FC2ブログ

竹林の Twitter 新しいウインドウで開きます。

厳格な教義

また、イスラム教の厳格な解釈というか、原理主義的なイスラム法典の解釈により問題を考えさせられるニュースが報じられた。
パキスタンで、預言者ムハンマド冒涜しあと、キリスト教徒の女性が罪に問われ、死刑の囚人として投獄だれていたが、恩赦で釈放されたが身の危険があり、居所を転々としていたが、カナダに出国できたというものです。

パキスタンだけでなう、イスラム教国では教えや戒律を厳格に守るように求められ、またそれは外国人や外国人旅行者にも適応される。
法律はその国の法律を犯せば、外国人であろうと法律は法律で何人であろうと通常は適応される。ここで何人と書いたのは、軍人などには地位協定などで例外の約束があるからです。

話は戻し、宗教戒律を厳格に守ることを求めるのは悪いことではないが、それが法律以上のものとなると話はべつです。その一つの集団に属する人なら、法律以上のものであっることは構わないが、それ以外に人にも一律に適応されることは、現代の世界の人権意識からするとあ合わないものです。

また、それ以上に問題なのは、宗教戒律を厳格に守ることをその、宗教主体や国が求め法律の適応があったとしても、それ以上に恐ろしいのはその宗教戒律を厳格に守ることに対しての、民衆の暴走のほうでしょう。
今回の、パキスタンのキリスト教徒への問題は、法的には解決したのだが、民衆がキリスト教徒排撃への高まりから、冒涜罪で死刑判決を受け恩赦で釈放された女性の身の安全が保障されなくなったことです。

このように、この宗教教義での民衆の暴走は、宗教教義だけでなく他の事でも起こりうることではないだろうか。

ジョン・ナット『足の病理と奇形』を読んで

ジョン・ナット『足の病理と奇形』に次のようなことが書いてある。
骨は負荷に応じて強くなったり弱くなったりする
「少しでも負荷がかかると、その負荷が継続してかかる場合には、新たに材料が付加されて靱帯あるいは軟組織が延びる。反対に、ずーっと緩んだ状態にあると、柔らかい材料が取り除かれ、靱帯あるいは軟組織は次第に収縮して、身体構造との以前の付着関係に戻る。筋肉や靱帯の元の位置といまの付着点のあいだの距離が一定間継続して収縮したままの場合、その筋肉あるいは靱帯を元の長さに維持するために自然に時間や材料を無駄使いすることは決してない」

骨には、破骨細胞と骨芽細胞があり、骨を更新するために古い骨の細胞を破壊していく、そして骨芽細胞が新しい骨が作られ、歳を重ねても健全な骨が保たれることになる。しかし、この骨芽が細胞は骨に振動などの刺激を受けないとできないという。また、破骨細胞は刺激を受けないでも受けても活動すると言われている。このバランスが崩れると骨粗鬆症や骨が増殖しすぎてしまうそうです。
それと同じことが筋肉にも言えることです。骨に対してだけでなく、靱帯などは使わないと劣化していくことだが、このことは、筋肉について言える。靱帯は筋肉が骨に付着しているところのことだが、それは筋肉事態にも同じことがいえる。
筋肉は使わないと弱くなると言われる、数週間入院してねていると、退院したとき少し歩き辛くなる。これは筋肉を使わないでいると起きる症状だが、筋肉を使っていても起きる。
宇宙飛行士が宇宙ステーションから帰還したとき、地球の重力に耐えられず、歩けない様子が帰還帰還した直後の様子が、ニュース映像の映像となることがあるが、それをみると宇宙飛行士は抱えられたり、車椅子に座っている映像が映る。これは、宇宙空間で地球の重力などの刺激を受けないで、生活していたっために、筋肉は弱くなっていくことからきている。
しかっし、筋肉は使わないと弱くなるだけでなく、筋肉は骨を伸展・屈曲させることに、動物の動きをつくりだす。これが、寝たままで動かなければ、伸びる筋肉やますます緩み、縮む筋肉はますます緊張して縮もうとする。これにより、寝たままで動かないでいると、身体はしだいに拘縮してしまう。
事故で脊髄を損傷したりして身体を動かせなくり、寝たままになると、身体は次第に捻れて歪んでいく。つまり、身体は、運動活動をし刺激をしていないと、身体は捻れて歪んでしますということです。

刺激を受け緊張感をがないと歪んでしまうのは、なにも身体だけではなく、私たちの日常の生活でも言えることです。
同じ生活をダラダラとすごしていたら、悪い習慣がつき生活はますますダラダラとして緊張感がなくなり悪くなっていく。組織もそうです、会社なども同じ戦略で経営を続けていくと、組織が硬直していろいろな事態に適応できなくなり、販売は落ち込みそのような企業は潰れてしまうだろう。

このことは、政治の世界でも同じことが言える。暴君を倒した英雄の指導者でも、はじめは尊敬され賞賛されるが、トップダウンのワンマンになると、次第に独裁の暴政に陥ってしまう。このことは、、どの時代や何処の国にでも今までみられたことです。

いま、ある国で、国会の議席が与党一党が絶対多数をしめ、連立党の議席もあわせると、3分の2を越えることにより、野党が反対しても強行採決を繰り返すことをしている。また、国民も目立って、フランスやイギリスのように大きな抗議行動などを起こさないので、政権党の好きなようなことをして、その驕りが政権党の議員のなかから不適切な放言が繰り返されるのも、ヒトの身体のように緊張がなければ、捻れ歪んでしまうのは、政治も同じことナノでしょう。

日本の幸福度は世界で58位より低いのか

先日テレビのニュースを見ていると、日本の幸福度は58位だと報じていた。
しかし、それは、日本は世界一の長寿国であること評価に入れてのことです。この長寿ランクを除外すると、G7では最下位という。この長寿のことを外すと、58位はもっと下がることになる。どれくらいまで下がるのだろうか。

国連は7年前から、1人当たりのGDP=国内総生産や健康に生きられる年数、社会の自由度などを数値化し、世界の国や地域の「幸福度」をランキングにしている。
そして、58位のラックは、去年より4つ順位を下げてたことにないり、G7の国の中で最も低く、25位の台湾や54位の韓国を下回ったことになる。何がランクを下げたのだろうか。
どんな項目があるかというと、
1.人口あたりGDP
2.社会的支援(ソーシャルサポート, 困ったときに頼ることができる親戚や友人がいるか)、
3.健康寿命
4.人生の選択の自由度(人生で何をするかの選択の自由に満足しているか)
5.寛容さ
6.腐敗の認識(不満・悲しみ・怒りの少なさ、社会・政府に腐敗が蔓延していないか)
以上の6つだそうです。
日本はたぶん1から3までは上意のトップクラスにあるだろうが、4以降は低い評価をされたのだろう。

一位はフィンランドで2年連続で、2位にデンマーク、3位にノルウェーとなり、福祉や教育が充実している北欧諸国が上位になっている。ちなみに民主主義国のアメリカでも19位 イギリスは15位となっている。

日本は世界一の長寿国とされているが、健康に生きられる年数がシンガポールに次いで2位となり、1人当たりのGDPが24位で、政府やビジネスにおける腐敗のなさが39位とです。

また、社会的支援が50位、社会の自由度が64位、他者への寛大さが92位となっている。
健康に生活できるとGDPを集計か外すと何位ぐらいになるだろうか、金をたくさん持っていて、チューブに繋がれた生活を続けることに価値を置くことがよいのだろうか。それより人間として個の自由と充実と尊厳を求める社会の方がよいのではないだろうかと思う。

モスクの前でインドネシアの男性が刺される

栃木県佐野市でモスクの前で、インドネシアの男性が近くに住む男性に、棒のようなもので顔や手を数回さされ大けがをした。というニュースがあった。男性は見に覚えなないと否認しているが、警察は防犯カメラの映像から41歳の男性を逮捕した。
ニュージーランドでモスク前で乱射事件があり多数の人が犠牲になっている。このようにイスラム教に対する偏見が世界中に広がり、憎悪を高めているようです。しかし、日本はそんなにアラブやイスラム教に対して歴史的にみてもそんなものはないのに、佐野市で起きた事件は衝撃てきです。
ISなどの原理主義のイスラム過激派によるテロが多発してるが、それにより歴史的にキリスト教とイスラム教の対立があった地やテロが多発するところでは、アラブ系の人たちに対しての偏見が増して、反イスラムの運動がおきている。
日本ではテロ事件などは起きていないが、佐野市の事件が互いに反目してしまうような方向に進むことがないようにしないといけない。

もっとも、今も日本では偏見をもってか、朝鮮半島の人たちや日本で生活している人への攻撃がたたないです。私の若いころは、朝鮮半島で何かあると、朝鮮学校の女子生徒のチマチョゴリを電車の中で切る事件などが起きて社会問題になっていた。今でも、大阪の鶴橋や東京の新大久保などでは、憎悪と差別を助長するような、ヘイトスピーチが今も起きている。このようなことから、人事と考えずに我が事として、あらゆる人と友愛の精神を持つべきでしょう。

未来は貧困と格差を克服できるか

スタートレック*の新スタートレックのエピソードの125話「タイム・スリップ・エイリアン」で、トロイ**とマーク・トゥエイン***の会話。
*アメリカのSFテレビ映画
**トロイはTNGのエンタープライズに乗艦している上級士官でないがブリッジ勤務のカウンセラー。
***マーク・トゥエインは「王子と乞食」や「トムソーヤの冒険」をかいた、アメリカの19世紀を代表する作家。

エイリアンが19世紀の地球にタイムスリップして、人間の電気エネルギーを捕食するが、それを阻止しようとする、エンタープライズのクルーが奮闘するなか、クレメンズが間違って、宇宙船エンタープライズに紛れ込んでしまう。
・・・前略。
クレメンズ(マーク・トゥエイン)。「私にとっては、いい葉巻が手に入らない世界などいいところとは言えないね。」
トロイ「一本お持ちでしたら、レプリケーター(分子レベルでの物質再配列機)でお作りしますわ?」
クレメンズ「ああ、そんな模造品なんか御免だ。ハヴァナ産の一本一本手で巻いた葉巻の味が出せるとでも思っとるのかね?いやいや。」
トロイ「どうでしょうね?」
ー自動ドアを見てー
クレメンズ「未来の問題点はそこにある。すっかりテクノロジーに毒されてしまって、人生の味わいというものが全く失われている。レディのためにドアを開けることもできないなんて興ざめだよ。」
トロイ「失ったものもあるでしょうが、それ以上に得たものは多いと思いますわ?」
クレメンズ「そうか?とにかく私は未来には感心できないね。こんなバカデカい宇宙船や兵器を開発して、街を破壊したり侵略するのが人間らしい暮らしとはとても思えんね?」
トロイ「それは誤解ですわ。」
「ハー、この船は戦艦じゃなくて調査のためのものだとか言っとったな。新しい世界を探索しとるんだって?」
ーターボリフトから降りてきた、異星人のボリアン人を見てー
クレメンズ「あら、あ。」「そりゃあ、スペイン人も同じことを言っとったよ?」
クレメンズ:「ドイツ人やポルトガル人もそう言っては、ほかの国を侵略しとった。今そこですれ違ったあの、肌の青い男。彼はきっと、奴隷として連れてこられたんだろ。」
トロイ「探索によって出会った何千という種族の一人です。みんな惑星連邦に加わり、平和に暮らしていますわ?自分の意思で乗船しているんです。」
クレメンズ「しかしこんな船に乗っているのは、恵まれた一部の者だけだろう? あんた方はここで贅沢な暮らしをしてるが、ほかの者たちはどうだ? 貧しい暮らしを、強いられてる者は。」
トロイ「地球に貧困はありません。撲滅されたんです。それによっていろんなものが解消されました。例えば、人生に対する絶望。」
クレメンズ「いいかね、私は一部の者が権力と富を独占し貧しき者を押さえつける時代から来たんだぞ?人生に差別や不条理はつきもんだよ、権力が覆されるなんて考えられん!それが未来では、すっかり変わったと言うのかね?」
トロイ「そうです。」
クレメンズ「ああ…。やあ、まそれなら…葉巻が手に入らないことぐらい、よしとせねばならんかな?」
以下略・・・・

このトロイとクレメンズの会話のなかで、23世紀では虚構である貨幣価値経済を棄て、人間の生き方に重きを置く価値観なったということだが。

未来は本当のそうなるだろうか、かがっく技術の発展によりいくら社会全体が豊かになり、ものがありあふれているようになっても、ものや権力を独占しよとするものがいつの時代でも、どこの世界でもいるものです。そのため宗教は人が生きていくうえで幾つかの戒律をもうけ、第一の戒めとして殺生と貪欲をおいている。
貧困な生活をしている国の世界ほど、その傾向がつよいが、経済的に豊かになり後進国ほどの貧困がなくなっても、貧富の格差は後進国以上の格差が生まれ、富める者はひとり占めをしようとすうる。げんに経済は寡占化している。人間は欲望から人間は逃れられないのではないのだろうか。

また、どのような時代や世界でも、過酷な労働や危険な労働や汚く汚れる仕事などはなくならい。それらは必要でそれがあるから社会は機能していく。それらの仕事は日常生活が便利になればなるほど人目に付きにくくなる。しかし誰かがその仕事に従事しているのです。たしかにそれらの仕事の内容は改善されているとはいえ、労働は過酷でありその担い手は少なくなっているとはいえいるのです。
また、現代でもそうだが仕事による偏見は過去の反省から、仕事による偏見や差別をしてはいけないと言うが、偏見を持ちその目でそれらに従事している人を見る人はいる。そしてそれらの人への差別は、法的には禁止されているが差別は存在している。それらの仕事はさげすまれて労働の報酬は少ない。では、だれがそれらの仕事を請け負うのだろうか。
見えるところでは、障碍者や高齢者の介護に従事する仕事は、重要で大切な仕事だとされているが、その報酬は低く抑えられたままです。見えないものや見え難いものでは、深夜のインフラ整備に携わっている人、廃品廃棄物の処理現場で働いている人や、資源の鉱山などで働いている人などがいる。
今、その労働力とサービスの提供を確保し維持向上させる解決法としてテクノロジーが注目されている。
これからそれらの仕事は有機的ヒューマノイドがするのではなく、無機的な機械やロボット、アンドロイドやがするようになるのだろうか。
先進国など豊かで裕福な国はそれらを、資金と技術があるので、ロボットを導入して任すことが出きるとしても、貧しい国や地域では、ロボットに任すだけの資力や財力はなく、人が行うであろうしそれが、産業を作り出しその国の経済を維持する一つとなっている。
また資源鉱山の採掘などでロボットが導入されているところでは、そのロボとや機械は巨大化した重機となり、自然を破壊しながら採掘されている。

先に、人の貪欲な欲望を押さえられるかについて述べたが。
人は、欲望や貪欲にどのように対処してきたのだろうか。未来はそれらを克服することができるだろうか。
富の蓄積などの欲望は遊牧生活よりも、農耕文明が生まれたころから富を蓄えることができるようになってからうまれ、収穫により農作物の富を蓄えられるようになり、より多くのものを蓄えようと貪欲にななっていった。しかも、農作物を作る生産者とそれを管理する人、対外との折衝をする外交など、また収穫したものを貯蔵管理するものなどの分業がなされていった。
世の中が工業化される前は農業に従事する人は、全体の多くを占めていたが、産業革命が起き工業化が進むみ、農業技術が発展し生産効率が上がるとともに、農業に従事する人が少なくなり下がっていき、工業に従事する人が増えていった。また実業や現業などのブルーカラーが増えていった。さらにお経済活動が活発になると、営業や事務仕事や開発や研究などに従事する人が増えていいたが、いまはそれのどちらでもないサービス業がで働く人が多くを占めるようになってきている。しかし、それらの人は低賃金で働かせられているのが現状です。

新スタートレックの「タイム・スリップ・エイリアン」のなかの、トロイとクレメンズが、「しかしこんな船に乗っているのは、恵まれた一部の者だけだろう? あんた方はここで贅沢な暮らしをしてるが、ほかの者たちはどうだ? 貧しい暮らしを、強いられてる者は。」「地球に貧困はありません。撲滅されたんです。それによっていろんなものが解消されました。例えば、人生に対する絶望。」と言ったが、未来は本当にそうなるだろうか。2050年頃に成長限界がはっきりしてくるとの見方があるが、それまでに、貧富の差と欲望の問題は解決できるのだろうか。

人類の未来は

人類は2050年以降も繁栄し続けるのか。
「成長の限界」という本が1970年に出版され、環境問題やエネルギーや資源の埋蔵量などいついて警鐘をならした。資源・エネルギーは新しい鉱脈などが見つかりるなどして、指摘した問題は先送りされている。しかし、環境問題や地球温暖化はますます深刻さをましているが、世界の指導者は中には、フェークだ言う人がいる。問題は認識していても今の経済を維持するには、技術が確立するまで先送りすべきだという人もいる。また、新興国や発展途上国などは先進国に追いつくため自分たちには特例が必要だという、先進国は温暖化の原因となる排出を後進国など排出量が少ないところから買っても温室効果物質を排出しようとする。
すでに、世界各国で異常気象が頻繁におき、台風などの嵐は今までにない強さと大きさなっている。
大木の地域で干ばつや大雨が起きたり、いままで雪があまり降ったことがないところで大雪がふったとの報告やニュースが報道されている。

2012年に『2052今後40年のグローバル予測』と言う本が出版され、経済政策や環境問題や資源問題に警鐘をならした。それから10年ほどになろうとしているが、特に環境問題や地球温暖化などについては、前述したように世界のくにのリーダーたちは真剣に考え取り組もうとしていない。
選挙でリーダーを選ぶ民主主義の国なら、選挙で当選するために間近な問題を解決するたに取り組みのは熱心だが、長期ビジョンへの取り組みにはあまり熱が入らないようです。私はもう70近いのであと2・30年ほどの寿命なので、後のことはあまり考えないよいかもしれない。
しかし、私の孫や結婚してその子が産まれ、大きくなったときはどのような環境になっているだろか。地球の温暖化は気象の問題だけではなく、気象に大きく左右される農作物や牧畜や養鶏・養豚などにも大きな影響があり、漁業にも大きな問題があります。私たちの毎日の糧である食料が今のように供給されるか疑問になてくる。

長期ビジョンでの政策をすることができないのは、政治家を選ぶ有権者の意識とその意識を左右するために必要な、情報をいかに正確に正しく伝えられていないからです。
そうなれば強力な全体主義的リーダーの国の方がよいのだろうか。
有権者自身が目先の豊さや便利さだけでなく、自分の子ども孫やまたその子が生活するす時代はどのような世の中かをどれだけ考えているのかによって変わってくるだろう。
政治は一部の人や一部の組織などのためにあるのではないです。未来の社会をよりよくするために、政策を進めていくことも重要なことです。企業が活動しやすいように政治を進めて、孫やその子どもの世代がいまの政治のつけを負うようなことがあってはならないです。もっと、環境問題や温室効果ガスについても真剣に取り組むことを考えないといけないといえる。

沖縄の県民投票

沖縄の辺野古基地建設?移設?対する賛否を問う県民投票が三択で行なわれた。
投票率は、投票率は52.48%で結果は以下の党利だった。
▽「反対」43万4273票
▽「賛成」11万4933票
▽「どちらでもない」5万2682票
圧倒的多数で、基地建設反対です。
「反対」の票が有効投票のおよそ38%を占め多数で、条例では有権者の4分の1を超えると、知事は結果を尊重し総理大臣とアメリカ大統領に通知することになっている。
乱暴だが単純に計算すると、投票率が半分強だから、反対が38%ということは、だいたい倍にすると70%以上の人が反対だということです。

安倍首相はよく、国民の意見をきき、真摯に丁寧に説明すると言っているが、日本は議会制民主主義で国会の代表者が決定する間接民主主義だから、この県民投票には法的な拘束力はないです。
しかし、安倍首相はよく先に書いたようになことを言っているのだから、この沖縄県民の声を完全に無視することはしないだろう。もし、沖縄を訪れて基地建設についての話し合いや、知事が訪れたら会って話を真摯に聞くべきでしょう。
翁長知事のときのように、会いもしないようなことはしないでしょう。
もし、そのようことをすることがあれば、安倍首相は沖縄県民を日本国民と見ていないのと同じことではないか。

また、この辺野古基地建設の問題は、鳩山由紀夫元総理にもある。鳩山元首相亜「最低限でも県外」と言っていたのに、辺野古移設を認めた。それが今の混乱をまねいている。なぜ言っていたことと反対の判断を下したのか、そのいきさつと説明をもっと広く明らかにする、責任があるのだが最近はだんまりです。
また、仲井間元知事は、辺野古移設には慎重だったが、辺野古基地反対の翁長元知事が次期知事にきまっていたのに、東京に行き入院中に電撃的に辺野古基地建設の承認をした。
これら、不可解のことをもっと明らかにすべきではないだろうか。
断片的な情報しか得られないので何ともいえないが、なにかの圧力があったことだけはわかる。その圧力が何かをジャーナリストは暴いていくことが、日本の真っ当な民主主義をまもることになるのでないだろうか。

「忖度」や「空気」

「忖度」や「空気を読む」

「日本人とユダヤ人」を著いた山本七平が「「空気」の研究」で次のように書いている。
その文庫版の後付けに、日下公人が「昭和以前の人びとには「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考える一面があった。」と書かれている。
山本七平はその本で、「「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが「空気」に順応し判断して決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでないことを示している。」

安倍政権のモリカケ問題で、官僚が忖度したと言われたりしていたが、再び厚労省に労働時間調査で適正になされていなかったことに対しての、官僚や政治家の答弁をみていると、どうやら忖度ではなく、組織や集団か醸し出す「空気」といものが漂っているようです。
国政の場では、そのような空気が醸し出されてきたら、主権者である国民の代表の責任者は本来率先してそれを取り除くのが務めであるはずです。
しかし、日本では、明治以降の政治では為政者は率先してそれを取り入れ輿論を作り上げたりしてきたああ。その結末が70数年前の惨憺たっる結果の敗を招いてしまた。
空気というのは、良くも悪くもそのようなものです。

戦国時代の武将では忠信であっても、殿が無謀なことをしそうになれば諫言しする者もいた、そのような国は繁栄したがそのような家臣がいない国は衰退していった。

いま、国会の答弁を聞いていると、「空気」を読むことに長けた答弁が大手を振って入るように思う。このままでは国体護持ではなく政権護持の国会で、主権者国民の代表が集まての会議の場ではないようです。そして、いまその空気がますます強くなっているのではないでしょうか。

日下公人が「昭和以前の人びとには「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考える一面があった。」と書いたが、空気に左右ない、自分の信念を貫く、組織の中であっても面従腹背の心まで組織に売り渡してしまってはならないでしょう。

中井久夫氏の昭和を送る

2月16日に、精神医学者の中井久夫氏が書いた、「「昭和」をおくる」の一文を紹介したが、平成が終わろうとする今もう一度この、「「昭和」をおくる」を読んでみよう。
このエッセイは中井氏が雑誌「文化会議」239号 1989年5月に執筆したものです。つまり昭和天皇が崩御して明仁殿下が天皇に即位したときに書いたものです。
エッセイの書き方は、仮想のアメリカの歴史学者との対談という形で書かれている。
敗戦のとき日本の天皇制をどうするか連合国は日本の天皇制廃止する意見があったが、天皇制が廃しされていたら殉教者がでて国論がわかれて混乱することになると考えた、連合軍の総司令官であるマカーサーは、戦後の日本を統治する上で天皇を利用することにして、象徴天皇をつくり出し実質天皇制を残すことになった。

二人の対談は、
アメリカは、ワシントンやフランクリンなどから、清教徒で道徳的に潔癖だと思っていたが、内村鑑三は渡米してヤンキー商人など普通の人であることを目の当たりに見てがりした。また、明や清の時代の中国に渡って、儒教などの聖人君子の国でないとわかり落胆したのと同じだという。では英国はというと、伝統と気品と老獪な現実主義の国で落胆した。
左翼思想は、西欧からの輸入物であるが、では右翼はどうかというと、神道思想ではなく中国の特殊な思想を受け継いだものだと言う。幕末からの「尊皇攘夷」は「忠」を「孝」よりも上に置いた特殊な者だと言う。
神国日本と言う「神州」の考えは南宋の人の発明だと指摘する。
そして、寄生的な支配階級は傀儡的な皇帝を求めると指摘し、「忠」と「大義」を持ち出し正当化する。
江戸時代の武士は、俸禄に依存建前は「武」であっても武道の腕でより実務能力が重視された。
それは管理層は官僚化してきて、殿様は地位に甘んじて安定をこのみそこから腐敗起き君側の奸はびこったと指摘する。

明治維新を支えてものの一つに朱子学があるが、古来より朱子学によって国を治めた中国・韓国に対し、日本では教養としての朱子学が、水戸光圀、吉田松陰、西郷隆盛、伊藤博文らへと受け継がれていっている。
そして日露戦争の勝利はロシアの膨張主義が感染してしまい、敗戦まで続いてしまったとみる。しかしそれを後押ししたのは政府官僚ではなく、ジャーナリズムや民衆だと指摘する。
日比谷公園で行われた日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した日比谷焼打ち事件。などが、ジャーナリズムが民衆の膨張主義心を煽り民衆は暴動に走り、政府はジャーナリズムと民衆を信じきれなくなり、軍は暴走をしだす。
日本の文化はどうであろうか。
豊臣秀吉の朝鮮侵略では多くの朝鮮人を拉致し日本に連れ帰りその中の、陶工たちは伊万里焼き有田焼きを生んでいる。徳川幕府成立してほどなく明が滅んで北方の騎馬民族が清朝を建ると、日本に多くの思想家や禅僧が亡命した。昔は日本の公式文書は漢文で書かれていた。今も漢詩を詠んだり漢文を読むと尊敬される。のは中国崇拝だと言う。

日本の文化はよく吹き溜まりの文化で、外来から文化がやってきて独自に発展進化したものだと言われる。つまり、中国や朝鮮の文化を吸収し発展進化させたものです。しかし、そのことを忘れた日本は、明治以降脱亜入欧を唱え、中国や朝鮮をさげすんで劣等国と見ていた。その驕りは70有余年前の敗戦という惨憺たる結果をまねいた。

昭和が終わり、平成も送る時になった今、改めて平成の30年を見るに、明人陛下が日本国内とアジアの国に慰霊の旅を続けられていることを日本人として振りかえて見たく思う。

非常事態宣言 緊急事態宣言

アメリカのトランプ大統領は、メキシコとの壁の建設をするため、議会が予算案を可決しないために非常事態宣言をするといている。
日本には非常事態宣言や憲法などに緊急事態条項はないが、自民党は憲法改正して緊急事態条項を設けようとしている。
では、非常事態宣言とはどんなものだろうか。
少しネットなどで調べると、アメリカの非常事態宣言は、リンカーン大統領が最初に発令したといいます。最近では9.11の同時多発テロの時に、ブッシュ大統領が宣言したが、いまだそれは更新され続けて有効だといいます。
アメリカでは、更新による乱用を防ぐために、一年ごとの更新をしないとその非常事態宣言は無効になるとされている。
アメリカではたびたび非常事態宣言が発令されているようで、結構頻繁に出されてそのほとんどは戦争がらみのようです。非常事態宣言は、大統領の強大な権限を制御を議会が歯止めをかけるかの繰り返しと言えるようです。しかし、非常事態宣言の大統領令が覆されていみいる。

フランス、ドイツ、イタリアにも憲法に緊急事態条項が明記されている。その内容はどのようなものだろうか、また、2012年に自民党が作った憲法改正草案とはどう違うのだろうか、また、今回自民党が目論んでいる緊急時た条項の中身はどのようなものだろうか。

今年の日本の政治は

このところ結果を出す、決められる政治などというが、確かにそれはだいじなことです。しかしそれが「イエスかノーか」を即座に決めなけれがいけないとなると、それには違和感を感じる。
過去に大政翼賛政治になったとき、多様な価値観が排除されてしまい、挙国一致で邁進したことにより大きな代償をはらう結果になった。その反省から人権尊重し内心の自由を尊重し多様な意見を受け入れ議論してきた仕組みをつくり築いてきた。
最近よく、態度を明らかにしろ、反対するなら対案をだせといい、二者択一でものごとに白黒つけようという考えが頭をもたげ広がりはじめ、それはいいことだと言う雰囲気が広がってきている、それは危険ではないだろうか。
おおむね賛成だが、この部分は違和感があって納得できないなどの、小さな感情と言うか意見が無視され、それについての議論を排除しようとするのは、長い目で見ると危険に感じる。白黒つけるようなことは、歯切れ良さがあるように見える。しかしそれは多様性が失われていく方向に進んでいくことになる。

第二次安倍政権以降、世の中が二分思考をする人が増えているように感じる。二分思考の定義は、物事を「白か黒か」「賛成か反対か」「是か非か」の二つの対立する概念での結論を出すことを求めること。それ以外の考えや中庸の考えをみとめっっようとしない。
私は、この考え方に疑問を感じる。ものごとのその結論に曖昧さを持たせてもよいのでないかと思う。しかし、この二分思考的な方法が傾いているように感じ、それを率先垂範しているのが、今の安倍政治のように感じる。

以前は、自民党のなかで色々な意見がでて、百花繚乱、百家斉放 百家競鳴なところがあり一見バラバラに見えたところもあったがそれが自民党の強みでもあった、しかし第二次安倍政権になってから、今まで色々言っていた人が口を噤み、いままで自分の言葉を話していた人が、閣僚に入ると面従復背どころか面従服従になってしまって、金太郎飴のようになってしまっている。これから自民党はどこへ生き、日本をどこへ引っ張っていこうとしているのだろか。

ことしはどんな一年になるでしょう。

政治に対しても、科学に対しても、技術にたいしても、文明や文化にたいしても、あらゆる権威には疑ってかかるもの。

政治家は嘘つきですかの質問に対してある政治家が答えた。
「政治家は正直者だが国のために嘘をつくことが仕事だ」と。

日本人はアメリカやフランス国民の比べて、権威に弱いといわれている。お上は正しいという考えです。
しかし上記に政治家の言葉通り、政治家は我が信じる政治信条を実現させるためには、国のためなら国民に嘘をつくことも厭わない。

政治家が何を言っていいるのか、疑ってかかりその言いたいことの本性を見抜くようにしたい。

明日から新年

イギリスのエリザベス女王のクリスマスメッセージ
直接は言及しなかったが、EU離脱問題で議会が対立していることについて、「たとえ意見の違いの対立は深くても、同じ人間なのだから敬意を持って接しなくてはならない」との趣旨のメッセージを述べられた。
カトリックのフランチェスコ法王は、クリスマスメッセージで、「人種や文化、言語の違いは驚異ではなく豊かさの源だ」と強調し、違いを越えて結びつく「友愛」も重要性を一貫して訴えた。

天皇の誕生日の記者会見では
「私は戦争のない世の中を知らないで育った」とのべ、来年の退位をみすえてか戦後から、そして平成から、戦争がない時代として終わることはよかったとしました。新年の天皇の国民へのメッセージはどのようなことを言われるだろうか。

マティス国防長官の辞任

マティス国防長官が「あなたは、さまざまな懸案をめぐり、より価値観を共有する人物を国防長官にする権利がある。私は辞任することが適切だと判断した」とのべ、トランプ大統領に辞任の意志を伝えたたといいます。トランプ大統領もそれを受け入れ来年2月に国防長官が辞任すると言いました。マチス長官はシリアからの米軍の撤退について、ISが再び勢力を盛り返すおそれがあることなどから懸念を示していたが、トランプ大統領は撤退を押し切りました。
アメリカに限らず現代の世界の国の政治は、官僚や閣僚は大統領であれ言うべきことは言いそれを聞き入れられない時は、自分の進退を問うことをする。どんなに大統領のする事が間違っていても、面従服従で従うのは、世襲制度の王国のようになってしまう。やはりアメリカは民主主義の国といえるでしょう。
片や日本の政治はどうでしょう、閣僚などは首相に忠誠の宣誓をしたように一丸となり首相を支えているし、同じ与党である公明党も初めは首相に苦言をいうフリをしても最終的に首相に迎合してします。このような政治はいつまで続くのだろうか。来年こそはまともな政治な年になってほしいものだ。

国家統治の基本法か市民自治の基本法

憲法とは「国家統治の基本法」であるべきか「市民自治の基本法」であるべきか。いまの日本国憲法は欽定憲法である「大日本帝国憲法」の改正として発布施行された。
改正されたと言うのは、平和条項の2章と地方自治の章   が加わっているが、章の組み方が同じだからです。
日本国憲法の三大柱は、国民主権と人権尊重と平和主義だが、自民党はこの三つの柱をどうしたいのかを、自民党の2012年にだした憲法改正草案を見ると。この三つは言葉は出てきているが、前文から各章の条文を読むと、今の憲法の三大柱をそのまま踏襲するのではないようです。
自民党はどうやら憲法を改正して、「国家統治の基本法」としたいようです。
憲法改正の自民党に意欲的で来国会には、その案を国会手に提出すると言って国民に訴えている。しかし、それに対して野党や市民団体からの声を拾うと、9条の平和条項を守れ変えるなと言うことが大きく聞こえてくるだけで、自民党がもくろんでいる他の条文の問題点に対しての指摘は余り聞こえてこない。
自民党の憲法改正の本丸は9条だけではないです。一番のねらいは憲法を「国家統治の基本法」としての機能を強化することです。帝国憲法は欽定憲法であり、国民の人権はなく権利も制限されていました、また国家の主権は天皇にあり主権は国民ではなかったです。そのような敗戦前の憲法に戻そうしているように思える。
自民党の憲法改正に対して、国民主権と人権の尊重と平和主義をもとにした「市民自治の基本法」とす憲法の考え方を打ち出して、対抗すべきではないだろうか。

敗戦により、天皇を頂点とする国体護持の欽定憲法が、国民主権と人権尊重の民定憲法に改正されたが、これはGHQの強い影響力があったが、世界中が2度の世界大戦の反省から、人権尊重と平和への希求を実現させるための憲法として、帝国議会を経て施行されたものです。しかし、それから70年以上がたち、世界の人権意識や、国民の主権意識は大きく変わり前に進んでいっていいます。
ならば、自民党に対抗して「市民運動としての基本法」を真剣に考えてゆくべきです。
憲法の「国家統治の基本法」と「市民自治の基本法」は、車の両輪であり比翼の翼です。

「市民自治の基本法」と言っても、左翼主義的なもの無論社会主義的なものではなく、市民主権の地方自治的な考えを主体としたものを、今までになく考え直していくべきだと考える。その上で「国の統治の基本」を考えていく。

私たち日本人は、明治維新以降、明治政府は脱亜入欧のもと近代化を目指し、中央政府主導の産業殖産を目指し、生産力拡大の至上主義を追求し150年来ている。その生産力拡大路線は敗戦により、中央集権から市場経済の活性と民主化が取り入れられたが、根本として変わっていないと思う。そこには、底辺の市民の人権を置き去りにしてきたのではないか。

自民党憲法案に対して、意を唱えるなら敗戦後の70年を振り返り、現行の憲法をどこまで守り大切にしてきたのかの反省から始めるべきではないだろうか。そして、憲法の三大柱である、国民主権と人権尊重と平和主義がより実現できる内容になるように考えるべきだと思う。

国民投票

イギリスのEU離脱の国民投票の結果、離脱に向けてのEUとの条約の内容に、国内でその是非が問われ混乱している。イギリスの離脱協定案が審議中だが、離脱の条約締結に対しての案に与野党のなかでも案に賛否がわかれ、イギリス国内で意見もわかれている。再度国民投票をとの声が上がるほど混乱している。
国民の離脱についての与論を見ていると、イギリス国民は国民投票は、EUの離脱の意味するところとその内容をよく知らないで、離脱するとイギリスの自主性が独自性が得られると短絡的に思い、冷静な判断ではなくそのときの雰囲気と表面的な気持ちだけで、離脱賛成に票を投じたように感じる。

そのイギリスの状況をみて、日本にとって対岸の火事として見るべきではないかと思う。

日本は国政につての国民投票は、憲法改正についてだけです。そのため日本国民は、国民投票にどのように挑んだらよいかを経験していない。そこで、イギリスのEU離脱についての混乱と同じようなことが起きないか心配になってくる。
しかし、イギリスのEU離脱の国民投票はそのやり直しができるが、憲法改正はそうはいかない、改正憲法を施行されたが、問題点があったからとかよくなかったからといって、憲法改正の国民投票をやり直すことはできない。その改正された新しい憲法をまた、改正する手続きを一からしなくてはならない。

自民党は、憲法改正のための国民投票法について、その投票のしやすさを高めるための法改正に意欲的です。しかし、憲法改正の賛否についての意見広告をテレビや新聞などについての規制を厳しくすることには消極的です。
賛否の意見広告が野放図にされると、資金力のある側の賛否についての意見広告であふれてしまうことになる。そうなると、憲法改正の一方だけの賛否についての考えが、刷り込まれてしまうおそれがあります。そうなると、憲法改正についてその賛否を雰囲気で判断していしまい。意見広告が多くなされた方に票が流れてしまうことになる。
これでは、EU離脱を国民投票で決めたイギリスと同じようになってしまう。
先にも書いたが、憲法改正が国民投票で賛成多数になると、新しい憲法が施行されるが、かりにそれはよくなかったからといって、前の憲法に戻すことはできない。再度一から憲法改正の手続きを踏まないといけない。

憲法は国の根幹となるものだから、憲法改正はその雰囲気だけでするものではないです。
まずは、今の憲法のよいところ不都合なところをよく知り考え、新しく出されている憲法の内容を、国民がしっかりと知り考えることができる環境をつくることが重要ではないだろうか。

もう一つ付け加えておく、国民投票法には、最低投票率にいて書かれていない。世界の国の国民投票法を見ても、だいたい50%以上の投票がないと有効にならす、それ以下だと国民投票は成立せず、開票もしないとなっているところが多い。今の憲法改正の国民投票法にそのことを書き込むべきであると思う。なぜならその方が国民の関心も高まり投票率が高まると考えるからです。

情報のとらえかた 見かた

上野千鶴子氏がノイズないところには情報は生まれないという。
Twitterはまさしくノイズの宝庫だ。そのノイズから違和感や疑問を持ちそれにこだわることにより、見えてくるものが大切だと言う。しかしそのノイズもただの雑音で、ただ不愉快に感じられる言葉や、無責任な批判の発言やうわさを拡散させるようなものもあるので注意が必要です。それらのなかから、よいものや必要なものを選び取り、悪いものや不要なものは捨てしまわないと、情報の迷路に迷い込んでしまう。

しかし、Twitterなどのサイバー空間だけでなく、最近のテレビや新聞での報道でも、時々違和感を感じるものがある。私自身社会情勢を分析する専門家ではないが、乏しい知識のなかでニュースを聞いていて、今までとちょっと違うなと思ったり、政治家の発言を聞いていて、なんか変だなと思うことがあるが、その変だなと思ったことをそのままにしておくのではなく、一度調べて見ることが大切だと思う。最近は便利な世の中になり、インターネットで検索すると、様々な情報を様々な観点から調べそれについての情報を得られる。ただ、インターネットの情報は、信頼できる公的な組織のWebサイトでのものはいいが、中には得体の知れない信頼性がないものや、また意図的に間違った情報を載せるところもあれば、それを発信している当事者はそれが正しいと信じ込んでいるが、それについて詳しく検証せずに載せてあるものもあるので注意が必要です。

一言で注意が必要だと言ったが、それらの様々な情報が氾濫している中から、自分にとって有益なものを見つけだしその中から、自分の考えや見方をまとめ、新たな自分の意見を情報として発信していくのが大切になってくる。
インターネットが普及する前は、何か調べ物をしようとすると、本屋さん行って本を買ったり、図書館に行って調べたりしていたので、手間のお金もかかったがものだった。そのため調べ物をするのにも、よく念入り調べた軽はずみに結論をださず注意深く物事を見てそれについて考えていた。
今のようにインターネットが普及し様々な事がわかるようになったが、そのため、その調べた内容は薄く軽い内容になってしまわないように、常に自分に言い聞かせていないといけないだろう。

CNN記者と口論で入館所取り上げ

アメリカのCNNテレビの記者がトランプ大統領の記者会見で口論になり、ホワイトハウスへの入館証を無効にされた。記者はそれを不当だと訴えて連邦地裁は訴えを暫定的にみとめ、トランプ政権に記者に入館証を返す仮処分を命じました。
これに対してトランプ大統領は「私は報道の自由を誰よりも重んじているが、記者はホワイトハウスにいるときは敬意をもった言動をしなければならない。」と話した。

この問題に対してアメリカのメディアは、裁判の決定を支援して、報道の自由を護ることを重視している。たとえ、主張や立場が違うメディアでも、報道の自由が脅威にさらされるときは、全米のメディアは一丸となりそれに立ち向かう。
日本のメディアと大きく違うことです。日本なら、朝日や毎日の記者が取材を受けられなくなれば、読売や産経はkぞって、それは朝日や毎日の報道が悪いからなどの記事をかくのではないだろうか。
たとえ主張が違っても、お互いにそのメディアを認め、主張の違いを戦わせても、取材拒否をした政権のとることには、批判と抗議をするだろうか。

また、トランプ大統領が「私は報道の自由を誰よりも重んじている。記者はホワイトハウスにいるときは敬意を持った言動をしなければならない」は、なんだが、安倍政権の閣僚の言いそうなことで、この言葉の使い方はどこから学んだのだのだろうか。

私は時々冗談で思うことがる。安倍首相はトランプ大統領と親密な関係だと言うが。電話会議をするときに、お互いに自分のいろいろな手法、マスコミとの対応・対処のしかたや、いかにして国民の注意を引いたり逸らしたりするやり方で、このようなことをしたらうまくいったなどの情報交換をしているのではにかと。冗談でおもうことがある。此れは誰にもいえないが。

これかららの教育行政

昭和57年10月号の『世界』に、「教科書検閲の病理」の寄稿文で「根本的対策は、文部省の廃止である。それができなければ、検閲の廃止と『指導料量』の廃止である。それができなければ、検閲内容の公開と、問題点の公開討議である」と加藤周一が岩波の月刊誌世界に執筆している。

加藤周一が57年に『世界』書いたことは、戦後しばらくしての1948年に、教育刷新委員会第十特別委員会(後に廃止)の文部省改革委員会での提言案にある「文部省は学芸及び教育の普及について、必要且つ適切な諸般のサービスを提供し、教育の分権に伴ひ、地方において行なわれる教育に対しては充分なる援助を与ふると共に、あくまで基本的人権を尊重して精神活動の自由を保障するすることをその主要な任務として、いやしくも、国家権力をもって、学芸及び教育の実体に干渉を加ふることのないようにせねばならない。また、その任務の遂行に当たっても、文部当局は、できうる限り民意を尊重して独善におちいるがごときを避けなければならない」と提言していることを踏まえてのことであると思われる。

教育刷新委員会が開かれてたのは戦後直後のことを考えると、戦前に尋常小学校が国民学校に改変され、学校に将校が配属され、軍部が教育に干渉し教育の自由が奪われていった。当時の日本では高等教育を受けるものは、ごく少数であったが大正時代や昭和初期は旧制高校などはには自由な雰囲気があり、学問の自立性は保たれていたようだが、大政翼賛挙国一致のもと、旧制中学高校とも小学校と同じく軍部の干渉が及んでいった。
そして、国全体が大東亜戦争へと駆り出されていきその要ととして、学校が重要な役割を果たすために利用されていったことは周知のことです。

そのとに対して、終戦直後、日本国憲法のもと教育のありかたと文部省のあり方が議論され、文部省の名称も教育省や文化省などと改めたらとの意見もあったという。教育が自由で民主的な方向に進むようにと、教育刷新委員会が持たれ、多くの人がどのようにすればよいか意見を出し合ったという。
しかし、それから60年近くたった、第一次安部政権のときに教育基本法が改正?改悪され、その後の文科行政をみていると、戦後の進められた刷新会議の理想は無くなっていき。いまは、文科行政は政権の施策を推し量るように進めれれているようです。

昭和57年と言えば、私が教職についてから数年たっているが、教壇に立ったころと退職するころと比べると、中学校の男子生徒は市の一校を除いて丸刈りで、管理教育が問題だとそれていた。そして、しだいに個性を生かす教育とかゆとりある教育などの取り組みが行なわれた。個性豊かな人として尊重される教育が学校で本当に行われているかと問うと。退職したころと教職に就いたそのころと今を比べると、生徒の個性を尊重する指導というが、教育データは数値かされデジタル化され、巧みに管理教育が強化され進んでいると感じる。また、指導の現場では結果を出すことが求められてきている。

さらに、柴山文科相は就任した記者会見で、教育勅語の認識を問われ、「現代風に解釈され、アレンジした形で、道徳などに使うことができる分野は十分にある」と発言、菅官房長官は柴山相にその真意の確認などは、必要はないしてその発言を容認した。また、政府は昨年3月に、教育勅語の教育現場での活用を「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」としています。そもそも、教育勅語は衆議院で日本国憲法第98条(最高法規)の本旨に基づいて排除する。参議院でも日本国憲法に則って教育基本法を制定した結果として、教育勅語は既に廃止され効力を失っていると決議しています。それなのに、憲法や教育基本法等に反しないような形とはどういうことだろう。教育勅語をよく読むと、現行憲法にそぐわないものだし、改正前の教育基本法にもそぐわないし、第一次安倍政権のときに改正した教育基本法にもそぐわないといえまる。
それなのに、教育行政のトップである文科相がアレンジしたら使えると言うのは、教育勅語の復活をもくろむような発言といえる。70年前の刷新委員会の提言案とは反対の方向に進んでいると感じる。

この教育の反動的な流れは、安倍政権になってますますその流れはつよくなり、国家神道や皇国史観を理想とする人たちの思いを、国民にも押し付けようとしていると思えてならないです。

本来、人間は個人的な内心の自由がありそれを、自由にいつでも表現できることが、人として生きがいを感じるものです。しかし、教育勅語には家族は助け合うなど良いことが書いてあるので教育に仕えるというが。教育勅語に書かれている一番重要な点は、天皇の正当性と、天皇のために身を殉せということです。天皇制の国体を守ることが一番大切だと書かれている。
しかし、それは伏せて道徳教育に使えるというのは、その裏に何かを隠していることはそう考えると透けて見えます。そもそも人の道徳観・倫理観は人それぞれで違うもので、画一的に金太郎飴のような道徳観などはないものです。しかし、教育勅語は天皇のために国民は一つになりなりなさいとといている。そして、それは、戦前の教育で余計なことを思い考えず、小国民として生きろと訓導された。それを、教育勅語復活させよとする人は、それも復活させよとしているといえる。

積極的平和主義とは

三つの「積極的平和主義」
一つは、ノルウェーの平和学者であるヨハン・ガルトゥング(1930年- )が、1958年に提唱した、戦争のない状態を平和と捉える「消極的平和」に対し、貧困、抑圧、差別など構造的暴力のない状態を「積極的平和(Positive Peace)」と定義している。

二つ目は、国防会議事務局長を勤めた、久保卓也(1921年-1980年)が、9条の平和主義は「しない」が基礎だが「平和の創出のため」国外に向けて何か「する」する事が大事だと提唱していた。

三つ目は安倍晋三の、積極的平和主義だが、これはトランプ流にいう、「力による平和主義」の方が的を射ているように感じる。
安倍首相の「積極的平和主義」(Proactive Contributor to Peace)は、「平和への積極的な貢献」で「同盟国である米国を始めとする関係国と連携しながら、地域及び国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に寄与していく」だが、米国は、諸外国での軍事活動で、どこまで地域や国際社会の平和や安定に寄与しているかです。イラクやアフガンを見ても地域の安定に寄与しているかとは言えないです。つまり米国に従属しての積極的貢献をするなら、米国の軍事活動を支援するこちになりはしないかということです。

おまけにもう一つの、積極的平和主義
シンクタンク・日本国際フォーラム理事長の伊藤憲一が1991に次のようにと唱えている。
憲法は日本の積極的な国際的貢献を禁じているどころか、むしろそれを求めていると考える。憲法はその第九条で「加害者にならない」ための禁欲的自己規制(すなわち消極的平和主義)を打ち出す一方で、前文のなかで「貢献者となる」ための利他的自己犠牲(すなわち積極的平和主義)を宣言している。

日本国憲法の前文と9条1には次のようにある。
前文
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

参考 Wikipedia

自己責任論に思う

安田さんの解放がされ、ちまたでは自己責任論が渦巻いてきている。ただの旅行者が物見遊山気分で出かけて行ってなら、自己責任論で片づけていいかもしれないが、それでも登山などで遭難した人には、人命救助のために二次遭難の危険性があっても、救助活動がおこなわれたりすうる。それこそ自己責任論を言う人は、自分が物見遊山で山登りをしたときに、遭難しても救助隊が出動しなくてもよいというのだろうか。
戦地や危険地帯に取材活動に潜入する人は、物見遊山で入っているのではなく、ちゃんと安全の遣り繰り段段はしているが、危険地帯であるからその想定外もありこのようなことが起きる、それはその想定が甘いと言われたらそれは確かです。しかしだからと言って、一方的に批判だけしてよいのでしょうか。戦地を取材するジャーナリストは一般の事件や事故や政治につて取材するジャーナリストとはまた、違う使命感を持っていてそれが先走りすることもあるが、それを先走りしたからと批判してしまうと、戦場のジャーナリストを萎縮させてしまい自己規制をして、本当に戦場で起きたことを、平和に凡凡と暮らしている私たちは知ることができなくなります。

なんだが、安田さんのことで、自己責任論が高まることが恐ろしく感じる。この件だけでなく私たちの日常生活の中でも、生活困窮者に対しての援助を努力が足りないのだ、生活保護などをもっと切り捨てろという方向に進まないか心配です。
身体障碍者が障害者年金を使って生活支援サービスで、映画を見に行く旅行をするなどを、贅沢だと批判をする人がいた。それは、障碍者が生活の質を高める活動をしてはいけないということになります。
かなり、例えがそれてもしているが、私たち平和に暮らしている者ほど、いま、戦地で混乱地帯で何がおきているかをしるべきです。それにより、それは変だおかしいという声を上げることが、国際輿論うまれていき変革がされるきっかけになるものだとおもう。

改憲論と護憲論

坐禅のテキストとして、古くからもっともよく読まれている、天台大師智顗が書き著した「天台小止観」があるが、そのなかに

偏修禅定福徳 不学智慧 名之曰愚
偏学智慧 不修禅定福徳 名之曰狂

これを関口真大は岩波文庫の天台小止観で次のように和訳している。
○故に経にいわく、
「偏えに禅定福徳を修して智慧を学せざるは  これを名づけて愚といい
 偏えに智慧を学して禅定福徳を修せざるは  これを名づけて狂という」

禅定や福徳ばかりに修行に励んでも、物事の善悪の分別を学ぶのを疎かにするのは、愚かだ
逆に物事の善悪の分別ばかりを学び、禅定や福徳を疎かにするのは、狂っている

といっている。

このこと、学問や政治のことにも言える。

NHKのeテレの番組に、フランケンシュタインの誘惑という番組があるが、これは科学者がその探究心のあまりその倫理的な一線を越えることはどうかと問いかけるものだが、これはその狂のほうだろう。

政治などでも、いま日本では憲法改正特に9条をどうするかについて、まちの書店などでも、改憲派、護憲派の本が平積みされている。
しかし、これらの本を手に取ってみると、現実を見ずに平和論ばかり唱えいる愚かと、改憲ありきの狂の論の本ばかりのようだ。

私は今の日本国憲法は理想とすべきこと多く書かれているが、日本が占領時代から一つの国としての主権を持った国としての、国の護りをどうするかについては、現実に合わなくなっている点があると考える。また、今の安倍政権の暴走を許しその暴走は違憲であると歯止めをかける文言が書かれていないです。

9条の問題に関しては、日米地位協定により主権なき軍事防衛になっているのが現状だと言うが、このことについては長くなり論点がそれるので今は書かない。
しかし、安倍政権により顕わになった権力の暴走がつづくが、それをどう歯止めをかけ、権力者の頭に暴走しないように緊箍呪を嵌める事も必要でしょう。

一面だけの改憲論や護憲一本やりの護憲論は、この狂と愚かとしか言えないと私は最近思っている。

通販生活の「通販生活の読み物」で 憲法改正の国民投票法の記事が載っている

通販生活のWebページ、「通販生活の読み物」https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/0023/に、憲法改正にかんれんする、国民投票について特集されている。

柳澤協二氏、伊勢崎賢治氏、加藤朗氏が論壇している。憲法改正と、国民投票について考える機会になります。

是非必読すべきでしょう。

私は今までこのページを知らなかったが、なかなか中身が濃いので、これからチョクチョク立ち寄ってみようと思う。

ホモ・サピエンスどうしの違い

私たち人間は、ホモ・サピエンス誕生のDNAを受け継ぎ、西欧人も東洋人もアマゾンの奥地で未開で過している人と大きくかわらない。
しかし、その精神状態は、キリスト教やイスラム教また仏教や儒教など信仰とそれによる文化により違う。さらに近代的な技術のITやAIの製品の中に入る人と、それらの機器がないアマゾンの奥地で暮らしている人も違う。新自由経済の中でくらしている人、モンゴルの草原で遊牧の生活をしている人やアフリカの狩猟採集民とは、心理状態は大きく違う。キリスト教やイスラム教は絶対神の一神教で仏教や儒教には神はなく自分の内面に問いかけている。また、多神教などの宗教などとも違う。
しかし、クレジットカードを使い鉄道を利用するのに、自動券売機で乗車券を買ったり、ICパスを利用したり、テレビやスマホで連絡をとりあう私たちと、
今までそれらの文化的なものに接したことがない民族の人は、原始的のでそれらを使いこなせないというのは誤りで、それらの使い方を教えると数年で使いこなせるようになる。つまり、東京やニューヨークに住んでいる人も、アマゾンの奥地で生活している人も、同じだということです。
しかし、同じ地域で暮らし信仰をしている宗教が同じでも、その人が権力を握っている人か被支配されている人かによっても違い、同じ階層の人でもその生活の裕福さ貧富の差によりその心理状態は大きく違うでしょう。
それぞれ、その人の個は違い現代社会ではそれらは独立した一つの個で、それらの個は自由に生き自由に表現する権利があるとされている。しかし、それぞれの個を律するものが、宗教は社会規範や法律によって制限されているが。それぞれのその人の生きている環境によって違う。キリスト教とイスラム教の規範はちがうし、その人の生きている経済制度によってもことなる、資本主義社会と絶対主義社会や社会主義社会ではもちがう。資本主義社会とくに現在の新自由主義の資本主義と計画経済の社会主義と修正社会主義や自由経済を導入した社会主義とでも違う。

人の生態的な違いはなくても、それぞれの社会環境によりその精神は大きく違ってきている。いまはこの方が、人同士の精神的な格差をも産みだして問題ではないだろうか。

民主主義はまもれるか

サピエンス全史を著したユヴァル・ノア・ハラリが新著「ホモ・デウス」で、民主的な選挙が行われることについて、有権者は「少なくとも理論上は、有権者は自分の心の奥底の気持ちに耳を傾け、それに従えばいい。」と述べている。しかしそれは簡単なことではないと言っている。私自身も国政選挙に限らず住んでいる自治体の首長や議員を選ぶ選挙で、組合の推す人に票を入れた方が多い。それは、立候補した人の訴えているもの、人なりをよくしらないので、立候補者の所属している党や団体などを選んで投票したりした。
それでは、退職して動員票を投票する束縛がなくなったからといて、必ずしもハラリが言うように、自分の心の奥底の気持ちに従って投票したかと言うと、情報があまりにも偏っているので、それに左右されたり自分の信条に対して過去のその立候補者の所属している組織がそれに近いかかけ離れているかを見て、投票所に行っている。
また、ハラリはもっと有権者を惑わすものがると言う「空虚なプロパガンダのスローガンや、無慈悲な政治家の果てしない嘘、狡猾な情報操作の専門家による、人に気を散らす雑音、雇われた専門家の学識に満ちた意見を篩にかけて取り除く必要がある」と述べている。それによりようやく自分の本当に票を入れるに価する人かがわかる。しかし、人の気を散らす雑音などは巧妙に仕組まれてだれそれに投票するように囁いてくる。
今回の自民党の総裁選ではそれがあからさまの行なわれ、自民党の国会議員や党員だけでなく、国民にも公に漏れ伝えられそれを聴き見ることになった。
それを考えうると、安倍首相は今度の臨時国会にでも憲法改正案を国会に出し、2020年度までには憲法改正をすることを明言している。憲法改正のための国民投票法をでは、ハラリが民主的な投票を損なうものとしてる。そのことが憲法改正の宣伝広告で、空虚なプロパガンダや、無慈悲な政治家の嘘、狡猾な情報操作やその雑音などの宣伝広告が、テレビやラジオや新聞や街のポスターなどで制限なくばら撒かれることになるのではないかと、自民党の総裁選を見ていて、これから安倍総裁のもとでの自民党の選挙運動や憲法改正の国民投票の意見広告運動などで、総裁選で行なわれたこと以上のことになるのではないかと心配する。

先人の民主主義についての言葉

キング牧師の言葉
最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく善人の沈黙だ。

アメリカ第44代オバマ大統領の言葉
民主主義の最大の敵は、ホワイトハウスの個人ではない。人々の無関心だ。あなたが政治に飽き、投票日に家にいることが最大の脅威だ

インド独立の父マハトマ・ガンジーのことば
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである

イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルの言葉
民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが

日本の歴史作家 塩野七生の言葉
日本人に違和感を感じるのは「信じすぎ」だと言うこと。民主主義も万全ではない。それなのに民主主義は絶対的な善でそれに任せればすべて上手く行くと思っている。

プラトンの言葉
民主主義は自然と独裁者を生む。全く自由の中から、横暴極まる圧政と奴隷制度をもたらす

アメリカ第35代 大統領ジョン・F・ケネディの言葉
一人の有権者が民主主義に対して無知であることは、あらゆる安全を低下させる。

哲学者ノーム・チョムスキー の言葉
民主主義社会には二つの概念があり、前者は大衆が情報にアクセスでき、意志決定に参加し影響を及ぼすことが出来る社会のことをいい、後者は大衆を意思決定に参加させず、情報のアクセスは巧妙に管理される社会のことである。

明治礼賛と国体論と国家神道

明治維新150年とテレビや出版界が騒がしです。それもあってではないが、最近出た本で白井聡の「国体論 菊と星条旗」と言う本が売れている。それはともかく、明治と言う時代をよい時代だと讃えたりされている。また、国体と言う言葉、国家神道と言う言葉、敗戦と同時に消え去ったはずの言葉だが、また復活してきている。
国家神道とは征夷大将軍である徳川幕府は天皇家から、異民族や賊をうつ大将としてお墨付き将軍としてのはんもつを得ていたが、それを天皇家にかえしたてまつった。しかし天皇が諸藩をまとめていくには、権威というものが必要になり、その一つとして国家神道が作られたものといえる。

しかし、江戸時代は太平の世のなかで大きな混乱がなかった。ところが明治維新以降の天皇主権の政治になり、天皇家が治政をとりだすと、西南の役や日清戦争・日露戦争・日中戦争と戦争をし続けるようになり、最後には15年戦争で日本中が日本の民に災難が降り注いでしまった。その敗戦により天皇主権から国民主権になり70年間の平和な時がながれている。

「われ深き罪におこなはれ、愁鬱浅からず。速やかにかに功力をもって、かの科を救わんと思ふ莫太の行業を、しかしながら三悪道に投げ込み、その力をもって、日本国の大魔縁となり、皇を取って民とならし、民を皇となさん」と、自分舌を噛み切りその血で呪詛をしたためて、死後怨霊となったといわれる、崇徳院の言葉を思い出す。実際の崇徳院が死んでから、京では疫病が流行り災厄が頻発し市中は多くの人が死んだと言われている。

70年前に日本は戦争に駆り出された多くの人が戦地で餓死し、沖縄は日本の捨て石にされ、原爆を落とされ大都市の市中は焼夷弾で焼け野原になった。しかし、大日本帝国憲法から日本国憲法にないり、いま戦争をしない国となり平和な世のが続いている。しかし国体や国家神道が叫ばれ、天皇を頂点とする国が日本の本当のよき美しい国の姿だと言う人がいる。そのように、天皇が政治の表舞台で執権を采ることになると、再び崇徳上皇の怨念の祟りがこの日本に降り注ぐのではないだろうかと思ってしまう。

ルーマニアの政権交代

ソ連が崩壊した後、東欧国も共産主義からロシア側につく国と、西欧側につく国があったが、それらの国で血を流すことはなく、共産党政権から政権移行された。しかしルーマニアの独裁者チャウシェセスクは、演説の途中群衆の言葉に絶句して演説を続けることができなくなった。直ちに国営放送のテレビ局は放送を中断されたが、カメラは空を映し音声はその音声を流し続けた、それによりルーマニア国民はそれを固唾をのんで見ていた。
その後、チャウシェスクは逮捕されろくに裁判にもかけられることなく銃殺刑になった。そればかりか、1000人以上に人が殺害されたという。
私は、チャウシェスクが床に倒れている映像を見て絶句したが、その当初わたしは、単に民衆の暴動の暴走が起こしたものと思っていた。しかしことはそう単純なものではなかったようです。ルーマニアのチャウシェスク政権は、ゴルバチョクのペレストロイカに同調せす、また西側にも与しようとせず、東側とも西側ともどちらにも属そうとしなかった、それに苛立った西側が仕掛けたものだとの見方が言われたが、実情は共産党内の穏健派がチャウシェスク独裁の強行派のこれからの先行きを憂いてのクーデターが起こしたものだったようです。

ルーマニアは当時東欧でも最貧国といわれていたが、独裁者チャウシェスクは大きな屋敷に住んでいたので、民衆は贅沢な暮らしをしていると思われていた。しかしその屋敷の内部がその後しばらくして公開されると、フィリピンのマルコス大統領のように贅沢三昧な生活でなく、当時より豊かになったルーマニアの庶民の生活から見て質素なものだった。豪華な生活をしていたのではと見てい人らは、その実情をみて期待を裏切られたようです。

しかし、それはともかく、チャウシェスクの最後の演説のの映像をみると、貧しくとも大樹であるソ連や後のロシアに与せず、西側の諸国とも与せず自国のアイデンティティを大切にし、独自路線を貫こうとした独裁政権の最期を見るようであわれである。

この映像を見ると、現在二つの国の行く末がこのような末路を取るのではないかと想像してしまった。
Nicolae Ceausescu LAST SPEECH

民主主義で寛容の重要性

私は、現代の民主主義において大切なものの一つに、寛容の大系を尊重し守ことだと思っている。それは思想や言論や表現の自由を保障し守り、自分と違いう主義や主張にもその価値を認め保障することのはずだと思っている。
しかし現在の巷のヘートスピーチをする人や、ネトウヨの書き込みをする人たちには、その言動の内容から民主主義の大切なものをよく理解することができないようです。もっと深刻なことは、言論の自由が最も保障されるべく議会制度の牙城であるはずの国政の場の国会でも、そのことを理解していない人がいることです。
ものごとは、相対主義的に考え、知識や価値は個人として相対的において適切なものです。絶対主義のように至上の権力がありそれが正しいものとして、専制的ななかで物事が決められていくべきではないです。

安倍首相は決められる政治とよく言うが、民主主義の政治においては、ものごとを決めるには時間がかかるものです、即決して決められるものではないです。短絡的に見た目をみるなら、絶対主義的にものごとを法に従ってきめていき、決められない時は法を捻じ曲げて解釈したり、法を変えてしまうそのような政治の有り方は、実行力があるように見えるがそれは、民意を掬い上げているとは到底言えないものです。
民主主義は寛容であらねばならないが、寛容であることを否定する不寛容な人まで寛容でなくていいのであって。自分に近い人や主義主張が近い人には厚遇するが、一たび自分を批判する人は冷遇する、まさしく寛容と言う言葉が辞書に無いものまで、寛容である必要はなくそのようなものに対して寛容であるなら、宋襄の仁となってしまうことになる。
独裁政治は自分たちに忠誠を誓うものには寛容であり、そのものたちにの活動には手厚い庇護をし自由を与え寛容です。それにより庇護や恩恵を受けるものは、寛容な独裁者を民主的だといい自由の女神だと言ったりする。しかし、忠誠でなかったり反体制的なら寛容でなく取り締まることにないる。

そうなれば気がつけば隣の北の王朝のようになり、そこでは権力者が求心力をもつために、庶民は言いたいことが言えない暗黒の政治体制になってしまう。そうすれば、やがて、政治を信頼することができなくななり、国民は無気力になり何も言わなくなるでしょう。そうなれば自由な経済活動もできなくなり経済もさらに停滞していくしかないです。そうなれば経済を活性化するために、計画経済の国のような経済政策をしたり、大きな公共投資を目論んだりすることになる。それが、今の五輪への刺激策であり、万博でありリニアであるだろう。そかし、よいのだろうか。

政治の寛容と不寛容

明治の黎明期に自由民権運動が起こり、日本各地で私義憲法案が作られた。その中には国民の抵抗権を明記されたものもある。国が国民の自由と権利を侵害したとき、国民はそれに抵抗権利は正当だとういうものです。江戸時代でいう一揆をする権利を認めるものです。

民主主義の現代においては暴力で、政府を倒すことはそれは内乱にあたり、認められないといえます。その代わり、国民は暴力の代わりに選挙によって解決すべきだとしています。そのためには言論の自由が保障され、また議会では言論での争いがされることが前提といえます。しかし、いまの国会はその言論が戦わされる機能が空回りして、政権のシナリオにそって、強引に進められているのではないだろうか。政権を持っているがわが、反対意見に耳を傾けそれに応えるという寛容な態度が見られなくなっている。
また、テレビやラジオや新聞などの報道機関にたいしては、公平公正といいその表現の自由の定義が狭められてきているのではないだろうか。総務大臣が放送内容によっては局の停波もありうる、すなわち放送認可を取り消したり一次停止させたり出来るともいって、放送事業者に圧力をかけています。

デモや集会をするにしても、カメラを持った警察官やってきて写真を撮り、そのデモの行い方に規制をかけて圧力をかえます。また、その規制ラインを少しでも踏み越えると逮捕され、数ヶ月以上に渡って拘留されるとことが、沖縄の辺野古などで起きている。これも政権側の施策に異を唱える者に対して寛容でないからでしょう。

また、権力者だけでなくヘートスピーチやネトウヨのネットへの書き込みでの炎上をみていると、異をトナエる者を許さないと言う攻撃をしてきます。

裁判も三権分立が保障されているが司法が権力からの独立・中立でなく、砂川裁判を前例として司法は関与しないと言う立場に立ったり、行政側が勝訴することが多いです。

民主主義は寛容をたてることがすじみちでそれが組織の秩序になる言われる。それが思想や言論の自由があるはずです。議会では活発な論戦が戦わされることにあるのではないか。少数意見が将来は多数になり得るもので、その変化に応じて政権の交代が起こるべきおとを、受け入れるべきです。
しかし、いまの国会をみていると、野党の乱立による自民党の一強と野党が一つにまとまらないことをいいことに、自民党は柔軟性を失ってしまっているのではないか。それをよことに国会では強行採決をする不寛容さを、見せつけることが繰り返されている。

70年頃以前の学生運動でのデモでは、過剰規制に反発して投石やゲバ棒で対抗するなど過激になっていった。しかし今の国会前のデモや集会をみても、かつてのようなアジ演説や過激な行動はなく、個人個人がその思いを表現しています。
その声を上げる側が、おとなしいことをよいことに、国会の外の声を聞かずに、強行採決を繰り返したり、その声が大音量について、テロと同じだと威圧的な言動をして封じ込めようとする。このような不寛容な振る舞いの為政者にたいして、民主主義はどのように対応したらよいのだろうか。
■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

記事の整理棚
禅 (2)
最新の30の記事
月別の過去の記事
05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   09   08  
単語による記事検索
竹林の過去の戯言のタイトル

過去の記事タイトルを100件づつ表示します

記事へのコメント
  • 維新の会 丸山穂高氏の発言 記事追加
    竹林泉水 (05/16)
    私は丸山氏の日頃の言動をよく知らないので、何とも言えないがマスコミやネットなどを見ていると、もともと議会制民主主義の国会議員としてのあるべき資質を否定しているよ
  • 維新の会 丸山穂高氏の発言 記事追加
    アジシオ次郎 (05/15)
    おはようございます。

    その場の勢いで言ってしまったと言えばそれまでだが、政治家がこのような発言をすることは大変不適切で国内外で問題になりかねないレベルです。

  • 日米首脳会談と拉致と核の問題
    竹林泉水 (05/04)
    北朝鮮が日本を攻撃する可能性は極めて低いです。しかし、在日米軍基地を攻撃する可能性はあるが、そうなうとアメリカは我が国の基地が攻撃されたとして真珠湾の時のように
  • 日米首脳会談と拉致と核の問題
    風と雲 (05/02)
    全くお説の通りと思います。北の非核化が進まない限り拉致問題は解決されないように仕向けているのは政権の狙いでしょう。国民の大半が拉致家族に同情していることをいいこ
  • プラスチック
    アジシオ次郎 (04/27)
    おはようございます。

    プラスチック製のストローやコップを廃止する動きが目立つ現代、海洋プラスチックゴミの問題を受けての措置だが、プラスチックゴミを減らす為には
  • タイタニックジョーク
    竹林泉水 (04/19)
    アジシオ次郎さんコメントありがとうございます
    最近、空気を読めないとかいろいろと自己主張をする人を、悪く言うならまだしも排除しようとするそれれこそ空気が流れてい
  • タイタニックジョーク
    アジシオ次郎 (04/19)
    おはようございます。

    日本人は自主性がなく誰かのすることに右に倣えをする国民性だとエスニックジョークのネタになっているけど、確かに日本人は指示待ち族が多く、自
  • ドイツの戦争補償
    竹林泉水 (04/03)
    コメントありがとうございます。

    私は過去の歴史を正面から見つめて振り返れり、過ち過ちとして認めることから始めるべきでだと考えます。
    しかし、敗戦時に連合国のポツ
  • ドイツの戦争補償
    風と雲 (04/01)
    大きくなるに従って、食べ物が良くなっていき、物が豊富になっていくのは自分の成長の故と思っていたのが、実は戦争があって痛めつけられた中から復興が進んでいたのだと分
  • 記事へのトラックバック
    ブロとも一覧

    うたのすけ

    山下道場

    荒野鷹虎

    海空居士

    紀瀬美香

    marihime

    お父さんの旅

    キラベル

    silver camellia

    kbrkのつぶやき

    魚京童!

    俊樹

    アジシオ次郎

    ほんわか?絵日記

    吾輩と旅と副業

    Chronos Moon

    ざっくり読書感想文

    Taiwa Sato

    びとら

    Resale Japan

    QWERT 5w1h

    (o ̄∇ ̄o)♪

    HIROGACHAN+

    しんのすけたろ

    勝ち組の日経225

    ハセッチブログ

    五月雨 時雨

    諭吉

    さくらさくら1

    不思議な不正義2
    ブロとも 申請フォーム

    竹林乃方丈庵のブロとも申請はこちらからです。

    Webページへのリンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    更新履歴
    今日の暦と天気

    日めくりカレンダの説明

    ■2016年旧暦 日月の出入■

    04 | 2019/05 | 06
    ---1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    262728293031-

    ★☆今宵の夜空☆★

    NHKらじる★らじる
    大阪東京第2FM大阪
    何の日



    ご訪問ありがとうございます
    竹林泉水のTwitter
    FC2掲示板
    [ブログ記事へのコメント 掲示板のレス 感想など]
    ■□FC2のブログ□■
    _/_/_/竹林乃方丈庵を_/_/_/
    _/_/_/ リンクに追加 _/_/_/
    □■□■徒然諸諸■□■□ □■□■心の時代■□■□ □■□■息身心/健康■□■□ ----- □■□■厚生福祉■□■□ □■□■その他■□■□
    □■FC2以外のブログ■□
    諸諸 徒然 「身・息・心」 こころの時代
    RSSリンクの表示
    QRコード
    QR