天台小止観を読む 3ー5
天台小止観 3ー5
五つ目に坐禅をするとき、抱いてはならないのが、疑いを持つことだと言っている。
なぜ疑ってはいけないのかと言うと、信じる心が邪魔され妨げられるからだと言っている。信じる心がなければ、どんなに善いことでも、それを穫り入れることはできない。
疑う心はいろいろとあるが、それが全部が全部修行の邪魔をしてしまうものではない。邪魔をする疑いとは、次の三つだと言える。
一つは、自分自身を疑うこと、
二つは、師を疑うこと、
三つは、法を疑うこと。
一つは、自分自身を疑うということは、自分は頭もよくないし、日常生活の中で戒めを破ることが多く、俗世間のわずらわしい事柄にまみれてしまい汚れも多いので、いくら修行をしても同じだと思い込んでしまい、修行をして汚れのない人になるにそれに適した人間ではないと自分を疑ってしまう。このような思いに取り付かれてしまっては、禅定の法はいつまでたっても、修行の成果などは表れてこないのが当然である。
この思いをなくすには、なによりもまず自分自身を見下したり侮ってしまわないことである。自分の生まれつきもっているものには、測りがたいものがあることを信じることである。
二つは、師を疑うこと、
自分を侮ってはいけないのと同じように、これから指導してくれる師とする人を、侮るなことはならないことです。
自分を指導してくれる人を、自分より若からとか、容姿人が見窄らしい。このようなことを捉え、どうしてあのような人が私に教えることができるのかと、不信感や侮てしまっては、、驕り高ぶってしまうこと自体が、すでにこれから修行をしようとする心がどこかに行ってしまていて、修行の準備ができていないことになる。
しかし、人は往々にして、そのように人を自分と比べてみがちです。しかしそれは人からものを学ぶことにおいて、素直に学ぶことができない障害になることは明らかです。
経のなかにも、「臭い匂いの皮袋の中に金が入っている。この皮袋が臭いからといって、袋を捨ててしまっては金を得ることができない」。と言っています。
師の教えの中には尊い信実があるので、表図等だけをみて師を侮ってしまては、学び得るものはなくなってしまうから、疑ってはならないと言うことでしょう。
三つは、仏法を疑うこと。
人は今までの自分の教えられたことや、自分が信じていること、考えていることに執われて、新しい考えや今までと違う考えを受け入れるのを嫌う傾向があります。それは、今まで通りだとたとえそれが間違っていても、その結果が予測できるが、未知のことにたいしては結果の予測が困難なため不安になるからです。たとえそれが間違っていたり失敗することになっても、予測通りなる方が安心だからそちらを選んでしまうのです。
新しい教えなどのその法には、それを信じて受け入れることをしたがらないことが多い。もし疑いや猶予の心が生じてしまっては修行を最後まですることはできない。
そして天台小止観に、「疑いの義の偈」を上げているのでそれを紹介しておきます。
人が枝にさしかっかて
疑惑がはじまったら行くところがないのと同じである
諸法の実相のなかの疑いもまたこれと同じことである
疑う故に
諸法の実相を勤求しようとしない
この疑いは癡より生じたものであり
悪のなかの悪なるものである
善・不善のものごとのなかで
生死と涅槃は
定んで実なるものであって真にそれがある
なかにおいて疑いを生じてはならない
汝がも疑惑をいだいたとすれば
地獄の獄卒に縛られたように
師子に搏われた鹿のように
すくわれることができない
世にあっては疑いがあったとしても
まさに仏の教えには随うべきである
譬えば岐れ道を見たときに
利好の者はまさに逐うべきがごとし」
と。
五つ目に坐禅をするとき、抱いてはならないのが、疑いを持つことだと言っている。
なぜ疑ってはいけないのかと言うと、信じる心が邪魔され妨げられるからだと言っている。信じる心がなければ、どんなに善いことでも、それを穫り入れることはできない。
疑う心はいろいろとあるが、それが全部が全部修行の邪魔をしてしまうものではない。邪魔をする疑いとは、次の三つだと言える。
一つは、自分自身を疑うこと、
二つは、師を疑うこと、
三つは、法を疑うこと。
一つは、自分自身を疑うということは、自分は頭もよくないし、日常生活の中で戒めを破ることが多く、俗世間のわずらわしい事柄にまみれてしまい汚れも多いので、いくら修行をしても同じだと思い込んでしまい、修行をして汚れのない人になるにそれに適した人間ではないと自分を疑ってしまう。このような思いに取り付かれてしまっては、禅定の法はいつまでたっても、修行の成果などは表れてこないのが当然である。
この思いをなくすには、なによりもまず自分自身を見下したり侮ってしまわないことである。自分の生まれつきもっているものには、測りがたいものがあることを信じることである。
二つは、師を疑うこと、
自分を侮ってはいけないのと同じように、これから指導してくれる師とする人を、侮るなことはならないことです。
自分を指導してくれる人を、自分より若からとか、容姿人が見窄らしい。このようなことを捉え、どうしてあのような人が私に教えることができるのかと、不信感や侮てしまっては、、驕り高ぶってしまうこと自体が、すでにこれから修行をしようとする心がどこかに行ってしまていて、修行の準備ができていないことになる。
しかし、人は往々にして、そのように人を自分と比べてみがちです。しかしそれは人からものを学ぶことにおいて、素直に学ぶことができない障害になることは明らかです。
経のなかにも、「臭い匂いの皮袋の中に金が入っている。この皮袋が臭いからといって、袋を捨ててしまっては金を得ることができない」。と言っています。
師の教えの中には尊い信実があるので、表図等だけをみて師を侮ってしまては、学び得るものはなくなってしまうから、疑ってはならないと言うことでしょう。
三つは、仏法を疑うこと。
人は今までの自分の教えられたことや、自分が信じていること、考えていることに執われて、新しい考えや今までと違う考えを受け入れるのを嫌う傾向があります。それは、今まで通りだとたとえそれが間違っていても、その結果が予測できるが、未知のことにたいしては結果の予測が困難なため不安になるからです。たとえそれが間違っていたり失敗することになっても、予測通りなる方が安心だからそちらを選んでしまうのです。
新しい教えなどのその法には、それを信じて受け入れることをしたがらないことが多い。もし疑いや猶予の心が生じてしまっては修行を最後まですることはできない。
そして天台小止観に、「疑いの義の偈」を上げているのでそれを紹介しておきます。
人が枝にさしかっかて
疑惑がはじまったら行くところがないのと同じである
諸法の実相のなかの疑いもまたこれと同じことである
疑う故に
諸法の実相を勤求しようとしない
この疑いは癡より生じたものであり
悪のなかの悪なるものである
善・不善のものごとのなかで
生死と涅槃は
定んで実なるものであって真にそれがある
なかにおいて疑いを生じてはならない
汝がも疑惑をいだいたとすれば
地獄の獄卒に縛られたように
師子に搏われた鹿のように
すくわれることができない
世にあっては疑いがあったとしても
まさに仏の教えには随うべきである
譬えば岐れ道を見たときに
利好の者はまさに逐うべきがごとし」
と。