竹林の Twitter 新しいウインドウで開きます。

寓話詩

イソップ愚話集をもとに、寓話詩を作ったことで知られる。ラ・フォンテーヌの作品が、岩波文庫で「寓話 上・下」としてある。
出版年を見ると昭和47年とあるので、大学生のころに買っているのようです。それ今読み替えてみと、

「セミとアリ」「カラスとキツネ」「ウシと同じくらい大きくなりたいと思ったカエル」などがある。

「セミとアリ」
夏のあいだずっと
歌をうたっていたセミは
北風が吹いてくると
ひどく困ってしまった
ハエや小さな虫の
かけらひとつみつからない
おなかがすいてたまらないので
近所のアリの家へいって
春になるまで食いつなぐため
穀物を少々
貸してと頼む
「取り入れ前にきっと
元利そろえて
お返しします」
アリは貸すことを好まない
貸すなんてそんな不徳はもちあわせない
「暑い季節にはなにしていたの」
アリは借り手のセミに訊く
「夜も昼もみなさんのために
歌をうたっていましたのですみません」
「歌をうたって?そりゃけこうな
それじゃこんどは踊りなさいよ」

セミは木の幹の汁を吸うのですが、ここに出てくる主人公は、肉食ですからセミでなくキリギリスと思われます。
あわれセミはアリから、食べ物をもらうことが出来ないどころか、踊らされてしまいます。
夏の間歌い惚けていたので、ただ無慈悲に追い返してしまうのでな、もう一つお仕置きというか嫌みをあたえている。
こうなれば、セミは冬を越すことが出来ずに終えるのでしょう。


「カラスとキツネ」
カラス先生チーズをくわえて
木の枝にとまっていた
キツネ先生匂いをかぎつけ
やってきてこんなふうに言った
「おやこんにちはカラスの殿さま
なんてあなたはすばらしなんてあなたはごりっぱな
うそは申しませんもしあなたの声が
その羽根にふさわしければ
あなたこそこの森に住むフェニックス」
カラスはこれを聞いてうれしくて呆然となて
自分の美しい声を聞かせようと
あんぐり口をあければばっさりと獲物が落ちる
キツネはそれをつかんで言った「御親切なお殿さま
覚えていることですなへつらい者はみんな
いい気になる奴のおかげで暮らしていることを
この教訓はたしかにチーズひとつの値打ちは十分」
カラス面目なく恥じいって
もうこんなことはひっかかるまいと誓ったがちょと手おくれ

狐の方が一つも二つも上ですね。特に狐が「へつらい者はみんな、いい気になる奴のおかげで暮らしている」最近の詐欺などもそうだが、政治や何か事業をしようとするとき。既得権を持っている人などから、目障りになってくるとその人の地位を上げるなどをして、現場からはずしてしまいその事業を本人が出来なくしていまうことがみられます。褒め殺しには気をつけよう。


「ウシと同じくらい大きくなりたいと思ったカエル」
カエルがウシを見て
りっぱなからだだなあ と思った
どう見ても 卵ひとつの大きさしかないカエルは
うらやましくて からだをひきのばし ふらまし 一所懸命
ウシと同じくらい大きくなろうとする
「よく見ていてよ ねえ あんた(カエルは仲間のカエルに言う)
これでいい? 言ってちょうだい まだかしら」
「だめよ」「これじゃどう?」「とってもよ」「こんどは?」
「まだまだだめよ」ちっぽけな生きものは
あんまり力んだので とうとうおなかが裂けちゃった
これと同じくらい賢くない人が世の中には大勢いる
ブルジュワはみんな大貴族のような邸宅を建てたがっている
小さな国の王さまもみんあ大使をもっている
侯爵はみんな小姓をもちたがっている

「豚もおだてりゃ木に上る」と言うことわざがある。カエルの場合は腹がハジケてしんでしまいした。周りの仲間の帰るも、どうなるか分からずか知っていて面白がってか、腹を膨らませているカエルを煽っています。
最近そのように人をはやし立てる人が増えた増えたのでしょうか。また、それをネットに投稿するような人もいます。投稿する人もそう深く考えないでいるように思います。
何でこんなになってきたのでしょうか。テレビ番組にそのようなものがあるからですが。それを見て嫌悪感を持つひとより笑うだけでなにも感じない人が増えていることも問題でしょう。

ライオンとロバ イソップから

ライオンとロバ イソップから

ある日、ライオンが森の小道をゆうゆうと歩いていると、森の動物たちはみな頭を下げてお辞儀しました。
ところが、一匹のロバは、ライオンの通りすがりに、耳障りなことをつぶやきました。
ライオンはその言葉が耳に入り、一瞬カッと頭にきましたが、なにも言い返さず通り過ぎました。
ライオンは考えたのです、一言でも何か言い返せば、このバカなロバを認めることになり、自分もロバと同じように品位を落としてしまうと考えたからです。


国会の予算委員会で「ニッキョウソ」とヤジを飛ばした人は、委員会の質疑者の発言中、よくヤジを飛ばすそうです。しかし、テレビの中継を見ていると、ご自身が答弁の時にヤジを飛ばされたら、「答弁しているのですから、ヤジを飛ばさないでくださいよ」とよくやり返している。それならまずは国の責任者なのだから、自身がヤジを飛ばさないようにしたらと思う。このイソップにでてくるライオンと随分違う。

ファイドロスの『森の木々と斧』

ファイドロスの『森の木々と斧』から

木こりが森にやってきました。そして、木こりが森の木々に尋ねました。
「自分の斧の切れ味を試すため、試すだけのわずかな木を切り倒してもいいか」。と。
森の木々は、斧の切れ味を試すわずかな木なら、良いだろうと思った。
そこで、森の木々はすぐにいいよと答え、それと引き替えに、森に灰を撒くように言って。話がまとまりました。

木こりは自分の目的に見合う、必要な人数の木こりをつれて森に入ってきました。
木こりは森に入ると、森の中でいちばん立派な木から切り倒し始めました。そして、はじめに約束した、斧の切れ味を試すだけでなく、説明もなく次々に森の木を倒していき、、謝りもなくさらに木を切り倒していきました。

 木々がたくさん切り倒された、長い時間を経たのちにに、ことのしだいがわかってきました。森のカシの木はヒマラヤスギに言いました。「おれたちは取り返しのつかない過ちをおかしたようだ。斧を試すだけならたいしたことではないと、寛大に扱ったところが、大事なものを失ってしまうことになるんだ。このよう、森の仲間の木の一本二本を犠牲にすると、このように全員が滅びてしまうことになるんだよ」


少しだけと思っていたら、雪崩のようになし崩しに、ものごとを変えられてしますことがある。
なにごとも、よくよく考えていかないと、後から取り返しのつかないことになってしまうことが多いようです。

オオカミと子羊  イソップ

オオカミと子羊  イソップ

川沿いでオオカミが水を呑んでいました。すると川下で一匹の迷った仔羊が水遊びをしていました。
オオカミは川下の仔羊を見て、食べたいと思いました。
しかしオオカミは仔羊を、すぐに食べようとせず、仔羊に言いがかりをつける理由を考えていました。
そうすると周りの人は自分を、悪く思わないと考えたからです。
オオカミは仔羊のいる、川下に走って行き「こら!、おれが呑んでいる水をよくも汚してくれたな!」と怒鳴りました。
仔羊は「どうして、あなたが呑んでいる川上の水を汚すことができるの。私が呑んでいた水は、あなたの方から流れてきているのですよ」
そこで、オオカミは子羊に「一年前、おまえはオレの悪口を言ったろう」
仔羊は「誰かと勘違いしているのでしょ。私はそのときはまだ産まれていなかったよ」と言いました。
オオカミは仔羊に「おまえはオレの夕食を食べただろう」
仔羊は「私ら羊は肉食でなく草しか食べないですよ」と仔羊は言いました。そして、「私はまだ幼いので、飲むことしかできないのです」
さらにオオカミは仔羊に「そうだ! おまえはオレの水を飲んだだろう」オオカミは言いました。
仔羊は「私はまだお母さんのお乳しか飲めないんです」と言いました。
「そうかい?」オオカミは言いました。「しかしいずれにしても、オレはお前を食べることができる、おまえはオレの食事の邪魔をすることはできない。今、オレは夕食をとることにする」
そういうと、オオカミは仔羊にとびかかり、ずたずたにしてしまいました。


教訓:悪いことをしようとする者は、いつもなにかしらごまかしや言い訳のためにかこつけ言いがかりの理由みつけるものだ。

イソップ物語、キツネとヤギ

イソップ物語、キツネとヤギ

キツネが井戸に落ちてしまいました。キツネは井戸から出るのにどうしたらよいか、何時間も考えました。しかし、その方法が思いつかずあきらめかけていました。
そこに喉が渇いたヤギがやってきました。ヤギは井戸の中のキツネを見つけると、「そこの水はおいしの」と聞きました。
キツネは、おいしいてもんじゃなく、自分がこうして困っているのに、のんきはヤギだと思いました。
そして、キツネは言いました。「うまい!うまいてもんじゃなく、あまりにおいしいので抜け出せなくなってしまった」。そしてキツネはヤギにいいました。「君も降りてこいよ、たっぷり水があるから」。
それを聞いたヤギはただ水を飲みたいばかりに、考えることもなく井戸の中に飛び降りてて水を飲みました。
ヤギはきれいな井戸の水を飲むだけのだので、のどのかわきがおさまり、ヤギはキツネに聞きました。「ところでこの井戸からどうやって出るんだい」。
キツネはいいました。「いまこうして井戸の中に二人でいるのだからわけないよ、君が後ろ足で立って、その前足を井戸の壁につけて、その角を井戸の壁につければいいんだ。すると、僕はきみの背中から角をつたって上に簡単い出られるわけさ」。
ヤギはまた、考えもせずにキツネに言われた通りしました。するとキツネはヤギの背中にのり、ヤギの角を踏み台にして、ポンと飛び跳ねて井戸の外に出ました。
ヤギが井戸の中から言いました。「こんどは君が僕を外に出すのを手伝う番だよ」。
しかし、キツネはすでに井戸から離れて歩きだしていました。
そしてキツネはヤギに言いました。「もう少し君にもう少し知恵があって、きみの脳みその半分ほども使って考えていていれば、だまされていることがわかって、下りて来なかなかっただろ」。


人間の場合も考えのある人は、まず物事の結果を考えから、行動をするので後で後悔はしない。

いま、目先の都合のよい事ばかりをいわれて、コロッとだまされてしまうことがあります。
よい儲け話あると言われて、ATMに現金を振り込まされたり。政治の面でも耳触りのいいフレーズの言葉に惑わそうとしている、キツネもいるようです気をつけたいものです。

ウサギの「みみ」と「しっぽ」 の話

ウサギの「みみ」と「しっぽ」
アイヌの昔話に次のような話がある。
それによると、昔はウサギのみみは短く、シッポはふさふさしてキツネより立派だったそうです。

イソポ・カムイ
広々とした野原で、ウサギやタヌキやエゾキツネが暮らしていた。その真ん中には美しい沼がある。春夏秋とこの沼の恵みが生み出す恵みの恩恵を受けていた。
アイヌの人たちはウサギのことを、イソポと呼んでいた。ウサギの隣には働き者のエゾキツネが住んでいて、仲良く暮らしていた。
秋がきてウサギもエゾキツネも、冬が訪れるので食料あつめにいそしんでいた。エゾキツネとウサギは食べのが違うので、喧嘩などすることはなかった。
そうして、今年も冬将軍がやってきて、寒い木枯らしが毎日吹き叫び、雪が毎日降り積もるようになった。そんなある日タヌキのおじさんがいった。
「毎年今頃になると、蓄えた食べ物も少なくなり、みんなやせてくるのに、キツネだけはまるまる太っているなぜだろう」。それを聞いた、ウサギは次の日隣のキツネに聞きにいくことにした。
「キツネさんどうして冬でも太っているのですか」
「あの美しい沼にいってごらん、いまは沼一面氷がはりつめ真っ白だ。だけど氷を割って穴をあけ、その穴の中にシッポを入れると、小魚がやってきてシッポの毛の中で眠ってしまう。そのころをみはからってシッポを抜いて氷の上でふりまわすと、たくさんの小魚がとれるのだ。」
さらに、キツネはいいました。
「冬の沼で魚を捕るとき一番注意しないといけないのは、居眠りをしないことだ、居眠りをすると寒波の神様がおともなく忍び寄ってきて、たちまち氷の穴もシッポも氷つかせてします。ウサギさんもし沼で魚を捕るならぜったに居眠りしてはいけないよ」

ウサギは夏は茶褐色の毛、冬は真っ白な毛がが自慢でした。もう一つの自慢がキツネやタヌキに負けない立派なシッポでした。
その話を聞いたウサギはうれしくなり、次の日沼に行って、キツネの教わった通り穴をあけウサギの立派なシッポをその中にいれました。そうするとたくさんの小魚がとれたので、近所に配ったらたいへん喜ばれました。
そして、ある日沼に行くといつも来ているキツネの姿が見えません。今日はキツネの分もとれると思うとうれしくなりました。そうこうしているとウサギは眠くなってしまいました。
気がついた時はすでに事遅しで、寒波の神様がやって来てしまいました。ウサギのシッポを氷の手が、しっかりと握りしめ、放してくれません。
ウサギは大慌てで足をバタバタさせ、シッポを抜こうとするが抜けません。大声で叫んでも吹雪の音にかき消されてしまいます。

ウサギの女房は主人の帰りが遅いので沼に探しにやってきました。女房はかすかに聞こえるウサギの叫び声を聞きとりました。女房ウサギは主人をみてビックリして、ウサギの両ミミを強く握りしめて引っ張りました。するとポキッと変な音がして、ウサギと女房は氷の上にたたきつけられました。しばらく起きあがられないので、女房は主人のウサギを袋に入れて家に帰りました。家に帰ると子供たちは、ウサギをみて見てビックリしました。
ウサギは、足をバタバタさせたので長く力強くなり飛び跳ねるのに都合がよくなり、あまり叫びすぎたので口は大きくさけ、ミミは引っ張られたので長く延び、シッポはもぎ取られ短くなてしまいました。
このウサギはイソポの頭領の家柄だったので、それからウサギは今のような姿になったそうです。


この話はウサギの話で、シッポやミミの話がでてきますが、物事をするとき居眠りをすると、とんでもないことになると戒めています。北海道の冬は寒く厳しいですから、シッポがちぎれてしまうどころか死でしまいます。死んでしまうだけではなく、大切なシッポを失い耳の形や口の形などの容姿が変わってしまう。何事もおろそかにすると、一つの事だけでなく、いろいろな他のことも、変わってしまうということを伝えているのでしょう。

アイヌの民話「スバルとオリオン星」

アイヌの民話に、強情星というのがある。ちくま学芸文庫で、「スバルとオリオン星」として収録されている。

話の大筋は次のようなものです。
怠け者で強情な六人の娘がいた。いつも遊んでいるので、働き者の男三兄弟が言った。いつも遊び暮らさずに田畑を耕して働いたらどうか。すると六人の娘はそんなの嫌だといた。男三兄弟は怒って娘を追いかけると、娘たちは船に乗って逃げていった。男たちは春夏は畑仕事がいそがしいあいだは、何処かに隠れていて農閑期になると、東の空に娘たちがあらわれ、男兄弟が追いかけている。そして今でも追いつ追われつしているといわれている。

スバルは、おうし座の牛の方辺りに位置するプレアデス星団のことで、日本名が「昴」で「むつぼし」とも呼ばれ、六つの星がむすばれているようなので、スバルととも言われている。
このオリオン星とは、オリオン座の三ツ星のことです。三本の矢の話で知られる、毛利家の紋の三ツ星です。
農繁期が終わり農閑期になると、スバルが東の空に現われ、しばらくするとオリオン座の三ツ星がでてきます。
ちょうど、北海道の寒い地では、今頃になるとそろそろ冬支度を本格的にはじめないといけないのです。昔毎年アイヌの人たちは、このスバルであるアイヌの言葉でアルワン・ノチウ(怠け星)が、東の空に昇るのをみて鮭の時期を知り、この二つの星がでてきたら、冬の仕度したくをしなさいと言う合図にしていた。
話はそれるが、イソップの蟻とキリギリスではないですが、怠けていたら冬を越せないという戒めにもなっているのでしょう。そのようなはなしがひょっとしてあるかもしれませんが、私はそのような話を記憶していません。

アイヌの民話の話をしているのだから、この二つの星のアイヌでの星の名前はどうなのかと思い、野尻抱影の「星の方言集 日本の星」を開いてみると、次のように書かれています。

スバル 
イワンリコブ 如此星 (藻汐草)新村出博士は、これをイワン(六つ)リコップ(星)で、スバル、一名ムツラボシと解された。イワンはアイヌが神聖視する数で、その神話伝説には常に出てくるという。
ほかに、先にあげたアルワン・ノチウ(なまけ星)という名前もある。この名前への由来に始めに紹介した「スバルとオリオン星」とよく似た話があります。

六人の娘がいて、父親や熊に殺され、母が悲しみのあまり家でしてしまい、娘は仕事をしなくないり、春夏は山で遊び暮らし、冬は里で物乞いをしてくらしていた。これを見た天の神は星に変えてしまい、六つ星となり寒空にさらされることになった。この話は、蟻とキリギリスににています。

このプレアデス星団であるスバルはそんなに明るくないところから、目立たない印象から怠け者の六人の娘の話ができたのではないかと言われている。

一方の三ツ星については、
イウタニ 参宿 三ツ星 (藻汐草) イ(それを) ウタ(搗く) ニ(木)の意味で、三つのたて一文字をキネの形と見たもの。久保寺
レネシクル 三人連れのお方 レン(三人) エウシ(そこにつている) クル(神)金田一京介

この三つ星は冬の星でも代表的なもので、空を見上げると一番目立つので働きもの男三兄弟にたとえられたのでしょう。

アイヌの「クマ送り」


北海道でアイヌのお土産といえば、その一つにクマの彫り物を思い浮かべます。また、ヒグマを飼っていると多くの人が思っています。しかし、アイヌの人たちの文化について書いた本を読んでいるとそうではないようです。

アイヌの儀式の一つに「クマ送り」というのがあるそうです。

アイヌでカムイと言えばクマのことを指したりします。それは、クマはカムイの代表的なものだからだそうです。

アイヌの人たちにとって自然のあらゆるものはカムイと考えます。そして、その一番上になるのがクマだそうです。
クマのカムイは、自分たちの村を訪れるとき、毛皮と爪をみにまといやってきて、食料も提供してくれる。
アイヌの人たちにとってクマを狩猟することは、クマのカムイがやってきてくれて、毛皮と爪と肝や肉を持ってきてくれる考えるそうです。それも、たくさんとれる他のシカやシャケなどより価値のあるものと見ています。
そのことに対して感謝の気持ちを込めて、クマ送りという霊送りの儀礼をするそうです。
そして、冬の冬眠中のクマを射止めてると、クマは毛皮や肝アイヌに与えて、親のクマの魂はカムイ・モシリに変えていきます。しかし、小グマはまだ帰る力なないので帰れない、そこでアイヌの人たちは、自分の村に連れ帰り里子として育てるそうです。そして、育てられた小クマは2年ほどしたら山に帰されるのですが、そのとき人間から育てられたことと、カムイ・モシリに帰る儀式が盛大に行われます。そして、カムイ・モシリに帰ったクマのカムイは、仲間のカムイに、盛大に見送ってくれたことを伝えます。また、2年間育ててくれた歓待の様子を伝えるいわれています。
それにより、仲間のクマのカムイは、「我々も来年は訪れてみよう」ということになり、アイヌの村はその翌年、多くのカムイが訪れ、狩猟の獲物などの食べ物を得ることができると考えられています。

このことは、大地の恵みを授かっているのは、我々人間であるアイヌの人たちで、それに対して礼を尽くさないと、自然の一員である人間である自分たちは、その自然からはじき出されてしまうというような考えがあるのでしょう。
どうも今の文化人は自然を征服する、自然をコントロールする事が文化的科学的だと考えてしまっています。しかし、最近起きている大きな自然災害をみても、人間の力はそれに対して非常に弱いものでしかないです。そのことを改めてこの、アイヌのクマに対する行いから学べることがたくさんあるように思うのです。

クマの神であるカムイがアイヌのところに、毛皮と肝と肉と爪を届けにやってくる。実際はアイヌが狩猟に出かけるのですが。そして冬には冬眠中のクマを戴くのですが、クマは冬眠中に子供を産むので、そのとき小クマは生きられなくなります。そのため、小グマを親クマに代わり引き取り育てる。そして、クマが成長すると山に帰すわけです。
このことは、アイヌは自然と共棲していて決して、自然を征服するなどの思いはないのです。そして親グマに代わり育てることは感謝しているあらわれといえます。
また、小クマには必要以上の面倒をみるのでなく、人間をおそれるように育てるとも聞きます。それによりクマは人間を恐れアイヌの村に近づかないそうです。
クマのカムイがアイヌに毛皮と肝と爪と肉を持ってくると言う考えも面白いとです。一般的に神と考えるなら、恐れ敬いお供えをするが、アイヌのカムイはどうやら同等の関係にあるのだろうと思います。カムイがアイヌのところにいろいろなものを持ってきて、その代わりに小グマを育てる。そして大きくなると山に帰し、親グマになるとクマはアイヌに贈り物を持ってくる。これが繰り返されるのです。なんとも、持ちつ持たれつの関係といえ、近代的な金融経済の競争の価値観では考えられないものです。
このような世界もあることは知って起きたいものです。

我々は大地の一部であり、大地は我々の一部である

「生命の織物」 女子パウロ会発行のなかに、
次のような言葉が載っていた。
アメリカ「首長シアトルのメッセージ」
ワシントンの大首長が、我々の土地を買いたいといってこられた。大首長はまた友情と好意のことばもおくってくださった。・・・中略・・・。
しかし、お申し出をよく考えてみよう。・・・中略・・・もし売らないといえば、白い人は銃を持ってやってきて、我々の土地を奪うだろう、と。

そして次のように続く。
いったいあなた方は大空や大地の暖かさをどのように売ったり買ったりするおつもりか。そのような考え方は、我々にはふしぎでならない。大気の爽やかさも、水の輝きも、人の所有物でないのに、・・・以下略。
              テッド・ペリー 原みち子訳

先日アイヌのカムイの神謡について書きました。そこでは、カムイとアイヌは対等でお互いに支えあい敬いあっているとか書きました。アメリカンの先住民族も同じような考えがあるようです。

また、2011-11-10に書いたアイヌの民話の話で、プクサの話をしました


「だからブクサや山菜がどんなに沢山あっても、根絶やしにとってしまうものではありません」と言い伝えれれています。
アイヌの人たちやインディアンなど、近代文明に毒されていない先住民族の人たちは、自然とともに生き自然に支えられながら生きていることをよく知っていました。
それが、農作物の生産技術が向上していくと、人は驕り自然をコントロールできると勘違いしてきたのが、先進国の文明文化と言えるかもしれません。


最後にテッド・ペリーの次の言葉で締めておこうと思う。
「この美しい大地をけっして忘れない、それは我々は大地の一部であり、大地は我々の一部である。」


カニのカムイの神謡

もう一つ、カムイたちの神謡
同じ「アイヌの物語世界」本に、カニのカムイが語ったとされる話がのっています。これは中川 裕氏が採取した神謡です。

そのあらすじは次のようなものです。

川をのぼって歩いていると、干魚が一匹水に漬けてあったので、それを食べていると。「お前なんぞに食べさせるために、魚を浸けておいたのではない、この化け物め」といい。私をつかまえて、手足を折り、ぽーんと投げ捨ててしまった。私は泣きながら川に流されたが、何とか家に帰り着いた。折られてところが痛むので泣き暮らしていた。自分をこんな目に合わせたのは、誰か神通力でみてみた。そうするとそれは、オキクルミの神の妹であった。腹が立ったので、オキクルミの神の妹の手足を折った。
すると、オキクルミの神は、自分の妹をこのような目に合わせたのか探った。私は自分の前に靄をかけたので、オキクルミは見つけることができなかった。しかし、オキクルミは自分の妹の手足を元通りにしてやりたく探し回った。私はいつまでも隠れているのも、オキクルミの神に申し訳なくいので、夢にでてことの成り行きを告げた。
すると、オキクルミの神は私に礼拝して、イナウを削って言った。
「これまでは、カニの手はもがれても生えてくるものでなかったが、これからは手も足も生えてくるよう私が見守りましょう」
その後、オキクルミの神は私の足を再び生えてくるようにしてくれたので、私も妹の手や足がくっつく要にしてやった。そして私の手足も生え揃ったのでした。と、カニのカムイが語った。

昨日、カムイは「自然の力で、人間を越えた力」を持ったものであり人と対等の関係にあるようだと書きました。

このカニの神謡を聞いていると、神として人間にいろいろ知恵を授けてくれ、いろいろなものから守ってくれるものである。神の妹であれカニのような小さな生き物にも、無慈悲なことをしてしまうと、それはカムイであろうと小さな生き物に対して失礼だとし、自分の非や過ちを認め、相手に許しを願わなければならないことがわかります。

絶対神のように過ちはしないのでなく、人といや地球上のあらゆるものと、対等の関係にあるようです。
今は、地球上で人間はその頂点に立ち、あらゆるものを為すがままに振る舞っています。そのけっか希少種の動物だけでなく多く棲息していた動物や植物を絶滅させています。また、科学技術が発展し産業が活発になり、地球温暖化にむかい、そのためか世界各地で異常気象が続発しています。
私たちの日常の生活のなかで、アイヌのカムイのような考え方が今こそ必要になってくるでしょう。

アイヌの神謡 心がけのよい人間と心がけの悪い人間

アイヌ民族にカムイを聞くが、カムイは日本語で神と訳しがちだが、日本で言う八百万の神やキリスト教などの絶対神とは違うようです。
「自然の力で、人間を越えた力」をカムイと名付けているよう考えているように思える。
アイヌとカムイは対等で、お互いに与えあうもので、アイヌが悪事を働いたり、カムイに対して不敬な行為を行うと、カムイは当然罰を与え、カムイが人間たちに危害を加えたり、ミスをするとアイヌは抗議を行うことだできる関係にあるようです。
そのようなことを伺わせることが、北海道出版企画センターから出された「アイヌ民話全集」の一つが、「アイヌの物語世界」中川 裕著に紹介されています。


アイヌの神謡

ヤチダモのカムイの目で、心がけのよい人間と心がけの悪い人間を見た神謡
私は滝の上に立っていた。ある日川下からオキクルミが六つのムカラ(手斧)、六つのモッタ(木材の粗削りに用いる道具)、六つのパンチョ(大斧)を持ってやってきた。「この性悪のくされ木よ。お前の堅い肉を引っ込めて、柔らかい肉を出したなら、お前を舟にこしらえて、私は交易にいくからな」と言いながら、私の根本にやってきた。
私はその言葉に腹をたてて、柔らかい肉を隠し、固い肉を外に出したので、オキクルミは六つのムカラ、六つのモッタ、六つのパンチョを全部だめにしても私を切ることはできず、悪口をならべていってしまった。
それから今度はサマイェクルが六つのムカラ、六つのモッタ、六つのパンチョを持ってやってきた。そして私のそばにきちんと座って、丁寧に礼拝するとこう言った。
「ヤチダモのかむいよ。あなたの柔らかい肉を出して、固い肉を引っ込めてくださったら、きれいな舟にこしらえて交易にでかけ、お酒やらいろいろな品で、あなたの懐をいっぱいにしてさしあげますよ」
それを聞いて、私は固い肉を引っ込め、柔らかい肉を外に出した。するとサマイェクルは私を立派な舟に作って川に下ろし、私の懐を交易の品でいっぱいにして海にでた。そしていろいろな品を手に入れて自分の村に帰った。村に戻ったサマイェクルはイナウを削り酒を作って私の懐をいっぱいにし、私に感謝の言葉を述べてくれた。そのおかげで私は品格の高いカムイとなることができたのだ。
とヤチダモのカムイが語った。

この話、どのようなものにも礼を尽くして、物事に当たらないといけないことをわかりやすく教えてくれている。
おごり場当たり的に物事を進めた、オキクルミはすべての斧を失ってしまい。礼を尽くしたマイェクルはその物事を成し遂げることがきました。
今の私たちの日常生活で忘れてはならないことですが、このところそれが疎かになっているのではないでしょうか。
このアイヌの神謡に学びたいものです。

続きを読む

群盲象に撫でる

群盲象に撫でる。
「涅槃経」

鏡面王が、盲人たちが象を知らないと言うので、象というものを教えたいと考え、家臣にいって何人かの盲人に象を触らさせた。
そして、王は盲人たちに訊ねたた。「象というものが判ったか」。
すると、足を触った一人は「王様、象とは立派な柱のようなものです」と答えた。別の盲人は尾を触ったので、「箒のようです」と答えた。そして、他の腹を触った者は「太鼓のようです」、脇腹を触った者は「壁のようです」、背を触った者は「背の高い机のようです」、耳を触った者は「団扇のようです」、頭を触った者は「大きな石のようです」、牙を触った者は「大根のようなものです」、鼻を触った者は「太い綱のようなものです」と口々に答えた。
盲人達は象について、各々の見たことが正しいと言い争い、相手の見方は間違っていると言い出して収拾がつかなくなった。
これを見ていた、鏡面王は笑って言った。
「盲人達よ、お前達は、まだありがたい仏様の教えに接していない者のように、理解の幅が狭いのだ」。と。

       北斎象
       北斎漫画 第八編 


この話し、最近は視覚障碍者に、対して蔑視たこととしてとらわれることがあるので、ほとんど例えられなくなりました。

しかし、世の中の多くの出来事で、この話しの盲人のような人が実に多いことでしょう。

我々普通の者が世の中のいろいろなことを、批評するにもその起きている一面だけを見てしまい、その一部分のことだけを知っての批評にとどまって、全体を観察し得ないでいることが、今のインターネット時代でのいろいろな書き込みになんと多いことでしょうか。

そして何より、その無知な庶民に偏った情報ばかり流して、自分の都合のよい方向に世論を向けさせようとしている人も実に多いことでしょうか。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

ミケランジェロ と「ダビデ」

イタリアの巨匠ミケランジェロはみなさんよくご存じだと思います。
そのミケランジェロの代表作に「ダヴィデ」がありますが、その「ダヴィデ」についての逸話が、ロマン・ロランの名作
「ミケランジェロの生涯」(ロマン・ロラン著 高田博厚訳 岩波文庫)に書かれています。
 
    
       ダヴィデ
       「wikipedia」ミケランジェロより。
        

『伝えによると、市政長官のピエロ・ソディリーニがミケランジェロにこの制作を注文したのだが、ある日像を見に来て、見識を示すべく批評をやって、鼻が大きすぎると難じた。
そこでミケランジェロは足場へ上り、鑿と大理石の粉をすこし手に持って、鑿を軽く動かしながら、粉末をすこしずつ落とした。だが鼻には触れず元のままだる。
「これでいかがです?」
「や、すっかりよくなった。これで生き生きとしてきた」とソデリーには言った。
--- そこでミケランジェロは下りてきてこっそり笑った。 ---』
 
また、次のようにも書かれています。
『美術家委員会が「ダヴィデ」の置き場所につて評議した。ミケランジェロの要請に従って、市政庁の前に建立することに決定し、・・・・ 中略 ・・・・ 指定の位置にに着いた。夜はまた象の周囲を警備しつづけた。万全の注意が払われたにもかかわらず、ある夜投石で傷つけられた。
これが、時にはわが国民衆の手本とされいたフィレンツェの市民だったのである。』
 
 
前者は、システィーナ礼拝堂の壁画を描いたとき、絵にけちを付けた司祭を、いかに知ったかぶりをした無知さを馬鹿にし、最後の審判の絵で地獄に落ちた者の顔を司祭の顔を描いた、自由人で反骨心があるミケランジェロをよく物語っているように思います。

そして、後者は「ダヴィデ」の美しい純潔な裸体に対して、当時もっとも、文化的に進んだ礼節を持っている市民と言われた、自由都市国家フィレンツェの市民の恥じらいの心を精神的に呼び起こし傷つけてしまったのでしょう。今まで多くの彫刻などは、貴族の私的庭園や邸宅やもっとひどいのになると陽のささぬ私蔵いな死蔵の庫に置かれていましたが、ミケランジェロは市政庁の玄関の前に置くよう希望し、市民の目前にさらしたのです。
しかし、それはあまりにも美しい「ダヴィデ」の裸像に嫉妬してしまったのはなぜでしょうか。

それは、レオナルド・ダ・ビンチなどが加わって討議している美術家委員会が、ミケランジェロがはじめから希望している市政庁前に置くことに反対して、ロッジア・ディ・ランディの屋根の下に置く提案に賛成したのも、「ダヴィデ」の裸像の自由都市としての気概を恐れ、芸術性を優先しようとしたことからもそれが伺えるのではないでしょうか。しかし、最後には制作者のミケランジェロの意図が優先され、市政庁を守る「ダヴィデ」として置かれたのです。

また、この「ダヴィデ」を通して、ミケランジェロはフィレンツェ生まれでフィレンツェの自由都市としての独立性を「ダヴィデ」の芸術性で顕したかったのでしょうか、それに対してレオナルド・ダ・ダビンチは、生まれ故郷のフィレンツェを捨てて芸術制作を追求した二人の温度差を感じます。
そのことに対して、羽仁五郎は「ミケランジェロ」岩波新書の中で次のように書いています。
「すなわち、フィレンツェ自由都市共和制の若き"ダヴィデ"は装備によらず裸身にしてただ市民民衆の自由独立の精神によって、あのピエロ・デ・メディチの独裁主義の陰謀とチェザレ・ボルジアの武力とそれらの背後の法王アレッサンドロ六世どの三頭のゴリアをしりぞけたのである。」

そもそもダヴィデは、旧約聖書サムエル記上に出てくるイスラエルの王子であり、イスラエルを滅ぼそうとした宿敵ペリシテの巨人のゴリアテを倒した英雄ですが、「ダヴィデ」の裸像に、フィレンツェの置かれた現状を表したことに市民は嫉妬したのでしょう。


旧約聖書 サムエル記 上 については、続きに書きたいと思います。

続きを読む

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

愚かな話 二つ

やるべきことをしなければならないことを戒めた話は、喩え話として世界各地で話次がれています。
 
その一つです。
 
あるところに、頑固ものの男と強情ものの女がいました。二人は恋に落ち新居で盛大な結婚式を挙げました。
祝宴も終わり、友達親戚も一人一人帰っていき、最後の客も帰りました。
夫が、ドアが開いていることに気づき、妻に「なあ、おまえ、すきま風が入ってくるから、ドアを閉めて来てくれないか」妻は「どうして私が閉めないといけないのよ。一日中立ちっぱなしで疲れたは、あなたが閉めてきてよ」
「そらきた、結婚指輪をはめたとたん、怠け者の役立たずになるんから」と夫がいいました。
「よくもそんなひどいことが言えるわね、結婚してまだ一日もたっていないのに、私をあごで使おうとするの!、あなたがそんな人だと思わなかったわ」
「がみがみとうるさいにな、これからお前の文句を聞かないといけないのか」「わたしは、あなたの小言と愚痴を聞き続けないといけないの」
二人はしばらくの間お互いを、にらみ続けていました。
そうして妻が言いました。
「ねえ、あなた、私たち二人ともドアを閉めに行きたくないし、どちらも相手の声を聞きくのにうんざりしているのよね、そこで勝負しましょう先に声を出した方が、ドアを閉めに行くのよ」
そして、二人は向かい合って椅子に腰掛けて、一言もしゃべらずににらみ合っていました。

夜もとっぷりと暮れあたりは真っ暗になりましたが、二人はなおも向かい合ってにらみ合っていました。
そこに、荷馬車に乗った二人組の泥棒ややってきて、ドアが開いているのに気がつき、中をのぞくと誰もいないようなので、手に触るものを片っ端から盗み出しました。テーブルや壁に架けてある絵や、ジュウタンやミズヤの食器なども運び出していました。
しかし、新婚夫婦二人は、一言も口を利かず動こうとしません。
夫は(信じられない、泥棒が物を全部持っていこうとしているのに、妻はなにも声を立てない)と思いました。妻は(夫はどうして助けを呼ばないのだろう、ただ黙って座って泥棒が盗んで行くのをみているだけなのだろうか)と思いました。
 
泥棒は、最後に椅子に座って押し黙っている二人にきがつきました。泥棒は微動だにしない二人を蝋人形勘違いして、二人の付けている、宝石や時計などを剥ぎ取りましたが、二人は声を上げようとしませんでした。
そして、泥棒はおおかたの物を荷車に積んだので立ち去っていきました。
しかし、二人は向き合って一晩中押し黙ったままでした。
明け方、一人の警察官が通りかかり、ドアが開いているのを見つけ、家の中の二人を見つけ尋ねました。「なにか変わったことがないか」。
しかし、二人は押し黙ったままで応えようとしませんでした。
警察官は、「おい返事をしろ、警察だお前は誰だ、個々はお前の家か、家具はどうしたのだ」と尋ねましたが返事がないので、警察官は夫を小突きました。 
 
すると、「やめて!、これは私の夫よ。この人に手を触れようものなら、私が承知しないわよ!」と妻は飛び上がって叫びました。
すると、夫は「勝った。お前が行ってドアを閉めてくるんだ」
 
 
これと似たような話が、桂米朝の落語に「不精の代参」があります。その枕にあります。
 
たいへん親子の不精な男があって、お父っあんと、息子と枕を並べて、寝てたんですが、
「なあ、お父っあん」
「なんや」
「神棚のお灯明の火、消すのん忘れたんやが、風が出てきたような具合やし、こうあふられてんねやが、消しといたほうが用心ええことないかな」
「用心がええと思たら、お前立って言って消さんかい」
「わい消すのん、邪魔くさい」
「ほな、わいも邪魔くさいがな」
「ほっとこか」
「ほっとけ、ほっとけ」
「・・・・ああ、とうとうおしめの縄へ燃え移ってもうたがな。あら~消したほうがええと思うがな」
「消したほうがええと思ったら、お前いて消けさんかい」
「わい消すのん邪魔くさいがな」
「ほな、わいも邪魔くさいがな」
「ほっとこか」
「ほっとけ、ほっとけ」
「とうとう、天井まで焦げだした。こら、ほっといたら火事になるで」
「火事になると思ったら、お前行て消さんかえ」
「わい消すの邪魔くさいがな」
「わいも、邪魔くさいがな」
「ほっとか」
「ほっとけ、ほっとけ」
「・・・・あたり一面、火の海や。こらあ、ぼちぼち逃げた方がええんと違うか」
「ほならお前、逃げたらどうや」
「わい逃げるのん邪魔くさいがな、ほっとこか」
「ほっとけ、ほっとけ」
「ぼちぼち足のほうから、焦げだしてきたでえ。お父っつあん。こっらもう逃げ死ぬで」
「死ぬと思ったら、お前逃げんかい」
「わい逃げんのん、邪魔くさい」
「わいも邪魔くさい」
「ほっとこか」
「ほっとけ、ほっとけ」
あんばい二人とも焼け死んでしまいました。こういう奴はしんでも、極楽へはちょっと送られまへんなあ。閻魔はんの前へ引きずりだされ、お裁きを受けます。
 
と言うものです。

前の夫婦の話は、欲に絡んだ話で、後の親子の話は何とも言えないものぐさの話です。

続きへ

続きを読む

テーマ : 私たちに出来ること・・・!
ジャンル : 福祉・ボランティア

インディアンのラムービ族の格言

アメリカスタンフォード大学のジェラルド・ウラブトリー教授が、「人類の知性は2千~6千年前頃がピーク」だと言ったことを、私がこのブログにかきこみました。
そして、次のような、アメリカ先住民である、インディアンのラムービ族の格言に次のようなものがありました。

「知識でなく、知恵を求めよ。知識は過去の産物だが、知恵は未来をもたらす。」
[アメリカ・インディアンの書物より賢い言葉]エリコ・ロウ著 扶桑社より

いつのころからか、知恵を働かすことが少なくなり、集めた情報を人がプログラムした計算機で分析して、状況を判断して重要な裁断を下すようになりました。人が経験で判断するとそれが間違っていたら、責任問題に問われるので計算機の結果に疑問があってもそれを優先させることがあるようです。

また、西洋ではルネッサンスんころ、レオナルド・ダ・ダヴィデは、「愛は知識の母である。知恵は経験の娘である」と言っています。
日本でも沢庵和尚は、「才知を人に見せんの心は、才知乏しき故なり」。と言い。
古代中国では荘子が、「人生には限りがあり、知の働きには際限がない。限りある人生を限りない知識欲に従わせることは、自分の身をあぶなくするだけである。」そして「天が営む自然のはたらきを知るとは、自然のままに生きること」と言っています。

これらの言葉を、今一度この知識に頼り切って混迷している、今の日本で読み直し改めて考えてみたいものと思います。


テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

一粒の筋子と食べ物

最近はどうも、食べ物を粗末にしてしまっているように感じます。
私の小さいころは、「一粒の米も流さず一粒の砂も見逃さずという言葉があり」また、「ご飯を一粒でも粗末に残すと、目がつぶれる」と教えられました。そして、食べ物は特に大切にしていました。飽食の時代と言われて久しい現代ですが、どうもそのような意識が薄れてしまったことは残念に思います。テレビで食を扱った番組で、食べ物を粗末に扱ったり、笑いを取る番組があるのを残念に思います。


アイヌの昔話に次のような話があると、「アイヌの昔話 萱野 茂 平凡社ライブラリー」に書かれていました。
上のようなことを日ごろ、思っていたのでこの話に興味を持ったので、かいつまんであらすじを紹介してみます。

「一粒のサッチポロ」
石狩川の中程に親子三人で暮らす娘がいた。父は年を取って山に狩りにも川に鮭を捕りにもいけずいました。娘が春は山菜を採り、冬にはそれを保存していた物を食べていました。
夏はウバ百合の根を堀り、水でさらして澱粉を取って食べ。残り粕は青草で包み発酵させ冬に食べていました。母親があるとき「おまえのいいなずけが川の上流にいるから逢いにいけと」と言いました。
家の一切のことをしていた娘は、会いにいく気がなかったですが、度々母親が言い、旅支度をして背中にくくりつけ「父さんも永くはない、死ぬまでに男の猟った肉をたべさせたい」と言って押し出しました。
川の上流を目指して夕暮れになったころ、石の原っぱにでると、一人の女が座っていました。見ると自分と同じ歳ごろです。顎は長く口は耳まで裂け、目がつり上がた女でした。
娘が近づくと、女は「お姉さま、貴方がくると聞いて、迎えにきました」。そしてにこにこしながら「お姉さまシラミを捕って上げましょう」と言い。髪の毛をなでてくれました。そると娘は眠くなって眠ってしまいました。
目を覚ますと、あの女が娘の着物を着て、先の方を歩いていました。娘は女のボロを着て追いかけました。
そうすると、女は悪口をつき石を投げてきました。女の後ろ姿をみると娘そっくりでした。
女がしばらく歩いていくと、一軒の干し肉が軒先に干してある裕福そうな家につきました。女はその家に入ったので、娘も入っていきました。
家の中の老人は女には丁寧に礼拝しましたが、娘には見向きもしませんでした。
女は娘に向かって、「どこから来たか知らないが、いいなずけに会いに来た私の邪魔をするなと」怒鳴りました。
そこに、二人の若者が鹿の肉を背負って帰ってきました。老人は若者に客人が来ていることを告げると、若者二人は丁寧に二人に礼拝しました。特に娘には丁寧でした。
娘のいいなずけらしい弟の方は、二人を見比べいぶかしげな顔をしてました。
すると、弟の若者が美しい椀を二人に差しだし、それにサッチボロ(干した筋子)をお入れ。「どうぞ食べてください」と言いました。
娘は子どものころ父親から言われていたとおり、一粒づつ口に入れゆっくりと噛んでたべました。
女の方は手で一掴みにして、ほおばて食べました。女は目を白黒させながら、噛もうとするが、筋子は歯に粘りつき呑み込むこともでず悶えてていました。するとだんだん女の顔が変わり、そのうち尻から狐の尻尾が見えました。
若者二人が尻尾を見つけてると、燃えさかった薪と火箸を手に持って、女に殴りかかりました。
すると女は「わたしはいいなずけなのにどうしてだ。あの女が化け物だ」とわめきました。
「なにを言う化け物狐 正体を現せ」と若者二人が殴りかかり。老人も「昼の日なか、火の神様の前で、人や神を欺くことができるか」と火箸で殴りかかりました。女は「火の神の前で」と言われ正体を現し狐の姿になりました。
その狐のすがたは、痩せこけ病気にかかった姿でした。人の姿をしているときは動きが鈍かったが、本性を現すとすばしこかったですが、ようよう取り囲んで叩きのめして殺していまいました。そして老人は、狐の死体をゴミ捨て場に捨てました。

その夜 娘の夢の中にあの女がでてき「本当にわるかった、わたしはお嫁になりたく、お前に化けたがこのありさまだ。実は私はあの石原を守るため、天国から使わされた女神です。このままゴミといっしょに私を捨てることは、お前たちのためにならない、粗末なイナウと僅かな酒を供えて、神の国に送ってほしい。そうしてくれると、お前たちが一生のあいだ幸せに暮らせるよう守ってあげよう」といいました。
老人も若者も同じ夢をみたらしく、次の朝、「神は神同士で結婚して神だ、今後あのようなことのないように」と悪口をいいなが、少しの酒と、粗末なイナウで狐を神の国へ送り返した。
その夜、狐の女神が枕元にたち「私は、神々に許され、地位が低いが神の仲間入りができました。お礼に、一生お守りします」と言いました。

そして娘と若い男は、たくさんの干し肉と干し魚を持って娘の家に帰りました。
父母は喜び父は肉を食べることができました。そして子どももたくさん生まれ、なに不自由なく暮らすことができました。

「だからいまいるアイヌよ、干した筋子を食べるときは、一粒々々食べなさい、そして相手が化け物か判らないときは、サッチポロを食べさしてみると、その食べ方で判るのだ」とひとりのおばあさんがいいました。


食べ物を扱ったテレビ番組が多いが、その中で出演者が食べる番組があります。
美味しさを伝えたいのでしょうが、ガツガツと大食らいしたり、食べた後も食材を粗末に扱ったりするような番組があります。
それを見ているとなんだか、この話の狐のように思えるところがあります。
この娘の父親の教えのように、食べ物を大切に一口一口味わって、その食材の神に感謝して食べないと行けないです。昔はアイヌに限らずみなそのような気持ちを持っていたのですが、そのような番組を見て笑う今の現代人は、なんだかその心がどこかに行ってしまっているようです。
この話をしっかりと噛みしめたいと思います。

ゴルディロックスと3匹の熊

イギリスの童話
「ゴルディロックスと3匹の熊」
  
昔々、ゴルディロックスという少女がいました。
 
彼女は、森に散歩に行きました。
しばらく行くと、一軒の家がありました。
ゴルディロックスは、ドアをノックしましたが、返事がなく誰もいません。
 
ゴルディロックスは、家の中に入っていくと。
テーブルの上には、三つの皿に入ったスープがありました。
 
ゴルディロックスは、お腹が空いていたので、そのうちの一つを一口飲みました。
「このスープは熱すぎる!」と言って、二つ目のスープを一口飲みました。
「このスープはぬるすぎる!」と言って、三番目のスープを一口飲みました。
「アー。このスープが、一番いい」と、彼女はそのスープを全部飲んでしまいました。
これらのスープは、三匹の熊の朝食だったのです。
彼女は、スープを飲み終わると眠たくりリビングルームに入りました。
 
そこには、三つの椅子がありました。
ゴルディロックスは、足を置くために、そのうちのひとつのいすに座りました。
「これは、ちょっと、大きすぎる。」と言いました。
二つ目のいすに座りました。
「これは、もっと、大きい。」彼女は言いました。
ゴルディロックスは、最後の小さないすに座ろうとしました。
ところが、彼女がその椅子に座ったとたん、椅子が壊れてしまいました。
ゴルディロックスは、非常に疲れてしまったので、二階に行きました。
 
そこには、三つのベッドがありました。
そのうちのひとつにゴルディロックスは横たわりましたが、そのベッドは、非常に硬いベッドでした。
二番目のベッドは、やわらかすぎるベッドでした。
三番目のベッドの硬さが適していたので、ゴルディロックスは、そこで眠ってしまいました。
 
ゴルディロックスが眠っていると、三匹の熊が帰ってきました。
「誰かが、私のスープを飲んでいる。」と、親熊が言いました。
「誰かが、僕ののスープを全部飲んでしまった。」と、小熊が泣き叫びました。
「誰かが、私のいすに座った。」と、親熊が言いました。
「誰かが、僕のいすに座って、壊している。」と、小熊が泣きました。
家中を見回すと、二階のベッドで、ゴルディロックスが、寝ているのを見つけました。
「ベッドで、寝た跡がある。」と、親熊が言いました。
「誰かが、僕のベッドで寝ている。」と、小熊が叫びました。
 
そのとき、ゴルディロックスが、目を覚ましました。
熊が目の前に立っているので「助けて」と、彼女は叫び、飛び跳ねて、森を走り抜けていきました。
 
それ以来、ゴルディロックスは、決して、三匹の熊の家へは、近づきませんでした。

カインとアベル

カインとアベル   旧約聖書 創世記 第四章

人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼うものとなり、カインは土を耕す者となった。
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群のういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われてた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われました、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。
今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。
カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はわたしを殺すでしょう」。主はカインに言われた「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を撃ち殺す打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。

神はなぜカインとアベルに差をつけたのでしょう。
供え物は、その品物の善し悪しではなくその心がけなのでしょうが、この話は神はその点については何も言っていません。アベルは遊牧民族、カインは農耕民族を例えているという見方もあり、それなら遊牧民族の優位を言っているようですが、この話の解釈はいろいろあるようです。

ここでは、そのような難しい見方をせずに、カインのあり方を単純に考えてみました。すると、最近の私たちの行動のようにも思えてきます。

カインは自分の供え物を無視し、弟の供え物に興味を示した神に対して、なぜ自分の供え物を無視したかと聞いて、問題を解決しようとせずに。弟が優遇されたこと嫉妬して、弟を殺してしまうのです。
他人の成功を羨んだり、自分と他人の格差を嘆いたりし、事業に成功したものは善で、失敗した者は悪だという、図式を描いてしまう人が多くなってきているのではないでしょうか。
自分が善い悪いを別に、相手が悪いと人のせいにしてしまう。悪いのは私じゃない、仮想でもいいから敵をつくり、自分の気持ちを落ち着かせて物事を解決しようとする。それでは本当の解決にはならないです。

自分の状況を他人と比較して思い通りいかなかったり失敗した人は、原因は背景にあるものではなく、比較した他人が憎くなってしまい、そしてついには自分の不幸を羨んで、自暴自棄な行動に走ったり知る人もいるようです。

ネーデルランドの諺

またまた画集を観ていると(週刊グレート・アーティスト53 ブリューゲル 同朋舎)。沢山の諺を一枚の絵に収めた作品がありました。
この絵は以前から知っていましたが、街の人々を面白可笑しく描いたものと思っていたのですが、それは誤りで人の愚かさや過ちを戒めたものでした。題名は『ネーデルランドの諺』です。

主なものを紹介してみます。
・雄豚が栓を抜く(監督不行き届きで店が傾く)
・壁に頭をぶつける(不可能なことをしようとする)
・二つの口でしゃべる(二枚舌)
・一叩きで二匹の蠅を殺す(一石二鳥)
・自分が薪で暖まれば、誰の家が燃えようと気にならない(自分だけがよけれがよい)
・粥をこぼすと、全部は拾えない(覆水盆に返らず)
・一つのパンから他のパンに届くすべを知らない(遣り繰り算段ができない)
・箒を外にだす(鬼の居ぬまの洗濯)

などなど、数多くの諺が描かれていますが、なかなか日本人にはわからない言い回しなどもありますが、絵を見ているだけでも楽しいです。

追加--2012-4-17
百以上の諺が描かれているといわれますが、以下のようなページがありました。
85の諺が紹介されています
《ネーデルランドの諺》内容紹介図 http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/brueghel_proverbs01.html

同じyahooのブログにもありました。
double edgeさんのネーデルランドの諺/ピーテル・ブリューゲル

樽の中で過ごし 足を知る

樽の中で過ごし 足を知る

バチカン教皇庁に描かれているフレスコ画で、ラファエロ作「アテナイの学堂」と呼ばれるものがある。その絵の中央に教皇庁の場に似つかわしくない、見窄らしい老人が描かれている。
この人物は古代アテネの哲人ディオゲネスだと言われているのだが、どんな人物だろうと興味を持ち調べてみていたら、youtubeで次のような「ディオゲネスの言葉」をみつけました。 

ディオゲネスの言葉
http://www.youtube.com/watch?v=jjM9xBT3UCM

ディオゲネスは何時も樽の中で生活して、皆からは「犬の哲学者」と言われている自由奔放な哲学者でした。アレキサンダー大王がギリシャを征服したとき、大王は噂に聞くディオゲネスに会い「何か所望するものはないか、何でも叶えてつかわそう」と言った。すると、ディオゲネスは「そこをどいてくれないか、ひなたぼっこをしているのだから」と言った。そして、この一言についてアレキサンダーは、なんと無欲であろうかと感心したそうです。

地上(樽の中)に臥すディオゲネスに富める心があり、富めるアレキサンダー大王はあらずもがな。
足を知っている者と、足に満足しない者との違いでしょう。しかし、アレキサンダー大王は、「今は自分には王に生まれた使命があるので、このギリシャにやってきたのだ。しかしこの次に生まれてくるときは、大王ではなく哲学者になりたい」と言ったそうです。

そしてこ話の最後は、天国でディオゲネスはアレキサンダーに「・・・人生において何事も鍛錬なしにはうまく行かないものだ。人は無用な労苦ではなしに、自然に適った労苦を選んで、幸福に生きるようにすべきだね。」としめくくっている。

知足の話のギリシャ番でしょうか。『足を知る 樽を知る』これは私の勝手なダジャレです。

目には目を歯には歯を

目には目を歯には歯を

「目には目を歯には歯を」
この慣用句は、ハムラビ法典からとったものです。
ハムラビ法典は、ハムラビが発布した法典で、完全な形で残る最古の法典。慣習法を成文化した282条から成る法律といわれています。また、この法はその内容から同害報復法とも呼ばれています。怨みによる復讐を禁止し罰としてとの、規定を定めたものと言えるでしょう。

また、旧約聖書の出エジプト記二一章に次のように書かれています。
「22もし人が互いに争って、身もごった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくても、彼は必ずその女の夫の求める罰金が課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなくてはならない23しかし、ほかの害ある時は、命には命、24目には目、歯には歯、手に手、足には足、25焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には、打ち傷をもって償わなければならない。」

「目には目を歯には歯を」といえば、よく報復合戦を認め推奨しているように思い起こしてしまいますが、ハムビラ法典や旧約聖書を読むとそうではなく、法律でその罰を規定しているもので、危害や損害を受けた以上のことを、相手にしてはならない、報復を戒めている言葉なのです。
旧約聖書には、この後に刑事のことだけでなく、民事ことについても同様のことが書かれいます。


そして、旧約聖書レビ記一九章15節には次のように書かれゑいます。
「さばきをするとき、不正を行ってはならない。貧しい者を片よせってかばい、力ある者を曲げて助けてはならない。ただ正義をもって隣人をさばかなければならない。」
旧約聖書レビ記一九章18節には、
「あなたはあだを返してはならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主であるように。」

そしてさらに、新約聖書マタイの福音書五章38~39節にも書かれています。
「38『目には目を、歯には歯を』と言われたことは、あなたがたの聞いているところである。39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
新約聖書マタイの福音書五章43~44節
「43『隣の人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」

『目には目を、歯には歯を』の言葉が一人歩きし、復讐してもよいと受け取られてしまったので、マタイの福音で改めて正しい意味の、復讐してはいけない、復讐心から解放されなければならないと諭しているのでしょう。
ハムラビ法典にしろ、旧約聖書、新約聖書に書かれていることにしろ、復讐を禁止しているのです。

いまの身近で起きた事件のその後をみていたり、国際社会での出来事を見ていると、まさにこの言葉を思わされます。この悲しみの辛さは癒えることはない、やられたらやり返すとなり。「この怨み晴らさでか」と「怨念の怖さ」を思い起こします。復讐の論理を持つと子々孫々と復讐の連鎖が続き怨念から解放されることはないでしょう。

本当はこの「目には目を、歯には歯を」は法によって裁かれなくてはならない、怨みによって罰してはいけないと戒めたものなのです。

ウォルト・ディズニーのリトルチキン1943年製作

ウォルト・ディズニーのリトルチキン1943年製作

ある農場の柵の中で飼われているニワトリやアヒルたちを、腹を空かせたキツネのフォクシーロクシーは食べてしまおうと、いろいろ策略をたてるが・・・。

キツネのフォクシーロクシーはキツネを食べようとすが、柵の中に入れないし、農夫のライフルを恐れたキツネのフォクシーは、心理学の本を読んで勉強してニワトリのチキンリトルを騙すことにする。
フォクシーは神の名を騙り「空が落ちてくる、早く逃げるのだ」と告げる。
まんまと騙されたチキンリトルは柵の中を駆け回り「大変だ、空が落ちてくる、早く逃げよう」と大騒ぎする。
しかし、ニワトリのリーダーであるコッキーロッキーは、「空は落ちてこない」と皆を諭し全員を静めてしまう。

鳥たちを騙す策に失敗したフォクシーはさらに心理学の本を読み、コッキーロッキーに関する悪い嘘の噂を流すことにする。コッキーロッキーはニワトリたちからの信頼を一気に失ってしまう。

キツネのフォクシーはチキンリトルに「お前がリーダーになってみんなを救うのだ」と言い唆す。
柵の中の鳥たちはコッキーロッキーではなくチキンリトルを信じることにした。
フォクシーは「洞穴へ行け」とチキンリトルを唆す。それを聞いたチキンリトルが「洞穴へ行くんだ!」と叫ぶと、ニワトリたちは大慌てで柵を突き破って洞穴へ向かう。

洞穴に駆け込んだニワトリたちは待ち構えていたフォクシーに食べられてしまった。

ディズニーの作品としては、珍しい展開の終わり方をしています。そこで、キツネのフォクシーは「たまにはこういう終わりがあってもいいだろう?」締めくくっているそうです。


教訓としては、杞憂やイギリスの寓話より、教えられるところはありそうですね。
いま、世の中には大きな声をだしている、チキンリトルが沢山でてきているように思います。
くれぐれも騙されないようにしたいものです。

チキンリトル

チキンリトル  イギリスの寓話。

ある天気のいい日に、小さな鶏のチキンリトルが森の中を散歩していると、頭の上にどんぐりが落ちてきた。チキンリトルはびっくりして、あまりにも激しく全身を震わしてしまったので、羽が半分抜け落ちてしまった。
チキンリトルは「助けて!助けて!」と叫びながら村に駆け込みました。「空が落ちてくる、王様に知らせに行かないと」と言いながら、王様に知らせに走りました。
あわてて走って行くテキンリトルを見つけて、めんどりのへニーペニーは言いました。
「どこへ行くの、チキンリトル」
チキンリトルは叫びました。
「ああ助けて、空が落ちてくる」
ヘニーペニーは
「どうしてわかるの」と尋ねました。
「だってこの目で見たし、この耳で聞いたし、空のかけらが頭の上に落ちてきたのよ」とチキンリトルは答えました。
「それは、なんて恐ろしいこと、急いでみなに知らせなくては」とへニーベニーは泣きながら言いました。
そして二羽のにわとりは、大急ぎで走り出しました。

すると二羽のにわとりは、あひるとのダッキーラッキーに会いました。
「そんなに急いでどこに行くのだい」とダッキーラッキーは尋ねました。
二羽のにわとりは、
「空が落ちてくるの、私たちは王様に知らせにいくとろなのよ!」と叫びました。
ダッキーラッキーは
「どうしてそれがわかるのだい」と尋ねました。
すると、チキンリトルは
「だってこの目で見たし、この耳で聞いたし、空のかけらが頭の上に落ちてきたのよ」と答えました。
ダッキーラッキーは
「ほんとかい、それは大変だ急いで逃げなくては」と叫びながら叫び泣きました。
三匹は全速力で町を駆け抜けていました。

やがて、道端でのんびり歩いている、がちょうのグーシールーシーに出会いました。
「今日は、みんなそんなにあわててどこにいくのだい」とグーシールーシーが尋ねました。
「空が落ちてくるの」とチキンリトルとヘニーペニーが答え、
「王様のところに知らせにいくの」とダッキーラッキガ言いました。
「どうして空が落ちてくるのがわかるのだい」とグーシールーシーとたずねました。
チキンリトルは
「だってこの目で見たし、この耳で聞いたし、空のかけらが頭の上に落ちてきたのよ」と答えました。
グーシールーシーは「それは大変だ私も逃げなくて」と三匹と一緒に走れ出しました。

やがて彼らは、七面鳥のターキーラーキーに出会いました。
ターキーラーキーは
「みんなそんなに急いでどこにいくのだい」と尋ねました。
三匹は答えました
「空が落っこちてくるので、みんな必死で走っているところなの」
「王様のところに知らせに行くところなの」とみんなで答えました。
ターキーラーキーは尋ねました「どうして空が落ちてくるのがわかるのだい」と。
チキンリトルは
「だってこの目で見たし、この耳で聞いたし、空のかけらが頭の上に落ちてきたのよ」と答えました。
「それは大変だ、いつかは空が落ちてくるのではないかと思っていたところだ、僕も一緒ににげよう」とターキーラーキーは言いました。

そうしてみんなで走っていると、きつねのフォークシーロクシーに出会いました。
「みんなそろって、こんないい天気の日にあわててどこにいくのだね」と尋ねました。
そうすると、鳥たちはまちまちに大声て叫びながら「助けて、助けて、空が落ちてくる、今 急いで王様に知らせにいくところです」と言いました。
「おやおや、それは大変だ」とフォークシーロクシーがいいました。
「どうして、空が落ちてくるのがわかるのかい」とフォークシーロクシー聞くと、チキンリトルは
「この目で見たし、この耳で聞いたし、空のかけらが頭の上に落ちてきて当たったのよ」と言いました。
すると、フォークシーロクシーは
「わかった、わかった。王様のところに行く、近道を教えてあげよう。僕についておいで」と言ってみんなをつれていきました。
フォークシーロクシーの案内したところは、自分の巣穴に案内したのでした。
そして、チキンリトル、ヘニーペニー、ダッキーラッキー、グーシールーシ、ターキーラーキーの鳥たちは二度とその穴から出てくることはなく、王様に知らせにいくこともできませんでした。



なんでもないことをとりとめなく思い、過大に心配してしまいその愚かさを物語っています。
一つの教えですね。
中国の列子にも、この教えと同じような話が書かれています。日常的に使う言葉である言われの「杞憂」を考ええてみます。





「ドラゴンの歯」ギリシャ神話

「ドラゴンの歯」ギリシャ神話

フェニキア王アゲノルの息子カドモスが、父にゼウスに拉致されたエウロペを探しにいった。その時にアレスの子のドラゴンに従者を喰殺された。そこで、カドモスはそのドラゴンを退治し、神託があったとおり口から歯を抜き取り、耕作された大地に蒔き、スパルトイと呼ばれる武装した戦士たちが生えてきた。そして互いに戦わせ生き残った5人を家来にして、カドメイア市を建設し、8年間アレスの下僕になって、神の怒りをやわらげアレスの娘と結婚をし3人の娘と息子ポリュドロスをもうけたが、一家は不幸が絶えなかったため、カドメイア市を捨てて、イリュリアに移住してそこの王となったが、最後には大蛇に変えられ、人間たちが死後の住みかの楽園エリュシオンの野に住まわせられた。

この話を知ったのは、StarTrek ヴォイジャーの 「亜空間制圧戦争」でチャコティが地下の要塞に入ったときに口走った話です。それからずっと気になっていたのですが、・・・・・。

神話というのは、複雑でもう一つ、よく分からないです。
しかし、歯を耕地に蒔くと、すぐに武装した戦士が生えてきて、戦い始めるのは人間の性なのでしょうか、世界各地で未だに戦いつづけ、安定した平和で民主的だと自負する国も、世界の争いに首を突っ込むのは、この神話のせいかもしれません。

サソリとカエル

サソリとカエル ベトナムの寓話

一匹のサソリが川岸を歩いて、何処かに対岸に渡れるところはないかと探していました。
すると、一匹のカエルがやってきたので、サソリは、「俺をおぶって向こう岸まで連れていってくれないか」と言いました。
すると、カエルは泳げないサソリを見て、「冗談だろう。お前は川の中程にくると、俺を刺すに違いない、そうすると俺は溺れてしまう。」と言いました。
そうするとサソリは、「よく考えてみな、お前を刺してしまうと、この俺まで溺れてしまうしまうじゃないか」
カエルはその話を聞き、もっともだと思い、サソリを背負って川を渡り出しました。
川の中程に来たころ、カエルは背中に激痛を感じました。カエルは毒が身体に回る中、サソリに尋ねました、「どうして刺した? 君も溺れてしまうのに」
サソリは哀しそうな声で答えました。
「本能なんです。」

もともと昔からベトナムにあった話だそうですが、ベトナム戦争の頃に、ベトナムの子供たちに、読まれた童話だそうです。フランスに植民地化され、独立出来たと思ったら、アメリカがやってきて利用された国として。植民地化される側の痛みと、侵略する側の性を、カエルとサソリに置き換えて語り継がれた物語だそうです。

この話、キツネとサソリに置き換えて「StarTrek・ヴォイジャー」の第68話にエピソード「生命体8472」でこの話が使われています。
流動空間に棲む生命体8472 という共通の敵を撃退するために、ボーグというサイバネティックヒューマノイドの恐ろしい敵と同盟を組むことを、艦長が打ち出したときに副長のチャコティが「キツネとサッソリ」の話をします。
同盟を組んだボーグがいつ、同盟を破棄し裏切るかを、シリアスに表現していました。

この「カメとサソリ」の話を読んでいて、二つのことを思いました。一つは私たちの日常生活の中でのこと、一つは国内外の政治や軍事的なことです。

日常生活のなかでは、いつも行っている習慣を改めることは、なかなか出来ないことです。特にみんなで一つのことをするとき、協力を仕合ながらみんなで取り組んでいます。このサソリのように、川を渡る目的を無駄にするまではいかないですが、なかに一つのことに固執してしまう人がいます。また個人的なことでも、生活している環境や様式が変わると、習慣や性というかそのようなものが、邪魔してしまうことがあります。

国際政治や国内に目を向けても、このサソリのようなことがみられます。
侵略者や独裁者に抵抗するために部族間の壁を乗り越えて、手を結び侵略者や独裁者を追い出すことを成し遂げる。次に待っているのが目の前の敵がいなくなり、今まで以上の対立と混乱が起きてしまう。今の世界の国々で起きている混乱は、このサソリの性と同じとように見えてきます。

国会での与党や野党などのやりとりを見ていても、どの党も目指すものはとどのつまりは同じなのだが、荒海の今の時勢のなかでこのサソリのように、己の利益や対面などで先が見えなくなり、何でも反対して国民の注目を引こうとしている。

まことにおぞましくあさましいにつきる。


ジョージ・ワシントンと「桜の樹」

ジョージ・ワシントンと「桜の樹」

ジョージ・ワシントンは、バージニア州の大農場主の子として生まれました。父親は後を継がせるため、幼いころから家畜や農園の世話ができるように、よく一緒に農園に連れていきました。
果樹園でもリンゴ、ナシ、モモやサクランボウなど、たくさん育てていた。ある時若い桜の苗木が届き、雇い人にこの苗木を大切に育てるように命じました。
数年たち桜の木は、春になると満開の花を咲かせ、父親はサクランボウの収穫を楽しみにしていました。
ジョージは新しい手斧をもらったので、いろいろな物を試し斬りして農園を歩き回っていました。そして手ごろな桜の木を見つけ、手斧で切り倒してしまいました。
夕方、父親がサクランボウが実るのを楽しみにしていた、桜の木が切り倒されているのを見つけ、雇用人に誰が切り倒したか聞いた。しかし、誰も知らなかった。
ちょうどその時ジョージが通りかかったので、父親が「だれが桜の木を殺したのか、知らないか」と尋ねるた。ジョージは一瞬ためらったが、「私が手斧で切り倒しました」と、答えました。父親はジョージに書斎で待っていろといい、ジョージは書斎で待っていました。
「息子よなぜ桜の木を殺したのか」「遊んでいて 何も考えずに切り倒してしまいました」「あの木は死ぬ、もうサクランボウは採れない、しかしそれより悪いことがある。おまえは、私が命じた桜の木の世話をしなかった」ジョージは何もいえず、恥ずかしさのあまり頬を赤らめて「父上ごめんなさい」といった。

父親はジョージに言った。「桜の木を失ったのは残念だ、しかし、おまえが真実を言える勇気のある子だと知って、私はうれしい。おまえが正直さと勇気を持っていることの方が、果樹園ですばらしい果物が実るより、私に取っては大切だ。このことを決して忘れないように」と。

そして、ジョージ・ワシントンは決して、この父親の言葉を忘れなかった。


参考文献:メーソン・ロック・ウイーリアム著の創作伝記「ジョージ・ワシントンの人生」

幾度もの呼びかけに、幾度も応えた。

アメリカンインディアン クリーク族の男の言葉

兄弟よ!

西の海から大きな船でやってきた者は、最初は小さかった。

西の海からやってきた者は、たき火を焚く少しの土地をくれと乞いたので、わしらは焚き火をする場所を与えた。

西の海からやってきた者は、わしらの焚き火で暖まり、わしらのトウモロコシを腹一杯に食べると大きくなった。

大きくなった彼は、右の手で西の海を掴み、左の手で東の海をつかみ、頭を月にもたれかけて、我々に言った。
「おまえたちを踏みつけるからいけないから、ちょっとそこをどいてくれ。」

われわれは、西から来た大きくなった者の言うことを聞き入れた。

また、「おまえたちを踏みつけるからいけないから、そこをどけ。」といったので、我々はまたどいた。

「おまえたちは我々に近づきすぎるから、ちょっそこをどきなさい。」西の海から来たものはそれをいい続けた。


兄弟よ!

わしらは、巨大に大きくなった者の幾度もの呼びかけに、幾度も応えた。その呼びかけはいつも同じだった。
「踏みつけるといけないから、ちょっとそこをどきなさい、お前たちは我々に近づきすぎる」

オオカミ族とサケ

北米イヌイットの神話

オオカミ族とサケ

ナッス川の渓谷近くに住んでいるオオカミ族は、サケや野生の果実には困らないところを見つけてた。自分たちが食べるだけでなく、隣の村の人にも分けてあげるに充分だけあった。時がたつと、若者たちは自分たちの村の、古い伝統を忘れてしまった。自分たちが必要とする、食べ物の動物を殺して、その死体を置き去りにして、ワシやカラスが食べるのにまかせていた。
それを見た村の長老が、そんなことをすると空の酋長が怒ると、若者たちに注意したが、誰もそれを聞き入れなかった。
ある時、サケが遡上してくる季節になり、無数のサケが川を覆った、若者たちはサケを捕まえ、サケの腹に松ヤニを詰め、サケが川の中を燃えながら泳ぎ回るのを楽しんだ。しかし、若者たちは食べ物の魚を無駄にしていることについては、なにも考えなかった。長老たちはその行為を注意したが、若者たちは聞き入れなかった。
やがて、サケの遡上の季節も終わり、冬の儀式の準備を始めた。
何日か過ぎると、遠くから聞きなれない呪いの太鼓のような音が聞こえてきた。村のものは心配になってきたが、若者たちはそれが特に怖いものでもなかったので、「幽霊たちが目をさまし、お祭りをしようとしている」言った。長老は、サケにひどい目に遭わせた、村に災厄をがもたらされたら、若者たちの行いのせいだと考えた。
日に日に音は大きく激しくなってきて、若い戦士も脅えだすようになった。長老はもし村が滅びたらそれは若者たちの無分別な行為からくるものだと言った。
ついには、雷のような轟音が聞こえ、山が割れ、火が噴きだし、川が燃え上がった。人々は逃げようとしたが、川は火が覆い、森に火がつき、ほんのわずかな者だけが逃げおおせた。
大火の原因はサケの虐待に対する霊界の怒りに因ると、巫師は言った。このようにして、自然の支配者は全生物に対する然るべき敬意を払うように強要したのだ。





動物たちの怒と恩

動物の怒り

アメリカンインディアン クリー族の伝説

今は大昔、動物がついに人に対し、我慢を切らし怒りた。自分たち動物を狩っても、一部しか食べず、後は捨ててしまう。魚を捕っても、骨を火に投げ入れる、人の糧となって犠牲になることに合意した動物に、感謝をする事をしなくたった。

動物たちは相談して、人に病をもたらして懲らしめることにした。鹿は関節痛やリュウマチや頭痛を、鳥は腹痛など様々な病を人にもたらした。

しかし、病に苦しむ人を見て、動物たちは哀れに思った。
そこで、一部の人の夢にでて、病のかかった理由を告げた。
それと同時に、癒しをもたらす歌を教え、薬になる草木の見つけ方を教え、動物のように這いつくばって身を清める踊りをも教えた。

人は夢の中で動物から習った歌を覚え、動物の真似をして踊って、動物に許しを乞えた。そして狩りをし過ぎを慎むようになり、人のために死んだ動物を丁寧に扱い続ければ、病はぶり返さない。

人はおろそかにした動物たちから、蔑にあつかったことから懲らしめに、病を与えられた。それと同時に動物たちから病を癒す法を授かったのです。



■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

記事の整理棚
禅 (2)
最新の30の記事
月別の過去の記事
10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   09   08  
単語による記事検索
竹林の過去の戯言のタイトル

過去の記事タイトルを100件づつ表示します

記事へのコメント
  • 茶番の衆議院選挙
    アジシオ次郎 (10/05)
    おはようございます。

    民進党の解体、小池百合子東京都知事が立ち上げた希望の党、ハッキリ言って今回の選挙は乱立の様相を呈しそうですが、野党票割れを起こして自民党
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/26)
    > 政策に反対表明するための無抵抗なデモ行進、座り込みや集会を無理に解散させようとする警察官たちが、職務とは言え反対する人たちを排除しようとするのを見るとむし
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/24)
    民主的な選挙で政権交代がなされるようになり、政府への反対で暴力を使うことは、民衆の支持を失い反発され逆効果になるようになりました。>政策に反対表明するための無抵
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/24)
    日本人は長いものにはまかれろ、付和雷同性の国民性もあるのは確かだと思います。それは別段日本人に限ったことではないと思います。
    第二次世界大戦でフランス政府はドイ
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/23)
    かかる為政者の存在を許してきたのは、日本人の「ながいものにまかれる、お上に任せば・・、なるようにしかならない」と付和雷同性の強い国民性に由来するものではないでし
  • フェイクニュース
    アジシオ次郎 (09/16)
    おはようございます。

    ネットの普及に伴い様々なニュースが見れるようになった昨今、ただ自分の好みに合った情報しか信じないという弊害が出ることもそうだし、多様性を
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    竹林泉水 (09/10)
    顔認証技術が進み、個人の識別だけに利用されるならまだしも、個人の管理に利用されるのは非常に問題が多いと思います。

    松井知事の発言があまり問題になっていないのも不
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    アジシオ次郎 (09/09)
    こんにちは。

    いくらギャンブル依存症対策とはいえ、入場確認や顔認証システムを導入するのは一部から「プライバシーの侵害だ」と批判を浴びてもおかしくありませんね。
  • 終戦の日の前後のテレビ番組
    竹林泉水 (08/23)
    国際的な政治・外交問題は素人的な言い方をすれば、早い者勝ちで勝ち逃げすればセーフ的なところがありますね。
    国の名前に「帝国」冠して大日本帝国として、そのころ時代
  • 記事へのトラックバック
    ブロとも一覧

    うたのすけ

    山下道場

    荒野鷹虎

    海空居士

    紀瀬美香

    marihime

    お父さんの旅

    キラベル

    silver camellia

    kbrkのつぶやき

    魚京童!

    俊樹

    アジシオ次郎

    ほんわか?絵日記

    吾輩と旅と副業

    Chronos Moon

    ざっくり読書感想文

    Taiwa Sato

    びとら

    Resale Japan

    QWERT 5w1h

    (o ̄∇ ̄o)♪

    HIROGACHAN+

    しんのすけたろ

    勝ち組の日経225

    ハセッチブログ

    五月雨 時雨

    諭吉

    さくらさくら1
    ブロとも 申請フォーム

    竹林乃方丈庵のブロとも申請はこちらからです。

    Webページへのリンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    更新履歴
    今日の暦と天気

    日めくりカレンダの説明

    ■2016年旧暦 日月の出入■

    09 | 2017/10 | 11
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    293031----

    ★☆今宵の夜空☆★

    NHKらじる★らじる
    大阪東京第2FM大阪
    何の日



    ご訪問ありがとうございます
    竹林泉水のTwitter
    FC2掲示板
    [ブログ記事へのコメント 掲示板のレス 感想など]
    ■□FC2のブログ□■
    _/_/_/竹林乃方丈庵を_/_/_/
    _/_/_/ リンクに追加 _/_/_/
    □■□■徒然諸諸■□■□ □■□■心の時代■□■□ □■□■息身心/健康■□■□ ----- □■□■厚生福祉■□■□ □■□■その他■□■□
    □■FC2以外のブログ■□
    諸諸 徒然 「身・息・心」 こころの時代
    RSSリンクの表示
    QRコード
    QR