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青蠅

新しい自民党総裁がどうやら、第2時安倍政権で8年弱官房長官を務めた菅氏が選ばれそうだ。
つまり、安倍政権の方針の多くが引き継がれるのだろう。
善いことが引き継がれるのはいいが、そうでない部分は引き継がれないように願うばかりだ。

「詩経」の小雅に「青蠅」と言う誌がある。
蠅とはあまり感じのよい虫ではない、「五月蠅」と書いて「うるさい」とようむのだが、追い払っても追い払っても集ってくるむしであまり感じのよいものではないです。

詩経の小雅に「青蠅」という詩がある。

 青蠅
營營青蠅 止于樊 豈弟君子 無信讒言
營營青蠅 止于棘 讒人罔極 交亂四國
營營青蠅 止于榛 讒人無極 構我二人

  營營たる青蠅は 樊に止る 豈弟の君子 讒言を信ずること無れ
  營營たる青蠅は 棘に止る 讒人は罔極 交四國を亂る
  營營たる青蠅は 榛に止る 讒人は無極 我が二人を構

樊   垣根
讒言  ありもしない事を目上の人に告げその人を悪くう
棘   おろろ もつれからみあっていること   とげ 
讒人  讒はよこしま  他人をあしざまに訴える人。讒言する人
罔極  限りがないという
榛   はしばみ かばのき科の落葉低木
無極  果てがないこと。限りのないこと

権力を持った人には、ハエがたかるがごとく、利権の恩恵の恵みを受けよとする。
靑蠅は、汚職にしてよく白黒を変えずという、汚職はもともと涜(瀆(サンズイ+賣))職と書きます。職を冒涜し穢すもので職に就いている人はしてはならないものとして、政治家などはそれに近づくことは特に避けよとされてきた。
政治家には青蠅がたかるものだが、ただでさえ安倍氏には特にたかっているようにみえたうえ、長期政権になりその青蠅のDNAが引き継がれている、そのようなことだから次期政権はそうあって欲しくない。指導者が裸の王様になれば、讒言をする憎むべき青蠅の小人が群がるので、それらを刷新できる正廉で正直な人を自民党総裁に選ぶべきだ。それができないようなら自民党を見限る人がより増えるだろう。

小を見るを明と曰う

小を見るを明と曰う

老子の、「小を見るを明と曰う」の出典は、老子:第五十二章歸元にある。

天下有始、以爲天下母。既得其母、復知其子。既知其子、復守其母、没身不殆。
塞其兌、閉其門、終身不勤。開其兌、濟其事、終身不救。
見小曰明、守柔曰強。
用其光、復歸其明、無遺身殃、是謂習常。
(岩波文庫の「老子」参考)

天下に始め有り、以って天下の母と為すべし。既にその母を得て、以ってその子を知る。既にその子を知り、またその母を守らば、身を没するまで殆うからず。
その兌(あな)を塞ぎ、その門を閉ざせば、身を終うるまで勤(つか)れず。その事を済(な)さば、身を終うるまで救われず。
小を見るを明と曰い、柔を守るを強と曰う。
その光を用いて、その明に復帰すれば、身の殃(わざわい)を遺す無し。是れを習常と謂う。

現代意訳
この世界には始めがある。それを世の中の母と呼ぶとすると、その世の中のことが明らかにすると、さらにその子のこの世の中のことも知ることができる。その子のありようを知った上で、さらにその母を守っていくことにより、身が終わるまで安らかになる。
欲望が呼び起される目や耳などの穴を塞ぎ、欲望が生じる心の門を閉ざせば、一生、疲れることはない。しかし、欲望の穴を開き、欲望のいとなみのままにすると、一生癒されることはない。
細かなものまで見極め明らかにする、柔弱さを守っていくことを強という。
その光を働かせ、明の状態の原点に帰れば、わが身に災いが降りかかることはない。このことを、恒常の道に順うという。


ものごと何事を進めるにおいて、剛健がよいわけではない、ものごとに固執してとらわれてしまうと、いくら多くなものを手に入れてもそれに飽きたらずさらに多くのものを欲することになる。その意味で柔弱は大切なもので、ものの理を得ることができる。そうすれば、こころやすくなる。ものごと何事も足を知ることが大切です。
しかし、いまこのコロナ禍のなかでも、立ち止まりもせず、あくことなく貪欲のここころの蓋を開けたままにする人のなんと多いことか。いまこそ、欲望の性の行く先を考えて見るべきではないか。
欲望のために、これまで気づいていたが、見ぬ振りをしてきた問題が、COVID-19禍のパンデミックにより、その弊害が噴出している。そしてそれらの問題への手当がせまられてる。
見て見ぬを振りをしてきた問題とは、格差、貧困、極端な大量消費、科学至上主義、地球温暖化、制度疲弊などです。トランプ大統領は公然と、温暖化問題はフェイクだと否定し、経済成長至上主義を貫こうとしている。今こそ私たちは、欲について考える時ではないだろうか。

象箸玉杯

「象箸玉杯」という言葉がある。
「ぞうちょぎょくはい」と読み、贅沢な欲求が生まれ始めるととどまることを知らなくなる、と言う意味だが。
この出所は、『韓非子』「喩老」にある。

昔者紂為象箸、而箕子怖、以為象箸必不加於土?(金+刑)、必将犀玉之杯、象箸玉杯必不羹菽?(草冠+霍)。必旄象豹胎、旄象豹胎必不衣?(ころもへん+豆)褐而食於茅屋之下、則錦衣九重、広室高台。吾畏其卒、故怖其始、居五年、紂為肉圃、設炮烙、登糟邱、臨酒池。紂遂以亡、故箕子見象箸以知天下之禍、故曰、見小曰明、

昔者、紂、象箸を為りて箕子怖る。以為らく、象箸は必ず土(金+刑)(ど けい)に加えず、必将ず犀玉の杯ならん。象箸玉杯には必ず菽(草冠+霍)(しゅく かく)を羹にせず。必ず旄象豹胎ならん。旄象豹胎には、必ず(ころもへん+豆)褐(じゅ かつ)を衣て茅屋の下に食らわず。則ち錦衣九重、広室高台ならん。吾れその卒りを畏る、故に其の始めを怖ると。
居ること五年、紂、肉圃を為り、炮烙を設け、糟邱に登り、酒池に臨む。紂遂に以て亡ぶ。故に箕子、象箸見て天下の禍を知る。故に曰わく、小を見るを明と曰うと。


むかし、殷の紂王が象牙の箸を作った。それを堅臣の箕子が不安を抱き考えた。
「象牙の箸を使うとなれば、きっと今まで用いていた素焼の器などを使わなくなり、犀の角の杯や翡翠の器を用いたくなる。象箸玉杯(象牙の箸と玉の杯なら、今まで食べていた豆や豆の葉の藜の汁などにするまい。旄牛や象の肉、豹の腹子などの珍味が盛られるだろう。豪華な食器に豪華な食事をするようになれば、民衆のように粗末な衣服に粗末な茅葺きの家では満足しなくなる。からならず錦の着物を幾重も重ね、豪華な宮殿が欲しくり住むようになるだろう。私はその行く末を恐れるので、その始まりの象箸に不安を抱くのだ」。
それから五年たつと、紂王は酒池肉林の贅沢三昧をし、紂はこのようにして滅んだ。だから、箕子は象牙の箸を見て、のちの天下の大難を予見した。
老子は「微小なものを見ぬくことを明という」*と言った。
(*老子五十二章)

簡単に要約すると、古代中国の殷の名臣の箕子は、主君の紂王が象牙の箸を作ったことを聞き、箸だけでは満足できずに宝石の杯を作り、それに合わせ食事や住居も贅沢になっていき、最後には世界の全てのものを集めても満足しなくなり、その行きつく先は国を滅ぼすことになる。老子は「小を見て大を知ることを明という」と言っている」とまとめている。


この、「象箸玉杯」の話を聞いて、私がこのブログにも書いたことのある。北斎漫画 第十一集の裏付けを思い出した。そこには、唐子が身の丈以上の大きさの銭を抱えている図がある。その銭の図案は京都龍安寺にある蹲踞の「吾唯足知」が図案化されている。
北斎の裏付の唐子の絵には、次のような言葉がそれられている「事たりる 足るにつけても 足らるなり  足らて 事たる身こそ やすけれ」

ところで、老子の、「小を見るを明と曰う」はなんだろう。

君臣不信國政不安

・君臣不信國政不安
・父母不信家閨不睦
  君臣信ぜざれば、國政安からず。
  父母信ぜざれば、家閨睦まじからず。
君子と臣下においてお互いの信頼関係がなければ、国の政治は安定せず混乱をまねく
両親が不仲なら家庭の円満はなく子供は非行にはしる

君子と忠臣としての臣下の信頼関係とは、君子に盲従して面従腹従することではない、君子の行いに非があれば、率直に諫言でき、君子はその言葉に素直に聞き入れ受け入れる事できることです。君子の言葉のなかから、物事の事情・状態・程度や心情などをおしはることができ、それを推進したり逆に諫めたりすることができる関係です。
そのような信頼関係がなければ、臣下が王の座をねらったり。逆に媚び諂う臣下ばかりだと、王は裸の王様になり国が傾いてしまう。それではその国は他国から隙ありとして攻められ国が滅ぶだろう。また統治がわるければ、人民の間に不満がつのり、人民は反乱を起し国が乱れるだろう。中国では易姓革命というのがありそのようにして朝廷がいくども変わっている。
このことは、家庭においても同じことが言えるようだ。たえず夫婦喧嘩をするなど両親が不仲だと、子どもはそれを見て、家の中での居場所を見つけられず、外で遊ぶようになり悪い友達とつきあい非行に走ることになる。そうなればますます家の中は睦まじくなくなり、つねに家の中でいざこざがおきてしまうということだ。

清貧長樂濁富恒憂

・清貧長樂濁富恒憂
・孝當竭力忠則盡命
  清貧は長く樂しみ、濁富は恒に憂ふ。
  孝當さに力を竭すべく、忠則ち命を盡す。
貧しくとも清い生活は長く楽しめるが、富があると汚れて得て思い煩うことになる
孝に従うよう尽くし切ること、真心もって君主に仕え尽くす

清らかに生きていれば貧しくとも日々生活の中にささやかな喜びを見出して楽しむことができる。あれも欲しいこれも欲しい、もっともっと欲しいと富を追い求めると。取られはしないか、減りはしないかと心配し心の苦労が絶えないものです。
多くの仏典では、貞享版沙石集に次のようにある。
「清貧は常に楽しみ、濁富は恒に愁ふと云云、又云はく、財多ければ身を害し、名高ければ神を害すと云云」
また、仏堂教経の中に次のようにある。
「知足の者は 貧しと雖も富めり  不知足の者は 富ねりと雖も貧し」
また、北斎漫画の十一集の後付けにに次のようにある。
事たりる 足につけても 足らぬなり  足らで 事たる身こそ やすけれ

次の「孝當さに力を竭すべく、忠則ち命を盡す。」
父母への孝行は全力をつくせとあり、次の忠則ち命を盡すを読むと。
教育勅語の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」を思いおこさせる。
これについては、文部省図書局の「教育に関する勅語の全文通釈」の口語訳は、次のようになっている。
「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。」

参考までに、以下のくだりは次の通りである。

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明君不愛不益之臣

・父母不愛不孝之子
・明君不愛不益之臣
  父母は不孝の子を愛さず。
  明君は不益の臣を愛さず。
父母は親孝行をしない子を愛さず
賢明ですぐれた君主は不益の家臣を受け容れず重用しない

子が道楽者で極道者で不孝者なら、父母は子の心配を通りこしてしまうだろう。戦前は勘当という制度があり、親が子のおこないを叱責して親子の縁を切り義絶できたが、民主主義の世の中になり、勘当は廃止されできなくなった。勘当は簡単にできるものではなく、明治時代はもちろん江戸時代から、親戚一同が集まり相談し奉行所に届け承認をえるなどの複雑な手続がいるが、それは公式なものだた。
君子が臣下の行いが悪ければ、三国志に蜀の諸葛亮が日ごろ重用していた配下の馬謖が命に従わず魏に大敗したために、泣いて斬罪に処したという故事がある。民主主義の現代でも、国務大臣などの行いが悪ければ、愛でている人を徴用して大臣の職に就かせていても、更迭して処分すべきです。それも解からない大臣の任命権者なら、大臣たちは面従腹背しながらしたい放題になり、国は腐ってしまう。現代の国政に当てはめると、勘当は役職の更迭であり、所属政党からの除名処分にあたるだろう。更迭する人が多くなれば、任命責任を問われるからと言って、行いの悪い人をいつまでも、役職に留めておくのは、政治の腐敗を招きくのでよくないものだ。

正直爲心神明所佑

・正直爲心神明所佑
・禍福無門唯人所招
  正直を心と爲せば、神明の佑くる所あり。
  禍福は門無し、唯だ人の招く所なり。
正しく嘘偽りがなく素直に非を認めるていると、天が見守り助けてくれるものだ
禍や幸せには信条や性別や社会的身分や門地によるものではない、唯だこれ人の行いから来るものだ

むかしから「正直者には福が来たる」や「正直の頭に神宿る」の言葉があり、誠実な心をもって正直に生きると天はそれを知っているので、必ずそのご加護がある。正直は大切さだと教え諭されてきている。
正直とは自分の行いに責任を持つということで誠実だということとすると。それは、自分の行ったことに非があればそれを、素直に認めるるこがです。また、嘘をついたり偽りをしたらなら、素直に認めることにが大切でしょう。
それを国政に当てはめてみると、天帝や天地神明とは国民のことで、正直誠実であれば国民からの信頼が得られると私は考える。それには、政治の説明責任や政治家の日頃の言動についての風通しのよい責任を明らかにすることは重要ではないだろうか。会議の議事録を作らなかったり、説明をハグラカシたりしていると、そのうち必ずその化けの皮が剥がれ、本性をさらすことになるだろう。すでに本性があらわれているのになぜ、いまの政権が持ちこたえているのか。
禍福に門地がないように、政治を担う人はその日頃の品行が大切なはずです。三代目のボンは政治家の名家かも知れないが、だれをファーストにするかを誤っていたなら、これからどのような社会になっていくのだろうか。

『西遊記』別編の『西遊補』

中国の三大奇書の一つに、『西遊記』があるが、その続編というか別編が幾つかあるが、その一つに『西遊補』というのがある。これは十七世紀半ばに、董若雨(トウジャクウ 1620-1686)が20歳の時に書いたものとされる。西遊記のパラレルワールド(*1)を描いたようなものだ。この西遊補は平凡社の東洋文庫から『鏡の国の孫悟空』の書名で大平桂一・新井健訳で出版されている。
*1(パラレルワールド(parallel world)とは、ある世界から時空が分岐された世界で、もとの世界と並行して存在する別の世界で、日本語では並行宇宙ともよばれている。パラレルワールドはSFの世界ではよく出てくるが、我々のこの宇宙と同一の次元を持つっている世界と言われている。)
この『西遊補』はもとの『西遊記』の第五十九回から六十一回の三蔵法師の47・48・49難の、羅刹女から芭蕉扇をだまし取り火焔山を鎮火させる話と、祭賽国の金光寺で心を洗い宝塔を掃く話の間に挿入される話と、董若雨は、後書きの「西遊補問答」で答えている。
三蔵法師一行の話しになる。『西遊補』には、「〔本書原題〕三たび芭蕉扇を調(めしあ)愚の後に入る」。とある。
火焔山を鎮火させ、孫悟空は鯖魚精の妖怪の罠にはまり、無数の鏡からなる万鏡楼を媒介とした、閉鎖的だが広大無辺な世界に迷い込み、古人世界、未来世界などを経て、元の世界に戻る話しと、大平桂一はその解説でいっている。
第二回では悟空は、托鉢するところを探していると、「大唐の新天子・太宗三十八代の孫・中興皇帝」と篆書で書かれている旗を見つける。孫悟空が唐を立ってまだ20年ならないのに、唐の帝が数世代も代わっている。唐朝は実際は二十三代で滅亡している、これは、まさにこれは、鏡像の世界であり、タイムスリップしていることになる。

その一つの参考になるのが、『西遊補』に書かれている「『西遊補』問答」で、そこに
「問 西遊(記)は欠けてないのになぜ補うのだ。
答 西遊の補遺は、火焔山芭蕉扇〔『記』五十九~六十一回〕の後、心を洗い塔を掃く〔六十一回〕の前に置かれるのである。斉天大聖〔悟空〕は計略で芭蕉扇を徴発、火焔を消したが、ただ単に力で圧服したに過ぎないのだ。四万八千年は、すべて情のの根が固まってできたものである。大いなる道を悟るには、必ずやまず情の根が空と看破せねばならず、情の根を空と看破するには、まずは情の内部に入り込まねばならない。情の内部に入れば、世界のの情の根が虚ろだと見極められるし、その後、情の外部に出て、道の根が実だと認識することができる。『西遊補』というのは情の妖怪の物語であり、情の妖怪とは、鯖魚の精である」。と言っている。

また、『鏡の国の孫悟空(西遊補)』といういわれは、第四回で、
 一竇開きし時 万鏡に迷い 物の形現るる処 本の形亡(うし)なわる
 [穴が開いて悟空は万鏡楼に迷い込み  物の形が現れる時に本体の形は失われる]
ことに巻き込まれる話なになる。
この部分だけを見ると、理論物理学の学説に、多元宇宙論がり、この宇宙には複数の宇宙の存在があるとする学説がある。それにより、宇宙に関する最新の観測結果は「並行宇宙」の存在を示唆しされている。
話の回がすすむと、四方八方の面が隅まで鏡になってる。その鏡をのぞくと、それぞれの世界が時代が繰り流れている。

SFのスタートレックでは、ENT DIS TOS NGT DS9 VOY などの各シリーズのエピソードの中で登場する、パラレルワールドの多くの並行宇宙・鏡像宇宙は、粗暴な地球人が侵略的な宇宙になっている。また、タイムスリップでなないが、TOSやDS9では、過去の世界の時間が流れそれを見たりその世界にスリップできる話がある。並行宇宙、鏡像宇宙や時空うを超える別の世界を見ることが出来るテーマは、どうやらいつの時代にも、人びとの興味を引くようだ。

さてはて、この『鏡の国の孫悟空(西遊補)』の話はどんなパラレルワールドと時空を孫悟空は見るのだろか、そう想像すると読んでみるのが楽しみだ。

民は信なくんば立たず

孔子の論語 顔淵第十二の七 民は信なくんば立たず

論語 顔淵 第十二の七

漢文
子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。

書き下し文
子貢、政を問う。
子曰わく、食を足し 兵を足し 民をしてこれを信ぜしむ。
子貢が曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の三者に於て何れをか先きにせん。
曰わく、兵を去らん。
曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何ずれをか先きにせん。
曰わく、食を去らん。古より皆死あり、民は信なくんば立たず。


子貢が政治について尋ねた。
子曰、「食糧をいきわたらせること、軍備を整えること、人々に信義を植え付けることだ。」
子貢は、「やむを得ずして三つのうち一つを犠牲にせねばならないとしたら、どれを犠牲にすればよいか」
子曰、 「軍備だ」
子貢はさらに、「やむを得ずして残った二つのうち一つを犠牲にせねばならないとしたら、どちらを犠牲にすればよいか」
子曰、「次は食糧だ。昔から人の死は避けられないものだが、信義なくば人間社会が成立しない。」


香港の一国二制度が今後も続けられるには、「民は信なくんば立たず」この言葉を、行政府は肝に銘じておくべきだろう。
なぜ、民主派の一部の若者があそこまで暴徒といわれても過激な行動を起こしたのか、それは、香港に市民に今の中国の傀儡のような行政府に危機感をもっているからだろう。
経済的に豊かになるより、外国からの国防を中国の力を借りて強くするより、民主化の方を選んでいるからだろう。

ドイツの旧東側や、旧東欧などは民主化を果たしたが、西側との経済格差があり自由競争の世の中にんり、ものが不足されたりして不満を持っている人もいるが、無条件で以前のような生活に戻りたいとは思っていないのはたしかだろう。また、統制経済計画経済もどったとしたら、そこで改めて民主主義のよさを実感し香港のような多いな抗議運動が起きるだろう。

いまの、日本をみると、安倍政権は、足食足兵、民信之矣のうち、アベノミクスの足食を大事にし、中朝の脅威や集団的自衛権行使の足兵を重視している。民信之矣は丁寧に説明していくといいながら、論点をそらして説明していくすがたは、まったく、民は信なくんば立たずにはあたらない政治運営をしている。

その時は、日本国憲法の二つの条文を読み返してみよう。
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

この12条の不断の努力は、国民の抵抗権でもあり、抗議の意思を表すことが保障されているし、それが権利であり責任でもあると書いてあることを忘れないようにしたいと、香港の昨今の情勢を見て思った。

八戒の失敗

西遊記の第二十四編で、三蔵法師一行が取経の旅に途中に、八戒が美女の母子に惑わされ、懲らしめられる話しがある。
そこに出てる八句の頌が出てくる。

黎山老母不思凡 南海菩薩請下山
普賢文殊皆是客 化成美女在林間
聖僧有徳還無俗 八戒無禅更有凡
従此静心須改過 若生怠慢路途難
(西遊記 浙江古籍出版社(中国) 簡体字は常用漢字に変換)

黎山(れいざん)老母は俗界を慕わねど 南海菩薩に請われ山を下る
普賢と文殊もまた客となり 美女と化し林間に出没せり
聖僧は徳あり俗気なけれど 八戒に禅なく更に凡心あり
以後は須(すべから)く過(あやま)ちを改むべし 怠慢せば路途は難しからん
(岩波文庫 西遊記 三 中野美代子訳)

黎山の老母 凡を思わず 南海の菩薩 下山を請う
普賢・文殊は皆これ客 化して美女となりて林間にあり
聖僧は淡漠にして禅機定まり 八戒は淫を貪りて劣性頑(かたくな)なり
これより心を洗い須(すべから)く過を改むべし もし怠慢せば路途難しからん
(平凡社 中国古典文学大系 西遊記 上 太田辰夫・鳥居久靖訳 (ふり仮名))


取経の三蔵、悟空 八戒 悟浄の一行を、その心意気を試すために、南海菩薩と普賢菩薩、文殊菩薩が美女になり四人をまどわすが、三蔵、悟空、悟浄は惑わされないが、八戒は惑わされ木に縛り付けれ懲らしめられる、今後経取のため精進に努められないと、取経が遂行できなくなる。と諭される。


従正修持須謹慎 掃除愛欲自帰真
(西遊記 浙江古籍出版社(中国) 簡体字は常用漢字に変換)

正に従って修持し須(すべから)く謹慎すべし
愛欲を掃除せば自(おの)ずから真に帰(き)す
(岩波文庫 西遊記 三 中野美代子訳 (ふり仮名))

正に従い修持するは須(すべから)く謹慎なるべし
愛欲を掃除(はきのぞ)けばおのずから真に帰せん
(平凡社 中国古典文学大系 西遊記 上 太田辰夫・鳥居久靖訳 (ふり仮名))


さらに、第二十四編に、『西江月』の詞が照会されている。
色乃傍身之剣 貪之必定遭殃
佳人二八好容粧 更比夜叉凶壮
只有一個原本 再無微利添嚢
好将資本謹収蔵 堅守休教放蕩

いろごとは身をそこなう剣とかや
 むさぼればめぐりあうは殃(わざわい)ばかり
二八(にはち)の佳人すがたはよろし
 されど夜叉(やしゃ)よりおそろしい
原本(もとで)はただひとつのみ
 利子を増やすな儲(もうけ)るな
資本はだいじにしまっておこう
 あちこち放蕩させてはならぬぞ
(岩波文庫 西遊記 三 中野美代子訳 (ふり仮名))

色はすなわち身を傷つける剣
これを貪れば必定(かならず)殃(わざわい)に遭う
佳人二八 容妝好けれど
さらに夜叉比(よ)り狂壮なり
ただ一個の原本あるのみ
再(さら)に微利の嚢に添うるなし
好く資本を将(もっ)て謹んで収蔵し
堅く守り放蕩せしむる休(なか)れ
(平凡社 中国古典文学大系 西遊記 上 太田辰夫・鳥居久靖訳 (ふり仮名))

色欲にむさぼれば、身を滅ぼすどころか、夜叉より恐ろしく、厳に慎まないといけない。

この後 八戒は、旅の途中なので、一つかみ土を摘まみ焼香の真似事をして合掌して、今後の精進を誓うのです。
さて、この後4人は、どのような取経の旅を続けるのでしょうか。

しかし、何事も物欲、色欲が過ぎれば道を誤ってします。特に修道のものはそれらを厳に慎まなくてならない。
西遊記は中国の四大奇書とされているが、単に面白可笑しく書かれた物語ではなく、そのなかに、民間の信仰や道教の教えや仏教の教えなどをそれとなく諭されるよに書かれている。

子分を高いポストにつけない

宋名臣言行録 その3

宋名臣言行録 第一部五朝名臣言行録に次のような話亜ある。
王曾が宰相だった時、自分の身内や仲間からは一人も高い役職につけなかった。ある機会に笵仲淹が、「優秀な人材をとりたてるのが宰相の任務です。全体を統括して管理すあなたに欠点があるとすればそこだけです」とそれとなく誘いをかけるた。すると、王曾「君はわしが恩義をきせれば、怨恨が誰にゆくか考えぬのか」と答えた。茫然とした仲淹は、「なるほどこれこそまことの宰相だ」と感嘆した。

いまの安倍政権は、閣僚などの人事は、お友達人事と冗談や皮肉を言って相手をからかうわれることがある。
この話を安倍政権の人たちはどうよむのであろうか。

宋名臣言行録 第一部五朝名臣言行録 第三章真宗 第三皇帝

宋名臣言行録 その2

宋名臣言行録 その2

玉清昭応宮は,北宋の真宗時代に、おまつり騒動の総本山のような清昭応宮が落雷による火事で焼失した、それにより、守衛の責任者たちはみな獄に繋がれた。象徴である玉清昭応宮を再建の話しがあった。しかし王曙は言った。「昔、魯の桓と僖の廟所が焼けたとき、孔子は、時代に合わず古いので取り壊すべきものだったと言った。漢の時代に、遼東にある高祖の陵園の御殿が焼けた時には董仲舒は、高祖の廟は地方にあるべきでなく、また御殿は陵墓のそばにあるべきでないと言った。三国時代、魏の祟華殿が焼けたときには、重臣の高堂隆は、豪壮な宮殿を作ることへの警告で、修復すべきでないと言上したが、文帝は聴きいれず修復したが再び焼けた」。王曙は玉清昭応宮のようなものは、無駄なものでよけいな出費をすだけだとして、いにしえの孔子や漢代や三国の古典の話を例に再建に反対した。

この説得力ある贅沢な事業にたいしての反対意見はなかなかスマートなものです。
いま、国や地方の行政でも、大型の公共事業をして景気の底上げをしようとしているが、それらは本当に今よりよりよいものになるだろうか。
万博やリニアなどは二匹目のドジョウを狙うようものだが、早々と捕らぬ狸の皮算用で、今皮算用をしている者だけが儲けて、あとは何が残るのであろうか。

竈の神

論語 八いつ に次のようなことが書かれている。

王孫賈問曰。與其媚於奧。寧媚於竈。何謂也。子曰。不然。獲罪於天。無所祷(示+壽)也。

王孫賈問いて曰く、其の奥に媚こびんよりは、寧ろ竈に媚よとは、何の謂いぞや。子曰く、然らず、罪を天に獲ば、祷(示+壽)る所無なきなり。

王孫賈が「部屋の奥の神に媚びるより、竈の神に媚びよ、という諺はどういことですか」とたずねた。
子曰「それは間違っている。天に対して間違いを冒したなら、どんな神に祈っても祈りようがないものです」

いまはガスや電気のIHコンロだが、昔の家には竈があり薪で煮炊きものをしていた。ここには竈神が祀られていて「おくどさん」として親しまれて、大切に扱うように言われていました。また、火の神としては荒神さんとしの神もまつられていた。
また、竈神はその家の家族の行為を四六時中監視していて、その一家の行為をすべて把握していると言われていた。竈を粗末に扱うと、病気になったり火が出たりするので、大切に扱えということです。

王孫賈は、竈神の話を持ち出しなぞかけをして自分に媚びよと誘いかけたのだが、それを孔子はきっぱりと撥ね付けて、天に対して過ちを犯したら、どこにも祈りようがないと毅然とした態度でいる。

いまの政治家の多く特に自民党の議員なら、王孫賈の誘いにその顔色をみて直ぐにのってしまうでしょう。いかに、党の人事権と国の官僚の人事権を握っているものになびくのは、そのときの自分にとってはいいが、国にとってはおろかしいことです。国会議員は主権者である国民の代表者であることを忘れているのでは?


中国の竈神の話しに次のような話がある。
古稀をむかえる男がいた、男には三人の男の子がいて、孫も五人いた。
長男は科挙に合格し役人を勤め、次男と三男は商売をしていたので、そこそこの暮らしをすることができていた。
男は善行を率先して行い、まわりから善人と称されていた。ただ妻が目を患い、医者の診てもらっても薬石をしても効果がなかった。
除夜の晩に男はある夢をみた。青衣の童子に導かれた竈神があらわれて言った「汝は一生身を慎んで過失がなかった。汝の妻の眼病は、魚の食べ過ぎだ、以後殺生を慎み捕えた魚や動物は放してやるといい。そうすれば治るだろう。いま、汝に黄金一万両を授ける。終世善行を行ない怠ることなかれ」と言って消えていった。
男は目が覚め不思議なこともあるものだと思っていると。商売に出かけていた次男が大儲けして帰ってきた。さらに妻の目もよくなた。
これは、竈神はその家族の言動をつぶさに四六時中監視しているのだ、一家の行いをつぶさに把握していて、その男の善行を行なっていることに対して福をあたえたのであろう。

真面目にコツコツと生きて、人には善行を行なうことの大切さを物語っている、まずは国民の代表者は自分の私利私欲で行動するのではなくこうあって欲しいものです。

*参考 中国妖怪・鬼神図譜 相田洋 集広舎 

鍬を捨ててウサギを得ようとする

韓非子の五蠹に次のような話がある。

宋人有耕田者 田中有株 兎走触株 折頸而死 因釈耒其而守株 冀復得兎 兎不可復得 而身為宋国笑

高校の漢文の教科書で読んだ記憶がある話しです。

宋の国で畑を耕している者がいた、その畑の中に切株があった。たまたま兎がそこに走ってきて、切り株にぶつかれり首の骨を折って死んでしまた。それを見た男は、鋤を捨て畑を耕すのをやめ、再び兎が株にぶつかり兎を得られることを願った。男は兎を得られないばかりか、宋国中の笑いものになった。

そして次のように続きます。

今欲以先王之政 治当世之民 皆守株之類也

いま古代の聖王の政治によって、現代の民を治めようとするのは、この株を守って兎を得よとしている男と同じだ。

憲法の護憲派は不磨の大典のように死守しようとしている人がいるが、それはこの株を守って笑い者になった男と同じになってはいけない。そのようなことをすれば、憲法を自在に解釈して壊憲して改憲をしようとする者に押し切らてしまう。

国際情勢は変わり世界の秩序は、二度の世界大戦の反省によって作られた憲法の時代とはかわってきている。冷戦がはじまりそれも終焉せていき、経済がグローバル化し、国という一つの枠では物事が進まなくなり理解もできなくなってきている。また、国政をつかさどる政治家も戦後生まれの政治家がほぼ殆どで、戦前生まれといっても戦中の体験を記憶している人はいない。そのため、立憲主義と国民主権の本当の意味を理解しようとせず、統治権者として憲法を解釈しようとしている。そのため、立憲主義とは王政の時代のものだと言う政治家が首相に選ばれたりしている。そのようなことを考えると、憲法を改正するなら立憲主義の縛りを強めること求めるべきではないか。

私はこのブログで、そのことをいくどが書いてきたが、今の安倍政権の国会運営を見ているとますます改めて強く思う。どこまで横暴になるのだろうと心配でたまらなくなってしまうのはわたしだけだろうか。

苛政猛於虎也

中国の故事に『苛政猛於虎也』というのがある。
孔子が泰山の近くのとある土地を通りかかった。そこに墓の前で泣いている婦人にであった。孔子は従者に、婦人に泣いている理由を尋ねさせた。舅、夫、子供が虎に襲われて死んでしまったことを聞き、それを孔子に伝えた。すると孔子が「なぜ虎に襲われる危険な土地を去らないのか」と訊くと婦人は「よその土地に移って、ひどい政治に苦しむよりはましだから」と答えた。孔子曰く「よく覚えておきなさい。残酷な政治は虎よりも獰猛なのだ」

孔子過泰山側。
有婦人哭於墓者而哀。
夫子式而聴之、使子路問之曰、「子之哭也、壱似重有憂者。
而曰、「然。昔者吾舅死於虎。吾夫又死焉。今吾子又死焉。」
夫子曰、「何為不去也。」
曰、「無苛政。」
夫子曰、「小子識之。苛政猛於虎也。」

これは『礼記』の「苛政は虎より猛なり」の話です。

これから今の日本は、このような国にならないこと願いたいものです。

伊尹の土功

殷の賢相で湯王から阿衡と称された伊尹の故事に、「伊尹の土功」と言う話がある。

故に伊尹の土功を興すや
修脛なる者には 之をして钁を跖ましめ
強脊なる者には 之をして土を負わしめ、
眇なる者には 之をして準せしめ
傴れる者には 之をして塗らしむ

伊尹が湯王から土木工事を命じられたとき、足の筋肉が強い人には鍬を踏ませ、
背中の筋肉が強い人には土を負わせ、
片目しか見えない人には、片目をつぶっておこなう測量工事をやらせたり、
背中が曲がった者には塗る仕事をさせた。

障碍を障害としてみるのではなく、個性としてとらえ適材適所のマネジメントをといえるでしょう。
苦手なものや短所の克服よりも、長所を活かせる方法で考えた方がよいのですが、日本でいまだに、多数意見に倣えと上から目線での政治が行われています。

というものです。これに限らず、アメリカやヨーロッパから入ってきた考え方・思想は、随分前から漢文の中に埋もれています。太平洋戦争に負けた日本は、漢文等を社会から排除してしまったために、思想的には弱くなってしまっている可能性が高い。池上彰・佐藤優 著『新・リーダー論』(文春新書)にもあるのですが、リーダーは教養を身につける必要性が説かれ、教養を身につけた政治家やリーダーが存在するのだろうかと危惧されています。

見ざる聞かざる言わざる

日光東照宮の三猿の出典はいろいろな意見があるようですが、一つに「論語」の「顔淵、仁を問う」によるものだという説がある。

顔淵、仁を問うは次のようなものです。
顔淵問仁、子曰、克己復礼為仁、一日克己復礼、天下帰仁焉、為仁由己、而由人乎哉、顔淵曰、請問其目、子曰、非礼勿視、非礼勿視、非礼勿言、非礼勿動、顔淵曰、回雖不敏、請事斯語矣、

顔淵、仁を問う。
子曰く、
己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば天下仁に帰す。仁を為すは己に由る、而うして人に由らんや。
顔淵曰く、請う、その目を問わん。
子曰く、
礼に非ざれば視ること勿れ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。
顔淵曰く、
回、不敏と雖も、請う、斯の語を事とせん。


顔淵が仁について孔子に尋ねた。
孔子いわく。
「自己に打ち克って礼に復帰することが仁の道である。一日でも自己に打ち克って礼の規則に立ち返ることができれば、天下の人民はその仁徳に帰服するだろう。仁の実践は自己の努力に由来するので、他人に頼って仁を実践することなどはできない」。
さらに顔淵が尋ねた。
「仁徳の具体的な実践項目について教えてください」。
孔子答えて「礼の規則に外れていれば見てはいけない、礼の規則でなければ聴いてはいけない、礼の規則を無視した発言をしてはいけない、礼の規則に外れた行動をしてはいけない」。
顔淵が言った。
「私は愚鈍であるので、先生の言葉を実践していきたいと思う」。と言った。


人は気ままに生きて、自分自身の欲求のままにすると、その未熟に打ち克つことはできない。自律と自制をもって礼制の実践が大切だとして。礼の規則に対する自律性と克己心の重要性を説いている。
この孔子の教えをそのまま受け容れるだけではなく、自主と自律の重要性を認識してそれを実践することが大切と言えるでしょう。

となれば、見ざるとは、礼則に外れていれば見ているといつしかそれに慣れてしまう。聞かざるとは、礼則に外れる惑わす言葉を聞いているといつしかそれに慣れてしまう。それらに慣れてしまうとそれが礼則に外れることに違和感を感じなくなる。言わざるとは、礼則に外れる言葉を言い続けるとそれに成りきってしまうことになる。
そしてもう一つのサルがある、それはなさざるで、礼則に外れた行動をすることは、他を慈しみ愛でる仁徳を軽んじる人になってしまう。

しかし、なんでも見ざる言わざる聞かざるなさざるではなく、見て聞いて自分で考え判断し決断して、言うべきことはいいことを起こすときは行動することは大切でしょう。
それには、自主・自律・自制(克己)を持てるように常に、その意識が必要でしょう。
今の国会議員などは、このことについてよく考えて欲しいです。しかし、今の議会政治の議員は議員を辞めると生活ができないので、選挙で当選すること、その前に党の公認を得ることが大切になってしまうので、党の方針がおかしいと思ってもなかなか、反対できないできないのでしょう。

巧詐は拙誠にしかず

巧詐は拙誠にしかず

これは、韓非子・説林の言葉です
故曰、巧詐不如拙誠。樂羊以有功見疑、秦西巴以有罪益信。

ゆえに曰く巧詐は拙誠に如かず。楽羊は功有るを以って疑われ、秦西巴は罪有るを以って益信ぜらる。

この話を理解するには、楽羊と秦西巴の二人のエピソードを知らなければこの言葉の意味を知ることはできないです。

まずは、拙速に表面だけを捉えた理解のしかたです。
物事を押し進めるに上手に技巧を使うより、多少やり方はつたなくても誠意をもって進めると、やがてその意向が伝わる位の方がそれにまさっている。
誤魔化し上辺を繕って物事を進めていき一時は持て囃されても、いずれは隠していた秘密ごとなどが知られ、後戻りできなくなってしまいます。
これが、個人間での問題ならよいが、国の政治で行われるなら、その災難や損害や危害を受けるのは国民です。


「楽羊」には次のような話がある。
魏の楽羊が、中山を攻めた。窮した中山は脅しとして、人質になっている息子を突き出された。それでも楽羊は攻撃をやめなかっ。中山の城主は楽羊の息子を殺害し、その肉をスープにし、楽羊に送り届けた。楽羊はスープを飲み干し中山を攻め落とした。
魏の王、文候は楽羊を頼もしとして、賞賛したが家臣から「己の息子の肉すら喰らなら、どのような相手の肉でも喰らうだろう」と諫言され、楽羊を恐れ遠ざけてしまった。
「秦西巴」次のような話がある。
魯の国の孟孫が狩りに出て子鹿を捉えた、家臣の秦西巴に連れて帰らせた。ところがそれに母鹿がついてくるのを見て、秦西巴は子鹿を逃がした。それにより孟孫は怒り秦西巴を追放した。しかし、後日、孟孫は再び秦西巴を呼び出し、わが子の守り役に命じた。
これは「子鹿にさえ愛情をかけるような者なら、わが子のことはきっと大事にしてくれるだろう」とのことである。

弁舌が巧みで上手に喋る人が、熱弁をふるうよりも、自分の言葉で時にはつかえ時には口ごもりながらも語った方が、誠実さが伝わってくるものです。
人間関係において、技巧をもてあそんで、ずるがしこくて抜け目がないさま手口の人と付き合うよりも、地道にこつこつと実績を積み上げて、相手の信用を得るような方法の方が効果があるからです。
言葉で表すことが下手でも真心がある方が、物事が成し遂げられることが多いといえるものです。

日本人は「巧言令色、鮮なし仁」「剛毅木訥、仁に近し」などの言葉が好きだが、口や態度の拙さにだって自ずと限度もあることは事実です。どちらがよいのでしょうか。

しかし、次のような話もあります。アメリカの脳性麻痺の障碍があるブル・ポーターは、訪問セールス一筋に五十年続け高い信頼を得て顧客を獲得している。
脳性麻痺のため、歩くのも辿々しく、構音障害がり話すのも辿々しい、そのため雇用した会社は成績がわるく、直ぐに辞めるだろうと考え雇った。しかし彼は誠実に仕事をし、トップセールスマンになっていく。
彼の人生は、『きっと「イエス」と言ってもらえる。』び本になり、「Door TO Door」という映画にもなり、日本でも同タイトルで二宮和也が演じて作られている。
この「Door To Door」は前にもこのブログで紹介したので、詳しくをそちらを見てください。

暴虎馮河

安部政権の強引な政治運営は、自身が正と信じ善意から生まれたものだろうが、猪突猛進のように直線的に走るかのごとくです。周りの参謀は、深慮遠謀のごとく緻密な術中を周到に仕掛けています。

論語の述而編に次のようにある。

子謂顏淵曰 用之則行 舍之則藏 唯我與爾有是夫
子路曰 子行三軍 則誰與
子曰 暴虎馮河 死而無悔者 吾不與也 必也臨事而懼

孔子が顔淵に言った 重く用いられれば全力を尽くし用いられなければ隠者として引き篭もる、この様な生き方ができるのはお前と私くらいだ
子路が言った 孔子が大軍を率いられるとしたら、誰を副官として任命しますか?
孔子が言った 虎と格闘したり黄河を泳いで渡るような向こう見ずな者は、任命しない。計画的に事を成す慎重な者を任命する

いわゆる「暴虎馮河」の一説です。

子路は孔子から高く評価されていましたが、勇気があり信義を重んじるが、その直情で勇を好むところは、何度も孔子から諭されていた、しかし子路戦場で死んでしまいます。

アベ政治は、善意から思うところで、その強引な一途な行動は評価されるところがある。しかしそれが、行き過ぎて少数者の意見や反対の声を聴き入れず、無謀な行動に走ってしまうと、その勇気や積極性として認められず、反対にその結果的に弊害が生れてくる。

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富貴の叢中に生長するは

菜根譚 洪自誠

生長富貴叢中的 嗜欲如猛火 権勢似烈焔 
若不帯些清冷気味 其火焔不至焚人 必将自爍矣


富貴の叢中に生長するは、嗜欲猛火のごとく、権勢は烈焔に似たり
若し些の清冷の気味を帯ざれば、その火焔人を焚くに至らざるも
必ず将に自ら爍かんとす

富貴の家に生まれ育った人は、裕福な生活への欲望は猛火のようであり、権力をもって人を支配しようとする志向は烈火のようである。
もし、そのような人は少しだけでも清貧な気持ちを醸成していないと、その欲望は人を焼くにいたらないで、必ず自分自身を焼いてしまうだろう。

先日来日した、南米ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領は、国連の演説で述べた有名な言葉がる。
「昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。『貧乏な人とは、少ししかモノを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ』」

ようは、人は育ちや環境で変わってしまう、だからこそ自我に芽生えたなら、その自我の考えをしっかり持たないと、私利私欲に走ってしまう。
白隠禅師の「坐禅和讃」にも、
譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず

それは水の中にいて のどが渇いたと叫んでいるようなものである。 裕福な家の子に生まれたのに 貧しい里をさまよい歩いているのと同じである。

だからこそ、己の今の生活の安住せず常に、点検し豊かな生活をもっと豊にとなると、喉が乾いたと水を貪りもとめ、餓鬼にならないよにしたい。

白居易 養竹記

白居易の詩に『養竹記』がある。

養竹記

竹本固 固以樹徳
竹性直 直以立身
竹心空 空以体道
竹節貞 貞以立志
故 君子樹之

養竹記

竹は本固し 固はもって徳を樹つ
竹は性直 直をもって身に立つ
竹心は空 空をもって道を体す
竹節は貞 貞をもって志を立つ
故に君子はこれを見習え


竹はうまれながらにして固い、固いことは品性や人格が育つものである
竹はうなれつき心や考え方が真っ直ぐで正直である、真っ直ぐということは人から認められることだ
竹は芯が空である、空は行いを身につけさせる
竹には節があり、節度は行いを正しくする
したがって、君子は竹を見てそれを見習うことすべきである

風に吹かれている竹林を見ると、なよなよとしている様にみえるが、非常に強もので真っ直ぐ育ち繁殖し浸食していく植物です。そこには白居易の養竹記に詠われているところがあるからでしょう。

しかし、どこかの国の政治家は、都合のよいように自説を曲げたり、国の根幹である憲法解釈をねじ曲げたり、質問に丁寧に正直に説明せず、のらりくらりと説明を交わしたりしている。これを見ると竹と間逆です。

国礼なければ則ち正しからず

荀子の一説を他にも紹介します、出典は大正十一年に発行さた、友朋堂書店の「漢文叢書 荀子 編輯 塚本哲三」 

荀子 巻第七 王霸編第十一 
彼の国を持する者は、必ず以て独なるべからず。然らば則ち彊固栄辱は相を取るにあり。身能に相能なり、是の如き者は王たり。身不能にして恐懼して能者を求るを知る。是の如き者は彊し。身不能にして恐懼して能者を求むるを知らず。安に唯便僻左右に己に親比する者を之れ用ふ。是の如き者は危削なり。之をきわめて亡ぶ。

これを現代文で表してみます。
国家を保持することは独力ではできない。そうしてみると、国家が強固にな栄誉や恥辱をうけてしまたりするのは、宰相やその他の臣下をどう選ぶかで左右される。君子が有能で宰相や臣下も有能なら、国家は強固で栄誉をえられるだろう。
君子が無能であっても、宰相や臣下を有能なものを登用しなくてはならないことをわきまえているなら、その国家は強固になるだろう。君子が無能であり宰相や臣下に有能なものを登用しないばかりか、側近者に自分たちのお友達や考えの近い者だけを登用するなら、その国家は削弱くなり衰退して、あげくの果ての滅亡してしまうだろう。


国は之を巨用すれば則ち大に、之を小用すれば即ち小なり。大をきわめて王たり、小をきわめ亡ぶ。小巨分流する者は存す。之を巨用する者は義を先是を之を巨用すと謂う。之を小用する者は、利を先して義を後にす。安に是非を恤はず、曲直を治めず、唯便僻己に親比する者を用ふ。夫れ是を之れ之を小用すと謂ふ。之を小用する者此の若し。小巨分流する者、亦一は彼が若くなり、亦一は此の若し。故に曰く、粋にして王たり、駁にして覇たり、一無くして亡ぶと。此れの謂うなり。

これを現代文で表してみます。
国というものは、大きな治め方をすれば大きくなり、小さな治め方をすれが小さくなる。大きいきわみは王国となり、小さいきわみは亡びる。大と小の中庸の治め方をすれば、持続存続できるだろう。
大きな治め方等いうのは、道義を第一にして功利を後にし、親しい者や疎しい者、貴賤を問題にしないで、有能。な誠能の者を登用しようと務めることを大きな治め方とういう。小さい治め方は、功利を第一として道義を後にして、また是非や正邪を論じないで、ただ親しいお友達やおもねるお気に入りの人だけを登用る、このような治め方を小さい治め方と言う。大きな治め方は前者で、小さな治め方は後者で、大小半々の治め方は、前者のようであったり、後者の要であったりする。だから、「道義が完全であれば、王者に、混じっていれば覇者にになり、一つもなければ亡びてしまう」とういうのはこのことであろう。


国礼なければ則ち正しからず、礼の国を正す所以は、之を譬ふるに猶衡の軽重に於けるがごときなり。猶繩墨の曲直に於けるがごときなり。猶規矩の方円に於けるがごときなり。故に之を錯きて能く欺ふること莫きなり。詩に云う、霜雪の埓埓たるが如く、日月の光明なるが如し。之を為せば則ち存し、之を為さざれば則ち亡ぶと。此れの謂うなり。

これを現代文で表してみます。
国に礼がなければその国は正常ではない。礼が国を正常というのは、ちょうど秤と重さ、墨繩と直線、コンパスと円、定規と矩形のようなものである。一旦これを設けた以上は、誰でも自分の恣意的な考えて捻じ曲げて偽ることはできない。詩経に「霜雪が一面に振り月があまねく輝くように、これを行なえば存続sるうが行わなければ亡びる」とあるのはこの礼のことをいうのであうろう。


この荀子のこの説を読んでいて、今の日本はまさこの、国の責任者は仲良しのお友達を集め、小の国をめざし、礼をつくさない国になり下がってしまっているように思える。先日合った憲法審査会で自民党が推薦した参考人が、集団的自衛権に関する安保法制関連法案を憲法違反と発言しました。そのことに対し、自民党の閣僚経験者は「あくまで参考人の意見だ」として、参考人を指名するさいに、おなじ轍を踏まないように国会対策幹部に注意注文をつけたそうです。民主主義を無視するような、なりふり構わぬ言葉が、このところ自民党議員が口にするのを聞く。そして、そのことに対して、国民やマスコミがあまり騒がないことも、ここまできたのかと、この国の病の深さを思うばかりです。
ますますこれからの日本の行く末が、病み重篤化していくのを如実に感じてしまうのは、私だけだろうか。

テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも
ジャンル : 政治・経済

問いのあらしき者には告ぐること勿れ

問いのあらしき者には告ぐること勿れ
告のあらしき者には問うこと勿れ
説のあらしき者には聴くこと勿れ
争気ある者とは与に辯ずること勿れ

故に必ず其の道に由りて至れば然る後にこれに接わり その道に非ざれば則ちこれを避くべし
故に体の恭にして而る後に与に道の方を言うべく 辞の順にして而る後に与え道の理を言うべく 色の従いて而る後に与え道の致を言うべし
故に未だ与に言うべからざるに而も言う これ傲と請い 与に言うべきに而も言わざる これを隠と請い 気色を観ずして言う これを瞽と請う
故に君子は傲ならず穏ならず瞽ならず 其の身を謹慎す
詩に匪の交わりの舒ならざる 天子の予する所 と曰えるは此れを請うなり


これは、荀子の第一巻 務学編 第一の八に書かれているものです。

現代語にくだけて訳すと次のようなものだろう。

質問の粗雑でくだらない者に対しては答えない。
ろくな答えができない者に対しては質問をするな。
くだらない下拙な話には耳をかさぬがよい。
やたらと上げ足を取るよう者と言にたいしては、議論をしない方がよい。

道理をわきまえている者とは交わり礼をつくし、そうでない非礼な相手にせぬことだ。物腰が丁寧で礼儀正しい時に、はじめて事柄のおおよそを語り合える。言葉つきがやわらかいときにはじめて事柄のわけをを話し合える。顔つきが穏やかなときにはじめて事柄の隅々まで細かく語り合える。
したがって、そのような状態でないときに、語り合うことは互いに傲慢になってしまう。ともに語るべきなのに語らないのは隠すという。相手の顔つきに関係なく話すのを分別がないとうい。
だから、君子は傲慢でも、隠すことも無分別でもなくそれをつつしまなくてはならない
詩経の小雅に次のようにある「彼の交際をおろそかしない者は天子から賞賜される」とあるのはこのことを言う。


いまの世の中ので欠けているのは、この事ではないだろうか。
国会の審議を見ていて、質疑に対しての答弁はまさに、この「故に未だ与に言うべからざるに而も言う これ傲と請い 与に言うべきに而も言わざる これを隠と請い 気色を観ずして言う これを瞽と請う」でなくてなんであろうか。

歳々年々 人同じからず

年年歳歳花相似
歳歳年年人不同

 唐代の詩人、劉希夷の[代悲白頭翁](白頭を悲しむ翁に代て)にある、一句です。

年々歳々 花相似たり
歳々年々 人同じからず

来る年も来る年も、花は変わらぬ姿で咲く
年ごとに、それを見ている人間は、移り変わる

日に日に暖かくなり、庭仕事もはかどるようになりました。日々草花は成長し、小さな庭も草引きを放って於くとすぐに繁ってしまいます。
しかし、私の頭の方は年々髪の毛が少なくなってしまいました。
そんな日々のなか、数日雨の日が続き、晴耕雨読と漢詩の本を紐解いていると、この「代悲白頭翁」が目にとまりました。
自分の人生も明らかに、折り返し点を遥かに超えているので、残りの人生を無駄なく有意義に過ごしたいと思っていますが。今までのいい加減な人生がためにその輪廻かしらないが、心配事やこれからもままならないことがありつづけそうです。
しかし、草花は毎年だいたい同じころに咲き月日が流れる。自分の人生は去年のときより、今年の方が再来年の方がよい年になるように、勤めて励んでいきたいと思うこのごろです。

詩の全文は、次のように書かれています。

代悲白頭翁 劉希夷

洛陽城東桃李花
飛來飛去落誰家
洛陽女兒惜顏色
行逢落花長歎息
今年花落顏色改
明年花開復誰在
已見松柏摧爲薪
更聞桑田變成海

古人無復洛城東
今人還對落花風
年年歳歳花相似
歳歳年年人不同
寄言全盛紅顏子
應憐半死白頭翁
此翁白頭眞可憐
伊昔紅顏美少年

公子王孫芳樹下
清歌妙舞落花前
光祿池台開錦繍
将軍楼閣画神仙
一朝臥病無相識
三春行楽在誰辺
宛転蛾眉能幾時
須臾鶴髪乱如糸
但看古来歌舞地
惟有黄昏鳥雀悲


白頭を悲しむ翁に代る 劉希夷

洛陽城東 桃李の花
飛び来たり飛び去たって誰が家にか落つ
洛陽の女兒顏色を惜しみ
行くゆく落花に逢いて長歎息す
今年花落ちて顏色改まり
明年花開いて復た誰か在る
已に見る松柏の摧かれて薪と爲るを
更に聞く桑田の変じて海と成るを

古人また洛城の東に無く
今人還た対す落花の風
年年歳歳花相似たり
歳歳年年人同じからず
言を寄す全盛の紅顔子
応に憐れむべし半死の白頭翁
此翁白頭真に憐れむべし
伊れ昔 紅顔の美少年

公子王孫芳樹の下
清歌妙舞す 落花の前
光禄の池台錦繍を開き
将軍の楼閣 神仙を画く
一朝 病に臥して相識無く
三春の行楽 誰が辺りにか在る
宛転蛾眉能く幾時ぞ
須臾にして鶴髪乱れて糸の如し
但だ看る古来歌舞の地
惟黄昏鳥雀の悲しむ有るのみ

槁木死灰

槁木死灰

菜根譚 後集

14 寒灯無焔、敝裘無温、総是播弄光景。身如槁木、心似死灰、不免堕落頑空。

寒灯に焔 無く、敝裘に温なき、総て是れ光景を播弄す。身は槁木の如く、心は死灰に似たるは、頑空に堕落するを免れず。


燃え尽きる寸前のロウソクや、着古してすり切れ薄くなった着物は暖かくないです。それを大切にすることは、貧乏を負け惜しみで楽しんでいるこのようだ。そこにはそれ以上の発展や、前に進むことを拒んでいるように見える。

身体の肉体は枯れ木のようで、心は火の気がなくなって冷たくなった灰のようで、生気がみえない。
そうなれが、かたくななだけで中身がないものになり、品行が悪くなり、生活が乱れ身をもちくずすことになる。

政治がそうなれば、国政に物事が健全な状態からはずれ、国がみだれ劣悪になる。
それは、真理を見抜けず、政治を行うものとしては言えない。頑固に自分の意見を押し通し、人の意見を聞く振りをして、実のところは耳を傾けず、なんでもごり押しをしてしまうのはまさに末期的な状態になってしまっている。これは早めに治療をしないといけないであろう。

蝸牛角上

菜根譚 後集

13 石火光中、争長競短。 幾何光陰。蝸牛角上、較雌論雄。許大世界。

石火の光中、長を争い短を競あう。幾何の光陰ぞ。蝸牛の角上、雌を較べ雄を論ず。許大の世界ぞ。

人の一生は、石火の花火のようなもので、ほんの一瞬である。どちらが長い短いなど競いあっても、それがどれほどのものか。実にくだらないものである。
また、この世の中は蝸牛の競いのようなもので、それがどれほどのものであろうか。人々は勝った負けたと争い、優越におもい、卑下したりそれにより憎しみを募らせる、そのことはどれくらいの大きさのものだろうか。

人のはかなさ

人のはかなさ

菜根譚 後集

12 山河大地、已属微塵。而況塵中之塵。血肉身躯、且帰泡影。 而況影外之影。非上上智、無了了心。

山河大地も、已に微塵に属す。而るにいわんや塵中の塵をや。血肉身躯も、且つ泡影に帰す。而るをいわんや影外の影をや。上々の智に非ざれば、了々の心無し。


達人の域に達すれば、
山河や大地のような大きい存在でも、もっと大きな者から見れば、微塵のようなものだ。塵の中の塵でとるに足らないものだ。
人の肉体のように実体があるように見えるものでも、流れに浮かぶ泡や、物の影のようなもので、結局は消えてしまうものだ。まっしてや、影の影のような名誉や地位などは、虚しいものだと言わざるをえない。そのようなものだから、最上の智慧を得ないなら、このようなことはわかりようがないだろう。

猿の覚醒

猿の話で次のようなものがあります。

劉伯温 [郁離子] 猿の覚醒
明の政治家、思想家・劉伯温(1311-1375、名は劉基、字は伯温)

 昔、楚の国に猿を飼って暮らしている人がいた。その周りの人は彼を狙公と呼んだ。狙公は毎朝、猿たちに仕事を割り当て、年寄りの猿を遣わし他の猿たちを連れて山の果実を採ってくるように命じていた。彼はまた次のように取り決めた。猿たちが採ってきた果実をそれぞれ十分の一徴収して自分に差し出すようした。もし逆らう者がいれば死ぬまで鞭撻することにしていた。猿たちはみな彼のことを怖がり、長い間苦しめられていたにもかかわらず、逆らう勇気がわかなかった。
 ある日、ある勇敢な子猿が突然、仲間たちに聞いた。「山の果樹は狙公が植えたの」。仲間たちは「いいえ、それらは自然に生えたものだ」と答えた。子猿はさらに「もし狙公がいなければ、われわれ誰しもその果物を採ることも、採れないのか」と聞いた。「いや、われわれは誰しも採ることもでき、また採れもする」と、猿たちは口々に答えた。子猿は話を続けた。「そうだとすれば、われわれはその狙公にこき使われる必要がないのではないか?」この話が終わるや否か、猿たちはみなはっと悟った。
 その晩、猿たちは、狙公が寝た後に彼らを閉じこめている柵を壊し、そして狙公の積んだ果実を全部も持ち去り、林の中へ一目散に逃げて去った。その後、猿たちは二度と狙公のもとに帰らなかった。
 そうして、その狙公はついに飢え死にしてしまった。

 郁離子は曰く、「世の中には、手段をもって民を支配し、道義や法律を講じない者がいる。こういった人はおおむね狙公の件のごとく、民が一時的に愚かであったため目覚めなかったが、いったん誰かに諭し導かれたら、いかなる狡猾な支配者でもその権謀はもはや効かなくなるのだ」
政治にも道義と言うものがあるだろう。多数派や強者の意見を反映した、国家権力が少数派や弱者を踏みにじることは許されないことです。自分たちの意見を押し通すことは、反対意見の弱者や少数派の人たちが、どのようになるかを考え考慮しないといけないです。
そのとは、憲法憲法の13条に「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
人は個人として尊重され、国は政治をおこなう上で、おもっじたっとばなくてはならないということです。

これからの日本の政治がどのようになっていくのか、よく考えて注視していきたいです。

天知る、地知る、子知る、我知る。

天知る地知る子知る我知る(四知)
「天知る、地知る、子知る、我知る。何ぞ知る無しと謂わんや」

中国では食肉の偽装や政界中央のトップクラスの汚職。日本では、そのような企業の偽りや、政治と企業の汚職は、少なくなったように見えます。ひょっとして法の笊の目をを掻き潜っているのかもしれませんが。少なくとも今の中国の企業のように、なり振り構わないかつてのヤンキー行商人のようなことはしないのは確かです。
特にアメリカ経済は金融を中心とした経済で、会社を社員のためユーザーのために経営するというより、持ち株会社で株主の配当を中心に利潤を追及しています。そのため利益を最優先させることにより、今回の食肉の事件が起こるべくして起きたとも言えるかもしれません。
しかし、いくら物事を利潤追求のため、悪いことをしてもそれは、四知でありいずれ発覚するものでしょう。

政治のことも同じようなことが言えますが、反面、政治の世界では公然と隠し事ができたり、公約した事業の施策を実行できるようにするために、今まで防いであったその行いを正当化できる法律があったり、また正当化できるような法律が新たに作られていくものです。


冒頭の話は、後漢書の楊震伝や十八史略の東漢・孝安皇帝にある話からとったものです。
震畏四知
後漢の楊震は、茂才に推挙され、順々に出世し遂に荊州刺史となった。後、東莱の太守に任命され、東莱郡へ向かう途中、昌邑を通った。その時の昌邑令は王密だった。王密は、楊震が荊州刺史だった時、茂才に推挙した人間だった。王密は、大恩ある楊震が自分の任地に来ていると知り、挨拶に来た。そして深夜、懐からこっそりと金十斤を取り出して、楊震へ贈った。
楊震は言った。「私は君の人格を見込んで推挙した、だのに君は私の人格を見くびっている。」
王密は「夜も遅く、誰も知る人はいませんから。」
楊震は言う「天知る、地知る、子知る、我知る。何ぞ知る無しと謂わんや」
王密は恥じ入って退出した。


いつの世もどこにも、王密のような人もいれば、楊震のような人ともいるものです。

この、楊震については次のような話もある。
楊震は清廉潔白な人物で、内緒の贈り物など、絶対に受け取らなかった。そのため、家は貧しく子や孫は粗食に甘んじ馬車も持てないほどの暮らしだった。楊震の知人は見かね、子孫の為に生活の基盤を造ってやれと助言した。
そこで楊震は「清白な官吏の子孫とゆう誉れを遺してやるのだ。それが最高の遺産ではないか」。と言った。
その後、安帝の時に太尉となったが、中常侍に讒言され、卒した。

讒言され、卒してしまうとは。
人から事実をねじ曲げられ善行を悪く言われ陥れられ、そのため、今の地位を剥奪され死刑に処されてしまっう。

ということですから、いくら善行を行っても、周囲から疎まれるだけでなく。自分の地位やこれから行おうとしていることに対して、邪魔になるからと排除してしまことは、最近の日本の政治をみているとそれを地で行っているように思えます。

政治家はいろいろなことを聞き入れると言いながら、自分の考えの近い人を集めた委員会をつくり審議させたり。
自分の方に取り込み口封じをさせ、自分の方にこなかったら役職を与えないで手足を封じてしまったり。
また、官僚は自分たちの行いが正しいと信じ、これが国のため国民のためになると考え、その立場を守ろうとしています。そのため企みをいろいろな手段で巡らし、邪魔になる政治家や同僚を、ある好ましくない状態に追いやて排除したりて、政治を操ることをしています。

人を害するの心は有るべからず

人を害するの心は有るべからず 人を防ぐの心は無なかるべからずとは 此れ慮るに疎きを戒しむなり 寧ろ人の欺を受くるも 人の詐を逆うること母れとは 此れ察に傷るるを警むるなり 二語並びに在すれば 精明にして渾厚たり
         菜根譚  前130   洪自誠

「他人に陥れ危害を加えるような考えや心を持ってはならない、他人から陥れられ危害を加えられるようなことを警戒し避ける心を持たないといけない」この言葉は、思慮が浅い人を戒めたものである。「むしろ、人から欺かれても、人を偽らせるようなことをしてはならない」この言葉は、思慮が深すぎる人を戒めである。
この二つの言葉があることを念頭においていれば、思慮は深くなり、行為は大きく重々しくなる。


このところ、巷のでは振り込め詐欺などのニュースの話題になることがないくらいです。まるでこの菜根譚の反対をいく状況です。
他人に危害を加えたるようなことをしてはならないし、また、危害を受けるようなことに近づかない。

それは、経済界も政治の世界も、同じようにようです。経済界の株式会社などは、一部の大株主のために利潤を追求しています。その中には、消費者や顧客を大切にする、商道徳は曖昧にされ利潤が追求されているようです。ブラック企業のように、そこに働いている者を犠牲にしてまで、利益を追求するのはよくないことです。それは商道徳の衰退といえるでしょう。経済人の商道徳が衰退したなら、法律などで消費者を護ることを強化しなくてはならないです。しかし、このところ不況からの脱出として、政府自ら働き方の多様性と言って、働く者が犠牲になりかねない、その働き方の見直しをしています。

そして、政治家の中にはその地位に甘んじてしまっている人が最近多くなってきているように思います。大企業の税制を優遇して、庶民から税金を取り立てたり、福祉予算を切り詰めたりする動きが活発です。弱者に我慢させ強者を優遇しているようです。なんか、「欲しがりません、勝つまでは」の昔の標語のようです。

企業活動で消費者をあざむくようなことがあれば、最近は株式制度において、一株主運動などで反社会的また、公の秩序を乱すような利益の追求があればその行為を追及する動きもでてきました。しかし、国の行いに対してはそのようなことが、以前よりだんだんできにくくなってきている潮のながっれを感じてしまうこのごろです。
■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

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記事へのコメント
  • 臨時国会の開催はいつか
    竹林泉水 (08/09)
    日本の現状いや世界でも同じよな風潮になっている。
    アメリカでも、トランプ政権の外交政策や内政も、アメリカ自己国第一主義のアメリカファースト。
    日本の安倍政権も、こ
  • 臨時国会の開催はいつか
    風と雲 (08/04)
    一体今の日本はどうなってしまったのだろうかと思う。アベ内閣も与党も憲法に違反することを完全に無視して悪びれもせず堂々と実行してきた。、政府高官も最高裁も報道機関
  • 難病と尊厳死
    竹林泉水 (07/29)
    コメントありがとうございます。

    自ら生きる権利、自ら死ぬ権利があるのはよくわかります。
    それにはどちらも人・個人としての尊厳が保たれている必要がある考えます。
  • 難病と尊厳死
    風と雲 (07/28)
    意識して自ら命を絶つことができるのは人間だけだと思います。人には生きる権利と自由があるように、自らの命を絶つ権利も自由もあって然るべきではないでしょうか。このA
  • 不自由な国、日本
    アジシオ次郎 (07/01)
     自分よりも周りを優先する集団主義的な考えが同調圧力などがまかり通る社会なことについて前に
    >日本的なこの価値観は、海外から見たら奇異の目でしか見られないでしょ
  • 不自由な国、日本
    竹林泉水 (06/29)
    日本語に「世間」と言葉があります。「世間体が悪い」「世間がうるさい」「世間を渡る」「世間に顔向けできない」「世間の目を気にする」「渡る世間に鬼はいない」などとつ
  • 不自由な国、日本
    アジシオ次郎 (06/27)
     おはようございます。

     日本はやはり集団主義が根強い社会であり、いわゆる「ムラ」社会的価値感が強い為に変に「和」を重んじる傾向の上に上の言うことは絶対だという
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    竹林泉水 (06/26)
    なんで日本人は欧米人に対してコンプレックスを持っているのだろうか。明治政府は今までの幕藩体制をぶっ壊し廃藩置県をし、国内の不平不満のエネルギーを外に敵を作ること
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    アジシオ次郎 (06/25)
     こんにちは。

     日本人は長年欧米コンプレックスを抱いたせいで白人に対して好意的に見る一方でアジア人や黒人を平気で見下すような傾向が強いけど、自分たちが置かれて
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