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八正道の正見は

仏教の根本的な教えに八正道と言うのがある。

八正道とは、正見(しょうけん)、正思惟(しょうしゆい)、正語(しょうご)、正業(しょうぎょう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)

、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう)です。
日頃使わない言葉でわかりにくいです。
日頃使われている言葉に置き換えて見ると、次のような言葉になるでしょうか。

正見  正しい立場や見解
正思惟  正しい思想や決意
正語  正しい言論や言葉
正業  正しい行為
正命  ただし生活
正精進  正しい努力
正念  正しい思念や精神
正定  正しい瞑想や三昧

こうしても、分かり難い言葉や、よく使われている言葉ほど、どのように定義をして理解をすればよいか見極め難いです。

正見は、人生に関する四つの真理とされる四聖諦をさすもので、苦諦、集諦、滅諦、道諦の、「苦集滅道」の本質を追究してそれらの奥底まで知り

つくし自分なりに明らかにすることです。
この「苦・集・滅・道」とは、この世界の一切は苦から逃れられない真理、苦の原因に関する真理、苦を滅した悟りに関する真理、悟りに到る修行

方法の真理で以上の四つです。そのため「苦集滅道」ということもあります。
苦諦 人生は「苦」であるという真理、その代表として四苦八苦などがあり、四苦は生・老・病・死の苦であり八苦はそれに愛別離苦 、求不得苦

、怨憎会苦、五陰盛苦の四つを加えたものです。

それを自分なりに明らかにすることは、ありのままに見ることだというが、自分なりにありのままというが、自分の好き勝手に解釈して見ると言う

ことではない。
ありのままとは、
この世の中に存在するものすべては、刻一刻変化しているが、俗世にいる我々は変化を嫌いその変化を嫌い認めたくない意識が常にあります。
仏教でいう、この世の一切のものは、絶えず生じ、滅び、変化して、永遠不変のものは一つもないという諸行無常で物事を見ることが重要といえる



集諦の集とは招き集める意味で原因のこと集諦とは、「苦しみの原因についての真理」ということで、仏教では、先にみた八苦の原因を「煩悩であ

る」としる。その煩悩をより深く見つめていくと激しい欲望があり、この欲望こそが苦の原因であると説いている。なんだか意味不明な説明になっ

てきた、具体的に考えてみると貪欲や瞋恚、愚痴などの三毒に陥る心のけがれをさし、その根本であるものは渇愛をだという。これらは欲望を求め

てやまない衝動的感情ということになる。天台小止観をまた読み返してみよう。

滅諦とは、苦滅諦といわれ、苦のなくなった涅槃のことを言い、いっさいの心が煩悩や妄想や外界の事物のために束縛されて、二進も三進も行かな

くなり、自由を失った状態でその繋縛から解放された境地の解脱の世界でと言われている。一言でいうと煩悩の火の吹き消された世界ともなるでし

ょうか。

道諦とは苦滅道諦で、苦を滅した涅槃を実現する方法をいう。これに八正道が説示される。

初めの苦、集の二諦は、明らかに迷の現実とその原因を示したもの。後の二諦は悟りの結果とその方法を示したものになる。

この続きはまた、後程

法句経 道の部から 八支聖道

法句経 道の部から

法句経 岩波文庫 荻原雲来訳註

第二十 道の部
二七三 諸道の中にて八支を勝とし、諸諦の中に於て四句を(勝とし)、諸徳の中に於て離欲を勝とし、二足の中に於て具眼を(勝とす)。
八支> 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定 八支聖道。
四句> 苦、集、滅、道 四聖諦。

八つの正しい道、道理にかなった正しい修行はこれ以上のことのない道である。苦集滅道の四句は多くの   心理   の中に於いて最も優れている道である。

人生欲を貪ることから離れることは諸々の徳の中で最も勝っている。二本足で歩くものにとって一番大切な尊貴なものは、物事の本当のすがたを見抜く目を持つものである。
八支はのこと
正見 正しい見解 智恵
正思惟 正しい思惟(思い) 善悪の弁別と論理への自覚
正語 正しいことば 正語 嘘や粗暴を吐かない
正業 正しい行い(行為) 生類を憐れみ殺生しない
正命 正しい生活 正命生活規律 戒律
正精進 正しい努力 修行を怠らない
正念 正しい気づかい 教えを頭に刻み込む
正定 正しい瞑想 
四句は四聖諦のこと
衆生無辺誓願度
はてしなく繰り返すことで誓願するのある
煩悩無尽誓願断
尽きることがない煩悩を断つことである
法門無量誓願学
修行して学ぶことは果てしないほどある
仏道無上誓願成
仏の悟りに達することはこの上ないことである


科学技術も経済的な仕組みもまさに極まり掛けているように見える。しかし、人々はさらなるものを追い求めてしようがなく走り続けている。
八支聖道と四聖諦を求めることにより、いまの科学技術と経済追求によりおきている、今の様々な問題を見直し考え直し、今までとは別の道を歩むことが大切ではないだろうか。この日本など豊かな生活が暮らせられるのも、世界各国からあらゆるものを採掘したり、採取したり収穫のため漁されて、豊かな生活が支えれている。
日本でも明治大正と足尾鉱毒の事件や敗戦後も熊本や新潟で起きた水銀汚染の水俣病、三井金属のカドミウム汚染、カネミ油症のPCB汚染などや、工場のばい煙による、四日市喘息や川崎や尼崎などの大気汚染などいくつでもある。今でもアスベストの問題は深刻です。しかし、これらを経験し日本では法的な改善策や規制が整ってきて、それらは大きく改善されてきています。
しかし、私たちが裕福で安全で快適な暮らしができるのは、まだ公害に対する理解や知識
また、法的な整備がされず技術的にも安全策が取られていないところから、製品や原料が輸入されておりその地域の人は公害に苦しめられ入るのが現状です。スマートホンやパソコンや家電に使われている基板には、コンゴなどから輸入される希少金属がつかわれている。そしてコンゴでは公害問題だけではなく、その希少金属を巡って内紛や戦争が起きているが、そのことは日本の新聞などでまずは記事にならないで、私たちはそれをしらないでいる。

このようなことを知らないで私たちは豊かで楽な生活を送り続けてよいものでしょうか。
正思惟をするには、正見が必要であり、正命、正精進がたいせつであり、正念することにより今の生活を振り返ることができるのではないでしょうか。

法句経 賢哲の部

法句経 岩波文庫 荻原雲来訳註

第六 賢哲の部
七六 伏藏を告ぐる人の如く、(人に)避くべきことを示し、訓誡する聰慧者に遭ふときは此の賢人に侶となれ、斯かる人を侶とするときは勝利ありて罪過なし。
七七 教授せよ教誡せよ、不應爲の事を避けよ、彼は善人の愛する所にして不善人の愛せざる所なり。
七八 惡友に伴なはざれ、下劣の人を侶とせざれ、善友に伴なへ、上士を侶とせよ。
七九 法(水)を飮める者は快よく眠り、心淨く、(斯かる)賢人は常に聖所説の法を樂しむ。


76 次のような人が、人生航路の宝のありかを教えてくれるような人だ。過ちや罪を指摘してくれ、諌めたり訓戒してくれる人にあったら、その人を大切にしつき従うと、自分がまだ見つけていない人生の財宝をありかに導いてくれるだろう。そのような人につき従うと、善いことがあっても悪いことは無い。77 人に教え諭し戒めなさい、道筋にかなっていないことから遠ざからせなさい。そうするとその人は善人から喜ばれ、悪人から疎まれるだろう。
78 悪い友とは付き合ってはならない、品性がいやしい人とは付き合ってはならない。善い友と交わり尊い人と交わりなさい。
79 真理の水を飲んだものは、心清らかに澄んで、心地よく眠ることができる。かかる賢い人は、聖者の説く真理を楽しむ。

友達を選ぶということの大切さ、仕事をするうえでも自分の周囲に置く人選は重要な要なのだが、自分の目指すところが最善だと思い、自分の周囲にお友だちのような人ばかりを置いていると、間違いを指摘してくれたり暴走すると諌めてくれる人がいなくなる。周囲に自分の考えに近い人や自分の思いを察し窺う人ば狩りと付き合っているとどうなるだろうか。
独善的になり人の意見に耳を傾けなくなり、自分のしていることが正しいと思い込んでしまう。度量の狭い人になってしまうだろう。
このような人には決してならないように、常に心掛けて調子よく行っている時こそ独善的にならないように心がけていきた。それには多くの人と交流を深めていく必要があるのだが、真理の水に交わり、悪水で手を汚さぬように心がけよう。

似欲割狗肉 当陽掛羊頭

似欲割狗肉 当陽掛羊頭

此の二つの詩は良寛が托鉢しながら新潟についたら、思わず友人の有願老子が俗人の家で説法をしているところに出逢うそこで二首を読んだもの。

似欲割狗肉
当陽掛羊頭
余亦同臭者
優々卒末休

狗肉を割かんと欲し
当陽に羊頭を掛けるに似たり
余も亦た臭を同じくする者
優々卒に未だ休めず

始めから犬の肉を売るつもりで
おおっぴらに羊頭の看板を掲げるのに似る
実はこの自分もあなたと同じようなことをしてる人間
無頓着にも同じことをやめられず繰り返している



伊余疎慵者
乞食此他游
逢著鬧市裏
一笑共悠々

伊れ余は疎慵の者
乞食をもて此の地にたどり着く
鬧市の裏に逢著し
一笑して共に悠々

がんらい自分は気が利かない者
乞食をしながらここまでたどり着いた
にぎやかな市で思いがけなく友人に逢った
思わず笑い合って悠々

前の詩は、どこかの国政治の行われ方を言い当てている。
確信犯で悪法を強硬に押し通したり、平気で嘘をつく責任者にぴったりだ。

しかし、後ろの詩は全然違い、次のように読み替えてみた。


伊余夜郎者
腹痛此地位
徒党組同志
狗肉売一笑

わたしはもともと身の程を知らない人間だ
ポンポンが痛くても此の地位にいる
同じ思いのお友達を集めて
羊頭狗肉を掲げても笑ってすまされる。

良寛の詩 人心各不同

人はそれぞれ個性があり、それぞれ違いがあるものです。しかし、最近その個性の違いがあることを、空気を読めとか和を乱すななどの言葉で、ひとくくりにしようとする空気が漂ってきている。
そして、相手も自分と同じだと考えると、どのようになってくるのか。良寛が次のような詩を二つ残している。

誰もみな同じ考えでいて、価値観をもっていると思いこんでしまうと相手の自分の意見を押しつけしまうことになる。
そして、自分の考えが正しいと思い相手の意見を聞き入れようとしなくなる。そうすると、それが間違っていたりしても、それが正しいことだ見誤ってしまう。それどころか相手の考えを受け入れる余裕がなっくなり、相手の正しいことも、自分の考えや価値観と違うと、それは正しくない誤りだと決めつけてします。
これは、自分の価値観や考え方ですべて決めつけてしまうことで非常に恐ろしいことです。
世の中には、多様な意見があって初めて、その中で意見を述べあい戦わしあって、切磋琢磨しお互いに成長していくものであり、世の中も発展していくものだと言える。
それを、世の中すべて同じものだという見方は、良寛に言わせると、棹もって海原を航海するものだと、それは海底まで棹がとどかず、ただ無駄な労力を使うだけで疲れ果ててしまうだけだと。


人心各不同
如面有相違
倶執一般見
到処逓是非
似我非為是
異我是為非
是我之所是
非我之所非
是非始在己
道固不若斯
以棹(竹+高)極海底
祗覚一場疲

人心は各々同じからず
面の相違があるが如し
倶に一般の見に執して
到る処逓似是非す
我れに似れば非も是なり
我れに異なれば是も非となす
是は我の是とするところ
非は我の非とするところ
道は固より斯くの若くならず
棹を以て海底を極めんとすれば
祗だ一場の疲れを覚えるのみ

人の心はそれぞれ同じではない
ちょうどう顔がそれぞれ違うようなものだ
ところが誰もみな同じ料簡に固執する
どこでも誰もがみな相手の是非を決めつける
自分に似ていれば、その人の非も是とし
自分に似ていなければ、その人の是も非とする
是はすべておのれの是とするところで決める
非はすべておのれの非とするところで決める
是非の基準は始めか自分にあるという料簡だ
だが道理というものは無論そんなものではない
棹もって海の底まで突こうとするようなもの
ただがっくり疲れ果ててしまうだけだ


さらに良寛は、前の詩と対になり同じようことを、次のように言っている。

人心各不同
如面有相違
倶執一般見
到処逓是非
是我之所是
非我之所非
只麼如是去
何似不是非

人心は各々同じからず
面の相違があるが如し
倶に一般の見に執して
到る処逓似是非す
是は我の是とするところ
非は我の非とするところ
只麼に是の如くして去くば
是非せざる何れぞや

人の心はそれぞれ同じではない
ちょうどう顔がそれぞれ違うようなものだ
ところが誰もみな同じ料簡に固執する
どこでも誰もがみな相手の是非を決めつける
是はすべておのれの是とするところで決める
非はすべておのれの非とするところで決める
ひたすらこういう風にやってゆくのは
始めから是非をやらぬのに比べてであろう


今のよのなか、みなおなじと言う空気が強まって同調を強いるようなことは、のっけから物事の善し悪しを、やらぬのに比べてでますます変な世の中になってきている。
特に永田町に党本部のある政党のこの空気が強まっている。これは、生物の多様性が失われるとその生物は絶滅していまうよいうに何れ終焉の兆しとも言えるのではないだろうか。

蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである

岩波文庫の「ブッダのことば」の最初に、蛇の章となっています。その1に、蛇の項があり、その言葉の最後は、「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」で締めくくられている。
岩波文庫の「ブッダのことば」を訳した、中村元によると、蛇は日本人にもなじみはあるが、日常的にそう身近なものではないです。しかし、ブッダの生まれたインドでは、毒蛇もそうでない蛇も含めて、よく見かけ身近な動物で親しみを感じさせるものだそうです。

そのなかで、心にとまった言葉のなかから、一つ紹介してみる。

17 五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

この五蓋とは、貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・擬のことで、天台小止観でもいろろと考えてみました、これらを捨てることにより、いろりとな悩みや疑念をがなくなりそれによりどうしようもない悩みから、抜け出すことが出来ることにより、安穏になり患いがなくなり、心が清浄で快楽になるというのです。

座禅和讃

昨日、栗田勇が「夜船閑話」を読んだ時のことを書いた。このところ、私ごとで心落ち着けて本を読む気になれない。
これではいけないと思うので心をしずめるため、白隠禅師の「夜船閑話」を読んで見ることにする。そう、それと「天台小止観」も読んでみよう。「天台小止観」はいつも、途中で読むのが途切れてしまうので、こんどこそ最後までとおもう。それだけでなく、白隠禅師のもう一つよく読まれている、「遠羅天釜」もページを開いてみよう。

いやその前に、白隠禅師と言えば、「衆生本来仏なり・・・」ではじまる、「座禅和讃」がある。

「座禅和讃」
衆生本来仏にて 水と氷の如くなり
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠くを求るはかなさよ
譬へば水の中に居て 渇と叫ぶ如くなり
長者の家に子となりて 貧里に迷うにことならず

私たちこの世の生き物とくに人間は、愛憎の感情・意識がある。それは仏の救い助けられるめあてあろう。仏になると煩悩を断ち切って悟りの境地になれる。その衆生には、煩悩である貪欲 瞋恚 愚痴の三毒がある。それが悩みのもとである。そこで、無貪 無瞋 無痴の三善根を得ると、迷いや苦しみからのがれられ、安らかで自由な境地に達することができるとされる。
そのことをよく見ていくと、自分の今を見つめてることが大切で、今の現状から逃げることができないことは事実です。だから今の中かっら最善の方法を見つけだすしかない、そのことをまずは自覚して知らなければならないだろう。水の中で喉が渇いう、何でも其の存在を感じなくなる。贅沢をしていると、贅沢さになれどんどん貪欲になってしまう人が時々見かける。便利さを追求することは悪いことではないが、何でもかんでも便利になっていくと、そのものの本質や本来あるべきことを見失ったり見誤ったりしてしまう。知足と自足の大切さだろう。


「座禅和讃」の全文を書いておく。

「座禅和讃」
衆生本来仏にて 水と氷の如くなり
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠くを求るはかなさよ
譬へば水の中に居て 渇と叫ぶ如くなり
長者の家に子となりて 貧里に迷うにことならず
六種輪廻の因縁 己れが愚癡の暗路なり
暗路にやみふみそへて 早晩か其の苦を遁べき
其れ摩訶衍の禅定は 称嘆するに餘あり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其の品多き諸善行 皆此の中に帰するなり
一座の香の成す人も 積みし無量の罪亡ぶ
悪種何国にありぬべき 浄土本より遠からず
忝くも此の法を 一たび耳に触るとき
賛嘆随喜する人も 福を得る事限り無
況や自ら回向して 直ぐに自性を証ずれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れり
因果一如を門開け 無二又無三の道無し
無相の相を相として 往くも帰るも余す所ならず
無念の念を念として 歌も舞も法なりの声
三昧無 の空ひろく 四智円明の月さへぬ
其の時き(何をか求むべき 寂滅現前する故に)
到處便蓮華国 其身即仏なり

信行一致

信行一致させることの難しさと大切さ

立派な言葉は、いつも出しやすい。
しかし、道理を修めて実行することは、いつも行われにくい。
それなのに、できそうにない立派な言葉で、その実行されにく道理を追い求めていないか。
だが、立派な言葉で求めれば求めるほど、道理は実行されにくくなり、言葉に出して言えば言うほど、食い違いは大きくなる。
ちょうど火事を消そうと油をかけるように無益で愚かなことだ。
             良寛 「草堂集」

この言葉、耳に痛い言葉である。ついつい偉そうに、知ったかぶりをして、人に言いふらしたり。このブログにいろいろ書いているように、自分の知り囓ったことをひけらかしします。
いろいろ本を読んで勉強することは大切だが、それがただの知識を並べたてただけに終わってしまっては何もならない。
よく、何も知らないで真面目に誠実に生きて、人に尽くしている人を見る。そのような人と接すると、自分はその人より愚かだと気づかされることがあります。

私の行動をみていて、信行一致しないところがいかに多いかを反省していきたい。

テーマ : 心の持ち方
ジャンル : 心と身体

仏弟子の告白 テーラガーター

「仏弟子の告白」テーラガーター 中村元訳 岩波文庫

・わたしは出家してから二十五年になるが、そのあいだ、指を一はじきするだけの時間でも、心の静けさを得られなかった。
・心の統一専念を得られなくて、快楽の欲情に悩まされて、両腕をつき出して泣きながら、わたしは住居から出て行った。
・わたしは、小刀を持ってこようか? わたしが生きている必要があろうか? わたしのような人間は、修学を捨てて、どのようにして死ぬべきであろうか?
・そこでわたしは、剃刀を手に執って、自分の脈管を断つために、剃刀をぬいた。
・そのとき、わたしに、正しい道理にかなった思いが起こった。患いであると思う念いが現れた。世を厭う気持ちがさだまった。
・次いで、わたしの心が解脱した。見よ、――教えが見事に心理に即応せることを! 三つの明知をすでに体得した。ブッダの教えは成し遂げられた。


このことば、私は60年以上生きているが、はじめの句から三つ目の句まで常に、思い頭の中に浮かんでは消え、またその思いが一度衰えては再びあらわくる。繰り返しである。
いささか四番目の思いは、自分にはその強さもなく路傍の草のように、人目の目にも着かないで生きている。

そのため、当然五番目、六番目の句の体験と悟りは自分には起こりえない。いやそれより、そこに書いてある意味が皆目分からないといった方が正確だ。

この俗世が見透けるようになり、けがれたものから離れられるようになり、悟りの境地に入ることができたということであろう。しかし、そのこと自体が今もってまだ、未熟なためわからないです。
三つの明知とは、≪宿命通 - 自分の前世を知る力。天眼通 - 他人の前世を知る力。漏尽通 - 自分の煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力。≫のことのようだが。ますますよく分らなくなる。

ただいえることは、自分が生きていることはこの大宇宙の中の一つから見ると、どんな偉業を為し得たとしても取るに足らないことだというこ。それが、一時も心の静けさを得られないことを自覚しできることが重要で。間違ても驕って自分は偉業を成し遂げたと思ってしまっては、それはとどのつまり悟りとは逆の方向に向かっているということだと思う。

この、言葉の初めに煩悩から逃れれられえないと書いてあるが、自分の存在を否定し自らの命を絶とうとしたとき、正しい道理にかなった思いがあれば、新しく煩悩は現れないし万一煩悩が現われても消えていく。ということだろう。

この道理にかなったことを見つけることは、今の私にはまだまだ未熟だということでしょう。

歎異抄の第13条をよんで

3月31日に、歎異抄の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」のことを書きました。

同じ歎異抄の第十三条に次のようにある。
「阿弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼころとて、往生かなふべからずといふこと。・・・・」。
そして次のようにある。
親鸞言う「これにてしるしべし、なにごともこころにまかせたることならば、往生のため千人ころせといはんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にても、かなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず、また害せずとおもうふとも、百人・千人をころすこともあるべし」とおほせのさふらひしかば、われらが、こころのよきをばよしとおもひ、あしきをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、おほせのさふらひしなり。
さらに、親鸞は次のように言う。
「うみ・やまに、あみをひき、つりをなして、世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなゐをし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と


「弥陀は衆生を救済するのが誓願で、心や行いの悪い人をも救うという。阿弥陀がそう言うことから悪い行いをしても救われるからと、悪いことと知りながらわざと悪事を行うのは、『本願ぼこり』といってそのように付け上がっていては、浄土に生まれることはできない」と人は言う。・・・・・・」
そしてこの後親鸞は次のよう言うのです
「これでわかったであろう。何事でも自分の思い通りに出来るなら、浄土往生のために人を千人殺せと言われたらその通り殺せるはずだ。しかし、一人でも殺せないというわけがあるから殺すことが出来ない。自分の心が良いからということではない。殺さないでいたいと思っていても、百人も千人も殺すこともあるのだ」と言った。
これは、自分の心が良ければ、それが良いことであると思ったり、悪い心であれば、悪いことと思う、自分がうまく物事が運ぶよう、そのことだけを考えて始末を着けることを思い。実は阿弥陀仏の願いの力によって救われるのだという、大切なことを忘れていること指摘して言われたのです。
さらに、親鸞は言う。
「海や川で網を曳き、釣りをして生き物の命を奪うことにより生活の糧とする者も、野山で獣を捕り、鳥を捕ってその命を奪い生活の糧とする者も、商売をし、田畑を耕して生活している者も、みな同じことだ」と仰せられています。


なにが善いことで、なにが悪いことなのか。それは、その時々で変わり、その人が置かれている立場々々で変わるもおのです。私は、何か事件や事故が起きたとき、特に凶悪な事件や不可解な事件のときほど、その悪事を行った人がなぜその犯行に及んだのか、どうしてその犯行に及ぶまで追い込まれたのかを哀れむのです。加害者であるが見る視点を変えると被害者でもあると思うのです。
心が善であるから、悪いからだと言うのでなく、たまたまその犯行に及ぶにいたった、精神的に追いつめられる環境に置かれたと考える。そして、もし自分がそのような環境に置かれたら、自分はどのような行動を起こすのだろうか、そのような環境や立場に置かれていない自分は幸せだと感謝したくなります。
今の自分にとって、凶悪な異常な犯行にでも、偶然にその凶悪な犯行に及ぶ立場でなかった、いや一つ間違えると自分のなかの表面には表れない、内に潜んでいるものが動いたらどのような行動を起こすだろうか。それを考えるとその行いは「悪心」からきたものだと言い切れるかと思うのです。


そのようなことを考えると、日常の約束の時間にこなかった、相手が嘘をついた。たまたま、自分が約束の時間に間に合い、相手が間に合わなかっただけで、ヒョットしたら反対の立場になっていたかもしれません。そのように考えると、これらは、小さなことでそれほど頭にきて怒るほどのことでもないように思えます。何でももっと寛容で許す気持ちを持っていたいものです。

大なる哉心や 天の高きは極むべからず

栄西 興禅護国論

大なる哉心や 天の高きは極むべからず 而るに心は天の上に出ず。
地の厚きは測るべからず、而るに心は地の下に出ず
日月の光は踰ゆべからず、而るに心は日月光明の表に出づ
大千沙界は窮むべからず、而るに心は大千沙界の外に出づ
それ太虚か、それ元気か、心は太虚を包んで元気を孕むものなり
天地は我を待って覆載し、日月は我を待って運行す
四時は我を待って変化し、萬物は我を待って発生す
大なる哉心や
吾れ已む事を得ずして強いて之を名づく
是れを最上乗と名づけ、亦第一義と名づく
亦般若実相と名づけ、亦眞法界と名づく
亦無上菩提と名づけ、楞厳三昧と名づく
亦正法眼蔵と名づけ、亦涅槃妙心と名づく


大いなる心や 天は極限がないほど高い、しかし心はその天を突き抜ける。
地の厚さは測ることができないほど厚い、しかし心はその厚さを突き抜ける。
太陽や月の光は追い越すことはできないが、心はその光の先まで見える。
川の砂の全部を知ることはできないが、心はその世界を覆い尽くす。
人間(じんかん)の活躍すべく処、天地間の万物生成の根本か、心は、大宇宙を包み、天地万物精気を孕むんでいる
天地は我がために天覆地載し、太陽と月は我がために一定の道筋に従って進む。
春夏秋冬の四季は我がために移ろい、万物は我がために生じる。
大いなる心や 
我れすでにそれらを得ずしてあえてこれを名付ける
このことは、もっとも核心の手だてとして、また、第一のものとする。
亦般若実相と名づけ、亦眞法界と名づく、亦無上菩提と名づけ、楞厳三昧と名づく、亦正法眼蔵と名づけ、亦涅槃妙心と名づく


分かり易くいえば、宇宙は広大な限りないものだが、そのものは己の心の中にあって、己の心の外に在るものではない。ということだろう。

世の中のことに、何事も不平ばかり言っていてもしかたがない、いま自分の周りでの出来事は、自分の中での出来事でそれに対し、不平を言っていても何の解決にもならない。現実を直視し受けて止めて向かい合わないと、何時までも不平しか残らないものです。

清淨心身

今日は旧暦で言うと[五月朔日]です。昔は五月晴れと言えば、梅雨の合間の晴れをさしていました。五月は梅雨のまっただ中でうっと惜しい雨がつづきます。そこで、少しでも気持ちが清々しくなるように、香を焚いてみようと思いました。山田松香木の線香、「翠風」の箱に次のようなことがかかれていました。


香十徳
感格鬼神(かんはきじんにいたる)   感は鬼神に格る
    感覚が鬼や神のように研ぎ澄まされる
清淨心身(こころをきよらかにす)   心身を清浄にす
     心身を清く浄化する
能除汚穢(よくけがれをのぞく)    よく汚穢を除く
    穢れをとりのぞく
能覺睡眠(よくねむりをすます)    よく睡眠を覚ます
   眠気を覚ます
静中成友(せいちゅうにともなる)   静中に友と成る
    孤独感を拭う
塵裏偸閑(ぢんりんにひまをぬすむ)  塵裏に閑をぬすむ
   忙しいときも和ませる
多而不厭(おおくしていとねず)    多くして厭わず
    多くあっても邪魔にならない
寡而為足(すくなくしてたれりとなす) 少なくて足れりと為す
少なくても十分香りを放つ
久蔵不朽(ひさしくたくわえてくちず) 久しく蔵えて朽ちず
  長い間保存しても朽ちない
常用無障(つねにもちいてさわりなし) 常に用いて障無し
   常用しても無害

古くから香に関する訓や効用を記したもので、香に関する十の徳といわれているものだそうです。
11世紀の北宋の詩人、黄庭堅の作と言われ、日本には頓智でしられる一休禅師によって紹介されたとされています。

お線香というと、仏壇にそなえる法事などの時に使うものと思がちです。しかし、もともと香は居間や寝室の安らぎの香料似使われ。日本では香道というものがあり、香合わせ薫物合などの香遊びがり、茶道などと結びついて香の文化は発達しています。
そして、仏門の修行などでは、修行する道場の環境を整えるものとして使われ、清浄心身の効能が古くから謳われていました。天台小止観にも第一章の具縁の一番最初にも書かれている通りです。

香の純粋な薫りをお楽しむには、少し離れたところに置いて火をつけて、空気にのって自然に漂って香ってくる香りが本来の香りとされています。香りは強からず弱すぎずでしょう。
そして、それらのことがこの十徳に凝縮されているといえます。

香の効用は、何と言っても良い香りをかいで、良い気持ちになるということでしょうが、それにより気持ちを落ち着けることは大切でしょう。。
また、この香十徳を一つ一つ読んでいて、香道や仏道だけでなく、人の歩むべき方法をや方向を示しているようにおもいます。そしてなにより、香を聞くことにより、精神的に落ち着き、円満な人格を形成するのに役立たせるというのことでしょう。

そして、この香の徳性としての有り様は、人としてのあり方の教えでもあり、政治や商売などにも同じようにいえる。

香の香りを感じ取ると、・感覚が研ぎ澄まされ、・心身を清く浄化する。このことは人の生き方として満遍だらりと鈍感に過ごすのでなく、物事の流れに鋭利に感じ取り、変化に対して常に自浄自癒する事が大切です。

強すぎず弱すぎない香りを感じ取ることにより、・穢れをとりのぞき、・眠気を覚ますのも。汚れや欲にまみれてしまわずに、また善い意識が眠り悪い心に乗っ取られてしまい、道を踏み外してししまわないようにする。

・忙しいさなどにより心の余裕をうしなうことなく・孤独感を取り去ることにより、自分は一人でないことをしり、行為・志などを同じくする人や精神的つながりのある人がいることに気づことが大切である。

・多くあってもそれにより惑わされたりしない・少しのものでも足を知る。

・長い間保存しても朽ちない・常用しても無害、一つのことが永く続くと新鮮さがなくなり朽ちたり、利害の癒着などが生まれてしまってはならない。また、ご飯を毎日食べても健康にであり増進されるように、それを永く使うことにより害があってはならない。

この「香十徳」なにも香に限らず、食べ物や、人との付き合い方や、仕事のしかた、スポーツなどの練習のしかたなど、いろいろなことに当てはまると思います。

薪こり菜つみ水くみ得し

法華経を 我が得しことは 薪こり 菜つみ水くみ つかへてぞ得し
  (拾遺1346)
法華経の教えを勤め 私が涅槃を得たのは、前世で山に入り薪を樵り、野で菜を摘み、川で水を汲んで、聖仙人 阿私仙のもとで修行して得たのだ。

この歌は、光明皇后の作とも言われていますが、行基の作との説もあります。

光明皇后は聖武天皇とともに、東大寺を建立するなど、仏教を信心し、広く布教にも勤めました。また聖武天皇の崩御後、光明皇后はそのゆかりの品を東大寺に寄進した正倉が、今の秋に公開される「正倉院展」の宝物です。

光明皇后の逸話に、「重症の癩病患者の浴場を作り、患者のただれた皮膚の膿をみずから吸われたところ、その病人が阿しゅく如来であった」という話があります。
皇后がそのような、逸話が語り継がれるのも、深く信仰し悲田院を設け孤児を救済し、施薬院を作り病人を救った光明皇后のその行いは、前世に阿私仙に仕え、山や野や川での糧を営むことで事足りると、実践してきたからこそと慕われていたからでしょう。
座禅の仕方を書いた天台小止観に、五つの大切なことの中の一つに、「衣食具足」が大切だとかいてあり。日々の食には四つに分類でき、一に、「薬膳や果物、蔬菜だけで身体はたもてる」とあります。
今の日本の食卓のように、飽食で沢山何でも食べる。必要以上に食べることにより、肥満や生活習慣病を心配しながら食べる。また加工食品などには、色々な添加物や調味料が使われ、中に何が入っているか分からない食べ物。このようなものを食べ続けることは、自分の心身にとてよいことでしょうか。
この地球に生物として生きる人として、他の生き物を犠牲にしながら、生きて行くには野山に入って、少しばかりの必要なものだけを採ってきて、自分を生かしていくことに私は焦がれるところがあります。しかし、そのことは実際に現代社会で生きているなか、私などはその知識もないし、身体の中の原始の生き方の遺伝子も、それがどこに眠っているのわからなく、すでに失われているかもしれないので、野の恵みを糧として生きていく術はありません。高度経済成長以前は、山の中で生きていく人もいましたが、今はその様な人はいなくなったようで、日本人はその様な生き方を忘れてしまっていると思えます。

「天命地令人従身土不二」という言葉があります。
人はとどのつまりは、この地球にすむ他の動物と変わらないものです。動物は植物がなければ、その生命を繋げていくことはできないです。植物は土を離れて成長できず種をつくることはできないです。すなわち土をななれて人はないです。また、人の身体は住んでいる風土や環境と密接に関係し、その土地の自然に適応した旬の作物食べることが、健康に一番よく健康で生きられるという考え方方もあります。

良寛の歌にも次のようなものがあります

水や汲まむ薪や伐らむ菜や摘まむ朝の時雨の降らぬその間に

水を汲もうか、薪を伐ろうか、それとも野山の菜を摘もうか。秋の冷たい時雨の降らないその間に
時雨は、秋から冬にかけて降る雨のことですから、「薪にするたに山に柴を刈にいき、菜の保存の準備をするために、秋の冷たい時雨が降り始めないうちに野山に分け入って摘みにいこうか」
すこし、近くの野山を散歩してその様なことを感じてみようと思います。

捨身飼虎の図

連休中に家にある。美術書の中から法隆寺の宝物の書を読み返してみました。

法隆寺にある国宝 玉虫厨子の側面に、金光明経にある捨身飼虎の絵が描かれています。
その話の内容は次のようなものです。


お釈迦様の前世であった薩捶王子がある時、虎の親子に出会った時の話です。
その親虎は非常に二匹の子虎を可愛いがっていた。しかし親虎はここ数日間、獲物を猟ることができなく痩せ衰えていた。親虎はその空腹の苦悩に打ち勝つことができなくなり、一期の生命もここまでの灯火と消えようとしていました。そのなか最も可愛がっている自分の子虎を今にも食べようとしていた。世の中で最も悲惨な、自分の子供を食わんとする、非絶惨絶の場面に思いがけなく出くわした薩捶王子は、生きるものの厳しい現実の姿を目の当たりにして、自分はなにをするのかためらうことなく行動に起こすのです。薩捶王子は自分の身を、その飢えた虎の前に身を投げ出し、自分で側にあった裂けた竹の先で首を切り、血を流して虎の食欲を自分に向くように促している。

すべての生あるものに対してお互いの心の融合を願う、お釈迦様の願いを表したものでしょう。
人が互いに自分を仏教でいう「色即是空」で関わり合い、善いものは他人与え、悪いものは自分が引き受け、他人のことを先にして、自分のことを後回しにする。この教えに対して、迷いが去って正しいと思うようになり、自分を自分以外のことに捧げることを極める。
薩捶王子が自分と虎とを比べて、その生けるものへの愛が、己の命をかけることができたのでしょう。

しかし、自分を自ら進んで犠牲にして、命を絶つことは許されるのでしょうか。
自分の命と引き替えにするまで行かなくても、自分のことより人のことを大切にすることは、私のような未熟な人間いとってはなかなかできないことです。しかし世の中には私と違って、自分のことより人のことを先にすることを、ごく普通に当たり前のようにおこなっている人を多く見かけます。
世の中暗いニュースなどが多いですが、その様な人が実は沢山いると言うことを、知って自分もその様なおこないができるように努めたいと思っています。

花は愛惜に散り 草は棄嫌におうるのみなり

花は愛惜に散り 草は棄嫌におうるのみなり

この言葉を聞くと、「花は皆から愛でられ、散る時も惜しまれて散っていく。草は生えてきても抜かれ嫌がれしまう。だから、草のように憎まれてはいけない、人の生き方として人から好かれるようにしないといけない」。と、道徳の時間のように思ってしまうかもしれないが。
この言葉は、道元禅師が正法眼蔵の中で述べている言葉です。

花のように誰からも愛着したり、いつまでもあり続けてほしいものに限って、早く枯れてしまったり、消えてなくなってしまう。このように惜しまれれるものほど、壊れたりなくなったりする。しかし、嫌なものやあってほしくないものや、居続けてほしくないものの方がかえってあり続ける。嫌なこと災いが近くまで押し寄せてきて、そしてそれらがいつまでも居続けてしまうことが多い。このようになかなか世の中はというものは、ままならく思うようにならないのが、世の中の偽りのない本当のすがたで、それが本当のありようだ逃れられるものではない。だから、それから逃げることを考えるのではなく、それと向かい合っていかなければならないと、教えているのだと思います。

テーマ : 日本古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

平等

平等

平等は近代民主主義の根幹の一つです。
日本国憲法には、一四条に「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあります。
また、フランス革命のときに作られた「人権宣言」には、自由・平等・博愛がその精神の中心におかれています。

ところで、「平等」はわたしは、明治以降に作られた、民主や共和や主義となどと同じ和製漢語と思っていましたが、ちょっと考えればそれは間違いで、昔からある言葉だと言うことがすぐにわかるはずでした。十円玉の意匠で知られる、宇治の平等院などがあるように昔からある言葉で仏教用語の一つでした。

広辞苑で[平等]と引くと「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと。」とあり、[平等界][平等観][平等権][平等主義][平等心]を参照として上げています。その平等界は、1.〔仏〕差別なくあまねく等しい絶対の真理の世界 2.善悪・高下などの差別をつけない味方。とあり、平等心は、〔仏〕すべてのものを差別なく愛する慈悲心。とあります。

仏教でいう平等とは、現代で一般的に言う平等とは、少し意味合いが違うようです。私は、仏教につて詳しく知らないですが少し調べてみました。

始めに、平等と差別は表裏一体の言葉とされています。
差別は、[しゃべつ]と言い、この世のあるものすべては、いろいろな種類があって、その違いもさまざまで、それぞれ多様なあり方をしている。ことを言います。
今風の言い方をすると、個性がそれぞれあり、その能力もそれぞれ違うことを言っていると思います。
ですから、いま日常や法律で使っている差別とは違います。
仏法のもとでは、みな同様に等しく、勤めることができ、その恩恵も受けられると言うことでしょう。仏法の言う平等はその規模と度量の大きさが違うように思います。

福沢諭吉の「学問のすすめ」のはじめの言葉は、人の平等を説いたものとしてよいわれます。しかもこの続きを呼んでみると、次のことが書かれています。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。
<・・・略・・・>
『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。
<・・・略・・・>
天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
とあります。

憲法に書かれている、基本的人権の一つである「法ののもとに万人が平等」の上辺だけを解釈しお仕着せの平等を唱えるのは、悪平等を唱えることだと思います。
会社の社長が、新採用の社員と同等の給料をもらったり、同じ部屋で仕事をすることは当然間違いです。その仕事の責任をどれだけ担うことができるを考えればわかるでしょう。そして、その責任は従業員の身分と生活を守ることですね。
また、草木に水をやるときも、大きな木にはたっぷりの水をやり、小さな草には少量の水をこまめに与えることが必用で、それを用心しなくてはならないです。これを平等にと同じ量の水を与えると、片方は根腐れして片方は干からびて、両方とも枯れてしまいます。

ただ現代社会をみると、貧富の差や能力の差から抜け出ることができないような、社会構造になってきているように思います。それの恩恵を受ける人はますます恩恵を多くうけ、そのなかで生じた矛盾や不利な条件をいつまでも未解決にしたままに、貧しい人や能力の劣る人にその不条理を押し続けることはいけないことです。

不条理とは実存主義的な考え方で言う、人生に意義を見いだすことのできない絶望的な状況をいうことです。

就職氷河期と言われる時代に、大学を卒業した人のなかに、会社に正規採用されず、派遣社員として働いていた人たちが、いま次々とリストラされています。そして、いままで正規採用された履歴がないので、会社側も正規採用をしないという悪循環に陥っています。
このような一寸した歯車の食い違いが、いつまでも不条理として、押し付けられているのは成熟した近代社会とは言えないでしょう。

いまいちど、平等とはないかを問い直し、己の中でそれを実践できるようになればと思います。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

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記事へのコメント
  • 茶番の衆議院選挙
    アジシオ次郎 (10/05)
    おはようございます。

    民進党の解体、小池百合子東京都知事が立ち上げた希望の党、ハッキリ言って今回の選挙は乱立の様相を呈しそうですが、野党票割れを起こして自民党
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/26)
    > 政策に反対表明するための無抵抗なデモ行進、座り込みや集会を無理に解散させようとする警察官たちが、職務とは言え反対する人たちを排除しようとするのを見るとむし
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/24)
    民主的な選挙で政権交代がなされるようになり、政府への反対で暴力を使うことは、民衆の支持を失い反発され逆効果になるようになりました。>政策に反対表明するための無抵
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/24)
    日本人は長いものにはまかれろ、付和雷同性の国民性もあるのは確かだと思います。それは別段日本人に限ったことではないと思います。
    第二次世界大戦でフランス政府はドイ
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/23)
    かかる為政者の存在を許してきたのは、日本人の「ながいものにまかれる、お上に任せば・・、なるようにしかならない」と付和雷同性の強い国民性に由来するものではないでし
  • フェイクニュース
    アジシオ次郎 (09/16)
    おはようございます。

    ネットの普及に伴い様々なニュースが見れるようになった昨今、ただ自分の好みに合った情報しか信じないという弊害が出ることもそうだし、多様性を
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    竹林泉水 (09/10)
    顔認証技術が進み、個人の識別だけに利用されるならまだしも、個人の管理に利用されるのは非常に問題が多いと思います。

    松井知事の発言があまり問題になっていないのも不
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    アジシオ次郎 (09/09)
    こんにちは。

    いくらギャンブル依存症対策とはいえ、入場確認や顔認証システムを導入するのは一部から「プライバシーの侵害だ」と批判を浴びてもおかしくありませんね。
  • 終戦の日の前後のテレビ番組
    竹林泉水 (08/23)
    国際的な政治・外交問題は素人的な言い方をすれば、早い者勝ちで勝ち逃げすればセーフ的なところがありますね。
    国の名前に「帝国」冠して大日本帝国として、そのころ時代
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