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因果は巡る小車

周防 長門の民話

 因果は巡る小車

むかしむかし、あるところに、一人の腕の良い猟師がいました。
ある日の事、猟師がキジを捕りに山へ出かけると、少し向こうの地面から一匹のミミズが出て来ました。
猟師がミミズを見ていると、そこへカエルがやって来て、そのミミズをパクリと食べてしまいました。
そしてそのカエルを見ていたら、今度はヘビが近づいていき、そのカエルを飲み込んでしまいました。
そしてカエルを飲み込んだヘビは満足そうに休んでいると、突然、空からキジが飛んで来て、そのヘビを握り掴まえて空に飛び上がると、高い空からヘビを落とした。そしてまた、キジはそのヘビを握り掴まえて再び上空に舞い上がり、上空から落とすことを繰り返した。このようにキジはヘビをもてあそびヘビを弱らせ、しまいに鋭い嘴で突き殺してしまいました。そしてその場でおいしそうに食べてしまいました。
猟師は、そのようすに見とれていたが、はたっとキジを捕りに来たことを思い出しました。そうして猟師は、ヘビを食べてお腹が大きくなったキジに狙いを付け、鉄砲を構えました。
そして引き金に指をかけながら、ふと、こんな事を考えました。
  ミミズは、カエルに食べられた。
  カエルは、ヘビに食べられた。
  ヘビは、キジに食べられた。
  そしてキジは、おれに狙われ殺され、誰かに食べられる。
  そうすると、次に狩られるのは、またそのキジを食べた人は・・・・と・・・・。そう考えると、怖くなって指に力が入らなくなり、鉄砲の引き金を引くことができなくなりました。
そこで猟師は鉄砲をしまい、山を急いで下りていきました。

するとその猟師の背後から、不気味な声が聞こえてきました。「猟師よ、命拾いをしたな」と。
猟師がびっくりして後ろを振り返ると、木々の暗闇の向こうに大きな二つの目玉が金色に光っていたのです。
猟師は鉄砲を放り投げ、一目散に逃げて行きました。

宮沢賢治の「注文の多い料理店」を思わせるはなしでした。
もう一つ以前、このブログに「カマキリとチョウ」というタイトルで記事を書いたのを思い出した。

落語『百年目』

桂米朝の落語のCDがあるのでその中の『百年目』を聴いてみました。
『百年目』は、口うるさく堅い番頭が手代や丁稚などに小言を、重箱の隅を爪楊枝でつつくように厳しい番頭の話です。しかし実はこの番頭は芸者遊びの方もたけているが、店の者のにはそれを隠している。ある日芸者と船遊びにいっているある時、大判に振る舞っているところを主人に見つかってしまいます。そこで番頭がこんなことを見つかたので、自分は首になってしまわないかと夜も眠れず心配をする。朝になり結界の中に座り仕事をしていると、主人に呼び出され次のような話をして諭される。

「一軒の主を旦那と言うが、その訳をご存じか」
「いえ」
「お寺の講釈で聴いた話だが、それは、『五天竺の中の南天竺に赤栴檀と言う立派な木があり、その下に難延草という汚い草が沢山茂っていた。ある人が見苦しいので難延草を取ってしまうと、赤栴檀がだんだん弱り枯れてしまった。調べると赤栴檀は難延草を肥やしにして育ち、難延草は赤栴檀の露で育っていた事が分かった。赤栴檀が育つと難延草も育った。赤栴檀の「ダン」と難延草の「ナン」を取って”ダンナン”と言う、それが檀那になった。』と言う。こじつけだろうが、私とお前の仲は赤栴檀と難延草で上手くいっているが、店に戻ってお前は赤栴檀、店の者が難延草、赤栴檀は元気がいいが難延草は元気が無い。少し難延草に露を降ろしてやって下さい」。

番頭の店の手代や丁稚の働きがあってこそ、番頭の働きが活きてくるもので、ただ不甲斐ないからと言って締め付けたり厳しくすると、逆にその芽を摘んでしまうことになる。この檀那のはなしのようにお互いに支え合えることが、大切だとこの落語は教えているのでしょう。

旦那について辞書でしらべると、旦那=檀那は、仏教から来た言葉で、サンスクリット語のダーナの音写。ダーナは「与える」、「贈る」という意味で、「布施」と漢訳される。中国・日本では寺院、僧侶に布施・寄進する施主、仏教の後援者という意味。と載っていた。つまりこの話は作り話ということだが、味わい深いところがあります。

それはともかうとしてこの話と、トランプ大統領の言動や、安倍首相が大企業が潤えばその果実は下に行くと言う言葉とダブってしまった。安倍総理がいいたいのは、つまり大企業が「赤栴檀」で零細企業や国民は「難延草」と言うわけだ。しかし「赤栴檀」である大企業に資源が集中し儲けても、それが国際競争に勝っために蓄えられ、利益である「露」が「難延草」行き渡らないです。安倍総理の果実が降りてくるいうのは、屁理屈でしかないようです。

この旦那のはなし、英語では [trick dow] のことで、日本語では[したたり落ち おこぼれと]となるので、滴り積もりて淵となるということわざもある。
しかし、淵となったり大きな果実になるのは、「難延草が枯れたら赤栴檀も枯れる」という互いに運命をともにする緊密な関係があるという意識が自覚が互いにあることにより成り立つでしょう。

この旦那の「赤栴檀」と「難延草」の関係の話を、大企業のオーナーや経営者にそして、果実滴り落ちると信じている政治家にも話してやりたいものです。
しかし、経済がグローバル化した中では、投資家などが利益を追求するあまり節度を失い責任感や倫理性を欠いてしまっているのが現状です。そこには「難延草が枯れても、次の難延草を見つければよく、赤栴檀は栄え続けるる」と思っている人が勝者であり続けるならこの話には聞く耳をもたないでしょう。

町の早起き

桂米朝の落語に「鹿政談」というのがる。その中で江戸時代に「三都の名物」を詠んだ歌を紹介している。つまり江戸、京都、大阪の名物だが、江戸は「武士鰹大名小路生いわし、茶店柴火消し錦絵」、「水壬生菜女染物みすや針、寺に織屋に人形焼物」、大阪は、「橋に船、お城かぶらに米相場問屋揚屋に石屋植木屋」。
ついでに大阪の隣の奈良の名物を紹介している、そこでは「大仏に鹿の巻筆あられ酒、春日灯籠町の早起き」となっています。
なぜ奈良の名物に早起きが入っているのかは、春日大社のお使いである鹿だとういう。この神さんのお使いである鹿を大切にしないといけない。神さんのお使いであるので、謝って殺しても死罪にになった。家の前に鹿の死骸があっただけも係わり合いになる。そこで、朝起きて鹿の死骸があると、これはいけないというので、隣の家にまわしてしまう。隣の家の同じようにこれはいかんといて別の言えにまわす。こうして、奈良の町は朝早く起きないと、とんだ災難にあうというので早起きにになったそうです。
もっとも、奈良の人里で鹿をみるのは、春日大社のあたりだけですが。

ところで、最近奈良に居を移して、ゴミの出すのが以前すんでいたところより、速いのと回収が速いです。以前住んで板路路は、ゴミの回収が10時頃から11時頃でした。ところが、私のいま住んでいるところでは、9時をすぎる頃には、ゴミステーションからゴミが消えている。(もっとも、私が以前勤めていた学校付近では、9時頃にはパッカー車が生ゴミの収集に来ていたが。しかし、私の以前住んでいた地域のクリーンセンターは、職員の朝礼が9時前に行い、それから収集車の出発式ををしていたので、街でゴミの収集を始めるのは、早くても9時過ぎだろう。)

また、市の広報やゴミステーションの表示板には、以前住んでいたところでは、8:30までに出すように。奈良では7:30までに出すように書いてある。)
そのため、ゴミを出す人も朝早くゴミをだしている。早朝の朝の散歩をしていると、早くもゴミを出す人と出会うことがある。燃えないゴミでなく生ゴミの収集日でもそうである。つまり、私が早朝の散歩の時に出会う人は、すでに朝食の準備を終えているであろうと思う。やはり街の早起きは昔からの慣わしなのだろうか。

別に、奈良の名物の朝の早起きとは関係ないですが、早朝の散歩は近くの運動公園を周回しているが、遠くからくるまできて早朝のランニングやジョギングをしに来ている人がいる。やはり町の早起きは名物なのだろうか。

無欲一切足

昨日の詩に続いて、良寛の次の詩がある。


無欲一切足
有求万事窮
淡菜可療飢
衲衣聊纏身
独往伴ビ鹿
高歌和村童
洗耳巌下水
可意嶺上松

無欲なれば一切足る
求むる有れば万事窮す
淡菜飢えを療やす可く
衲衣聊か身に纏う
独往してビ鹿を伴とし
高歌して村童に和す
耳を洗う 巌下の水
意に可し 嶺上の松


欲がなければ一切が足りる
何かを求めると万事がゆきずまる
淡菜でも上はしのげる
衣服は衲衣で体を覆える
独り山を行けば、山鹿と遊ぶ
高らかに歌い村の童と歌う
巌下の清水で耳を洗う
嶺上の松を見れば快い

欲を出さなければ、なんでも満ち足りる
何かを求めれば、いつかは行き詰まる
粗食であっても腹は満足し
衣服も贅沢しなくても寒さはしのげる
独り山を往き鹿を伴にすればいい
村に出て一緒に歌えばよい
清水で巷の汚れごとを聞いた耳を清めればよい
峰の松の青色はなんと快いものだろうか

嚢中三升の米 炉辺一束の薪

良寛の詩から

生涯懶立身
騰々任天真
嚢中三升米
炉辺一束薪
誰問迷悟跡
何知名利塵
夜雨草庵裡
双脚等間伸

生涯 身を立つるに懶く
騰々天真に任す
嚢中 三升の米
炉辺 一束の薪
誰か問わん 迷悟の跡
何ぞ知らん 名利の塵
夜雨 草庵の裡
雙脚 等閑に伸ばす

身を立てようということには興味無く
なにをするでもなくのほほんと生きたのだ
頭陀袋には米三升
炉端には一束の薪
迷や悟だのそんな痕跡はどうでもよい
名声や利益だのそんあ塵芥には関わりを持たず
夜に雨ふる庵で
のんびりと足を延している

この詩は、ワーズワースの「質素なる生活、高遠な思想」とは違うが、まずは良寛の名誉や物欲に貪欲になるのではなく、足を知り坦々とするなかで、平々凡々となりそこには、物事を冷静に見る眼の糧が培われていく。質素な生活はとは貧することではく、物欲に惑わされないように努める課程からうまれるものろう。
結果「貧すれば鈍んす」という言葉と反対に、物事の判断に冷静になり、いろいろなものも受け入れられるようになるのだろう。
逆にものや地位や名誉を持つと、それを失うことを恐れるようになり、それらに貪欲になり鈍し判断を誤ってしまうことになりかねない。

しかし、現代のよのなかか、なかなか良寛のようには生きられないが、この詩は忘れたくない詩の一つです。

雨月物語 白峰

雨月物語 白峰

崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子で、五歳の時に祖父の白河法皇の意向により、父の鳥羽天皇の譲位により即位した。白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇が崇徳天皇に退位を迫り、譲位し崇徳上皇になる。ところが近衛天皇は生来病弱で、十七歳で崩御する。そのため、崇徳上皇は二度自分が皇位につくか、息子の重仁親王を即位するかにかけた。しかし、近衛天皇の母の美福門院が、鳥羽法皇に近衛天皇が若死にしたのは、崇徳の呪詛が原因だと訴えた。それにより鳥羽法皇は雅仁親王を皇位につけ後白河天皇とした。
これにより崇徳上皇は保元の乱を起こすが、失敗し、讃岐に流されてしまう。崇徳院は讃岐で仏教に帰依し、戦死者の供養と反省をこめ五部大乗経を写経し、此を寺に納めて欲しいと朝廷に差し出すが、後白河天皇は呪詛が込められていると疑い、突き返されてしまう。
此に衝撃をうけた崇徳院は、返された写経に舌を噛みきり、血で「「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん。」「この経を魔道に回向す。」と書き、写経を海に沈めた。それ以来崇徳院は、恨みをのんで爪や紙を伸ばし続け、大魔王のような姿で亡くなったといわれている。享年四十六
崩御され、荼毘にふすした時、その煙が京の都の方へたなびいた言われています。その後、平家の時代より江戸時代まで長く武家の政権が続いたのは、崇徳院の怨霊の結果なとも考えられました。
そのためか、明治天皇は、崇徳上皇の霊を京の都に帰還させるため、白峰神宮を創建した。これは、平安時代後から江戸時代まで、天皇は政治の世界から一歩おいた位置にあり、政治は征夷大将軍である幕府が執り行っていた。そのため天皇の地位は安泰して今まで続いてきました。しかし、明治新政府が天皇を中心に執り行う政治を行うことにし、天皇を元首として位置づけました。それにより、日本を泰平に滞りなく治めるために、明治天皇の寛大さを示すとともに、崇徳院の怨霊を鎮めておく必用があったのであろう。

能の金剛流の謡曲にも崇徳院のことを題材にし「松山天狗」としてかかれている。西行が旧主である崇徳の瞋恚を弔と、やってきた西行に思わず会い、邂逅する崇徳院の喜びとの描写がされていますが、この「松山天狗」をもとに、上田秋成が書いた、雨月物語の「白峰」には、この崇徳院と北面の武士である佐藤義清が23歳の若さで武士を棄て、出家した西行とのやりとりが描かれていいる。そのなかで大魔王と化した崇徳院が、「汝しらず、近来の世の乱は朕なす事なり。生てありし日より魔道にこころざしをかたぶけて、平治の乱を発さしめ、死て猶、朝家に崇をなす。見よみよ、やがて天が下に大乱を生ぜしめん(お前は知らぬのだ。近頃の世の乱れは私のしわざである。生前から魔道に心を傾け平治の乱をひきおこし、死してなお、朝廷に祟りをなしている。よーく見ておれ。すぐに天下に大乱を起こしてやるぞ)」と書かれている。

雨月物語の白峰には、西行が、崇徳院が怨霊となっていることを諌め、西行と崇徳院の論争が始まり、西行は過去の例に出し、君主に徳がなければ別姓の有徳者に天命がくだり、新たに王朝を開いて帝位につくという易姓革命論から、互いの論を論じあう事などが詳しくかかれているが。
実際に、西行は、崇徳院の死後四年後の、仁安三年(1168年)に訪ねている。
その時に詠んだ詩がある。そこには西行の幼なじみでもある崇徳へ思いを感じる。

讃岐に詣でて、松山の津と申所に、院おはしましけん御後  尋ねけれど、形もなかりければ
松山の波に流れて来し舟のやがて空しく成りける哉
松山の波の景色は変らじを形無く君はなりましにけり
  白峰と申しける所に御墓お侍りけるにまゐりて
よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん

「保元物語」に西行がこの歌を詠んだとき、崇徳院の御墓が激しく三度揺るたと書かれている。崇徳院のこの行いを振り返ると、皇位を無理矢理に譲位させられ、返り咲こうとしがが、それもかなわず、赦免のために写経し寺に奉納してくれと、懇願しても送り返される。崇徳院の、その失意と怒りを思うと、三度揺れたということに真実味を感じてしまう。
ただ、五部大乗経を写経するに、指先を切ってその血で写経したといわれている。誠意を示すため、血で写経をし起請として血判したのでしょう。全部血で書かれていれば、現在ではオドロオドロシく感じてしまい。送り返されてもしかたないです。たぶん真実は朱墨で写経し血判をした所ぐらいではないかと思います。
その上、崇徳院の死後の、清盛の治承三年の事件や後白河の横暴などや、清盛の熱病は平家の滅亡はみな、崇徳院の怨霊がなしたものだと思われたのも、血の写経がより怨霊の説に説得力を持たせたのでしょう。

吉宗将軍の宿意

三田村鳶魚の「娯楽の江戸」から

吉宗将軍の宿意

もう五月も半ばになり、桜もすっかり葉桜になってしまったが、吉宗の時代にはすでに、桜の花見は江戸っ子の楽しみの一つになっていた。また、今と同様に桜の花見は、どんちゃん騒ぎは付き物だったようです。吉宗は江戸の北の郊外の飛鳥山に、桜の公園を添えて拵えて花見をさせたことが書かれている。
「吉宗将軍は、神田の柳原に豚を放養した時代に、桜の公園を拵えて、電車も自動車もない昔に、テクテクと北郊の果てまで歩行させた。・・・中略・・・ この時代は、誰も彼も市街地生活に倦み、田舎珍しい心地になっていたからではあるが、茶番趣味は大分膨張してきた。そのかわり、厳めしい長脇差の喧嘩買いなどという物騒な人物は、噺にも出なくなった。花見衣装だけでは誰も満足しない。洒落を通りこして、何か御趣向がありそうなものという時になった。仮装変装は珍しげもない、百眼や棕櫚の鬘は行く先で売っている。・・・中略・・・ 今日のように、一年一度の娯楽にも、頭から警官の眼玉が光っては、神経衰弱の人間だらけ荷なるよりはほかに仕方はない。」

神田から飛鳥公園まで、今で行くと本郷通りを北に8キロ程で、一時間半程かかります。江戸の庶民はそれでも、浮き浮きとでかけたようです。そして、花見の行く先には屋台も沢山でていたようです。また、小家の若旦那などは幇間いわゆる太鼓持ちを侍らせて、古典落語のようにどんちゃん騒ぎをしていたようです。それと今を比べると、江戸時代の方が遙かに自由で羽目をはずしていたようです。
その上、今では縁日などの屋台売られる仮面のような百眼や、鬘などが売られ、それで仮装して、花見を楽しんだ野でしょう。現代では、夜店などでそれらが売られ手いるのを買っても、誰もその場でそれを付けてその日一日を楽しむ人はいないでしょう。逆に行うとプラスチックのお面などが縁日で売られているのは、それを付けてその場を楽しめと言うルーツがあるのでしょう。
徳川幕府が江戸市中から離れた所に、桜の公園を作ったのも、江戸市中では御法度だが遠く離れたこの地では内をしても多めにみる場所をつくり、民衆のガス抜きをする意図があったように思う。

鳶魚はさらに、江戸幕府のガス抜きため、我が儘勝手に遊ばさせることに次のようにかいている。「幕府はいつでも極限主義を持っていた。江戸の公娼にしても、一廓に集め、市街から引き放した上に、溝渠を周囲に掘らせた。・・・中略・・・ 厳重に場所を限定するが、その場所では特に自由にする。放任区域とでもいうべきものを拵えるのであた。・・・以下略」

今の政府はカジノ特区を作ろうとしてるが、これも徳川幕府と同じように、秘密保護法による締め付けや、貧富の格差の増大や自民党の憲法案に書かれているように、公益のためと称して国民の権利を規制し義務をかすることへの、市民の不満のガス抜きをさせる思惑があるのでないだろうか。いま、大阪にカジノ特区を作ろうと積極的に働きかけている、大阪市長は、沖縄の米軍司令官に風俗営業の活用を性的ガス抜きにするように進言するぐらいだし、昔の遊廓があった地にあたる。飛田新地料理組合の顧問をしていた人だから、特区はカジノだけでなく、ほかの制度も特例として認めることになるではないかと穿った見方をしてしまいます。
これは大阪市長に限らず、自民とにも同じような考えがあると、従軍慰安婦の問題を人権問題として正面から向き合うのでなく、朝日の強制連行報道は誤報だとして眼をそらそうとする意図は、大阪市長が米軍司令官に進言したのと同じ思いがあるように見えてしまうのです。

日本人の食事の回数

ようやく長い連休が終わりました。
連休中に幾つか本を読みました。その中で三田村鳶魚の「江戸の食生活」を読んでいると、昔は一日に二食が普通だったと書いてあいります。そのことは、話などでよく聞いていましたが、そのことについての記述がいくつか紹介されています。

無住禅師の仏教説話「沙石集」や、慶長活字の笑話本「きのふはきょふの物語」にでてくる話で、食事の模様が書かれているところを紹介している。
「三井寺の法印、雨の御つれづれにとて、二度物おもふと云題を出し、是に一首づつよみ給へとて、二人のちごに仰せければ。
大ちご
春は花秋はもみじをちらさじととしに二度ものおもふなり
あさめしと又夕めしにはづれじと日々にニたび物をこそおもへ
この歌は、元和活字の「戯言養気集」の中にも出ておりますから、慶長・元和のころには、日に二度ずつ飯を食べておったものと思われます。」

また、北条氏康の言葉として「武家物語」からその食事に関することを紹介しています。
「凡人間は高きも下きも一日両度づつの食なれば」
このころ、一日二食であることがわかる。それでは一日どれほど食べていただろうか。

一日一人どれほど食べていたのだろうか、「武功雑記」には、「人の食物は、とかく、朝暮二合五勺宛可然と、滝川左近将監積り定候由」朝夕二合五勺だから、一日五合になる。たいそうな大食らいに思える。ただ、これは扶持米のことのようで、主君から家臣に与えられる俸禄の王で、実際に食したのはもっと少ないと思のだが。
御伽草子の「物草太郎」には「毎日三合飯を二どくはせ、酒を一どのますべし」とかかれています。
「甲斐国志」には、「催促の人もらひの事、此方申付候ごとく、なけわけ大こん計ににて、一日二度ズ、たるべき事」と書かれている。兵を集める場合は、菜っぱと大根の飯を一日二度与えるということを条件にしていたようです。

これにくらべ、牢屋の食事はどうだったかと言うと、「慶長見聞集」に「一合の食物を朝五勺晩五勺、是を丸じて、ごきあなより此暗き地獄へなげ入れる」
牢獄でも一日二度の食事だったようだが、一日一合のようです。

また、二時や十時の食事、お八つの事が書かれている。一日二食では、その間が長いのでいわゆる間食がされたようで、それが二時や十時やお八つで、江戸時代は不定時法で季節により、時間が違っていて二時と言えば今で言う「おさんじ」のことだろう。お八つも八つ時に食べるので、今で言う午後三時ごろになる。

まだまだ、いろいろ書かれているが、此ぐらいにしておきます。

みんなちがって、みんないい

先日の土曜日、4月11日は、童謡詩人と金子みすゞの誕生日でした。1903年~1930年で26歳の若さで亡くなりましたが、512編の詩を綴っています。

その中に、小学校の教科書にも採用されている、「わたしと小鳥とすゞ」があります。

わたしと小鳥とすずと
         金子 みすゞ
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

「みんなちがって、みんないい」とは、どういことでしょう。

空を飛べるもの
  飛べないもの
駆けっこが速いもの
  駆けっこが苦手なもの
からだが大きいもの
  からだが小さいもの
態度が大きいもの
  態度が小さいもの
肝が大きいもの
  肝が小さいもの
力の強いもの
  力の弱いもの
知れ渡っているもの
   知られていないもの
見えるもの
   見えないもの
必要なもの
  必要でないもの

「無用の用」という言葉があります。現代社会は効率ばかり重んじて、効率の悪いもの、他と規格が違うものを、軽視したり排除したりする傾向があります。

しかし、世の中が有意義で面白くいろいろな困難に立ち向かい対処できるのは、いろいろな違いがあるからです。
ネズミのなかに、レミングというのがあります。和名は旅鼠というそうです。
レミングは、3~4年周期で個体数が急激に増減することがわかっています。そして、急激に増えたレミングは急激に増えたストレスから、スカンディナビアでは「集団で海に飛び込む」という伝説が古くからあります。実際はよく分からないのですが。
それはともかく、最近の考えはは海に飛び込んで大量に死ぬことがあっても、それは自殺ではなく事故だとする見方の説の方が強いようです。
このことは、皆が同じ方向に暴走してしまうと、引き返すことが出来なくなる例と言えるでしょう。
このことは、レミングよりも人間のほうに当てはまるかもしれません。

それはともかく、「みんなちがって、みんないい」は、あるがままでいいと、その姿をお互いに他人を気にすることなくもっと見つめようとする大切さを感じます。

人の悪きことはよくよく見ゆるなり

人の悪きことはよくよく見ゆるなり、我が身の悪きことは覚えざるものなり。
         蓮如上人御一代記聞書

毎日生活をしていて、仕事をしていて様々なことがあります。その中で失敗をしたり、自分にとって都合の悪いことがおきたりします。
そういう場合ついつい、「自分は全然悪くない」「すべて相手がい」などと思ったり考えたりしてしまいます。それは、自分を正当化しようとし、また自身の不安から逃れようとする心から生まれるものです。
自分の心の中でそう思うのはまだましだが、時として自分が苦境に立たされたり不利になったときに、自分の落ち度などには気がつかず、時としてそれが分かっていても棚に上げて、相手の些細なミスなどを責めたり罵ったりする。このようことは、自分自身がそのようなことをしていたり、日常生活のなかでも時折見かける光景です。

それは、自分の落ち度が巻き起こしたものだと、自分自身で責め悩むよりは、他人の制にしたほうが、そのときは気持ちが楽になります。しかし、いつもそのようなことをしていると、他人を攻撃するようなり、あまり気持ちのいいものではないと思います。

やはり、「他人の長所は少しでも早くほる」このことの方がよいと思います。

だから蓮如は、「人の悪きことはよくよく見ゆるなり、我が身の悪きことは覚えざるものなり。」と言っています。
3月に佐藤一斎の「言志録」に書かれている一つの言葉を紹介しました。
「我は当に人の長処を視るべし 人の短処を視ること勿れ 短処を視れば 則ち我れ彼れに勝り 我れに於いて益無し 長処を視れば 則ち彼れ我れに勝り 我れに於いて益有り」

とは言うものの、人の長所より短所の方がよく目にとまるものです。その上、相手の欠点や短所などは細かなところまでよく見えてしまいます。
逆に言うと、他人の短所を見るような厳しい目で自分を見ることはあうだろうか。そうではなくそれに気づかなかったり意識的にまた無意識のうちに目をそらしているのではないだろうか。
だからこそ、常日頃から他人を見る目は、意識して「他人の長所は少しでも早くほめよ」の言葉が大切になって来るのでないだろうか。

人 己を毀るとも 己に何をか損せん

昨日の佐藤一斎の言志録 三 の言葉を紹介したが、これは自分から人を視る見方について書いたものでしたが、その反対の言葉は何かあるかと思っていると。佐久間像山の「省ケン録」に次のようにある。

人 己を誉めるとも、己に何をか加えん 若し誉れによって、自ら怠らば 則ち反えって損する
人 己を毀るとも 己に何をか損せん もし毀によって 自ら強うせば、則ち反って益す


人が自分を誉めることがあっても、自分にとってそれはよいことだろうか。もし人から誉められたがため、自分が上手だとか、自分は立派なのだと思ってしまい。自分自身の研鑽の努力を怠ってしまったなら、その誉められたことはただ、天狗になってしまっただけで、それは逆に自分の品位を落とすことになってしまう。
逆に人が自分を悪くいったり、叱ってくれたりすることは、自分自身とって本当に害があることだろうか。むしろその中に自分では気がつかない欠点があることを教えてくれていると捉えるなら、自分自身を磨くことができるもので、それは自分にとって役にたつことといえる。


ここでも、相手から悪口を言われるとすぐに、反発したり落ち込んでしまう人が多い。しかし、世の中様々な考え方や受け止め方があるので、そのような考えもあるのだとけとめ、自分の益になる方向に受け取った方がより、建設的だろう。しかし、なかなかそのようにはいきにくいものですから、常に先日の言葉と、これらの言葉は頭の隅に置いて奥のがよいのでしょう。

我は当に人の長処を視るべし

言志録 三 佐藤一斎

我は当に人の長処を視るべし 人の短処を視ること勿れ 短処を視れば 則ち我れ彼れに勝り 我れに於いて益無し 長処を視れば 則ち彼れ我れに勝り 我れに於いて益有り

人と接したり教えたりするとき、その人の優れた処を視るのがよい、悪いところなど欠点を視るのはよくない。短所をばかり視ていると、自分はその人より勝っていると思いこんでしまう。そこには驕りの心が生まれ、自分の徳性を養ったり、自分の品格や性格を高めるどころが、その逆に自分の利するところがなんらない。
人の長所を視れば、自分より相手が優れていることに気がつき、そのことに対して自分を高めようと、感情や精神を心に働きかけをする。ついてはそれは、自分を磨き高めることになる。


よくこのことは言われるが、いつもこのように人を視ることが出来るかというと、必ずしもそうではなくむしろ相手の短所の方が先に目に付いてしまうものです。
常々このことを心がけていきたいと思うものです。

読書と静坐を一つとしてできないか

言志録 三 佐藤一斎

吾れ読書静坐を把って打して一片と做さんと欲し 因って自ら之を試みぬ 経を読む時は 寧静端坐し 巻を披きて目を渉し 一事一理 必ず之を心に求むるに 乃ち能く之れと黙契し 恍として自得する有り 此の際真に是れ無欲にして 即ち是れ主静なるい 必ずしも一日各半の工夫を做さず。


昔朱子は言った「半日静坐 半日読書」と。
しかし、自分は読書と静坐を合わせて出来ないかと考え、それを試みてみた。
経書を読むときは、片づけられよけいなものが無く静かな所で、静かに姿勢を正して坐り 書物を開いて目を通し、書かれている一つの事項一つの道筋を、よく心に深く伝わるように考えて読んでいくと、無言のうちに自分の心と書物とが重なり合って 心によく響き解け、て自分のものとなるよに理解できる所がある、真に無欲であり 一点の邪心もなく専ら静になりきった状態になる そうなれば、朱子が言ったように半日読書半日静坐をする必要がない。

言っていることは何となくわかるが、いざ実施に行おうとすると、なかなか出来ないものである。始めのうちは出来ていても、気が散ってしまたり、いろいろな考えがわき起こり、書を読むことを深められてたとしても、静坐などまではなかなか行かないものです。
また、よく本によって変わって来ると思う。時事問題などの本は到底このように読むことはできないだろう。是に適した本は、この言志録は静坐に関しての本や、このブログでも読み解いている、「天台小止観」なを読むとよいだろう。

「茶の本」 琴ならし

1月24日に紹介したEテレの「100分de名著」の「茶の本」ですが。その本の中に次のような話がある。

諸君は「琴ならし」という道教徒の物語を聞いたことがありますか。
大昔、竜門の峡谷に、これぞ真の森の王と思われる古桐があった。頭はもたげて星と語り、根は深く地中におろして、その青銅色のとぐろ巻きは、地下に眠る銀竜のそれとからまっていた。ところが、ある偉大な妖術者がこの木を切って不思議な琴をこしらえた。そしてその頑固な精を和らげるには、ただ楽聖の手にまつよりほかはなかった。長い間その楽器は皇帝に秘蔵せられていたが、その弦から妙なる音をひき出そうと名手がかわるがわる努力してもそのかいは全くなかった。彼らのあらん限りの努力に答えるものはただ軽侮の音、彼らのよろこんで歌おうとする歌とは不調和な琴の音ばかりであった。

ついに伯牙という琴の名手が現われた。御しがたい馬をしずめようとする人のごとく、彼はやさしく琴を撫し、静かに弦をたたいた。自然と四季を歌い、高山を歌い、流水を歌えば、その古桐の追憶はすべて呼び起こされた。再び和らかい春風はその枝の間に戯れた。峡谷をおどりながら下ってゆく若い奔流は、つぼみの花に向かって笑った。たちまち聞こえるのは夢のごとき、数知れぬ夏の虫の声、雨のばらばらと和らかに落ちる音、悲しげな郭公の声。聞け!虎うそぶいて、谷これにこたえている。秋の曲を奏すれば、物さびしき夜に、剣のごとき鋭い月は、霜のおく草葉に輝いている。冬の曲となれば、雪空に白鳥の群れ渦巻き、霰はぱらぱらと、嬉々として枝を打つ。
次に伯牙は調べを変えて恋を歌った。森は深く思案にくれている熱烈な恋人のようにゆらいだ。空にはつんとした乙女のような冴えた美しい雲が飛んだ。しかし失望のような黒い長い影を地上にひいて過ぎて行った。さらに調べを変えて戦いを歌い、剣戟の響きや駒の蹄の音を歌った。すると、琴中に竜門の暴風雨起こり、竜は電光に乗じ、轟々たる雪崩は山々に鳴り渡った。帝王は狂喜して、伯牙に彼の成功の秘訣の存するところを尋ねた。彼は答えて言った、「陛下、他の人々は自己の事ばかり歌ったから失敗したのであります。私は琴にその楽想を選ぶことを任せて、琴が伯牙か伯牙が琴か、ほんとうに自分にもわかりませんでした。」と。
            岩波文庫 「茶の本」岡倉覚三 村岡博訳

東洋の芸術は作者の一方的な表現を鑑賞者に押しつけるのではなく、それを鑑賞する人の想像力が書き立てられるように製作されている。
そのことは、東洋と西洋の美術の価値観の大きな違いといえる。ヨーロッパの絵画などの美術は、絵を描いたところを重視しする。日本の絵画はそれだけでなく、長谷川等伯の「松林図」や琳派の俵屋宗達の「風神雷神図」などを見ると、主題が描かれているところより、なにも描かれていない所の方が広い面積をしめている。それは、主題と周りの空間との調和です。そしてなにも描かれないところに鑑賞者の想像力を書き立てさせまう。
それは、音楽にも同じことが言えるでしょう。能の旋律をみても、小鼓を打つときでる音と次に打つ音との間が重要視します。西欧の音楽は旋律の、その音を重要視します。

伯牙が皇帝に「琴にその楽想を選ぶことを任せて」奏でたと言っています。このことは、仏師が仏像を彫るとき、木の質に従って彫ってるだけ、それに逆らって自分の考えを木に押しつけると、仏像は思うように彫れないといいます。
法隆寺の棟梁であった、故西岡常一は斑鳩の大工に伝わる口伝の一つとして、「堂塔造営用の用材は木を買わず山を買え」「堂塔に木組みは木の癖組」と言っています。木には癖があり育った所により木の癖が違う、」いろいろな癖のある木を混ぜてはならない。それぞれの木の癖は育った環境二よって生まれるが、堂塔を建てるときはその癖を上手に使え。
伯牙が琴を弾くとき琴の癖を見抜きそれに逆らわずに弾いたといいている。
これは、なにも音楽や美術や建築に言えることだけでなく、人と人にも言える、西岡常一はさらに「木の癖組は人の心組」と言っている。堂塔は棟梁一人で建てるのでなく、数十人の大工でするので、棟梁を頭としてのチームワークが大切だ。そしてさらに「工人の心組は工人への思いやり」といっている。
子育てで子供をしつけるのも子供を思ってしているのだが、自分の思いを押しつけてしまいがちです、子供の立場に立った思いやが必要なことでしょう。
琴を奏でるのも、仏像を作るのも、絵を描くのも、建物を建てるのも、人を育てるのもみな同じことが言える点があるのでしょう。

謡曲 景清

久しぶりに、謡曲本を何気なく頁をめくっていると「景清」が目に留まりました。
以前に景清と三保谷四郎の「錣引き」のことを、謡曲の「屋島」の話でかきましたが、この「景清」はその源氏に敗れ流刑の身だが、娘人丸が訪れ武勇を語ってくれとせがまれ、語ったもので落ちぶれても武士の武勇を語っています。

この景清自身の話は、浄瑠璃や謡曲や歌舞伎などの話で伝えられ、謡曲では「景清」として話が残っており、錏引きの話もでてきます。(錏とは兜に密着して垂らされた首を保護するものです)

謡曲などでの「景清」の話は、錏引きの武勇伝だけでなく、悪七兵衛景清と源氏から恐れられた者が、源氏の世になり日向の国に流され、盲目の乞食僧となり落ちぶれた姿が描かれています。そこに尾張熱田の遊女に産ませた娘人丸が父に会いにいき、父の武勇伝を聞かせてくれとせがむものです。(悪七兵衛景清の悪とは悪いということではなく強いという意味です。)

・子が親を案じて逢いにきたが、景清は我が身の哀れな境遇にある身を思い、我が子の人丸の行く末を案じて自らを名乗らない武士としての父の心。
・人丸は里人に先程の乞食が父と知らされ、里人のとりなしで親子の対面を果たす。景清は泣いてすがる人丸を、身を恥じつつもやさしく抱き寄る。
・娘の頼みにより、屋島の合戦で敵の三保谷と兜の錏を引き合った武勇談を聞かせる。
・源氏を恐れさせた勇猛果敢な武士も、廃残して流刑のみとなれば、「麒麟も老いぬれば駑馬に劣るが如くなり」というようにその哀れさ。
・最後に、あと長くは生きられない身を思い、人丸に帰って自分の跡を弔うように頼み、親子は別れていく侘びしさ。
などなどいくつかの見所があり、人生の深みを重厚に描き出している曲だといえます。

景清が一人あばら屋で、
シテ景清「松門独閉ぢて。年月を送り。みづから。清光を見ざれば。時の移るをも。弁へず。暗々たる庵室に徒らに眠り。衣寒暖に与へざれば。膚はぎょう骨と衰へたり。

と、今の我が身を嘆きます。景清のもとに訪れた、女性が娘人丸と知っても我が身の見窄らしさから自ら名乗り出て逢おうとしません。しかし、景清の心中は複雑です。
シテ景清詞「ふしぎやな唯今の者をいかなる者ぞと存じて候へば。この盲目なるものゝ子にて候ふはいかに。我一年尾張の国熱田にて遊女と相馴れ一人の子をまうく。女子なれば何の用に立つべきぞと思ひ。鎌倉亀が江の谷の長に預けおきしが。馴れぬ親子を悲しみ。父に向つて言葉をかはす。
地歌「声をば聞けど面影を見ぬ盲目ぞ悲しき。名のらで過ぎし心こそなかなか親の。絆なれなか/\親の絆なれ。

景清と娘の人丸の対面はこの曲の一つの柱といえます。そして、景清が抱き続けている平家滅亡そして流刑の無念さ、老い衰えていく我が身の空しさをその中に織り交ぜられている。親子の対面というより、景清の無念さやわびしさが描かれていると思う。

なお父景清を探すうち里人に、先ほど逢ったのが景清と教えられ、里人の取りなしで再会を遂げます。
そのように再会すると娘人丸は父に、父の武勇伝を教えてくれと願います。
平家物語で錏引きで知られる、三保谷との戦いの様子が、本人の口からの語られれている。
地「さもうしや方々よ。源平たがひに見る目も恥かし。一人を。留めん事は案の打物。小脇にかいこんで。なにがしは平家の侍悪七兵衛。景清と。名のりかけ/\手取にせんとて追うて行く。三保谷が着たりける。冑の錣を。取りはづし取りはづし。二三度。逃げのびたれども。思ふ敵なれば遁さじと。飛びかゝり冑をおつとり。えいやと引くほどに錣は切れて。此方に留れば。主は先へ逃げのびぬ。遥に隔てゝ立ち帰りさるにても汝。おそろしや腕の強きと言ひければ。景清は三保の谷が。頸の骨こそ。強けれと笑ひて。左右へのきにける。昔忘れぬ物語。衰へはてゝ心さへ。乱れけるぞや恥かしや。此世はとても幾ほどの。命のつらさ末近し。はや立ち帰り


そして最後に景清は娘人丸に、自分は流刑の身だから、日向から出ることはできない。どうか私をその時は弔ってくれといって別れます。
地「亡き跡を。弔ひ給へ盲目の。くらき所の燈あしき道橋と頼むべし。さらばよ留る行くぞとの。只一声を聞き残すこれぞ親子の。形見なるこれぞ親子の形見なる。

三太郎の日記と聖フランチェスコ

「三太郎の日記」

「俺は俺の中にいる『神を求める者』を検査するために、イェルゲンセンの「聖フランチェスコ」を読んだ。ここに俺を待つものは、譬へるものもないやうに尊い、聖い魂が、惱みながらもなお踏み迷わず、右顧左眄せずに、痛快に切れ味よくその往くべき道を進んだ一生であつた。」

ここに出てくる聖フランチェスコは、今の第266代ローマ教皇のフランチェスコの聖人名の由来のアッシジのフランチェスコのことです聖人のことです。
彼は、アッシジの裕福な家に生まれ、若い時に放蕩三昧をつくしていたが、26歳のときアルヴェルニアの山上で十字架のキリストの出現を見て、「いざ行け、フランチェスコよ、行きて余の家を建てよ。そは將に倒れむとしつゝあれば。」の声を聞いて出家委した。そのことによりフランチェスコは、父は「天の父」だけだとして親子の縁を切り、出家し施療施設に住んでハンセン氏病患者への奉仕を行ったといわれている。また、鳥に向かって説教を行ない、狼には噛み付くのはやめるよう説得し、うさぎ、魚、鳥、虫を相手に話をしたと伝えられている。

三太郎は、アッシジのフランチェスコについてどう考えたのか。
このあと、三太郎はフランチェスコの一生を、10ページほど書きつづり、次のようにいっている。
「俺はこの「完全の鏡」の前に立つて、自分の醜さ、小さゝ、卑しさ、きたなさの覆ひ隱すべきものなきを切に感ずる。かつて山中に行き悩んでエホバの前に慴伏した時と同じよう全然何の自己弁護もなく、この人の前に平伏しなければならない事を切に感ずる。スタンダールは五十歳の秋に、「俺より偉大な者がこのにならずにとうに死んでいる。俺は俺の生涯を空過しなかったか」と思ひ沈んだ。俺は「俺より偉大な者がこの年にならずにその真生活に躍入した。俺はこの年になるまでいったい何をしていたのだらう」と思うの情に堪へない。」

三太郎は自分とフランチェスコとを比べてみて、フランチェスコのその聖人として真生活をなしていることにたいして、自分の未熟さと幼さに嘆いている。
スタンダールは偉大な聖人フランチェスコは50歳にならずして亡くなり。三太郎こと阿部次郎が32歳の時にこれを書いたが、フランチェスコが入信したのが26歳で、その自分より若い歳で入信した。

そのことに対して、三太郎は「聖フランチェスコの偉大と俊爽とに対し、遙かにおよばないが深くあこがれるといっている。

私自身も、アツシジのフランチェスコや、良寛禅師や明恵上人や一遍上人のような生き方にあられないかと思う。しかし、世の中のしがらみと誘惑なの五戒などから逃れられないでいる自分。その上に日々の生活は惰性に終わり、あまりにも無反省に生きている自分が愚かに思えてしまう。

いま、自分の私生活において問題が忍び寄っているのをおもうと、それから逃れたく思ったりする。いっそ遁世してしまいたく思う。しかし、それはただ逃げるだけになってしまって、何の解決にもならないのだろう。

へちまの皮とも思わぬ

「へちまの皮とも思わぬ」と謂う言葉は使われなくなり久しいが、浄瑠璃の丹波与作待夜の小室節に「恩も礼儀も忠孝も死ぬ身には、へちまの皮とも思わぬ」と使われている。
このことば、「醒睡笑」安楽庵策伝があるが、その中の巻一 謂えば謂われる物の由来 に次ようなことが書かれている

へちまの皮とも思わぬ」という言い方をするが、これは次のようないわれに基づく。紀伊の国に大辺路・小辺路という険路がある。峰は高く、岸は険しく、九十九折りの小道が縫っている。まことに人や馬の往来も安からぬ難所である。そのあたりで使う馬は、日頃の飼い葉も粗末で、大豆などはとても手には入らぬから、ぎろぎろと背ばかり痩せている。だから、その馬の皮を剥いでも、背中には鞍の傷や瘡のあとばかり多くて、革としては使いものにならない。それから、何の役にも立たないものを、「へち馬の皮とも思わぬ」というのであろう。


ヘチマを国語辞典で引くと、へちま【糸瓜(いとうり)】とでている。
糸瓜は成熟させて皮をむいて実をさらし繊維質だけを残してタワシなどにしたり。糸瓜の茎からでる粘性の液は古くから化粧水したりしている。しかしその皮は用をなさないもので、捨ててしまうのでつまらぬもののたとえとして使われる。

このことを思うと、後の方の説の方がもっともらしいが、話として面白いのは前の説です。

ところで、糸瓜をどうしてヘチマと言うのかと調べると次のように載っていました。
【糸瓜は江戸時代に中国から伝来し、始めは糸のように長く垂れるので「いとうり」と呼ばれていたが、言いにくいので中国からきたのもあり「とうり(唐瓜)」と呼ばれた。それが「と」が、いろはうた(いろはにほへとちりぬるを~)の「へ」と「ち」の間(ま)にあるという言葉遊びから「へちま」と呼ばれるようになった。】とあります。
こちらの方は、日本語にはよくある、言葉の変化の形ですから納得してしまう。

三太郎の日記  阿部次郎

三太郎の日記  阿部次郎
三太郎の日記  阿部次郎

高校生の頃に読んだ本に「三太郎の日記」がある。この本、読んだというより買ったといった方が正確で、全部読んでいない。
大正・昭和30年頃まで、学生の必読書のようなものと言われていた本です。阿部次郎が「三太郎」にこよせて、著者自身の苦悩を書いたものです。

この本を今一度読んでみようと新しく出された、「新版 合本 三太郎の日記」を買って今、ボチボチと読んでいる。


「三太郎の日記」は、大正時代になると日本の世の中が、豊かになるにつれ中学生(旧制中学 今の高校生)や大学生たちは、豊かさだけを追い求めるのが幸せになれるのか疑問に思い始めた。そして、心の豊かさや物事への理解を深め、社会人として文化人として生きることだと考えだした。
若いころ「三太郎の日記」は、第一章に「生活は生活を咬み、生命は生命を蝕ふ。俺の生活は湯の煮えたぎる鐵瓶の蓋の上に、あるかなきかに積る塵埃である。 ・・・・中略・・・・ 俺は今眼を失へるフオルキユスの娘達の樣に、黄昏れる荒野の中に自らの眼球を搜し回ってゐる。・・・以下略 」見えるように難しい言葉使われ難解で、読んでいる途中で挫折してしまった。
この歳になり読むと、若者の回りくどくキザに理屈をこね、やや偏狭したところがあり、屈折していることを感じる。しかし、大正・昭和初期の若者達に、興奮し熱中して読まれ青春のバイブルと言われたものです。
しかし、それは若者の特権のようなものですが、最近の若い人は周囲の空気を読むののたけて、このようなところが見受けられなくなってきている。

現代の今の世は、勝ち組と負け組の線引きがされ、強者はますます強くなり、敗者はなかなか這い上がれなく早くから諦めてしまっているものが多いように思える。三太郎の時代も勝組と負け組は問題であり、大正デモクラシーや自由民権運動などがあった。三太郎はどのように考えたのだろうか。
「弱い者はその弱さを自覚すると同時に、自己の中に不断の敵を見る。さうして此不断の敵を見ることによつて、不断の進展を促す可き不断の機会を与えられる。臆病とは彼が外界との摩擦によつて内面的に享受する第一の経験である。自己策勵とは彼が此臆病と戦うことによつて内面的に享受する第二の経験ある。從つて臆病なる者は無鉄砲な者よりも沈潜の道に近い。彼は無鉄砲な者が滑つて通るところに、人生を知るの機会と自己を開展するの必然とを経験するからである。弱い者は、自らを強くするの努力によつて、最初から強いものよりも更に深く人生を経験することが出来るはずである。弱者の戒む可きはその弱さに耽溺することである。自ら強くするの要求を伴ふ限り、吾らは決して自己の弱さを悲観する必要を見ない。」

弱いからこそその弱さを自覚し、自分の中にある絶えること無い弱さを見て、自分を知る機会として自分を強くする努力をすることにより、強い者より深う人生を経験し強くなれるので、自分の弱さに悲観する必要はないと考えているのであろう。


そして、次のようにも言っています。
「何を与えるかは神樣の問題である。与へられたるものを如何に発見し、如何に実現す可きかは人間の問題である。」
強い人弱い人があるのはそれは、天性で仕方ないものであるが、それをどう受け止めそ、その後どのように自身が行動するかが問題だと言い。

さらに次のように括っている。
「与へられたるものの相違は人間の力ではどうすることも出來ない運命である。ただ天性を異にする総ての個人を通じて変わることなきは、与へられたるものを人生の終局に運び行く可き試練と労苦と実現との一生である。与えられたるものの大小に於いてこそ差別はあれ、試練の一生に於いては
――涙と笑とを通じて歩む可き光と影との交錯せる一生に於いては――
総ての個人が皆同一の運命を担ってゐるのである。若し与へられたるものゝ大小強弱を標準として人間を評価すれば、ある者は永遠に祝福された者である者は永遠に呪はれた者である。之に反して、与へられたるものを実現する労苦と誠実とを標準として人間を評価すれば、凡ての人の価値は主として意思のまことによつて上下するものである。さうして天分の大なる者と小なる者と、強い者と弱い者とは、凡て試練の一生に於ける同胞となるのである。」

人の価値を評価するのは、結果だけでするのでなく、その人が自分の置かれた現実に対してどのように取り組んだか、どれだけ誠実に努力したかなどを評価すれば、強いものと弱いものは同じ人となる。


それでは、今の世の中はどうであろうか、世の中が物作りの経済活動より、金融経済活動が重用しされるている。インターネットで瞬時に決済することが、要求されているなかでは、悠長に弱者の牛歩の努力には日の目が向けられないようになってきている。国の政策も三本の矢などと、強いこと勝つことが中心に動いていることを考えると、弱者にとってますます厳しく、生きずらい世の中になってきていると思う。

むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう

「もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。」
この一文は、岡本覚三の「茶の本」に書かれている一節です。
「茶の本」は、岡倉覚三が西欧に日本の茶道を紹介するために英文で書かいたものです。しかし、この「茶の本」は単なる茶道の紹介というより、西洋の人に日本文とはなんたるかを書いたものです。。

この後、次のようにつづきます。
「日本が長い間世界から孤立していたのは、自省をする一助となって茶道の発達に非常に好都合であった。
《鎖国について短い文ですが、覚三はこのように述べ》
ーー中略ーー
おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的に殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。


自分の国を優れて立派だと思うことは、構わないがそのあまり尊大になり素直と控えめを忘れてはならない、それを忘れると、他国のさまざまな文化文明のよいところが分からなくなってします。
そして、覚三は、西洋人が日本の茶の湯を見ると、変わっていて劣ったものに見えるだろう。そして茶の湯は珍しく変わったものとして、野蛮国だと見ていた。西洋の列強が植民地政策で領土を拡大していたころ、日本は茶の湯に親しみ、平和を愛し文芸に心奪われ夢中になっていた。
しかし、日本が満州に侵攻して戦争をして殺戮を行いだすた。すると。日本は文明国だと見るようになった。
それなら覚三は、戦争をして富国強兵になるなら、たとえ貧しくても、今までの日本が大切にしてきた「孔子の心よき沈黙、老子の奇警、釈迦牟尼の天上の香り」を大切にする方がよ言っています。

戦後日本は、目覚ましい復興を遂げ、経済の復興と成長をはなしました。それは、戦後一貫して「平和国家」「民主国家」「経済大国」「中産階級国家」を追い求めてきたからです。
しかし、ここ数年その進路は大きく面舵を切っています。それは、世界の警察と自称するアメリカに倣い、「戦争のできる国」。今までの日本型経営でなくアメリカ型経済で利潤追求をした「金融経済大国」。経済の配分は平等であったのが一部の富豪を裕福にする「格差大国」。戦後の日本国憲法の下の民主主義から公益を重視した「今までとは違う価値観の民主主義」へと変わろうとしています。

ここに、岡倉覚三の次の言葉を記しておこうと思う。
「現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって全く粉砕せられている。世は利己、欲悪の闇に迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利のために行われている。東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどそのかいもない。この大荒廃を繕うために再び女カ(女+咼)を必要とする。われわれは大権化の出現を待つ」。

露伴忌

今日は露伴忌です。幸田露伴の命日になります。
幸田露伴の「五重塔」に次のようなくだりがあります。

「板一枚の吹きめくられ釘一本の抜かるゝとも、味気なき世に未練はもたねば物の見事に死んで退け」


    一泳ぎ

「五重塔」
大工の腕前は抜群だが世渡りが下手なため、大工仲間から「のっそり」と呼ばれ、一介の貧之大工に甘んじている十兵衛がいた。
江戸谷中の感応寺で五重塔を建てることになり、十兵衛の親方の源太に棟梁が指名されたが、十兵衛が「この堂塔はぜひ私の手で」と住職に願いでた。誰を棟梁するかもめたが、十兵衛が棟梁をする事になり、五重塔は立派に完成した。落成の前夜に江戸は大嵐になり、周りは塔を見に行くように言うが、十兵衛は自信をもって頑として動かない。たって周りが言うので、塔の倒れるときが自分の死ぬときと、「板一枚の吹きめくられ釘一本の抜かるゝとも、味気なき世に未練はもたねば物の見事に死んで退け」言って、塔の上に上るのです。一夜明けて江戸中は大きな被害を受けたが、十兵衛の建てた五重塔は無傷でそびえ建っていた。住職は落成式で「江都の住人十兵衛之を造り、川越源太之を成す」と記した。

「五重塔」が書かれたころは、日本も資本主義がたち上がりつつある明治二十年代です。世の中は不景気の上に、貧富の格差が拡大していた時代です。露伴は資本主義の弱肉強食の競争の世の中で、徳の高い人間が正当に評価されず不遇な人が多くいるのをみてこの作品を書き上げたようです。「高士世に容れざるの恨み」をテーマになっている。
露伴は十兵衛に同情するとともに、落成式で「江都の住人十兵衛之を造り、川越源太之を成す」と住職が記て、十兵衛と住職と源太の三人の世界をあるべき人間関係だと世に問うたのでしょう。

今の世の中も、日本人のよき心を大切にしないといけないと言われながら、競争原理の大輪の回転数をあげ、弱肉強食をで弱い立場の人間は日の目がみれなくなち。ますます貧しくなってきているようです。
十兵衛の己の技術への自信と誇り、それと、住職が記したようにお互いの協力とそれを立てあう、そのことができる世の中が日本の本来持っている心でしょう。

テーマ : 日本古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

高名の木登り

料理の格言に「上手(じょうず)切らず、下手(へた)切らず」というのがあります。

料理の達人は、もちろん包丁で手を切ることはない。その反対に、初心者も慎重に包丁を使うので、切ることはない。ところが、一番危ないのは、包丁がある程度上手に使えるようになりかけた頃です。技術的にはまだ中途半端なのですが、自分は上手になったと思い込み、包丁を粗雑にいい加減に扱ってしまうことにより。思わぬ怪我をしてしまうのです。


似たような話だが、視点が違う話に、徒然草に「高名の木登り」と言うのがある

徒然草 第109段 高名の木登り
高名の木登りといひし男、人を掟てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るゝ時に、軒長ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ」と言ふ。
あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。


木登りの名人と呼ばれている男が、門弟に高い木に登らせて小枝を切り落とさせて。門弟が危ない場所で枝打ちしている時には何も言わず、軒先まで降りてきた時に、名人は「怪我をしないように気をつけて降りて来い」と声をかけた。門弟は訝って「こんな高さなら飛び降りても平気ではないか。なぜ今更そのようなことを言うのか」と問うた。名人が言う「そこが重要なところだ。目眩がするくらい危ない枝に立っていれば、怖くて自分で気をつける。だから何も言う必要はない。しかし、安全と思う場所だと気が緩んでしまう。事故は安全な場所で気が緩んだ時こそ起こものだ」。と答えた。

木を登っている時は、目標を持って気持ちも引き締まている。上に登った時は、緊張感があって気持ちも集中している。上から降りてくるときも気持ちが引き締まっている。しかしもうすぐ地面につくという時、人の心の隙間に油断や気のゆるみが生まれやすいものです。そこに、不注意といったものが忍び込んできて、思いもよらない失敗をするものです。
日頃の毎日の生活や仕事においても、この木登りと同じことだと言えるでしょう。技術的に難しい仕事や複雑な仕事や、新しい仕事のときなどは、気が張りつめて誰でも非常に注意して行いる。そのためミスも少ないといえる。しかし仕事に慣れてくるとケアレスミスも起きやすくなる。ので最も注意が必要な時期だとも言えるものです。

竹林乃方丈庵

竹林園の竹のこひしさに 竹林林と名づけてそ見る
明恵上人

「自葱嶺 已西草木果実皆異 唯竹及安石留 甘蔗三物 与漢地同」
法顕伝云 

シルクロードの端パミール高原の辺りまで来ると、草木や果物も故郷の中国のもの変わってくる。ただ、竹とザクロやサトウキビ等は、故郷と同じで懐かしく思う。

この法顕の詩と同じように、明恵もインドの渡った時の迦蘭蛇の竹林園の竹も日本の竹も同じだ。ここ住房の前に竹を植え、名竹林竹と名づけて修行に励もう。


私のブログの名前も竹林のあばら屋となづけるも、つれづれと書き綴っていく庵としよう。

青峰忌

今日5月31日は「青峰忌」です。
俳人・嶋田青峰 1882年(明治15年)-1944年(昭和19年)

嶋田青峰の俳句

出でて耕す囚人に鳥渡りけり

工女等に遅日めぐれる機械かな

曝書しばし雲遠く見て休らひぬ

蛇打つて森の暗さを逃れ出し


嶋田青峰は、1941年(昭和16年)新興俳句運動に理解を示したといことで、「治安維持法」によって、新興俳句派に対する弾圧事件に連坐して起訴さました。3年後に留置場で喀血して釈放されるが、5月31日病状が悪化し死亡した。
島田青峰は、国民新聞社で俳人・高浜虚子のもと文芸欄を担当。虚子退社後、学芸部長となり、また俳誌『ホトトギス』の編集をも担当するなど活躍しました。
その後、篠原温亭とともに『土上』を創刊1922年(大正11)年。温亭が没した後主宰者となる。『ホトトギス』系の柔軟かつ自由な俳風、俳句観で、新興俳句運動に理解を示しし影響力をもった。
新興俳句派の中には、社会主義やダダイスムへの共感を示したことから、1941年(昭和16年)、の新興俳句派への弾圧事件があり運動に連座したとされ検挙されています。

晶子忌

今日 五月29日は、与謝野晶子(1878.12.7-1942.5.29)が亡くなった日、「晶子忌」です。

与謝野晶子と言えば真っ先に口に出るのが、「君しにたまふことなかれ...」です。

日露戦争のさなか、戦地に赴いている弟を思って綴ったしです。


あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

・・・・


与謝野晶子は「君死にたまふことなかれ 旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて」を、明治37年9月号に『明星』発表しました。この詩が発表されると、日露戦争に熱狂する世間からは、「皇国の臣民として陛下に不敬だ」と猛烈な批判にさらされました。いまでいうバッシングです。また、文学界からも「晶子は乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」などと非難を浴びました。

しかし、与謝野晶子は『明星』11月号に「ひらきぶみ」を書いて反論しました。「あれは歌に候。この国に生れ候私は、私らは、この国を愛で候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。堺の街にて亡き父ほど天子様を思ひ、御上の御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。」と、自分ほど国を憂い愛国心のある者はいないと前置きし、「さればとて少女と申す者誰も戦争ぎらひに候。御国のために止むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひに、春以来君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。提灯行列のためのみには君ことわり給ひつれど、その他のことはこの和泉の家の恤兵の百金にも当り候はずや。馬車きらびやかに御者馬丁に先き追はせて、赤十字社への路に、うちの末が致してもよきほどの手わざ、聞えはおどろしき繃帯巻を、立派な令夫人がなされ候やうのおん真似は、あなかしこ私などの知らぬこと願はぬことながら、私の、私どものこの国びととしての務は、精一杯致しをり候つもり、先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐などいふ事に冷かなりと候ひし嘲りは、私ひそかにわれらに係はりなきやうの心地致しても聞きをり候ひき。」と反論しました。

先日「NHK」の朝の連続ドラマ、「花子とアン」を見ていると、主人公の花子の生涯の友の葉山蓮子が、花子の実家で兄が軍隊に志願するのを知り、蓮子は明星に載った、「君死にたまふことなかれ」を口ずさみます。

この詩「君死にたまふことなかれ」は、教科書にも載っていたので知っていいる人も多いでしょう。

『明星』明治37年9月号

君死にたまふことなかれ
    旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
          與謝野 晶子
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの
舊家をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

テーマ : 平和希求
ジャンル : 学問・文化・芸術

言う者は知らず、知る者は言わず

言う者は知らず、知る者は言わず
夏目漱石の「愚見数則」に書かれている言葉です。
「言ふ者は知らず、知るものは言はず、余慶な不慥の事を喋々する程、見苦しき事なし、況んや毒舌をや、何事も控へ目にせよ、奥床しくせよ、無暗に遠慮せよとにはあらず、一言も時としては千金の価値あり、万巻の書もくだらぬ事ばかりならば糞紙に等し。
損得と善悪とを混ずる勿れ、軽薄と淡泊を混ずる勿れ、真率と浮跳とを混ずる勿れ、温厚と怯懦とを混ずる勿れ、磊落と粗暴とを混ずる勿れ、機に臨み変に応じて、種々の性質を見はせ、一有つて二なき者は、上資にあらず。」

よく知らない者ほど、知ったかぶりをして、よくペラペラ喋るもので。本当によく知っている者はそう喋らないものだと漱石はいい、さらに不確かなことをペラペラ喋るのは、その人の品と価値を落とすもので、見苦しいにつきたことはないと。ましてや辛辣な皮肉や批判は控えめにしておくのが丁度よい。しかしなにも無闇に控えめにするのがよいというのではない。ここぞと言うときに一言いうと、それは千金に値する。しかし、いつも下らぬことをペラペラ喋りまくるのは、糞を拭く紙のようにすぐ捨てられてしまうものだ、そのようなことを厳しく批判している。
損得と善悪を混同してはいけない。軽薄と淡泊を混同してはいけない、真面目なのと浮跳とを混同してはならない、穏やかで情が厚いのと臆病で気が弱いのを混同してはならない、気が大きく朗らかなのと大ざっぱなのを混同してはいけない、それぞれその時々に臨機応変に対応して、融通が利かないものは一流にはなれないというのであろう。


この「言う者は知らず、知る者は言わず」は老子の五十六章につぎのようにある。

知者不言、言者不知。塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。

知る者は言わず、言う者は知らず。その兌を塞ぎて、その門を閉し、その鋭を挫いて、その紛を解き、その光を和げて、その塵に同じくす。これを玄同と謂う。故に得て親しむべからず、得て疏んずべからず。得て利すべからず、得て害すべからず。得て貴ぶべからず、得て賤しむべからず。故に天下の貴きとなる。

本当に理解している人はそのことに対して軽々とはなさない。そのことをよく知らない人に限って知った振りをしてよく喋りたがるものだ。本当にその道理がよく解っている人は、耳目や口を閉じて軽々しく喋ろうとせず、余計な知識の出入りによって起きる煩わしさを和らげる口ことにんなるのだろう。その知恵の光を和らげ、周囲の人々と同化する。このことが一つの世の中を渡り歩く微妙な道理と言えるのだろう。
この微妙な道理を得た人は、親しむ事もできないし、疎遠にする事もできない。利益を与える事もできなければ、損害を与える事もできない。尊ぶ事もできなければ、侮る事もできない。だからこの世で最も貴い存在となっているのだ。

漱石は一流になれば、和光同塵でいよと、漱石の一流の弁舌でしょう

先師の口伝の真信に異なること

歎異抄の序文の冒頭に次ぎのようにある。
「竊に愚案めぐらして、ほぼ古今を勘ふるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あるこことを思うに、」

このところ、私のつたない頭で思うことがある。親鸞聖人が存命でお教えを受けていたときと、その教えの解釈を今と比べると、親鸞聖人が意図して説かれた事と違う事が説かれているように思う。このことは、大変な嘆かわしいことで、このことは親鸞聖人の教え受け継ぐ人に誤解を与えてしまうことになる。

このことは、親鸞の教えや宗教の教えに限らず、他のことでもよくあることだと思います。異なる解釈がされる、それにはいくつかのものがあります。
そのときの状況が変わりそれ、自体が通用しなくなってきた場合。
自分たちに都合がいいように、解釈のしかたを曲解してしまう。
その受け止め方が少しずつずれて、久しくするとその方向が違う方を向いてしまう。
そのときの経緯や成り立ちを知る者がいなくなり、表面的なところだけを見てします。
これらその、解釈が変わったり、ずれてしまうたっりする状況はいくらでもあるでしょう。


そしてそれを嘆くことはないと、歎異抄は次のように書いてあります。
「幸いに、有縁の知識によらずは、いかでか、易行一門に入ることを得んや。まったく、自見の覚語をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。」
正しい指導者につき、自分勝手な解釈をしては、親鸞聖人の他力の教えを乱すようなことが無いようにとかかれています。

今、敗戦直後の日本状況や、憲法解釈や、平和のあり方や、人権のあり方や、エネルギーのあり方などなど、今までの日本が戦後70年近く培ってきたものにたいしての、その解釈のあり方を変えようとする動きが随所にでてきています。それは今まで日本が平和国家として築いてきた、礎を大きく転換するものになるのか、より強固に国際貢献ができるようになるのか。これからの日本のあり方を左右する、大きな分かれ目になるでしょう。
国民一人一人がいまの、状況を独りよがりの考えでなく、様々な考えのをよく考えてかないといけないです。政治家などの一部の人に任せるのでなく、一人一人が自分の考えで判断して結論をだし、これからの日本の進むべき道を決められるようにすべきでしょう。

台所重宝記から

村井弦斎の「台所重宝記」(村井米子編訳)平凡社ライブラリーに、台所禁制五十カ条と言うのがある。

その五十カ条の最後は、親切が大切だと言っています。

親切のこと
ミツ「奥様、第五十番はなんでございますか」
妻君「お料理をするときは、親切の心を忘れるな、ということですよ。なんでも、お料理は人の口へ入れるものだから、こうしたら毒になるだろう、これではお体に悪いだろうと親切に考えてこしらえなければなりません。煮物の中から髪の毛がでたり、吸い物の中から蠅が出たりするのは親切がたりないからです。お料理はおいしくこしらえるというよりも、親切にこしらえることを第一としなければなりません。昔の人が、よく食べ物はこしらえるところを見たらきたなくて食べれないといったが、それではいけません。こしらえるところを見るとつまらないお料理でも、おいしく食べられるというようにしなけれればいけません。これがなにより肝腎ですよ」
注 現時点では、この親切の心に、栄養や消化、吸収など科学知識も見につけてほしい。

台所重宝記は村井弦斎の小説食道楽の中に書かれてなかから、実用的なものを集めたものです、注は弦斎の娘の米子が書いたものです。出版されたのが明治三十八年ですが、この注は、後書きの日付をみると昭和五十二年となっています。

最近の食材は非常に便利なています。
スーパなどで買い物をすると、大根など土のついているものはなく、野菜がきれいに洗ってあります。しかもすでにすぐ食べれるように刻んで在るものもあります。
また、すでに料理された総菜も売ら、レトルト食品が大繁盛しています。
私の子供のころは、米の脱穀や精米の技術も今ほどよくなかったので、米に小石が混じっていることがありました。それに気づかずに炊いて食べると、口の中でガリとして、歯が砕けそうになり、非常に不愉快になったものです。親切な心気配りをしないと、小石を食べてしまうことになるのです。
ですから、米を研ぐときに、「一粒も見逃さず一粒も流さず」という言葉がありました。世の中便利になり、いまは無洗米とかいう洗わずに炊ける米が売られているぐらいです。

それによりだんだんと、料理をする気遣いがなくなり、親切な料理とは贅沢な食材を使い、おいしい料理だと思いこんでしまいます。それにより、本当の親切な料理とは何かが、わからなくなってきているのではと思います。

西行忌 

西行忌 
願はくは 花の下にて 春死なむ
そのきさらぎの 望月のころ

西行法師の亡くなられた日です。
鳥羽上皇に使え、北面の武士といわれた佐藤義清です。
23歳の時に出家して僧侶になりました。

その、西行が詠だ歌です。
この歌は、「きさらぎ」ですから二月で、「望月」ですから十五日ですね。太陰太陽暦で言うと満月です。

昔の人の忌日を、新暦の暦で考えていくと、西行法師のこと歌を詠みながら思うと、しっくと来ないところがありますね。

このことからこの歌は、二月十五日に詠まれたので、亡くなった日の前日のに読まれたものです。


西行法師の歌碑が嵐山にあります、百人一首の歌碑です。
以前ブログにもかきましたが


 「嘆けとて 月やは物を 思はすうる
        かこち顔なる わが涙かな」

             です。

まだまだ寒い日があり、ことしは私の住んでいるところでも一週間に2回も大雪がふりました。しかし、日の出の時間をみると毎日1分近く日の出る時間が早くなっています。もう春も目の前まで近づいているようです。

学を為す緊要は、心の一字に在り

佐藤一斎「言志四録」の「言志晩録」の一番はじめに次のようにある。

為学緊要 在心一字 把心以治子心 謂之聖学
為政著眼 在情一字 循情以治王道 王道聖学非二

学を為す緊要は、心の一字に在り 心を把って以て心を治む 之を聖学と謂う
政を為す著眼は 情の一字にあり 情に循って以て情を治む 之を王道と謂う 王道、聖学は二に非ず。


物事を学ぶことに於いて、まずは大切なことは「心」という一字にある。自分の心をしっかりと理解しておいて、物事を学び治め理解する、これが知徳にすぐれた人の学びかたである。
政をするにおいては、第一に気をつけない点は、「情」の一字にある。表面からは捉えきれない人の微妙なありさまに従って、政を治めることを徳のある政治という。
ととのつまるところ、王道政治も聖者の学も同じことである。

日常の生活に於いて、法律で決められた約束事もあれば、そのように明文化されたものでなく、暗黙の了解のもとの約束事もあります。物事を法律どうりに取り締まれば、なかなか自由に物事が進まなくなります。そのめ殆どの法律は曖昧な記述のところが多いのでしょう。そして、其の曖昧の部分を埋めるのが、暗黙の了解のもとの約束事でしょう。しかし、その暗黙の約束が乱されてしまうと。権力を持った人は、法による約束事の厳格な運用をしいてき、統治される側も仕方ないとあきらめてしまいます。

しかし、人の世の中というものは、その法律を間を縫う、暗黙の約束の行われ方だとおもいます。
夏目漱石の「草枕」の冒頭は、「智に働けば角が立つ 情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ 兎角に人の世は住みにくい」で始まります。

この佐藤一斎のように、 心を把って以て心を治め、情に循って以て情を治めるのであれば、角がたつことも流されることもないでしょう。そして無理強いすることもなく窮屈になることもないでしょう。
そして「王道聖学非二」で政治も法律の運用も、科学で発明されたものも学問や信仰なども、人の心から離れてはならないし、それは人の心からでるものですから、その一人一人の己の心のあり方をよく修めていくことが大切名のでしょう。

阿漕

能の曲目に「阿漕」というものがあります。

物語の内容は、伊勢大神宮に供える魚を捕るので、阿漕が浦での殺生を禁止されてます。しかし、阿漕という漁師は生活のため禁を破って漁をします。そのため柴漬け(簀巻き)にされ海に沈められたと言う話をもとに作られています。

謡曲のあらすじは次のようなものです。
九州日向国の僧が伊勢参りを思い立ち、阿漕が浦にやってきます。ちょうどやってきた老翁の漁師に、ここが阿漕が浦であることを教えられ、「伊勢の海阿漕が浦に引く網も。度重なれば顕れにけり」とこの浦を詠んだ古歌を口ずさみます。すると老翁は「逢ふことも阿漕が浦に引く網も度重なれば現れやせん」と別の古歌を詠じます。
そして、僧が、この浦の名のいわれを聞くと、老翁は、この浦は、大神宮の御膳を調えるための網を入れるので、禁漁となっていたが、阿漕という漁師がたびたび密漁をしていた。その事がわかり阿漕はは捕らえられ節付け柴漬け(簀巻き)にされたことから、ここを阿漕が浦というようになったのだと物語ります。そして老翁はその罪に今も苦しんでいるので弔って下さいと言い、夕暮の海辺に網をひく様を見せながら姿を消します。
僧は不思議に思い、浦の人に先程の老翁の話をすると、きっと阿漕の亡霊にちがいないから回向してくれるように頼みます。僧が、法華経を読誦していると、阿漕の亡霊が四手網を持って現れ、密漁の有様と地獄での苦しみを見せ、救ってほしいと願って、また波問に消えていきます。


伊勢の海。清き渚のたまたまも。弔ふこそたより法の声。耳には聞けども。なほ心には。唯罪をのみ持網の。波ははへつて。猛火となるぞや。あら熱や。堪へがたや。丑三つ過ぐる夜の夢。夜の夢。見よや因果のめぐり来る。火車に業つむ数苦しめて。目の前の。地獄も誠なり実に。恐ろしのけしきや。思ふも恨めし古の。思ふも恨めし古の。娑婆の名を得し。阿漕が此浦に。なほ執心の。心引く網の手馴れしうろくづ今はかへつて。悪魚毒蛇となつて。紅蓮大紅蓮の氷に身をいため。骨を砕けば。叫ぶ息は。焦熱大焦熱。焔けぶり。雲霧。立居に隙もなき。冥土の責も。度かさなる阿漕が浦の。罪科を。助け給へや旅人よ。助け給へや旅人とて。また波に入りにけりまた波の底へ入りにけり。


日常の生活の中で「阿漕だな」と使えば、強欲慈悲で、あくどいことをいいます。
しかし、この能の「阿漕」は、禁を犯したことにより柴漬けにされ、死後も執念の網を曳くことをやめず、地獄で身を焼かれ骨を砕かれ続け、煩悩による苦悶の深さとそのすさまじさが描かれています。
また、柴漬けの刑はお上の執った刑ではなく、漁師たちが阿漕が生きるための行いの累が、自分たちに及ぶのを恐れた漁師たちの私刑です。

何だがだんだん現代社会もそのような私刑が忍び広がってきそうな雰囲気が漂って来ているように感じます。


記事を追加しました。続きを見てください。1

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記事へのコメント
  • 東日本大震災追悼式で安倍首相は原発事故に触れなかった。
    竹林泉水 (03/18)
    今一度野田首相が宣言したように、安倍総理は原発事故は収束したと本当は言いたいのでしょう。政府は必ず嘘をつく、それは、オリンピックの施設建設や、豊洲市場もそうです
  • 東日本大震災追悼式で安倍首相は原発事故に触れなかった。
    アジシオ次郎 (03/18)
    おはようございます。

    今年の東日本大震災追悼式典で福島第一原発事故に言及しなかった安倍総理だが、未だに原発事故処理が解決していない、避難区域解除も進んでいな
  • マンションの挨拶禁止
    竹林泉水 (03/13)
    アジシオ次郎さん
    コメントのお返事大変遅くなり申し訳ありません。
    いまのよのなか、スマホが行き渡り本当におかしくなってきた感じですね、友達と集まってもみなそれぞ
  • マンションの挨拶禁止
    アジシオ次郎 (03/01)
    こんにちは。

    マンションで挨拶禁止って、正直近所づき合いを否定するようなものだし、挨拶をしっかりすると言う人としての常識に思いっきり反する行為だと思います。
  • これからの世界のゆくへ
    竹林泉水 (02/20)
    わたしには、トランプ大統領のメディア批判は、日本の首相を見習っているように思えてしまいます。
    アメリカは自由と民主主義国の国でこのようなことはないと思っていまし
  • 軍隊は国民を守るにあらず国を守るもの
    竹林泉水 (02/20)
    コメントありがとうございます

    自衛隊法にどのように明記されていようが、文官と武官との考えの違いはあるのではないでしょうか。
    栗栖弘臣の言ったことは、上級指揮官
  • これからの世界のゆくへ
    アジシオ次郎 (02/18)
    こんにちは。

    アメリカのトランプ大統領のメディア批判は、自分に都合の悪い話をする者はケチョンケチョンにこき下ろすと言う子供じみた言動にしか見えないが、自分に
  • 軍隊は国民を守るにあらず国を守るもの
    まり姫 (02/07)
    自衛隊法第三条に人命救助をする仕事として書かれていますよ。
    主たる任務ではないけれど、副次的任務としてきちんと規定されています。
    元統合幕僚議長の述べていること
  • 世界の民主主義が行き詰
    竹林泉水 (01/26)
    以前から時々コメントされるのですが。
    コメントを投稿されても、ロシア文字のような文字化けや、タグを書き込みそれがそのまま表示されるコメントがります。

    そのよう
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