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食べることは殺生をすること

先日、能の殺生をして地獄に落ちる三つの曲の話をかいたが、殺生についてどのように考えたらよいのだろうか。
人に限らず生き物は殺生せずには生きていくことができないものです。仏教では殺生を禁じているので、精進料理という菜食料理がある。しかし、これも四足の動物や魚などを食べないだけで、植物の生は奪っているのです。
この善知鳥 阿漕 鵜飼は単に生きるための殺生だけで、地獄に落ちる苦しみを受けるのではなく、阿漕も鵜飼も禁制を破って漁をしたため、住民らに簀巻きにされ海に沈められてしまったものです。善知鳥は、親鳥がウトウと鳴けば子鳥がヤスタカと鳴く、親子の絆の深いのを利用して親鳥子鳥をもろとも獲ってしまうことから地獄に落ちるものです。
しかしこれらも好き好んで殺生になる漁をしているのではなく、生活のために働く必要のない気楽な琴碁書画をたしなむ人や殺生に関係ない士農工商の家にも生れてず、生まれながら生きるための糧をえるため殺生をせざるをえない人です。
ここには貴賤の考えがあるが、鵜飼は善行があれば救われるという、「阿弥陀の本願は悪人を救うことが目的であり、悪人の自覚を持つ者こそ往生するにふさわしい機根であるという」親鸞の悪人正機説があるのでしょう。

殺生につて考えると私たち動物は、他の生き物の生命を奪いながら出しかその命を存えていくしかないのです。自分たちの目の前にある食べ物には多くの殺生があって、また多くの人の努力があってここに届いていることをしり、それをありがたく戴くことに感謝しなくてはならないでしょう。

しかし、最近の私たちの食にまつわるものを見ると、多くの殺生があって目の前に届いていることを、見て見ぬふりをしたり蔑ろにしたりしてしまています。しかし、テレビ番組では科学商業が先進した国だけでなく、途上の国での食文化は素朴なものがあり、食材を無駄にせずに感謝をこめて料理をしていくことが紹介されているものもあります。殺生をしてありがたく食べ物を有り難く戴いていく、そしてこの食前に届くまで多くの人があれこれかけ走りまわって遣り繰り算段がされてきたことに対して、御馳走様と気持ちを表さないといけないと思いました。

よくよく考えれば、戴きます、御馳走様とういう言葉を私は疎かにしているころに反省しなくてはいけないです。

気になっている言葉

佛遺教経
足知の者は貧しと雖も富めり、
不足知の者は富めりと雖も貧し

孔子
足を知ること知る者は心安らかなり

ホセ・ムヒカ
貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ

最近の経済がグローバル化し、新自由主義経済と一国第一主義、保護主義経済などをみていると。
富めるものはますます富を集め、その集塵力も強まっている。

岡倉天心
もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。


これから、人として個人の自由を自覚して生きていくために、無限夫欲を捨て、足を知り、エレクトロザウルスに支配しうる能力を付けられるのか。付けられないならエレクトロザウルスから離れることを選べる選択肢もあってほし。

志村史夫
あくまでも、エレクトロザウルスを調教し支配するのは人間である。しかし、またわれわれが、エレクトロザウルスを支配すべき人間であることを自覚し、それを支配し得る能力、知力を身に着けない限り、われわれ自信がエレクトロザウルスに支配される可能性があることも否めない事実である。(砂からのエレクトロザウルス)

論語
其の鬼に非ざるして之を祭るは諂うなり、義を見て為さざるは勇無きなり

二人に偉人の言葉

ガンジーの有名なことばがある。「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」。この言葉は、社会運動や思想的なことだけでなく、日々の生活のなかでの、幸福追求のことにも言えるであろう。

ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領ホセ・ムヒカの言葉
あなたが生きている限り、他者との衝突は避けられない、。大事なのは、対立を起こさないことではなく、どうやって対立を解決していくかということです。
あなたが対立に対して闘争しないと社会は変わっていかない。


一年の終わりに考えて、新年に向かう

今年もいよいよ、残すところ今日だけになりました。

良寛禅師の言葉で、この一年自分はどのような行いをしてきたかを振り返ってみます。

こころあさくおもはるるは
 ・おさなきものをたかしてなぐさむ
   子どもをからかって楽しむ
 ・目なきものをなぶりてなぐさむ
   障害者を莫迦にする
 ・人をおだててなぐさむ
   わざとをおだてて裏で莫迦にする
 ・しもべをつかふにことばのあらけなき
   部下を罵ったりに口汚くものを言う
 ・人にものくれぬさきにそのことをいふ
   今度ものを提供すると勿体ぶる

こころよからぬものは
 ・くちのうちでものいふ
   言語不明瞭意味不明
 ・ことばにたくみある
   物言いがわざとらしさがある
 ・さもなくてあるべきことをきつくいふ
   大したことでないのに、そうなるのが当然だという力んでいう

たえがたきものは
 ・ものいひはてしなき
   温泉のライオンのように、絶え間なくしゃべる

まばゆきもほは
 ・むかひほむる
   面と向かって人を褒める

こころろづきなきものは
 ・うれへある人のかたはらに歌う
   悲しんでいる人そばで歌う
 ・ねつかぬ人のかたはらではなしをする
   寝付かれない人のそばで話をする
 ・人をあわただしく起こす
   寝ている人をせわしく起こす
 ・人のかほいろ見ずしえものいふ
   相手の顔を見ずに自分の意見を押し通して話す
 ・ひとのものいひきらぬ中にものいふ
   人の話が終わってない内に、割り込んで話をする
 ・人にものくれてのち人にそのことをいふ
   人にものをあげて、そのことを人に言いふらす

NHK Eテレ 100分de名著 良寛詩歌終 から、
現代ご訳は泉水が加筆

戦争をしない国 明仁天皇メッセージ

戦争をしない国 明仁天皇メッセージ
    戦争をしない国 明仁天皇メッセージ
    

敗戦から、今まで明仁天皇陛下が、皇太子殿下時代から歌として、お言葉として述べられてきた、国民へのメッセージが詰まっています。
今の、明仁天皇がいかに国民のことを思っているかがよくわかります。
それに対して、今の政治のリーダは国民より、宗主国?の方に気を遣い、片や相矛盾するようにかつての日本の栄光を夢見ている人の言葉とは大違いです。

この明仁天皇陛下の、歌で詠まれたり、お言葉として国民に向けられたメッセージをよむと。天皇陛下の国民へ向けられる気持ちは並々ならぬものを感じます。

保阪正康氏の「天皇 「君主」の父 「民主」の子」を読んでも、自分が始めた戦争ではないが、過去の戦争の過ちを悔い反省し国民への寄り添ったお考えを持っておられることを感じます。

    天皇 「君主」の父 「民主」の子」

そして、自分は天皇になるしかなく、そのことから逃げることができないことをよく自覚されています。それは、天皇が15歳の時に英語の授業で、「将来、何になりたいか書きなさい」と言う課題に、「I shall be Emperor.(私は必ず天皇になります)」と回答したということです。天皇はこのことについて、1987年9月の即位の1年4ヵ月前にアメリカの報道機関からの質問に、「普通の日本人だった経験がないので、何になりたいと考えたことは一度もありません。皇室以外の道を選べると思ったことはありません」。と答えています。

また、先の戦争で唯一地上戦が行われ、多くの犠牲者をだした、沖縄に対しての思いれも深いものがありあます。皇太子時代に沖縄を訪問する前に、「石ぐらい投げられてもいい。そうしたことに恐れず、県民のなかに入っていきたい」とのべられています。そして、沖縄訪問をしますが石以上の、大きな抗議が皇太子を待っていました。しかし、それ以降も何度も沖縄を訪問し「花よおしやげん(ゆうしゃぎゆう) 人(ふいとう)知らぬ魂 戦(いくさ)ないらぬ世よ(ねらぬゆゆ) 肝(ちむ)に願いて(にがてい)」(花を奉げます 人知れず亡くなった多くの人の魂に 戦争のない世を 心から願って)と詠い。沖縄戦の最激戦地に建てられている『魂魄の塔』に花を奉げています。
そのように沖縄訪問を繰り返すことにより、沖縄の人たちは天皇に好感を抱く人が多いです。
米軍と共同作戦を海外で展開できるようにする首相は、帰れと罵声を浴びされれたのと大違いです。

このほかに、この本には、広島長崎の原爆、自然災害や公害のこと、また戦争で外国に迷惑かけたことなど、そしてこれからの日本がどうあってほしいか、皇太子時代や天皇のメッセージが載っています。

マハトマ・ガンジーの言葉

マハトマ・ガンジーの言葉

ガンジーは、非暴力・非服従闘争で独立運動を進め、インド独立の父と呼ばれています。

「あなたがすることのほとんどは 無意味であるが
 それでもしなくてはならない そうしたことをするのは
 世界を変えるためではなく 世界によって自分が 変えられないようにするためである」


第一次の統一地方選挙の投票もまじかです。先の衆議院選挙は選挙戦の争点がないのに、議会が解散されてのもので、投票所に行かず棄権してた人が多くいました。
それにより、国の政治に無関心な人が多くなり、押しなべて世の中の雰囲気が一つの方向の押し流されているようです。
世の中の流れがどのような方向に流れようとも、自分もそれに押し流されないようにしたいです。ましてや自分自身の真意が分らなくなり、その世の中の方向を自らが推進するよう人にはなりたくないです。自分の意見を持ち他人の意見も聞き入れ、その違いを互に認め合い考え合って、いくことが大切なことだと言えるでしょう。

福沢諭吉の「心訓」

福沢諭吉の「心訓」

一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。
一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。

どれも、現代人にとって耳の痛いことばです。福沢諭吉がこのような言葉をのこしているのは、当時の人々にもこのようなことが足りなかったのでしょう。

この心訓を、今の時代に照らし考えてみました。
一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。
青山を見つけようとしても、労働者派遣法などにより、そこから抜け出せななる人が増え、貧しさ故せれが世代の連鎖が起きている。

一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
昭和60年代ころまでは教養主義が謳歌し、古典を紐解き先人の知恵を吸収してきたが、テレビなどの普及で廃れ、ゲーム機の普及でますますそれが加速しているように思う。

一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。
先に述べてある、一生涯貫く仕事を見つけられないばかりか、日々の生活の糧を得る仕事にもつけない人がいることは、国として危うい以前に人としてさびしいことです。

一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。
ついつい自分と他人を見比べ、隣の家の芝生は青いと言うようにみてしまいます。唯吾知足。

一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
なかなかこのことはできないことですが、一番大切なことだといえるでしょう。しかし、このことはなにも持っていない人ほど、周囲の人の世話をやいたり面倒を見たりして、何らそれによる見返り期待などしていない人がほとんどと言っていいでしょう。
しかし人から尊敬される仕事をしていて一定の成果を上げ、信頼を得て地位を得た人の中の多くは、信頼や地位を得た人ほど、保身に廻ってしまう人が多いようです。自分や周囲の動きがよくないと感じ判っていても、それから目を逸らしたり耳を塞いでしまう。そのこと考えないようにする人もいる。そのうえ、官僚などは自分が粉骨砕身働いたのだから、天下りをして当然だと思っている人がいる。


一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。
このこともなかなかできないことです。自分の夢を実現するためみ、その周囲の人だけでなく、全ての人に気配りを使用とする人が少なくなってきているように思う。また、人だけでなく自然や物に対しても大切にし、それらが周りにあることがために、今の自分があるのだと感謝する気持ちが薄らいでいるのではないだろうか。自然を壊してまでの乱開発や、いらなくなったらすぐに捨ててしまう、古くなったからとまだ使えるのに捨ててしまう。経済の維持のために消費は美徳としているよのなか、全ての物に愛情を持つ事ができなくなってきているのだろうか。それのためか、「遣り繰り」や「算段」や「始末」という言葉を最近使わなくなってしまっている。
 ケニアのワンガリ・マータイさんの「MOTTAINAI」「モッタイナイ」の言葉を思い出す。


一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。
嘘をついて人のお金をだまし取る、詐欺の犯罪はあとを絶たず、年々増え続けています。しかし、嘘をつくのはそのような輩だけでなく。もっとひどい人もいる。最近の政治家は自分の夢の実現のためには、民衆を欺いて嘘を平気でつく人が増えてきているように思う。しかも、自分の夢は正しいことで、誰もが同じ思いだと信じている。

テーマ : 日本古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

ヒットラーの右腕ゲーリングのことば

著名や有名な人物の発言を集めた、ウィキクォートから、

ヒットラーの右腕ゲーリングのことば。
ニュルンベルク裁判で、「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。(中略)しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。(中略)とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。」

そういえば、「ナチを見習えばいい」と言った大臣がいました。また、公共放送の長が「政府が右と言ったことを左とは言えない」といっていました。「私が責任者だ」と言う人も、隣国からの脅威をひたすら言い、後藤さん殺害の事件で政権の対応を質したことに、外交上の秘密で明らかにできないとしながら、それは当たらないと質問者を批判する。
なんか、ゲーリングの言葉がこの日本を闊歩し出してきているように思える。

しかも、今は非常時だと国民に知らして、報道すべきことを自粛したりしている。国民への情報が制限されしまうと、国民は判断材料がすくなくなり、誤った判断をしてしまう。その誤りに気づくのが遅くなったり目を背けたりして、後戻りができなくなることが多い。
そのために、ジャーナリズム精神があるのだが、それもどこかにおいてきているジャーナリストが増えてきているようだ。

Wikipediaより。
報道の自由、言論の自由を含む、政府からの表現の自由は民主主義の基本原則の一つであり]、近代憲法の中で共通の権利として保障されている
このように民主主義国では、政府の干渉からプレスの自由は強く守られているが、記事を入手するために記者がやってよいことには道義的制約が課せられている。プレスの自由の原則から、表現や報道の規制はできる限り法律ではなく、ジャーナリストが自主的に決めた倫理基準によって行われるべきだと考えられている[3]。また、ジャーナリズムの主要な役割に「権力の監視」があり、監視の対象である国家権力にルールの制定・運用を委ねることは不適切でもある[4]。


後藤さんなどは、特定の人が目をそらせたいものを、世界の人に目を向けさせよと、中東の危険な地帯に覚悟して入っている。そのようなジャーナリストは特定の人にとっては、実は五月蠅い存在と言えるのではないだろうか。

テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも
ジャンル : 政治・経済

民これに由らしめるべし これ知らしめるべからず

論語に次のようにある。

泰伯第八 
九 子曰 民可使由之 不可使知之

子曰わく 民これに由らしめるべし これ知らしめるべからず。

国民を従わせることはできるが、それについて国民に説明することはできない。

今から2500年以上の前のことばです。
すでにこのころから民の耳目を覆て、真実を隠すことに時の権力者は腐心していたことを物語っています。

また、書経 冏命に「耳目の官」とある。

耳目の官は、天子の耳となり目となって、国の治安を監視する役職をおく。
耳目の官とは、今風にいうなら秘密警察、昔風にいうなら特高(特別高等警察)、憲兵や敗戦直後の米MPなどもそうであろう。

権力者は国家安泰ため国民の動向が気になり関しするのがつねであろう。

今回のイスラム国による邦人殺害事件により、日本にもテロの危険性が及んできました。それにより警察はテロ対策の特別な組織を作るようです、戦前あった特高のような組織にならないように注視していきたいです。
また、憲法9条が自民党の第二次憲法草案よりもさらに踏み込んだ案を提出し成立を急ぐかもしれない。
確かにテロの驚異を避け取り除く手だてを講じなければならない。だからといて、拙速に憲法を改正改悪することはならないものです。憲法は日本の根幹となるものですから、国民の間で広く深く議論され、国会で審議されていかなければならないものです。そうしないと、時の国会で多数を占めた政党から、国民に押しつけた憲法になってしいまう。まだ、他国から押しつけられた憲法よりましかもしれないが、その中身が民主的で自由と人権などが保障されているかによりその良否が分かれるでしょう。

岡倉覚三 茶の本

1月7日にNHKのEテレの「100分de名著」という番組で、"岡倉天心(覚三)茶の本" を四回シリーズの第一回目をしていました。そのなかで、後援者の大久保喬樹氏が次のように紹介していました。

NHK「100分名著の岡倉天心 茶の本のWebページ」

      NHKテレビテキスト「100分 de 名著」「茶の本」2015年1月

日露戦争に勝ったのと同じころ、新渡戸稲造が英語で「武士道」を著して日本文化を紹介していました。それにより欧米社会は「サムライの国日本」「戦う国日本」というイメージが焼き付きました。ちょうどそのころは西欧諸国は帝国主義、植民地政策を押し進めていたころです。それにより日本は西欧諸国から文明国の仲間入りをさせてもらおうと、帝国主義を旗印にしてあたらしい国を建国しようとしました。
しかし、岡倉天心はそのことに対して、日本には武士道よりもっと深い文化があるとして、「現世のもろもろの事柄は、つまるところ一抹の夢にすぎない、むしろ、茶のようなもっと日常的なものの中に真理・悟りがある」、それが大切なことであり日本はその伝統があるのだとして「茶の本」を著し西欧に紹介した。

当時の日本は日本は今まで鎖国をしていて西欧に比べると遅れているとして、徳川幕府の鎖国時代を一新するため明治政府による廃仏毀釈運動の神道国教化政策と脱亜入欧論が謳歌し、伝統的な日本文かは古いものとされそれら多くが流出していました。しかし、天心はそれを見て嘆き日本には西欧を越える文化があるとして、日本文化の再興をめざし東京美術学校の創設に尽力しました。しかし、決して天心は偏狭な国粋主義者でなく、むしろ逆で進歩的な国際的な感覚の持ち主と言える人でした。

そのことが端的にあらわれている部分は、去年の8月12日に「むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう」という題でlこのブログで書いたことがあります。「血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。」部分を紹介したものです。
ただ、この放送ではその部分を取り上げてなかったです。わたしは、その部分は非常に大切なところだと思うので残念です。何か仏作って眼入れずであり、画竜点睛を欠くに感じます。その部分をわたしなりに見てみようとおもう。
日本が日露戦争に勝ち欧米諸国から注目さえたが、それは文明国というより武力により押し進めるその政策に注目したもので、日本の文化面での理解が得られたのではないと。そして、それより茶の作法、武士であっても刀は茶室に持ち込まず、侍でも庶民でも身分の区別はなく、一緒に茶を楽しむという欧米にはない哲学があるのだと。欧米はそれは幼稚な考えだと言っているが、それが平和を達成するためにたいせつだと天心は言って日本を紹介している。

このことは、21世紀の現代の日本にも言えることではないかと思う、戦後いままで武力を使わない平和主義でいたが、ここにきて時には武力をも使う積極的平和主義が必要だという風潮がでてきている。
内村鑑三が「体表的日本人」の冒頭で、「長く続いた日本の鎖国を非難することは、まことに浅薄な考えであります。日本に鎖国を命じたのは最高の智者であり、日本は、幸いにも、その命にしたがいました、それは、世界にとって良いことでした。今も変わらず良いことであります。世界から隔絶していることは、必ずしもその国にとって不幸ではありません」と書いています。

戦後70年、非戦を貫く平和外交を通じて、他国の戦闘に巻きもまれなかったことは貴重ことです。アメリカの軍事力の傘の下にいたからとしても、アメリカからは軍事力を行使知ることを強いられていました。しかし、今まで政府は憲法を楯にそれを拒んできました。それを愚かなこととして見るのか、また内村鑑三が鎖国政策は悪いことではなかったと言ったことや、岡倉天心が野蛮国に甘んじる・・・云々と言ったように、いままで非戦の平和主義を貫いてきたことを、貴重なこととして見る。その二つの違いよく考え、これからの日本にとってどちらが大切なのかをよく考えてることは重要だとおもいます。

「岡倉天心 茶の本」の放送は、後3回あり、明後日は第1回目の再放送があります。もう一度よく聴いてこの「茶の本」を読んでみようと思います。私は中学の時に美術の先生に紹介され、岩波文庫を買って読んだのでがその時はよくわからなかったです。大学の時にも読み返し、就職してからも読み返してみましたが、まっだまだわからないことばかりです。今度はこの放送を聴きながら、日本の美しい心はとは何かを考えながら読んで、今までより「茶の本」に書かれていることの理解を深めようと思っています。

今ニュースを聴いていと、フランス パリのテロに対する抗議の集会のニュースがありました、そのことを書きます。

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貸せば金と友両方ともに失い、借りれば倹約の心が鈍る

金は貸すのも借りるのも、罷(まか)りならぬ。貸せば、金と友、両方ともに失い、借りれば倹約の心が鈍る。
シェイクスピア『ハムレット』

経済が発展してくると、物作りが産業をのばす時代から、金を動かす金融至上主義になった今の世の中では、借りて貸して金を動かさないと、世の中が廻らなくなってきている。そして、戦前亜節約節約と言っていたが、今は国民に国のために浪費しろというように消費を促がしている。また、少額の金融取引をなけなしでためた国民の預金を、産業発展のためと使わせようとしている。

そのため、老後のための預金や倹約の心は、経済発展のために邪魔になると言わんばかりです。

そのような今の世の中では倹約を「為すべきか為さざるべきか」迷うところです。
しかし、私は始末の極意というか、いま自分の目の前にある物は、食べ物も工業製品も100均の商品もすべて、多くの人の手がかかった物だから、それを粗末に扱うのは忍びないです。また、
大根の葉を料理に使ったり、大根の皮をぬか漬けにしたり、細く切って塩もみをして鰹節子かけて酒の肴にすうる。などなど、食べ物はできるだけ捨てることなく利用して食べたいものです。折角人間に食べられるために、作られ育ってきたので、何でもかんでも簡単に捨ててしまうのは申し訳ないです。

話は、全然違う方向に進んでしまったが、金を疎かに考え扱うとすると、自分の思考まで鈍ってしまうのではないだろうか。

それはともかく、「貸せば、金と友、両方ともに失い、借りれば倹約の心が鈍る」まこと言い得ていることだと思う。
したしい中では金の貸し借りはしない方がよいとよく言われる。貸した方は恩を売ることになり、借りた方は引け目を買うことになる。そして、お金の督促もしにくいので友を無くしてしまうことになる。
もし貸すなら、投資としてするのがよいだろう、投資するのだから相手に目論見書を書かせて、その返金計画や利益が出た時の配当計画も明らかにさせておくべきだろう。これが貸借とするなら相手が返せない時は、相手の財産を差し押さえすることになり、二人の友としての関係は崩れてしまうでしょう。投資なら相手が返済できないことのリスクも覚悟の上だからあきらめもつくでしょう。


ハムレットのなかで、いつも議論される一つの言葉を思い出した。

  [To be,or not to be  That is the question.]

  [在るべきか、在らざるべきか それが問題だ]

  [貸すべきか 可さざるべきか それが問題だ]
  [投資すべきか 投資せざるべきか それが問題だ]

チャーチルの有名な言葉

5日に、 ウィンストン・チャーチルの有名な言葉を紹介しました。彼はジョークが上手な人でも有名でした。

チャーチルの名誉のために他の、彼のよく知られた言葉をいくつか紹介してみます。
「正直であることは立派なこと。しかし正しくあることも大事だ。」
「資本主義の欠点は、幸運を不平等に分配してしまうことだ。社会主義の長所は、不幸を平等に分配することだ。」
「民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」
「私はいつも前もって予言をするのは避けることにしている。なぜなら、事が起こった後に予言する方が優れたやり方だからである。」

最後に、ある女性議員がチャーチルに「もし私があなたの妻だったら、あなたの飲む紅茶に毒を入れるでしょう」と皮肉を言った。それに対してチャーチルは「もし私があなたの夫だったら、喜んでその紅茶を飲むでしょう」と応えた。


もう一つ、「仏弟子の告白」から

もう一つ、「仏弟子の告白」から。

・わたしは、生まれを誇り、また財産と威勢とを誇って陶酔していた。わたしは、身体の形態と容色をひとえに誇っていた。
・自分に等しい者はだれもいないし、また自分よりすぐれた人もいない、と、わたしは考えていた。自分こそすぐれているという慢心に害なわれた愚か者で、しかもおごり高ぶって傲慢であった。
・母をも、父をも、また尊敬されるべき人々と一般に認められている他の人々をも、わたしは敬礼することをしなかった。ーー慢心に高ぶり、敬意をしめすことなく。
・光り輝く太陽のように修行僧の群れから敬われている最上の指導者、最上の御者(ブッダ)を見て、
・わたしは慢心と傲り高ぶりを捨てて、清く澄んだ心で、万人のうちの最上の人の両足に頭をつけて敬礼した。
・自分がすぐれているという慢心も、他人が劣っている軽蔑する慢心も、捨てられ、すっかり根絶された。われはこれこれのものであると思う慢心も断絶された。あらゆる種類の慢心が滅ぼされた。
       王家司祭者の子であるジェンタ長老
            「仏弟子の告白 岩波文庫」

ときどき、このジェンタ長老が悟りを開く前の政治家がいるものです。選挙で当選してジェンタ長老のように、光り輝く指導者に会えばよいのです。しかし往々にして選挙に当選したのは、市民からの洗礼を受けたのだと傲る人がいます。
そのような人が一人ぐらいなら影響は少ないでしょうが、しかしそれは、段々と周囲に感染していきその傲りが広がっていくようです。

だから、気のあう友達ばかりを周りに固めるのでなく、時には諫言をしてくれる人を常に選んでつき合い、間違った方向に進まないようにしたいものです。

水徳四訓と水五訓

これも五訓で曹洞宗の大本山永平寺諸禅師略伝のWebページ「石徳五訓」の下の方に載っている「水四訓の紹介です。

高階管長さんの水徳四訓 水四訓
水四訓
自から活動して他を動かしむるは水なり。
常に己れの進路求めて止まざる水なり。
障害に逢ひて激しく勢力を倍加するは水なり。
自から潔くして他の汚濁を洗ひ清濁合せ入るる量あるは水なり。
(曹洞宗)管長 (高階)瓏仙書

水の訓と言えば、黒田如水の「水五訓」」がよく知られています。
黒田如水(黒田官兵衛)
「水五訓」
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
二、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
三、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
四、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
五、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失はざるは水なり


一、川の流れは小石を動かす事も在れば、大雨になると大きな岩をも押し流します。自ら動いて模範を示すことで周囲を牽引する。いわゆる率先垂範でしょうか。
二、水の一滴も繰り返されれば、岩をも穴をあけます。たとえ障碍や障壁があっても、その間に貯える力は増してものです。苦しい時も耐えて努力を続ける。一所懸命とでみ言うのでしょうか。
三、流れを止めることなく、信じた道に向かって動き続けていこう。所信(初心)貫徹
四、意見が違うから、嫌いな人だからといって排除したり、追いやったりするのでなく、良いところを見つけそれを伸ばし共に頑張ろう。
五、水はその入れる容器によってその容器の形に収まり形をかえます。しかし水は水で水としての質は変わらない。与えられた環境の中で柔軟に変化し成長するが、自分が持っている芯がぶれたり周囲にあわせて変えて偏向してしまってはいけない。

また、守屋洋氏によれば、老子にも「水徳五訓」があるようです。「老子の人間学」に次のようにかかれある。
一、淡々無味なれども、真味なるものは水なり
一、境に従って自在に流れ、清濁合わせて心悠々たるものは水なり
一、常に低きにつき、地下に在りて万物を生成化育するものは水なり
一、無事には無用に処して悔いず、有事には百益を尽くして、功に居らざるものは水なり
一、大川となり大海となり、雲雨氷雪となり、形は万変すれどもその性を失わざるは水なり

これは、老子の第八章に次のようにある。

上善如水。水善利万物、而不争。処衆人之所悪。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。

上善は水の若し 水は善く万物を利して争わず 衆人の憎む所に居る 故に道に幾し。
居は地を善しとし 心は淵を善しとし 与るは仁を善しとし 言は信を善しとし 正は治を善しとし 動は時を善しとす。
夫れ唯だ争わず 故に尤無し

最高の善とは、水の働きのようなものだ。水はこの地上の万物の成長を助け、自ずからあらそうことがない。衆人が嫌う低い場所の留まっている。それだかあ人の道に近いものといえる。
住みかとして大地を善しとし。心の持ち方としては、淵のようになかなか抜け出すことのできない苦しい境遇ところにも善しとし。人の交わりとしては、いつくしみの心が深いことを善しとし。言葉としては、真心を込め詭辯をつかないことを善しとし。政治は乱れを鎮め安定したありさまをつくるのを善しとして。行動に対しては、その時にぴったりあっているのを善しする。そもそもこの水のように争わないでいれば、間違うことがない。

水のような生き方を心掛けて行くのも善いものだとおもうほどです。

石徳五訓

竹徳五訓ではなく、石徳五訓

大本山永平寺諸のWebページ、大本山永平寺諸禅師略伝がありそこに、「石徳五訓」が紹介されています。
「石徳五訓」は曹洞宗大本山永平寺の七十三世熊沢泰禅禅師が揮毫され「石徳五訓」があるとききました。

石徳五訓-熊沢泰禅禅師
一、奇形怪状無言にして能く言うものは石なり。
二、沈着にして気精永く土中に埋れて大地の骨と成るものは石なり。
三、雨に打たれ風にさらされ寒熱にたえて悠然動ぜざるは石なり。
四、堅質にして大厦高楼の基礎たるの任務を果すものは石なり。
五、黙々として山岳庭園などに趣きを添え人心を和らぐるは石なり。
         永平泰禅九十四翁

詳しくは、大本山永平寺諸禅師略伝の「石徳五訓」に書かれています。

そこに、熊沢泰禅禅師の語録「雪菴廣録」に書かれたことの抜粋がのっています。
その要約は以下のようなものです。
一、奇形怪状、無言にして、能く言うものは石なり。
石はいろいろな形をしていろいろな色がある。大きいのも在れば小石もある。その大小種々様々な石に共通の徳は「無言にして能く言う」ということである。ものを言わなかったらなにを言っているかわからないが、その無言を聞くことができれば、盤石なものを得られることができる。

二、沈着にして気精、永く土中に埋れて大地の骨となるは石なり。
「枕石道人」「懐石」「薬石」という言葉もある。これは石の沈着にしてづっしりしている徳と、気精、の徳が具わっているからである。そして、千万年大地に埋もれていても不平一つ漏らさず、常に大地を支える骨の役目を果たしている。人間たるもの、またその徳を学ばなくてはならない。

三、雨に打たれ風にさらされ、寒熱にたえて悠然、動かざるは石なり。
雨風にさらされ、暑さ寒さにも耐え、悠然たる態度で不動の姿をしている。「八風吹けども動ぜず天辺の月」、「心頭滅却すれば火も又涼し」と言う。人も石徳現成の時節に発せられた語に外ならない。

四、堅質にして、大廈高楼の基礎となり、よくその任務を果たすものは石なり。
石は堅質が石に共通てんである。石は大きな建物の土台として使用され、その期待に応え任務を全うする。人もこの石徳を生活の土台としなければならない。

五、黙々として、山岳庭園に趣きを添え人心を和らぐるは石なり。
堅いばかりが能ではない。庭石に使うならそこつかうための形や質感などに面白味がなくてはならない。人も、そのような石徳を具えれば、人を和ませるようになる。

私が、簡単に解釈してみます。
黙っていてもその存在感があり影響を及ぼす。
周囲に影響されず芯をもち左右にぶれない、周囲に埋没してるかに見えても存在感をしめす。
周囲からの風当たりが強くても動ぜず気にせず、飄々としている。
礎石のように縁の下の力持ちで、目立たないでもその価値は重要なもの。
それぞれの役割があり、そのためにはその個性があってこそよりその必要性がある。

竹徳五訓

竹林の風の話をしましたが、竹について竹の五つの徳と言われるものがあります。

京都亀岡の瑞雲山 神応寺に《竹徳五訓 》です。

竹林自知百卉長(ちくりんおのずからしる ひやつきにちょうたるを)
・竹の子の如く生き生きと
・竹まっすぐが如く実直に
・竹しなるが如く柔和に
・竹の根の如く繁茂せん

節がある、真っ直ぐ伸びる、雪の重みで撓ってもそれに耐え元にもどる。それぞれ昔からよく言われて聞います。
この神応寺の竹五訓の五つは、それらをよくまとめられていますね。

もう少し意味を噛みしめてみます。

・竹の子の如く生き生きと
竹は土から顔を出した竹の子のとき、一日に数十センチ伸び、その成長の速さは目に見える程です。旺盛な生命力と生気みなぎる活動力は見習うべき。

・竹まっすぐが如く実直に
竹は真っ直ぐ天に向かって伸びてゆく、素直で心に澱みなく明らかな生まれ持ったものがある。

・竹しなるが如く柔和に
竹は強い風が吹いても、風が吹くのに身を任せるように順応適応させる。そのしなやかな適応性と融通性には見習うべきところがある。

・竹節の如く節度あり
竹には節ある。二十四節季、苦節十年などといい、それぞれの節目節目を大切にしている。その節目に節度や礼節を守る折り目正しさ見つけるべきです。

・竹の根の如く繁茂せん
竹は地下茎を伸ばし繁殖する。日ごろは人目につかないでも堅実に力をつけていく、旺盛な力強さは活力を見習うべき。

海のお魚はかはいさう

金子みすず の詩につぎのようなものがあります。

海のお魚はかはいさう。

お米はひとにつくられる、
牛は牧場で飼われてる、
鯉もお池で麩を貰ふ。

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたづら一つしないのに
かうして私にたべられる。

ほんとうに魚はかはいさう。(Ⅰー五)


仏教に五戒があります。不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒です。
しかし、人は殺生せずに人は生きることはできないです。野山や海や川で育った獣や魚そして、植物などは、なにも人に食べられるために生きてきているのではないです。その動植物は自分の遺伝子を、子孫に引き継ぐために生きています。そしてその動植物も他の生命を奪って、命を子孫に引き継ぐために紡いでいます。
飼育されたり栽培されたりした、動植物は人間に食べられるために育てられています。しかし、この動植物も自分から好んで、人に食べられるために生まれてきたのではないです。

人に限らず生き物は、自ら生きて子孫を残すために、他の命を殺して食べていきます。だからといって当然のように食べ物を貪り食うだけでいいのでしょうか。感謝の気持ちを込めて戴きますの言葉を忘れずにいたいものです。


食料として生まれてくる生命は食料として生まれてくるのです。ライオンがシマウマの狩りをするのに、罪悪感を感じることはないです。シロナガスクジラがオキアミを食べるのに罪悪感を感じないです。それは自分が生きるためであり、それが自然の摂理です。人間もいくらが崇高な生き物とし自認してもその自然の摂理から逃げ出すことは出来ないのです。

仏教の五戒の一番初めに不殺生戒があります。五戒のなかで一番おこなうのが難しいのがこと不殺生戒でもあるでしょう。
いつの時代でも古今においてこの不殺生戒は、守りきれるもので無いものです。だからといって他の生き物を食として食べ物をなおざりにすことはよくないことです。自分の命が他の生命を犠牲にして成り立っていることをしっかり見つめ、自分の命を紡ぐため消えていく他の無数の命への感謝の気持ちを確認するのは人間だけです。他のライオンやシロナガスクジラなどの動物はそのようなことを思わないです。しかし、人間のように必要以上に獲物を狩ったりまた、テレビ番組で見るようにもてあそんで笑いの道具にはしないです。

海のお魚にかぎらず、生け簀のお魚にも、「ありがとう」の気持ちを込めて「いただきます」をしてゆきたいです。

ならぬもの十訓

永平寺の門前町の土産物屋で売られている「つもり違い十か条」の話に、ある人から拍手をいただきました。
それに、次のようなことを教えてくれました。

「ならぬもの十訓」
忘れては ならぬもの「感謝」
言っては ならぬもの「愚痴」
曲げては ならぬもの「つむじ」
起こしてはならぬもの「短気」
叩いては ならぬもの「人の頭」
失っては ならぬもの「信用」
笑っては ならぬもの「人の落ち度」
持っては ならぬもの「ねたみ」
捨てては ならぬもの「義理人情」
乗ってはならぬもの「口車」
こちらも、驕り高ぶらずに謙虚な姿勢で人と接していきたいものです。

この言葉、私なりに考えてみました。

言っては ならぬもの「愚痴」
愚痴は言っても仕方がないことをで、それを嘆き悲しんでいると物事を明るく前向きに見れなくなる。そうすると人を恨んでしまう。


曲げては ならぬもの「つむじ」
周囲をうらやんで自分の不幸に対し、気分をそこねて逆恨みし意地悪くふるまうと、性質がねじけすなおでなくなってしまう。

起こしては ならぬもの「短気」
不平不満がつのり、辛抱ができなくなると、いらだち忿怒してしまう、短気は損気という。

叩いては ならぬもの「人の頭」
人の頭を叩いて叱るのはよくない。出る杭は打たれるというが、そのような組織は先が発展はしないだろう。

失っては ならぬもの「信用」
信用とは認められることであり、受け入れられてもらえることです、周囲から受け入れられなければ孤立してしまうばかりで、楽しみも生き甲斐もないでしょう。

笑っては ならぬもの「人の落ち度」
人の落ち度を笑っているとところを、周囲の人はよくみています。その人や物にそなわっている品のが疑われ、とどのつまりは笑われるものです。

持っては ならぬもの「ねたみ」
人を羨ましく思うとやがて、憎みたくなってきます、それが憎悪になり、互いの人との関係も悪くなり、自分が孤立してしまうことになりでしょう。

捨てては ならぬもの「義理人情」
社会生活をおくるのに人に対して、守るべきこと果たすべきことは、いつのつねにもあります。それと、他人に対する思いやりの心や情けも大切です。

乗ってはならぬもの「口車」
巧みな口先だけのうまい言い話に乗ってしまうと、大損をしてしまうだけでないです。口車に惑わされ今までの自分の信条と違う方向に進まざるを得なくなり、今まで培ってきた信用も失ってしまいます。

充分に注意したいものです。

つもりちがい

永平寺の門前町の土産物屋で売られているという「つもり違い十か条」の暖簾があります。

つもりちがい十ヵ条
高いつもりで 低いのが「教養」
低いつもりで 高いのが「気位」
深いつもりで 浅いのが「知識」
浅いつもりで 深いのが「欲望」
厚いつもりで 薄いのが「人情」
薄いつもりで 厚いのが「面皮」
強いつもりで 弱いのが「根性」
弱いつもりで 強いのが「自我」
多いつもりで 少ないのが「分別」
少ないつもりで 多いのが「無駄」

この言葉いろいろなところで見かけます。誰が考えたのか言い出したのか知りませんが、己を振り返るにおいて読み返してみたい言葉ですね。

出世する人間 出世できない人間

出世する人間 出世できない人間

大久保彦左衛門は、晩年の自伝に二通りの人間がいて、それぞれの特色を次のような5つ掲げていました。
大久保彦左衛門は、徳川家康から三代に使えた、天下のご意見番の忠君として、語り継がれています。

出世する人間とは
「主人を裏切ることができる者」
「ずる賢く人から嫌がられる者」
「礼儀正しく人前で控えめな者」
「計算高く偉ぶる姿が似合う者」
「信念がなく自分の意見を貫かない他国人」。

一方、出世しない人間とは
「主君への忠義一途に生きる者」
「武勇に生きる者」
「交際下手で、諂いせず、賄賂を者」
「物事の損得を考えない者者」
「主君に永く仕え、忠節を貫く人間」

大久保彦左衛門はご意見番と言われていますが、実際は時代の波に乗れない落伍者だったようです。
この、出世できる人間は徳川家康が幕府を開き、世の中が泰平の世の中になります。その時代の潮を感じ取り波に、乗ることが出来た周囲の人の姿でしょう。
一方、出世できない人間とは、忠義に生きた彦左衛門自信のことでしょう。


これを読んでいて、団塊の世代やこれから退職する人の姿にみえます。
窓際族になるか、後継者を育てる人になるのか、退職して新しい人生を歩むのか、いにしえを思い毎日空を見上げて暮らすのか。

この二通りの人間どちらに偏ってもいけないですね、人としての道を踏み外さないように、中庸な道を探って前向きに生きたいです。

坊主がいやなら いやでない坊主になったらどうか

「坊主がいやなら いやでない坊主になったらどうか
お寺がいやなら 自分の気のすむようなお寺を建てたらどうか」

この言葉は、神田寺 友松圓諦が9歳の時、伯父の貧しい寺に養子にだされ、将来この寺の住職になるのかと思うと毎夜涙していた。そんな生活をし坊主になるに悲観的だったなか、18歳の時の母からの手紙に書かれていた言葉です。

ここに書かれている「坊主」「寺」を、自分の今している「仕事」や「役割」また、「生活そのもの、生き方」などの、ほかの言葉に置き換えて考えてみると、いろいろなことが見えてきます。
自分の今ある現状を不平ばかり言っていても、なんらの解決にならないです。自分の今置かれている現実を、そのまま見るのではなく、別の視点から視て自分自身でできることがないのか考え直してみると、今までにない別の新しい世界が見えてくるかも知れません。

たったひとりしかいない自分

「路傍の石」
『たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない一生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。』
山本有三 路傍の石

この世の中で自分というものは一人しかいない、死んでしまったら代わりの自分はいない、だからこそそのその人生も一度しかなく変わりがない、無駄に生きてしまったり、己を活かさず無駄なことに竟やして死んでしまったら勿体ない。死んだらみなと走ることも感じることも、みなに会うこともそして人と別れることも、みなと喜ぶことも泣くことも、二度とできない。一度しかない人生を充分生かして幸せで悔いのない人生にしなかったらもったいないじゃないか。

山本有三が「路傍の石」を書いたのは1936年、その翌年に1937年7月には日中戦争が起こり、1938年に内務省警保局が「児童読物に関する指示要綱」をだし、皇国史観に反するものは、事実上発行禁止になった。
「路傍の石」とは道端のそこいらにある石ということです。今のように道路はアスファルトで舗装されているのではなく、当たり前の土に道でそこにある何でもない石ということです。
山本雄三が「路傍の石」が発表したころは、日中戦争の前年で、個人の尊厳より国のため、戦争のためという口実で命が軽く扱われたといえます。そのことに雄三は「路傍の石」を発表することにより、人間の尊さを訴え人への差別を批判し、人の個性や人格を守り、可能性を伸ばし力強く生きていく大切さを訴えた小説といえます。しかし、それらの夢も国からの圧力のため有三はは1940年6月に筆を折って、「路傍の石」の執筆を止めていまいました。
有三は「ペンを折る」で次のように述べています。
「日一日と統制の強化されつつある今日の時代では、それをそのまま書こうとすると、特に―これらの部分においては、不幸な事態をひき起こしやすいのです。その不幸を避けようとして、いわゆる時代の線にそうように書こうとすれば、いきおい、私は途中から筆を曲げなければなりません。・・・・・」(昭和15年6月20日)。

分福の説

前回、幸田露伴の「努力論 惜福の説」を紹介しました
今回は、その次に書いてある「努力論 分福の説」を紹介します。

幸田露伴は次のように書いています。
「福を惜むということの重んずべきと同ように、福を分つということもまたはなはだ重んずべきことである。惜福は自己一身にかゝることで、いささか消極的の傾があるが、分福は他人の身上にもかゝることで、おのづから積極的の観がある。・・・・
・・・・分福とはどういうことであるかというに、自己の得るところの福を他人に分ち与えることである。たとへば自己が大なる西瓜を得たとすると、その全顆を食しつくすべくも無かつた時、その幾分を殘し留むるのは惜福である。その幾分を他人に分ちあたへて自己と共にその美を味はふの幸を得せしむるのは分福である。またたとえば自己が一つの小な蜜柑を得たる時にしてこれを食い尽すもなおその足らざるを覚ゆる如き場合にも、その半顆を傍人に分かち与えるはすなわち分福である。・・・・。
惜福は自ら抑損するので、分福は他に分与するところあるのであるから、彼は消極的、此は積極的なのである。」

福は惜しむべきで、ジャブジャブと無駄に使うべきないといっていました。しかし、福を独り占めして惜しむのではく、福は周りの人にも分け与えるのがよいといっています。
そして、分け与え方にも二通りがある、十分にあり余っている福を分け与える。自分が足らなくてもその福を得た喜びを周りの人たちと分かちあう。

マイクロソフトのビル・ゲイツが、マイクロソフトの経営を隠居して、今までパナソニックの創業者、元、松下電器の松下幸之助は、PHP研究所や松下政経塾などをつくり、人の生き方や会社の経営の仕方や政治の在り方は何かを問い、物質的な繁栄だけでなく平和と幸福が添うことが大切だと問い続け社会還元のために使いました。また、松井や野茂なども大リーグで活躍して得た報酬を、日本の野球振興のために、還元して使っています。俳優などでも社会福祉や社会事業の活動に参加さしている人は多いです。
また、大きな会社や小さな会社などでも、事業で得た収益を社会還元をしています。
日本の江戸時代からある老舗などの家訓にも、次のようなものがあります。
私費を割いて公共事業に取り組め(キッコーマンの茂木家)。
勉めて公共事業に尽くせ(菊正宗の嘉納家)があり、菊正宗は現在の進学校で有名な「灘高」を作っています。
これらは昔からの儒教の教えや、中国の古典の中に勉めて行うことが、善とされているからだともいえる。

裕福な人がその富を、分かち合うのはよく聞くことですが。なかには、露伴が書いているように「世には大なる福分を有しながら慳貪鄙吝の性癖のために、少しも分福の行爲に出でないで、憂は他人に分つとも、好い事は一人で占めようといふが如き人物もある。」のです。

しかし、それより明日の生活も事欠くひとが、自分が得たわずかな福を、周りの人に分け与えることは、あたりまえのようによく見られることです。
富みに目がくらみ富が欲を産み逆に貪欲の貧里に迷うがごとくです。白隠禅師の和讃に「たとえば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず」といっています。善い行いには、善い結果が得られます。悪い行いには、悪い結果が待っています。欲の煩悩・執着をすてさり必要以上の欲望を抑えることにより。分福の理を知り行うことができるのでしょう。

惜福の説

幸田露伴 [努力論]の「惜福の説」に次のようにある。
「船を出して風に遇ふのに何の不思議は無い。水上は廣闊、風はおのづからにして有るべき理である。しかしそのの風にして我が行かんと欲する方向に同じき時は、我は之を順風と称して、その福利を蒙るを得るを悦び、また我が方向に逆行して吹く時は、我はこれを逆風と称して、その不利を蒙るを悲み、また全くの順風にもあらず、全くの逆風にもあらざる横風に遇ふ時は、帆を繰り舵を使ふの技術と、吾が舟の有せる形状との優劣善悪によつて、程度の差はあるがこれを利用するを得るのである故に、余り多くの風の利不利を口にせず、我が福無福をも談らぬのが常である。
是の如き場合において風には本来福と定まり福ならずと定まつて居ることも無いのであるから、同一の南風が北行する舟には福となり南行する舟には福ならぬものとなるのである。順風を悦ぶ人の遇つて居る風は、即ち逆風を悲む人の遇つて居る風なのである。福ならずとせらるゝ風は即ち福なりとせらるゝ風なのである。して見れば福を享くるも福を享けぬも同じ風に遇つて居るのであるから、福を享けた舟が善い故福を享けたといふ事も無く、福を享けぬ舟が悪い故福を享けぬといふことも無く、いわゆるめぐり合せといふもので有つて、福無福に就ては何等の校量計較によつて福を享け致すべきところもないやうなものである。」

帆を持った船は、風まかせのように見えるが、それは船に乗る人の腕次第で、臨機自在にとはいえないですが、逆風でも風に逆らって前に進むことができます。しかし、操舵帆の扱いが未熟だと、逆風の中では前に進むことは難しく、自分の操船技術を悔やむしかないでしょう。

最近「自己責任論」を称える人が巷に多くなってきているように思えます。
そのような中で少し前のことですが、全盲の方がヨットで太平洋横断を試みようとして、それに同伴した人がいるがこの人も「自己責任論」を強く訴えた人の一人です。
しかし、出航直後救助を求めざるを得なくなり自衛隊に救助されました。原因はいろいろといわれていますが、ヨットは風任せ浪任せでもあり、吹いてくる風が順風になることもあり、逆風になることもあるものです。このヨットの捜索費を事故責任だからと賠償せよと言う人がいますが、ここで「自己責任論」を持ち出して批評するのはよくないと思います。

これと同じように、世の中の大海原で進学に失敗した、就職に失敗した、仕事や事業に失敗したからと、「自己責任論」で切り捨ててしまうのは余りにも、人でなしと言わざるを得ないです。しかし、この人たちに努力が足りないとか、自業自得だとかで片づけてしまおうとする声が、いつ自分もそのようになるかわからない身の人の巷からも聞こえてきます。
そしてもっとひどいのは、一部の政治家や事業の雇用主などから、その人の努力が足りないからなどと、自己責任論で片づけようする声が漏れ聞こえてくることです。

本当の本心があれが、迷うことはない

人心に一部の真文章あれども 都て残編断簡に封錮し了らる
一部の真鼓吹あれども 都て妖歌艶舞に湮没し了らる
学ぶ者は須く外物を掃除して 直ちに本来を覓むべく 讒に個の真受用あり
菜根譚 57

人の本心のなかには、理性のある信実の考えがあり、本当の深い意味があり、この心の声を素直に聞くことができれば、わざわざ先人の書物を紐解く必要がない。しかし、多くは周囲のいろいろな、とるにたらない下らない考えに取り付かれ、その人の本心は都合のよいように、自身が解釈してしまったり、また他人からも都合のよいように解釈されてしまう。

また、人の心の中にはすばらしい感性があり、歌や踊りなどの心を表すものをそなえている。この感性の心に気がつけば、わざわざ他の歌や踊りなどを聴く必要はない。しかし、とるにたらない先人の演舞にとらまれて、自分の素直な心を表すのに、時にその枠に縛られて自由に表現しにくくなるものです。
歌や踊りなどの基本は大切で、しっかりと稽古をしなくてはならないです。しかし、稽古をするなかで真似ることが稽古だととらまえられてしまい、その歌や踊りの本質やその道の奥義から離れてしまってはいけない。

物事を学ぼうと思ったり行おうとするときは、その考えを一度整理して、過去の事にとらまえられていないか、よけいな思いが入り込んでいないかをみて、もしそのようなものがあれば、部屋の中の塵を箒で掃き出すように一掃することにより、本当の自分の考えの考えや感性を見つけだし粗朶出てて行かなくてはならない。それが本当の自分を生かす道である。

見方や立ち位置を移して言い換えれば、政治家の言葉の本心は、みな素直な正しい言葉だと言えます。しかし、その言葉はその人の所属してる党の考えにとらまえられたものであり、また、その人個人の特定の理念に固まった考えからでたものです。そうなればその人の本心を表したものかと言えば、かなりそれとはかけ離れたものになってしまうものです。

そして、何より、先人の書き残したことや、歌や踊りなども、どのようにとらまえて、どう理解し、どう活用するかが大切で、それにより自分の考え方や立ち振る舞い方がかわってくるということでしょう。

足らぬ身とは思はじ

江戸時代の禅僧、良寛さんの三首です。良寛禅師は、さんづけでよばれる不思議なお坊さんです。
その人となりを表しているのではないかと思う三首です。

こと足らぬ身とは思はじ柴の戸に月もありけり花もありけり
                    良寛

人は私のこの庵を荒ら屋というかもしれない、確かに戸は柴折り戸で隙間風が入ってくる。しかし、そこからは月は見えるし、花も愛でることができる。わたしが、托鉢で乞食をしているのは、解脱の修行をする身で、何をこれ以上に望むことがあるだろうか。


出づる息また入る息は世の中のつきせぬことのためしとを知れ
                    良寛

人が生きていく上で、息を吐きそして、息を吸いまた、息を吐きそして息を吸う。つきることなく繰り返される。人の世の物事もこれと同じで、良きこともあれば、辛いこともある。世の中に善きこともありば悪っしきこともある。だから、それらにいちいち欲を出したり、恨んだり、怒ったりしていて限りがないことをしるべしだ。
きである」



いかなれば同じ一つに咲く花の濃くも薄くも色を分くらむ                    良寛

どうして、同じ花で同じ里、同じ時に花が咲いても、その花には色の濃いもあれば、薄いものがある、世の中のいろいろな出来事や有り様やまた、その移ろいも色々あってそれがまた楽しみとも言えるのでは

見えないときに、ないと考えるのは?

海のほか何も見えないときに、陸地がないと考えるのは、けっしてすぐれた探検家ではない。
フランシス・ベーコン「学問の進歩」

目先のことだけに目を向けて、短期的なことだけを考え、物事を進めるのも必要でしょう。
しかし、状況が改善されたからといって、それに安堵してしまい有頂天になり、それだけに終始してしまってはいけないです。広く視野を広げて、長期的な展望で物事を押し進めないと、子孫に後戻りのできない、多大な負担を強いることになってしまいます。

捻れているからと決められないからといって、
96条改正の他に何も打ち出さないのは、
けっして優れた政治家ではない。

衆参の多数を持つ議席数が与野党で違うことについて、誰がねじれといったのだろうか。ねじれていることを悪の根源のように、一部の人は言うが決してそうではないはずです。
その衆参の議席の違う中で如何に、議論をするかしないかで民主主義としての決定を下せるか下せないかが問題になるのではないだろうか。

次のような言葉があります。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」そして、「上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし」といっています。この言葉を現代的に解釈して政治を行って欲しいものです。この言葉を誰が何時、発せられたか、96条改正を推進されている方はよくご存じでしょう。これで以上はなすのは釈迦に説法かもしれないので話は終わりにします。

テーマ : 哲学
ジャンル : 学問・文化・芸術

この世に客に来たと思へば

伊達政宗は、次のように言い残しています。

一、仁に過ぐれば弱くなる 義に過ぐれば固くなる 礼に過ぐれば諂となる
智に過ぐれば嘘を吐く 信に過ぐれば損をする
一、気長く心穏やかにして よろずに倹約を用い金銀を備ふべし
倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし
一、朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ
一、今日行くをおくり 子孫兄弟によく挨拶して 娑婆の御暇申すがよし。


他を思いやり、いつくしむ心は大切ですが、その度が過ぎてしまうと、周囲の流れに押し流されてしまったり、巧言令色鮮しになってしまい道を誤ってしまうでしょう。
道理や筋道に厳しすぎれば角が立ち、周囲の関係も気まずくなってしまい、事を成し遂げるのも難しくなってしまう。

相手の人に対して社会の習慣やしきたりなどを重視しすぎると、媚びへつらうことになってしまう。

そして伊達政宗さらに次のように言っています。
あまり焦らず心穏やかにするのがよい。そして今の快楽にふけるより、飢饉の時などのために日頃から倹約をするのがよい、倹約も便利さだけを追い求めるのではなく、その不自由をつらい思いを受け止め耐える心が必要である。客人と招かれていたらその接待に一地文句などいえないのでそれを受け入れるのと同じことだと思えばいい。

朝夕の食事も酒池肉林ではなく、質素にし粗食でいるのがよい、これも客人と思えばいい。

毎日、誰とでもよく挨拶を交わし、今日の一日一日が最後と思ってその時々を大切にするのがよい。


特にこの伊達政宗の遺訓でおもしろいと思うのは、「この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし」だと私はおもいます。
なにも、今を贅沢に我が儘に振る舞わないで、我を自重して控え目にしていく心の持ち方が大切なのでしょう。

テーマ : 日本古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

自分の暮らしは自分で立ててゆかねばならない

宮本常一の「庶民の発見」のなかに一人の庶民が言った言葉が書かれています。
改めて考えさせられたので紹介しておきます。

戦後間もないころ、石川県内灘で米国軍の射撃地を作るとき、漁民たちが地引き網の漁場が奪われ、「金は一年、土地は万年」と書いた筵の幟を掲げて反対運動を起き、四年ほどで米軍の接収は終わり終結したこについて書かれています。
その時に反対運動をした住民の一人が言った言葉です。
「あんなことしてみんな我々をけしかけるけど、やってきた人たちが我々の生活をみてくれるわけでもなければ、責任を負ってくれるわけでもない。自分の暮らしはやっぱり自分で立ててゆかねばならない。話しがどちらかに決まれば外から来てわいわい言った人たちは二度と振り向いてくれないだろう。私たちが恐れているのは、我々が永い年月掛けて打ち立ててきた暮らし方が新しく切り替えられることへの不安で、新しく切り替えられてうまくゆくものなら、またそういう方法があるならそれでいいのだが、そういうことを考えてくれる人がいない。」

この言葉を読んでいると、ある事業などの反対運動や、事件などの裁判での支援運動などを見て、今も昔もそのあり様は変わらないのだなと感じます。
推進して押し進める方も、反対する方も同じで、どれだけ本当にそこで生活をしている人のことを考えているかと思います。賛成反対どちらの側にもその事業に対して協力や共鳴する人が押し掛けています。無責任な社会運動家や、政治家などに聞かせたいことばです。
そして、この二種類の人達よりもっとひどいのは、正義を振りかざすジャーナリストと言う人達の中に、結構こういう人が多くいることです。

いくら基地が作られたり、ダムができたり、原発が建設されたりする事による補助金や、生活の生業である漁業や農業などに対する補償金を国からもらっても、そこに住み続ける住民が将来も安心して安定して生活ができ過ごせる事が大切だと思います。そして一度失われた自然は戻ってこないです。

いま、沖縄では基地の移設問題があります。そこに住んでいる人の身になって解決されるのがよいでしょう。そして県民の気持ちは県外移設を望んでいるのでしょうが、先の日米首脳の会談での公にされていない約束もあるでしょうから、なかなかそこに暮らす人のそれも実現されそうにありません。


ところで、今はこの石川県内灘は長閑な海水浴場になっているようです。
最近は地引き網で魚を捕ることは、あまり聞かれなくなりましたが、豊かな海浜が広がっているようですから、介す欲や観光として地引き網をするすることもでき、いま豊の自然が残っているのは、誇ることのできることでしょう。

今に生きる私たちは、目先のことにとらわれたり、惑わさせる囁きに判断を誤らないようにしたいものです。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

たのしみは・・・ 獨樂吟

江戸時代の末期に、国学者の橘曙覧の歌集に獨樂吟がありあす。
いまの、この豊かなハイテクの時代には、いささか時代遅れで黴の生えた歌ですが、そのなかには、心の本当の豊かさが醸し出されている言葉が綴られています。

その中からいくつか、こころひいたものを上げてみます。
獨樂吟  橘曙覧
・たのしみは草のいほりの筵敷ひとりこゝろを靜めをる時
・たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふ時
・たのしみは雪ふるよさり酒の糟あぶりて食て火にあたる時
・たのしみは炭さしすてゝおきし火の紅くなりきて湯の煮る時
・たのしみは庭にうゑたる春秋の花のさかりにあへる時々

この句を一つ一つ読んでみると、「貧すれば鈍する」という言葉がありますが、決してそのようなことはなく、貧していても心の持ち方、心の向け方で、生き方というのは豊になり、些細なことの中にでも豊かなものを見いだし、楽しみを見つけることができるものだと思います。


たとえ物質的な文化が豊かでなく、その日暮らしの貧乏でも、心豊かな人はたくさんいます。いや、その人の方が本当の意味で、心豊かな人が多いのではないでしょうか。
日本やアメリカなど物質的に豊かなになり、富も増えてくるとそれを目当てに犯罪も増え、さもしく強欲になりはて業苦にあえいでいる人がいかに多いことでしょう。

しかし、アフリカやアマゾンの奥地や貧しい東南アジアの国など、未だ西洋風の近代文明文化があまり及んでいない地に行った人の旅行記などを読むと、その地の人々と接すると、心優しく、心豊かだという体験談がよく書かれています。
今の日本人は、電気や水道がなければ一日たりとも暮らせない人がほとんどです。しかしその現地の人たちは、電気もガスもな水道もない暮らしをしていても、心豊かで今の自分たちの生活に満足しています。自分たちがそれらを求めていないので、電気もガスも水道もない生活のままで十分で、他人と争うことも、羨むことも憎むこともなく心豊なのでしょう。
本当の豊かさは物質的なものでなく、そのいま生きている地といかに一つになって過ごし、満足しているかと言うように思えます。

そのようなことを考えると先進国の人はそのような貧しい国々の地域に、近代的な豊かな文化を援助支援しようとして、現地で支援活動などをしています。物質的な価値観や所有権などの概念を植え付け、近代的な生活ができるように活動し取り組んでいます。しかし、その結果いままで人々のこころひろくにあった心優しさ、心豊かさが消え去っていき、物欲を貪ったり争いが絶えなくなってしまっているところが多くあるとききます。

最後にもう一度 二つの句を。
・たのしみは草のいほりの筵敷ひとりこゝろを靜めをる時
荒ら屋の庵にムシロを敷いて、そこで独りぽつん坐り、今日の一日を振り返り物思う。心静かに自分を振り返るのもよいものです。

・たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふ時
明日食べる米がないと嘆くのではなく。米櫃に米が入ってときに明日も白い米が食べれるというその喜び、大切にしたいものです。

テーマ : 日本古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

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記事へのコメント
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/23)
    かかる為政者の存在を許してきたのは、日本人の「ながいものにまかれる、お上に任せば・・、なるようにしかならない」と付和雷同性の強い国民性に由来するものではないでし
  • フェイクニュース
    アジシオ次郎 (09/16)
    おはようございます。

    ネットの普及に伴い様々なニュースが見れるようになった昨今、ただ自分の好みに合った情報しか信じないという弊害が出ることもそうだし、多様性を
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    竹林泉水 (09/10)
    顔認証技術が進み、個人の識別だけに利用されるならまだしも、個人の管理に利用されるのは非常に問題が多いと思います。

    松井知事の発言があまり問題になっていないのも不
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    アジシオ次郎 (09/09)
    こんにちは。

    いくらギャンブル依存症対策とはいえ、入場確認や顔認証システムを導入するのは一部から「プライバシーの侵害だ」と批判を浴びてもおかしくありませんね。
  • 終戦の日の前後のテレビ番組
    竹林泉水 (08/23)
    国際的な政治・外交問題は素人的な言い方をすれば、早い者勝ちで勝ち逃げすればセーフ的なところがありますね。
    国の名前に「帝国」冠して大日本帝国として、そのころ時代
  • 終戦の日の前後のテレビ番組
    アジシオ次郎 (08/22)
    こんにちは。

    毎年この時期は戦争にちなんだドキュメンタリー番組をやるけど、NHKが積極的にやるのに民放はニュースでミニコーナー程度しかやらないと言うのはどうか
  • 安倍内閣改造
    竹林泉水 (08/08)
    > 一強なのに天狗になって周りを見ない姿勢のせいで支持率が低下したのに、それを教訓にしないようでは自浄能力がないというか学習能力がないと言われるだけです。ア
  • 安倍内閣改造
    アジシオ次郎 (08/05)
    こんにちは。

    お友達内閣と揶揄された反省から、今回は異なる派閥からすすんで入れた改造内閣、バランスいいとはいうものの、女性閣僚が2人だけというのは男性優位色が
  • 見ざる聞かざる言わざる
    竹林泉水 (07/30)
    いつもコメントありがとうございます。
    三猿の教えは、子どもより大人の方が三猿について考えないといけないでしょうね。

    一つのことしか知らない大人になるのは、人それ
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