義を支えた村の再生力
・雨宮処凛 右翼だった頃に読んだ憲法前文、そして「究極の貧困ビジネス」としての戦争
・謝花直美 憲法9条への思いが沖縄の闘いを生み出した―新基地建設と憲法
・村雲司  不法な改憲がなされるなら、現行憲法を戴いて独立する側こそが、正統日本政府となる!―そもそも日本という国は、独立した集落が集まって国となった
・森まゆみ 地域に憲法を生かす場をつくる
・柴田英昭 安倍政権下での改憲策動と社会保障の位置
・中田康彦 教育への政治的介入の実態と克服の道
・関誠   権力の「法の支配」に対する挑戦を黙って見過ごすわけにはいかない
・神田香織 講談で伝える憲法精神―理不尽な世の中に抗して
・関曠野いま必要なのは「自治を原則とする憲法」―私の改憲論
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民主主義 文部省 報道に対する科学的考察

これで、第六章はおわりです。だんだん、与野党もそうだし、企業もそうだし、多くの団体の宣伝活動は、非常に巧妙になってきています。ここにかかれている「報道に対する科学的考察」は古びた者かもしれませんが、まだまだ有効です。国民一人一人が政治に関心を持ちつづけ、賛同しようと異を唱えようと、自分の考えを表明して行くことが大切です。
いまは、インターネットなどで、情報を入手することもできます。また海外の情報もリアルに入手できます。日本のマスコミだけでなく、研究者や学者も、自分の考えを有料で無料で訴え表明しています。それらにより、たとえ、マスコミが権力者に乗っ取られても、反対の考えを知ることができます。本当の力ず善いものです。ただ、気をつけないといけないことがあります。インターネットの検索システムで、ある関心のあるキーワードで検索をしていくと、次からそれに関する同じようなことが、検索にヒットしやすくなります。私はこのシステムの名前を知りませんが、気をつけないといけないことです。知らないうちに自分の考えの近いものばかりを調べてしまい、それに対する反対の立場の考えや意見を見ることが少なくなってしまいます。それでは、偏った考えになってしまたりします。また、自分と違う意見の人の考えを、正面から反対の意見を言ったり、正しく討論をしたりすことができなくなったりします。また、時々、街灯演説などで、相手の罵ったり、見下したり、根拠のないありもしない言葉で攻撃をしている人を見かけます。そのような人の多くは、情報収集するのに、自分の意見に近いことしか、見ていない人が多いと思います。そのようになれば、自分の意見と違う人と、正面から討論できなくなります。お互いに、自由に明確にわかりやすく、言葉を交わすことができるようになりたいものです。


民主主義 文部省編纂
第六章一目ざめた有権者

四 宣伝機関

現代の発達した宣伝技術で一番大きな役割を演じているのは、新聞と雑誌とラジオである。その他、ポスター・ビラ・映画・講演などもよく利用されるが、今言った三つは特に重要であり、中でも新聞の持つ力は最も大きい。新聞は、世論の忠実な反映でなければならない。むしろ新聞は確実な事実を基礎として、世論を正しく指導すべきである。しかし、逆にまた新聞によって世論がねつ造されることも多い。
新聞が宣伝の道具として持つ価値が大きいだけに、これを利用しようとする者は、巨額な金を投じて新聞を買収しようとする。あるいは、自分の手で新聞を発行する。その新聞がどんな人物により、またどの政党によって経営されているかがはっきりしていれば、読む人もそのつもりで読むから、大した弊害はない。しかし、それをそうと見破りにくいような名まえの新聞でじょうずに宣伝をやると、国民の考えを大きく左右することができる。違った名まえの幾つもの新聞を買収すれば、いっそう効果がある。そのようにして、外形だけは民主主義の世の中にも金権政治が幅をきかせる。「地獄のさたも金次第」という。金が万能の力をもって世論を思う通りに動かすようでは、ほんとうの民主主義は行われえない。
新聞の経営には金がかゝる。その費用は、購読者が払う新聞代を集めた額よりもずっと多い。それなのに、どうして新聞の経営が成り立って行くのだろうか。ほかでもない。その足りない部分は、広告の収入でまかなわれるのである。したがって、購読者も、それだけ安い新聞代でおもしろい新聞が読めることになる。時には、新聞を発行する費用の半分以上が広告の収入でまかなわれることさえある。それてみても、新聞広告がどれほどきゝめがあるかということがわかるであろう。広告がきくということは、新聞が宣伝機関として、それたけすばらしいねうちを持っていることを物語るのである。広告でさえそうなのだから、記事をじょうずに、おもしろく、人の目をひくように載せ、珍しい写真などをかゝげれば、どんなに効果があるかは、想像にあまりがある。同じ事件を取り扱う
にしても、大きな活字で見出しをつけるのと、小さくすみの方にかゝげるのとでは、まるできゝめがちがう。無根の本実を書いて人を中傷すれば、あとで小さく取り消しを出しても、その人の信用は地に落ちてしまう。世論を動かす新聞の力は、このように大きい。それだけに、新聞を経営する人たちの責任は、きわめて重大であるといわなければならない。
これと同じようなことが、雑誌その他の定期刊行物についても言える。雑誌も、発行部数の多い大雑誌になると、宣伝機関として大きな利用価値がある。したがって、雑誌社の経費のかなりの部分が広告の収入でまかなわれる。
それよりも、もっとおもしろいのはラジオである。今の日本では、すべての放送局が一つの放送協会によって経営され、その経費は聴取者の払う料金でまかなわれて、ラジオを広告につかうということは行われていない。ところが、アメリカでは、六百以上の私設放送局がある。東京の半分ぐらいの都会に幾つもの放送局があって、いろいろとおもしろい番組を作って競争している。しかも、聴取者からは、いっさい料金を取らない、放送の中に広告を組み入れ、その料全て経営しているのである。
このように、新聞や雑誌やラジオは広告にそのおもな財源を求めているから、なるべく多くの広告を得ようとして競争する。広告を得るために、特に努力しないでも、広告主の方から広告を頼みに来る大新聞や大雑誌ならば、わざと広告主のごきげんを取るようなことをする必要はないが、そうでない場合には、大広告主の気に入るような編集をしたり、その感情を害するような記事を載せることを恐れたりすることもありうる。そういう新聞や雑誌だと、広告主が集まってこれらの宣伝機関に圧力を加え、自分たちにとって不利な法律案が議会を通ることをさまたげるように、論文や記事の書き方にっいていろいろと注文をつけることができる。その法律案の悪い点を大きく取り上げたり、その支持者の悪口を書いたりさせる。そういう技巧によって、何も知らない読者の気持を動かしてしまうことは決してむずかしいことではない。
一方また、小さい雑誌や地方新聞の中には、土地の有力者を、不利な事実を書くぞと言って脅迫し、それを書かないことの代わりに多額の金を出うせる者などもある。他方には、自分にとって有利な記事を載せさせるため、それらの雑誌や新聞にたくさんの金をそゝぎこむ候補者もいる。そういう悪徳記者や、ずるい候補者がいると、有権者はそれにまどわされて、よい人に投票せず、不適任な人物を選んでしまうということになりがちだ。
新聞記事にはそんな事情でうその書かれることが多いとすれば、それをきびしく監督し、政府が前もって検閲して、そのような弊害を防止すればよいと思うかもしれない。しかし、それはなお悪い結果になる。なぜならば、そうすると、こんどは政府がその権力を利用して、自分の政策のために不利なような論説や記事をさしとめ、その立場にとって有利なことだけを書かせるようになるからである。それは、国民をめくらにし、権力者が宣伝機関を独占する最も危険なやり方である。言論機関に対する統制と検閲こそ、独裁者の用いる一番有力な武器なのである。

   無題2

だから、民主国家では、必ず言論・出版の自由を保障している。それによって、国民は政府の政策を批判し、不正に対しては堂々と抗議することができる。その自由がある限り、政治上の不満が直接行動どなって爆発する危険はない。政府が、危険と思う思想を抑圧すると、その思想は必ず地下にもぐって、だんだんと不満や反抗の気持をつのらせ、ついには社会的、政治的不安を招くようになる。政府は、国民の世論によって政治をしなければならないのに、その世論を政府が思うように動かそうとするようでは、民主主義の精神はふみにじられてしまう。
政治は真実に基づいて行われなければならない。しかも、その真実は自由な討論によって生み出されるということこそ、民主主義の根本の原則なのである。甲の主張と已の立場とを自由に討議させる。甲は宣伝によって国民の心をひきつけ、選挙でも多数の投票を得て、已に対する勝利を占める。しかし、もしも甲の宣伝が真実でなかったならば、その勝利はいつまでも続くだろうか。国民が真実を発見する能力を持たなければ、真実を言った已の立場はいつまでも浮かぶ瀬はないであろう。これに反して、国民にその力さえあれば、甲の人気はやがて地に落ちる。そうして、少数だった已の立場の方が有力になって来る。いや、もしも国民がほんとうに賢明であるならば、初めから甲の宣伝に乗せられて判断をあやまることもないであろう。
だから、自由な言論の下で真実を発見する道は、国民が「目ざめた有権者」になる以外にはない。目ざめた有権者は、最も確かな嘘発見器である。国民さえ賢明ならば、新聞がうそを書いても売れないから、真実を報道するようになる。国民の正しい批判には勝てないから、新聞や、雑誌のような宣伝機関は真の世論を反映するようになる。それによって政治が常に正しい方向に向けられて行くのだ。


五 報道に対する科学的考察

 真実を探究するのは、科学の任務である。だから、うそど誠、まちがった宣伝と真実とを区別するには、科学が真理を探究するのと同じようなしかたで、新聞や雑誌やパンフレットを通して与えられる報道を、冷静に考察しなければならない。乱れ飛ぶ宣伝を科学的に考察して、その中から真実を見つけ出す習慣をつけなければならない。
一、科学的考察をするに当たって、まず心がけなければならないのは、先入観念を取り除くということである。われわれは、長い間の経験や、小さい時から教えられ、言い聞かされたことや、最初に感心して読んた本や、その他いろいろな原因によって、ある一つの考え方に慣らされ、何ごとをもまずその立場から判断しようとするくせがついている。それは、よいことである場合もある。しかし、まちがいであることもある。そういう先入観念を反省しないで物ごとを考えて行くことは、どんでもないかたよった判断にとらわれてしまうもとになる。昔の人は、風の神が風をおこし、地下のなまずがあばれると地震になると思っていた。そういう迷信や先入観念を取り除くことが、科学の発達する第一歩であった。近ごろでも、日本人は、苦しい戦争の時には「神風」が吹くど信じていた。大本営の発表ならばほんとうだと思いこんでいた。そういう先入観念ぐらい恐ろしいものはない。政治上の判断からそのような先入観念を除き去ることは、科学的考察の第一歩である。
二、次にたいせつなのは、情報がどういうところから出ているかを知ることである。読んだり、聞いたりしたことを、そのまゝ信じこむことは、たゞおろかなことであるばかりでなく、また非常に危険である。たから、いつも自分自身に次のようなことを質問してみるがよい。すなわち、だれがそれを書き、それを言ったか。それはどんな連中だろうか。かれらにはそういうことを言う資格があるのか。どこで、どうしてその情報を得たか。かれらは先入観念を持ってはいないか。ほんとうに公平無私な人たちか。あるいは、まことしやかなその発表の裏に、何か利己的な動機が隠されてはいないか。こういった質問を自分自身でやってみることは、確かに科学的考察の役に立つであろう。
三、新聞や雑誌などを読む時に、次のような点に注意する。


   無題3

 イ、社説を読んで、その新聞や雑誌のだいたいの傾向、たとえば、保守か、急進かをできるだけ早くつかむこと。
 口、それがわかったならば、それとは反対の立場の刊行物も読んで、どちらの言っていることが正しいかを判断すること。
 ハ、低級な記事をかゝげたり、異常な興味をそゝるような書き方をしたり、ことさらに人を中傷したりしているかどうかを見ること。
 二、論説や記事の見出しと、そこに書かれている内容とを比べてみること。記事の内容にはだいたいほんとうのことが書いてあっても、それにふさわしくない標題を大きくかヽげ、読者にまるで違った印象を与えようとすることがあるから、標題を見ただけで早合点してはいけない。
 ホ、新聞や雑誌の経営者がどんな人だちか、その背後にどんな後援者がいるかに注意するこど。政府の権力に迎合する新聞を御用新聞というが、政府ではなく、金権階級におもねるような新聞も、御用新聞であることに変わりはない。
四、毎日の新聞やラジオは国際問題でにぎわっている。今日では、国の内部の政治は国際問題と切り離すことのできない関係があるから、国際事情には絶えず気をつけて、その動きを正しく理解することが必要である。戦争前の日本国民は、世界じゅうが日本のやることをどう見ているかをすこしも考えずに、ひとりよがりの優越感にひたっていた。これからも、日本が国際関係の中でどういう立場におかれているかを、絶えずしっかりと頭に入れて、その上で国内の問題を考えて行かなければならない。国際間の宣伝は、国内におけるよりももっと激しく、もっとじょうずに行われるから、いろいろなことを主張し、論争している国々の、ほんとうの目的を察知するように努めなければならない。特に、言論や出版が政府の手で厳重に統制されている国に対しては、そういう注意がたいせつである。
五、世の中の問題は複雑である。問題の一つの面だけを取り上げて、それで議論をすることは、きわめて危険である。たから、ある主張をする者に対しては、問題の他の反面についてどう思うかを聞いてみるがよい。宣伝を読み、かつ聞くたけでなく、逆にこちらからもいろいろと疑問をいだいて、それを問いただす機会を持たなければならない。それには、討論会などを盛んに開くことが有益である。学校などでも、クラスごとに時事問題についての討論会を行うがよい。研究グループを作る時には、反対の考えの人々をも仲間に入れなければならない。それは、科学者の行う実験のようなものである。いろくな場合をためしてみ、いろいろな人の研究の結果を聞くことによって、誤りはたんだんと取り除かれ、共通の一つの真実が見いたされる。そういうふうにして、物ごとを科学的に考察する習慣をつけておけば、それが民主主義の社会で責任のある行動をする場合に、どんなに役に立つかしれない。
要するに、有権者のひとりひとりが賢明にならなければ、民主主義はうまく行かない。国民が賢明で、物ごとを科学的に考えるようになれば、うその宣伝はたちまち見破られてしまうから、だれも無責任なことを言いふらすことはできなくなる。高い知性と、真実を愛する心と、発見された真実を守ろうとする意志と、正しい方針を責任をもって貫く実行力と、そういう人々の間のお互の尊敬と協力と-----りっぱな民主国家を建設する原動力はそこにある。そこにたけあって、それ以外にはない。
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「民主主義」文部省著作 教科書

民主主義は、個人主義におちいり、利己主義になってしまうと批判する人がいる。そして、全体のことを考えないでいるので、全体の発展を成長を妨げるという人がいる。最近そのように唱える人が多くいるように思える。それは、日本国憲法の下に68年たち、日本の国民は他人のことを考えず、自己の儲けや利益の追求に走る人がいる。その顕著なのは、働く人の人権や生活をかえりみずに、労働者を働かせるブラック企業などでしょう。
しかし、この教科書にかかれているが、個人主義とは、本来お互いの個を尊重し合うことから、始まりそれによりお互いが高められていくものです。ですから、利己主義とは相いれないもので、個々が高められるることにより、全体も高めれれていくものです。
ところが、全体主義はその権力者の考えが、良きにつけ悪しきにつけ、その考えを押し付けていくものです。今の権力者は「これしかない」とか「いずれ理解してくれる」「必ず正しく理解してくれる」などと言っています。「特定秘密法」や「安保関連法」など、国民の過半数が反対したり、説明が不十分だと言っているのに、議会の数により強引に押し通している。
日本国憲法ができたとき、国民が自覚を持って不断の努力をして、民主主義と自由と人権、そして国際平和を守り高めていかなければならないと、多くの国民はかんじました。それにより、文部省は次の世代を育てるために、この「民主主義」という教科書を作ったのでしょう。
そして、この本に書かれてくるようなことが起きないように、国民に自覚をもたせ、起きた場合はそれに対して、反対の声を上げることが必要としています。まさにこの本に書かれていることが起きているのではないだろうか。


「民主主義」文部省著作 教科書

第八章 社会生活における民主主義

一 社会生活の民主化

ポスダム宣言を受諾したのちの日本では、まず、政治の民主主義かが思いきって行われた。新憲法ができ、国会を中心とする政治の組織が確立され、天皇の権威をかさにきた軍閥や特権階級の勢力は一掃された。前には役所の権力を握って国民をあごでさしずしていた官僚は、国民の公僕とよばれるようになった。地方自治制も改革され、地方の政治のおもだった地位につく人は、選挙で決まることになった。制度の上から見れば、今日の日本はまさにりっぱな民主国家である。政治の形だけについていえば、もうこの上民主主義化する余地は、あまり残っていないといってもよい。
しかし、民主主義は決して単なる政治上の制度ではない。それは、その根本において社会生活のあり方であり、社会生活を営むすべての人々の心の持ち方である。政治上の制度だけならば、それを民主化することは必ずしも困難なことではない。もちろん、民主政治の制度を、今日見るような形にまで発達させるために、人類の長い苦闘と努力の歴史が必要であったことは、第二章で概観した通りである。けれども、日本のように、敗戦によって過去の政治組織がいっぺんにくずれ、そのあとに、西洋の進んだ国々の政治形態の大きな影響を受けつ二新たな制度を採用するという場合には、既にたくさんの模範や先例があるのだから、事は比較的に容易なのである。これに反して、社会生活の根本から民主主義化するということになると、これは一朝一夕にできる事柄ではない。長い間、人の心にしみこんで来た民主主義的でない気持をぬぐい去り、日常生活のすみずみまで民主主義の精神を行きわたらせるには、なみなみならぬ覚悟と修練とがいる。しかも、それが行われなければ、政治の形の上での民主主義も決してほんものにはなりえないのである。
民主主義の発達する前には、西洋にも封建制度が行われていた。諸侯や貴族が広い土地の領主となって、その土地の人民を支配していた。領主にはおゝぜいの家来がいて、それらの家来たちは、領主には忠節を励むが、人民に対しては大きな顔をして権力をふるっていた。そういうように、人間の間に身分の差別があって、身分によって人間のねうちに大きなへだたりをつけるのが、封建制度の特色である。日本にも、武家政治の時代を通じて、長い間封建制度が続いた。中央には絶大の権力を持つ将軍があり、地方には大名があって、どんなばか殿様でも、人民は土下座してこれを迎えなければならなかった。将軍や大名の家来は武士で、武士にもいろいろな階級があり、しかも、その武士はすべて一般人民の上に位していた。士農工商といって、社会生活の階層がはっきりと身分で決まり、両刀を帯びた武士は、ちょっとしたことで人民を殺しても、「切りすて御免」といって涼しい顔をしていた。そういう封建制度は、明治維新によって廃止されたけれども、そのなごりは最近まで存在していた。華族という特権階級が尊ばれたり、士族どか平民とかいう無意味な族籍を履歴書に書いたりすることは、ついこの間まで行われた。
なるほど、それらのことも、今は全くなくなった。しかし、日本人の心の中には、まだまだ封建的な気持が残っている。人間のほんとうのねうちを見ないで、家柄によって人をうやまったり、さげすんだりするのは、封建思想である。上役が下役にいばりちらしたり、気に入った子分だけを引き立てたりするのも、封建的である。親の威光で子供の人格を無視したり、夫が妻を一段低いもののように見下すのも、封建時代のなごりである。人と人どの間に、人格的な価値とは無関係な上下の差別をつけてみたがるのは、日本人の封建性の表われである。そういうくせを取り除かない限り、社会生活の真の民主化は行われない。
もちろん、人間の間には、才能の違いもあるし、経験の大小もあるし、人格の高下もある。人格、識見の高い人が世の尊敬を受けるのはあたりまえである。すぐれた才能を持ち、深い経験を積んだ人が、高い月給で、重い地位につくのも、当然である。社会生活の民主化とは、そういうことを無視する意味では決してない。同じ仕事をして、十の成績をあげる人と、一の能率しか示さない人とを、全く同じように待遇するのは悪平等であって、決してほんとうの平等ではない。しかし、そういう地位や待遇の違いは、人間の真価によって定まるべきものである。高い地位についているから偉いのではなくて、りっぱな人だから重要な仕事を受け持つのでなければならぬ。たとえば、学校でも、先生は先生だからなんでも敬われなければならないのではなく、先生は学問もあり、人格も高く、世の中の経験を数多く積んでいればこそ、生徒を監督したり、指導したりする責任の立場に立つのでなければならぬ。
日本の社会の中でも、特に手近なところで民主化される必要かおるのは、われわれの営んでいる家庭生活であろう。父親が父親なるがゆえに子供に無理なことを強制したり、夫が夫なるがゆえに妻に従属と一方的な奉仕とを要求したりするのは、全く理由のないことである。弟も妹も同じ子供であるのに、特に長男だけをたいせつにするのも、個人を平等に尊重するという精神を妨げる不合理な風習である。親は親だから権威があるのではなく、親たる愛と年長者としての識見と経験とをもって子供を心から監護すればこそ、子供も自然の敬愛と信頼とをもってこれに従うのである。夫婦の間柄も兄弟姉妹の関係も、お互の人格を認めあってこそ、円満に平和に秩序づけられうる。家庭は社会縮図である。その意味で、社会生活における民主主義の実践は、まず家庭から始められなければならない。


二 個人の尊重

社会生活における民主主義の根本の原理は、人間を個人として尊重するというこどである。尊重されるのは、だれだろう。それは、「わたし」であり、「あなた」である。人はよく、「わたしはこんなつまらない人間だから」などと言う。言うたけでなく、実際にそう思う。人間は、うぬぼれてはいけないから、そういう謙譲な気持も一面では必要かもしれない。しかし、その謙譲な気持をよいことにして、そういう人々を思うようにあしらい、自分のかってな欲望を遂げようとする者があった場合、それでも黙っているのが正しいことであろうか。「あなた」の生活をふみにじり、「わたし」の努力をだいなしにされても、「御無理ごもっども」と言って横車を押させてよいものだろうか。そうではあるまい。そうであってはならないと思うところに、人間の自覚がある。「わたし」であろうど「あなた」であろうと、人間としての存在は何よりも重んぜられなければならない。民主的な社会生活は、かような人間の自覚と個人の尊重とから始まる。
「泣く子と地頭には勝てない」ということばがある。「無理が通れば道理引っこむ」ということわざがある。日本人の心にしみこんだ封建的な気持を、これはどよく言い表わしていることばはない。自分の信念をも主張しえず、権勢の前に泣き寝入りをするのがあたりまえのような世の中が、どうして正しく明かるくなって行く見こみがあろうか。卑屈な、じめじめした、陰口ばかり言いあっている社会生活ほど、堪えられないものはあるまい。家庭の中にそういう空気はないだろうか。学校にはそんな気分が残っていないだろうか。役場や工場にそうした傾向がありはしないたろうか。もしもそういうところがあったならば、たれがその空気を払いのけるか。その家庭の人々、その学校の先生や生徒たち、その役場や工場の勤務員以外に、それをやり遂げる者はない。みんなが人間としての自覚を持ち、「すべて人に為られんと思ふことは、人にもまたそのごとくする」以外に、明かるく住みよい社会を作り上げて行く方法はない。
すべての人間は、生きる権利がある。めいめいがその幸福な生活を築き上げて行く権利を持っている。できるたけ多くの人々ができるだけ幸福になることは、人問社会の理想である。
封建社会では、少数の特権階級の幸福のために、大多数の人々の幸福が犠牲にされた。専制時代には、専制君主の虫のいどころ一つで、誠実な家来や善良な人民が虫けらのように殺された。独裁政治の横行している場合には、独裁者の計画した戦争のために、幾百万という命が奪い去られた。人間の生命は何よりも尊い。人間の幸福は花園のように美しい。人はすべて、平等に幸福を分かちあいうるようにならなければならない。民主主義は、そのために封建制度を倒し、専制主義をくつがえし、独裁政治とたゝかった。自ら血と汗と涙でたゝかい取った精神的な財宝であるがゆえに、西洋の進んだ民主国家の国民は、人問の自由と個人の権利とを、あくまでも守り抜こうとする強い意志を持っている。日本人には、自由と権利とを自分たちでたゝかい取った経験が少ないたけに、まだそれをほんと
うに自分から尊く思う気持が出て来ない傾きがある。しかし、それがこの上もなく尊いものであることは、西洋と東洋とで変わるはずはない。恐るべき戦争の記憶がまだ生々しい今こそ、その尊さを真に心の中でかみしめるべき絶好の機会である。
人間は、すべて平等に幸福を求める権利を有する。しかし、幸福は、天から降って来るものでも、地からおいて出るものでもない。幸福は、人間の勤労と努力とによって築き上げられて行くのである。だから、社会に生活するすべての人間は、営々と働かなければならぬ。自ら働くこどの喜びを味わうとともに、他人の額に汗する勤労を尊ばなければならぬ。
もっとも、人間の世の中にはいろくと矛盾があって、民主主義が行われるようになっても、働く者のくらしがらくにならず、働かない者のふところに金がころがりこむ場合が少なくない。それは、主として経済生活における民主主義の問題であるから、次の章で考察することとしよう。けれども、経済の組織の問題は別としても、ほんとうに人間を個人として尊重する精神が行きわたれば、経済生活に伴なう矛盾の多くは、それによって解決されるはずである。他人の勤労によって得られた利益を、働かない人間がしぼり取るようなしくみは、結局は民主主義の根本精神を裏切る考え方が、社会の中に深く巣を食っている結果として現われて来るのである。哲学者カントは、「それが自分自身であろうと、どんな他人であろうと、人間を常に同時に目的として取り扱うべきであり、決して、それを単
なる目的のための手段にのみ用いるようなことがあってはならないごと説いた。他人の目的のための単なる手段として利用される者は、奴隷である。他人を自分の利己心の道具として用いるのは、人間の尊厳なねうちをふみにじる罪悪である。民主主義は、社会生活からあらゆる意味での奴隷を駆逐しなければならない。他人の汗の結晶を、ぬれ手であわをつかむように、つかみ取る罪悪を追放して行かなければならない。

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広島原爆の日

八月六日は、広島に原爆が落とされた日です。

昨日の国会答弁で、防衛大臣はアメリカの核兵器を積んだ、艦船や航空機に対しての、兵站(後方支援)は、法的に可能だが現実的にありえない事だといっています。また、日本は非核三原則でそれはできないと言っています。それなら、法律の条文に但し書きをいれ、武器の供与の中に核兵器は含まず、核兵器を搭載した艦船や航空機は含まないと明記すれば問題がないと言える。
憲法を捻じ曲げて解釈したり、法的な安定性を軽視するような人がいる政権では、今後、現実的にありえないと言うが、その何処を信用しろというのだろうか。
被爆国日本が、核兵器使用に手をかすことだけはあってはならないと思う。

昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。人類史上最初の原子爆弾が、広島に投下されました。

広島市ホームページの原爆・平和 ページ
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/1001000002088/index.html

中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?lang=ja

広島を訪れた海外の方からの平和メッセージ
http://www.peace-act-hiroshima.com/


今、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮と核を持っています、このほかにイスラエルも持ているとみられています。また日本も技術的に充分持つ技術力があるので持っているのではと疑っている国があるようです。しかし、万が一日本が核を持つようなことになれば、アメリカが黙ってはいないので、日本が核兵器を持っていることはないと思います。

なぜ、アメリカが黙っていないの、それは、日本は依然として、国際連合憲章第53条、第77条、第107条、に基づく、の敵国条項である「第2次世界大戦中に連合国の敵国であった国」(枢軸国:ドイツ、イタリア、日本)である。ドイツとイタリアは、国体が変わったので、「敵国条項」の対象から外されたが、日本だけが、天皇制を維持しているので「敵国」であるとされている。つまり、日本はアメリカにとって同盟国であるが敵国でもあると言える。
つまり、この敵国条項が実質的に生きているから、アメリカは日本に駐在でなく駐留し続けているし、今後も駐留し続けるでしょう。また、核を持つことができないのです。アメリカから敵国とされることによっても、いつまでも非核三原則を貫いてほしいです。
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ブログを書くについて、思うこと

ここ数日、文部省の教科書「民主主義」の内容を紹介ばかりです。なぜわたしが、この本を紹介してしまうのか。それは、今の国会運営を見ていて、あまりにも質疑の応答が、一方的で誠意がないからです。議席の数の力で押し通そうとするのは乱暴です。その乱暴は独裁的にしか感じられないからです。
自民党は選挙結果の数字の面だけをとらえて、国民に新任されたといい、白紙委任状を手に入れたとして、自民党の公約をすべて賛成していると言わんばかりです。
しかも、半数ほどの棄権者があります。一区一人しか当選しない、小選挙区に多数の人が立候補しています。そして、当選者のなかで、その選挙区の過半数以上を獲得した人はどれだいるでしょうか。

このことから、今の国会の議席数と国民の政治に対する考えとは、大きくかけ離れ乖離しているのです。
それを、素直に受け入れず、国会で多数の議席を保持しているから、何をしてもよいと、考えているようにしか思えないです。
そして、どの候補者であれ投票した候補者に対して全面的に信任支持した人はいないでしょう。これとこれの公約は支持できるが、別のこの公約はいかがなものかと、危ぶむものもあるはずです。
しかし、今の安倍政治の進め方は、今までの自民党の政治の進め方とちがい、「この道しかない」と突き進んでいまます。これは、ここの意見を聞き入れると、政治が停滞して決められない政治だ、私が責任者だから黙ってついてこい。全体の利益が上向くと、いずれ個々の末端まで行き渡る、それまで我慢しろという。
これでは、まるで全体主義であり、独裁的です。
この「民主主義」の教科書が作られたのは、先の大戦で、日本国民の数百万と言う民間人と軍人が死に、そして、国土は焦土とかしました。また、周辺諸国にも何百万人の死者をだし、その土地も荒廃させてしまいました。
そのような戦争に突き進んだのは、国民のほとんどが、この戦争は正義の戦争で正しい。日本は神の国だから間違いは犯さない、必ず勝つと信じていました。そのうえ国民は、天皇の子とであるから臣民して、天皇の為に死ぬことは美徳と刷り込まれていました。
そのような国民に、新憲法ができ民主主義を行き渡らせるために作られた教科書です。

いま、戦後70年日本は、他国に一度も攻めいったことはないです。それより日本の平和貢献は高く評価されています。そろためか、平和ぼけをしてしまい、民主主義と自由と人権尊重と平和が空気のようになり、その大切さが感じられなくなっているといえるでしょう。
だからこそ、敗戦直後に出された民主主義とは何かを、中高生に問うたこの本を、今の中高生や大人たちにも読むに価値ある本だと思うので、今まで長々と紹介してきたのです。

私のブログは、本来は」からだとこころ」のことや、古典などを読んで思ったこと、日頃の自然のうつろいなどを核つもりでした。今の、世の中のあり方や進み方をみてつい、最近のような記事を書くこと事ばかりになってしまっている。
そろそろ、初心に戻ってブログを書いて生きたいと思う。しかし、今のままではどうなるやら。
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高校野球の宣誓と、平和式典での首相の挨拶

昨日は、広島原爆投下の日でした。また、今年は夏の高校野球の開会日でもありました。
その高校野球の選手宣誓は素晴らしいものでした。

「宣誓
 1915年8月、第1回全国中等学校優勝野球大会が始まりました。
 それから100年間、高校野球は日本の歴史とともに歩んできました。
 この100年、日本は激動と困難を乗り越えて本日の平和を成し遂げました。
 このような節目の年に聖地甲子園で野球ができることを誇りに思い、そして支えていただいたすべての方々に感謝して全力でプレーをします。
 次の100年を担う者として、8月6日の意味を深く胸に刻み、甲子園で躍動することを誓います。


安倍首相は広島での平和式典で挨拶をされたが、その内容は、非核三原則に触れず不戦の誓いもなのは、この短い宣誓に遠く及ばないものでした。

首相の頭の中は、アメリカについて行って、鉄砲を撃ってみたいだけなのだろうか。

相撲中継を見ていたら花道の階段のあたりに「テッポウ厳禁」という張り紙がしてある。
鉄砲というのはようするにツッパリと練習で、前に腕を突き出して木の棒を思いっきり突く稽古です。

首相はただ、ツッパリたいだけなのだろう。国会でもツッパリは厳禁です。
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法的安定性より政権の安定性

立憲主義は過去のもので、王政時代に王の暴政を縛るものだといい、民主主義の選挙で選ばれた政治の下ではそれはあたらないと、立憲主義を否定する政治家がいる。しかしその言葉こそがあたらないことは、次の言葉からわかる。

 モンテスキューの『法の精神』
「権力をもつ者はすべて、それを濫用する傾向があることは、永遠の体験である」

 第三代アメリカ大統領 ジェファーソン
「信頼は、どこでも専制の親である。自由な政治は、信頼でなく、猜疑にもとづいて建設される。われわれが権力を託さなければならない人々を制約的な憲法によて拘束するのは、信頼ではなく、猜疑に由来する。権力の問題においては、それゆえ、人に対する信頼に耳を貸さず、憲法の鎖によって、非行をおこなわないように拘束する必要がある」


今の、安倍政治は、「私が責任者だ」といい、国民の多くが説明不足とし反対してる法案を、強硬に押し切って国会を数の力で押し通す。
また、「ナチスの手法に学べば」「国民は時がたつと忘れる」「反対するマスコミはこらしめないといけない」「戦争に行きたくなとするのは利己主義だ」「」
法的安定性より政権の安定性の方が大切だといわんばかりです。
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民主主義  文部省著作 17 

民主主義とは、何もしないでほっておいて育つものではなく、逆に劣化してしまったり、別のものに置き換わってしまうと、この章にはかかれています。憲法 第12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と、書かれています。もし、国民が自覚して不断の努力を怠れば、自由や民主主義をこころよく思っていない人の思う壷になってしまう。自由や民主主義は利己主義に陥り、また公益の妨げになるという展開をして、自由や民主主義を制限し、個人個人の人権も国や社会のために制限されるのは正当だといい。過去に歩んだ国家主義、全体主義的な方向に進みかねないです。そのため、私たち国民は、個人個人違うということを認め、いろいろな意見を聞き入れながら、右にぶれたり左によったり、前に進んだり一歩下がったりしていくのが、民主主義です。民主主義はまだるっこいもので時間がかかるものです。それを決められない政治として、否定してはいけないです。決められる政治は悪くないですが、それは反対の意見も耳を傾け聞き入れながら決めていくことです。そうではなく、議員の決議数が過半数を超えているからと、強引に決議を強行するのは、民主主義でなく独裁と言います。
産経新聞が書評で絶賛している本がある。ビジネス社がだしている「本当は怖ろしい日本国憲法」 長谷川三千子著 倉山満著。その本とこの文部省の「民主主義」と逆のことが書かれています。70年程前に書かれた本と最近書かれた本であるが、一度読み比べてみて、どちらがよいかを判断してみるのもよいと思う。

ところで、この「民主主義」の赤茶けたこの本を、パソコンに打ち込んでいるが、結構骨が折れます。この本は終戦直後に出版されたもので、漢字はいまの常用漢字でななく、旧字体ですがそれを新字体に変えています。(國→国)また、ひらがなの繰り返しは、/\となっていますが、ひらがなでの繰り返しにかえました。(めい/\→めいめい)です。一字の繰り返しは、本に書かれている通りです、(ひらがなは ゝ、濁点が付く場合は ゞ、漢字は 々)、ルビは省略しています。ほかは、私の誤字打ち間違いがあると思いますが、本を読みながらエディターにテキストの打ち直していて、これは間違いだと思われるようなものも、特に注を付けずにそのママにしました。そろそろ、この「民主主義」の内容の紹介も終了します。

青空文庫には、新憲法が発布された時にあわせて、文部省が「あたらしい憲法のはなし」という中学生向けの小冊子が、テキスト化されて登録が完了しています。この「民主主義」も、多くの人に読んでいただければと思いますが、青空文庫にはまだ登録されていないようです。
ひょっとして著作権の問題? それなら、このブログの記事も削除するか、大幅に註釈や説明を書き加え本文も要点だけ残し後は削る必要があるでしょう。

わたしは、「民主主義 上」1948年と「民主主義 下」1949年に出された本を持っていますが、誰かほかに持っておられる方はいるでしょうか。また、国会図書館のデジタルライブラリーには、「民主主義 上」が登録されいて、PDFファイルをダウンロードできます。この本は出版から67年経っているので、著作権は切れていると思うのですがどうでしょう。


「民主主義」文部省著作 教科書

第八章 社会生活における民主主義

三 個人主義

人間を個人として尊重する立場は、個人主義である。たから、民主主義の根本精神は個人主義に立脚する。軍国主義の時代の日本の政治家や思想家たちは、民主主義を圧迫した。したがって、その根本にある個人主義を、いやしむべき利己主義であるどのゝしった。しかし、これほど大きなまちがいはない。個人主義は、個人こそあらゆる社会活動の単位であり、したがって、個人の完成こそいっさいの社会進歩の基礎であることを認める立場である。すべての個人が社会人としてりっぱになれば、世の中は自然とりっぱになる。個人個人の生活が向上すれば、おのずと明かるい幸福な社会が作り上げられる。ゆえに、尊重さるべきものは、「一部の人間」ではなく、ましていわんや「おのれひとり」ではなく、生きとし生ける「すべての個人」である。その考え方のどこに、いやしむべさ利己主義がひそんでいるてあろうか。
民主主義に反対するものは、独裁主義である。ゆえに、独裁主義は個人主義を排斥する。そうしてその代わりに、全体主義全体主義を主張する。
全体主義は、個人を尊重しないで、個人をこえた社会全体を尊重する。民族全体とか国家全体とかいうようなものを、一番尊いものと考える。民族や国家は、個人をこえた全体として、それ自身の生命を持ち、それ自身として発展して行くものであるとみる。そうして、すべての社会生活の目的は、その上うな尊い全体を発展させ、繁栄させて行くにあると説く。全体がまず尊ばれるどいうことは、部分の価値をそれに従属させるということである。社会全体の部分をなしているものは、個人である。だから、全体主義は、個人の尊さを認めない。個人は、全体のための犠牲とならなければならないと教える。戦時中の日本では、滅私奉公ということが盛んに唱えられた。個人の幸福、否、個人の生命をも捨てて、国家のために殉じなければならないという意味である。国民に対しては、「命を鴻毛の軽さに比する」ということが要求された。イタリアのファシズムも、同じような極端な国家主義を採った。ドイツのナチズムは、国家の代わりに民族全体を至上、絶対の尊いものにまでまつり上げた。のみならず、今日のソ連その他の共産主義者の中にも、これに似通った全体主義の考え方があるようにみえる。
なるほど、民族や国家はたいせつなものである。しかし、民族のひとりひとりが栄えないで、どこに民族全体の繁栄がありえようか。国民のすべてを犠牲にして、どうして国全体が発展する余地があるであろうか。民族や国家の繁栄といっても、その民族や国家に属するすべての個人の繁栄以外にはありえないはずなのである。それなのに、個人の尊さを否定して、社会全体を絶対に尊いものだと教えこむのは、独裁主義のからくり以外の何ものでもない。
独裁者は、国民にそういうことを教えこんで、国民が犠牲をいとわないようにしむける。そうして、これは民族のためだ、国家のためだといって、「滅私奉公」の政策を強要する。その間に、戦争を計画し、戦争を準備する。戦争ほど個人の犠牲を大量に必要とするものはない。だから、戦争という大ばくちをやろうとする者は、国民に、国家のために命をさゝげるのが尊いことだと思いこませる。道徳も、宗教も、教育も、すべてそういう政策の道具につかわれる。
全体王義者は、民主主義をけなすために、民牛王義は個人主義だから、民主国家の国民は国家観念がうすく、愛国心に乏しいという。愛国心に乏しいから、いくら軍艦や飛行機をたくさん持っていても、戦争には弱いという。それがどんなに大きなまちがいであるかは、今度の戦争でよく証明された。
民主主義者は、国家の重んすべきことを心得ている。祖国の愛すべきことを知っている。しかし、国家のためということを名として、国民の個人としての尊厳な自由や権利をふみにじることに対しては、あくまでも反対する。国家は、社会生活の秩序を維持し、国民の幸福を増進するために必要な制度であってこそ、重んぜられるべきである。国民がともに働き、ともどもに助けあい、一致団結して築き上げた祖国であればこそ、愛するに値する。民主主義が最も尊ぶものは、個人生活の完成であり、すべての個人の連帯・協力によって発達して行くところの社会生活である。国家は、さような社会生活の向上・発展を保護し、促進するために存在する政治上の組織にほかならない。
全体主義の考え方が危険であるのは、内に向かって国民の個人としての基本的権利や生活をふみにじるためばかりではない。それはまた、外に向かっては他の国家の利益を侵害してはゞからない態度となる。全体主義は、すべての国々の主権と安全を等しく尊重するのではなくて「わが国」だけが世界で一番すぐれた、一番尊い国家であると考える。したがって、他の国々はどうなっても、自分の国さえ強大になればよいと思う。そこから導き出される結論は、自分の国を強くするためには手段を選ばないという国家的な利己主義であり、外国を武力でおどしたり、力ずくで、隣国の領土を奪ったりする侵略主義である。全体主義は戦争の危険を招きやすい。だから、恐るべき戦争を繰り返さないためには、再び全体主義の誤りに陥ってはならない。
これに反して、民主主義は個人の価値と尊厳とに対する深い尊敬を基礎としている。自分の国の国民を尊重するばかりでなく、外国の国民も等しく人間として尊重する。だから、自分の国が栄えるとともに、他の国々もともに栄えることを願う。そこから出て来るものは、偽りのない国際協力の態度であり、崇高な世界平和擁護の精神である。民主主義によってこそ、世界はだんくと一つになる。おのおのの国がその特色を生かし、その任務を果たすことによって、生きとし生けるすべての人間に平安と幸福とをもたらすべき、たゞ一つの世界が次第に築き上げられて行く。


四 権利と責任

個人主義は、自分であると他人であるとを問わず、すべての人間を個人として尊重する。自分を尊重するのは、自分の人格をたいせつにすることであり、自己の正当な権利を擁護することである。人格を重んずる者は、自分の人格をみがくことに努めなければならない。自己の正当な権利を主張する者は、同様に、他人の正当な権利を重んじなければならない。自分の人格がいやしいのに、どうして他人から尊敬されることを期待しえようか。他人の立場を重んじないで、どうして自分の立場だけを認めさせる資格があろうか。だから、個人主義は、個人の権利を重んずると同時に、個人の責任を重んずる。個人個人がその責任を自覚することによって、すべての社会活動が円滑に行われるようになることを期待する。
民主主義の社会生活では、すべての人々が、自分のいっさいの行動について責任を持たなければならない。何か仕事をやってみて、うまく行った時には大いにその権利を主張する代わりに、失敗すればすぐ他人のせいにするというようなやり方は、最もひきょうな態度である。すべての人がそれぞれその持場を守り、その個性を発揮し、責任をもってその任務を遂行するのでなければ、社会生活の向上は望まれない。
野球を見ても、投手はボールを投げ、捕手はボールを受ける。遊撃をゴロがおそえば、はっしとこれを取って二塁に投げ、二塁手は直ちに一塁に転送して、みごとにダブループレイを演ずる。ライトーセンター間の大飛球をふたりの外野手がともに追っても、右翼手が一歩球に近ければ、中堅手は功名争いをやめて、捕球を右翼手にゆずる。九人がそれぞれ別々の行動をし、おのおのその特色を発揮しながら、ちょうどひとりの人が手足を動かすように全体の統一がとれ、みんなで共同の目的に向かって一糸乱れず協力している。民主主義の社会生活も、一流チームの野球のようになればたいしたものだ。
しかし、社会生活は、よりすぐったわずか九人の選手だけでやる野球とは違う。村だけでも何千という村民がある。町には二万、三万の人が集まって生活している。国全体となると何千万どいう人口である。その中には、悪い人間もある。したいほうだいなことをして、他人に大きな迷惑をかける者もある。どろぼうもいれば、強盗もいる。それをそのまゝにしておいたのでは、社会生活は成り立たない。そこで、法律があって、犯罪を処罰する。悪い人間を取り締まる。良民の正当な権利を擁護してくれる。所有権を侵された場合には、それを取りもどしてくれる。不当の損害を受けたならば、裁判所に訴えて、賠償を求めることができる。法律といえば、こわいもののように思い、裁判ざたになるといえば、いまわしいことのように考えるのは、権力をびくびくと恐れていたころのくせが残っているからだ。民主国家の国民は、権利の上に眠っていてはいけない。止しい権利は、堂々と国法に訴えて争うべきだ。法律と裁判所とは、国民によって作られた、国民のための味方でなければならない。
それと同時に、法律上の権利を主張することにだけ急であって、義務を行うことをなおざりにするようであってはならないことは、いうまでもない。まして、法律をたてにとって弱い者をいじめ、非道な契約を押しつけて、不当な利益をむさぼるようなことは、はなはだしい法律の悪用である。
むかし、イタリアのヴェニスに、アントニオという善良な市民がいた。友人のために金を用立てる必要があって、高利貸のシャイロックから三千両を借りた。その証文には、返金できない場合には肉一ポンドを切り取ると書いてあった。アントニオは金を返すことができなかったために、シャイロックはこれを訴えて、約束通り肉一ポンドを切り取ると言って迫った。アントニオの恩を受けた友だちの妻ポーシャは、裁判官に変装して法廷に現われ、証文には肉一ポンドを切り取るとあって、血を取るとは書いてない、一滴の血も流さずに、しかも一ポンドかっきり狂いなく肉を切り取ることができるか、できるものならばやってみよ、と判決し、とうとうシャイロックを恐れ入らせた。これは、シェークスピアの「ヴェニスの商人」の物語である。今の世の中に、こんなばかげた契約があるはずはない。しかし、財産というものは、用い方によっては、弱者を苦しめる強大な武器となる。財産家の利益だけを一方的に保護するような法律制度は、国民の意志によって改めて行く必要がある。
財産は、人間の生活を維持するためになくてならぬ意義を持っ。だから、憲法は財産権を保障し、法律は所有権を保護する。しかし、社会に生活する人々の間の富の不平均が大さくなって来ると、金持の利益はますます増大し、貧乏人はいよいよ不利な立場に追いこまれる。そうなっては、国民のすべてに幸福を分かとうとする民主主義の理想は、だいなしになってしまうことを免れない。この弊害を除き去るためには、経済生活を民主化することが何よりもたいせっである。しかも、それと同時に、社会生活を営む人々が、財産というものについて持つ考え方を変えてぃかなければならない。財産権は、財産家の利益だけのためにあるものであってはならない。財産を持っ者は、それが大きければ大きいだけ、それだけその財産を活用して世の中の福祉を増進して行く責任かある。権利の保護が個人の社会的責任を伴うものであることは、このような現代社会的な財産権の観念の中にもはっきりと現われている。


五 社会道徳

社会に生活する人々が、それぐ責任を重んじ、本分を守り、互に協力しあうのは、人間の踏み行う道徳である。道徳と法律とは、社会の秩序を保つためにどちらも欠くことのできないものであるが、同じ内容の責任にしても、強制的にこれを守らせるのが法律であるのに対して、道徳上の責任となると、自分でそれを自覚し、自らすゝんでそれを実行して行くところにねうちがある。しかも、法律上の責任も、国家から強制されるまでもなく、国民がすゝんで行うようになることが必要であり、道徳上の責任も、どうしてもそれを守らない者があれば、法律的な強制に訴えるほかはなくなる。だから、法律も道徳によって基礎づけられなければ十分に行われないし、道徳も法律が伴なわないと力が弱い。
たとえば、電車の運転手は、いつも信号に注意し、責任をもって運転に従事しなければならない。友だちとの話に気を取られて事故を起したり、不注意で人をひいたりすると、法律によって罰せられる。しかし、多くの運転手は、法律上の処罰を恐れてではなく、たくさんの人命をあずかる責任の重大さを感じて、自らすゝんで注意に注意を重ね、いやしくもあやまちが起らないように気をつけて電車を運転しているたろう。それらの運転手は、法律上の責任を道徳的に守っているのである。また、たどえば、人から借りたものを返すのは、道徳上の義務である。友たちから本を借りたならば、忘れずに返そうと思うであろう。困った時に金を用立ててもらったならば、さいそくされないでも都合のつき次第に返済するたろう。けれども、中には、言を左右にして借財をふみたおす者もある。そういう場合には、法律によって弁済を強制する必要が起る。すなわち、道徳上の義務を法律的に強く行わしめるこどが必要になって来る。
このように、道徳と法律とは、車の両輪のように密接に結びついて、秩序正しい人間の共同生活を維持しているのである。しかし、日常の社会生活では、法律に訴えるまでもなく、道徳の力によって正しい秩序が保たれているに越したことはない。
ところで、日本では、昔から人間の間の「縦の道徳」が非常に重んぜられて来た。下は上を敬い、上は下をいつくしむ、というようなことが、縦の道徳である。特に、君に対する忠ど、親に対する孝とが、国民道徳の根本であるどされて来た。これに対して国民相互の対等の関係を規律する「横の道徳」は、その割にいっこう発達していなかった。「旅の恥はかき捨て」などと言って、だれも知っている人のいない所へ行けば、不道徳な行いをしても平気だというような態度があった。「免れて恥なし」と言って、法律で罰せられる心配がなければ、どんな悪いことでもやってのけるといった連中もあった。そのために、日本人は、やゝもすれば、見ず知らずの人にぶあいそで、非社交的で、公衆道徳を守らないどいう不評判を取るきらいがあった。
このように、縦の道徳だけが重んぜられて横の道徳が軽んぜられたというのは、日本の社会にまだ封建的な要素が残存していることの一つの証拠である。民主主義の社会では、何よりもまず、だれもが同じ対等の人間どして尊敬しあうという気持を養わなければならない。個人の自由の尊さを認識せず、個人の尊厳を自覚しない者は、他人の自由を侵し、他人の人格を傷つけることを意に介しない。日本人には、特にそういう欠点が多い。他人の私生活に不必要に干渉し、それを悪いことと思わないばかりか、どうかすると、かえってそれが親切ででもあるかのように勘違いしている。むやみに他人のことを気にしたがるくせがあり、人の悪口に興じあったり、人をけなしてむなしい優越感を味わったりする傾きがある。こんなありさまでは、政治や法律が民主化されても、民主国家の国民たるにふさわしい社会道徳を備えているとは、とうてい言いえない。
人間どして生まれて来だ以上、何人どいえども、ひとりだけで生きて行けるものではない、人間はお互に持ちつ持たれつの世の中に生まれ、お互のために働き、他人の勤労のおかけで不自由のない生活をすることができるのである。それゆえ、みんなの住む社会をできるだけ住みよい、気持のいいものにして行くことは、お互の義務である。そのためには、各人がお互の個性を認めあい、自分も他人から不当に自由を束縛されることがないようにすると同時に、自分も他人の自由を尊重しなければならない。そうして、常に真実を語り、真実を実行する誠意ど、正義のためには断乎として譲らぬ勇気とを持ち続けなければならない。社会生活における民主主義の成否は、そのように、社会公共の福祉のために尽くそうとする誠意と勇気とを持った人々が、多いか少ないかによって決まるのである。
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長崎の原爆の日

8月9日今日は長崎の原爆の日です。

去年も紹介しましたが、永井隆博士の著書「長崎の鐘」を原作として、作られた映画の曲です。作詞:サトウハチロウ 作曲:古関裕而 歌:藤山一郎


http://nagasakipeace.jp/
長崎原爆資料館

http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/index.html
長崎新聞ピースサイト
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文部省 教科書「民主主義」 目次

今まで、このブログで、1948年と1989年に、文部省が作成した教科書、「民主主義 上・下」を紹介してきた。

    民主主義上   民主主義下  

このブログで紹介した以外にどのようなことが書かれているか、この上・下二冊の目次を紹介します。

目次の一覧を作っていると、まだまだこのブログで紹介したいものがおおくあります。
また、その中には今の時代に合わないもの、特にアメリカの占領下にあり、GHQの検閲もあった時代でした。そのうえ、1950年の、ジョセフ・レイモンド・マッカーシーの告発による、反共産主義に基づく社会運動、政治的運動が起き、共産主義者であるとの批判を受け政府職員、マスメディア関係者などが攻撃される直前に出版されたものです。この教科書はそれらの影響を受けなかったことはないでしょう。
そのあたりを加味して読んでいく必要があるが、民主主義の基本的なところは、今のよもその当時も不変であり普遍です。

選挙年齢が18歳に引き下げられました、来年の参議院選は18歳人がはじめて国政選挙に参加します。今まで、高校では政治について教えられてきていないです。私の中高のころは、民主主義について教えることの大切さがまだ、学校での生徒会選挙や学校新聞などばで、議論されてきましたが。しかし、1970年半ばごろからはそれが衰えていったようです。そのような状況ですから、この文部省が作った「民主主義」の教科書は、有用なテキストと言えるものです。
いまは、私の手元にある茶けた古本の匂いがするほんは、古本屋を探してもなかなか手に入らないです。しかし、径書房(こみちしょぼう)から、復古版として出版されています。(いまも、増刷されているかどうかはわかりませんが。)
また、高校生でも手軽に買える値段の、新書版や文庫版として書店に並ぶ日を待ち望みたいものです。

そこで、〔民主主義 文部省〕で検索をかけると、「民主主義 上」がヒットします。インターネットですが、今すぐもっと読みたいかたは、これを利用されてはいかがでしょうか。PDFファイルでダウロードして読むことができます。
わたしがいままで、このブログに紹介したものは、旧字体の漢字を、現在使われている漢字に直していますが、当然ここで見ることができるのは、旧字体です。

民主主義 上
目次
はしがき
・ 第一章 民主主義の本質
  ・ 一 民主主義の根本精神.........................1
  ・ 二 下から上への権威.......5
  ・ 三 民主主義の国民生活.........................9
  ・ 四 自由と平等................................12
  ・ 五 民主主義の幅の広さ........................17
・ 第二章 民主主義の発達
  ・ 一 古代の民主主義............................20
  ・ 二 イギリスにおける民主主義の発達............21
  ・ 三 アメリカにおける民主主義の発達............29
  ・ 四 フランスにおける民主主義の発達............38
・ 第三章 民主主義の諸制度
  ・ 一 民主主義と反対の制度......................44
  ・ 二 民主政治のおもな型........................48
  ・ 三 イギリスの制度............................51
  ・ 四 アメリカの制度............................55
  ・ 五 スイスの制度..............................60
・ 第四章 選挙権
  ・ 一 国民の代表者の選挙........................64
  ・ 二 選挙の方法................................68
  ・ 三 選挙権の拡張..............................71
  ・ 四 婦人参政権................................75
  ・ 五 選挙の権利と選挙の義務....................78
・ 第五章 多数決
  ・ 一 民主主義と多数決..........................82
  ・ 二 多数決原理に対する疑問....................83
  ・ 三 民主政治の落し穴..........................87
  ・ 四 多数決と言論の自由........................90
  ・ 五 多数決による政治の進歩....................94
・ 第六章 目ざめた有権者
  ・ 一 民主主義と世論............................98        
  ・ 二 宣伝とはどんなものか.....................101        
  ・ 三 宣伝によって国民をあざむく方法...........104    
  ・ 四 宣伝機関.................................109               
  ・ 五 報道に対する科学的考察...................113        
・ 第七章 政治と国民
  ・ 一 人任せの政治と自分たちの政治.............118
  ・ 二 地方自治.................................121
  ・ 三 国の政治.................................124
  ・ 四 政党.....................................127
  ・ 五 政党政治の弊害...........................130
・ 第八章 社会生活における民主主義
  ・ 一 社会生活の民主化.........................135
  ・ 二 個人の尊重...............................139
  ・ 三 個人主義.................................142
  ・ 四 権利と責任...............................145
  ・ 五 社会道德.................................149
・ 第九章 経済生活における民主主義
  ・ 一 自由競爭の利益...........................152
  ・ 二 独占の弊害...............................157
  ・ 三 資本主義と社会主義.......................160
  ・ 四 統制の必要とその民主化...................168
  ・ 五 協同組合の発達...........................172
  ・ 六 消費者の保護.............................177
・ 第十章 民主主義と労働組合
  ・ 一 労働組合の目的...........................182
  ・ 二 労働組合の任務...........................185
  ・ 三 産業平和の実現...........................188
  ・ 四 団体交渉.................................191
  ・ 五 日本の労働組合...........................195
  ・ 六 労働組合の政治活動.......................199
・ 第十一章 民主主義と独裁主義
  ・ 一 民主主義の三つの側面.....................203
  ・ 二 民主主義に対する非難.....................208
  ・ 三 民主主義の答..............................211
  ・ 四 共産主義の立場............................214
  ・ 五 プロレタリアの独裁........................222
  ・ 六 共産主義と民主主義........................228
  ・ 索引.........................................1~7

民主主義 下
・ 第十二章 日本における民主主義の歴史
  ・ 一 明治初年の自由民権運動....................233   
  ・ 二 明治憲法の制定............................239
  ・ 三 明治憲法の内容............................241
  ・ 四 日本における政党政治......................246
  ・ 五 政党政治の末路............................252
・ 第十三章 新憲法に現われた民主主義
  ・ 一 日本国憲法の成立..........................258
  ・ 二 国民主権..................................259
  ・ 三 国会中心主義..............................268
  ・ 四 違憲立法の審査............................274
  ・ 五 国民の基本的権利..........................276
・ 第十四章 民主主義の学び方
  ・ 一 民主主義を学ぶ方法........................282
  ・ 二 学校教育刷新..............................283
  ・ 三 教育の機会均等と新教育の方針..............288
  ・ 四 「民主主義教育」の実践....................293
  ・ 五 校友会....................................298
  ・ 六 校外活動..................................301
・ 第十五章 日本婦人の新しい責任
  ・ 一 婦人参政権運動............................305
  ・ 二 婦人と政治................................310
  ・ 三 これからの女子教育........................314
  ・ 四 婦人と家庭生活............................318
  ・ 五 婦人と労働................................325
・ 第十六章 国際生活における民主主義
  ・ 一 民主主義と世界平和........................329
  ・ 二 国際民主主義と国際連合....................333
  ・ 三 世界国家の問題............................341
  ・ 四 ユネスコ..................................344
  ・ 五 日本の前途................................349
・ 第十七章 民主主義のもたらすもの
  ・ 一 民主主義は何をもたらすのか................352
  ・ 二 民主主義の原動力..........................354
  ・ 三 民主主義のなしうること....................359
  ・ 四 協同の力..................................364
  ・ 五 討論と実行................................369

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■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
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記事へのコメント
  • 茶番の衆議院選挙
    アジシオ次郎 (10/05)
    おはようございます。

    民進党の解体、小池百合子東京都知事が立ち上げた希望の党、ハッキリ言って今回の選挙は乱立の様相を呈しそうですが、野党票割れを起こして自民党
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/26)
    > 政策に反対表明するための無抵抗なデモ行進、座り込みや集会を無理に解散させようとする警察官たちが、職務とは言え反対する人たちを排除しようとするのを見るとむし
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/24)
    民主的な選挙で政権交代がなされるようになり、政府への反対で暴力を使うことは、民衆の支持を失い反発され逆効果になるようになりました。>政策に反対表明するための無抵
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/24)
    日本人は長いものにはまかれろ、付和雷同性の国民性もあるのは確かだと思います。それは別段日本人に限ったことではないと思います。
    第二次世界大戦でフランス政府はドイ
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/23)
    かかる為政者の存在を許してきたのは、日本人の「ながいものにまかれる、お上に任せば・・、なるようにしかならない」と付和雷同性の強い国民性に由来するものではないでし
  • フェイクニュース
    アジシオ次郎 (09/16)
    おはようございます。

    ネットの普及に伴い様々なニュースが見れるようになった昨今、ただ自分の好みに合った情報しか信じないという弊害が出ることもそうだし、多様性を
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    竹林泉水 (09/10)
    顔認証技術が進み、個人の識別だけに利用されるならまだしも、個人の管理に利用されるのは非常に問題が多いと思います。

    松井知事の発言があまり問題になっていないのも不
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    アジシオ次郎 (09/09)
    こんにちは。

    いくらギャンブル依存症対策とはいえ、入場確認や顔認証システムを導入するのは一部から「プライバシーの侵害だ」と批判を浴びてもおかしくありませんね。
  • 終戦の日の前後のテレビ番組
    竹林泉水 (08/23)
    国際的な政治・外交問題は素人的な言い方をすれば、早い者勝ちで勝ち逃げすればセーフ的なところがありますね。
    国の名前に「帝国」冠して大日本帝国として、そのころ時代
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