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この世に客に来たと思へば

伊達政宗は、次のように言い残しています。

一、仁に過ぐれば弱くなる 義に過ぐれば固くなる 礼に過ぐれば諂となる
智に過ぐれば嘘を吐く 信に過ぐれば損をする
一、気長く心穏やかにして よろずに倹約を用い金銀を備ふべし
倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし
一、朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ
一、今日行くをおくり 子孫兄弟によく挨拶して 娑婆の御暇申すがよし。


他を思いやり、いつくしむ心は大切ですが、その度が過ぎてしまうと、周囲の流れに押し流されてしまったり、巧言令色鮮しになってしまい道を誤ってしまうでしょう。
道理や筋道に厳しすぎれば角が立ち、周囲の関係も気まずくなってしまい、事を成し遂げるのも難しくなってしまう。

相手の人に対して社会の習慣やしきたりなどを重視しすぎると、媚びへつらうことになってしまう。

そして伊達政宗さらに次のように言っています。
あまり焦らず心穏やかにするのがよい。そして今の快楽にふけるより、飢饉の時などのために日頃から倹約をするのがよい、倹約も便利さだけを追い求めるのではなく、その不自由をつらい思いを受け止め耐える心が必要である。客人と招かれていたらその接待に一地文句などいえないのでそれを受け入れるのと同じことだと思えばいい。

朝夕の食事も酒池肉林ではなく、質素にし粗食でいるのがよい、これも客人と思えばいい。

毎日、誰とでもよく挨拶を交わし、今日の一日一日が最後と思ってその時々を大切にするのがよい。


特にこの伊達政宗の遺訓でおもしろいと思うのは、「この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし」だと私はおもいます。
なにも、今を贅沢に我が儘に振る舞わないで、我を自重して控え目にしていく心の持ち方が大切なのでしょう。

テーマ : 日本古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

自分の暮らしは自分で立ててゆかねばならない

宮本常一の「庶民の発見」のなかに一人の庶民が言った言葉が書かれています。
改めて考えさせられたので紹介しておきます。

戦後間もないころ、石川県内灘で米国軍の射撃地を作るとき、漁民たちが地引き網の漁場が奪われ、「金は一年、土地は万年」と書いた筵の幟を掲げて反対運動を起き、四年ほどで米軍の接収は終わり終結したこについて書かれています。
その時に反対運動をした住民の一人が言った言葉です。
「あんなことしてみんな我々をけしかけるけど、やってきた人たちが我々の生活をみてくれるわけでもなければ、責任を負ってくれるわけでもない。自分の暮らしはやっぱり自分で立ててゆかねばならない。話しがどちらかに決まれば外から来てわいわい言った人たちは二度と振り向いてくれないだろう。私たちが恐れているのは、我々が永い年月掛けて打ち立ててきた暮らし方が新しく切り替えられることへの不安で、新しく切り替えられてうまくゆくものなら、またそういう方法があるならそれでいいのだが、そういうことを考えてくれる人がいない。」

この言葉を読んでいると、ある事業などの反対運動や、事件などの裁判での支援運動などを見て、今も昔もそのあり様は変わらないのだなと感じます。
推進して押し進める方も、反対する方も同じで、どれだけ本当にそこで生活をしている人のことを考えているかと思います。賛成反対どちらの側にもその事業に対して協力や共鳴する人が押し掛けています。無責任な社会運動家や、政治家などに聞かせたいことばです。
そして、この二種類の人達よりもっとひどいのは、正義を振りかざすジャーナリストと言う人達の中に、結構こういう人が多くいることです。

いくら基地が作られたり、ダムができたり、原発が建設されたりする事による補助金や、生活の生業である漁業や農業などに対する補償金を国からもらっても、そこに住み続ける住民が将来も安心して安定して生活ができ過ごせる事が大切だと思います。そして一度失われた自然は戻ってこないです。

いま、沖縄では基地の移設問題があります。そこに住んでいる人の身になって解決されるのがよいでしょう。そして県民の気持ちは県外移設を望んでいるのでしょうが、先の日米首脳の会談での公にされていない約束もあるでしょうから、なかなかそこに暮らす人のそれも実現されそうにありません。


ところで、今はこの石川県内灘は長閑な海水浴場になっているようです。
最近は地引き網で魚を捕ることは、あまり聞かれなくなりましたが、豊かな海浜が広がっているようですから、介す欲や観光として地引き網をするすることもでき、いま豊の自然が残っているのは、誇ることのできることでしょう。

今に生きる私たちは、目先のことにとらわれたり、惑わさせる囁きに判断を誤らないようにしたいものです。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

たのしみは・・・ 獨樂吟

江戸時代の末期に、国学者の橘曙覧の歌集に獨樂吟がありあす。
いまの、この豊かなハイテクの時代には、いささか時代遅れで黴の生えた歌ですが、そのなかには、心の本当の豊かさが醸し出されている言葉が綴られています。

その中からいくつか、こころひいたものを上げてみます。
獨樂吟  橘曙覧
・たのしみは草のいほりの筵敷ひとりこゝろを靜めをる時
・たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふ時
・たのしみは雪ふるよさり酒の糟あぶりて食て火にあたる時
・たのしみは炭さしすてゝおきし火の紅くなりきて湯の煮る時
・たのしみは庭にうゑたる春秋の花のさかりにあへる時々

この句を一つ一つ読んでみると、「貧すれば鈍する」という言葉がありますが、決してそのようなことはなく、貧していても心の持ち方、心の向け方で、生き方というのは豊になり、些細なことの中にでも豊かなものを見いだし、楽しみを見つけることができるものだと思います。


たとえ物質的な文化が豊かでなく、その日暮らしの貧乏でも、心豊かな人はたくさんいます。いや、その人の方が本当の意味で、心豊かな人が多いのではないでしょうか。
日本やアメリカなど物質的に豊かなになり、富も増えてくるとそれを目当てに犯罪も増え、さもしく強欲になりはて業苦にあえいでいる人がいかに多いことでしょう。

しかし、アフリカやアマゾンの奥地や貧しい東南アジアの国など、未だ西洋風の近代文明文化があまり及んでいない地に行った人の旅行記などを読むと、その地の人々と接すると、心優しく、心豊かだという体験談がよく書かれています。
今の日本人は、電気や水道がなければ一日たりとも暮らせない人がほとんどです。しかしその現地の人たちは、電気もガスもな水道もない暮らしをしていても、心豊かで今の自分たちの生活に満足しています。自分たちがそれらを求めていないので、電気もガスも水道もない生活のままで十分で、他人と争うことも、羨むことも憎むこともなく心豊なのでしょう。
本当の豊かさは物質的なものでなく、そのいま生きている地といかに一つになって過ごし、満足しているかと言うように思えます。

そのようなことを考えると先進国の人はそのような貧しい国々の地域に、近代的な豊かな文化を援助支援しようとして、現地で支援活動などをしています。物質的な価値観や所有権などの概念を植え付け、近代的な生活ができるように活動し取り組んでいます。しかし、その結果いままで人々のこころひろくにあった心優しさ、心豊かさが消え去っていき、物欲を貪ったり争いが絶えなくなってしまっているところが多くあるとききます。

最後にもう一度 二つの句を。
・たのしみは草のいほりの筵敷ひとりこゝろを靜めをる時
荒ら屋の庵にムシロを敷いて、そこで独りぽつん坐り、今日の一日を振り返り物思う。心静かに自分を振り返るのもよいものです。

・たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふ時
明日食べる米がないと嘆くのではなく。米櫃に米が入ってときに明日も白い米が食べれるというその喜び、大切にしたいものです。

テーマ : 日本古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

石もダイヤもみな宝

「石もダイヤもみな宝」
石は石でいい、ダイヤはダイヤでいい
大事なのは、その特長を早くつかみ、適材適所に配慮することである
そうすれば、石もダイヤもみな かけがえのない宝になる。


日めくりカレンダーに書かれていた言葉です。
本多技研の創始者である本多宗一郎の言葉だそうですが、どのようなときに言ったことばか、分かりませんでした

この言葉の中に二つの意味合いを感じます。
本多技研といえば、今の世界的自動車メーカ「ホンダ」ですが。はじめは小さな町工場で、自転車に発動機を付けて売り出したことから始まりました。
そして、この人の経営哲学や経営方針はべつとして。人を雇用する上での大切なことが込められていると思います。そして、それは人を教育し指導し育てることにも言えることです。

人にはそれぞれの能力には差があり、その差を見抜きその能力に応じて、仕事を割り与えなくてならない。


そして、もう一つは簡単にその人が、能力がないと決めつけて、解雇しないことの大切さもいっていると思います。そのことは、従業員を家族と思え自分の子を心配するようにその、従業員の生活を心配し責任を持たないといけないと言っているのではないかと思います。

耕雲種月

耕雲種月

仏教の教えでよく聞くことばです。この意味は「雲を踏んで耕し、月をいただいて種を蒔く。苦労をいとわずに修行精進に励むこと」といわれています。

「晴耕雨読」という言葉があります。「晴れた日には畠を耕し、雨の日は書を読む。隠居して生活に困らないい悠々自適な生活の願望」をあらわしたものです。

この二つの言葉、「晴耕雨読」は理想の願望の姿ですが、上の「耕雲種月」は修行の厳しさを厭わずに励まないと解脱しないものであることをいってます。しかし、巷の人は定年での年金生活になっても、先行きが見えないなか、なかなか「晴耕雨読」とはいかないものです。そして、引き続き働いたり、新たな生活のための仕事も見つからないです。
そして、歳をとって幾つになっても修行修養とは関係なく、雨の日も雪の日も朝から晩まで働き続ける「耕雲種月」で暮らさないといけないのが現実です。その働く仕事もなかなか見つからず、幾つの歳になっても働き続けると、若い人たちの活躍すべき場所を奪ってしまいます。


愚痴を言うのはやめにしようと思います。歳をとって貧しくても在る程度の、「晴耕雨読」の生活ができるなら、自分の在処を見つめ直してみるのもいいかもしれません。
「脚下照顧」という言葉があります。自分の足下をよく視て反省して注意せよ、真理を外にではなく自己自身の内に求めよ。ということです。今の貧しくてもエレクトロニクス技術のつけられた生活を見直し、生き物としての人として、科学技術のもと楽に生きるのではなく、不便でも自然とどのようにともに生きるかを考えてみたいです。

若いとき利潤追求で仕事をしていると、つい足下を視ること疎かにして見るだけに終わってしまします。歳をとり在る程度余裕がでてきたら、欲を出さずに「吾唯知足」で己自身と世の中を見つめていくことができればと思います。

テーマ : 日本古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
魯迅『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇』


道はどうしてできて言ったのでしょう。はじめ何もないところに、小さな動物が通り草が踏み倒され。何度もそこを通るうちに道がはっきりしてくる。また、そこをそれより大きな動物が通ることにより、低いところの枝などが折れて、道がよりはっきりとしてくる。そこに、人が通ると高いところの枝が、刈り取られ、より人が頻繁に通るようになり道になってくる。そして、そこまでくると、人が通ると道は多くの人の労力で整備されて、立派な道になっていくものです。

そして、そのように人の労力で整備され人が頻繁に通るようになると、一番最初に道をつくった小さな動物は、その道を通ることを避けるようになるでしょう。
しかし、そのようにできた道も一度、その道を整備した労力を忘れ怠ったり、人が通らなくなったりすると、草がはえだし次第に草木はおい茂り、道は埋もれてしまうものです。そして、再び獣だけが通る道になってしまう。何かの事情で獣も通らなくなると、その道も無くなってしまう。

しかし、現代の道をつくるときは、そのような段階を踏まえて作られのではなく、発破を炸裂させブルドーザーなどの重機で、山を切り開きアスファルトで土を覆い、草木も生えなくしてしまいます。


魯迅は『阿Q正伝』のなかで、希望を道にたとえて、みんなが願いそれに向けて努力することにより、その願いがかなえられる道ができ、それをみんなで通りさらに努力することにより、それらは現実のものになると言っているのでしょう。
しかし、道がいったんできあがるとその道をつくった労力を忘れてしまい、その道を維持するのも怠ったりしていしまいます。それは、江戸時代のようにそこに住んでいる住人がつくるのでなく、国や地方自治体などが他人の力で発破やブルドーザーなどの重機でつくり、与えられた道ならなおさらその道を維持しなければならないという意識はなく、維持しなければいけないということを知らないままです。

それと同じように自分たちの力で勝ち取り培ったことによって、希望を実現させたものもができあがり時間がたつと、それが空気のようになりその必要性を感じなくなってしまうのです。それが、一番怖いことで多くの人が努力して築き上げてものを、通らなくなった道のように消えていくことです。

私の、近くに秋になると毎日道を竹ぼうきで掃いて、落ち葉をかき集められている方がいます。その方がおられる周囲の道はいつも綺麗です。しかし道の筋が変わると、落ち葉がたくさん落ちています。現代の整備された道もこのように、小さな小さなこのような手入れも必要でしょうね。

いま、日本の社会は社会保障などが充実して、希望がかなえられていると言えます。そして、その希望を今後も維持するには、人々の一人一人の努力が必用と言えます。それには、応分と負担も必用です。それより有ることが当たり前という感覚になってしまうと、その希望は崩壊してしまうでしょう。それらの希望がなくならないように、皆はその負担を背負う努力と、その希望を守り維持させるたことを守る努力をつづけなくてはいけないでしょう。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

「心」のありよう

もう一つ、「京都嵐山の大悲閣 千光寺」に行ったときに、書かれていたものです。

        こころ

「心」

心に、物なき時は、心ひろく体やすらかなり
心に、慢なき時は、愛敬うしなわず
心に、欲なき時は、義理をおこなう
心に、私なき時は、疑うことなし
心に、驕りなき時は、人を敬う
心に、誤りなき時は、人を畏れず
心に、邪見なき時は、人を育つる
心に、貪りなき時は、人にへつらうことなし
心に、怒りなき時は、言葉やわらかなり
心に、堪忍ある時は、事を調ふ
心に、曇りなき時は、心静かなり
心に、勇ある時は、悔やむことなし
心に、孝行ある時は、忠節あつし
心に、自慢なき時は、人の善を知る
心に、迷いなき時は、人をとがめず

これも、良寛さんの言葉だとおもいます。

どれも、このようにありたいと思う言葉です。
特に人と接するときに心がけないといけないと思います。

また、いま教育の荒廃が言われていますが、人を育てるときにはこの「心」が大切だと感じます。

一つ一つの言葉にたいして、私の感じるところ思うところを書くと、長くなるので改めて、何かの機会にこのブログに書き留めていこうかと思っています。


2012-11-20
追加訂正。
この言葉は、良寛さんでなく上杉家の上杉謙信公家訓十六ヶ条でした。
粗忽に間違ってしまいました。

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体

おのが意地を言いとおす

いよいよ国政選挙です。
これから、選挙運動が始まりいろいろと選挙運動もにぎやかになってきます。個々の政党と立候補者に次の言葉をきかせたく思います。

      ことば


今月の7日に 京都嵐山にいってきました。
そのとき「大悲閣」千光寺に置いてあった紙に書いてあったことばです。
ことば
一、おのが意地を言いとおす
一、人にものを呉れぬ先になになにやろうと言う
一、人のことをよく聞かずして語る
一、よく知らぬことを、はばかりなく言う
一、憂えある人のかたわらに、歌をうたう
一、親切らしく、もの言う
一、人をおだてて、なぐさむ
一、人の言葉を笑う
一、じまんばなし
一、もしり顔に言う
一、学者くさきはなし
一、茶人くさきはんし
一、問わす語り
一、さしでぐち
一、ことばの多き
一、かえらぬことを、幾度も言う
一、さしたる事もなきことを、こまごま言う
一、腹立ちたる人に向かって、道理を言う
一、客の前にて人を叱る

たぶん、良寛さんの言葉です。
良寛さんは禅宗のおぼうさんですが、禅師とか和尚とはみなからよばれず、親しみをこめて良寛さんとさんづけで呼ばれる不思議なお坊さんです。

優しさと、清さと、その中の強さを感じます。

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マハトマ・ガンディの七つの社会的罪

インド建国の父と呼ばれた、マハトマ・ガンディの言葉です。

私が小学校のころの教科書に、非暴力抵抗運動の指導者として紹介されていました。偉大なインドの指導者だけでなく、世界の偉人として教わりました。また私の尊敬する人の一人です。

その、マハトマ・ガンディの七つの社会的罪とする戒めの理念です。
・理念なき政治  ・Politics without Principles
・労働なき富   ・Wealht without Work
・良心なき快楽  ・Pleasure without Consience
・人格なき学識  ・knowledge without Character
・道徳なき商業  ・Commerce without Morality
・人間性なき科学 ・Science without Humanitiy
・献身なき信仰  ・Worship without Sacrifice


これを見ていてかつて日本人がかつて忌み嫌ったものそのものです。しかし、今はこの多くが当てはまる政治家が多いように思います。

もう一度このマハトマ・ガンディの言葉を授戒してみてはどうかと思います。
いや政治家だけでなく、人としても真摯にいきる上では戒めないといけないmのだと思います。そして、真摯に生きるには心に余裕がなければ、なかなかそうなれないものです。心に余裕をつくるには、心を豊かにしなけれが、迷いに負けて余裕が無くなってしまいます。心を豊かにするには、人から愛されることだと思います。人から愛されるには、人を愛さないと人からは愛されないでしょう。

なんだか、メビウスの輪のようになってしまいましたが、上の七つの戒めを噛みしめたいと思います。

善い人間を論じるのはいい加減にやめよ

善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて、善い人間になったらどうだ。
マルクス・アウレーリウス『自省録』
 
アウレーリウスの言うとおりです、穴があったら隠れたいほど、耳が痛い言葉です。
 
これを実現し実践することは難しいもので、「人は霞を喰ってはいけない」もいいます。また、葉隠れに、宗龍寺の江南和尚の教えにたいして、「武士の生き方は修行僧などとは違う。武士は、大高慢で、自分こそ日本無双の勇士と思うほどでないといけない。」言っています。
 
しかし、ルクス・アウレーリウスは第16代ローマ皇帝で、ストア派の哲学に長け、学識でそれにより国を治めたことにより、古代ギリシャ時代から「哲人政治君子」を具現させた人とも言われている人です。流石哲人の言葉だと感じます。
 
中国にも帝王学があり、王や君子や帝のありかたは洋の東西にかかわらず、基本的には同じなのでしょう。
今日もこの一言を心がけて取り組んでいきたいと思います。 

自然を究めている者に笑われる

「このキュウリは苦い」ならば捨てるがいい。」
「道にイバラがある」ならば避けるがいい。それで充分だ。
「なぜこんなものが世の中にあるんだろう」などと付け加えるな。そんなことを言ったら自然を究めている者に笑われるぞ。
マルクス・アウレリウス 「自省録」
 
世の中に不要なものがあるのだろうか、「このキュウリは苦い」私の子どもの頃はキュウリのもとの方は苦かった、始めにもとの方を少し切り、切り口を合わせて摺ると苦みの液がでてきました。それか切ってしばらく逆さまに立てかけたりする方法もあったようです。
アウレウスはそのような事をせずに、いろいろ文句を言うのではなく、捨ててしまえと言っています。
中には、なんら苦みを抜くこともせずに、文句ばかり言っている人もいます。ひどいときには周囲に当たり散らす人もいます。その当たり散らす人をみると、滑稽でまさしく笑ってしまいます。
 
この話自然恵みや、災害などの事だけでなく、世の中のいろいろな出来事や、社会の仕組みなどにも、ありようなものでしょう。
キュウリなら食べなくても他のものがあります。イバラの道なら他の道を通ればいいのですが、いつももそうすることですますことができるとは限りません。

しかしなかには、避けて通ることができない場合もあります。そのときのためにそれらに向かい合える心構えはしておかないといけないと思います。
 
しかし、このところ世の中は、不都合なことから避けてしまったりする人が増えているように思います。そしてそのような人の多くは、逆に真っ向から否定して、自分の意見を押し通そうとする人に目を向けたらり、付いていこうとしたりする雰囲気が合るのを感じます。
そのような人が増えていることに、今の世の中の心の不安定さを感じ、世の中がどちらの方向に進むかが心配です。

ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけではなく、耳にも入らないという、すばらしい才能を持っている。

ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけではなく、耳にも入らないという、すばらしい才能を持っている。
ジョージ・オーウェル ナショナリズムについて
 
他人の歯や眼を傷つけながら、報復に反対し、寛容を主張する、そういう人間には絶対に近づくな。
魯迅
 
 
今の国際社会を見ていると、まさにこの有様です。これについては特段付け足すことはないでしょう。
 
日本の国内を見ていても、国会の与党も野党も地域正当もみな仮面をかぶり、直面は同じ顔をしているのではないでしょうか。
 
確か、ニーチェが次のようなことを言っていたとおもいます。
「狂気は個人にあっては希有なことだが、集団、民族や時代によっては普通になることがある」

「ナショナリズム」を追求しすぎると、過度な愛国心に走ってしまうことがあると言える。
愛国心も、良い愛国心と危険な愛国心があると言えるかどうかはわからないが、冷戦が終結してからの最近の国際情勢や日本国内の動きを見ていて、どちらかと言うと危険な愛国心が増長しているように思える。

良い愛国心・危険な愛国心とはなにか。
一口にいって、良い愛国心とは、自分と自分アイディンティティの国やそれを構成する複数の民族とその文化や風習などを愛する心です。

しかし、危険な愛国心は、他民族の文化や風習に嫌悪感を示したり、否定して自国を他の民族や国より優秀だと美化する心でしょう。
 
過去には、これにより一民族を地球上かあら抹殺しようとする集団もありました、そしてその集団多くの民主的で進んだ国民が支持しその指導者について行ったこともありました。
 
冷戦が終結し一国独走時代といわれますが、そのような時こそ国際化の意識を深め、お互いの国や民族やその文化を尊重し合い認め合いうことが大切になってきています。
一部に原理主義的や排他的な考えを持った指導者いますが、そのような国々や指導者とも息を長くして、世界の人々がたとえ仲がよくなくても、手を取り合って歴史を進めていく道を探って歩んでいきたいものです。

理想主義は、よほど本人がしっかりしないと空想になる

理想主義は、よほど本人がしっかりしないと空想になる。どちらかといえば現実主義のほうが間違いが少ない。その代わり、これが間違うと固陋になり、進歩がなくなる。
安岡正篤 これは、数日前の致知のWebページに載っていたことばです。
 
治世で理想を追求し出すととどまることがなしでしょう。現代をみてみると、社会福祉の問題、高齢者福祉の問題、市民生活の安全、住民サービスの充実、原子力発電な廃絶などなど、今以上に高めてほしいものばかりです。
しかし、これらを実現させるためには、財源が必要でそれには限りがあります。消費税を上げる上げないなどの議論があり、方や社会生活の充実の為の議論もされています。

また、国際社会を見てもエネルギー問題や、宗教問題、平和の構築のためにもんんだいなどがあります。
現実を追求していくには、なにを選んで何を捨てっていくかを決めていかなくてはならないでしょう。そしてこれらを決定するには多数決のごり押しになっては、多数決の暴力となってしまうでしょう。少数の意見を省みず数で押し切るのは独裁となってしまうでしょう。

多数決でのごり押しは一時は、安定して見えてもいずれ綻びが見えてくるものです。
理想ばかり追求しては迷走ばかりして、なかなか前に進むことはできないでしょう。
やはり、理想主義と現実主義のバランスと調和が大切でしょうが、今の日本の政局を見ていると、既成の政党集団も、新しく生まれてこようとしている集団も、どちらも自分の集団のことしか見ず、互いに足の引っ張り合いをしています。
 

巷の一市民はである私は、一時の雰囲気や風潮に流されないで、冷静に政治の流れを看ていきたいです。
 
先に紹介した安岡正篤の言葉は、次のように続いていました。
少々進歩がなくても確かなほうが安全だ。だから人間は自然には、だいたい現実主義者である。そういう意味から、少し危なっかしくても理想主義者のいるほうが刺激的で進歩があるともいえる。なかなか人間は難しい。

自の造る 自に因る罪 

自の造れる 自より生ぜる 自に因る罪は愚者を壊る 猶ほ金剛の宝石を壊るが如し
  法句経一六一
自分の蒔いた種は、自分の中で芽生えて、いつの間にか大きくなってしまうものです。それは悪行であれば、愚人をは道を外れてしまい自分の価値を損なってしまう。まるでダイヤモンドの宝石も扱い方によってキズツいてしまうのと同じようなものだ。

人若し少しも戒を持たずんば 蔓の滋れる沙羅樹の如く 自ら敵の欲するままに挙動ふ
  法句経一六二
自分の行いを少しも悔い改めないものは、堅い沙羅の木に宿り木の蔓草が、木を覆い尽くすと蔓の根が、木の幹奥深くまで蔓延り、ついには沙羅の木は枯れてしまう。まるで自分から敵の中に身を投げ込んでいるようなものだ。

善いことと悪いことでは、本当は自分にとってよくないことの方が、まま行い易いことが多いようです。善いことを最後まで成し遂げるのは難しいもので、常に自分を振り返り戒めないと、いつの間にか不善への道の方を向いてしまって、気が付くとすでに数歩足を進めてしまっていることもある。そのようなときも、それに気が付いたらすぐに改める勇気と決断が大切になってきます。
最近の世の中を見ていると、政治の世界も商売の世界も、表面の自分を守るためにズルズルトその不善の方にのめり込んでしまい、ついには身を滅ぼしてしまうことのなんと多いことと思います。
製紙会社の不正な大金引き出しや、年金運用の投資会社も、最初から多額のお金を横領しようと思ってはいなかったでしょう。始めの投資の失敗を覆い隠そうとして、その躓きが己の目を曇らして、転落の一途をたどったのでしょう。
福井の原子力発電所の事故は、人災と結論づけられました。これも、始めの事故への風評や世間の混乱を恐れ、その考えが判断を誤まらさせて、真相を隠したり逸らしたりして、それが事故をより大きくする結果になったのでしょう。
 
私たちの、日常の生活でもままよくありそうなことです。ついつい人の悪口を言ってしまう。悪口などはそれが周り回ってその本人の耳に入ることもあれば、それに尾鰭がついて取り返しの付かないこともある。しかし、それより悪口を聞かされる方は、この人はそれぐらいの人と、悪口を言っている人を評価してしまうので、結局は自分自身の評判を落としてしまうのです。
ほかにも、カロリーの高い美味しいものばかり食べてします。ちょっと気分がいいからとお酒を飲み過ぎてしまう。いや逆に物事が思い通りにならないために、投げやりな気持ちになって酒を飲み過ぎることもある。これも自分自身に自制をきかすより自暴自棄になることが容易いからでしょう。
いろいろと気をつけたいものです。

自分自身を愛することから始まる

・人若し己を愛すれが須らく善く慎みて己を護れ、智者は三時の中一たびは自ら省みる所あるべし
・初めに自ら応為に住すべし 而して後他人を誨へよ 斯くする智者は煩はざらん
・他に誨ゆる如く自ら剋修すべし 自ら善く調めて而して後能他を調むるは実に難し
   法句経
先日書いた法句経の己身の部の一番始めに書かれている言葉です。
 
もし人は、自分自身を愛することから始まることが解れば、自分自身を大切にすることの意味が解るでしょう。この道理をわきまえたならば、修行の正法時・像法時・末法時だけでなく、それ以外の過去・現在・未来などにおいても、自分自身を振り返り厳しく修養しなくてはいけない。
人に物事を教えるには、まず自分自身が何をなしどうするかを知って置かなければならない。それから他人を教え諭すことができるもので。人を教えようとするならこのことを、めんどくさがったり疎かにしてはならない。
菜根譚や言志録にも同じようなことが書かれているように思います。
人を教えることをするなら、その前に自分自身を修養すべきことを心に刻まなければならない。そのように、自分を修養してからでないと、他人を教えることであるが、このことは難しいことで、それを続けないといけないのでしょう。
荀子の一番始めにも、「学は已むべからず、青はこれを藍よりとれども藍より青く。」と書かれています。私は教鞭を執っていましたが、拙輩であった私にはなかなか難しいことですが、少なくともそうあるべきだと常々思い続けていました。
 

己を以て主とす 他に何ぞ主あらんや 

己を以て主とす 他に何ぞ主あらんや 己を善く調べぬれば能く得難き主を得   法句経

人類が二本足で歩くようになり、文明がが滞ることを知らず発展し続け生活が便利になり、経済も高度に発展してきました。そんな中、自分に自信を失いかけている人がたくさんいるようです。
一つのつまづきや失敗で、自分を見失い後々まで尾を引き、自己を喪失してしまっている人が多いようです。

他力に頼むのも一つの方法ですが、しかし根源的には自分を救済するのは自分ではないでしょうか。

自分を救う本当の救護者は自分自身である、だれがこの自分の身の外に救ってくれるものがあろうか。よく自分の意に従わせるのは自分自身であり、自分の気持ちなどを押しとどめコントロールするのは、自分自身です。それを知れば他に得難い救護者を見つけたことになる。

どの様なことがあっても、自分を見捨てず自暴自棄にならず、己を大切にしなければならないです。

この法句経の後方に、次のようなことが書かれています。

「不善と己を益せざることは為し易し 益し且善くある事は甚だ為し難し   法句経」
自分にとって悪いこと不益なことはたやすく行いやすい、しかし自分にとって有益で善い行いは、極めて難しいものであるが、それこそ大切なもので勉めて行うべきものです。

貧しくもなく、また富みもせず、

旧約聖書の箴言三十章
わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。
うそ、偽りをわたしから遠ざけ、
貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです
箴言 30章

また、論語に次のようなのがありました。「中庸は徳の至れるものなり。過ぎたるは及ばざるがごとし」。聖書の言葉もこれとよく似ています。

中庸とはある意味で、曖昧ですが最近の世の中の風潮として、それが許されないようになってきているように思えます。

自分の意見を言うときに、自分と対立する話題を批判して、話を展開させる人が増えてきたように見えます。
何か事件や事故が起きる、その原因は何かすぐに白黒を明らかにせよと、世論は沸騰しマスコミはそれに合わせた報道をする。

政治の世界でも、法案の修正の応じると言いながらも、難癖を付けて議論がなかなか前に進まない。

自分とは違う意見を言う人に、徹底に批判し正常な議論が成り立たない。

このようなんな構造で議論を進まされると、どちらが勝ちどちらが負けるかという「勝敗」に気が取られてしいましい、本当の肝心な議論の核心を見失ってしまいそうになります。

私たち第三者として、双方の良いところも悪いところも見たうえで、時の雰囲気に流されずに、冷静な判断を下せるように、視点を持ち続け見守り判断していきたいものです。

独治無くば、賛明有り

正倉院の宝物に「鳥毛篆書屏風」がる。「鳥毛帖成文書屏風」と違いこちらは四言二句です。六扇  
同じ漢字を小篆書体と繆篆書体の二種類の文字が配置して作られています。  

聖武天皇が身近なところに置き毎日この屏風を読みながら、朝に今日一日を戒めて政をおこない、夕に今日の一日を反省しと、伝えられた鑑戒の文言です。  

主無獨治 臣有賛明  
箴規苟納 咎悔不生  
任愚政乱 用哲民親  
明王致化 務在得人  
見善則遷 終為聖徳  
近賢無過 親接多惑  

今の政治家や企業のリーダは、この句を読むのでしょうか。

平成十八年の第五十八回の正倉院展に、二扇が出品されている。その図録に次のように書かれています。
    主無獨治 臣有賛明 
        主が、獨治すること無くば、臣、賛明すること有り
    箴規苟納 咎悔不生 
        箴規、苟も納められるれば、咎悔生ぜず

・君主が政を自分勝手に治めなければ、臣下は君子を助け治世を明らかにする。
・戒言を聞き入れ規範を護れば、世の中に過ちや悔いを生むことは無い。

他の四扇は、どのようなことが書かれているのか、漢文に疎いわたしが、読んでみましたが正しくはどのように読むのだろうか。

任愚政乱 用哲民親
    愚を任ずれば政乱れ 哲を用うれば民親しむに多し
明王致化 務在得人
    明王、化を致す 務て人を得るに在り
見善則遷 終為聖徳
    善を見ては則ち遷る 終に聖徳と為す
近賢無過 親接多惑
    賢に近づけば、過ち無く 妾に親しめば、迷い多し

・愚な宰相に政治を任せれば、世の中が混乱する。学識が豊かで、道理に通じた人を用いれば国民は心に隔てをおかずに生活も善くなる。
・聡明で徳の高い君子は、国民を徳でもって善い方向に導く。 自分のすべきことをする人を登用するに尽きる
・道義にかなっていることを見て適材適所をはかる。
遷る つまるところ真理を正しく知るにつきる
・賢人近ければ過ち無し、色や物欲に惑わされると道を誤り迷いも多い。

天平の時代に天子が憂い戒めの言葉としていました、今の政治家も本当に見習って欲しいものです。

貧しとも清しは長く楽しめ 富も汚と恒に憂う

正倉院の宝物に鳥毛帖成文書屏風があります。
その屏風に鑑戒的な四言四句の詞が書かれています。屏風は六扇で作者は、墨書きから谷田部咋万呂とされる。

千三百年ほど前に書かれたものだが、今の世にも通じるものがいくつかあるので、私なりに解釈してみました。

清貧長樂濁富恒憂
孝當竭力忠則盡命
貧しとも清い生活は長く楽しめ、富があると汚れて得ていると思い煩う
孝行に尽くし切ること、真心もって君主に仕え尽くす

君臣不信國政不安
父子不信家道不睦
君と臣下が信頼関係になければ、国の政治は安定しない
親子が互いに信じ合わなければ、家庭は円満でない

種好田良易以得穀
君賢臣忠易以至豐
好い種を良い田に蒔けば、穀物が好く稔る
賢い君に忠誠な臣下であれば、国は豊かに栄える

諂辭之語多悦會情
正直之言倒心逆耳
へつらいの言葉は、耳障りがよく心地良い
嘘や偽りのない言葉は、耳障りが痛く心にも痛い。

正直爲心神明所祐
禍福無門唯人所召
正直な心は、天のが見守り助けてくれる所がある。
禍や幸せは門地ではない、唯だ人の行いから来るものだ

父母不愛不孝之子
明君不納不益之臣
父母は親不孝ものの子を可愛がらない。
優れた君子は、役に立たない臣下を重要な地位に取り立てない。


昨今のニュースを聞いていて、巷の家族での不幸な事件や。
国や自治体でのいざこざは、いつの時代にもあったようです。
この天平の時代には仏教の教えなどで、規範を守ろうとする心があり、後の時代も江戸時代までは、儒教などの教えを守り行うことにより、武士などの為政者は貧しくても品と誇りをとり修養し庶民から敬われ、商人は富をとったが、清貧の誇りを持った武士の姿をを見習おうとしました。

しかし、今の政治家は自分が正しいと独断で主張し、なりふり構わぬ行いにをする人がいます。庶民は庶民で富ばかり追い求めたいたり、自分の今の快楽を追い求めたりです。
また、政治家の自己の保身や主張を無理に通そうとする姿に、庶民は品のなさを感じ愛想を尽かすしています。しかしそれに気づかぬ人が政治家などが多すぎ、この海原の航海先を憂うのは間違っているのでしょう。

人を観る方法は人からも同じように見られている

人を観る方法は「呂氏春秋」に八つの観る方法と、六つの調べ方があると書かれています。
また他人を判断するときは、六戚と四隠があるとかかれてある。

通則観其所礼 
貴則観其所進 
富則観其所養 
聴則観其所行 
止則観其所好 
習則観其所言 
窮則観其所不受 
賤則観其所不為 
これを八観といいこれは、先に書いたので改めてかかない。「貧したときに何を取ろうとしていないかを見る 」と「人物をみる観法 」を見ていただければと思います。

喜之以験其守 
楽之以験其僻 
怒之以験其節 
懼之以験其恃 
哀之以験其人 
苦之以験其志 
これを六験といい、喜怒哀楽と恐懼の時にどのようなことをするかをしらべて観ると、その人がどのようなひとか判るといっている。

このほかに、人を観るのには、六威四隠をがある。
六威とは、父母兄弟妻子のことであり、その人の家族関係がどのようなもので、どのように大切に扱っているか。

四隠とは、交友 故旧 邑里 門郭のことで、その人がどのような社会環境で過ごしているかをいう。
交友はどのような人とつき合っているか 故旧は古くからの友人をいい。 邑里は故郷をいい 門郭はその人の住んでいる所をいう。

人の観方とするのではなく、人は自分をこのように見られているのだと考え、日ごろの生き方に注意を払って、生きていければと感じます。

浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ

浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ

このブログの自身の記事「ヒステリックな両議論・・・」のコメントを返すのに、「ぼやき漫才」の人生幸路が生きていたらどんな漫才をするだろうかと書きました。すると昔の二人のやりとりを思い出しました。「ぼやき漫才」の人生幸朗と生恵幸子の二人が出てきて、「浜の真砂は尽きるとも世にボヤキの種は尽きまじ」とすまして人生幸朗が言う、相方の幸子が「なにキザなこと言ってる」と突っ込みを入れるところから始まっていました。この言葉は釜茹でになったことで有名な大盗賊の石川五右衛門辞世の句「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」から取ったものと知ったのは、私が大学生になってからでした。

このところ本当に色々な事件や事故が起きて、毎日いろいろな記事が新聞をにぎわしますが、また悪事も「浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」と詠んだごとく、「浜の真砂は 尽きるとも 世に新聞の 種は尽きまじ」で事件事故は尽きないものですね。

その中でも、おれおれ詐欺や迷惑メールなどは、辺の砂のように無数にはびこっています。そしてこれらの種を行う下賤なやからは、尽きることがなく性懲りもなく、同じことを繰り返しているようです。この種のものは本当になくならないのはいつの世も常なのでしょうか。

しでかす人や罪をとやかくではなく、このようなことを行おうとする気持ちにさせる、行き詰まって荒んだ世の中のをどうしたらよいかと思ってしまいます。

人物をみる観法

李克が人を見る五つの要訣を先日書いたが、安岡正篤が同じようなことをいっていました。

安岡正篤は[人物をみる八観法]として、八つをあげています。そこで、李克が言ったこと以外の他の言葉を、私なりに解釈して紹介してみます。

・物事が順調にいっているときは、どのようなことを尊重しているかを観る
・善いことを聞いたらそれを受け入れて行動に移せるかを観る
・物事を習熟したらその人が天狗になっているかいないかを観る
・習熟して一人前になれば今までの生活とどう変わっているかを観る

順調にいっているときこそ気を引き締めて、油断をしないようにしなくてはならないのは当たり前です。
それより、成功をするなり、地位が上がるとそれは自分の実力や徳があると、思いこんで驕ってしまうことがあります。しかし驕ってしまうと周囲の人はよくみていて、そのような人には諂う人しかついてでしょう。直言や諫めてくれる人は遠退いてしまうものでしょう。

この[人物をみる八観法]は人を見る法としてだけでなく、己はどのようにあるべきかを考えるのに良い言葉だと思います。

貧したときに何を取ろうとしていないかを見る

魏の臣 李克が文侯に次のように問われた、人を見るときどのような所を見たらよいかと、
そして次のように答えたといわれています。
居視其所親
富視其所与
達視其所挙
窮視其不為
貧視其不取
李克 李子

その人が普段誰と親しくしているかを見る。
その人が富めばどういう人に与えているかを見る。
地位につけば誰を登用したり推挙しているかを見る。
困ったときに何をせずに耐えているかを見る。
貧したときに何を取ろうとしていないからかを見る。

一番目の言葉は、どのような友達を持っているか、人付き合いを選べてよくいわれます。以前に紹介した老舗の商家の家訓に「主人は雇用人と共に働け」「雇用人はわが家族と思え」と言う言葉があります。長たる者は、どのよに部下などと接するかや普段の人付き合いもどのようにすべきかを言っているように受け取れます。
二番目の言葉は、今風に言えば社会還元で、アメリカなどキリスト教の教えが強いところでは、慈悲の心の教えがあるので成功した人などは、慈善事業に接触的に投資する人もおおいし、東洋でも己の富は人助けにより富いるので還元しないといけない。など儒教の慈悲の教えがあります。これも先の商家の家訓に「勉めて公共の事業に尽くせ」と言うことばがあります。
三番目の言葉は、直接は権力者について言っている言葉で、自分の都合の良い人ばかり周囲に置くのか、自分に使えここぞと言うときは諫めてくれる人、公正公平な視野でものを見、考える人を置いているかということでしょう。
四番目と五番目の言葉は、困っていうるときや窮極のおいこまれたときでも、やってよいことと悪いことがあります。何をせずに耐え、何をして取り組んでいるかが大切と言うことでしょう。ムヤミヤタラと八方働き回っても、窮地に陥っているときは空回りするだけです。これも先の商家の家訓に「時勢を見抜いて商機を逸するな」と「必ず投機的事業を避けよ」言うことばもあり通じるところが亜量に思えます。

因みに、この老舗は今も関西の有名私立学校の理事をして、多くの実業家や政界人や知識人を排出しています。
この家訓を作った人物は「李克」のこの言葉を知っていたか知らなかったは、わからないですが、二千五百年ほど前に李克が言ったとされる言葉ですが、少し今の時代に合わないところもありますが、解釈を変えてみれば現代にも言えることだと思います。

先の投資会社の国会での答弁を聞いていると、いい加減に子ども以下の言訳をするのやよしなさいといいたいです。このことがを知らしめたいと思ったりします。
また、その会社に資金を預けてしまった団体も、のもこの言葉を知っていれば、預けることもなかったでしょう。

最後に李克は魏王文侯に次のように言って席を辞したそうです、「この五点を見れば、人物を選定するのに十分です。どうしてわたくしなどにお問いになることがございましょうか。」

心を喜ばして怒らない

心を喜ばして怒らない

心をしづかにしてさはがしくせず、ゆるやかにしてせまらず、気を和にしてあらくせず、言を少なくして声を高くせず、高くわらはず、つねに心をよろこばしめて、みだりにいからず、悲を少なくし、かへらざることをくやまず、過あらば、一たびはわが身をせめて二度悔ず、只天命をやすんじてうれへず、これ心気をやしなふ道なり。養生の士、かくのごとくなるべし。
貝原益軒 養生訓  二 二六

日頃からやたらとハシャいだりすることなく、心を落ち着けて静かにして、気持ちにゆとりを持ち、時間などに追われ続け窮屈なことをしないで、気持ちをしなやかにして、杓子定規に生真面目になりすぎ角を作らずに、正しくないからといい気持ちをあらげないでおく。たとえ相手が悪いからといって言葉もまくし立てるように喋るのはよくなくいので少なくして、声をあらげて大きい声をださず、笑うのも大げさに大きな声を出すのは良くない。
いかなる時も、いろいろな周囲の出来事などを好ましいこととしてうれしく思う心を持ち、意味も無いのに何かと不平を言ったりして心を怒らせたりしない。悲しみをすくなくして、過去の失敗などを何時までも悔やみ自分を責め立てるのは良くない。
只、天から与えられた使命として受け入れ、心悩まないのがいい、これが養生の秘訣で、これらを忘れ怠ることのないようにするのがよい。

何でもハイハイ受け入れるのが良いと言っているのではない。自分を持たずに心の動かされるままに、気持ちが揺れて動いてしまうのは良くないといっている、端から見ても風見鶏のようにも見え、根無し草のようにも見え、雲助のようにも見える。そのようなのは生き方としても良くないし、身体の養生の面からも良くない。自分をしっかりと持ちゆったりと日々を過ごせと言っているのでしょう。

人の命は我にあり、天にあらず

人の命は我にあり、天にあらず

人の命は我にあり、天にあらずと老子いへり。人の命は、もとより天にうけて生れ付たれども、養生よくすれば長し。養生せざれば短かし。然れば長命ならんも、短命ならむも、我心のままなり。身つよく長命に生れ付たる人も、養生の術なければ早世す。虚弱にて短命なるべきと見ゆる人も、保養よくすれば命長し。これ皆、人のしわざなれば、天にあらずといへり。もしすぐれて天年みじかく生れ付たること、顔子などの如くなる人にあらずむば、わが養のちからによりて、長生する理也。
たとへば、火をうづみて炉中に養へば久しくきえず。風吹く所にあらはしおけば、たちまちきゆ。蜜橘をあらはにおけば、としの内をもたもたず、もしふかくかくし、よく養なへば、夏までもつがごとし。
貝原益軒  養生訓 1 7

これは、貝原益軒の養生訓の一節です。
このととは、改めて現代の言葉に訳す必要なないでしょう。まさにこの通りです。同じことが昔の中国の医書「黄帝内経」にも書かれています。黄帝内経は今から二千五百年前に書かれ書物です。
その中に次のようなことが書かれています「昔の人は百歳まで元気で生きていたと言われている。しかし今は五十歳になるともう衰えてしまっている。」
医学の発達した現代人からみると、織田信長が好んで舞った「敦盛」に「人間五十年化天のうちに比ぶれば・・・」とあるように、昔の人は50歳ぐらいの寿命だと思われているし、私の小さいころは50歳と言えばかなりかなり高齢の老けた人に見えていました。そのようなことですから、二千五百年前の人が、昔の人は百歳まで生きれたようなことを言っているのは。中国の独特の誇張した表現と思ってしまうでしょう。
しかし、「黄帝内経」に次のように書かれています。「今の人は食に贅沢で、酒は浴びるようにのみ、色を好み節制がなく、欲深く怒りをすぐにあらわにする。それでは寿命を縮めているようなものだ。昔の人はそのようなことはなかった。もともと食べ物もそんなになかったし、いろいろな遊びもなかったので、朝起きたら働き夜になると寝ると自然の流れに沿って生きていたので、百歳まで生きれたのだ」と書かれています。
このことを聞くと、今も二千五百年前の昔も不養生はそんなに変わらないようです。
若いから自分は元気だからと言って不摂生をし不養生をして、思いもかけず病気になったり短命で終わってしまう人がいます。
逆に子供の病弱でいたが、自分の身体に気を使い、精進し養生し用心して生活をしている人は、病気もせず天寿を全うする人がたくさんいます。
やはり、養生は大切なのですね。

日本では「人間五十年」と昔からよく言われ、織田信長が好んで謡ったとされる「敦盛」がよく知られています。
ところで、「黄帝内経」の中国では「生年不満百」と言う詩があるそうです。
内容は、詳しくはしりませんが、人生の短さを心配しながら、財をケチりながら生きるのは笑いもので、どうせなら楽しく生きたらいい。と言うところでしょうか。
「敦盛」は、人生というものは儚いものので、邯鄲の夢のようなものだ、と言っているのでしょうか。

この二つ大きく違いますが、どちらの生き方がいいのでしょうか。

Boys, be ambitious.

青年よ、大志を抱け。
Boys, be ambitious.

この言葉はクラーク博士が札幌大学を退官するときに学生たちに講話したときの言葉です。しかし、多くはこの言葉しかしりません。その後に博士は次のようにいています。
Boys, be ambitious. Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame.
Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.

青年よ大望を持て。金銭や利己的ために大志をいだくのではない。世の人々の世間からの地位や役職を得たり称えられたりするためにするのは、もろくて長続きしない束の間に消えていくようなものである。大望は、人としてあるべき姿を実現するために物事を成し遂げることである。このことを心することは間違いのないことである。

罪を憎んで、人を憎まず

罪を憎んで、人を憎まず
イエスを罠にはめようとして、不倫の女をイエスのもとに連れて来て、イエスを陥れようとした者たちが、ひとり残らず立ち去っていった話です。

ヨハネによる福音書 7章53節
そしてえ、人々はおのおの家へ帰って行った。
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早くまた宮に入られると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスは座って彼らを教えておられた。すると、法律学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時に捕まえられた女を引っ張ってきて、中に立たせた上、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の場で捕まえられました。モーセは法律の中で、こういう女を打ち殺せと命じましたが、あなたはど思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた。「あなた方の中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついにイエスだけになり、女は中にいたまま残された、「女よ、みんなはどこにいるのか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない、お帰りなさい、今後はもう罪を犯さないように」。


権力者たちがイエスを罠にはめようとした話しです。
不倫の現場で捕らえられた女を連れて来て、律法通りに石で打ち殺さ断罪させるか、赦すか赦すことは律法に反することになります。
イエスが律法に同意すれば、罪を赦す神の愛を説いたイエス御自身の教えと矛盾することになります。
この問題にイエスは、かがみ込んで地面に何か書いて、無視して取り合わないようにしました。そして、刑罰を執行するには、完全に潔白な人でり、罪を犯したことのない純潔な人だけが、罪人に対する罰を執行できるのだといいました。

今の世の中を見ていると、他者を断罪するばかりで、自分自身の罪を見ようとしない人が多く、罪を憎まないで、人を憎んでいるように見えます。
大切なのは、人を憎んだり、傷つけたりして怨みを晴らすことではなく、罪を犯した人も被った人も、罪と戦うことではないでしょうか。そうしないといつまでもその罪の呪縛から解き離れることはないでしょう。
罪人を法廷で裁いたり、犯罪者を矯正するこを悪いと胃っているのではないです。
罪や悪意を持った敵を憎んで、目には目歯には歯のようであったり、復習のために、悪事に手を染めてしまってはなにもならないのではないでしょうか。

金は鉱より出で 玉は石より生ず

金は鉱より出で 玉は石より生ず 幻に非ざれば 以て真を求むることなし
道を酒中に得 仙に花裡に遇い 雅なりといえども俗を離るる能わず
菜根譚 後八五

金のような価値のあるものでも、精錬しないと使い物にならない。ダイヤなどの宝石も、磨かないと輝きが出てこない。優秀な成績を結果を出す人も、周囲の人によって磨かれ、自分の努力によって成し遂げられたものでしょう。人を育てることは大切ですね。
最近注目されているレアメタルも、それを採掘するのに周囲を自然を破壊して得られる。そのことに目をそらしがちであるが、それだけの代償を払っていることを忘れてはいけない。また、取り出しものもそのまま使えるのではなく、多くの手間暇を賭けて精錬されて、始めて貴重なレアメタルとして利用できるのです。
しかし、貴重な金属だけでは機会はできない。ふつうの鉄鉱石があって鉄があり、いろいろな機械ができるのです。そのように特定な希少価値があるものだけが重要なのではない。どこにでもあるものが本当は大切であり、そこに
真実があり、この現実の世界の中にある。
酒を酌み交わしながらでも、人の道を見つける事ができるし、桃源郷のようななかでも道を見つけることができる。風流も巷の現実の世界と別のせかいではないのである。

白隠禅師の「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の他に仏なし」を思い出した。

倦むに因って終わりを鮮くすべからず   

喜びに乗じて諾を軽くすべからず   
酔いに因って怒りを生ずべからず   
快に乗じて事を多くすべからず   
倦むに因って終わりを鮮くすべからず   
菜根譚 前二一六   

どこかの商家の家訓にありそうな言葉ですね。  

喜びに浮かれて、後先の事をよく考えずに、約束事などを承諾してはいけない。
酒の酔いにまかせて、怒って無闇矢鱈に腹を立ててはいけない。
調子がいいからといって、事業を広げたりするのはいけない。
飽きたからといって、しかかっていることを途中で投げ出してはいけない。

耳が痛い言葉ばかりです。
いつもは慎重なのに、何かいいことがあると、気分も良くなり調子に乗って、安請け合いをしてしまう。そして後で気が付き後悔をする事もありますね。
何か意に添わないことに成ってしまうと、やけ酒をのんでしまいグチばかりでてしまったり、酔いに任せて罵ったりしてしまう。それならまだ酔い方で、喧嘩を始めてしまう人も時々見受けます。
商売が順調だからといって、調子に乗って手を広げすぎると、その時流が過ぎると一転て調子が悪くなってしまう。
飽きたからとか今うまくいかないからなどと、言って途中で投げ出すなどは以ての外です。最後までやり抜くことが大切ですね。

ある江戸時代からつづく老舗の家訓に、
祖父の業を専守せよ、
必ず投機的事業を避けよ、
時勢を見抜いて商機を逃すな
主人は雇用人と共に働け
勉めて公共事業に尽くせ

分け隔てなく、 幸せであれと願う

幸せであれと願うのは誰しも同じです。また誰しも多かれ少なかれ、憎しみ、嫉妬、羨み、怨みなどを抱くのものです。しかしそのような相手にも幸せになれと願うことは、自分自身が心穏やかになり幸せになる簡単で確実な近道だと、昔から言われている。

自分自身に対しても、
好きな人に対しても、
嫌いな人にたいしても、
自分を嫌いな人にたいしても、

苦しみがなくなり、
願いが叶えられ、
悟りの光が輝かんとする
ことを誰かれなく分け隔てなく、
幸せであれと願う事が大切です。

これらのことは、頭で分かっていてもいざ実践するとなると、なかなかできないものです。
しかし、唱えるだけ、常々思うだけならできます、常々唱え思っていると、心の奥底のそれが種となり、やがて小さな芽となっていくのではないでしょうか。そして、それがいつかは綺麗な花を咲かせ、やがて実になるかもしれません。
植物には種を蒔くと一年で花を咲かせ、毎年実を稔らせるものもあれば、花が咲くまで数年ものによると数十年かかるものもあります。しかしどの植物もやがては花を咲かせ実を稔らせるものです。
上の言葉をいつも心のどこかにしまっておき、時々唱えるのもよいかもしれません。

これらの種をまき、分け隔てなく、幸せであれと願うことが大切ですね。
■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

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記事へのコメント
  • 不自由な国、日本
    竹林泉水 (06/29)
    日本語に「世間」と言葉があります。「世間体が悪い」「世間がうるさい」「世間を渡る」「世間に顔向けできない」「世間の目を気にする」「渡る世間に鬼はいない」などとつ
  • 不自由な国、日本
    アジシオ次郎 (06/27)
     おはようございます。

     日本はやはり集団主義が根強い社会であり、いわゆる「ムラ」社会的価値感が強い為に変に「和」を重んじる傾向の上に上の言うことは絶対だという
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    竹林泉水 (06/26)
    なんで日本人は欧米人に対してコンプレックスを持っているのだろうか。明治政府は今までの幕藩体制をぶっ壊し廃藩置県をし、国内の不平不満のエネルギーを外に敵を作ること
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    アジシオ次郎 (06/25)
     こんにちは。

     日本人は長年欧米コンプレックスを抱いたせいで白人に対して好意的に見る一方でアジア人や黒人を平気で見下すような傾向が強いけど、自分たちが置かれて
  • 長期政権
    アジシオ次郎 (06/24)
     おはようございます。

     長期政権がもたらすもの、それは腐敗と閉塞感以外の何物でもないが、一人の人間が十何年、何十年と居座ってては健全さなど皆無だし、変化を知ら
  • 人種差別から思ったこと
    竹林泉水 (06/21)
    コメントありがとうございます。

    人間は、自分は他よりも優秀だ思いたいがります。逆に自分はあの一人より仕事ができないと感じたり、あの人より低く見られていることに対
  • 人種差別から思ったこと
    アジシオ次郎 (06/18)
     おはようございます。

     相変わらず現代において根強く蔓延る人種差別の問題、長い歴史において人種差別や偏見はヒドかったけど、その歴史から何を学んでいるのかとも思
  • 人生二十最
    omachi (05/23)
    あなたの知らない日本史をどうぞ。
    歴史探偵の気分になれるウェブ小説を知ってますか。 グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索するとヒットし、小一時間で読めま
  • 100年前の教訓
    竹林泉水 (05/09)
    コメントありがとうございます
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