竹林の Twitter 新しいウインドウで開きます。

行動はがんばっても、気持ちはがんばりすぎない

行動はがんばっても、気持ちはがんばりすぎないように

何事にでも一つの事に取り組むとき、私たちの行動は一生懸命に努力して頑張ってしまいます。しかしあまりにも頑張って気張り過ぎ、力が入り過ぎてしまうことがあります。そして中には気持ちが緊張してしまい、逆にうまくいかなる人がいます。
そうなるとさらに気持ちが疲れてしまい、息切れして途中で中断したり、変更したり縮小してしまうことになってしまいます。
それにはリラックスしのんびりした気持ちで、行動は一生でな一所懸命に行えば良いのですが、なかなかうまくそれが出来ません。つい頑張り過ぎてしまうことが多くはないでしょうか。

日本の武術や稽古事、中国の太極拳などをしていると、よく気沈丹田とか、以心行気 以気運身などの言葉を聞きます。
ことばとしては、気は沈め腹に納めよということです。
しかし、これが難しく「~しなければならない」と思うとますます力が入ってしまいます。力を抜いてしなさいと言われると、指摘された場所にますます力が入ってしまいます。

私たちは力を入れることはたやすいのですが、なんでもないように思える力を抜くことは実は非常に難しのです。
ひごろから、なんでもないときから気持ちをリラックスさせ、同時に身体の力を抜くことを試すことを心がけてすると、次第に普段でもできるようになり、いざというときに役立つようになるものです。

また、何事につけても「ことなんて何もない」と思うこと。しなければならないと思いすぎ、強迫感覚を持ってしまわないことです。また、頑張りすぎている自分を気づいても意識しすぎなようにしたいものです。



関連記事

チキンリトル

チキンリトル  イギリスの寓話。

ある天気のいい日に、小さな鶏のチキンリトルが森の中を散歩していると、頭の上にどんぐりが落ちてきた。チキンリトルはびっくりして、あまりにも激しく全身を震わしてしまったので、羽が半分抜け落ちてしまった。
チキンリトルは「助けて!助けて!」と叫びながら村に駆け込みました。「空が落ちてくる、王様に知らせに行かないと」と言いながら、王様に知らせに走りました。
あわてて走って行くテキンリトルを見つけて、めんどりのへニーペニーは言いました。
「どこへ行くの、チキンリトル」
チキンリトルは叫びました。
「ああ助けて、空が落ちてくる」
ヘニーペニーは
「どうしてわかるの」と尋ねました。
「だってこの目で見たし、この耳で聞いたし、空のかけらが頭の上に落ちてきたのよ」とチキンリトルは答えました。
「それは、なんて恐ろしいこと、急いでみなに知らせなくては」とへニーベニーは泣きながら言いました。
そして二羽のにわとりは、大急ぎで走り出しました。

すると二羽のにわとりは、あひるとのダッキーラッキーに会いました。
「そんなに急いでどこに行くのだい」とダッキーラッキーは尋ねました。
二羽のにわとりは、
「空が落ちてくるの、私たちは王様に知らせにいくとろなのよ!」と叫びました。
ダッキーラッキーは
「どうしてそれがわかるのだい」と尋ねました。
すると、チキンリトルは
「だってこの目で見たし、この耳で聞いたし、空のかけらが頭の上に落ちてきたのよ」と答えました。
ダッキーラッキーは
「ほんとかい、それは大変だ急いで逃げなくては」と叫びながら叫び泣きました。
三匹は全速力で町を駆け抜けていました。

やがて、道端でのんびり歩いている、がちょうのグーシールーシーに出会いました。
「今日は、みんなそんなにあわててどこにいくのだい」とグーシールーシーが尋ねました。
「空が落ちてくるの」とチキンリトルとヘニーペニーが答え、
「王様のところに知らせにいくの」とダッキーラッキガ言いました。
「どうして空が落ちてくるのがわかるのだい」とグーシールーシーとたずねました。
チキンリトルは
「だってこの目で見たし、この耳で聞いたし、空のかけらが頭の上に落ちてきたのよ」と答えました。
グーシールーシーは「それは大変だ私も逃げなくて」と三匹と一緒に走れ出しました。

やがて彼らは、七面鳥のターキーラーキーに出会いました。
ターキーラーキーは
「みんなそんなに急いでどこにいくのだい」と尋ねました。
三匹は答えました
「空が落っこちてくるので、みんな必死で走っているところなの」
「王様のところに知らせに行くところなの」とみんなで答えました。
ターキーラーキーは尋ねました「どうして空が落ちてくるのがわかるのだい」と。
チキンリトルは
「だってこの目で見たし、この耳で聞いたし、空のかけらが頭の上に落ちてきたのよ」と答えました。
「それは大変だ、いつかは空が落ちてくるのではないかと思っていたところだ、僕も一緒ににげよう」とターキーラーキーは言いました。

そうしてみんなで走っていると、きつねのフォークシーロクシーに出会いました。
「みんなそろって、こんないい天気の日にあわててどこにいくのだね」と尋ねました。
そうすると、鳥たちはまちまちに大声て叫びながら「助けて、助けて、空が落ちてくる、今 急いで王様に知らせにいくところです」と言いました。
「おやおや、それは大変だ」とフォークシーロクシーがいいました。
「どうして、空が落ちてくるのがわかるのかい」とフォークシーロクシー聞くと、チキンリトルは
「この目で見たし、この耳で聞いたし、空のかけらが頭の上に落ちてきて当たったのよ」と言いました。
すると、フォークシーロクシーは
「わかった、わかった。王様のところに行く、近道を教えてあげよう。僕についておいで」と言ってみんなをつれていきました。
フォークシーロクシーの案内したところは、自分の巣穴に案内したのでした。
そして、チキンリトル、ヘニーペニー、ダッキーラッキー、グーシールーシ、ターキーラーキーの鳥たちは二度とその穴から出てくることはなく、王様に知らせにいくこともできませんでした。



なんでもないことをとりとめなく思い、過大に心配してしまいその愚かさを物語っています。
一つの教えですね。
中国の列子にも、この教えと同じような話が書かれています。日常的に使う言葉である言われの「杞憂」を考ええてみます。





関連記事

剛毅木訥

剛毅木訥、仁に近し。(ごうきぼくとつ じんちかし)
孔子  論語 子路篇  

意志が強く、ほかの人の言葉に迎合したりしないで、うわべを飾って、自分をよく見せようとしない人は、他を思いやり、いつくしむ心を以ている。他を思いやる心を持つことは自己を完成させる最高の徳をそなえた人と言えるに等しい。

愛想がなくてとっつきにくい人は、利己的な打算がなく飾ることもしないので、、当然かざりけがなく話し下手な木訥になるでしょう。
みずから正しいと信ずるものの前には、その生命さえ惜しまぬなら、当然剛毅になるであろう。

しかし、このような人間でも、仁である完成した徳をそなえた人そのものではない。

聖人と呼ばれるような、徳のある人とは、いないもので人とはなにがしの欠陥があり、それがまた人たる人と言えるのでしょう。

関連記事

天に星 地に花 人に愛

天に星  
地に花  
人に愛    
実篤   
先日、昼食を食べに入った、食堂に飾ってあった、色紙に書いてあったことばです。

あるべきところに、あるべきものですね。
天に星がなくてはならないし、目印がない海を航海するときには、動かぬ星を頼りにできます。
地には花がなければ大地の恵みはない上に、春になっても花が咲かなければ、暖かくなっても不毛の続くばかいりです。

人にはやはり愛がなけれは、人生はどのようになるのでそうか。
関連記事

杞憂

杞憂  列子  

杞は、今の河南省杞県   
その杞の国に世の中が亡びるのではないかと憂いていた者の話。

杞の国に天地が崩れ落ち、身の置き所がなくなると、心配して
夜も眠れず食べ物も咽に通らない男がいた。
すると、その男が心配していることをさらに心配する男がいて、出かけていって説得した。
「天は気の集まりでしかない。気は何処にでも存在するもので、人が体を曲げ伸ばししたり、息を吸ったり吐いたりする日常の動作も、一日じゅう天の中でおこなっていることだ。それをどうして君は、天が崩れ落ちてくると心配するのか」
するとその男が問うた
「天がもし気の集まりとするなら、日や月や星は落ちてくこないと言えるのか」
説得しにきた男はさらに
「日や月や星も気の集まりの中で輝くものに過ぎない、たとえ落ちてきたとしても、人に危害をくわえることはない」
すると男はさらに問うた
「大地が壊れるようなことはないのか」
さらに説得しにきた男は
「大地は土の塊でしかいない、世界の四方の果てまで充ちふさがっていて、どこもかしこもが土の塊である。人が立ち止まったり歩いたり踏みつけるのは、日常のごくありふれた動作で、そのようなのにどうして君は大地が崩れると心配するのか」
その男はそれを聞くと、その心配していた男は、大いに喜び、説得にきた男も大いに喜んだ。

これがみな欲知っている「杞憂」の由来です。

しかし、最近天変地異の自然災害が起き、杞憂は杞憂でなくなって現実のものとして起こっている。
東北の大地震で地は割れ、大津波で流され、紀伊の大雨で山は崩れてしまう。また、天からは星ではないが、人工物が落下すると度々報道されている。

この列子の「杞憂」には、続きの話が二つある。

この杞憂の話をきいた、長廬子という道理に通じた人が笑っていった。
「虹や雲や霧や風雨や四季の移ろいは、気の集まりが天界で構成される現象である。また大地や海や河、金や石や火や木などは、物が集まって地上で成したものである。もしこれらが気のあつまりであり、物の塊であることを知るならば、形あるものは必ず崩れ壊れるのであるから、天も広大な宇宙の一つであり、一つの極めて小さなものと言わざるを得なが、形あるものとしては極めて巨大なものである。だからその本質が尽くしがたく究め難いものである。そしてその正体は測りがたく知り難いものである。天地が崩壊するなどとは、遠大すぎて崩壊しないとは言い切るのは必ずしも正しくはない。天地が崩壊するときはするのであって、その時はめぐりあわせでまさに憂い悲しまずにはおられないものである」

この長廬子の言葉に対してそして列子は次のように言っている。
「天地が崩壊すると言い切るのは間違っているし、また天地は崩壊しないと言い切るのも間違っている。それは、崩壊するかしないかがわからないことであり、崩壊する崩壊しないはどちらも一つの見方である。このようにして、生きている者には死んでいる者のことはわからない、死んでいる者は生きている者はわからない。未来の人間には過去のことはわからないし、過去の人間には将来のことはわからない。天地が崩壊しようがしまいが、そのようなことに心を乱されてはならず、無心の境地こそ大切なのだ」と。

今の世の中いろいろ先行きが心配なことばかりです。
原発のこと、年金のこと、エネルギーのこと、市民権のこと、身近な生活にかんすることなどあり過ぎてきりがありません。
欲を出せば出すほど心配になってきます、あまり心配しすぎて乗る舟を誤ってしまわないようにしたいです。
また、乗る舟の船頭も先をよく見分けられる人を選ばないと、船は座礁したり沈没してしまいます。
その上船頭が多くいると、船は山に乗り上げてしまいます。そうならないように、目先に取らわれて心を乱してしまわなようにしたいです。

関連記事

ウォルト・ディズニーのリトルチキン1943年製作

ウォルト・ディズニーのリトルチキン1943年製作

ある農場の柵の中で飼われているニワトリやアヒルたちを、腹を空かせたキツネのフォクシーロクシーは食べてしまおうと、いろいろ策略をたてるが・・・。

キツネのフォクシーロクシーはキツネを食べようとすが、柵の中に入れないし、農夫のライフルを恐れたキツネのフォクシーは、心理学の本を読んで勉強してニワトリのチキンリトルを騙すことにする。
フォクシーは神の名を騙り「空が落ちてくる、早く逃げるのだ」と告げる。
まんまと騙されたチキンリトルは柵の中を駆け回り「大変だ、空が落ちてくる、早く逃げよう」と大騒ぎする。
しかし、ニワトリのリーダーであるコッキーロッキーは、「空は落ちてこない」と皆を諭し全員を静めてしまう。

鳥たちを騙す策に失敗したフォクシーはさらに心理学の本を読み、コッキーロッキーに関する悪い嘘の噂を流すことにする。コッキーロッキーはニワトリたちからの信頼を一気に失ってしまう。

キツネのフォクシーはチキンリトルに「お前がリーダーになってみんなを救うのだ」と言い唆す。
柵の中の鳥たちはコッキーロッキーではなくチキンリトルを信じることにした。
フォクシーは「洞穴へ行け」とチキンリトルを唆す。それを聞いたチキンリトルが「洞穴へ行くんだ!」と叫ぶと、ニワトリたちは大慌てで柵を突き破って洞穴へ向かう。

洞穴に駆け込んだニワトリたちは待ち構えていたフォクシーに食べられてしまった。

ディズニーの作品としては、珍しい展開の終わり方をしています。そこで、キツネのフォクシーは「たまにはこういう終わりがあってもいいだろう?」締めくくっているそうです。


教訓としては、杞憂やイギリスの寓話より、教えられるところはありそうですね。
いま、世の中には大きな声をだしている、チキンリトルが沢山でてきているように思います。
くれぐれも騙されないようにしたいものです。

関連記事

終わりよければすべてよし 始めよければ後は野と成れ山と成れ

「終わりよければすべてよし」
「始めよければ後は野と成れ山と成れ」
どちらも困りものですね。

今の政治家はどちらかと言うと、後者でしょうか。
いま世間の話題になっている人たちは、前者でしょうか。

いやいや、なかなか終わりが見えないのは、終わりを大切にしすぎて、周囲に気を使いすぎて遅々として進まずにいるのでしょうか。

それとも、始めは派手に花火を打ち上げて、後はその勢いで突き進み、次から次へと花火を上げて、最後はどの様になるか明確な絵が見えてこない。

どちらも困りものですね。


関連記事

目には目を歯には歯を

目には目を歯には歯を

「目には目を歯には歯を」
この慣用句は、ハムラビ法典からとったものです。
ハムラビ法典は、ハムラビが発布した法典で、完全な形で残る最古の法典。慣習法を成文化した282条から成る法律といわれています。また、この法はその内容から同害報復法とも呼ばれています。怨みによる復讐を禁止し罰としてとの、規定を定めたものと言えるでしょう。

また、旧約聖書の出エジプト記二一章に次のように書かれています。
「22もし人が互いに争って、身もごった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくても、彼は必ずその女の夫の求める罰金が課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなくてはならない23しかし、ほかの害ある時は、命には命、24目には目、歯には歯、手に手、足には足、25焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には、打ち傷をもって償わなければならない。」

「目には目を歯には歯を」といえば、よく報復合戦を認め推奨しているように思い起こしてしまいますが、ハムビラ法典や旧約聖書を読むとそうではなく、法律でその罰を規定しているもので、危害や損害を受けた以上のことを、相手にしてはならない、報復を戒めている言葉なのです。
旧約聖書には、この後に刑事のことだけでなく、民事ことについても同様のことが書かれいます。


そして、旧約聖書レビ記一九章15節には次のように書かれゑいます。
「さばきをするとき、不正を行ってはならない。貧しい者を片よせってかばい、力ある者を曲げて助けてはならない。ただ正義をもって隣人をさばかなければならない。」
旧約聖書レビ記一九章18節には、
「あなたはあだを返してはならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主であるように。」

そしてさらに、新約聖書マタイの福音書五章38~39節にも書かれています。
「38『目には目を、歯には歯を』と言われたことは、あなたがたの聞いているところである。39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
新約聖書マタイの福音書五章43~44節
「43『隣の人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」

『目には目を、歯には歯を』の言葉が一人歩きし、復讐してもよいと受け取られてしまったので、マタイの福音で改めて正しい意味の、復讐してはいけない、復讐心から解放されなければならないと諭しているのでしょう。
ハムラビ法典にしろ、旧約聖書、新約聖書に書かれていることにしろ、復讐を禁止しているのです。

いまの身近で起きた事件のその後をみていたり、国際社会での出来事を見ていると、まさにこの言葉を思わされます。この悲しみの辛さは癒えることはない、やられたらやり返すとなり。「この怨み晴らさでか」と「怨念の怖さ」を思い起こします。復讐の論理を持つと子々孫々と復讐の連鎖が続き怨念から解放されることはないでしょう。

本当はこの「目には目を、歯には歯を」は法によって裁かれなくてはならない、怨みによって罰してはいけないと戒めたものなのです。

関連記事

怨みを捨ててこそ息む  

怨みを捨ててこそ息む  
ブッダ  ダンマパダ  

「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。
(岩波文庫版 ブッダの真理のことば 感興のことば 第一章三、四、五)


あの人は、わたしを口汚く悪口をいった 悪い影響やわざわいをもたらした じぶんより優位にたち自分を負かした 脅したりして無理矢理に奪い取った。このような心が沸き起こるうちは、いつまでも心がやすまることはない。
しかし、それらの心を静めていくと、心は安まるものだ。
この世の中は、怨みを持って怨みを沈めようとしても、怨みは晴れるものではない。それらの怨みを捨て、それまでの関係を断ち切って構わないでおくと、心は安らぐものである。
このことは、いつでもどこでも変わらない、否定のしようのないことである。

私たちが生活をしていると、いろいろなことがある、楽しいことやいいことばかりでない。些細なことで腹を立てたり、妬んだり恨んだりしてしまう。そしてそのようなことに腹をたて怒ったりする。
あの人より私の方は実力があるのに、あの人の方が出世している、などと嫉妬をする。ちょっと他人の持っているものを羨んだりもする。そのような様々な欲の心に蓋をしなさい。そうすれば怒りの心は鎮まり、周囲のみなと仲良く楽しく気持ちよく過ごすことができる。
そのようなことは、よく判っているがそれがなかなか出来ないからこそ、ひびそれに努めようとする心が大切なのでしょう。

関連記事

いかなごの釘煮

関西の市場にいかなごが、でまわりはじめました。
この、くぎ煮のにおいがし出すと、春ももうそこまできています。




今年も、白ご飯の食が進みそうです。


関連記事

石橋を叩いて渡る

石橋を叩いて渡る

「非常に用心深くものごとを行なう」ということですが、
よく、石橋を叩いても渡れない・・・という人がいます。
また、紙の橋も叩かずに渡る・・・・という人もいます。

用心し過ぎるのもこまりものですが、不用心もこまりものです。
用心し過ぎると、前に進めないことになり、立ち止まってしまうが、時は流れ周囲は変わっていきます。
不用心になると、時の流れに押し流されて、自分が何処にいるのかわからなくなってしまいます。

自分のペースを知り掴み、自分のペースで進んでいけるのが一番よいのですが、なかなか難しいものです。

また、用心することも大切だが、自分の未知の可能性に賭けることも大切です。時にはそれが一番大切なことも多々ると言えるでしょう。

未知のことに対しては、先が見えず不安になるものです、そこで想像力を働かして、先を見通して見る必要があるでしょう。なんでも「やってみないとわかりません」。結果は良きも悪しきもおこなってみないと分かりません、結果はどうであれ必ずどこかで役立つでしょう。

関連記事

四角い部屋を丸く掃き。

四角い部屋を丸く掃き。

生活が便利になり、自由な時間が沢山でてきた。
その分、人は工夫する余裕が、前より出てきたかと思うのだが、実際はそんなに工夫を凝らしているのだろうか、実は反対のように思えてくる。

掃除はいまは、電気掃除機がある。昔は埃が舞い散らないように、茶殻を床にまいたり、古新聞を湿らし小さくちぎってまいたりして箒で掃いていた。今は、ボタンを押すだけで勝手に掃除機が動き回り掃除をする。

ご飯を炊くのは、炊飯器がある。昔は米一粒たりとこぼさないように、小石一粒たりと見逃さなように、米を研いでいた。そして、竈で美味しいご飯を炊くのに、気を許さずに見張り、はじめチョロチョロなかパッパ、赤子泣いてもふたとるな。今は、電気炊飯器と無洗米をうので、水を入れてボタンを押すだけ。

洗濯するには洗濯機がある。昔は冬の寒い日に冷たい水を触るので辛かった。しかも、衣類を選択するのに、手洗いをするときはこの生地はこうだからと、それに合った洗い方をしていました。
そして、手回し搾り機の付いていた洗濯機や二層式洗濯事でだいぶ楽になった。しかし、洗濯には結構な時間がかかる。
最近の全自動洗濯機は、入れるだけで洗濯物の量と内容を調べ、それに適した洗濯をして乾燥までしてくれ、
今は汚れ物を全自動の洗濯機に入れて、ボタンを押すだけ。

昔は沢庵を一枚だけ残しておき、ご飯を食べた後にお茶碗にお湯を入れ、沢庵で綺麗に拭いておいた。
パンを食べるときも、少しパンを残し置き、洋食皿についたソースや油をふき取ってそのパンをいただいた。
食器を洗うのも、冷たい水で洗っていた。
最近は食器洗濯機まででてきてる。ただこちらの方は食器洗濯機に入れる前に、食器を洗うことをする。なんの為の食器洗濯機だろうかと思う。

今日の一日の家事をするうえで、どのように遣り繰り算段するか考えなくなり、手間暇を掛けていたことが少なくなった。
それどころか、だんだん掃除洗濯も粗雑になってきて、少しのことでも面倒臭がり、今すればよいことも、後回しにしたりする。
そして、何もしなくなって考えないようになり。部屋が散らかっていても散らかっていると思わず、みずやの中は整理されず、箪笥のなかの衣類も夏物冬物が仲良く並び。四角い部屋を丸く掃き、部屋の隅は埃が周っている。

関連記事

一隅を照らす

一隅を照らす
最澄  山家学生式

国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。
古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用なり、能く行い能く言うは国の宝なり。三品の内、唯言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為す。乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。

国宝とは、金銀財宝を言うものではなく、自分の置かれたその場での道徳心を持った人である。それは何物にも換えることはできない。自分の使命、役割を自覚し小さくても、その場で明るく光り輝くことが国宝というものだ。
古くからの教えにもある、口先だけで立派なことを言う人、なにも言わないがする事はする人、言うことは言いする事はする人こそ大切のしなければならない。言わない人、なにもしない人は盗人と同じである。
道徳心がある人は、悟りを追求し努力している人であり、正しい行いをする学識と人格を兼ね備えた人である。辛いことやいやなことでも進んでして、よいことは他人と分かち合う。ことこそが慈悲のこころの大切な部分といえる。

しかし、最近自信を失い自分はなにもできない、取り柄がないと思っている人が多いようにおもいます。
自分の存在価値は、自分自身が創り上げるもの。どんな仕事でも、何処にいようが、金銭的に恵まれなくても、いま認められていなくても、いま辛くて苦しくても、それはその中に、使命、役割を見つけて取り組むことが必要だとおもいます。。

「己を忘れて他を利する」という忘己利他(もうこりた)と「その場で明るく光り輝く」一隅を照らす。このようにありたいですね。

関連記事

「いただきます」「ごちそうさま」

「いただきます」「ごちそうさま」

私が中学で教鞭をとっていた時の話です。昼食の時間に弁当を食べるため日番に、食事の挨拶をさせるのですが、「おあがりなさい」と言う生徒がいました。
毎日ようすを窺っていると、出身の小学校で概ね「いただきます」と「おあがりなさい」とに分かれていました。小学校の担任の先生「いただきます」「ごちそうさま」

私が中学で教鞭をとっていた時の話です。昼食の時間に弁当を食べるため日番に、食事の挨拶をさせるのですが、「おあがりなさい」と言う生徒がいました。
毎日ようすを窺っていると、出身の小学校で概ね「いただきます」と「おあがりなさい」とに分かれていました。小学校の担任の先生の指導によって分かれるのでしょうか。

私はどうも「おあがりなさい」には違和感を感じるので、生徒に次のように話し、「いただきます」と言うように指導しました。
「いただく」は「頂く(戴く)」で、敬意を表してうやうやしく頭上高くに位置させイタダカセルことです。ですから、食事の時の「いただきます」は、「私の命のために動植物の命を頂きます」の敬意と感謝の気持ちを込めた言葉です。私たち人間は自然の恵みを分け与えられ、多くの生き物を犠牲にして生きていることへの、自然への感謝の気持ちを表さないといけないです。
そして、「ごちそうさま」は「ご馳走になりました」で、「馳」「走」は「はしる」のことで、同じ意味の言葉を重ねてそれを強く表しています。昔は人をもてなすのに命がけで、獲物を走り回って獲ったり、木の実や野草を摘んでいました。そんな命がけの働きに対して、自然の恵みと、料理を作った人への、感謝の気持ちをこめて「有難う」と心から表したことばです。と生徒にはなしました。

現代はレトルト食品が溢れ豊かで便利な飽食の時代ですが、「いただきます」「ごちそうさま」の言葉の中には毎日の食事を重ねているなか、日本人の食への感謝の気持ちや文化が、滲み出ている言葉のように思え大切にしたいとおもいます。


ところで、外国では、「いただきます」「ごちそうさま」のような言葉がないと聞いたことがあります。
わたしは、中学がミッションスクールだったので、食事のときには、食前に食後に十字を切って、祈りの言葉を唱えました。キリスト教との多いアメリカなどでは、どうしているのでしょうか。


「おあがりなさい」は、丁寧に言うと、「どうぞ召し上がれ」ということで、目上のものが目下の者に使う言葉で、同等の者同士が使う言葉ではないですね。しかもわたしには、食事をするのに貴賤や上下関係はないと思っています。会席の席には上下がありますが、食べることに関しての食べ物にそれがあるのはよくないと考えています。
もし、上下関係を明らかにして言うなら「どうぞいただいてください」そして、「いただかせてもらいます」でしょうか。
私は、「おあがりなさい」は、ペットなどの犬畜生に使う言葉だと思っていているので、「おあがりなさい」と言う言葉には誰が言おうと違和感があります。

の指導によって分かれるのでしょうか。

私はどうも「おあがりなさい」には違和感を感じるので、生徒に次のように話し、「いただきます」と言うように指導しました。
「いただく」は「頂く(戴く)」で、敬意を表してうやうやしく頭上高くに位置させイタダカセルことです。ですから、食事の時の「いただきます」は、「私の命のために動植物の命を頂きます」の敬意と感謝の気持ちを込めた言葉です。私たち人間は自然の恵みを分け与えられ、多くの生き物を犠牲にして生きていることへの、自然への感謝の気持ちを表さないといけないです。
そして、「ごちそうさま」は「ご馳走になりました」で、「馳」「走」は「はしる」のことで、同じ意味の言葉を重ねてそれを強く表しています。昔は人をもてなすのに命がけで、獲物を走り回って獲ったり、木の実や野草を摘んでいました。そんな命がけの働きに対して、自然の恵みと、料理を作った人への、感謝の気持ちをこめて「有難う」と心から表したことばです。と生徒にはなしました。

現代はレトルト食品が溢れ豊かで便利な飽食の時代ですが、「いただきます」「ごちそうさま」の言葉の中には毎日の食事を重ねているなか、日本人の食への感謝の気持ちや文化が、滲み出ている言葉のように思え大切にしたいとおもいます。


ところで、外国では、「いただきます」「ごちそうさま」のような言葉がないと聞いたことがあります。
わたしは、中学がミッションスクールだったので、食事のときには、食前に食後に十字を切って、祈りの言葉を唱えました。キリスト教との多いアメリカなどでは、普通のアメリカ人は日頃はどうしているのでしょうか。


「おあがりなさい」は、丁寧に言うと、「どうぞ召し上がれ」ということで、目上のものが目下の者に使う言葉で、同等の者同士が使う言葉ではないですね。しかもわたしには、食事をするのに貴賤や上下関係はないと思っています。会席の席には上下がありますが、食べることに関しての食べ物にそれがあるのはよくないと考えています。
もし、上下関係を明らかにして言うなら「どうぞいただいてください」そして、「いただかせてもらいます」でしょうか。
私は、「おあがりなさい」は、ペットなどの犬畜生に使う言葉だと思っていているので、「おあがりなさい」と言う言葉には誰が言おうと私個人は違和を持ちます。

関連記事

徳に進み道を修めるに

徳に進み道を修めるに

徳に進み道を修めるに 個の木石的の念頭を要す もし一たび欣羨あれば 便ち欲境に赴かん 世に済い邦を経するには、段の雲水的の趣味を要す 若し一たび貧着あれば 便ち危機に墜ちる
菜根譚 四六

徳を高めすぐれた品性や人格を身につけようと修養するなら、路傍の石や木にのような心境でいなくてはならない。もし一度でも巷の誘惑を羨ましく思うなら、欲にむけてずるずるとはまりこんでしまう。
世の中のため人のため国のために身を尽くそうとするなら、行く雲と流れる水のように無心になって取り組まなくてはならない、一度でも地位や名誉などに執着心が起きると、始めの志の人のため世のためなどは、どこかにいってしまいあったものではない

始めは理想を高く掲げた政治家が、次第に汚職に身塗れてしまうのは、巷ではよく見ることです。周囲の誘惑がそれほど多いと言うことでしょう。
ただ、このことは政治の世界だけでなく、一人の個人の生活の中にも言えることではないでしょうか。
少しでも楽しく快適な生活をと望むのは悪いことではありません、しかし今までより楽な生活をすることによって、今まで得ていたものが得られなくなるものもあるのです。また、一度楽を感じると次はこれ、その次はこれと楽を追求するのが止まらなくなってしまうこともあります。
今一度自分の生活を振り返り、今の自分を反省してみたく思います。

関連記事
■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

記事の整理棚
禅 (2)
最新の30の記事
月別の過去の記事
10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   09   08  
単語による記事検索
竹林の過去の戯言のタイトル

過去の記事タイトルを100件づつ表示します

記事へのコメント
  • 茶番の衆議院選挙
    アジシオ次郎 (10/05)
    おはようございます。

    民進党の解体、小池百合子東京都知事が立ち上げた希望の党、ハッキリ言って今回の選挙は乱立の様相を呈しそうですが、野党票割れを起こして自民党
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/26)
    > 政策に反対表明するための無抵抗なデモ行進、座り込みや集会を無理に解散させようとする警察官たちが、職務とは言え反対する人たちを排除しようとするのを見るとむし
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/24)
    民主的な選挙で政権交代がなされるようになり、政府への反対で暴力を使うことは、民衆の支持を失い反発され逆効果になるようになりました。>政策に反対表明するための無抵
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/24)
    日本人は長いものにはまかれろ、付和雷同性の国民性もあるのは確かだと思います。それは別段日本人に限ったことではないと思います。
    第二次世界大戦でフランス政府はドイ
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/23)
    かかる為政者の存在を許してきたのは、日本人の「ながいものにまかれる、お上に任せば・・、なるようにしかならない」と付和雷同性の強い国民性に由来するものではないでし
  • フェイクニュース
    アジシオ次郎 (09/16)
    おはようございます。

    ネットの普及に伴い様々なニュースが見れるようになった昨今、ただ自分の好みに合った情報しか信じないという弊害が出ることもそうだし、多様性を
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    竹林泉水 (09/10)
    顔認証技術が進み、個人の識別だけに利用されるならまだしも、個人の管理に利用されるのは非常に問題が多いと思います。

    松井知事の発言があまり問題になっていないのも不
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    アジシオ次郎 (09/09)
    こんにちは。

    いくらギャンブル依存症対策とはいえ、入場確認や顔認証システムを導入するのは一部から「プライバシーの侵害だ」と批判を浴びてもおかしくありませんね。
  • 終戦の日の前後のテレビ番組
    竹林泉水 (08/23)
    国際的な政治・外交問題は素人的な言い方をすれば、早い者勝ちで勝ち逃げすればセーフ的なところがありますね。
    国の名前に「帝国」冠して大日本帝国として、そのころ時代
  • 記事へのトラックバック
    ブロとも一覧

    うたのすけ

    山下道場

    荒野鷹虎

    海空居士

    紀瀬美香

    marihime

    お父さんの旅

    キラベル

    silver camellia

    kbrkのつぶやき

    魚京童!

    俊樹

    アジシオ次郎

    ほんわか?絵日記

    吾輩と旅と副業

    Chronos Moon

    ざっくり読書感想文

    Taiwa Sato

    びとら

    Resale Japan

    QWERT 5w1h

    (o ̄∇ ̄o)♪

    HIROGACHAN+

    しんのすけたろ

    勝ち組の日経225

    ハセッチブログ

    五月雨 時雨

    諭吉

    さくらさくら1
    ブロとも 申請フォーム

    竹林乃方丈庵のブロとも申請はこちらからです。

    Webページへのリンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    更新履歴
    今日の暦と天気

    日めくりカレンダの説明

    ■2016年旧暦 日月の出入■

    02 | 2012/03 | 04
    ----123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    25262728293031

    ★☆今宵の夜空☆★

    NHKらじる★らじる
    大阪東京第2FM大阪
    何の日



    ご訪問ありがとうございます
    竹林泉水のTwitter
    FC2掲示板
    [ブログ記事へのコメント 掲示板のレス 感想など]
    ■□FC2のブログ□■
    _/_/_/竹林乃方丈庵を_/_/_/
    _/_/_/ リンクに追加 _/_/_/
    □■□■徒然諸諸■□■□ □■□■心の時代■□■□ □■□■息身心/健康■□■□ ----- □■□■厚生福祉■□■□ □■□■その他■□■□
    □■FC2以外のブログ■□
    諸諸 徒然 「身・息・心」 こころの時代
    RSSリンクの表示
    QRコード
    QR