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「アテナイの学堂」

「アテナイの学堂」

「アテナイの学堂」には、プラトンは、アリストテレスと共に画面の中央描かれ、彼の手には、プラトンは左手に、『ティマイオス』『クリティアス(未完)』『ヘルモクラテス(未筆)』の三部作の一冊である、『ティマイオス(TIMAIOS)』を持ち。右手指で天を指し、観念論哲学を表しているとされている。
一方アリストテレスが持っている書物は、『エティカ(ETICA)』だといわれている。『エティカ』は。『ニコマコス倫理学』と呼ばれ、原題はギリシア語で、『ĒTHIKA(エティカ) NIKOMACHEIA(ニコマケイア)』。また仕草は、手のひらを地面に向けて、経験論哲学を表してるとされている。

他にも多くの哲人賢人が描かれ政治家や王もえがかれている。
私はここに描かれている人をつぶさにしらないが、私は離れて描かれているが、アレキサンダー大王と樽の中で暮らし犬儒派(キュニコス派)の思想を体現したディオゲネスの逸話に興味がある。

ディオゲネスは、家を捨てて樽にすみ、不用のものの全てを虚飾として身につけず「犬のような生活」をし。何時も樽の中で生活して、皆からは「犬の哲学者」と言われて自由奔放な哲学者で、生涯たるの中で生活したと言われている。
そんな折に、アレキサンダー大王であるアレクサンドロスが、ギリシャに遠征の遠征で、ディオゲネスの噂を聞き会いにいった。アレクサンドロスがディオゲネスの前に立ち「余はアレクサンドロスだ」と名乗った。
ディオゲネスは「俺は犬のディオゲネスだ」と答え。「何故犬と呼ばれるのか」とアレクサンドロスが尋ねる。
ディオゲネスは「ものを与えてくれる人たちには尾をふり、与えてくれない人たちには吠え立て、悪者どもには噛み付くからだ。」と答えた。
さらに、アレクサンドロスは「何か所望するものはないか、何でも叶えてつかわそう」。
ディオゲネスは「そこをどいてくれないか、おまえの陰になり日があたらない、日向ぼっこをしているのだから」と言った。
この一言についてアレキサンダーは、なんと無欲であろうかと感心しまた恐れたそうです。

この話を聞くと、中国の竹林の七賢の阮籍はの話を思い出す。阮籍は、礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対応し、気に入った人物に対しては青眼で対応し青眼と白眼を使い分けたと。
これから白眼視という言葉は、気に入らない人物を冷遇することを言うようになった。阮籍は、一方で彼は時事を評論せず、人の過ちを決して口にしない極めて慎重な人物であったとともいう。

青蠅

新しい自民党総裁がどうやら、第2時安倍政権で8年弱官房長官を務めた菅氏が選ばれそうだ。
つまり、安倍政権の方針の多くが引き継がれるのだろう。
善いことが引き継がれるのはいいが、そうでない部分は引き継がれないように願うばかりだ。

「詩経」の小雅に「青蠅」と言う誌がある。
蠅とはあまり感じのよい虫ではない、「五月蠅」と書いて「うるさい」とようむのだが、追い払っても追い払っても集ってくるむしであまり感じのよいものではないです。

詩経の小雅に「青蠅」という詩がある。

 青蠅
營營青蠅 止于樊 豈弟君子 無信讒言
營營青蠅 止于棘 讒人罔極 交亂四國
營營青蠅 止于榛 讒人無極 構我二人

  營營たる青蠅は 樊に止る 豈弟の君子 讒言を信ずること無れ
  營營たる青蠅は 棘に止る 讒人は罔極 交四國を亂る
  營營たる青蠅は 榛に止る 讒人は無極 我が二人を構

樊   垣根
讒言  ありもしない事を目上の人に告げその人を悪くう
棘   おろろ もつれからみあっていること   とげ 
讒人  讒はよこしま  他人をあしざまに訴える人。讒言する人
罔極  限りがないという
榛   はしばみ かばのき科の落葉低木
無極  果てがないこと。限りのないこと

権力を持った人には、ハエがたかるがごとく、利権の恩恵の恵みを受けよとする。
靑蠅は、汚職にしてよく白黒を変えずという、汚職はもともと涜(瀆(サンズイ+賣))職と書きます。職を冒涜し穢すもので職に就いている人はしてはならないものとして、政治家などはそれに近づくことは特に避けよとされてきた。
政治家には青蠅がたかるものだが、ただでさえ安倍氏には特にたかっているようにみえたうえ、長期政権になりその青蠅のDNAが引き継がれている、そのようなことだから次期政権はそうあって欲しくない。指導者が裸の王様になれば、讒言をする憎むべき青蠅の小人が群がるので、それらを刷新できる正廉で正直な人を自民党総裁に選ぶべきだ。それができないようなら自民党を見限る人がより増えるだろう。

小を見るを明と曰う

小を見るを明と曰う

老子の、「小を見るを明と曰う」の出典は、老子:第五十二章歸元にある。

天下有始、以爲天下母。既得其母、復知其子。既知其子、復守其母、没身不殆。
塞其兌、閉其門、終身不勤。開其兌、濟其事、終身不救。
見小曰明、守柔曰強。
用其光、復歸其明、無遺身殃、是謂習常。
(岩波文庫の「老子」参考)

天下に始め有り、以って天下の母と為すべし。既にその母を得て、以ってその子を知る。既にその子を知り、またその母を守らば、身を没するまで殆うからず。
その兌(あな)を塞ぎ、その門を閉ざせば、身を終うるまで勤(つか)れず。その事を済(な)さば、身を終うるまで救われず。
小を見るを明と曰い、柔を守るを強と曰う。
その光を用いて、その明に復帰すれば、身の殃(わざわい)を遺す無し。是れを習常と謂う。

現代意訳
この世界には始めがある。それを世の中の母と呼ぶとすると、その世の中のことが明らかにすると、さらにその子のこの世の中のことも知ることができる。その子のありようを知った上で、さらにその母を守っていくことにより、身が終わるまで安らかになる。
欲望が呼び起される目や耳などの穴を塞ぎ、欲望が生じる心の門を閉ざせば、一生、疲れることはない。しかし、欲望の穴を開き、欲望のいとなみのままにすると、一生癒されることはない。
細かなものまで見極め明らかにする、柔弱さを守っていくことを強という。
その光を働かせ、明の状態の原点に帰れば、わが身に災いが降りかかることはない。このことを、恒常の道に順うという。


ものごと何事を進めるにおいて、剛健がよいわけではない、ものごとに固執してとらわれてしまうと、いくら多くなものを手に入れてもそれに飽きたらずさらに多くのものを欲することになる。その意味で柔弱は大切なもので、ものの理を得ることができる。そうすれば、こころやすくなる。ものごと何事も足を知ることが大切です。
しかし、いまこのコロナ禍のなかでも、立ち止まりもせず、あくことなく貪欲のここころの蓋を開けたままにする人のなんと多いことか。いまこそ、欲望の性の行く先を考えて見るべきではないか。
欲望のために、これまで気づいていたが、見ぬ振りをしてきた問題が、COVID-19禍のパンデミックにより、その弊害が噴出している。そしてそれらの問題への手当がせまられてる。
見て見ぬを振りをしてきた問題とは、格差、貧困、極端な大量消費、科学至上主義、地球温暖化、制度疲弊などです。トランプ大統領は公然と、温暖化問題はフェイクだと否定し、経済成長至上主義を貫こうとしている。今こそ私たちは、欲について考える時ではないだろうか。

象箸玉杯

「象箸玉杯」という言葉がある。
「ぞうちょぎょくはい」と読み、贅沢な欲求が生まれ始めるととどまることを知らなくなる、と言う意味だが。
この出所は、『韓非子』「喩老」にある。

昔者紂為象箸、而箕子怖、以為象箸必不加於土?(金+刑)、必将犀玉之杯、象箸玉杯必不羹菽?(草冠+霍)。必旄象豹胎、旄象豹胎必不衣?(ころもへん+豆)褐而食於茅屋之下、則錦衣九重、広室高台。吾畏其卒、故怖其始、居五年、紂為肉圃、設炮烙、登糟邱、臨酒池。紂遂以亡、故箕子見象箸以知天下之禍、故曰、見小曰明、

昔者、紂、象箸を為りて箕子怖る。以為らく、象箸は必ず土(金+刑)(ど けい)に加えず、必将ず犀玉の杯ならん。象箸玉杯には必ず菽(草冠+霍)(しゅく かく)を羹にせず。必ず旄象豹胎ならん。旄象豹胎には、必ず(ころもへん+豆)褐(じゅ かつ)を衣て茅屋の下に食らわず。則ち錦衣九重、広室高台ならん。吾れその卒りを畏る、故に其の始めを怖ると。
居ること五年、紂、肉圃を為り、炮烙を設け、糟邱に登り、酒池に臨む。紂遂に以て亡ぶ。故に箕子、象箸見て天下の禍を知る。故に曰わく、小を見るを明と曰うと。


むかし、殷の紂王が象牙の箸を作った。それを堅臣の箕子が不安を抱き考えた。
「象牙の箸を使うとなれば、きっと今まで用いていた素焼の器などを使わなくなり、犀の角の杯や翡翠の器を用いたくなる。象箸玉杯(象牙の箸と玉の杯なら、今まで食べていた豆や豆の葉の藜の汁などにするまい。旄牛や象の肉、豹の腹子などの珍味が盛られるだろう。豪華な食器に豪華な食事をするようになれば、民衆のように粗末な衣服に粗末な茅葺きの家では満足しなくなる。からならず錦の着物を幾重も重ね、豪華な宮殿が欲しくり住むようになるだろう。私はその行く末を恐れるので、その始まりの象箸に不安を抱くのだ」。
それから五年たつと、紂王は酒池肉林の贅沢三昧をし、紂はこのようにして滅んだ。だから、箕子は象牙の箸を見て、のちの天下の大難を予見した。
老子は「微小なものを見ぬくことを明という」*と言った。
(*老子五十二章)

簡単に要約すると、古代中国の殷の名臣の箕子は、主君の紂王が象牙の箸を作ったことを聞き、箸だけでは満足できずに宝石の杯を作り、それに合わせ食事や住居も贅沢になっていき、最後には世界の全てのものを集めても満足しなくなり、その行きつく先は国を滅ぼすことになる。老子は「小を見て大を知ることを明という」と言っている」とまとめている。


この、「象箸玉杯」の話を聞いて、私がこのブログにも書いたことのある。北斎漫画 第十一集の裏付けを思い出した。そこには、唐子が身の丈以上の大きさの銭を抱えている図がある。その銭の図案は京都龍安寺にある蹲踞の「吾唯足知」が図案化されている。
北斎の裏付の唐子の絵には、次のような言葉がそれられている「事たりる 足るにつけても 足らるなり  足らて 事たる身こそ やすけれ」

ところで、老子の、「小を見るを明と曰う」はなんだろう。

先住民の民話

アメリカ先住民の言葉の、「大事なことを決めるには、七世代先のことを考えて」について、先日7月3日に、このブログに書いた。
そのほかにも、同じような意味をもつ、アメリカ先住民の言葉に、「現在の環境は、未来の子孫からの預かりも」イロコ族という教えもある。
日本のアイヌの昔話に、「プクサの魂」というのがある。このはなしは、2011年11月10日にこのブログに紹介した。

「プクサの魂」の話は、ある長者の妻が、プクサ(行者ニンニク)が自生しているところから、根こそぎ刈って家に持って帰り、その人が病気になってしまう話しだが、狩猟採取民族などに、似たような物語がある。
いまの時点のことだけでなく、後々のことを考えないといけないと教えくれる。


預かりものは、祖先からではなく、未来の子孫からというところに重い意義がある。この土地は、祖先から受け継いだものだから、手放せない御祖先様に申し訳ない。相ではなく子ではなく子孫末流です。
現代は、時代の変化も早くまた、その流れも多様です。いつまでも同じようなことに留まっていては、時流に置いていかれてしますのも確かです。
だからこそ、先のことを考えることが重要になってくる。
しかし、そればかりを追いかけていると、見るべきものを見えず。本来持っている感性や知恵や知識を忘れてしまう。
これもアメリカの先住民の言葉に、
「どのような動物も、あなたよりはるかに豊富な知識をもっている」ネズバース族のというのある。
コロナ禍で奈良公園で見かける鹿の数が減っているという。歓呼客が訪れ与える鹿煎餅が、貰えなくなり公園でなく山野にいき本来鹿が食べている草木を食べているとことが調査でわかったそうだ。また、鹿煎餅などより消化が悪いので公園などで休み反芻しいる鹿も今までより多くいるという。
私たちが、山野に出かけ食べられる野草と食べられない野草を区別するには、それなりの知識がなければ区別できない。しかし、鹿は教えられなくても野草を見分けれれのです。ほかの野山の動物たちも、街の鳥たちも、テレビのニュースを見ないが、嵐がくるしばらく前から、姿を見せずどこかに隠れてしまっている。

最後の、私たち人類の歴史ともいえる言葉だ。
「人間は、粗末にした動物から、懲罰として病気をもたらせられ、その動物から、その治療法も教示された」クリー族
私たちホモサピエンスに限らず、動物はウイルスと疫病との戦いの歴史だという歴史学者、社会学者は多い。21世紀になってから、サーズやマーズなどのウイルスも、野生動物由来のものだと言われている。このCOVID19もコウモリ由来だとも言う。
われわれ人間が人口が増え、今まで進出してこなかった地まで、進出し開墾して野生の動物との接触が増えて、野生動物が持っているウイルスとの接触の危険性がましてるといわれている。それを考えると、COVID19とのつき合いかたも発生の由来である動物にそのヒントがあるかもしれない。

ここに出典した、アメリカ先住民族のことばは、月尾嘉男「先住民族の叡智」遊行社刊行より

君臣不信國政不安

・君臣不信國政不安
・父母不信家閨不睦
  君臣信ぜざれば、國政安からず。
  父母信ぜざれば、家閨睦まじからず。
君子と臣下においてお互いの信頼関係がなければ、国の政治は安定せず混乱をまねく
両親が不仲なら家庭の円満はなく子供は非行にはしる

君子と忠臣としての臣下の信頼関係とは、君子に盲従して面従腹従することではない、君子の行いに非があれば、率直に諫言でき、君子はその言葉に素直に聞き入れ受け入れる事できることです。君子の言葉のなかから、物事の事情・状態・程度や心情などをおしはることができ、それを推進したり逆に諫めたりすることができる関係です。
そのような信頼関係がなければ、臣下が王の座をねらったり。逆に媚び諂う臣下ばかりだと、王は裸の王様になり国が傾いてしまう。それではその国は他国から隙ありとして攻められ国が滅ぶだろう。また統治がわるければ、人民の間に不満がつのり、人民は反乱を起し国が乱れるだろう。中国では易姓革命というのがありそのようにして朝廷がいくども変わっている。
このことは、家庭においても同じことが言えるようだ。たえず夫婦喧嘩をするなど両親が不仲だと、子どもはそれを見て、家の中での居場所を見つけられず、外で遊ぶようになり悪い友達とつきあい非行に走ることになる。そうなればますます家の中は睦まじくなくなり、つねに家の中でいざこざがおきてしまうということだ。

清貧長樂濁富恒憂

・清貧長樂濁富恒憂
・孝當竭力忠則盡命
  清貧は長く樂しみ、濁富は恒に憂ふ。
  孝當さに力を竭すべく、忠則ち命を盡す。
貧しくとも清い生活は長く楽しめるが、富があると汚れて得て思い煩うことになる
孝に従うよう尽くし切ること、真心もって君主に仕え尽くす

清らかに生きていれば貧しくとも日々生活の中にささやかな喜びを見出して楽しむことができる。あれも欲しいこれも欲しい、もっともっと欲しいと富を追い求めると。取られはしないか、減りはしないかと心配し心の苦労が絶えないものです。
多くの仏典では、貞享版沙石集に次のようにある。
「清貧は常に楽しみ、濁富は恒に愁ふと云云、又云はく、財多ければ身を害し、名高ければ神を害すと云云」
また、仏堂教経の中に次のようにある。
「知足の者は 貧しと雖も富めり  不知足の者は 富ねりと雖も貧し」
また、北斎漫画の十一集の後付けにに次のようにある。
事たりる 足につけても 足らぬなり  足らで 事たる身こそ やすけれ

次の「孝當さに力を竭すべく、忠則ち命を盡す。」
父母への孝行は全力をつくせとあり、次の忠則ち命を盡すを読むと。
教育勅語の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」を思いおこさせる。
これについては、文部省図書局の「教育に関する勅語の全文通釈」の口語訳は、次のようになっている。
「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。」

参考までに、以下のくだりは次の通りである。

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明君不愛不益之臣

・父母不愛不孝之子
・明君不愛不益之臣
  父母は不孝の子を愛さず。
  明君は不益の臣を愛さず。
父母は親孝行をしない子を愛さず
賢明ですぐれた君主は不益の家臣を受け容れず重用しない

子が道楽者で極道者で不孝者なら、父母は子の心配を通りこしてしまうだろう。戦前は勘当という制度があり、親が子のおこないを叱責して親子の縁を切り義絶できたが、民主主義の世の中になり、勘当は廃止されできなくなった。勘当は簡単にできるものではなく、明治時代はもちろん江戸時代から、親戚一同が集まり相談し奉行所に届け承認をえるなどの複雑な手続がいるが、それは公式なものだた。
君子が臣下の行いが悪ければ、三国志に蜀の諸葛亮が日ごろ重用していた配下の馬謖が命に従わず魏に大敗したために、泣いて斬罪に処したという故事がある。民主主義の現代でも、国務大臣などの行いが悪ければ、愛でている人を徴用して大臣の職に就かせていても、更迭して処分すべきです。それも解からない大臣の任命権者なら、大臣たちは面従腹背しながらしたい放題になり、国は腐ってしまう。現代の国政に当てはめると、勘当は役職の更迭であり、所属政党からの除名処分にあたるだろう。更迭する人が多くなれば、任命責任を問われるからと言って、行いの悪い人をいつまでも、役職に留めておくのは、政治の腐敗を招きくのでよくないものだ。

正直爲心神明所佑

・正直爲心神明所佑
・禍福無門唯人所招
  正直を心と爲せば、神明の佑くる所あり。
  禍福は門無し、唯だ人の招く所なり。
正しく嘘偽りがなく素直に非を認めるていると、天が見守り助けてくれるものだ
禍や幸せには信条や性別や社会的身分や門地によるものではない、唯だこれ人の行いから来るものだ

むかしから「正直者には福が来たる」や「正直の頭に神宿る」の言葉があり、誠実な心をもって正直に生きると天はそれを知っているので、必ずそのご加護がある。正直は大切さだと教え諭されてきている。
正直とは自分の行いに責任を持つということで誠実だということとすると。それは、自分の行ったことに非があればそれを、素直に認めるるこがです。また、嘘をついたり偽りをしたらなら、素直に認めることにが大切でしょう。
それを国政に当てはめてみると、天帝や天地神明とは国民のことで、正直誠実であれば国民からの信頼が得られると私は考える。それには、政治の説明責任や政治家の日頃の言動についての風通しのよい責任を明らかにすることは重要ではないだろうか。会議の議事録を作らなかったり、説明をハグラカシたりしていると、そのうち必ずその化けの皮が剥がれ、本性をさらすことになるだろう。すでに本性があらわれているのになぜ、いまの政権が持ちこたえているのか。
禍福に門地がないように、政治を担う人はその日頃の品行が大切なはずです。三代目のボンは政治家の名家かも知れないが、だれをファーストにするかを誤っていたなら、これからどのような社会になっていくのだろうか。

正直之言倒心逆耳

・諂辭之語多悦會情
・正直之言倒心逆耳
  諂辭の語は、悦び多く情に會ふ。
  正直の言は、心に倒らひ耳に逆らふ。
媚び諂いは耳に心地よく 嬉しく受け入れやすいものだ
嘘や偽りのない諫言や箴言は、耳障りが悪く心にも痛い

トップに立つ者は、この言葉をよく噛みしめて銘じておくべきだ。政治を行なうとときそのリーダーは、ブレーンとしてどのような人を置くことが適材適所なのかを考えてすべきだ。
リーダーが自分の考えを実現させる事のみを重視し力点を置くいて、大臣の組閣をするとリーダーに侍る人ばかりになり、もの言わぬ人になる恐れがでてくる。
そうなると、気に入られるように機嫌をとったり、気を引くためひっつきむしのように離れようとしなくなる。だからだといって。近寄ってささやいてくるそれらの言葉に気持ちがよくなり、喜んで得意の絶頂点になり、他の意見などをかえりみなくなってはいけない。
箴言・諫言は鑑戒であり、行動・判断・評価のよりどころとなる規準などを教え戒めるものです。そのため耳に痛く心に突き刺さるものが多い。しかし、だからと言ってそれらの言葉に耳を塞ぎ、それらの言葉を聞き受け入れることを拒むことはすべきでない。逆に、それらを心に突き刺さる矢とし、心の策として自分の勤行の糧としてこれからの行いに役立てるべきだ。
しかし、自分に向けられる諫言・箴言と理解できなければ。また馬耳東風な頭の悪い人が、王や国のリーダーになれば、王や
国のリーダーは能転気でいいが、国民にとっては直接生活にかかわってくるので不幸にないる。やはり、リーダーとなる人は諂辭を退け、倒心逆耳な言葉をこそよく聞き、そのような人を大切にすべきだ。
アメリカでも日本でも、リーダーがお友だち人事をしてしまっているので、これから日本は世界はどうなるのだろう。

君賢臣忠易以至豐

・種好田良易以得穀
・君賢臣忠易以至豐
  種好く田良きは、以て穀を得易し。
  君賢に臣忠なるは、以て豐に至り易し。
種子がよく田をよく耕せば、よく育ち穀物がたくさんとれる。
君主が賢明で、家臣が忠義を尽くせば、国は栄え豊かになる

家庭菜園で自家増殖して野菜を育てる場合、普通な葉ものの野菜なら花の薹ができて来る前に収穫し、実物などでも成熟させないで収穫するが、種を採るために花を咲かせ実を熟させ種をとる。また、種を採るためには苗一つを種を採るために育てます。実物なら普通は実がなり出したらどんどん収穫するが。種を採るためには花が咲きだしたら、いくつも花を咲かせないで幾つかだけ花を咲かせ、一つの株が良質な実がなるように、株の体力を付けれるようにする。そして種を収穫する実も大きく形のよい物から種を採るようにする。これが種好のコツだと考えている。私は農家ではないので間違っているかもしれないが、優良な種をつくるコツではないだろうか。
また、野菜をそだてるには良質な土づくりが必要です。耕耘してフカフカで水はけがよく水持ちがよい土をつくり、肥料もそだてる野菜に適した肥料をつくります。そうすると実がよく育ち実が大きくなり実が多くとれるようになる。
それと同じように、国の政治にも同じことが言えるます。王制君主制の場合は、その王位は世襲だから、王の跡継ぎの子が生まれたときから、帝王学をまなばせる。横暴な暴政は悪く民を重んじ豊かになるように教え、品行もないが善いか悪いかを教えていきます。そのため王が直接子を養育するのではなく、第三者が国の将来のために王の継承者に育つように教育していく。
民主主義の世界では、政治家を育てるのは、国民であり、また国民の知る権利を保障し護するてめに、国で政治はどのようにおこなわれているかを情報として知らせるジャーナリズムが必要です。
王制でも選挙の代表民主主義制でも、家臣や官僚がしっかりしえ入れば、多少国のトップの頭が悪くても、間違いを指摘し諌めて政治は正しく行なわれていく。しかし、いくら官僚や閣僚が諌め指摘してもトップが聞く耳をもたなければ、それどころか諌める臣下を更迭したり粛清したり叱責するなら、官僚や閣僚はもの言わぬ人になり、王は裸の王様になり国は傾いてくだろう。

鳥毛帖成文書屏風の六扇の文言

書聖と言われる王羲之が君子の鑑戒としてのこした文言を、聖武天皇は座右の銘として屏風に仕立ていつも傍らに置いていた。それが正倉院の宝物とのこされている。
聖武天皇は国民の安寧を祈願し、東大寺の建立をした。明仁上皇や今の天皇には同じような気持ちがあるだろうが。今の政権を担っている政治家にはどれほどのその気持ちがあるだろうか。

正倉院の宝物の鳥毛帖成文書屏風の六扇の文言は次のようなものです。

・種好田良易以得穀
・君賢臣忠易以至豐
  種好く田良きは、以て穀を得易し。
  君賢に臣忠なるは、以て豐に至り易し。
種子がよく田をよく耕せば、よく育ち穀物がたくさんとれる。
君主が賢明で、家臣が忠義を尽くせば、国は栄え豊かになる

・諂辭之語多悦會情
・正直之言倒心逆耳
  諂辭の語は、悦び多く情に會ふ。
  正直の言は、心に倒らひ耳に逆らふ。
媚び諂いは耳に心地よく 嬉しく受け入れやすいものだ
嘘や偽りのない諫言や箴言は、耳障りが悪く心にも痛い

・正直爲心神明所佑
・禍福無門唯人所招
  正直を心と爲せば、神明の佑くる所あり。
  禍福は門無し、唯だ人の招く所なり。
正しく嘘偽りがなく素直に非を認めるていると、天が見守り助けてくれるものだ
禍や幸せには信条や性別や社会的身分や門地によるものではない、唯だこれ人の行いから来るものだ

・父母不愛不孝之子
・明君不愛不益之臣
  父母は不孝の子を愛さず。
  明君は不益の臣を愛さず。
父母は親孝行をしない子を愛さず
賢明ですぐれた君主は不益の家臣を受け容れず重用しない

・清貧長樂濁富恒憂
・孝當竭力忠則盡命
  清貧は長く樂しみ、濁富は恒に憂ふ。
  孝當さに力を竭すべく、忠則ち命を盡す。
貧しくとも清い生活は長く楽しめるが、富があると汚れて得て思い煩うことになる
孝に従うよう尽くし切ること、真心もって君主に仕え尽くす

・君臣不信國政不安
・父母不信家閨不睦
  君臣信ぜざれば、國政安からず。
  父母信ぜざれば、家閨睦まじからず。
君子と臣下において信頼関係がなければ、国の政治は安定しない
両親が不仲なら家庭の円満はなく子供は非行にはしる

この、聖武天皇が枕元に飾っていた六扇の屏風の文言は、いまの政治家が鑑戒として心得ておくべきことだと思うが、いまの政権の中枢者はこの言葉を知っているようにはとても見えないです。そうなればいずれ国は傾き取り返しのつかないことになりそうです。

兼好法師「徒然草」九十七段

兼好法師「徒然草」九十七段に次のようにある。
その物に付きて その物を費やし損なふ物 数を知らずあり 
身に虱あり 家に鼠あり 国に賊あり 
小人に財あり 君子に仁義あり 僧に法あり 

岩波文庫の「徒然草」には、次のような荘子の言葉が添えてある。
(天下尽ク殉ナリ 彼レ其ノ 殉ズル所 仁義ナレバナリ
則チ 俗 之ヲ君子ト謂フ 其ノ、殉ズル所 貨財ナレバナリ
則チ 俗 之ヲ小人ト謂フ (荘子 駢拇編))

人の体にはシラミがつき人の体液を吸う、家にはネズミが米櫃の米を盗む。
国に棲みつくシラミやネズミやからは、国民の税金をむさぼり奪う者は、政治家や一部の官僚や、利権にむらがるムラ衆など。また、ゼネコンや、利潤を追求する大手企業などの利権利益を獲得しようとするロビイストたちのことだ。

*「荘子 駢拇編」の君子とは、すぐれた教養と高い徳をそなえた人格者のこと。国の主君ではない。また、小人とはその反対で、思慮が浅く修養が乏しく財を貪り身を犠牲にする人のこと。

なんだか今の日本をいや、アメリカなども「国に賊あり」「貨財に群がる小人」が、増殖してきているようだ。
新自由主義のもとでの、欲望の株主資本主義がつきすすみ、あらゆるものを呑み込み始めている。
庶民市民は、これにどうあらがうことができるだろうか。
しかし、庶民は日々の生活に追われてそれらを考える暇がない。しかし、富を貪る人はますますその機に乗じてますます力を蓄えている、危機的状態になっている。
そんなことだから、自然災害や疫病に対して後手に回るのだろう。

「徒然草」百廿三段

兼好法師「徒然草」百廿三段には、次のようにある。

無益のことをなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事(ひがごと)する人とも言ふべし。
国のため、君のために、止むことを得ずしてなすべき事多し。
その余りの暇、幾ばくならず。
思ふべし、人の身に止むことを得ずして営むむ所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。
人間の大事、この三つには過ぎず。饑ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑に過ぐすを楽びとす。
たゞし、人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁忍び難し。
医療を忘るべからず。
薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。
この四つ、欠けざるを富めりとす。
この四つの外を求め営むを驕りとす。
四つの事倹約ならば、誰か人の足らずとせん。

口語訳
役に立たないことをして時を過ごすのを、愚かな人とも、道理にあわない事をする人とも言う。
国のため、君のために、止むを得ずなすべき事は多い。
その余りの時間は、どれほども無い。
考えてみるべきだ。人の身に、やむを得ずして営む所は、第一に食う物。第二に着る物、第三に住む所である。
人間にとっての大事は、この三つに過ぎたものはない。飢えず、寒く無く、風雨におかさず、静かに過ごすのを楽しみとする。
ただし、人は皆病にかかることがある。病に冒されれば、その嘆き・苦しみは耐え難いものである。
医療を忘れてはならない。
この三つに加えて、薬を加えて四つの事を求めても得られないのを貧しいとする。
この四つが欠けていないのを富んでいるとする。
この四つの外を求め営むのを思い上がりする。
四つの事をつつましやかにやっているならば、誰が不足を感じるだろう。


兼好法師は、衣食住と医療の四つが満たされていたら、富んでいると言うのに充分だと言いい、それ以上を求めても満たされるものがあるだろうかと問う。
次のようなことばがある、「事たりる 足につけても 足らぬなり  足らで 事たる身こそ 心やすけれ」
しかし、今の現代の新自由主義と欲望の株主資本主義では、「足につけても 足るを求める」になている。
また次のような言葉もある、「遠く求るはかなさよ 譬えば水の中にいて 渇を叫ぶ如くなり 長者の家の子とたりて 貧里に迷うに異ならず」。白隠禅師の坐禅和讃です。現代の欲望の資本主義社会では、これらの言葉を聞いたこともない人が多くなっているようだ。

また、一方、いまの日本や世界に国々を見ていて思うことがある。
積極的平和主義の本当の定義は、平和の状況に加えて、衣食住と健康と福祉と社会保障を充実することだです。
しかし、この「積極的平和主義」の定義を真逆の意味の使う者がいる。
ある国では積極的に軍事力で平和を作りだす言い出したと言う国のリーダーがいる。この考えは織田信長や豊臣秀吉の天下布武の考えだ。ところが、ある国ではその力による平和を作りだすことを、積極的平和主義と言う国のリーダーがいる。
「力による平和主義」というリーダーの方がわかりやすく正直といえる。

これと同じように、積極的な心のやすらぎとは、この四つ目を加えたものだろうか。四つ目を疎かにして、前の三つだけを、貪り追い求めていていいのだろうか。健康・医療や福祉や社会保障を疎かにして、経済の効率ばかり追い求めていると、いまの新型コロナウイルスのパニックのような騒ぎになるのだろうか。日頃から、不幸率で金がかかるが、健康・医療や福祉や社会保障を大切にしていかないと行けないだろう。

兼好法師は
衣食住に加えて、医療を忘れてはならない、この四つで十分で四つの一つでも欠けると、貧しいという。
この四つ、があればそれを富んでいると言う。
それ以上を求めるのは、欲しがって飽くことを知らないことで愚かといなる。

『西遊記』別編の『西遊補』

中国の三大奇書の一つに、『西遊記』があるが、その続編というか別編が幾つかあるが、その一つに『西遊補』というのがある。これは十七世紀半ばに、董若雨(トウジャクウ 1620-1686)が20歳の時に書いたものとされる。西遊記のパラレルワールド(*1)を描いたようなものだ。この西遊補は平凡社の東洋文庫から『鏡の国の孫悟空』の書名で大平桂一・新井健訳で出版されている。
*1(パラレルワールド(parallel world)とは、ある世界から時空が分岐された世界で、もとの世界と並行して存在する別の世界で、日本語では並行宇宙ともよばれている。パラレルワールドはSFの世界ではよく出てくるが、我々のこの宇宙と同一の次元を持つっている世界と言われている。)
この『西遊補』はもとの『西遊記』の第五十九回から六十一回の三蔵法師の47・48・49難の、羅刹女から芭蕉扇をだまし取り火焔山を鎮火させる話と、祭賽国の金光寺で心を洗い宝塔を掃く話の間に挿入される話と、董若雨は、後書きの「西遊補問答」で答えている。
三蔵法師一行の話しになる。『西遊補』には、「〔本書原題〕三たび芭蕉扇を調(めしあ)愚の後に入る」。とある。
火焔山を鎮火させ、孫悟空は鯖魚精の妖怪の罠にはまり、無数の鏡からなる万鏡楼を媒介とした、閉鎖的だが広大無辺な世界に迷い込み、古人世界、未来世界などを経て、元の世界に戻る話しと、大平桂一はその解説でいっている。
第二回では悟空は、托鉢するところを探していると、「大唐の新天子・太宗三十八代の孫・中興皇帝」と篆書で書かれている旗を見つける。孫悟空が唐を立ってまだ20年ならないのに、唐の帝が数世代も代わっている。唐朝は実際は二十三代で滅亡している、これは、まさにこれは、鏡像の世界であり、タイムスリップしていることになる。

その一つの参考になるのが、『西遊補』に書かれている「『西遊補』問答」で、そこに
「問 西遊(記)は欠けてないのになぜ補うのだ。
答 西遊の補遺は、火焔山芭蕉扇〔『記』五十九~六十一回〕の後、心を洗い塔を掃く〔六十一回〕の前に置かれるのである。斉天大聖〔悟空〕は計略で芭蕉扇を徴発、火焔を消したが、ただ単に力で圧服したに過ぎないのだ。四万八千年は、すべて情のの根が固まってできたものである。大いなる道を悟るには、必ずやまず情の根が空と看破せねばならず、情の根を空と看破するには、まずは情の内部に入り込まねばならない。情の内部に入れば、世界のの情の根が虚ろだと見極められるし、その後、情の外部に出て、道の根が実だと認識することができる。『西遊補』というのは情の妖怪の物語であり、情の妖怪とは、鯖魚の精である」。と言っている。

また、『鏡の国の孫悟空(西遊補)』といういわれは、第四回で、
 一竇開きし時 万鏡に迷い 物の形現るる処 本の形亡(うし)なわる
 [穴が開いて悟空は万鏡楼に迷い込み  物の形が現れる時に本体の形は失われる]
ことに巻き込まれる話なになる。
この部分だけを見ると、理論物理学の学説に、多元宇宙論がり、この宇宙には複数の宇宙の存在があるとする学説がある。それにより、宇宙に関する最新の観測結果は「並行宇宙」の存在を示唆しされている。
話の回がすすむと、四方八方の面が隅まで鏡になってる。その鏡をのぞくと、それぞれの世界が時代が繰り流れている。

SFのスタートレックでは、ENT DIS TOS NGT DS9 VOY などの各シリーズのエピソードの中で登場する、パラレルワールドの多くの並行宇宙・鏡像宇宙は、粗暴な地球人が侵略的な宇宙になっている。また、タイムスリップでなないが、TOSやDS9では、過去の世界の時間が流れそれを見たりその世界にスリップできる話がある。並行宇宙、鏡像宇宙や時空うを超える別の世界を見ることが出来るテーマは、どうやらいつの時代にも、人びとの興味を引くようだ。

さてはて、この『鏡の国の孫悟空(西遊補)』の話はどんなパラレルワールドと時空を孫悟空は見るのだろか、そう想像すると読んでみるのが楽しみだ。

正面から反論しない軽薄さ

神話学者・民俗学者である高木敏雄が、高橋龍雄が雑誌『日本主義』で展開している「神代史に於ける新研究」に対して、高木敏雄が批判したが、それに対して高橋の反論は罵詈誹謗したものだったようだ。それについて高木は「高橋氏に答う」を発表している。
高木の「増訂日本神話伝説の研究 東洋文庫」のそれを読むと、いささか子供じみた学者らしくないものです。高橋は國學院で講師を務めていたようだが、論文に対して批判意見に対しては、反論として論文で行うのが通常だが、高橋のそれはいささか学者らしくないように感じる。高木の思いが書かれているのでそこを抜き出しみる。
「余輩はここにおいて、足下の心事を疑わざらんと欲するも、能わざるなり。余輩は日本主義によりて神代史を研究するの非なるをいいぬ。足下はこれに答えて、日本主義非ならば非日本主義も非というのみ。余輩は少しもこの答弁に満足すること能わず。単にこれのみならず、足下の答弁はすべて、側面より来たり、一も正面より余輩の非難に答うるものなし。 以下略 」さらに「わがいまだ言わざるところを捉えて云々すちう。この点においても、足下の答弁は側面的にして、毫も正面より、余輩の非難に答うるところなし。 以下略 」
(「日本神話伝説の研究」は高木敏雄の論文を大林太良が編纂したものだが、初出の年月は2巻の巻末に記されている。それによると高橋氏に答うは「帝国文学」五巻七号明治32年1899年となっている)
このように、高橋は高木の論に正面から反論せず、個人的な主観的感想を悪口やののしりたもののようだ。これではまともな学問的な議論は行えないだろう。まだ、学会などでの論戦ならこのようなお粗末なことが交わされても、世の中には支障がないです。
ただ、このころから、江戸時代末期に起きた国学の運動が、再び息を吹き返し、日本の神話や記紀のなかから、神代史や日本主義が台頭して、教育勅語や愛国主義へと次第に向かっていったとみられる。

ところが、このようなことが、国会の場で数年前から繰り返されているように感じることある。
説明責任を果たすと口ではいいながら、野党の質問に正面から答えず、関係ないことや関連してことでも修辞や修飾が多く意味不明な答弁になってしまっている。
これでまともに国会が機能しているといえるのだろうか。
最も、日本主義とうのは、明治中期から明治政府の極端な欧化主義に対する反動で、日本古来の伝統的な精神を重視しこれを国家・社会の基調とする国家主義思想で、終戦まで続いていた運動といえる。その運動が日本が帝国主義の道に進むことにもなっている。
それが、現代に安倍政権になってから、復活し広がっているように思うのだがどうだろうか。

『古事記』おぼえがき

『古事記』おぼえがき

高木敏雄が「日本神話伝説の研究」で『古事記』について、次のようなことを言っている。
古事記は、元明天皇が、天皇家の歴史を作るように、太安万呂に命じて、稗田阿礼が知っている、話しをもとに編纂したものだと、そのことは周知のことだがその内容として次のようなことも言っている。
天武天皇の時代には、大和周辺の近畿各地に、いろいろな記録が残っていて、それはいずれも昔の伝説に違っておって、それを天皇家の正統性に改めて昔の事実にあうように、いろいろなそれらの材料を集めて整理し、一つの書物にまとめたのが『古事記』としている。

徳川光圀が編纂を命じた『大日本史』に、稗田阿礼のことについて「年二十八、博聞強識、多諳上世旧事、因命録其所記、将以修帝記云々」とあるが、これは古事記の序文にある。「時に舎人有、姓は稗田、名は阿礼、年は廿。人と為り聡明にして、目に渡れば口に誦み、耳に払るれば心に勒す。・・・」の引き写しと指摘している。そして、阿礼を単なる語り部ではなく、博識な学者だと指摘している。

また、元明天皇の勅語がある。古事記に次のようにある。「是に於いて天皇之を詔ぐ。「朕聞く、諸家のもてる帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて其の失を改めずは、未だ幾年をも経ずして其の旨滅びなむとす。これはすなわち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽を削り実を定めて、後葉に流えむと欲ふ」とある。

また、この天皇のことばをひいた序文については高木は次のように言う。「私の考えでは、安万呂という人は、非常に偉い著述家であって、自分が独断でもってこういう『古事記』を編纂したのであろう。編纂する際にある材料は採らない、ある材料はとるというように、一定の方針に従ってやったのである。 中略 これは自分の意見ではない、昔からの天皇の思召しに従ったのである、ということをこれに付け加えて、幾分責任逃れのために、こういう立派な序文を書いたものではあるまいかという疑いがある」。

なるほど、そのように『古事記』を序文からよむと、歴史とうもんもは、立場の違いがあれば百家百様あるというが、それぞれ自分の都合のよいようにつくり出されるものであるとよく言われる。その「つくる」も、「作る」や「造る」もあれば「創る」もある。
しかし、現代においても、歴史解釈は百家百様であってよいが、歴史に於いては決して「創る」があってはならないとと思う。

日本は祖先がえりするか

日本の神話といえば、まずは誰しもが「記紀」が頭に浮かぶだろう。しかし、「記紀」である「古事記」「日本書紀」は、奈良時代に天皇家が日本を統治するのに、都合のよいように正統な系統であることを裏付けるために編纂されたものにしかすぎないことを知っておくべきだろう。古事記などには伊勢神宮が皇祖皇宗が祀られるとする。しかし、伊勢地方の豪族を征伐した天皇家が、その地にあった神話を自分たちの話だとして取り入れて、天皇家の神話を作りだしたものと言われている。
つまり、日本各地にはさまざまな多くの神話があり、また大和地方にも記紀に類似するものまた、それとは対峙するような神話も数多くあのを、上手く都合のよいように取り入れたのものといえる。これは何も天皇家に限らず、日本の武士家もそうであるし、商家も同じようなことをしている。商家・会社でも時どき経営権を巡るお家騒動が、本家と分家で起きたり、関係ない会社が勝手にこのブランドは私の者だと主張することもあるので不思議なことではない。日本だけでなく、世界に国においても正統性を主張して争いになることもあるので不思議ではないです。
それのことはいつでもあり、それはそれでいいのだが一つ思い出しておく必要があることがある。
日本の心は祖先がえりすると言われるが、明治時代にも、尊皇と愛国と国粋主義が闊歩して、日本を天皇が統治する正統性に利用されていった。
明治時代以降を振り返ってみると、幕府が大政奉還をして、明治政府が樹立された。それまでの日本は幕藩体制で三百余りの各藩は独立国のようなものだった。それは、米国の州以上や連合王国イギリスのブリテン島の三つの王国と北アイルランドよりも藩の自治権はあった。しかし、アジアにイギリスや米国などが日本に開国を要求し、ロシアも日本近海に現れるようになった。そのように西欧列強の食指が伸びるなか、日本の独立を守るため、日本を一つにまとめるため必要が出てきた。徳川幕府は大政奉還し、明治新政府は廃藩置県をしてたが、藩閥政治が行われていった。
日本を一つの国にするためには、他の元藩の不満をそらす必要があり、天皇家と「記紀」を格好のものとして利用したといえる。そこで、西欧の政治制度を取り入れるのに、神話にでてくる「高天原の安の河原で神々が会議をした」と言う話を、民主主義と一致させたり、聖徳太子の十七箇条憲法の、「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」を、民主主義だと始りだと言ったり、五箇条のご誓文の、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を、封建制度から民主主義への復活だと主張する人がる。それらを持ち出して、日本は太古の時代から民主主義の素地があった国だと憚らずに言う人がいつもいる。
これらのことや、学校教育で道徳が教科科化され、育勅語はよいことも書いているので、学校教育の現場で使ってもよいと言うのに憚らないようになってきている。

これらのことを考えると、「日本の心は祖先がえりする」となると、1937年に文部省が「国体の本義」発布し、そこに、「我が国民性の特色たる敬神・尊皇・没我・和などの精神…」「中心に向かって統一せられる没我的な特色…」とあるように、ファシズム体制への教育政策が教育勅語の下で利用されていった。
さらに、1941年には文部省が「臣民の道」を出し「我が國は、皇祖天照神が皇孫瓊瓊杵ノ尊に神勅を授け、この豐芦原の瑞穗の國に降臨せしめ給ひしより、萬世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて永遠にしろしめし給ふ。臣民は億兆心を一にして忠孝の大道を履み、天業を翼賛し奉る。萬古不易の我が國體はここに燦として耀いてゐる。」として、古事記など様々な史料を引用して神国たる所以や忠君について国民に従うように述べている。

歴史は繰り返す祖先がえりするなら、いつまでもこんなことをしていたら、歴史を都合のよいようにしか見ることができず、物事の自省ができずそれにより、責任をとらなくてもよいと考えるようにならないか心配だ。現に今の長期政権は長期が故の驕りがでてきているのではないだろうか。

こんなことをしていたら、これからの国際社会の流れから取り残される恐れもあるだろう。

西遊記と神話

中国の古典の三大奇書の一つの『西遊記』の書き出しに、次のようにある。

混沌はまだ分れておらぬゆえ
天と地は渺茫なんにも見えず。
盤古が卵を破ったその時から
天地はひらき清濁の別も生ず。
生きとし生けるを育くむ仁は
万物をつくり善へとみちびく。
創造の秘密を知りたいのなら
この『西遊記』を読みたまえ。
(岩波文庫 最遊記 中野美代子)

冒頭の中国語では次のように書かれている。「混沌未分天地乱 茫々渺々無人見」
この混沌と未分で渺茫でなにも見えないことは、中国の他に書物にも見ることができる。

中国には、ギリシャやエジプトやインドのような系統だった神話がないというが、袁珂が『中国古代神話』(みすず書房1960年4月20日)で次のように述べている。
中国の神話は、元来豊富でないとはいえないのだが、惜しいことに散逸してしまい、残ったいくつかの断片は古人の著作中のあちこちに散在して脈絡がなく、ギリシャ各民族の神話とその美しさを競いあうことができぬのは、大へん残念である。

とのべ、散逸した理由として魯迅の『中国小説史略』で、三つの項目を紹介している。
一は、中国の民ははじめ黄河流域にいて、自然の恩恵が少なく、その生活も苦しかった。だから実際を重んじて空想を退けた。まして古伝を集めて大文書にするなど出来ない相談である。
二に、孔子が出て、修身斉家治国平天下等の実用を教えとして、鬼神のことは口にしようとせず、太古の荒唐無稽の説はいずれも儒者の触れないものとなった。
三に、神と鬼とを区別しなかった。天神・地 ・人鬼は古は区別があったようでるが、人鬼もまた神 になることができた。人と神とが混 すれば、原始的信仰から脱却出来なくなる。
と、魯迅は『中国小説史略』(平凡社 東洋文庫618)で

天地開闢の神話など、中国に残存するものは、その構想がすでにかなり高くて、原始人の真面目を見ることができないのは、つまりその例であると言いきっている。

さらに、魯迅は、
『芸文類  三五歴記』を引いて
「天地は鶏卵のようにのっぺらぼうであった。盤古がその中に生れて、一万八千年。天地が開け、陽は澄んで天となり、陰は濁って地となった。盤古はその中にいて、一日に九たび姿を変え、天においては神となり、地にあっては聖人となった。天は日に一丈ずつ高くなり、地は一丈ずつ厚くなり、盤古は日に一丈ずつ丈が伸びた。そのようにして一万八千年、天は極めて高く、地は極めて深く、盤古は極めて大きくなった。その後になって三皇が出た」
を紹介している。

また、『列子 湯門』を引いて
「天地もまた物である。物として足りないところがあったので、むかし女?(女+咼)氏が五色の石をとかしてその欠落を補い、大亀の足を断ち切って世界の四隅のそれを立てた。その後共工氏が?(?+頁)?(センギョク)と帝位を争い、怒って不周の山に触れ、天を支える柱が折れ、大地を支える大綱が切れた。ために天は西北に傾き、日月や星はそちらに移り、地は東南に満たず、ためにすべての川や沼沢の水はそちらに流れるのである」
を紹介している。

『西遊記』では先にあげた詩につづいてつぎのようにある。
さても天地の秩序は、こんなぐあいになっております。すなわち、十二万九千六百年を一元といたしますが、その一元を十二の会に分けます。つまり、子・丑・寅・卯・辰・午・未・申・酉・戌・亥の十二支です。そこで、一会は一万八百年ということになります。(岩波文庫 最遊記 中野美代子)
これなど、芸文類  三五歴記の一節と似ているところがある。

しかし、この混沌は中国に限らず世界中の神話の中に見いだすことができる。日本の『古事記』を見てい見ると
そもそも宇宙の初めに、混沌とした根元がすでに固まって、まだ生成力も形も現れなかったころのことは、名づけようもなく動きもなく、誰もその形状をしるものはなかった。しかしながら、天と地とが初めて分かれると、天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・の三神が、万物創造の初めとなり、また陰と陽の二気に分れると、伊邪那岐・伊邪那美の二神が万物を生み出す祖神となった。(古事記 講談社学術文庫 次田真幸現代語訳)

また、キリスト教の旧約聖書を見ると
創世記 第一章 1-5
はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜となづけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
(日本聖書協会 1955年改訳)

ギリシャ神話では、世界の形成と神々の誕生について、青土社の世界の神話シリーズンのギリシャ神話(フェリックス・ギラン 中島健訳)でカオスとガイアについて次のように書いてある。
初めに混沌(カオス)があった、漠として暗かった、とヘージオドスは述べていうr。ついで、奥深い胸をもった大地ガイアが現われ、そしてついに「心を和らげる愛」エロースが現われた。それ以降、エロースの生み出す力が、生物・無生物の生成に常に主役を務めることになった。
カオスから暗黒(エレポス)と夜(ニユクス)が生まれ、ついでこの二つのものが結びつき、光(アイテール)とヘーメラスすなわち昼が生まれた。
ガイアは、まず、星々の冠を戴いた天空、ウーラノスを生んだ。「ガイアは、ウーラノスを自分と等しく雄大なものに生んだので、ウーラノスは彼女を覆いつくした。」ついで、彼女は高い山々と、波の美しく響あう「不毛の海」ポントスを創りだした。

このように世界の神話を見てみると混沌とした世界がまとまっていくところはよく似ている。

西遊記の話しで、孫悟空が天宮を大いに騒がす話や、玄奘三蔵の八十一難の話しなど、どうやら中国の古来からある神話など精神から作られた話のようです。

悪臭を放っている政治

「ああ、この穢れに穢れた肉体が、
溶けて崩れて、露になってしまえばいいものを。
定めなければよかったものを。ああ、神よ! 神よ!
なんと退屈、陳腐、単調、無益に見えることか、
このよの営みすべては! いやだ、ああ、いやだ、
この世は雑草の伸び放題、荒れ放題の庭だ。
卑しくはびこり自然(さが)のものがすべてを我が物にして、
悪臭を放っている。ああ、こんあことになろうとは!」
(岩波文庫 赤帯 204ー9)

これは、ハムレットの第一一幕二場でハムレットが言ったことばです。今の政治を見ていると、この気持ちになってくる。
これも、私たち自身が政治に無関心でいたからそのつけが、周り回って身に降りかかっってきているのだろう。

どのようにすれば、悪臭を放つものに対しての、このむかつく気持ちをやわらげ解消できるのだろか。

一幕五場では
「鎮まれ、鎮まれ、心乱れた霊よ!〔二人、三たび誓う〕では諸君、
くれぐれも宜しく頼む。
このハムレット、いかに哀れ不肖の身とはいえ、
君らに友愛の証しを立てることはできよう、
神意のままに、必ずや君らの友情に報いて見せよう。さ、一緒に中へ。
いつも唇に指をあてがっておくのを、どうか忘れないくれたまえ。
世の中の間接が外れてしまった。ああ、なんと呪われた因果か、それを直すために生まれついたとは!
いや、他人行儀はよして、さ、一緒に行こう。」
(岩波文庫 赤帯 204ー9)

世の中の多くの政治家や運動家や世の中の改革者の主張は、自分の主張を正しいものだと信じ、時に「これしかない」いって絶対化し、「決められる政治」といって正当化する。そうして関節が外れば身体が自由に随意的に動かすことができなくなように、代議員制民主主義のなかで有権者の意思はとどかなくなる。

ハムレットは、いまのデンマーク国の真相をしり復讐に亡霊に迫られる。それを知ったハムレットは、そのような箍の外れた世の中を「関節のはずれている」といい、そのような世の中を直すことは「うかぬ話」だと言う。すでに崩れたものを修復し回復するのは不可能だということだろう。

関節がはずれると思うように動かなくなるが。箍が外れれば桶や樽の場合は、その用をなさなくなる。孫悟空の場合は頭の箍があるから、三蔵法師により孫悟空の暴走に歯止めきくが、頭の輪の緊箍児なければ、三蔵を襲う妖怪退治に歯止めがきかなくなる。

いまの日本の政治や、世界の政治をみていても、関節がはずれて箍がはずれた政治家が、議会を好き勝手に闊歩しだしている。
ハムレットは、父が毒殺され母は叔父と淫らな寝床に耽溺していることを、修復不可能だと感じたが、現在の議会制民主主義では、有権者が目覚め目先の戯言に惑わされなければ、今の状況を回復できるのではないだろうか。

民は信なくんば立たず

孔子の論語 顔淵第十二の七 民は信なくんば立たず

論語 顔淵 第十二の七

漢文
子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。

書き下し文
子貢、政を問う。
子曰わく、食を足し 兵を足し 民をしてこれを信ぜしむ。
子貢が曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の三者に於て何れをか先きにせん。
曰わく、兵を去らん。
曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何ずれをか先きにせん。
曰わく、食を去らん。古より皆死あり、民は信なくんば立たず。


子貢が政治について尋ねた。
子曰、「食糧をいきわたらせること、軍備を整えること、人々に信義を植え付けることだ。」
子貢は、「やむを得ずして三つのうち一つを犠牲にせねばならないとしたら、どれを犠牲にすればよいか」
子曰、 「軍備だ」
子貢はさらに、「やむを得ずして残った二つのうち一つを犠牲にせねばならないとしたら、どちらを犠牲にすればよいか」
子曰、「次は食糧だ。昔から人の死は避けられないものだが、信義なくば人間社会が成立しない。」


香港の一国二制度が今後も続けられるには、「民は信なくんば立たず」この言葉を、行政府は肝に銘じておくべきだろう。
なぜ、民主派の一部の若者があそこまで暴徒といわれても過激な行動を起こしたのか、それは、香港に市民に今の中国の傀儡のような行政府に危機感をもっているからだろう。
経済的に豊かになるより、外国からの国防を中国の力を借りて強くするより、民主化の方を選んでいるからだろう。

ドイツの旧東側や、旧東欧などは民主化を果たしたが、西側との経済格差があり自由競争の世の中にんり、ものが不足されたりして不満を持っている人もいるが、無条件で以前のような生活に戻りたいとは思っていないのはたしかだろう。また、統制経済計画経済もどったとしたら、そこで改めて民主主義のよさを実感し香港のような多いな抗議運動が起きるだろう。

いまの、日本をみると、安倍政権は、足食足兵、民信之矣のうち、アベノミクスの足食を大事にし、中朝の脅威や集団的自衛権行使の足兵を重視している。民信之矣は丁寧に説明していくといいながら、論点をそらして説明していくすがたは、まったく、民は信なくんば立たずにはあたらない政治運営をしている。

その時は、日本国憲法の二つの条文を読み返してみよう。
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

この12条の不断の努力は、国民の抵抗権でもあり、抗議の意思を表すことが保障されているし、それが権利であり責任でもあると書いてあることを忘れないようにしたいと、香港の昨今の情勢を見て思った。

女神エオスの話の訂正

11月20日に、ギリシャの女神エオスが人間のティトノスに横恋慕して結婚し、ゼウスに不死のからだにしてもらうが、不老も頼まなかったので、どんどん老いていきそれに嫌気をさした、エオスはティトノスを一室に閉じ込め蝉に変えてしまったと書いた。しかし、それは間違っていた、ティトノスが一室に閉じ込められ、老衰した身で独りぼっちで暮らしているのを、神が憐れみ蝉に変えてしまったのが正しいようです。

さて、エオスは気紡で、他の男たちに慰めを求めつづける淫乱な女神だったようだ。

ギリシャ神話に限らず日本の神々も、全知全能の神ではなく、善良な神もいれば、間抜けな神もいたり、悪癖な神もいる。
その中にその神話を生み出した民族の文化があり、それがその民族の独自性なのだろう。しかし、その中には世界各地で共通した話も多くある。ということは、所詮アフリカから出立した同じホモサピエンスだということでもあるのだろう。

日本の神話とされる記紀すなわち、古事記と日本書紀は、奈良時代に編纂された日本神話や古代の歴史を伝え、天皇の皇統の正当性を謳うものです。
それより、それ以外の日本の各地に伝わる民話や神話には、日本の古来からある自然への畏敬の考えが詰まっているだろう。

八戒の失敗

西遊記の第二十四編で、三蔵法師一行が取経の旅に途中に、八戒が美女の母子に惑わされ、懲らしめられる話しがある。
そこに出てる八句の頌が出てくる。

黎山老母不思凡 南海菩薩請下山
普賢文殊皆是客 化成美女在林間
聖僧有徳還無俗 八戒無禅更有凡
従此静心須改過 若生怠慢路途難
(西遊記 浙江古籍出版社(中国) 簡体字は常用漢字に変換)

黎山(れいざん)老母は俗界を慕わねど 南海菩薩に請われ山を下る
普賢と文殊もまた客となり 美女と化し林間に出没せり
聖僧は徳あり俗気なけれど 八戒に禅なく更に凡心あり
以後は須(すべから)く過(あやま)ちを改むべし 怠慢せば路途は難しからん
(岩波文庫 西遊記 三 中野美代子訳)

黎山の老母 凡を思わず 南海の菩薩 下山を請う
普賢・文殊は皆これ客 化して美女となりて林間にあり
聖僧は淡漠にして禅機定まり 八戒は淫を貪りて劣性頑(かたくな)なり
これより心を洗い須(すべから)く過を改むべし もし怠慢せば路途難しからん
(平凡社 中国古典文学大系 西遊記 上 太田辰夫・鳥居久靖訳 (ふり仮名))


取経の三蔵、悟空 八戒 悟浄の一行を、その心意気を試すために、南海菩薩と普賢菩薩、文殊菩薩が美女になり四人をまどわすが、三蔵、悟空、悟浄は惑わされないが、八戒は惑わされ木に縛り付けれ懲らしめられる、今後経取のため精進に努められないと、取経が遂行できなくなる。と諭される。


従正修持須謹慎 掃除愛欲自帰真
(西遊記 浙江古籍出版社(中国) 簡体字は常用漢字に変換)

正に従って修持し須(すべから)く謹慎すべし
愛欲を掃除せば自(おの)ずから真に帰(き)す
(岩波文庫 西遊記 三 中野美代子訳 (ふり仮名))

正に従い修持するは須(すべから)く謹慎なるべし
愛欲を掃除(はきのぞ)けばおのずから真に帰せん
(平凡社 中国古典文学大系 西遊記 上 太田辰夫・鳥居久靖訳 (ふり仮名))


さらに、第二十四編に、『西江月』の詞が照会されている。
色乃傍身之剣 貪之必定遭殃
佳人二八好容粧 更比夜叉凶壮
只有一個原本 再無微利添嚢
好将資本謹収蔵 堅守休教放蕩

いろごとは身をそこなう剣とかや
 むさぼればめぐりあうは殃(わざわい)ばかり
二八(にはち)の佳人すがたはよろし
 されど夜叉(やしゃ)よりおそろしい
原本(もとで)はただひとつのみ
 利子を増やすな儲(もうけ)るな
資本はだいじにしまっておこう
 あちこち放蕩させてはならぬぞ
(岩波文庫 西遊記 三 中野美代子訳 (ふり仮名))

色はすなわち身を傷つける剣
これを貪れば必定(かならず)殃(わざわい)に遭う
佳人二八 容妝好けれど
さらに夜叉比(よ)り狂壮なり
ただ一個の原本あるのみ
再(さら)に微利の嚢に添うるなし
好く資本を将(もっ)て謹んで収蔵し
堅く守り放蕩せしむる休(なか)れ
(平凡社 中国古典文学大系 西遊記 上 太田辰夫・鳥居久靖訳 (ふり仮名))

色欲にむさぼれば、身を滅ぼすどころか、夜叉より恐ろしく、厳に慎まないといけない。

この後 八戒は、旅の途中なので、一つかみ土を摘まみ焼香の真似事をして合掌して、今後の精進を誓うのです。
さて、この後4人は、どのような取経の旅を続けるのでしょうか。

しかし、何事も物欲、色欲が過ぎれば道を誤ってします。特に修道のものはそれらを厳に慎まなくてならない。
西遊記は中国の四大奇書とされているが、単に面白可笑しく書かれた物語ではなく、そのなかに、民間の信仰や道教の教えや仏教の教えなどをそれとなく諭されるよに書かれている。

ギリシャ神話 不死のティトノス

先日のガリヴァー旅行記の不死の人間と、ギリシャ神話の不死の人間にされたティトノスがセミにされた話。

ギリシャ神話で不死についての話がある。
女神が人間の男に人目ぼれして攫うが、女神は年をとらないが人間はやがて死ぬで、ゼウスに男を不死にしてもらう。

ティタン神族ヒュペリオンとテイアとの娘、女神エオスは、太陽神ヘリオスと月女神セレネの兄妹である。雪のような肌に薔薇の花びらのようにほのかに赤い指先の華麗な容姿で、恋い多き女神である。
エオスはトロイアの王ラオメドンの息子、ティトノスを見初める。ティトノスは若さと類をみない美しさの人間の王子、エオスは地の東の果てまで、ティトノスを誘拐し、愛の楽しみに耽る。
エオスは神で永遠の命がと若さがあるが、神に比べれば寿命は短くはかないティトノスの若さと美しさを失うことを怖れた。
ティトノスと永遠に一緒にいたいと思い、そこで、天界を支配する最高神であるゼウスに「ティトノスに永遠の命を与えてほしい」と懇願がする。ゼウスはその願いをうけいれ、ティトノスに永遠の命を与える。
しかし、エオスは「永遠の若さ」を含めなかったので、「永遠の若さ」は与えなかった。

エオスと永遠の命を与えられたティトノスには、エマティオンとメムノンという二人の息子が生まれ、二人は幸せに暮らしていた。しかし、エマティオンはヘラクレスに殺され。メムノンはエチオピアの王になり、トロイア戦争の英雄になるが、アキレウスに殺されてしまう。息子を忘れられないエーオースが流す涙し、ティトノスをいつまでも若さを保ち続けて欲しと思う。
しかし、エオスは神であるが故に、若さを保ち続けるが、ティトノスは老けていき、肌に皺が刻まれ、髪の毛は潤いを失い、目は澱んで、からだは痩せ細っていき、手足を動かせなくなっていった。
エオスは、死ぬことができず、ただ生きているだけの、かつての恋人ティトノスに見切りをつけ、自分の住まいの一室に閉じ込目鍵を掛けてしまう。そこでティトノスは一室に閉じこめられ、一人寂しく暮らしていたが、神がそれを哀れみ蝉に変えてしまった。

女神エオスのエゴに翻弄された男ティトノスはたまったものではない、老けるだけ老け意識や知覚がにぶりぼんやりして、皺だらけになったあと、蝉にされてしまう。もしエオスに拉致されなかったら、平凡な人生を過ごし終えていただろう。どちらが幸せだろか。

日本の大魔王

私は今まで、慶応から明治に改元されたは、光明天皇が崩御され明治天皇が即位したからと思っていた。それ以降天皇の代替わりのときに、元号は改元されるようになったと解釈していた。

しかし、慶応 2年12月25日 光明天皇崩御し、慶応4年8月27日 明治天皇が即位している。改元は、9月8日に改元されている。
なぜこれだけの時間が空いているのか、それは政治の実権が今までの幕府から、王政復古され天皇に戻ったが、そこには、天皇家には日本の三大魔王ので最強の魔王を恐れていたからと考えられる。
光明天皇、明治天皇は、京都に白峯宮を創建するが、その崇徳上皇の神霊が白峯宮に到着したのが、慶応4年9月6日で、それを待ってこれらの天皇家の治世の安泰を願って改元したと見ることができる。
また、昭和天皇は白峯宮の社格を上げ白峯神宮とします。それは、帝国政府が大東亜共栄圏建設を閣議決定し、その成功と安泰を祈るために社格を上げたともいえる。
しかし、大東亜共栄圏への結果、日本は惨憺たる惨事に見舞われてしまう。崇徳天皇800年式年祭が1964年に行われるので、先の大戦で犠牲になった人のその鎮魂の意味をこめて、白峯御陵に勅使を送っり同時に、10月10日から開催されるオリンピックが無事行われ成功することを祈ったのだろう。

このように書くと、崇徳院は850年も祟り続ける大魔王のようだが、落語の崇徳院で知られる、百人一首にも選ばれている、「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の  われても末に 逢はむとぞ思ふ」の歌などを詠むと、崇徳上皇は果たしてそのように恨み辛みを持ち続け怨霊となり、世の中を沢がし続けるような人だったのかと、疑問に思うところがある。また幼いときから、よく和歌などにしたしみ教養と知性があったことが知られています。
崇徳院の大魔王の物語は、作者不詳の『保元物語』によるところとも言える。山田雄司の「崇徳院怨霊の研究」によると、山田は怨霊伝説が生まれたのは、「都から流され帰ることが許されることなく、辺境の地で憤懣を抱いたまま無念の死を遂げざるを得なかったことにあるとみなされている。しかしこうした考えは、崇徳院自身のかんがえかたというよりも、『保元物語』の作者が崇徳院に成り代わって創り上げていった、作者自身の崇徳院像といえよう」と述べている。

金毘羅本『保元物語』に、血書で五部大乗経を写経したとある。現代の私たちからすると、血書というとおぞましい感じがあるが、平安末期は自分の指を切った血で写経するのは、自らの信仰心の高まりから起きたことで、功徳を期待するものだとみることができると山田は言う。
しかし、『保元物語』では、五部大乗経を受け取ってもらえなかったので、崇徳院は、
「吾深罪に行れ、愁 浅からず。速此功力を以て、彼科を救わんと思う莫太の行業を、併三悪道に抛籠、其力を以、日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」とて、御舌の先をくい切って、流る血を以、大乗経の奥に、御誓状と書き付ける。「願は、上梵天帝釈、下堅牢地神に至迄、此誓約に合力し給えや」と、海底に入させ給いける。
としたとある。
これが、後の崇徳院が日本の三大怨霊伝説の一つになたのではないかと思う。
しかし、怨霊の祟りとはそもそもは人個人に付くもので、世の中や社会などにつくものでは禍いという。そうなると崇徳院の怨霊は後白河天皇に付くもので、当時の庶民などには関係ないものだが、『保元物語』のように誇張して面白く書かれると読む方は、いつの世も同じでそれがより拡散されて、今の時代になっても語り継がれていると言える。

そう考えると、崇徳院の怨霊は崇徳上皇を追いつめた当事者の、恐れが生み出したものではないかと思う。またそれが1964年の東京オリンピックまでも、続いていることは、天皇家の崇徳院へのそれだけの引け目があるからともいえるのではないだろうか。
昭和天皇の時代は、戦争という惨禍があったが、平成は日本では戦争はなかったが、自然災害が幾度と襲ってきた、さて令和の時代は始まったばかりだが、どうなるだろう。

東京オリンピックと鎮魂

能のワキ方の安田登がTwitterで、東京オリンピックのとき、怨霊を祓うことをしたとツイートしていた。なぜ怨霊を払わなければならなかったか、どのようなことそして怨霊を祓ったかは述べていないのでわからない。

怨霊というと日本最強の怨霊として、崇徳院の話が知られている、弟の後白河天皇との保元の乱で破れ讃岐に流された。その後、赦免のため、写経をし京に送るがそれを断られ、「我、日本の大魔王となり、皇を取って民となし民を皇となさん」と書き残し、舌を噛み切って死ぬ。その後、京では、後白河天皇の近親者が相次ぎ死に、平安京が焼失しするなど不吉な出来事が相次ぎ、崇徳院の怨霊だと恐れられた話はよく知られている。
明治天皇は、即位の際に崇徳院への詫び状を書き白峯宮を建立し、昭和天皇も崇徳院の800年忌(1964年)に讃岐の崇徳陵で式年祭をしている。
このことを見ても、皇室の崇徳院にたいしての気遣いはいまもあるのだろう。

能の演目に「松山天狗」というのがあるが、私の持っている観世流の謡本にはない。安田は宝生流のワキ方だが自分の流派にはないと言っている。
金剛・喜多・金春流になると思っていたら、わたしのもっっている「能鑑賞二百一番」の本に、「江戸時代にも埋もれていた時期があり、明治十年代に金剛流が演目に取り入れ以来、一九九四年七月に能劇の座で能本作成西野春雄により観世流で復曲試演するまで、金剛流だけで上演されていた。となっている」と書かれていた。
作者は不詳となっている。また作られた年代はわからない。上田秋成の「雨月物語」には、2話に「白峯」があるが、この謡曲が発端になったと見られる。

さて、二〇二〇年のオリンピックで、狂言方の野村萬斎がチーフディレクターをするそうだが、そこで「鎮魂と再生」と述べていたので、
どのような演出になるだろうか。それも一つの楽しみとするのもよいだろう。
一九六四年のオリンピックでは、アジア太平洋戦争やヨーロッパでの世界大戦の戦没者や犠牲者の鎮魂でもあった、今回も、冷戦が終わったというが、世界では戦争で多くの人が犠牲になっり、日本を含めて世界各国で自然災害で多くの人が犠牲になっている。それらの人の鎮魂を捧げる。また、鎮魂とは、死者の霊魂をなぐさめ、しずめること、鎮魂の祭りとする、肉体から霊魂が去ることを恐れ、遊離した、または遊離しようとする魂を呼び戻してしずめる「たましずめ」がある。このところ自然災害が頻繁におきているが、それが松山天狗とするなら、崇徳院の霊の鎮魂もするとよいだろう。

子分を高いポストにつけない

宋名臣言行録 その3

宋名臣言行録 第一部五朝名臣言行録に次のような話亜ある。
王曾が宰相だった時、自分の身内や仲間からは一人も高い役職につけなかった。ある機会に笵仲淹が、「優秀な人材をとりたてるのが宰相の任務です。全体を統括して管理すあなたに欠点があるとすればそこだけです」とそれとなく誘いをかけるた。すると、王曾「君はわしが恩義をきせれば、怨恨が誰にゆくか考えぬのか」と答えた。茫然とした仲淹は、「なるほどこれこそまことの宰相だ」と感嘆した。

いまの安倍政権は、閣僚などの人事は、お友達人事と冗談や皮肉を言って相手をからかうわれることがある。
この話を安倍政権の人たちはどうよむのであろうか。

宋名臣言行録 第一部五朝名臣言行録 第三章真宗 第三皇帝

宋名臣言行録 その2

宋名臣言行録 その2

玉清昭応宮は,北宋の真宗時代に、おまつり騒動の総本山のような清昭応宮が落雷による火事で焼失した、それにより、守衛の責任者たちはみな獄に繋がれた。象徴である玉清昭応宮を再建の話しがあった。しかし王曙は言った。「昔、魯の桓と僖の廟所が焼けたとき、孔子は、時代に合わず古いので取り壊すべきものだったと言った。漢の時代に、遼東にある高祖の陵園の御殿が焼けた時には董仲舒は、高祖の廟は地方にあるべきでなく、また御殿は陵墓のそばにあるべきでないと言った。三国時代、魏の祟華殿が焼けたときには、重臣の高堂隆は、豪壮な宮殿を作ることへの警告で、修復すべきでないと言上したが、文帝は聴きいれず修復したが再び焼けた」。王曙は玉清昭応宮のようなものは、無駄なものでよけいな出費をすだけだとして、いにしえの孔子や漢代や三国の古典の話を例に再建に反対した。

この説得力ある贅沢な事業にたいしての反対意見はなかなかスマートなものです。
いま、国や地方の行政でも、大型の公共事業をして景気の底上げをしようとしているが、それらは本当に今よりよりよいものになるだろうか。
万博やリニアなどは二匹目のドジョウを狙うようものだが、早々と捕らぬ狸の皮算用で、今皮算用をしている者だけが儲けて、あとは何が残るのであろうか。

竈の神

論語 八いつ に次のようなことが書かれている。

王孫賈問曰。與其媚於奧。寧媚於竈。何謂也。子曰。不然。獲罪於天。無所祷(示+壽)也。

王孫賈問いて曰く、其の奥に媚こびんよりは、寧ろ竈に媚よとは、何の謂いぞや。子曰く、然らず、罪を天に獲ば、祷(示+壽)る所無なきなり。

王孫賈が「部屋の奥の神に媚びるより、竈の神に媚びよ、という諺はどういことですか」とたずねた。
子曰「それは間違っている。天に対して間違いを冒したなら、どんな神に祈っても祈りようがないものです」

いまはガスや電気のIHコンロだが、昔の家には竈があり薪で煮炊きものをしていた。ここには竈神が祀られていて「おくどさん」として親しまれて、大切に扱うように言われていました。また、火の神としては荒神さんとしの神もまつられていた。
また、竈神はその家の家族の行為を四六時中監視していて、その一家の行為をすべて把握していると言われていた。竈を粗末に扱うと、病気になったり火が出たりするので、大切に扱えということです。

王孫賈は、竈神の話を持ち出しなぞかけをして自分に媚びよと誘いかけたのだが、それを孔子はきっぱりと撥ね付けて、天に対して過ちを犯したら、どこにも祈りようがないと毅然とした態度でいる。

いまの政治家の多く特に自民党の議員なら、王孫賈の誘いにその顔色をみて直ぐにのってしまうでしょう。いかに、党の人事権と国の官僚の人事権を握っているものになびくのは、そのときの自分にとってはいいが、国にとってはおろかしいことです。国会議員は主権者である国民の代表者であることを忘れているのでは?


中国の竈神の話しに次のような話がある。
古稀をむかえる男がいた、男には三人の男の子がいて、孫も五人いた。
長男は科挙に合格し役人を勤め、次男と三男は商売をしていたので、そこそこの暮らしをすることができていた。
男は善行を率先して行い、まわりから善人と称されていた。ただ妻が目を患い、医者の診てもらっても薬石をしても効果がなかった。
除夜の晩に男はある夢をみた。青衣の童子に導かれた竈神があらわれて言った「汝は一生身を慎んで過失がなかった。汝の妻の眼病は、魚の食べ過ぎだ、以後殺生を慎み捕えた魚や動物は放してやるといい。そうすれば治るだろう。いま、汝に黄金一万両を授ける。終世善行を行ない怠ることなかれ」と言って消えていった。
男は目が覚め不思議なこともあるものだと思っていると。商売に出かけていた次男が大儲けして帰ってきた。さらに妻の目もよくなた。
これは、竈神はその家族の言動をつぶさに四六時中監視しているのだ、一家の行いをつぶさに把握していて、その男の善行を行なっていることに対して福をあたえたのであろう。

真面目にコツコツと生きて、人には善行を行なうことの大切さを物語っている、まずは国民の代表者は自分の私利私欲で行動するのではなくこうあって欲しいものです。

*参考 中国妖怪・鬼神図譜 相田洋 集広舎 

鍬を捨ててウサギを得ようとする

韓非子の五蠹に次のような話がある。

宋人有耕田者 田中有株 兎走触株 折頸而死 因釈耒其而守株 冀復得兎 兎不可復得 而身為宋国笑

高校の漢文の教科書で読んだ記憶がある話しです。

宋の国で畑を耕している者がいた、その畑の中に切株があった。たまたま兎がそこに走ってきて、切り株にぶつかれり首の骨を折って死んでしまた。それを見た男は、鋤を捨て畑を耕すのをやめ、再び兎が株にぶつかり兎を得られることを願った。男は兎を得られないばかりか、宋国中の笑いものになった。

そして次のように続きます。

今欲以先王之政 治当世之民 皆守株之類也

いま古代の聖王の政治によって、現代の民を治めようとするのは、この株を守って兎を得よとしている男と同じだ。

憲法の護憲派は不磨の大典のように死守しようとしている人がいるが、それはこの株を守って笑い者になった男と同じになってはいけない。そのようなことをすれば、憲法を自在に解釈して壊憲して改憲をしようとする者に押し切らてしまう。

国際情勢は変わり世界の秩序は、二度の世界大戦の反省によって作られた憲法の時代とはかわってきている。冷戦がはじまりそれも終焉せていき、経済がグローバル化し、国という一つの枠では物事が進まなくなり理解もできなくなってきている。また、国政をつかさどる政治家も戦後生まれの政治家がほぼ殆どで、戦前生まれといっても戦中の体験を記憶している人はいない。そのため、立憲主義と国民主権の本当の意味を理解しようとせず、統治権者として憲法を解釈しようとしている。そのため、立憲主義とは王政の時代のものだと言う政治家が首相に選ばれたりしている。そのようなことを考えると、憲法を改正するなら立憲主義の縛りを強めること求めるべきではないか。

私はこのブログで、そのことをいくどが書いてきたが、今の安倍政権の国会運営を見ているとますます改めて強く思う。どこまで横暴になるのだろうと心配でたまらなくなってしまうのはわたしだけだろうか。
■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

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記事へのコメント
  • 臨時国会の開催はいつか
    竹林泉水 (08/09)
    日本の現状いや世界でも同じよな風潮になっている。
    アメリカでも、トランプ政権の外交政策や内政も、アメリカ自己国第一主義のアメリカファースト。
    日本の安倍政権も、こ
  • 臨時国会の開催はいつか
    風と雲 (08/04)
    一体今の日本はどうなってしまったのだろうかと思う。アベ内閣も与党も憲法に違反することを完全に無視して悪びれもせず堂々と実行してきた。、政府高官も最高裁も報道機関
  • 難病と尊厳死
    竹林泉水 (07/29)
    コメントありがとうございます。

    自ら生きる権利、自ら死ぬ権利があるのはよくわかります。
    それにはどちらも人・個人としての尊厳が保たれている必要がある考えます。
  • 難病と尊厳死
    風と雲 (07/28)
    意識して自ら命を絶つことができるのは人間だけだと思います。人には生きる権利と自由があるように、自らの命を絶つ権利も自由もあって然るべきではないでしょうか。このA
  • 不自由な国、日本
    アジシオ次郎 (07/01)
     自分よりも周りを優先する集団主義的な考えが同調圧力などがまかり通る社会なことについて前に
    >日本的なこの価値観は、海外から見たら奇異の目でしか見られないでしょ
  • 不自由な国、日本
    竹林泉水 (06/29)
    日本語に「世間」と言葉があります。「世間体が悪い」「世間がうるさい」「世間を渡る」「世間に顔向けできない」「世間の目を気にする」「渡る世間に鬼はいない」などとつ
  • 不自由な国、日本
    アジシオ次郎 (06/27)
     おはようございます。

     日本はやはり集団主義が根強い社会であり、いわゆる「ムラ」社会的価値感が強い為に変に「和」を重んじる傾向の上に上の言うことは絶対だという
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    竹林泉水 (06/26)
    なんで日本人は欧米人に対してコンプレックスを持っているのだろうか。明治政府は今までの幕藩体制をぶっ壊し廃藩置県をし、国内の不平不満のエネルギーを外に敵を作ること
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    アジシオ次郎 (06/25)
     こんにちは。

     日本人は長年欧米コンプレックスを抱いたせいで白人に対して好意的に見る一方でアジア人や黒人を平気で見下すような傾向が強いけど、自分たちが置かれて
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