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竹林の Twitter 新しいウインドウで開きます。

女性はうそをつける

女性はうそをつける
杉田水脈衆院議員の「女性はいくらでもうそをつけますから」の発言に対して自民党はなかなか処置をとらず、ネットなどでの批判が広がり、橋本聖子男女共同参画担当相が「自民党として適切な措置をするべきだった」と指摘しし、漸くようやく、党幹部が9月30日に杉田氏を口頭で注意するにとどまっている。
それにより、杉田氏は今まで発言を否定していたが、今月1日に一転して、自身のブログに謝罪を掲載して発言を認めた。ただそれは、ただ謝罪をしているとは思えない、そのブログには、「うそをつくのは性別に限らない」と前置きしているのは、論点をすり替えているので、性暴力被害者への謝罪とは感じられない。しかも、公式な謝罪でなく私的なブログをもちいての表明なので、誠実さに欠けているだろう。自民党の総裁直属の「女性活躍推進本部」を政策調査会の下部組織に格下げるようだ。

安倍内閣の時から、「女性活躍社会」というが、閣僚に女性が入ることはすくなく、菅内閣では2人りで一人は五輪相で安倍内閣からの引き続きです。実質一人と言うことになる。つまり、菅政権に積極姿勢は見られない。現状は「女性活躍」を掲げた安倍政権の時代から後退しているようだ。少子化問題もあり、子育て支援などは積極的に推進するようだが、それでは「うめよふやせよ」のように聞こえる。

安倍晋三は、そのなかみはともかく、一応自分のなかに日本の理想、政治の理想などがあり、ロマンチスト的なところもあった。しかし、菅総理は官房長官を長くこなしてきただけあり、実務に熟達しているので、その点の気配りしかできず、人の心によりそうことは前首相以上に不得手のようだ。しかも、アベ政治を継承していくと言うので、菅氏自信の政治的理想などはどうでもよいのだろうか。

基本的人権と文化的生活権

基本的人権の定義とくに基本的人権と限定しても様々なしかたがあるが、ブライス卿イギリスの政治家ジェームズ・ブライスは次のようにしている。
公民権「各自の人格や財産について社会から支配を受けない」。
宗教権「宗教上の見解の表現や信仰の実践に際して支配を受けないこと」。
政治権「管理統制やむなしとするほど公共の福祉に明白なえ異郷を与えたりしないことがらについては支配を受けない。表現の自由も含まれる」。
そして、自由主義的考えに、雇用による仕事の有無や住む権利や医療などの社会保障などの権利、つまり日本国憲法の基本的生活権の保障は基本的人権と対立すると考えると捉えると。社会保障などが整備された大きな政府より、自助、自己責任に基づいた小さな政府をめざすのかとなる。

つまり、社会保障などを充実させ文化的な生活権を守るなら、ある程度の基本的人権を制限してもやむを得ないとする考えが社会主義の常套てきな考えだが。それを実現させるには全体主義的な手段をもちいて実現させると、指導者の考えに従えとなってしまう。逆に、今日の新自由主義をより進めていくと、社会保障の縮小になり、自己責任の論法による自助での切捨てにより、格差拡大がより如実になる。

民主主義とは、すべての人々市民が政治的力を共有し、政治に参加できる権利が保障されることです。そして、自由主義社会では、公民権・宗教権・政治権は密接の結びている。
しかも、現代の世界の流れは、2015年に国連総会で加盟国のすべてが賛同し、2030年までに実現させるとした未来のかたちである、SDGs「持続可能な開発目標」の実現である。それには、対立する基本的人権と文化的生活権は車の両輪であり比翼連理であらねばならない。

超多国のアメリカのトランプ政権は自国ファーストに走り、このコロナ禍ではコロナワクチンを自国優先に確保しよとしている。この流れは日本を含め世界の先進国は同様に追随している。また、支持を集めるために自国優先の政策を露わにし、戸民の関心を向けるため敵国をつくり中国と対立を露わにしている。
コロナ禍と向き合い乗り越えるために、またSDGsを実現させるためには、対決分断の道を選ぶのではなく、調和までいかなくとも協調・連帯の道を模索すべきです。

尊厳死 安楽死

ALSで闘病中の女性が、二人の医師の安楽自殺を願い、二人の医師が嘱託殺人容疑で7月23日に逮捕されている。この医師は主治医でもなく、ネットのSNSなどで連絡をとり、嘱託殺人を依頼したなど、今までにない展開になっている。

いままで、終末医療の現場で病状の末期のだんかいで、本人の希望や家族などの依頼などで、医師としての立場や倫理的な問題がりながらも、延命措置を中断することなどがおこなわれているとみられるが、このALSの女性の事件は別の問題もはらんでいる。

女性は症状が進行しているとはいえ、他者とのコミュニケーションが充分にとれる人だった。しかし、自分の将来に悲観をして自殺したいという願望にかられてのこととみられる。健康な人なら人生が破綻したので、自分自身の行動で自殺して死を遂げることができる。しかし、この女性は自分でそれを行なうことができず、主治医に相談し死にたいと伝えていたが、主治医はそれに応えることはしなく、むしろ別の生き方があると諭していた。

このもんだいは、不治の病や終末期の人に対して、現代の医療技術の進歩と社会の制度や受けれの体制とにずれがあり、患者に充分に応えることができていない現状を露わにしたといえる。
死を免れない病気や耐え難い苦痛のなかで、死を望む患者やその家族と医療現場との葛藤は、「安楽死」や「尊厳死」の問題としてこれまでも、事件が起き議論されてきている。

医療技術が進み、不死が実現しそうな状況になってきている現在、日本では今まで踏み込んでこれらについて議論されてこなかったが、海外の国では法整備よりもその議論が進み社会的な認知が進んでいる国もあるようです。

た。海外でも同様の事件は繰り返し起きており、国によってさまざまな法整備が進められてきたが、日本ではまだ明確な基準やルールが確立されるまでには至っていない。

 生命倫理の立場から生と死の問題について研究を続け、海外の状況にも詳しい生命倫理政策研究会共同代表の橳島次郎氏は、西洋では、安楽死(euthanasia)はナチスを連想させる言葉とされ、尊厳死(death with dignity)は、医療費を抑制する必要性から入院期間が短縮され、有効でないとされても延命措置の医療行為は行われなくなってきている。そこで「医療措置の中止」という言い方のほうが適当だと述べている。

300年程前に、イギリスの風刺作家ジョナサン・スウィフトが、ガリバー旅行記で、高齢化した人の問題をとりあげている。ガリバーが訪れたラグナグ人が住むくにでは、人びとは礼儀正しい人だた。そこで、不死人間ストラルドブラグの話を聞きく。
ガリバーはその話をきき、不死になった人間はどんなに知的で高潔で素晴らしいと思ったが、ラグナグ人はストラルドブラグは死なないだけで老いて物忘れはひどくないり、怒りぽっくなり病気もすればもうろくもする、そして彼らは呪われた人生を送っている。彼らストラルドブラグは80歳にもなれば何もできなくなり、90歳になればただ生きているだけの状態になる。そうなればただの穀潰しで、周囲からは厄介者としか見られないという。そてガリバーは、人の不死とは悲惨な境遇を招き、逆に死というものが救済になるのではないかと考えた。

長寿と言うのは社会保障など経済的な社会的な大きな課題だけでなく、生命の倫理についても大きな課題です。
死の自己決定権について、考えるべきもので、生死の選別につながってはならない。また、死というものは、自分一人ので解決できるものではなく、家族や友人、医療者、ケアスタッフなど周囲の人々の関与があるので、尊厳死や安楽死の言葉だけでなく、そこにはその国の文化や宗教観や倫理観など複雑に絡み合ってくるが、真摯な議論を積み上げるべきです。

歴史について

歴史書はそれを、書く人の立ち位置によって変わる。学校で使われる歴史の教科書などは、国を問わず、そのときの政権により、大きく変わったり、大なり小なり変わる。
日本で見ると、戦前の歴史教科書では、明治の始めに学制が始まり、国の歴史を教えるようになてから、敗戦までの教科書を見ても、しだいに国歌主義的な歴史観を教える方向に変わっている。天照大御神から授かった神武天皇の、皇祖皇宗の組み海の神話を国の正史とした歴史だったが、敗戦により国家神道による国体を書いた歴史教科書から、社会制度、教育制度が大きく変わったことにより、歴史教科書もそれまでの、皇祖皇宗史観の歴史から、歴史的事実を重視した教科書へとかわっている。このように、冒頭に書いたように歴史とはそれを書く人の立場によって変わることを知っておくべきだと言える。

日本の最古の歴史書は、「古事記」といえるが、これは奈良時代に時の天皇の天武天皇が稗田阿礼位に編纂を命じ、太安万侶が纏め上げ元明天皇献上したものと「古事記」序文にかかれている。もともとヤマトの一豪族であった、天皇家が大和を中心に周辺地域を治め、勢力を拡大してく上でその、家系の正当性を作り上げるために作られたものです。
このように、歴史は書く人の立ち位置によって変わるが、その歴史を記録する人により、同じことでもその視点が違うことにより、内容が大きく変わっくることは当たり前です。

また、為政者が書くものと、為政者によって制圧された部族や民衆が書いたものとは異なってくる。しかも、おおむね正史とされるのは、支配している為政者の側にたっている。
また、政治家が書いたもの、武士が書いたもの、民が書いたもの、民が書いたものでも商人が書いたもの、宗教者が書いたもの、農民が書いた物などによって変わってくる。このことから、歴史は一つでなくそれぞれの立場の数があるだけあることになる。
その歴史は、どれも自分に都合の良いように解釈され書かれていくことが多い。特に為政者や社会的な身分・職階などの地位高い人が書いた記録ほど、都合の良いように書かれているものが多いといえるだろう。

また、同じ側の戦記でも、武士や軍が書いた物でも、時の為政者と、中央の戦略家が書いたものと、前線の指揮官が書いたもの、一兵卒の日記として記録されたものとでは違ってくる。
また、隠れた歴史として、兵としてかり出されそこに残された家族の人たちの記録などもあり、それを見ることにより、本当の戦争の姿が浮き上がってくる。それと同じようなことが、あらゆることだあるはずです。

また、公的な歴史としては、記録されず消されてしまう歴史もあるだろう。歴史修正主義者によるもの。
また、私たち日本で学校で教わる米国の歴史は、1492年のコロンブスがアメリカ大陸を発見し、イギリスとの独立戦争後の歴史がでてくるが、それ以前の先住民の歴史や文化は教えられていない。米国の学校では国の歴史としてどのように教わっているのだろうか。

同様に日本の古代からの現代までの歴史も、百様ありそれぞれの歴史はそれぞれの立場の人にとって正しいかもしれないが、いろいろな立場の置かれた人がいろいろな状況に置かれていたことをなかったことにすることはできないものです。
それぞれの立場を重視しながら、相手の立場を尊重して歴史を直視していくことが大切だろう。

個の応じた才能を育てる

アメリカの先住民のモハベ族は、部族を一つにまとめるために、子供たちへの教育は平等には扱わない。鎌田  の著書「癒されぬアメリカ 千住民社会を生きる」集英社親書 に先住民のマリエッタ・パッチの言葉を紹介している。「部族では、白人社会のように、すべてのこどもに平等にものごとを教えるということはしない。子どもの頃から、その子の素質、才能に合わせて、年長者が自然環境のなかで、英才教育を施す。リーダーに向いている子どもには統率力、呪術師になる子には精神世界とつながる力、芸術の才能がある子には、表現力を伸ばすような、それぞれの目的に合わせた教育がある。だから、スピリット・ランナーになる子は幼いころから、日々、特殊な訓練をかかせない」。
アメリカの先住民の部族の人口の規模は、コロンブス以前でも今の国家や都市のように多くはなく、多くても数百人程だと言われている。そして互いに部族間での抗争などもあっただろうかから、部族を率いるリーダにはそれなりの資質が必要とされ、小さいころから、部族のものみながその英才教育関わり、子どもがそだてられていたのだろう。

しかし、その集団の人数が数万、数十万、100万、一千万規模になるとそのようなことはできない。だから、集団が国家組織になると、すべて平等に教えるようになっていく。
今の、学校教育の制度では、日本では学習指導要領に沿って教えられ、教科書も指導要領に基づいて作られ文科相による検定がなされ、教科書は行政などのブロックで一括採用され、学校ではカリキュラムが編成され、時間割のよりその時間ごとに教室で一律に教えられている。
しかし、数十人や数百二程度なら、一人のリーダの資質によいり、部族の存続がかかっているので、各それぞれ個人にどのような資質があるか、部族全体で見極めそれに応じて育てられていたのである。
日本では、家業を継ぐ者はその家の者からと思われているが、昔から必ずそうとも言えない。江戸時代などの商家や武士では、必ずしもその家を継ぐのは長子とは限らず、資質がなければ廃嫡されたり、強制的に隠居させられたりする。出来の悪い不良ともなれば勘当され、家との縁をきあれてしまう。そして、次男に継がせたり養子を迎えたりしている。現代でも株式会社などでも社長になるのは、その会社の生え抜きとは限らず、外部から登用することも多い。
隠居させらた若い長男などは、自分の趣味を特技としてその方面の才能を伸ばすものも多くいた。

さて、現代ではどうだろうか。

人種差別に対する抗議行動

いま、米国で人種差別に対する抗議行動が、コロナ禍の中でも大規模に起きている。また、米国だけでなく世界各地でそれに共鳴して起きている。米国では、リンカーン大統領が奴隷解放宣言後も奴隷が使役されをていたが、1865年の6月19日に解放されていなかった、テキサス州に北軍の部隊が進軍し、25万人の奴隷を解放した日として、米国南部に住む黒人の間で大切な祝日とされ、テキサス州では州の正式な祝日に指定されている。それほど、人種差別に対する抵抗は重要なものと言える。
しかし、特に米国の人種差別主義者は未だに、「白人以外は人間でないから、白人以外に人権はなく、白人以外は野獣である」。と考える人もいる。
今までにも、米国で差別に抗議した黒人が立ち上がった行動は何度もあっが、毎回その動きは1-2週間の一過性で終わっていたが。今回の人種差別撤廃への要求は終息しそうにもない。しかも、20代の若い人たちが多いというこです。

20代の世代は、プライバシー保護の意識が高く、ブランドではなく本質に価値基準を置き、9.11の経験により社会課題への意識が高い、Z世代と呼ばれている。彼等は、黒人であるバラク・オバマが大統領に座に着き、
それを違和感なく見てきている世代でしす。それにより民主主義と自由の国である米国が肌の色で人間を差別していることが信じられない。つまり属性を問題にしてはいけないとの良識派の人たちです。
また、世界各国でも、人種差別に対する抗議行動がおきているのは、米国の白人警官による黒人殺害に対する抗議ではなく、自分たちも差別されていること実感しているからだろう。
では、日本では海外の国ほど人種差別への抗議が高まっていないのはなぜだろうか。日本では国民の間に生活の中で、人種差別や民族差別をすることがあっても、人種差別をされる実感することがないのだろう。それが、人種差別撤廃条約を批准したのに、人種差別禁止が義務づけられいるのに、法的規制ができる種差別撤廃基本法を成立されないのだろう。
逆に、明治以降に作られた国家神道による浸透が、戦後否定された国家神道の日本は神の国で特別な国という思いがあるのだろう。
コロナ禍後の世界の中で、日本が名誉ある地位にとどまるには、まずは日本は神の国だという思いを棄てることが大切だろう。

刑の厳罰化 は必要か

刑の厳罰化
最近、事件の加害者を擁護するようなことを言うと、特に凶悪な殺人事件などで、被害者や遺族の気持ちを考えろとか、自分が被害者になった時にも同じことが言えるのかと詰問する人がいる。
また凶悪事件に対して、被害者の気を思い諮らんとしか、刑の厳罰化を望む声がある。そして厳罰かを正当化する理由として、犯罪の抑止力になると主張する。
本当に刑の厳罰か重罰かは犯罪の抑止になるだろうか。世界に国々で刑を重くしたからといって、犯罪が少なくなったと言う統計はない。むしろ世界的にみて刑法犯は少なくなっている。犯罪が少なくなるのはむしろ社会的要因、経済的な要因によるところが多いと言う。
刑の厳罰化が犯罪よくしになるとうなら、鞭打ちや石打刑を公衆の面前で執行するのを復活させ、死刑の執行も公開の場でし、公衆の面前で見せしめにするがいいと思う。
現代は、罪に服している人は、壁の向こうで社会から隔離されている。一般の市民はその実体を知ることはないのである。それでは厳罰化しても抑止力になるだろうか。
現代の刑務所の役割の国際社会の主流の流れは、刑を懲役する視点より、社会更正のほうに重きが置かれるようになってきてる。

聞くところによると、日本では以前、死刑執行前に、家族など親族と面談し別れを偲んだ時期もあった。しかし現在は死刑がされたこともあまり明かされない。ましてや事前に死刑執行されることは、世間にも本人にも通知されない。また、死刑のがどのようになされるも秘密にされ、一般の人は日本は絞首刑ということしか知らない。
死刑がいつ執行されるかが、本人に知らされないことは、死ぬ人の心の準備をする事を認めない事でもある。それは死刑囚の人権を疎かに見ているとも言える。通常死刑の判決をうけると、罪に対して死に対して向かい合えるように、教誨師がつけられるが、教誨師にも知らされないそうだ。
死刑の執行が本人に伝えれなくなったのは、死刑囚が刑の執行を伝えられた死刑囚が、刑の執行前に自殺した事件?事故・が合ったからだという。死んでしまった人を死刑にすることはできないので、刑の執行ができなくなると困るからだと聞いたことがある。

一部の国では刑を厳罰に処している国もある。その多くは、言論の自由や表現の自由について、法律の範囲内で条件が付けられていたり、公益を損なわないとか、秩序を乱さないという条件が付けられてる。
それらのことを考えると、刑罰の厳罰かを望む声が、市民民衆のなかからあがってくることは、為政者としては喜ばしいことで、為政者としては統治の秩序を管理する上で都合のよいことです。
私たちは決してそのようなことを望むべきではないです。

日本の難民受け入れ

1月30日 のニュースで、 東京高裁が「地球上で行き場を失う」無国籍男性を難民と判断を下したとあった。

ソ連が崩壊し、ジョージアでう生まれた、男性がアルメニア民族であることから人種差別を受け、ジョージアを出国して無国籍になり、世界の国を転々として10年前に日本政府に難民の申請をしたが、認定を認められず認定を認める訴えを起こした。一審は退けたが東京高等裁判所の野山裁判長は「」無国籍者で人種を理由に迫害を受ける恐れがあり、難民に当たる。男性に退去強制命令を出せば地球上で行き場を失いうことは明白だった」として、一審が難民と認めなかったことの国の処分を取り消し、当時の入国管理局の退去強制命令を無効とした。
この裁判の結果について、出入国在留管理庁は「判決の内容を十分に精査し、適切に対応したい」とコメントをだした。

この管理庁のコメントをどのように受け取ったらよいのか、政府や役人の「検討する」とか「適切に」という言葉は、おうおうにして何もしないことを意味るることがある。出入国在留管理庁は取り消しを無効とするよ公訴するのだろうか。
アルメニア民族の一男性の人権がかかっているので、戦後に民主主義国になった日本として、新たなブローバル国際社会の中での対応が問われるだろう。

日本は、いまだ政治家の中で単一民族だとか言う人がいるので、この男性についての民族の多様性を認め、それらにつていの政府の対応の仕方によって、いまだ、戦前のような意識のままなのかがわかるだろう。
政府を変えるには、このジョージア生まれの男性への支援を輪が広がることにより、今後の日本の在り方を適切な方向へ向かう後押しになるのではないだろうか。

また、NHKによると弁護士は、無国籍の人を難民と判断した判決は初めてとみられ、男性は判決について「裁判所に理解してもらい、将来についてようやく考えられる」と話していると伝えている。


国際条約で無国籍に関する条約には、1954年の無国籍者の地位に関する条約と1961年の無国籍の削減に関する条約がある。しかし、日本はいずれにも締結すらしていない。
さらに、締約国でない国でも、無国籍認定手続の設置や国籍法の改正などに多くの国で、無国籍の人に対しての展が見られている。しかし、日本の国籍法などの関係などから、世界から見ても無国籍者に対して、日本は冷たい国のようだ。
日本は無国籍条約を締結していないが、国籍法や出入国管理法や難民認定法等の関連する国内法において、その運用や解釈の仕方により、大幅に無国籍者に弾力的、寛容な処置が出来るのではないかと思う。
(国籍法は出生地ではなく血の方をを重んじているが、国籍法2条3号では、日本で生まれた場合において「父母ともに知れないとき、又は、国籍を有しないとき」に日本国籍を付与する規定があり、8条4号では、簡易帰化の規定もある。

死刑制度

NHKのニュースによると、内閣府が死刑制度に関する世論調査をおこなった。その結果によると「死刑もやむをえない」と答えた人が8割に上った。その主な理由が、「廃止すれば、被害者や家族の気持ちがおさまらない」という理由が最も多くなったという。
内閣府は、18歳以上の3,000人を対象に、死刑制度などについて世論調査をおこない、52%に当たる1,572人から回答を得た。そのうち、81%の人が「死刑制度はやもをえない」と答え、「死刑制度は廃止すべき」と答えた人は9%しかなかったという。

死刑を必要とする理由として、「廃止すれば、被害者や家族の気持ちがおさまらない」が最も多く57%、次いで「凶悪な犯罪は命をもて償うべきだ」が54%だという。でも数字なんかおかしいな、二つをあわせると100%を越える。複数回答としてもいくつ以内の複数かいとうだろうか。そこで、内閣府のWebページを調べると複数回答となっていた。
また、死刑を廃止すれば凶悪な犯罪が増えるかと聞くと、「増える」が58%で、「増えない」が14%だった。
終身刑を導入した場合の死刑制度の存廃については、終身刑制度が導入されても、死刑を廃止しない方がよい」が52%、廃止する方がよいが35%になった。
死刑を正当化する理由として、「被害者や家族の気持ちがおさまらない」を理由とすると、恨み辛みの報復を法律で正当化するもになる。なんかこれは前近代的なようではないか。「凶悪な犯罪は命をもて償うべきだ」は、なにを持ってどこからを凶悪な犯罪とするのかの、明確な定義付けが難しいだろう。状況によって同じような犯罪でも変わってくるかもしれない。

街頭などで死刑廃止の運動をしていると、通行人からよく「自分の家族が殺されても同じことが言えるのか」といわれると聞いたことがある。また、逆に犯罪被害者の家族のなかにも、死刑廃止の運動をしている人もいると聞く。森達也の『「「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』遺族の感情や被害者の人権と加害者の人権と加害者の家族の人権など考えさせらる本です。この本のサブタイトルは「正義という共同幻想がもたらす本当の危機」です。
凶悪な殺人事件が起きたとき、いつも言われるのが、「殺された被害者の人権はどうなる」という考えだが。相模原の津久井やまユリ園の事件では、警察も裁判書も被害者が障碍者ということで、実名を伏せられA甲とかB乙などで呼ばれている。被害者やその家族の人権に配慮したものだというが、それもなんだか変です。実名でなく匿名だとその人が今まで生きていたことに、ブラインドされていることで本当に人権に配慮したものだろうか。

同様に、凶悪な殺人犯人に対しての人権は否定されてよいものだろうか。それは、森がいうように正義という共同幻想が、犯人に対して復讐を返すような第三者の「被害者や家族の気持ちがおさまらない」となるのだろう。
どのようなことにしても、被害者にも加害者にも人権があることを忘れてはならない、もしそれを忘れると復讐の連鎖になってしまわないか。
かたき討ちが認められていた、ヨーロッパの中世や日本の江戸時代では、幕府や奉行所に敵討ちを申し出て、認められて初めてかたき討ちができたようです。現在の死刑のある法体系で、「凶悪な犯罪は命をもて償うべきだ」という罪の重大さより、「被害者や家族の気持ちがおさまらない」という心情で裁くならそれはリンチと同じではないだろうか。

NHKのニュースでは、詳しく報道されていないが、内閣府の分析では、死刑制度を廃止するのが良いとする理由として、次のようになている。
死刑制度に関して、「死刑は廃止すべきである」と答えた人は約9%の178人になっている。その理由は「裁判に誤りがあったとき,死刑にしてしまうと取り返しがつかない」が46.6%、「生かしておいて罪の償いをさせた方がよい」が41.6%、「国家であっても人を殺すことは許されない」が38.8%、「人を殺すことは刑罰であっても人道に反し、野蛮である」が31.5%,「死刑を廃止しても、そのために凶悪な犯罪が増加するとは思わない」が29.2%、「凶悪な犯罪を犯した者でも,更生の可能性がある」が28.7%になっている。
また、
 死刑がなくなると凶悪な犯罪が増える増えないについては、「増える」が57.7%,「増えない」が14.3%で、前回の調査結果と比較すると、「増える」(62.3%→57.7%)の割合が低下し、「増えない」(9.6%→14.3%)の割合が上昇している。

死刑制度廃止の問題は大きく分けて人権の問題と、法による治安の問題といえるが、後者のほうでは厳罰化しても、その土壌が悪ければ凶悪犯罪は少なくならないだろう。経済的な安定と一人一人が先行きを安心し互いに寛容でいられる環境が整えば、凶悪犯は少なくなってくるだろう。そうでなければ減りはしないというのが大方の学者の味方のようです。
やなりここは人権問題として考えていくべきだろうと考える。

袴田巌さんの弁護団が特別基準恩赦に近く出願

1966年の静岡県の一家4人強盗殺人事件で死刑が確定し。再審請求中の元プロボクサー袴田巌さんの弁護団が刑の執行免除を求め、政府の特別基準恩赦に近く出願することが、弁護団関係者への取材で分かった。
袴田さんは89年と2005年、今年3月の計3回、減刑や刑の執行免除を求めて個別恩赦を出願したが、いずれも無回答で今回で4回目になるそうです。
恩赦の請求は、出願後は地検が中央更生保護審査会に上申され審査される。釈放中の袴田さんの再収容を阻止する目的もあるという。また、再審請求は並行して続けると弁護団は言っている。

天皇の即位に伴い、政令恩赦「復権令」を公布し即日施行した。それにより恩赦の対象者は約55万人というが。袴田さんこの対象に含まれなかたので、今回の恩赦請求も無視されると思われるだろう。

女性はメガネ禁止

女性はメガネ禁止の職場
いまだに、この日本で女性は職場でメガネをかけることを禁止している会社があることには驚いた。

男性はメガネをかけても差し支えないが、女性はだめだという。
メガネが使わずコンタクトレンズを使えということだ。しかし、人によってはコンタクトレンズを使うことができない人もいる、また経済的な負担が重荷になるひともいる。それなら会社がコンタクトレンズを使うように業務命令をするなら、交通費のように会社が経費を負担するべきとの見方もできる。

もっと驚いたのは、「この職業だったらそうだよね、と納得して、引き下がってしまう」人も多くいることだ。
しかし、さらに驚くというよりたまげるのは、その会社の出したメガネを使わせない職業の理由だ。
企業の受付や、エステサロンなどでお客様の顔や体に美容施術を行うエステティシャン、飲食店などでの接客、保育士など、さまざまな職種で女性のメガネ禁止がみられる。

それらの会社側の理由は、「客にメガネが落ちたら危ない(エステティシャン)」とこじつけ多様な理由のほかに、「冷たい印象を与える(受付)」「暗い印象になる(リラクゼーション)」などといった笑ってしまうような理由をあげるところもある。
NHKが取材したなかで、ニュース記事に次のようなことが書かれていた。
「小学生からメガネを着用しているという20歳の女性は去年、高校卒業を機に和食の飲食店でアルバイトを始めようとしまし。
面接の際もメガネをかけて行きましたが、面接を担当した店長がメガネをかけていたこともあるのか、指摘されることはなかったと言います。
ところが後日。
この店の制服である着物の着付けの練習に行った際のことでした。
店の女性の担当者から「メガネは禁止」と伝えられました。
理由を聞くと、「料理を提供する際にメガネが曇ること」「着物にメガネがふさわしくないこと」の2つを挙げられたということです。
1つめの理由はなんとか受け入れたものの、2つ目の理由には納得がいかなかった女性は、「店長がメガネをかけているのになぜ自分はダメなのか」尋ねました。
すると、「男性はスーツだから問題ない」という返答。
「それではメガネが曇ることを解決できないのではないですか」と言うと、怒ったような口調で「女性が和服を着る際はメガネをかけないのが当たり前だ」と言われたということです。」それにより、女性はアルバイトをやめざるを得なくなったという。
旅客機の客室乗務員をみると、メガネの着用は禁止になっているが、日本航空と全日空では、社内規定で、女性だけでなく男性の客室乗務員も、業務中にメガネをすることを禁止してる。理由は、「安全上の理由からで、機外への脱出といった緊急時に、客室乗務員が何らかの理由で自分のメガネを落とすなどして破損させてしまうと、乗客の避難誘導などの業務に支障が出るおそれがあるということ。全日空の広報担当者は、緊急時には乗客にもメガネを外してもらうとのべている。男女差もないし緊急時の乗客にもというのでわからないでもない。私のようにメガネをはずしても前を十分認知できるぐらいならよいが、もっと視力の度数が悪いひとは、逆に前を認知できなく危ないのではと思ったりするが・・・。

では、このニュースを扱った、NHKはどうのかと思うと。
NHKは自社のことも取材していた。
ホームページに載っている女性アナウンサーで、メガネをかけている人は…確かにゼロ。
“女性はメガネ禁止”の決まりがあるのか、アナウンス室に聞きいた。
ふだんメガネを着用するという井上あさひアナウンサー。
(井上あさひアナウンサー)
「確認もしてみたんですが、ルールはないです。私も放送の時はコンタクトレンズですが、それはメガネに度が入っていて顔の輪郭がゆがむので、顔の印象が変わってしまうとなんとなくよくないのかな、素顔に近い印象で映ったほうがいいのかなと思うからですかね。男女の差はあまり意識しないですね。素顔をまずは認識してもらう意味もあるのかなと思っています」
ようは、NHKのアナウンサーはカメラ映りに容姿を気にしてコンタクトにしているようだ。
気象予報士などはメガネをかけている人がいる。

さらに、「女性はメガネ禁止?」の議論について、井上あさひアナウンサーは、「『何でメガネかけちゃいけないんだっけ?』という疑問がわいているならすてきなことですね。そういう発想の人がいるんだなって私はうれしく思います。#KuToo(日本の職場で女性がハイヒールおよびパンプスの着用を義務づけられていることに抗議する社会運動)もそうですけど、さまざまな仕事で『ダメな理由は本当ですか?』というところから、議論が起こるのはいいと思います。無難なほうを選ぼうと避けている人もいると思うのでファッションを楽しむ中で少しでも前向きに働けるようになったらいいなと思います」
と答えていた。

女性のメガネ禁止の職場は、男性はこうだ、女性はこうだという、偏見とあるのだろう、しかもそのことは偏見と認識していないところに問題があるようにめる。
「無意識の偏見」とは、男性はこうだろう、女性はこうだろうと、自分の育った環境や経験に基づき気付かないうちに持つようになった物事への見方や考え方のことです。
企業での社員の意識改革、働き方改革及び教育研修に携わりジェンダーなどに詳しいパク・スックチャさんにNHKが取材し次のように述べている。
「同じ事柄に対して、男性はよくて女性はダメというのは明らかに差別に当たります。女性は『きれいでなければならない』とか『見栄えがよくないとダメ』といった容姿でどうしても判断されがちです。そうした価値観は日本の社会にかなり深く根づいていて、女性自身でさえバイアスに気付かず、当たり前のことだと思っている人が少なくありません。海外のある航空会社では、女性の客室乗務員に『女性らしさ』を義務づけることを廃止し、職務中はノーメイクでもよいとした例もあります。賛否両論があることはいいことで、誰かが言い始めることでムーブメントが起き、無意識だった偏見が意識化されるきっかけになります。そうやって変わっていくことが大事だと思います」と述べている。

多くの人が、女の子なら赤のランドセルやピンクの系の服、男の子なら青のランドセル青系の服を与えたり。女の子らしくとか男の子らしくと、日常の生活の中で無意識に差別をしている。またそれを知らないうちに受容していることも多い。
今一度、この女性のメガネ禁止のニュースを、機会に考えてみようと思う。

石打の刑

ブルネイ 石打の死刑
東南アジアのブルネイで、同性愛者間の性行為や不倫を働いた犯罪者を石打ち刑によって死刑にする。新しいイスラムの刑法が施行され、世界中の国々、人権団体や著名人から激しい非難の声が上がった。
これに対して、ボルキア国王は当面、石打ちの死刑は執行をしないとしている。

石打ちの刑とは野蛮に思えるが、わたしも死刑自体も人権に反するとうおもうし、石打ちのけいなどジワジワト苦しめて死に至らしめるので、人道上に反するものだと考える。
日本の死刑は絞首刑で野蛮ともいえるが、だからといてアメリカで行なわれている、電気椅子や薬物注射なども即死ではなく一定期間の苦しみを与えるので人道上に反するとも言える。日本の絞首刑は、首の縄を交わして2メートルほど落下させると言う。それにより体重の重みで頸椎が切断されほぼ即死だそうです。それを考えると一概に野蛮だとは言えないかもしれない。

また、このブルネイの石打ちの刑は、イスラム教のむごたらしさなどと見るのは間違いだろう。石打ちの刑はキリスト教の聖書にも出てくるし、日本でも奈良の鹿をころして、石詰の刑に処されたという話もあるので、世界中で行なわれていたけいでもあ。文化の違いではなるが野蛮野蛮でないよりも、苦しみを与え続けて刑を行なうのは、人道上許されないことで、このような処刑は間違っていると言えるでしょう。

ただ、このブルネイの刑法では、窃盗の一度目は右手を切断、二度目は左足を切断とうい。また、この刑はイスラム教徒以外にも適用され、外国人の旅行者にも適用されるそうです。
ブルネイに旅行する場合は品行方正でなければならないですね。

ついでなが、石打ちの刑で次のような話がある。新約聖書のヨハネによる福音書 第八章に法律家がイエスに問うた 4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました、5モーゼは法律の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」
それに対してイエスは次のように応えた。7彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
9これを聞くと、彼らは年寄りから初めて、ひとりびとり出て行き、ついにイエスだけになり、女は中にいたまま残された。10そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰するものはなかったのか」(日本聖書協会 1973年より)

このブルネイの刑を衆人に執行させ、イエスが言ったように今まで過ちを犯したことがないものから、石を投げさせるとこのような残忍な刑はなくなり、また、罪を犯すものもいなくなるのではないだろうか。

「教養派知識人の運命」を読んでの備忘記

阿部次郎は人格について「人格主義」で次のように述べている。
一に、人格は物と区別される。
二に、意識的経験を底流する自我である。
三に、一つの不可分な生命体である。
四に、先天的要素の叡智的性格の特質である。

これらのことは、教養主義の立場からみると、人柄というのは、思考の内容や感情やその意欲ではなく、その本人の知性から顕れる内面的なものと言えるのではないか。

フェークやヘートを叫ぶ人はその攻撃する人の、人格を否定しているものであるから悪とされる。のであり、逆に言えばフェークやヘートを叫ぶ人は、それらがない者であるということを自ら宣言しているようなものではないか。

一は、日本国憲法では13条で「個人として尊重されるとあり」その、自我を尊重されるのである。2,012年の自民党の憲法草案では「個人」ではなく「人」とされ、その自我よりも、国家としての公益や秩序の方が重視されている。
三では、不可分な生命体としての見地は、憲法の25条の生存権であり、四は97条の基本的人権の本質のことと言える。

認知症ケアの手法 ユマニチュード

フランス生まれの新しい認知症ケアの手法に、ユマニチュードというケアーの考えがある、この方法で認知症のかたに接すると、わずか1分程度で驚くほどの、行動が改善をもたらす。

そのユマニチュードの基本的な柱は、見る、話しかける、触れる、立つとされている。
この四つはどれも、認知症であるなしにかかわらずコミュニケーションの基本です。認知症だから良く判っていないとして、ぞんざいに扱われ自尊心が軽視され傷つき、それを訴えるが思うように伝わらない、そのために暴言を吐いたり暴れたりとなるでしょう。

見ることにたいしては、よく相手の目を見て話しなさいといいます。それは人と話すときに基本ですが、それを大切にしなさいと言うことだけでなく、認知症の方や高齢者特有の事情もあります。認知症になると視野が狭くなるといわれています。そこで一寸した声かけでも相手の視界の中に入って、声を掛ける人に存在に気づいてもらうことが大切だといいます。健常の人でもいきなり声を掛けられたらびっくりします。
そして、相手の目の高さで20㎝ほどの距離で、笑顔で親しみを込めた視線を送る。これは、子供に対しても同じで大切なことは、しゃがんで子どもと同じ視線で話しなさいと言います。施設などで家庭でも認知症の方は座っている場合が多いですが、施設の方などケアする人はいろいろなことをしているので立っている場合が多いです。しかも忙しいので通りすがら声を掛けることも多いのではないでしょうか。なかなかしゃがんで一対一で視線を合わせることは大変です。しかし、高齢の認知症の方は、今までの人生経験もありプライドもあるでしょうから、相手の自尊心を大切にするため視線を合わせることは重要なことでしょう。

また、話しかけるのも、積極的に肯定的に言葉を掛けることが大切だといいます。何をするにもまたケアーをするにも、言葉を掛けてからすることが大切だといいます。いつもしていることだからわかっているだるから、言葉も掛けずいきなりするのは、だれでも反発してしまうでしょう。こんなことは大人の仕事のなかでは当たり前のことですね。

触れるについては、ボディータッチ、スキンシップは人間関係を親密にさせ、非常に効果的だといいます。口のケアーをする時も相手に口を開けさせブラシを口の中に突っ込むだけでなく、一寸相手の膝や腕にやさしく触れるだけでも安心感を与えると言います。
このとき、触れ方は恐る恐るちょっと指先で触れるのは逆効果で、強く押さえつけるように触れるのもよくないです、手のひら全体でふわーピッタと言う感じで触れるのがよいでしょう。これは一度誰かにこの三通りの触れ方をしてもらうとよくわかるでしょう。
また、無言で触れてしまうと逆効果で、不信感を与えてしまうので、優しく声を掛けながら触れることが必要でしょう。

最後の立つは、目線の高さと、自分の足で立つことにより自尊心を覚醒させると言われています。このユマニチュードでは最低1日20分は立つことを目指しているといいます。自分の筋肉で立つことは、筋力の維持向上や、骨粗鬆症の防止など、身体機能を保つのに効果があるだけでなく、座った姿勢よりも立つことにより、目線が高くなり視界が広がり、他の人と同じ空間を共に過ごしていることをにいることが認識できることは大切だといいます。

ユマニチュードでしてはならないことを、幾つか指摘しています。
腕などを突然「つかむ」、視界に入りにくい「横や後ろ」から声をかける、無理やりに立たせようとする。
ここに上げたことなど、認知症の方でなくてもだれでもが嫌なことです。たとえどんな人であろうと相手の尊厳を大切にすれば、このようなことはしないはずですね。

ユマニチュードの技法は単に認知症の方へのケアだけでなく、私たちの日常のコミュニケーションの取り方にも参考になるのではないでしょうか。もう少し詳しく調べてみようと思います。
これから近くの図書館に行って調べてみます。

今日は子供の日

今日、6月1日は「こどもの日」です。なにを寝ぼけたことを、「こどもの日」は先月5月5日ではないかとおっしゃるでしょう。正確に1925年にジュネブの子供の福祉世界会議で、6月1日が「国際子供の日(International Children's Day)」と制定されています。
また、国際連合総会では1954年に、国連が子どもたちの世界的な友愛と相互理解の日に、また世界の子どもたちの福祉を増進させる活動の日に当てるよう11月20日を「世界こどもの日」とすることが制定されています。

それ以前に、1920年にトルコが4月23日を国家主権と子供の日と制定しています。子どもへの人権への考えは古くからあるが、「子どもの権利条約」が国連で採択されるのは1989年まで待たないといけないです。日本が批准したのは1994年でその年に発効しています。

日本でも6人に一人が貧困状態にあると、子どもの貧困問題が深刻化しています、今日は子供の権利について考える日にしたいです。

ちなみにwikipediaで子供の日と検索してみました。すると6月1日を子供の日としているのが、ロシアや中国、ベトナムなど44ヶ国。11月20日を子供の日としているのが、エジプト、カナダなど4か国でした。日本のように独自の日に制定しているのが、インドやオーストラリアなど37か国でした。
また、子供の日を特に制定していない国・地域は、アメリカ、イギリス、フランスです。いずれもこの参加国は、いち早く民主主義を取り入れた国ですが、だから早くから子供の人権が守られていたかというと、子供や女性にたいして守られていたかというとそうでもないようです。

三行半と姻族関係終了届

江戸時代は「三行半」とよばれる離婚通知書があった。
参考までにウイキペディアに載っていた文を紹介します。
 離別一札の事
一、今般双方勝手合を以及離
  縁 然ル上者其元儀 何方縁組
  いたし候共 私方に二心無
  依之離別一札如件
亥十一月廿四日    長吉
      おせいとの

読み下し:
離別一札のこと。
一つ、今般双方勝手合を以て離縁に及び、然る上は其の元儀、何方に縁組み致し候とも、私方に二心無く、これにより離別一札くだんの如し。
亥十一月二十四日。長吉。
      おせい殿。

意訳:
離別状。
この度、双方協議の上、離縁いたします。したがって、今後あなたが誰と縁組みしようとも、私に異議はなく、翻意することもありません。以上、本状を以て離別状と致します。
亥年11月24日。長吉。
      おせい殿。

はじめから唐突な書き出しになったが、現在、姻族関係終了届というものがあるそうです。

配偶者と死別後、その親戚兄弟との関係を書類だけで解消するために「姻族関係終了届」を出す人が増えているそうです。
義理の親や同じ墓に入ることに抵抗感がある人が届け出をするそうです。もっとも法的な効力や扶養義務はなく形式的な意味合いのものです。嫁ぎ先の家と「絶縁」できる届け出といえるが、今でも昔ながらの家制度に縛られている感じている人がいるのだろう。

江戸時代は「三行半」の内容は、あなたとは今後いっさい関わりがなく、あなたがどのようなことをしようと口出しはしませんと言うものです。
そして、三本と半分線を引いても同じ意味をもち効力があったといいます。

これは離縁のことですが、死別でもその家にとどまるなら、その家に縛られることになるでしょう。しかし、しべつして家をでて独立するなら同じ三行半と同じようなものだったのではないでしょうか。

江戸時代はいまの日本のように、近代的な法整備がなかったが、三行半をみると江戸時代のほうが、別れる女性にとってその人権は大切にされているようにおもいます。

それはそれとして、最近ここにきて「姻族関係終了届」が注目されているのは、夫との家と絶縁する気持ちにさせるのは、昔ながらの家制度に心のどこかで縛られるからだろう。
日本国憲法には第24条に、〔家族関係における個人の尊厳と両性の平等〕として、
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」
とされています。
まだまだ、明治時代の家への縛り意識がつよいのでしょう。また、自民党の憲法改正草案をみると、現行憲法より家への縛り強くなるように感じられます。
配偶者が死亡しても、法律上、配偶者の親族との関係は消えないのです。
解消したいときは市区町村に届けれれば認められるこの制度。相手の了解は不要で通知も行かず、配偶者の遺産を相続することも可能なので、「姻族関係終了届」への関心が高まって届け出を出す人が増えると思います。

パラリンピック

パラリンピックは障碍がある人が、自分の可能性を追求するために、その障碍をものともせずそして乗り越える為の努力をしてきた姿に、多くの人が感動を与えられました。また、それらの障碍者の可能性実現のために、多くの人が支え支援しする事の大切さ、その支援具の工夫や技術への挑戦があることも知りました。
そしてなによりも自分の可能性を実現させるための、義手義足などの補装具・自助具などを開発する人たちとの、共同作業でもあることも知ることができました。そのような輝かしいものを、しることは私たちの日常生活にやる気と力を得る源の一つにもなります。

しかし、相模原の障碍施設での、大人数の殺傷事件を起こした、容疑者のような考えの人もいます。また、逆に優生思想や英才への特別教育の必要性を訴える人もいます。
相模原の障碍者施設襲撃犯人は、その施設で生活している、重度重複の障碍者を生きている価値がない安楽死させるべきだと言い、自分の犯行をを正当化しています。

意志疎通が非常に困難な人、四肢が不自由で歩くことも自分で何も持つことも出来ない人、人工呼吸器や人工透析を嚥下や咀嚼が困難でものを食べられないために、鼻から直接胃に栄養物を流し込んで食事をする人、排尿排便が出来ず膀胱や大腸からカテーテルなどの器具で、直接対外に取り付けた袋の中にため込む人。これらの人は医療的ケアが欠かせません。それには大変な労力と経費がかかります。そのうえ、これらの多くの人はそれらの障碍が軽減改善される見込みはなく、現状維持をすることが重要なこととなっています。
重度の障碍者も人であり生命体であり、生きようとする本能的な力を持っており、その権利は憲法で保障された個人として尊重されるもあります。

今年のオリンピックでも多くの日本人が活躍し、多くの人の感動を与えてくれました。しかしオリンピックにでられる人は、スポーツをするごく一部の人です。その人たちはたゆまぬ練習を積み重ねて得た結果だから、その姿に感動するといえます。パラリンピックに出場する人の姿ならなおさら感動得るでしょう。

オリンピックいや、スポーツの全国大会いや地区大会に出場するには、健常な人でも人一倍練習をしたからといってでれるものではないです。パラリンピックでも障碍がある人ならなおさら、それらの人の大会に出場する事は大変です。
パラリンピックで障碍者アスリートに多くの注目が集まりました。
しかし、私たちの周りには様々な障碍がある人が生活しています。重度重複の人もいれば、軽度の単一障碍の人もいます。街にでて生活している障碍のある人も、生活をするなかで、普通に楽しむこと、普通に感動すること、普通に達成感を味わうこと願って生活しています。

パラリンピックを機会にするわけではないですが、障碍者アスリートだけでなく、私たちの周囲にで生活している、障碍者の存在を忘れないで起きたく思います。

ロボット技術を応用した義手

ロボット技術などを応用した、高度な義手や義足、車いすなどを用いて、身体障害者が競技に挑む国際大会「サイバスロン」が今秋、スイスで初めて開かれることが、NHKのニュースで報じられていた。
日本からも大学やベンチャー企業の研究者が参加を予定。高齢者や障害者の普段の暮らしを支える製品への応用も見すえ、開発に取り組んでいる。

競技大会といっても、パラリンピックのようなスポーツ能力を競うのではなく、サイバネティク補装具の能力と精度と、使用者の能力を競う物のようです。


義手を使っている人が、自分の手や指を使って、物をつかんだり道具を使ったりする事を想像することにより、脳波が腕の筋肉に信号を送り、それを義手のセンサーがキャッチし、義手の手首や指や前腕を動かしたりする。
隧道のカランを回したり、ねじ回しを使ったり、リモコンのボタンを操作する。また、卵をつかんだり、桃を持ったり、紙コップやガラスコップを持ったりすることもできる。
それにより、今までできなかったことはできるようになることも可能でしょう。

また、交通事故で下肢麻痺になり、足が動かせなくなり、いままでは、腕の力で車いすレースに出ていた人が紹介されていた。その人は、長期に足を動かしていなかったので筋力が衰えてしまって足でペダルを踏めなくなっていた。そこで少しずつの筋肉への電気刺激で足が動かせるようになって、足でペダルを踏めるようになったいくようすが紹介されていた。

ただ、この義手や車いすに関して言えば、中途障碍者は手の動き指の動かし方を、イメージし想像できるだろう。
しかし先天的に障碍があり、手を使ったことがない人には、そのための技術開発や、装着して使いこなすための訓練プログラムも重要になってくるだろう。ましてや脳性麻痺のような、障碍にも今後の開発がもてるのではないだろうか。

これから大いに期待したい技術です。しかし、スタートレックに出てくる、ボーグのよう人間の能力を遙かに越えた補装具の方向には進まないでしょう。

消費税引き上げ延期と社会保障の抑制

早速でてきました、介護サービス縮小が検討されている。
先の参議院選挙の争点の一つであるはずの、消費税2%引き上げの先延ばしはあやふやにされた。その先延ばしにより、社会福祉保障費抑制は必死と言われていた。それが、軽度者対処のに、掃除や調理などのは、要介護度の低い軽度者に対して、給付を縮小する方向で検討に入ったという。
さらに、車イスや介護ベットんどの福祉用具のレンタルとバリアフリーかの住宅回収に関しても、軽度者は原則自己負担とするよう財務省が求めているという。
車イスや必要とする者にとっては足と同じです。それにより外出などの移動ができ、その人のいきるスキルも高まる。また、住宅のバリアフリー化は、障害がある者にとっては、生活の質を高めるものである。これらによる出費を抑制することにより、社会補償費が抑制されるとは思わない、逆にそれらをニーズする人は、それを使うことを控えることによっり、生活のスキルが落ちることにより、障害がより重度になるおそれの方が高いです。

これらの目先の帳尻を合わせることよりも、その前に富裕層や大企業への、減税の見直しが先ではないのか。これが安倍政権の本性といえる。参議院で自民党が単独過半数を獲ったことにより、これはほんの手始めでこれからますます、自己責任と言う名での弱者切り捨て、勝ち組優遇の政策が進められるだろう。

いまは、高度経済成長の時と違い、何でも社会保障・福祉に税金を投入できないです。また、高齢化社会はますます進みます。今までの福祉制度は見直していく必要があります。
社会保障や福祉制度には、利用した分を負担する応分負担ではなく、支払い能力の応じて支払う応能負担にすべきです。人々は互いに助け合う互助制度であるべきです。裕福な人の生活は、その人個人の努力の結果だけではないです。毎日汗を流して働いている人のが、ものを作ったりサービスを提供する労働のおかげです。

しかし、80年代前頃までは一億総中流と言われていたころは、上流に位置する者や中流の者も、福祉への社会投資に寛容で出費に惜しみがなかったですが、今は逆に富裕層と呼ばれる人は、より富を多く膨らまそうとして、社会保障や福祉への出費に対して嫌悪感すらある感じです。

これもアベ政治のアベノミクスの成果なのでしょう。この成果をこのまま実らすなら、日本の社会はどうなるでしょうか。自民党憲法改正草案の前文に「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」とあります。これとは反対の方向に行くしかないのではないか。
いや、よく読むと個人のことは「家族」で助け合え、社会ではなく「社会全体」だから、裕福な人は自分のことを考えていてよい。そして、日本社会を作りだすのではなく、「国家」すなわち国体を形成するとなるのでしょう。となると、今の社会福祉切り捨てはアベノミクスの果実のたまものなのでしょう。

自動制動装置つき車椅子

手動の車椅子に自動ブレーキ

電動車椅子は坂道などでは電動モーターの働きで、速度が制動される。しかし、手動の車椅子では無制動で、車椅子に乗っている人が、車輪の動きをコントロールしないといけない。車椅子によっては介助用のハンドブレーキが、車椅子の背についているものもある。そのときは下り坂では介助者が適度のブレーキをかけて介助する。しかし、ブレーキのついていない車椅子を坂道で押すのは至難です。

車椅子の事故は、坂道や段差のある道で多く起きている。古い統計だが、国民生活センターの車椅子使用者のアンケートでは、6割以上が坂道や段差で危ないと思ったことがあると回答してるそうです。
そのようなことから、関西学院大学理工学部のロボット工学中後ろ大輔准教授は、手動の車椅子に取り付けると、坂道などで自動ブレーキがかかる装置を開発したそうです。
この、自動ブレーキは左右の車輪にそれぞれに、車輪の動きを関知するセンサーをつけ、車輪の動きを制動するものです。すなわち、横に斜めになっている道だと、傾いている方に流れてしまうが、センサーが左右の車輪の動きの差を関知して、車椅子をまっすぐにするものです。
この装置の最大の特徴を中後准教授は「シンプルな装置なので取り付けは簡単。急に車輪が動いて危険な方向に向かってしまう状況を防ぎたい」と話しているそうです。

この装置は、電動車椅子やヤマハの簡易電動車椅子にもつけるとよいでしょう。先にも書いたが、電動車椅子だと坂道は手動のように、勝手に動く速度が速くなることはないです。ではなぜ電動車椅子にこの装置の機能がよいのか?。それは、左右の車輪の回転を関知するところが、電動車椅子を左右に傾いた道での操作に便利だと考えるからです。電動車椅子の操作は、一本の棒状のレバーを、前後で前進後退をし、その傾き加減で速度を調節します。左右に傾けることで、左右に車輪の駆動を調節して右に曲がったり左に曲がったりする。道の左右の高さが違う道では、まっすぐ進めるには若干だけ左か右かに傾けて進めます。この操作が不要になるのではないからとおもうからです。
ここ数回、AIについて書きました。これも一つのAI技術の成果です。我々が意識しないでこなしている日常せいかつですが、障碍がある人にとってはそれが困難ことが多いです。AIによってそのようなことが、生活がしやすくなるのは、障碍者自立にとってよいことだと思う。

この車いすの自動ブレーキがもっと小型化し安くなり性能も向上し普及することを期待します。

テーマ : 福祉関連ニュース
ジャンル : 福祉・ボランティア

労災休職中の解雇について

専修大学の職員が、コンピュータにデータを打ち込む仕事などで、腱鞘炎になり労災治療のため休職していたが、休職療養中に雇用を打ち切られ解雇された。そのため、元専修大学職員は解雇は不当だとして、解雇無効を訴えて訴訟しました。それにより一審・東京地裁は「打ち切り補償の適用は、使用者による療養補償を受けている場合に限られる」とし、解雇無効と判断。二審・東京高裁も支持していた。しかし上告審の最高裁の判決は、「国から労災保険の支給を受けている場合でも(使用者が)打ち切り補償を支払えば解雇できる」とする初判断を示しました。

労働基準法は業務上のケガや病気で療養中の解雇を原則禁止しています。しかし、使用者が費用負担して療養を始めてから3年が過ぎても治らない場合、賃金1200日分の「打ち切り補償」を支払って解雇できると規定しています。
同小法廷は判決理由で「労災保険が給付されている場合、労働基準法が使用者の義務とする災害補償は実質的に行われているといえる」と指摘。「療養開始後3年が過ぎても治らない場合、打ち切り補償の支払いで解雇できる」と判断しました。

上告審で、専修大側は「労災保険制度は使用者の災害補償責任を肩代わりしており、打ち切り補償を支払った解雇も可能」と主張し。
男性側は「労災給付では使用者の補償責任は果たされておらず、解雇を認めれば新たな大量解雇の道が開かれる」と反論していました。

この最高裁の逆転判決に対し、元職員の男性は「復職する権利を奪う判決で、非常に悔しく残念。治療に長期間かかる病気もあり、『3年でクビ』では復帰したくても安心して休養できない」。男性の代理人の小部正治弁護士は「法律解釈を百八十度転換し、安心して治療に専念する権利を奪い、労災の給付金を受けている労働者を解雇できると認めた恐ろしい判決だ」と批判しています。

労災で休職痛では、就職活動もできず、憲法が保障している生活権や労働権などを奪うものです。一概に言えないが弱い立場の働く人の側に立った判決を望みたかったが、法律をその通り解釈してそれに当てはめれば、弱者が切り捨てられることになりかねないです。
派遣法など今の労働環境やその法的整備は、雇用主側に都合のよいように変えられている。それがこの判決によりますます加速されないようにしなければならない。
いま一見ものが溢れ豊かに見えますが、一部の投資家に富がどんどん集中し、多くの人が中流以下の下流の生活になってきています。このままそれが続けば、「女工哀史」や「蟹工船」などの時代に逆戻りしかねないです。戦後「日本国憲法」のもと、労働三法や生活保障に関する法律の整備などで、労働者の働く権利と人として生活する権利を、守ることをしないとそれが奪われてしまいかねないように思う。

ノールウェーの犯罪者更正の取り組み

アメリカには、スリーストライク法とううのがある、犯罪に対して厳罰化するものです。アメリカでは犯罪に対して厳罰で抑止し治安をよくすると考え方です。これは世界で同じよう動きがされています。

日本でも、凶悪な犯罪が起き、少年の犯罪もニュースになります。そのようなか、刑事裁判の対象外が引き下げられ、厳罰化の声が高くなっています。また、ある程度の重罪を犯した人に対して、人権剥奪や社会保障の剥奪が必要でだという声も高まっています。
しかし、アメリカでは犯罪が多発し、厳罰化により刑務所は満杯状態です。それにより生活環境は悪化し、喧嘩は多発し病気の感染も深刻な状態だそうです。
私は、いままでに、このブログで「人権」のカテゴリーの<http://tikurinnnohoujyoann.blog.fc2.com/blog-category-22.html>なかで、さまざまなことを書いてきました。
犯罪加害者の人権や更生、死刑囚の人権や教誨、また罪を犯した人に対して懲罰を中心に考えるのか、更正により社会的自立をするかなどを考えてきました。
そんな中、2009年10月25日にNHKBSで放送された「未来への提言 犯罪学者ニルス・クリスティ~囚人にやさしい国からの報告」を見る機会がありました。
ノルウェーでは、「刑罰を厳しくすれば、犯罪は減るどころか治安は悪-化し社会は崩壊する」と警鐘を鳴らした、オスロ大学教授、犯罪学者のニルス・クリス-ティ氏の提言により、犯罪者の社会的更生プログラムが行われています。ノールウェーの刑務所では、世界でもっとも“囚人にやさしい国”といわれています。まるで自宅でくつろいでいるかのような囚人たち。テレビやパソコンも自由に楽しめる快適な刑務所生活。休暇を取って自宅に帰ることもできます。
ニルス・クリスティ氏は次のように言っています「犯罪者への刑罰は報復ではない、更生のための作業だ、むしろ犯罪者は多くはすでに社会で酷い目にあっている、酷い目にあった人に更に酷い目にあわせればより犯罪を犯しやすくなる」といっています。

NHKBSで放送された「未来への提言 犯罪学者ニルス・クリスティ~囚人にやさしい国からの報告」


日本では犯罪を犯す人は、社会から虐げられた社会的弱者に多くみられます。そして裕福な人たちは罪を犯す人は、とても凶暴で邪悪な人たちなんだと思っている人が多くいます。そしてだから社会から隔離しなければいけないと思っています。

しかし、クリスティ氏は「私は凶悪犯罪をおかしてしまった多くの人と会ってきましたが、これまでモンスターのような犯罪者に会ったことはありません。どんな犯罪者でも人間です。生活環境を整えれば必ず立ち直ります」、「犯罪につながるような問題、たとえば貧困や差別、ドラッグなどの問題は、市民も参加して話し合うことが必要なのです。身近な場所で話し合うことによって解決の道が見い出せるのです」「日本の刑務所に入っている受刑者たちは、みんな普通の人間です。私たちは、彼らは特殊な人間なんだから、自分たちから遠ざけておきさえすればいいんだという考えはやめて、受刑者のことをもっと知ろうとつとめなければなりません。刑務所の環境についても、受刑者たちはもちろん、私たち市民もともに責任を持って考えていかなければなりません。日本の刑務所の状態をよく見れば、あの中にいること事態が拷問なんです。拷問は本当の意味で人を更正させることはできないのです。ノルウェーの刑務所でもかつてまずいものを食べさせるのが罰になると考えられ、ひどくまずい食事が出されていた時代がありました。それではダメです。たとえそれが犯罪者であっても衣食住の環境が劣悪であってはいけません。私は、世界の多くの刑務所のように、犯罪者をひどい状況に置けば、それに懲りて二度と罪をおかさなくなるといった考えは間違っていると思います。」と言っています。

番組の最後にクリスティー氏は次のことをいっています「全ての人間は人間だ」この言葉の意味をそ­れぞれ考えてほしいと。

ネブラスカ州の死刑廃止

毎日新聞の記事に、保守の色濃い州であるネブラスカ州で州知事の拒否権を覆し、死刑廃止法が成立したと報じています。
これで、アメリカの死刑を廃止した州は、19州と首都ワシントンD.C.になります。
なぜ保守色の強いネブラスカでしかも州知事の死刑は犯罪抑止になるという理由での拒否権行使まで覆して成立したのか。

それは単に、死刑は人権的に問題があるという理由からだけではないらしい。ネブラスカ州で現在で、死刑囚として収監されている10人は、刑を終身刑に減刑される見通しだ。同州には30年間服役していた11人目の死刑囚がいたが、26日にがんのため死亡した。

この法案を提出したアーニ¥・チェンバース議員のフェースブックにそのことが書かれて、毎日新聞が紹介している。
http://mainichi.jp/feature/news/20150531mog00m030002000c.html

その記事の内容を幾つか紹介してみる。
「法案を提出したアーニー・チェンバース議員(77)は、これまで40年以上にわたり40回近く死刑廃止法案を提出したという。なぜ今回は成立したのか。電話で取材すると、現実的な理由をあげた。」
そしてネブラスカ州で最後に死刑執行があったのは1997年で、20年近く執行がない。そのことから死刑が殺人を抑止するという議論はあたらないとしている。また、時代の変化のなかで保守な考えを持っている人の中にも、死刑は失敗した政府のプログラムで、結果的にコストが高くつき、扱いにくく効果的でないと考える人が多くなってきた。その上、死刑判決がでても執行されることが少なく、やめるべきだと考える人が多くなってきているようです。

日本でも死刑廃止を唱える人もいるが、それがなかなか議論として深まらないようです。それより被害者の気持ちを考えろとかいい、刑罰を更生のためでなく、報復や復讐的なことを是認する意見が多いように思われる。

経費の面では、毎日新聞の記事では次のように書かれている、「アメリカのNPO死刑情報センター(本部・ワシントン)によると、ネブラスカ州では1973年以降、死刑の可能性のある殺人が205件あり、31件に死刑が宣告されたが、執行は3件。同州では薬物注射に必要な薬が2013年に切れて執行できない状況にあったという事情もあるが、米国では命を奪う死刑は特別だとして、裁判手続きが長く、弁護士費用などのコストもかさむ。例えば、2013年に死刑が廃止されたメリーランド州が2008年に行った調査によると、裁判や上訴、投獄にかかる費用は死刑の場合、約300万ドル(約3億6000万円)で、終身刑の約3倍と推計している。」

また、被害者遺族の中に、「非効率的で長期にわたる死刑制度は遺族にとっても苦痛だという」死刑廃止を求めて議会で証言に立った人がいる。共和党のジョン・マッコリスター議員(68)は「(死刑は)刑事手続きを繰り返す中で被害者遺族に殺人を再体験させる。それは正しいとは思えないとして、法案に賛成しています。

また、これは一般的な死刑廃止に関る考えである。
誤判の危険性
薬物注射の問題(アメリカの一部の州では電気椅子、日本では絞首刑、ある国では銃殺刑もあるようです)
宗教的理由などさまざまな要因が影響があって、死刑廃止法が可決されたといっています。

そして、毎日新聞の長野宏美氏よるとこのことは今後は他の保守州にも広がるのだろうとの見通しを、コンラッド氏の「死刑は崩壊しており賢明な代替策を見つける時がきていると政治的なコンセンサスが強まっている」。チェンバース議員の「ネブラスカでできたなら私たちもできると他の州は考えるだろう」して、死刑廃止の広がりがあるとしている。

日本でも先に述べたように死刑廃止論が出るにはでるが、あまりその議論は深まらない。この事例を踏まえても日本でももっと広く一般の人にも考えるきっかけになって欲しいとおもう。

面前ドメスティクバイオレンス

面前ドメスティクバイオレンスという言葉があります。
親が配偶などに子供の前で、暴力を振るったり振るわれたり、暴言を浴びせられたりすると、それを目撃すると子供の心理は深く傷つきます。児童虐待防止法では、これは心理的虐待の一つとして定義されています。

兵庫県警が児童相談所に通告した子供のうち、心理的な虐待に人数が過去5年で25倍にも増えているそうです。
そのなかでも、家族が暴力を振るわれる光栄を目撃する「面前ドメスティックバイオレンス」が急増していることが分かりました。
児童虐待の内訳は、暴力を受ける「身体的虐待」、暴言を浴びせる「心理的虐待」、「養育拒否、怠慢」などがあるが、このうち心理的虐待の中で、「面前ドメスティックバイオレンス」はその84%を占めるそうです。
特にこの「面前ドメスティックバイオレンス」は児童保護のいしきが市民のなかでたかまり、家族以外からの通報が増えているそうです。

この「面前ドメスティックバイオレンス」は、子供の心理を非常に不安定にさせるものです。児童相談所によると、子どもの精神的なダメージが大きな場合、感情を抑圧しがちになり、対人関係障害に陥ったり、自己肯定感情がもてなくなったりすることがあると言っています。そして、心理的虐待を受けたこどもは、きちんとしたケアが必用で、病院での治療や養護施設などの通所を進めています。

特に最近「面前ドメスティックバイオレンス」が増えているのは、長い不況で失業や貧困などの経済的不安定さにより、親やその周辺が心理的に追い込まれ、DVが増えているのではないかと思う。親が互いに感情的位なり、暴力を振るわなくても言い争ったり罵り合ったりすることは、大人に頼らざる得ない子どもにとて、心理的虐待になり今後の心理的成長を阻害さえてしまう。これは大きな社会問題で周囲の地域社会はもちろん、地方の行政や国もこの問題が急増していることを深刻に受け止めなくてはならな。

ジャンバルジャン銀行

韓国で「ジャンバルジャン銀行」という、市民団体「人権連帯」が立ち上げるそうです。

貧困が原因で軽微な罪を犯したが、罰金が払えず労役に就かねばならない人がいる。労役で拘束されることにより、就労が困難になり再び、万引き等の罪を繰り返してしまう。
そこで、「ジャンバルジャン銀行」は、貧困で罰金が払えない人に対し、無利子で罰金と同じ額を貸しだし釈放支援をするシステムです。
親がいない未成年者や生活保護受給者など、拘束されれば生活が一層困難になる人から申請を受け、半年後から分割して返済するものです。これには、性犯罪や政治犯罪などは対象外です。

日本でも犯罪者が刑期を終えたが、職に就くことができず再び犯罪を犯してしまう人がおり、社会問題になっています。日本の市民団体でも、万引きなどの軽微な罪を犯し、出所した人を支援しようと活動している団体があるがその韓国版といえるでしょう。
キリスト教の国などでも、協会や信者の市民団体が宗教活動とし盛んにおこなわれていますね。韓国はキリスト教徒が多いそうです。慈善運動が盛んなのはうなずけけます。

日本では、浄土真宗の親鸞の教えに、悪人ほど救われるという「悪人正機説」があります。このように過ちを犯した人に対する、支援こそが大切だとおもいます。むろん犯罪被害者に対して支えていく必要があるのは言うまでもないです。

反省させると犯罪者になります

本の紹介です。

     一泳ぎ
     反省させると犯罪者になります 岡本茂樹 新潮新書

岡本茂樹 立命館大学産業社会学部教授で、日本ロールレタリング学会の理事長を勤めています。
また、刑務所の職員の刑務官でなく、刑務所の職員に対して指導助言をする外部支援者のスーパーバイザーをしています。また、別の刑務所では篤志家として面接員をしています。

この本のなかで、もめごとや犯罪などが起きた起きたとき、よく「反省文」を書かせます。それはよくないむしろ逆効果だと書いています。
学校などで生徒が問題行動を起こしたとき、よく「すみませんでした、もう二度としません」などと反省文を書かせたりしますが、これはよくないとと書いています。また、著者は、是非とも学校の生徒指導の先生に読んでいただきたいと書いてあります。

さまざまな場面でこの、反省させることが常識的価値観として行われているが、この著書を読んでそれこそそれは間違いと反省させられます。

また、この本は子どもの言動や友達関係に対しての、しつけに悩んでいる子育て世代の親や、それを見守る地域の人にも解決策のヒントが得られのではないかと思います。

今までは刑務所は罰を与えるところで、厚生教育はおざなりで、厚生プログラムがあっても、被害者の手記を読ませたり、法務省が作ったビデオを見せ、感想文を書かせる程度だった。それが2006年に「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律)」ができ、出所してからの再び犯罪を犯すことなく、自立生活が送れるよう厚生教育が問われています。

問題を起こすと出所が遅くなり問題をおこさず過ごすこと、仮出所につながるので、受刑者はずっと気持ちは抑え込んでいる人が多いと推測できる。しかし、そのように気持ちを抑え込んで、真面目に務めることは刑務官から評価は得られても、社会自立の厚生に対して何も学んでないことになり、その人の価値観や人生観は何も変わってないことになる。そうなると、刑期を終え外へ出た時に同じような罪を犯してしまう。

そこで、著者は反省をうながす厚生ブログラムでなく、自分の今までの人生と向き合う、カウンセリングが大切のなってくるとと述べています。
そのカウンセリングは一般のと同じで、人間関係がしんどい、自分の性格がすぐにカッとしてしまう、などのことは自分の問題として捉えています。そのようなことを聞きながら、いつからそういう風な感じになっている聞いてきます。そうすると、罪を犯した人は一応は、人に悪いことをしたという自覚はあることが分かります。そして、罪を犯したもともとの原点は「自分が傷ついていたこと」にあったことに気付くと、人はガラッと変わっていくと述べています。
この本にはそれらのことが書かれています。

是非とも、刑務所や拘置所にたずさわっている人だけでなく、学校関係者や子どもを育てている親など、多くの人に読んでもらいたい本です。

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テーマ : 教育問題について考える
ジャンル : 学校・教育

求刑の1.5倍の判決は不当か

求刑の1.5倍の判決は不当か

犯罪の刑罰に対して、市民感覚を反映させるとして、裁判員裁判制度が導入されました。その結果犯罪に対しての判決が厳罰化の傾向にあります。
そのような中で、求刑の1・5倍の懲役刑を言い渡した一、二審判決に対して、他の裁判結果との公平性を著しく欠いたものは許されないと、最高裁は24日、裁判員裁判の量刑判断のあり方について判断を示しました。

裁判員裁判になり求刑より重い、刑を言い渡すことがみられるようになっています。
そのなか、今回の最高裁の判断は産経新聞のように「「直感的」評議を戒めた。裁判員の「求刑超え」判決が増える中、厳罰化への一定の歯止めともなりそうだ。」という論調が多いようです。

私は、以前から裁判員裁判で求刑より重い刑が言い渡されることに対し、感情的になり早急で直感的に、刑が下れることに、ある程度不安があります。それは、
過去の裁判例を追随するようなことはよくないが、他の裁判との公平性を保つ必要性があるでしょう。
なにより、検察は法律に照らし合わせ、過去の裁判の量刑も考慮にいれ公正公平に求刑しているはずです。
裁判員裁判で裁判員が時の、風潮やそのときの感情で結論を出してしまうと、それは私刑のようなものにならないです。
そのために、白木裁判官は、量刑傾向を考慮しなければ「評議は合理的な指針もないまま直感による意見の交換となってしまう」と指摘し。
元東京高裁部総括判事の門野博法政大学法科大学院教授は「国民感覚を反映させながら説得力のある判決にするには、先例の意義を踏まえ、裁判官が裁判員に丁寧に説明することが必要だ」言っていることは大切なことだと言えるでしょう。

そして、裁判員裁判が導入され、日本人の誰もが裁判に参加する可能性があるので、今後の日本の裁判はどのようであるべきかを考えるべきでしょう。
特に、判決が厳罰化に向いているなか、裁判は罪に対して罰を加えることを決めるのか、罪を犯した人を厚生させる為に刑を決めるのか。多くの人は前者を唱えるようですが、私は後者を支持します。なぜなら、加害者に罪を与えるだけなら、被害者の復讐をする事になってしまいます。それでは、被害者の心も癒されることはないでしょう。すこしでも、被害者の慰めになるのは、加害者が自分の置かした罪に向き合い、人として立ち直れることだと考えるからです。

プラスチック製の楽器

最近、プラスチック製の楽器に人気があるそうだ。

プラスチック製と言えば、おもちゃの楽器かと思ってしまいます。しかし、トランペットやトロンボーン、サックスなどで、見た目がカラフルな色をしているだけで、形や機能は本格的ものです。音も金属製とくらべても違いはあるもの遜色はないそうです。
考えてみると、学校の音楽の時間にプラスチックのリコーダーが使われています。そこを考えると今まで無かったのが不思議なぐらいかもしれない。

最近のプラスチックなどの科学樹脂も、金属や木や竹などの楽器の素材として比べても、劣らない材質のもあるでしょう。
楽器と言えば手作りで高価なものというイメージがあります。しかし、プラスチックなどの科学樹脂だと、設計図を作れば成形にはそんな手間暇がかからず、大量生産も可能になってくるでしょう。
楽器を使った音楽が気軽に誰でもが楽しむことができるように成るかもしれません。

それと、これらの楽器は吹奏楽器で、弦楽器などと比べて、呼吸の扱いが重要に成ってくるので、健康にも非常によい効果がでてくるかもしれません。
いつしか、高齢者の施設のホームやデーサービスなどで、吹奏楽団が作らるかもしれない。そうなって高齢者がますます元気になり、高齢者の医療費に対する社会負担が軽減されればと思います。

先生の年次休暇

小中学校学校の先生が、自分の子供入学式のために、勤務する学校の入学式を年次休暇をとり休んで欠席した。
授業参観の日にNHKののど自慢に参加した。これらのことにつていネット上で論議され新聞にも取り上げられている。
私はこのことについて、特段に第三者が問題にすることはないとおもいます。それだけ教育に対してみんなが興味関心を持っている現れならよいのですが、教師個人のことについてなぜこんなに話題になるのか気になります。

私自身、子供の入学式も卒業式にも仕事の勤務があり、出席したことは無かったです。職業に関係なく不要不急な用事は別として、仕事をしている人として、職場の仕事を優先させるのは当たり前のことです。しかし、その人の価値観や人生観や考え方があり、家庭第一、我が子を優先させる、まなのど自慢などの一つの自分の取り組み事を優先することは悪いことではないです。

今回の、先生の休暇を取り私事の用事を優先させたことは、その手続きは正しく踏まれて、管理職も認めているので問題はなです。
それを、その当事者同士で問題になるならわかり、その当事者で解決すべきことです。それを、なぜ第三者が横から出てきて口を出し、大きく騒ぎ立てるのか、その必要が在るのか合点がいきません。

この先生のことにかかわらず、最近、特にインターネット上で何か一つのことが起きると、第三者がその当事者をバッシングしたりすることがよく見られます。先行き観が不透明で自分に自信ががいことにより、不安感をもっていることにより、他人に自分と同じ意見の同調を求めたり、そうでない人を攻撃したりするのでしょうか。それがだんだんと、衆人監視の雰囲気が醸成されていかないことを願うのみです。

裁判員

死刑判決などの裁判員裁判で裁判員になった人の心のケアが問題になっています。
裁判員裁判で、殺人等の凶悪な事件で裁判員裁判でしめされる、事件の陰惨な証拠などの提示により、裁判員が心的外傷後ストレス障害などにならないか。そしてどのよう証拠などがそうなるのか、裁判員に見せない方ががよいのかなどの研修が、心理学や等を交えて判事の研修がなされたそうです。
重大な事件ほどその事件の証拠や、その犯人の置かれていた状況などは、裁判でできるだけ多く提示されて、慎重に審議されるべきでしょう。それはたとえ陰惨な証拠であっても、裁判員が刑を判断する上で必要なことだと思います。
もし、裁判員にこの証拠は裁判員に見せると心理的な負担が大きすぎるととして見せず隠してしまうことは、公正な裁判でなくなってしまう恐れがあります。
難しい問題だが裁判員裁判制度のもとでは、判事も弁護士も裁判官も裁判員も、よく考えておくべきだと思います。裁判で判決を導くため有利だとか、裁判員の心的負担があるなどで、その証拠を裁判員の目から隠すことは如何と思う。それなら、その裁判は何のために裁判員を使うのか、それなら裁判員を使わない裁判にすべきだと思います。

日本は公開裁判ですから、裁判を一般の第三者が傍聴することもできます。傍聴とは当事者以外の者が許可を受け、発言権なしに場内で聞くことです。裁判の中身を知るには、加害者や被害者やその周辺の人のプライバシー等の問題もあが、それらの多くも傍聴者も知る事ができることが大切ではないかとも思います。最近のプレゼンの技術を使えば、大型ディスプレーなどで、傍聴者にも見せることは可能だと思います。
ただ傍聴やにも資料を見せることによりし、犯罪者への憎悪を助長させることになってはいけないです。大切なことは犯罪者にとって、公正な裁判がなされることだと思います。

こんなことを書いたら、よく被害者やその遺族の気持ちはどうなのだと、第三者に叱られそうです。私自身被害者になったことも、その家族にもなったこともありません。また加害者になったこともないつもりです。加害者の親族になったこともありませんから、その所の本当の気持ちを汲むことは、自分勝手に想像することしかできません。
私が思うに言えることは、ただ、加害者が更生されなければ、被害に遭った人達は、報われないのではないかと思います。この恨みを晴らさでかと、解決する方向に向くのは、野蛮で愚者のすることだと考えます。恨みの連鎖となり蛮土となるだけでないかと思うのです。

裁判員制度を取り入れたなら、市民は刑罰の在り方に正面から向き合う必要があるでしょう、そのためには裁判資料は隠すことなく裁判員には提示すべきで、裁判員はそれらの守秘義務の重荷を負う重責を自覚すべきでしょう。
それによる、裁判員への心的外傷後ストレス障害に対する心のケアにとられるべきでしょう。

しかし、受刑者や刑務所、それに関わる人について書いた本をよんでいると、拘置所や刑務所に勤務する刑務官や、刑務官以外の死刑囚や受刑者に関わる人、精神科医はともかくボランティア要素が強い、教誨師やカウンセリングをする人への心の支援などが充分でないです。
それを見ると正直いって、裁判員制度や裁判の制度また、今の日本の社会にはまだその風土が成熟していないようにも感じます。しかし、現に裁判員制度が施行されてる以上は、もっと市民にそれらのことを啓発していくべきでしょうが、国も司法界もあまり取り組まず、マスコミも視聴率や購読数を上げるための興味本位の報道が多いことが気になります。
■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

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記事へのコメント
  • 臨時国会の開催はいつか
    竹林泉水 (08/09)
    日本の現状いや世界でも同じよな風潮になっている。
    アメリカでも、トランプ政権の外交政策や内政も、アメリカ自己国第一主義のアメリカファースト。
    日本の安倍政権も、こ
  • 臨時国会の開催はいつか
    風と雲 (08/04)
    一体今の日本はどうなってしまったのだろうかと思う。アベ内閣も与党も憲法に違反することを完全に無視して悪びれもせず堂々と実行してきた。、政府高官も最高裁も報道機関
  • 難病と尊厳死
    竹林泉水 (07/29)
    コメントありがとうございます。

    自ら生きる権利、自ら死ぬ権利があるのはよくわかります。
    それにはどちらも人・個人としての尊厳が保たれている必要がある考えます。
  • 難病と尊厳死
    風と雲 (07/28)
    意識して自ら命を絶つことができるのは人間だけだと思います。人には生きる権利と自由があるように、自らの命を絶つ権利も自由もあって然るべきではないでしょうか。このA
  • 不自由な国、日本
    アジシオ次郎 (07/01)
     自分よりも周りを優先する集団主義的な考えが同調圧力などがまかり通る社会なことについて前に
    >日本的なこの価値観は、海外から見たら奇異の目でしか見られないでしょ
  • 不自由な国、日本
    竹林泉水 (06/29)
    日本語に「世間」と言葉があります。「世間体が悪い」「世間がうるさい」「世間を渡る」「世間に顔向けできない」「世間の目を気にする」「渡る世間に鬼はいない」などとつ
  • 不自由な国、日本
    アジシオ次郎 (06/27)
     おはようございます。

     日本はやはり集団主義が根強い社会であり、いわゆる「ムラ」社会的価値感が強い為に変に「和」を重んじる傾向の上に上の言うことは絶対だという
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    竹林泉水 (06/26)
    なんで日本人は欧米人に対してコンプレックスを持っているのだろうか。明治政府は今までの幕藩体制をぶっ壊し廃藩置県をし、国内の不平不満のエネルギーを外に敵を作ること
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    アジシオ次郎 (06/25)
     こんにちは。

     日本人は長年欧米コンプレックスを抱いたせいで白人に対して好意的に見る一方でアジア人や黒人を平気で見下すような傾向が強いけど、自分たちが置かれて
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