FC2ブログ

竹林の Twitter 新しいウインドウで開きます。

学んで思わざれば則ち罔し

論語に次のようにある。
子曰、學而不思則罔、思而不學則殆。
             為政第二

子曰、学んで思わざれば則ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。

孔が宣まわれた、学問を学びながら思考しなければ、本当に物事を理解する事などは出来ない。もし学ばずに思考すれば独り善がりに陥って当てにならないものになってしまう。


科学などの学問の論文も、一つの筋を論理的に通して一つの説をあらわすことですが、それを都合のよいところだけ見せたり、他説を無視して自論を通そうとするのは、科学や学問とは違い妄想や戯言だと言われても仕方ないことです。

これは、昔から学問の学び方は、斯くあるべきと言われてきていることです。

中庸 第二十章には、「博くこれを学びて、審かにこれを問い、慎んでこれを思い、明かにこれを弁じ、篤くこれを行う。学ばざるあり、これを学んで能くせざれば措かざるなり。問わざるあり、これ問うて知らざれば措かさるないり。思わざるあり、これを思うて得ざれば措かさるなり。辨じて明らかならざれば措かざるなり」。とある。そしてさらに「一たびこれを能くすれば、己これを百たびし、人十たびこれを能くすれば、己これを千たびす。果たしてこの道を能くせば、愚と雖も必ず明らかに、柔と雖も必ず強なり」とあります。

ものごとを学ぶ時は、細かなところまで注意深しらべて、過ちがないようにしなければならない。その上に理解しきれないところは問う必要があり、注意深くそれを思索し、義利の辨・真実と虚妄をしっかりと見分けないと毫釐の差は千里となってしまう。そして疑問に思ったことは中途半端に納得するのではなく、徹底的に納得するまで、探求し研究に取り組まなければならない。
そして、人が一するなら百し、人が十するなら千して始めてそれが成し遂げられるものだ。とざっと中庸に書かれていることはこのようなことでしょうか。

最近、世の中便利になり食品はレトルトやインスタントが大流行です。卒論論を書くのも自分で研究するのではなく、インターネットで調べそれをコピペをしてしまう時代です。
世の中の出来事を見るのも、ワイドショーのニュースや2チャンネルなどの書き込みを見て、自分の考えの合うところだけを取り込んで思い込んでしまう人が増えているようです。

ない事も基本に帰り初心を忘れずに取り組んでいくべきことなのでそしょう。

喜び怒り、哀しみ楽しみ、慮り嘆き

喜び怒り、哀しみ楽しみ、慮り嘆き、恋いおそれ、うきうきしきままにし、啓き態づくり、楽は虚より出で、蒸は菌をなす、日夜前に相い代わるも、而も其の萌す所を知るなし。
荘子・斉物論

喜んだり怒ったり、悲しんだり楽しんだり、先行きを案じたり過ぎたことを嘆いたり、慕い憧れたり恐れはばかったり、浮き浮きしたりだらけたり、あけすけに取り繕ったり。
笛の音が空洞の竹管から奏でられ、蒸せた湿気で黴がはえたてくるように、昼夜の区別無く代わる代わるでてくるが、それでいてそうしたことがどうして起こってくるかはわからない。

これは、荘子 斉物論の中に書かれているものです。

日々生活をしていると、いろいろな感情がでて、喜んで爽快になったり、思い煩ったりします。
天変地異の災害などは別として、それらの多くはは、今までの自分の行いからくる、善し悪しの行いの結果に応じて、その感情がでてくるものです。
ここでは、竹笛の仕掛けは穴があいているだけで、クラリネットやハーモニカなどのような、空気を振動させて音を出すリードがないです。黴が生えるのは湿気と高温でムシムシした条件があると生えてきます。そのよに其の因果があるのだが、おうおうにしてそれらがいつ自分の身に振り返ってくるか分からないものです。様々な感情が自分におこってから、あれがよかたのだ、あれがよくなかったのだと思うものです。因果応報というので日頃から自分の行いに注意したいものです。
しかし、後悔先に立たずということが多いものです。

この荘子の言葉の後に、さらに人との関わりとして、次のように書かれている。

已みなん 已みなん、旦暮に此を得るは、其の由りて以て生ずる所か。彼に非ざれば我れなく、我れに非ざれば取る所なし。是れ亦た近し、而も其の為使する所を知らず、真宰あるが若きも、而も其のあとを得ず。行なうはなはだ信なるも、而も其の形を見ず、情あれでも形なし。
荘子・斉物論

いつまでもどこまでえも、明け暮れにこうした心の変化が起こるのは、もともとその原因があって生み出されたものであろうか。
そもそも相手がなければ自分のそのような感情も生まれず。自分が相手と関わりなければ、相手のさまざまな心もうまれてこない。このように互いに関係しあって煩うのが本当のところだろう。しかし実のところ、何がそのようなさまざまな状態を起こさせるのかは分からないものだ。
真の原因となることがあるように思うのだが、じつは僧とは限らずそういいきれないものだ。結果は確かであるが、そうさせたものを、一つに断定することはできない。実質はあるが原因の姿形はないのである。

さらに、体のことについて自分自身が思い感じるべきかについて書かれている。

百骸九竅、六臓、かねて存す。吾れ誰れをか親しむことを為さん。汝みなこれを説ばんか。其れ私するありや。是くの如くんば皆もって臣妾と為さんか、其れ臣妾は以て相い治むるに足らず。それ逓に君臣と相い為らんか、其れ真君ありて存す。其の情を求め得ると得ざるの如きは、其の真に益損なし。
荘子・斉物論

人の体には百の骨節、九つの竅、六つの内蔵がすべてそろっているが、自分はそのどれかを特に選んで愛するということはない。お前はそれらをすべて愛しようとするか、きっとえこひいきが起こるであろう、もしそうなら、愛情を離れてみな召使いのように見なしておこうか、召使いだけでは治められないことになるであろう。召使いたちが交代で主人になったり召使いになったりするのか、やはり真実の主人が存在するのであろう。そうした実情が分かろうと分かるまいと、この真実ーー肉体のすべてがうまく働いていることに何の増減もないのだ。

人の体には百の骨と述べていますが、実際は200ほどあります。九の竅は目や鼻・耳・大小便の出口です、人の身体のそれらの内蔵や筋肉や感覚は複雑に絡み合って機能しています。しかし日常生活でそのようなことを、意識する事はありません。心臓よこれから運動するのでいつもより早く動けと思っても鼓動が早くなるわけでもないです。これから宴会があるので、胃腸よ活発に動けと思っても活発に動く訳はないです。健康であれば特に動かそうとしなくても、うまく動いてくれるものです。逆に言えば自分の身体に、自分で命令して動かせるものではないです。
ただ、自分の意にそて動かすことができるのは、呼吸器dけでしょう、しかしこの呼吸器意図的に動かすと、かえって健康を害することがあります。そのことは先に呼吸法で書いた通りです。
人の身体のそれぞれの五臓六腑である、器官は単にそれぞれの働きをしているが、それぞれは密接に関連仕合、連携仕合っています。その関連しあっていることがたいせつで、それらの絡みが調えられていないとうまくかないということです。

十八層地獄

西遊記(太田辰夫・鳥居久靖訳 平凡社刊)に、罪を犯した者が死後おとされる、地獄のことが書かれています。

竜王は、玉帝の勅旨に対して、魚偏+時(ヒラコノシロ)軍師が言上したことを受け入れ、雨を降らすのを少し違えたことが、発覚して首を落とされることになるが、唐王の太宗が助けてをもとめる。太宗が助けられなかったことを逆恨みして、太宗は死んでしまうが。閻魔王が生死帳簿に貞観一十三年と書いてあるところ、一の字に二本の線を書き、貞観三十三年として、生き返らせました。

地獄からの帰りに、背陰山の背後に十八層地獄があり、生前犯した罪により、それぞれの地獄に落とされたようすをみています。

十八層地獄とは次のようなものです。
吊筋獄(ちょうきんごく)
幽枉獄(ゆうおうごく)
火坑獄(かこうごく)
生前さまざまな罪深い業を行った者がおちるところ。

(豊+おおざと扁)都獄(ほうとごく)
抜舌獄(したぬきごく)
剥皮獄(かわはぎごく)
不忠不孝者で自然の道理を破り、仏口邪心の者がおちるところ。

磨涯獄(まがいごく)
碓搗獄(うすつきごく)
車崩獄(しゃほうごく)
瞞心昧己で不公道、巧言花言で人を騙した者おちるところ。

寒氷獄(かんぴようごく)
脱殻獄(だつかくごく)
抽腸獄(ちょうぬきごく)
大枡や小秤で人を騙す詐欺師がおちるところ。

油鍋獄(あぶらなべごく)
黒暗獄(くらやみごく)
刀山獄(とうざんこくごく)
善人をいじめ強暴な強盗や暴行犯がおちるところ。

血池獄(ちのいけごく)
阿鼻獄(あびごく)
秤杆獄(はかりざおごく)
欲張のため人に危害を加えたりする者がおちるところ。

それをみた、太宗は心中驚きかつ心を痛めました。
しかし、この西遊記にはそれぞれの地獄での責め苦の様子はかかれていません。

しかしいずれにしろ、いろりとなことをすると死後にそれなりの償いが永遠に続くとされ、多くの地獄絵などがかかれてきました。

娯楽の少ない時代は、人の生き方により因果応報の考えがありましたが、科学技術の発達した便利なよのなかは、因果応報でものごとに感謝する気持ちが希薄になってしまっているようです。

そのようなことを思いながら、二度三度と、岩波文庫の西遊記と平凡社の西遊記を読み返しています。

明明徳

中国の古典「四書」の一つに、『大学』の首章につぎのようにある。
大学之道 在明明徳 在親民 在止於至善

「大きい学びの道は、明徳を明らかにするにあり、民に親愛するにあり、至善に踏み止まることにある」

君子が国を治める肝要は昔に「明明徳 親民 止至善」は君子の備えるべき要件と言われてきました。

国を治める君子の学問は、自分の為にあるのではなく、国家のため民のためにあるのであって、その素養を高め深めることにあったと言えます。
それを現代のこの民主主義の社会に於いては、君子を国家の指導者、人を指導する立場の人するなら、「明明徳 親民 止至善」はどのように考え解釈し捉えればよいのでしょうか。

徳は、天与の徳であり、善悪・正邪を判断し、自分の行いを正しいものとし、他を思いやり、いつくしむ心である。特に、儒教では、他を思いやる心をもの徳を持つことです。そして、巧言令色を遠ざけその気持ちをを持たないようにすることでしょう。
しかし、なかには権力につき富を得ると、始めは清廉な気持ちで挑んでいても、次第に曇ってしまい欲に溺れたり権力に驕ったりする人がいるようです。
「明徳を明らかにする」の「明徳」は、人が生まれながら有る公正で私意のない立派な本性のことです。「在明明徳」はそれを自分の周りの世の中の為に使うことです。

「大学」は「君子の明徳」「大衆の教導」「至善の保持」がおおもとでそのなかで特に大切なのは、八つあるとして、八項目あげえいます。
・格物:
・致知:
・正心:
・誠意:
・修身:
・斉家:
・治国:
・平天下:
この八つです。

物事を正しく見ることにより、知るに到り。知に到れば意が誠になり。意を誠にすれば心が正しくなる。
心が正しくなると行いも正しくなり、行いが正しくなれれば家庭が安定する。
家庭が安定すると、国が落ち着き発展する、各国の政治が平和になれば国際社会は争いがなくなり天下泰平になる。

水の中にいるのを忘れた魚

14日に、
「魚が干上がった土の上に集まり、互いに湿った息を吹きかけ合い あぶくで湿らし合うというのは、豊かな水を湛えた湖水の中にいて、お互いの存在を忘れているには及ばない」荘子の大宗師編の一説について書きました。

今日は水ではなく空気の話です。

公害問題では環境が徐々に悪化してゆき、ある限界を超えると急速にそれによる問題が表面化してくる。
いま、新興国では大気汚染が深刻な問題になっています。特に中国の大気汚染は日本のニュースでは、頻繁に報道されています。中国の大気汚染の様子が頻繁に報道されるのは、中国上空の偏西風にのり、日本にスモックがやってくるからです。しかし、地球規模で考えると大気汚染が深刻なのは中国だけでなく、発展著しい新興国でも同じ状況です。

二十世紀のはじめ頃、芸術の運動としえ未来派が起こりました。工場の煙突から朦々と揚がっているのを賛美し絵、や機械仕掛けで明るい未来を予見させる絵が描かれまた。そのころ、霧の都と言われるロンドンでも、スモッグの問題が深刻化していたようです。これは40年ほど前に聞いた話で、真偽は判りませんが次のような話があります。
二十世紀前半当時、スモックは身体によくない、しかし工業の発展は人の生活を明るく豊かにする、そこでロンドンの中学校では、毎朝全校朝礼でタバコを吸わせ、煙に対する抵抗力を免疫力をつけさせた。これはかなり眉唾物ですが、ロンドンのスモック深刻さを指したものと言えるでしょう。

日本でも、40年ほど前は、四日市や神奈川の川崎、兵庫の尼崎などの、工業地帯は工場からの煙で深刻な状態で、喘息や健康被害もでていました。
死人団体の運動のおかげで、政府は法整備をし企業も環境対策に取り組み、環境に対する技術も高くなり、いまでは世界のトップレベルの、技術があるといわれています。法律メンでも進んでいると思います。

日本はもっと、この環境技術の輸出や、環境に対する取り組みのノウハウや法律面での助言などをすべき積極的にすべきでしょう。それいより外貨が獲得でき国際的な信頼も高まるといえるでしょう。

魚は水の存在を忘れ

荘子 大宗師編
泉涸れ 魚相い与に陸に処り 相い吹くに湿を以てし 相い濡すに沫を以てするは、江湖に相い忘れるに如かず sの堯を誉めて桀を非らんよりは 両忘して道に化sるうに如かず

魚が干上がった土の上に集まり、互いに湿った息を吹きかけ合い あぶくで湿らし合うというのは、豊かな水を湛えた湖水の中にいて、お互いの存在を忘れているには及ばない。堯を聖天子としてほめたたえ、桀を暴君として謗るのよりは、どちらのことも忘れて絶対の道と一体になる方が勝っている。


子貢曰く 然らば則ち夫子は何の方にかこれ依るやと 曰わく 丘は天の戮民なり 然りと雖も 汝とこれを共にせんと 子貢曰く 敢えて其の方を問うと 曰わく 魚は身に相い詣り、人は道に相い造る 水に相い造る者は 池を穿ちて養い給り 道に相い造る者は 事することなくして生足る 故に曰わく 魚は江湖に相い忘れ 人は道術に相い忘れると 子貢曰く 敢えて畸人を問うと 曰く 畸人なる者は 人に畸にして天にひとし 故に曰く 天の小人は人の君子 天の君子は人の小人なりと

子貢は聞いた「先生はどんな世の中に拠り所にしておられるのですか」
孔子曰わく「私は天の刑罰を受けている人間だ、しかし、私もお前と一緒に彼らについて行きたいと思う」
子貢はさらに聞いた「その方法を教えてください」
孔子が答えて曰わく「魚は水と離れられないし、人は道と離れられない。水と離れられない者は、池を掘って水をためれば生きていける。同様に道と離れられない者は、ことさらな事を捨て、道を守っていけば、満ち足りた人生が送れる。だから、『魚は大河や湖水の中ではたいがいの存在を忘れ、人は道の実践ではたいがいの存在を忘れる』と言われている」。
子貢はいった、「どうか畸人についてお教え下さい」
孔子曰わく「畸人と言うのは、普通の人間とは変わっていて、天にひとしく自然のままでいる。だから、『天の立場で小人物が人の世界での君子であり、天の立場での君子は人の世界での小人物だ』といわれるのだ」


今の「宇宙船地球号」や、世界の大海を航海する「日本丸」にたとえて考えると、地球の資源をこれとばかり採掘し掘り出し、自然資源も森林を伐採し山を切り崩し生態を破壊していっている。汚染物質も排出し続けるが、いずれ資源は枯渇して、汚染物質も飽和濃度を超えるて、初めて魚が水がないと叫ぶようなことになりかねないです。
日本の中も同じでいまは、戦後からの日本の航路を大きく舵を切ろうとしています。面舵いっぱいに切るとどこにゆくのでしょうか。

飽和濃度と書いて、おもしろい一つの手品を思い出しました。
「角砂糖を水に入れても溶けない」手品です。
種明かしは、水ではなく砂糖の飽和溶液に入れるのです。
・魚が水がなくなってから気づく。
・周りが変わっても、自分がそれに汚染されていたら気づかない。

記事を追加します。
下の続きを読むをクリックしてください。

続きを読む

一心如鏡、一心白道

「一心如鏡、一心白道」という言葉があります。

一心鏡の如し
心を一つにし他念のない専念する心は、明曇りの鏡と静かな水面のようで邪念がない。

一心白道
白道とは、二河白道のことで、[火の河(怒りを表す)と水の河(貪欲を表す)の間にある、極楽浄土に通じる白い道]をさします。心を一つにし極楽往生を願う信心

現代社会は、ものが満ちあふれ、様々な情報も満ちあふれた、それらの洪水のなかにいます。そして、そのなかで身一つで泳いで対岸に行くのか、海原の中を小さな小舟で航行するのか。また、丈夫な橋を架けて渡るのか、大きな船で航海するのか迷うところです。
そしてそのいずれにしろ、様々なものが身に降りかかり寄り添ってくることから、一心に唯ひたすら心を尽くすことは難しいことです。

今朝、ポストに倫風というある社団法人の冊子が入っていまし。そこに朝の誓いとしての心持ちが書かれていました、その一つに「腹を立てず 不足の思いをいたしません」と書いてありました。
これも白道の怒りと欲に蓋をする不足の思いを持たず、唯吾知足であり、老子の、足を知る者は富ということでしょう。


知人者智、自知者明。
勝人者有力、自勝者強。
知足者富、強行者有志。
不失其所者久、死而不亡者壽。

人を知る者は智、自ら知る者は明なり。
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
足るを知る者は富み、強めて行なう者は志を有す。
その所を失わざる者は久しく、死して而も亡びざる者は寿し。

ひとのことが分かる者は智者で、自分のことが分かる者は明者で、物事に明るく頭の働きの鋭い人である。
ひとに打ち勝つ者は強いが、自分に打ち勝つ克己を持っている者が本当の強者という。
足を知るものは自ずから失わないので富む、勤めて足を知るものは必ず志を遂げられる。
自分の居場所を失わない者は長続きする。死でも亡びることはない、道のままに生きた者は長寿である


「足を知り分に安んず」と言う言葉があるように、現在の境遇を自分に見合ったものとして不満を抱かないことが、とどのつまりは目的が成熟し豊かになり長続きするのでしょう。

同じことを言っても、賞賛される 避難される

「呂氏春秋の有始覽 聴言」に次のような話がある。

もし人が「あそこの家には財産が多く、家の塀も低く鍵もちゃちだ。番犬が死んだら、あそこ野壁に孔をあけて盗みにはいれるぞ」
と言ったら、必ず非難されるだろう。
しかし「あの国は飢饉だ。城壁も低いし、軍隊も柔で装備も時代遅れだ、襲えば征服できるぞ」
と言っても、非難されないだろう。
同じことなのにおかしな話だ。

この話、現代では他国を攻め落とすことは許されないですが、戦国の時代では間違ったことではないとされました。それよりむしろ宜しきこととされました。
それは、中国に限らず日本の戦国時代もそうであり、西洋の列強の国は帝国主義時代に植民地政策を進め、植民地先の住民の抵抗を悪としました。日本の太平洋戦争が終わるまで、帝国主義を押し進めることは賛美され続けました。

しかし、今は180度考えの方向が変わり、その考の帝国主義的な考えは悪とされます。
しかし、テロとの戦いは正義のための戦争といい、集団的自衛権などといい、積極的平和主義といい、自分たちの行動を正当化しようとするのは、昔も今も変わらないようです。
私はとくに、積極的平和主義の定義がよく分らないのです、非武装中立ことが積極的に平和へ向けての活動始りだと思うのでが、武器を持って平和を作っていこうとするのは、織田信長の「天下布武」とあまり変わらないようだし、それが進んでゆくと金正恩の「先軍領導」となってしまう。

武力には武力で制するとする、「目には目、歯には歯は」の考えは、今の平和ボケした日本には通じるかもしれないが、グローバル化した国際社会では時代遅れに感じる。

荘子 徳充符編 足を切られた男 3

荘子 徳充符編 足を切られた男 3

魯の国に叔山無趾は、罪を犯し足の筋を切る刑にあた。
叔山無趾は、足を引きずりながら、孔子に学ぶため会いにやって来た。
孔子は叔山無趾に「君が身を節度をわきまえず慎まなかったから、刑に触れてそのように罰を受け、そのような姿になったのだ。いまさら私のところに来ても手遅れだ」と言った。
叔山無趾は「私は未熟で無分別だったので,足の筋を切られる刑を受けました。私は足よりも貴いものがあると思いそれを求めて参りました。だから私はそれを学びそれまで失ってしまわないように大切に守っていきたいのです。天はあまねく万物を覆い、地はどんな万物でも載せるといいます。先生はそうした天とも地とも仰ぐべきお方と思っていました。足切りの刑を受けた私をさげすむとは思いも寄らなかったです」。
それを聞いた孔子は謝って言った「これは私が悪かった、中に入って、私が知って入ることをお教えしよう」。
しかし、叔山無趾は立ち去った。叔山無趾が立ち去ると、孔子は弟子たちに「よいかね,教訓にしなさい。叔山無趾は前に犯した過ちを償おうと、勉学に励んでいる。ましてや欠けるところがないお前たちはなおさらしっかりとしないといけない」
無趾は老子のところに行き「孔子は聖人となるにはまだまだですね。どうして彼はあなたにつて熱心に学ぼうとするのでしょう。きっと物知りととい埒も無い評判を得ようとしているのでしょうか。そんな評判は自分の自由を束縛する手枷足枷なってしまうことに気が付いていないようです」。
老子が言った「生と死を一つの連続だと考え、可能も不可能も同じこととみる万物は一つだという原理に貫かれていると、彼に教えてやればよかったのだ。そうすればつまら束縛だということに気がつくだろう」と答えた。
無趾は「彼は天の刑罰を受けている、どうしてその束縛から解かれるでしょうか」と言った。


叔山無趾は自分の行いの過ちにきずき、それに対して反省し、自分はその過ちのためそれを一生背負って生きていくと考えるのでなく、だからこそ今までの生き方でなく、より貴い生き方を学ぼうと孔子の門を叩きました。
しかし、孔子はそれに対しての、仕打ちはむげもなく罪人だと言うだけで追い払いました。
そして、叔山無趾が本気で学ぼうとしているのを知ると、態度を豹変させ迎え入れようとするが逆に愛想をつかれると、弟子たちに罪を犯し足が一本ない叔山無趾ですら勉学に励んでいる。健常なお前たちは・・・・といい、障碍者や前科のあるものにたいして偏見の目でみています。

この話は、荘子に書かれているものですから、儒教と道教では互いに悪く言うので孔子のことを悪く書かれています。
しかし、この孔子が話したことを為政者の言葉として読むとまた、別のものが見えてきます。このような為政者が政治を行えばどのようになるでしょう。都合のよいことばかり公表し、自分の言ったことも時とともにねじ曲げ得筋を通そうとする。そうならないためにも目先のことに気を取られて、間違ってもそのような人を選ばないように気をつけようとおもいます。

刑罰により片足を切られた申徒嘉

更け待ち月

荘子 徳充符編 足を切られた男 2
申徒嘉は刑罰により片足を切られ不具者であった。彼は鄭国の宰相子産と共に,伯昏無人を師として学んでいた。
子産が前科者の申徒嘉を嫌って言った「私が先にここを出るときは,君は席にいてくれ。君が先に出るときは、私は残って後にでる」。翌日、申徒嘉と子産の二人は同じ建物のの中で出会ったで。子産が言う「自分がここを先に出るときはこ、君はここにいてくれ。君が先に出るなら、自分は私は残る。私は今ここを出るので、君はここに残ってくれるか、それともいやかね、君は一国の宰相に対して遠慮がない、君は宰相の私と同じ身分だとでも思っているのかね」。
申徒嘉が言う「伯昏無人先生の教えは、君の言うようなものでは無いはずだ。君は自分が宰相であることで驕り、そのため人より先生の教えを学ぶのが遅れているようだ。『鏡明らかなれば則ち塵垢止まらず、止まれば則ち明らかならず』という言葉がある。長いあいだ賢人といっしょにいる者は、過ちを犯さないようになるというが、君は先生を尊敬して学んできたというのに、まだそんなことを言っているのかね、君はそれがひどい過ちだとおもわないのかね」。
子産が言う「君は罰を受けて足切りの刑にあっているのに、君はなお堯より大聖人になろうと思っているのかね。君の姿そのものが,君の過去の過ちを映しているではないか反省はできないのかね」。

申徒嘉が言う、「自分で犯した罪を弁解して、自分の足は切られるべきではなかったと愚痴を言う者は大勢いる。一方で,私のように自分の不品行を隠し立てしないで,足切りの刑にあって仕方ないとする者は少ない。運命は人の力ではどうしようもないことを悟り、それを受け入れ従うのことが出来るのは、徳のある人だけができることだ。

有名な弓の名人のゲイ(羽+廾)が弓を引く的の前で遊ぶなら、その的の真ん中に立っていれば当たらないことはない。しかし当たらない幸運なこともあるが、それが運命というものだ。世の中には、私の足のないことをあざ笑う、足のある健常者がたくさんいる。私はそれが実に腹立たしく思うものだ。だが、伯昏無人先生の下で学ぶと、それを気にすることがなく平常な気持ちになる。伯昏無人先生が備えておられる徳が、私の心の中を綺麗に洗い落としてくれるのか、先生の教えで自分が悟ることができたのか。何れにせよ、伯昏無人先生に学んで十九年になる、今は自分が足きりの形を受け、足がなく体がまともでないことを気にしたことはない。君と私とは形骸を越えた精神の王国を逍遙しているというのに、君は形骸にとらわれた視点から私を観ている。それは誤りではないのかね」
それを聞いた子産は今までの態度を改めて申徒嘉に言った「わかった、それ以上何も言ってくれるな」。


なんか、この話を読んでいていまの政界のことを頭に浮かべる。今の国会は自民党の一党支配のように、多数を占めて驕っているし、与党も野党も互いに悪口ばかりいっていいる。自民とも野党時代に協力しなかったのに、与党になって野党に協力しろと急き立てる。野党も自分のことばかり考えて、楊枝で隅をつつくように相手のミスにつけ込む。
この構図は、いっこうに国民のことを考えていないことから来るものでしょう。特に最悪なのは、以前の自民党と変わってしまったことです。自民党が再び政権の座に着いたとき、以前の自民党と変わったといいました。確かに変わろよくなった所もあるのですが、今までそれぞれの派閥が互いに牽制しあい、政策の暴走などの歯止めなりました。いまで、集団的自衛権の憲法解釈や、機密保護法などに対して、考えの違いがあるにはあるのですが、それに対して互いの意見が戦わされるのでなく、今の政権の流れの一本に流れ込んでしまっているようです。
国のあり方というものは、国民主権に基づいた立憲主義であるべきものです。

形骸を越えた精神の王国を逍遙すべきで、形骸にとらわれた視点から、ものごとをおこなっていくべきではないでしょうか。

荘子の「罰として足を切られた男」の話

居待ち月

荘子第五 徳充符篇に次の話がある。

魯の国の王駘は,刑罰で足を切り落とされて片足がなかった。有徳の人望は厚く王駘に学ぶ弟子は、孔子に学ぶ物に匹敵するほどに多かった。
常季は孔子に尋ねた、「王駘は足を切られる刑を受けた者なのに、弟子入りする者の数は、先生と同じように大勢います。彼は教壇に立つわけでもなく、座って議論を戦わすこともありません。それなのに、彼のもとに訪れる弟子たちは何の見識や考えを持たずに尋ねても、必ず心を充実させ帰っていくのです。言葉なくして教えると言う言葉があります。形にあらわれないでも心を動かすところがあるのでしょう。いったいどんな人物なのでしょう」
孔子は答えて「彼は聖人だよ。私はまだあの人のところに訊ねていないが、ただ行きそびれているだけだ。私ですらその人のもへ訊ねていき、師と仰ぎたいぐらいだ。まして私に及ばない人たちならなおさらのことだ。いや、私は魯の国どころか世の中の人々を引き連れて彼のもといたい思いだ」
常季は言った「彼は足を切られる刑を受けた者ですが、先生より優れていると言われます。そうすれば、私たちのような凡人またはるかにかけ離れています。もしそうだとすると、いったい彼の心の動かし方や持ち方どのように磨いているのでしょうか」
孔子は答えて「生死は重大な問題だが、彼はそうしたことに心は動かされない。天が覆り地が裂けて落ち込んでも、彼はそれと一緒に動揺して落ち込んだりすることはないだろう。言うならば天地自然の実相を深く見きわめ、周りの現象に惑わされることなくあらゆる事物を受け入れ、それらの現象の根源に身を置いているのだ」。
常季は問うた「それはどういうことですか」
孔子は答えて「物事はそれぞれ違うという観点から見ると、身体のなかの肝臓と胆嚢と違いでさえ、楚と越との国の隔たりの差がある。また、共通した点から見ると、万物は全て同じものだといえる。そもそも彼の様な者は、見えるものや聞こえてくるものから、快不快を感じて心が揺り動かされることはない。その見聞の心を徳の調和した境地に遊ばせている、万物についても同じでその本質を見抜いて、表面に現れる移ろいの変化に気が惹かれて見ていない。刑罰で足を切られなくなったことなど、土塊が落ちたことぐらいにしか思っていないのだろう」。
常季はさらに問う「彼はわが身の練成し修養することにより、自分の知恵で自分の心を把握し、自分の心で一定した本心を把握しました。ということは、自己練成に限られるのだが、世間の人は彼の周りに集まってくるのはどういうことでしょうか」
孔子は答えて「人は流れる水を鏡にはしない、鏡にするのは流れていない静止した水に身を映す映す。ただ変わりなき静止している心だからこそ、他の多くの静止を求める者を止められるのだ。大地から生命を受けたものを見てみると、松と檜は正統なもので、松と檜とが夏も冬も青々としている。天から生命を受けたものだと舜だけが正統な人なのだ。だから幸いにもその正しく保つ人生の中で、他の多くの人の人生を正しく導くことができたのだ。そもそも根源の立場を守っていけば、世間の騒ぎにたいしてびくびくしない。例えば、勇士が一人で勇敢に大群の中に突入するということがある、名誉を欲しがりそれに執着するとそうである。天地を意のままに扱い、万物をわがものとして、直接わが形骸を仮の宿とし、耳目の感覚を泡沫のものとし、あらゆる知的認識を統一づけて、精神的に死を超越している者では、なおさら何をびくびくすることがあろうか。彼は人はそのうち吉日を選んで昇天するであろうが、人々の方ではやはりそこまでもついていこうとするであろう。世間の人や物ごとに気を惹かれたりすることを、彼はどうしてするものか」。

この話、足を切り落とす刑とは、いくら悪いことをしてもこの罰はひどい物と思います。また、そのような罰をうけるのですから、なにやら悪いことをしたのでしょうか、それとも体制に反対して懲らしめられ、その人が移動して学説を流布できないようにするためでしょうか。

それはともかく、そのような人に人が集まる、しかもいろいろと説教や講話をするわけでもなく、だけど集まったひとは癒されみな、集まった人は帰るときみなニコニコした顔をしているのでしょう。
私たちの周りをみまわすと、ごくごく普通の人で特になにかに秀でているとかいうでもなく、いろいろな知識があり有り難いことを教えてくれるでもなく、有名で多くの人が注目しているでもない、そのような人がいます。ただただ日常を坦々と欲もださず日々を素直に過ごしている人がいます。きっとそのような人でしょうが、最近そのような人がいなくなってきたように思います。

無用の用

今日の月の呼び方、十六夜(いざよい)    彼岸入り

荘子の人間世編に次のような話があります。

石という大工の名の棟梁が、斉の国の曲轅というところを通りかかると、櫟社の神木の檪(クヌギ)の大木を見た。その大きさは数千頭の牛を隠すほどで、高さは山を見下ろすほどで、枝は地上から七八十尺のところから出ている。その枝はどれも舟を作れるほどの太さが幾十本とでていいた。石の弟子たちはその檪の木に見とれてた。しかし棟梁の石は見向きもせずに行ってしまった。弟子たちは棟梁に追いつくと問うた。「わたしは、今までこんなに立派な木をみたことがありません。だのに、師匠はどうして見もせずに通り過ぎたのですか」。棟梁の石は答えた「あれや役立たずの木だ、あれで舟を作れば沈む、棺桶を作ればすぐに沈む、道具を作ればすぐに壊れる、門や戸を作ればヤニが流れ出す、柱にすると虫がわく。まったく使い道のない役立たずの木だ、だからあんな大木になるまで伐られることなく長生きできたのだ」。

そして、棟梁の石が旅を終えて家に帰り夢を見た。櫟社の神木が夢にあらわれて、次のように告げた「お前はいったい、この自分を何と比べているのか、お前はおそらく役に立つ木と比べているのだろう。いったいサンザシやナシやミカンやユズなどの木の実や草の実などは、その実が熟すとむしり取られたり、もぎ取られたり、大きな枝は折られ小さな枝は引きちぎられる。これはそれらの実が人の役に立つからだ。その人の役にたつことがかえってわざわいして、その自分の生涯を苦しめることになっているのだ。だからその木や草は本来持っている自然の寿命を全うできないで、途中で若死にすることになるわけだ。自分から進んで世俗に打ちのめさせられるのを求めているようなものだ。よのなかの多くの物事はたいていこういったことだ。ところで私は昔から、役に立たない無用なものになろうとしてきた。死に近づいた今ようやくそれが叶えられ、無用の大切さが自分の今にとって大いに役立つことになっている。しかし今まで自分が役に立つ木であったとしたら、とてもこんなに大きな木にはなれなかったでろう。それにまた、お前も私もしょせんこの自然の中の一つの物でしかない。それならどうして自分以外の相手を物あつかいにできようか。お前のような役立たずの死に損ないに、私のようなこの役立たのことがわかるものか」。
石が目を覚ますと、この夢の話を弟子に聞かせた。
すると弟子が「自分から無用で有りたいと願っていたのに、社の神木になったのはどうしてでしょう」。
石は答えた。「静かにつまらないことを言わないほうがよい、あの檪の木はただ神木の形を仮ているだけのことだ。それをわからない者がとやかく言うのが、あの檪の木はうるさいと思ったのだろう。あの檪の木は神木とならなくても、人間に刈り倒されることはないだろう。それにあの檪の木の考え方は、我々の考えとは違っている、それを我々の一般の考えて、とやかく言うのはとんでもない見当違いだ」。


この話は何が言いたいのだろうか。
無用なものこそ利がある。私たちの今の世の中、無用なものは切り捨て、有用な物だけを残そうとする風潮があります。しかし世の中にはその無用を取り除くとかえって害をまくこともあり。無用なものがかえって重要な物もあります。
例えば車のハンドルの遊びや、制動装置であるブレーキペダルの遊びなどは、その一見無用に見える遊びがあるからこそ、ハンドル捌きが滑らかになり、ブレーキの効きもスムースにできます。

また、お菓子のドーナツのあの真ん中に孔あるから、ドーナツなのです。あの何もない孔の空間がもったいないと、埋めてしまうとそれはドーナツでなくなってしまいます。
ドーナツのこんな話、役にたたないから、無用きわまるものだと思ったら、荘子に次のようなはなしがあった。

「無用を知ってこそ用も語ることができるのだ。地面は広くて大きいが、人が立つには足を置く余地だけがあったら事足りる。だからといって、足の周りの地面を取っ払ってしまったらどうなる。それでも足下の地面は用をなすだろうか。それでは用をなさないだろう。ということは無用が実は大きな用をなしていることになるのだ」


高度に科学技術が発展し、無駄なものが省かれていく時代です。不景気が長く続いて、国や自治体では財政の切り盛りが難しく、無駄だとか不要だとか不効率だ無用だとして、切り捨てられているものがあります。それらは、文化事業であったり、福祉であったり、教育であったりまた、本当になぜその施策や事業があるか判らないものもあります。そして、それらを切り捨てしまうのがよい、今は不景気だから経済発展のためにその資金を投資して財政が潤ってから、文化や福祉にお金を回したらよいという人もいます。
しかし、生身の人間が生きていく活力は、経済発展への活力だけが全てではないです。無駄のように思えなぜそれがあるか判らないものでも、それが出来たときは必要だからできたのです。周囲の環境によって不要になったものは、別のことに置き換えていくのがいいでしょう。しかし、中には必要性が感じないだけで、無くなると不便になるものもあるでしょう。
ただ、無駄なもので特定の一部の者だけがその恩恵や利益をえるのは、それは無駄でなくそれが食い物にされているので、取り除いてしまうか公平になるように改めていくべきでしょう。

不要なもの不効率なものを切り捨てようという流れがあります。文化事業などで人との繋がりや交流により絆が深まり、人は活力を得て生き甲斐を感じ元気になるものです。

いまこそ、無用と用を考え直してみようと思います。

道は天地の形外有るに通じ

程頤 中国の儒学者の詩につぎがある。

「偶成」
閑来たりて事として従容たるざるは無く
睡りより覚むれが東窓已に紅し
万物静観すれば皆自ずから得て
四時の佳興人と同じ
道は天地の形外有るに通じ
思いは風雲変態の中に入る
富貴にして淫せず貧賤にして楽しむ
男児此れに熱すれば是豪雄なり


暇ができれば揺ったりと落ち着かないことはなく
東の窓から射し込んだ日は赤く染まるまで眠れる
道は天地の形があるものとそれ以外のものとも通じている
思考はさまざまに変わる雲や風の中にまで入ることができる
裕福でも乱れず、貧しくとも楽しい気持ちであれ
これを真面目に努める保つことは人として豪傑と言える


偶成  詩歌などが、ふとしたことからできあがること。また、その作品。偶作。

程頤 中国北宋時代の儒学者で、それまでの陰陽の二気を宇宙の原理「道」とするのではなく、「道」は陰陽の根拠・原理と同時に、陰陽の二気の働きにより創りだされた現象でそれぞれの事物の「理」と説くいた人です。

葡萄を母にをくる事

見ぬ世の友 仮名草子 明暦版

葡萄を母にをくる事   事文
唐の高祖。群臣をあつめて御前にめし。各々ぶだうをたまはり。くいけるに。その中に陳叔達。ひとりこれをしよくせず。帝その故を問。答て云吾母やまひ有て。口かはきけり。つねつねぶだうをもとむるに。不得今さひわいに。これをたまはる。帰りて母にをくらんためと答へたてまつる
唐の初代皇帝高祖が、ある夏の夕べ、多くの臣下を招いて季節ものの瑞々しいブドウが振る舞われた。多くの臣下は、みな敬って戴いたが、陳叔達は、これを眺めるだけで食べようとしない。高祖はいぶかって、「なぜ陳叔達、食べないのか」とわけを問うと、陳叔達のいうのには、「私の母は久しく患っています、いつも口の中が渇くと訴えている。しかしこれを癒すのにブドウを探していたが、見当たらなかった。母に先んじてこれを口にするのは、しのびないです」と答えた。


このところ家族の絆について取りざたされますが、まさに親孝行な話です。
この話の出典の「見ぬ世の友」は、「見ぬ世の人」という言葉がありますが、それは書物などで読んで知っている古の人のことです。この書は「友」としているから単に書にで読んで知っているだけでなく、親友として付き合うべく、このような人であるべきだろうという編者の思いがこの「見ぬ世の友」と下のであろう。

これと同じ話が、旧唐書・新唐書の列伝に枇杷の話として書かれているようですそこには「陳叔達の話を聞いた高祖はその孝行な心に感じ、その枇杷を残らず与え、侍医を遣わして、その病に治療に当たらせたとある。

自民党の改憲草案の前文に次のようにある、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」。そして、道徳の授業を教科として位置づけ、人の道徳観や道徳心を評価して優劣や善悪をつけかねない動きあります。

学校現場では、このような「ぶどう」の話ではないですが、国語や古典の時間などで教わり、道徳の事業では各自治体の教育委員会などが作った道徳の副読本などに、もっと具体的な身近な話があげられています。そのようなことをみると、なにも前文に書くことはないと思います。

そして、よく改正案を読むと「大日本国憲法を」参考にしながら、思いつきで書いたのではないかと穿ってしまいます。中学生や高校生の方が、遙かに立憲主義に根ざし民主的で、人権に重きを置いたものを作ると思うほどです。

無用の用

無用の用

惠子謂荘子曰 子言無用
荘子曰 知無用 而始可與言用矣 夫地非不廣且大也 人之所用容足耳 然則廁足而■[執+土]之 致黄泉 人尚有用乎
惠子曰 無用
荘子曰 然則無用之為用也 亦明矣、

惠子が荘子にいった、あなたの話は実際の役には立ちませんね
荘子は答えて、役に立たない無用ということがよくわかってこそ、はじめて有用について語ることができるのです。いったい大地はどこまでも広々として大きなものだが、人間が使って役立てているのは足で踏むその大きさだけです。しかし、そうだからといって、足の寸法にあわせた土地を残して、周囲を黄泉にとどくまで深く掘り下げたとしたら、人はそれでもなおその土地を役に立つ有用な土地だとするでしょうか
惠子は、それじゃ役にたたないでしょう。」と答え
荘子は、してみると、役に立たない無用にみえるものが実は役にたつはたらきを持っているということが、今やはっきりしたことでしょう。

無用の用、「一見役に立たないと思われるものが実は大きな役割を果たしている」、と言うことです。世の中いろいろと、無用だとか邪魔だとかいうものがたくさんあります。しかしそれらが相互に影響しあって良き影響になったり、逆に悪い影響になったりします。そのうえ、一見悪い影響に見えるものでも、それらな何らかの形や時をへて良き方向にも少なからず影響を与えているものです。邪魔だからといって一度にそのものを取り除いてしまうと取り返しにつかないこちになります。

国会は、俗にいう「ねじれ」が解消され、一強多弱になってしまいました。弱小の多くのものは、巨人からしたら一見、五月の蠅のようにも見えるようです。しかし、その五月の蠅がいるからこそ、食べものに集らないように手で追い払い緊張感があるのでしょう。それが、殺虫剤を撒き蝿を一網打尽にしてしまうと。手で追い払うこともなく緊張感がなくなり、食べものに気を配らなくなり、放置され忘れてしまい食べたいと気がついた時はカビが生えているかもしれません。
弱小政党は、巨人にうるさくつきまとい暴走の歯止めをかけるように、己の利益だけを考えるのではなく、国民のためつとめてほしいものです。


去年の 2012-04-12 に 「無用の用」と言う記事を書き荘子の一説を紹介しています。
http://tikurinnnohoujyoann.blog.fc2.com/blog-entry-297.html
こちらは、車輪、器、建物の三つの例え上げています。

自然の本性に逆らってはならない

夫れ峭法刻なる者は 霸王の業に非ざるなり。鞭策繁く用いる者は 遠きを致すの御に非ざるなり。離朱の明は 箴末を百歩の外に察するも 淵中の魚を見ること能わず。師曠の聡は八風の調べを分かつも 十里の外を聴くこと能わず。故に一人の能に任ずれば 以て三畝の宅を治むるに足らざるなり。道理の数に従い 天地の自然に因れば 則ち六合も均しくするに足らざるなり。是の故に禹の涜を決するや 水に因りて以て師と為し 神農の穀を播くや 苗に因りて以て教えと為す。
淮南子 原道 六 劉長

法や刑罰を厳しくするのは王なる者がすることではない。御者が遠路を鞭で厳しく打って進むことをしないように。離朱の目は百歩先の針の先を察知したが、水辺の魚を見ることができなかった。師曠の耳は八方の風音を聞き分けたが、十里先の音は聞こえなかった。すなわち、一人の能力に頼っては、一つの家も治めきれないのが道理である。天地の自然その有りのままを尊重してすすめるなら、天地自然も穏やかの平らになる。兎は洪水を治めるのにその水の性質を師とし、神農は穀物の種を蒔くのにその苗から教えを乞うた。


このことは国の君主だけにいえることでなく、日常の生活に於いてもいえることであり、特に物事の指導者にとっては重要な教えでしょう。
会社の経営や学校の部活動等で、失敗したからとかやり方が間違っているからとかで、その人たちを厳しく処罰したり処分するのは、その人のやる気をなくし組織自体も萎縮してしまうものです。その上ここにかかれているように、多くの人の能力を集め聞き入れることが大切であり。また、天地の自然の原理に教えを請い従うことが大切なのでしょう。


このあと、淮南子には次のようにかかれています。
浮き草が水に根を浮かべ、木が土に根を張り、鳥が空を飛び、獣が地面踏んで走るなどは、自然の本性でそれに従うのがよい。すべてのものが自己に相応しいものを手に入れ、その場に落ち着くのである。だから、聖人は自然ものにその存在を無視して手を入れたり加工しないのである。と書いてあります。

このことを考えると政治も同じで、先の参議院選挙で自民党が大勝したのは、自民党が支持され大勝したのではなく、民主党などの野党が烏合の衆と化して余りにも自党の票のことを考え、本来のその党のあり方を逸脱してしまったから、市民の心が離れてしまったのでしょう。


そして、最後の淮南子は次のように纏めています。
樹木を移植しようとする時、その自然の本性に逆らってしまうなら、樹木は枯れてしまう。物本来の形や在り方の本性は変えることが出来ないものである。それに相応しい在り方や環境の中でしか活動する事はできない。つまり、物事を行う正しい道にたいし、深くその道を知っている者は清らかに静けさに変えることを大切にしている。とある。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

数に任ずれば労すれども功無し

淮南子 巻第一 五
        劉長

夫れ大道を釈てて少数に任ずるは 以て蟹をして鼠を捕らえしめ 蛙に蚤を捕らえしむることに異なることなし 以て姦を禁じ邪を塞ぐに足らずして 乱すなわち逾々滋し 昔し夏の鯀九仞の城を作るに諸侯これに背き 海外を狡心有り 禹天下の叛くを知るや すなち城を壊ち職を納る 諸侯を塗山に合むれば 玉帛を執る者万国あり。
故に機械の心 胸中に蔵すれば 則ち純白の粋ならず 神徳全からず 身に在る者すら知らず 何の遠きをかこれよく懐くれる所ぞ 是の故に革堅kれば則ち兵利く 城成れば則ち衝生ず 湯を以て沸けるにそそぐが若くして 乱すなわち逾々甚だし 是の故に猛犬を鞭うち 暴れ馬を策ちて 之を教えんと欲すれば 伊尹・造父といえども化かすこと能わす 肉せんと欲するの心 中に亡ければ 則ち飢虎も尾す可し 何ぞ況や狗馬の類をや 故に道を体する者は逸すれども窮せず 数に任ずる者は労すれども功無し。


大道をすることを停めたり棄てて、目先のことだけに捕らわれて行うのは、カニに鼠を捕らせるようなもの。カニに鼠を捕らせると逆に、ネズミはカニを食べてしまいまったく逆効果、悪い災いを被ることになってしまいます。
昔中国の夏の鯀が大きな高い城を築いたところ、周囲の諸侯が敵国などの通じるものが出てきた。これに気づいた息子の禹は、城を建てるのをやめ堀を埋め、財宝を放出して武器を棄て恩徳の政治を行ったところ、周囲の諸侯はみな従い献納が絶えなかったという。

この部分を読んでいると。今の日本の様子を諭しているように思える。
先の世界大戦で強靭な帝国を築こうとしたが、激しい抵抗の合いました。そして日本は戦争に負け武装解除しました。それにより戦前以上に経済は発展しました。主権は国民による政治を行い自由と平等で人権が保障される国になり、諸外国からも高い信頼と評価を得ることができました。しかし、ここ10年程前から、再び大きな城を築き始めたころから、周辺諸国から見る目は嶮しくなってきました。そして、国の外だけでなく国の内も同じように国民の生活が今までと違う方向に歩始めているようです。

淮南子では、いろいろと才知をめぐらした行いになってくると、本来あるべき純白の心は穢され、今まで持っていた徳や信頼も綻びが出てきてしまう。そして、ますます自分の身を保つために才知をめぐらすと、本来のことに気を配ることができなくなり、ひいては周囲の人からも見放され信頼が失われてしまう。
そしてますます。周囲と険悪になり甲冑を堅固にすると相手の剣は鋭利さをまし、城を高く築くと相手は城を攻め落とす方法を考えてくる。
それは火に油を注ぐようなもの、油に水を注ぐようなもので事態はますますひどくなる。
暴れ馬を調教するのに、やたらと鞭を使いますます馬を調教できなくしてしまうようなもの。食べてしまおうといく気が無ければ、飢えた虎でさえ連れ歩くことができる。ましてや犬や馬となればそれを知っていれば調教はたやすいことである。
それと同じことで、大道を十分理解しているなら必要以上のことをせず、いろいろと小技をつかい才知を巡らすことをしない。逆に言うと小技を使ったり才知を巡らすことは余分な気苦労をするだけで得ることはなにも無い。

参議院選挙の結果がでましたが、選挙演説でも国民が一番知りたいことを話さず、耳障りのいい言葉や目先の良い結果だけをとなえ、これからの政治の課題は国民がよくしっていると話題にしなかったです。
このことなどから、今の政治家誰にも読ませたいことばです。特に今大きな権力を握っている人に読ませたいです。

書は言を尽くさず、言は意を尽くさずと

人に物事を頼むとき、言葉でその意志を伝えて依頼します。例えば、コーヒーを飲みたくなったら、家の者に頼み、喫茶店なら店のマスターに頼みます。そうするとコーヒーはコーヒーカップに注がれてテーブルの上に出てきます。黙って自分でコーヒーメーカを使っても、コーヒーを飲むことができます。それでは、人に言葉でコーヒーを入れてくれるように依頼するのと、コーヒーメーカを使って自分で入れるとのとどれだけ違うのでしょうか。

そこで言葉は『機械』と言えるか? この問いに、

機械は使い手が自在に動かすことができるが、言葉は確かに物事を動かすことができる。しかし、それは往々にして自在に操ることはできない。人に意志や考えを伝達して、物事を成し遂げていくのだが、その中で意志の疎通に差がああり、時に行き違いになり思わぬ方向に向かうこともあるのが言葉です。

易経に次のようなことばがあります。
「子曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさずと。」

文字では言いたいことは書き尽くせないし、言葉ばでは心に思っていることは言い尽くせない。
孔子は、易が文字や言葉では表現できない奥深い意義を持っていることを言いたいのです。

吉川幸次郎博士は「言は意を尽くさず」ついて次のように言っています。
「『言は意を尽くさず』というように、言語は、実体の部分的な指摘でしかない。言語の指摘が、実体を懸命に追跡、模写しようとすればするほど、指摘にもれたおおわれざる部分が増加するというおそれが、孔子にはあったのではないか。」


この言葉は、「易経」の繋辞上伝にあります。
「易に曰く、天よりこれを祐く。吉にして利ろしからざるなし。子曰く、祐とは助なり。天の助くるところの者は順なり。人の助くるところの者は信なり。信を履み順を思い、またもって賢を尚ぶなり。ここをもって天よりこれを祐く、吉にして利ろしからざるなきなり。
子曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさずと。然ればすなわち聖人の意は、それ見るべからざるか。子曰く、聖人は象を立ててもって意を尽くし、卦を設けてもって情僞を尽くし、辞を繋けてもってその言を尽くし、変じてこれを通じもって利を尽くし、これを鼓しこれを舞しもって神を尽くす。」

易の「天よりこれを祐く。吉にして利ろしからざるなし」について、孔子は次のように言っている。祐とは助けるという意味であり、天が助けるのは天道に素直で天道に逆らわない人で、人が助けるのはまじめで偽りのない誠実な心な者である。易は、信実の徳を履み行い、天道に素直で逆らわないことを思い。さらに位が低くても賢人を重んじ大切にすることを心がける、そうであるから「天よりこれを祐く。吉にして利ろしからざるなし」と言う。
孔子は、文字に書き表したことは、言わんとしたことを書き尽くせない。口で言葉に言い表したことも心に思っていることを表し尽くせない。と言っている。
となると、易に書かれていることも、聖人が言いたい真意を読みとり尽くすことができないだろうか。このことについて孔子は次のように言っている。聖人は易を作るに当たって、八卦の思い描く象をたて、言葉では言い尽くせない内に秘められた深い意味を巡らし尽くし、さらに六四卦を設け、物事の表裏と真偽を注意深く探り、辞を繋けて言いたいこと思うことを尽くし、物事の陰陽の変化をみてその道理の流れを注意深く観尽くす。このことにより人を励まし奮い立たせ勇気の力の源がでてくる、これが易の人知では考えられない不思議な作用を尽くしたことになる。


世の中には根っからの悪人はいないでしょう、ほとんどの人は善人です。それでは善人どうしなのになぜ、いざこざが起きるのと、いえば、文字やや言葉によるやり取りによる、行き違いがあるからです。その行き違いが積もり積もって、引き返すことのできない誤解を生みそれが憎悪になり、争いになっていくのでしょう。
自分の生活の隣でも、日本の国内や隣国とも、地球のあらゆる、ところでいろいろな行き違いがあるようです。
言葉というものは、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさずと」。言われるのでだからこそ、「聖人は象を立ててもって意を尽くし、卦を設けてもって情僞を尽くし、辞を繋けてもってその言を尽くし、」さないといけないのでしょう。

テーマ : 名言・格言・ことわざ
ジャンル : 学問・文化・芸術

心が落ち着きがないと、動作が淫らになる

佐藤一斎は言志後録で、中国 明の儒学者で陽明学の祖である、王陽明の言葉を挙げて、次のようになことを言っています。
  



心躁なれば則ち動くこと妄
心蕩なれば則ち視ること浮
心歉なれば則ち気うえ
心忽なれば則ち貌惰たる
心傲なれば則ち色傲る

昔人嘗て此の言有りき、之を誦して覚えずてき然たり


 心が騒がしく、落ち着きがないと、動作が淫らになる。
 心がだらしなくなると、見えるものも視えなくなり浮ついてしまう。
 心に足ることを知らないと、気力も衰え縮まってしまう。
 心が留守になると、顔も形もだらしなくなってしまう。
 心が驕ると、その顔や言動に驕るところがでてしまう。
 自分はこの言葉を聞いて、深く慎まないといけないと痛感した。と。

これらのことも、自分を常に清めないといけないという意識を持たないといけないと言うことでしょう。

「心が躁なれば」の躁を新漢語林で引けば、はやい あわただしい 落ち着きがない 悪賢い 手荒い などの意味がのっています。熟語には「躁然(そうぜん騒然)」「躁擾(そうじょう騒擾)」「焦躁(しょうそう焦燥)」とあります。
気持ちが落ち着かず、行動が不安定でいると、その結果も不安定で好ましくないものになるでしょう。

蹴り癖のある馬の見分け方

中国の古典「韓非子」に書かれているお話です。

韓非子 説林下  第二十三

蹴り癖のある馬の見分け方
伯楽が二人の男に蹴り癖のある馬の見分け方を教えた。
二人は伯楽の教えを確かめようと、一緒に趙簡子の厩に行き馬を観察した。
一人が教えに従って馬を診て、この馬は蹴り癖があると指摘した。別の男が馬の後ろの方からついてまわり、三度馬の臀を撫でてみた。しかし馬は後ろ足を蹴り上げなかった。
前の男が自分の見定めが誤っていると思った。そうすると、別の男がやってきて言った「君の見定めは間違ってはいない。この馬の前脚をよく視ると、足の付け根が縮んで膝が腫れ上がっている。馬が後ろ足で蹴るには、前足で体を踏ん張って支えことにより、後ろ足で蹴ることができるものだ。ところが、膝が腫れていては体を前脚で、支えることは出来ない。だからこの馬は、後ろ足を上げることをしなかったのだ。君は蹴り足を見定めることは巧みだが、膝の腫れを見抜くのを忘れていたのだ」。と。
そもそも、ものごとには物事がいろいろ絡み合って一つの結論がでるものだ。そこで、腫れた膝というものがあって体を支えられないということは、道理を知るものであったらはじめてわかることである。
恵子は「猿も檻の中に入れられたのでは、豚と同じだ」と言った。
だから、情勢をよく観察しないと不利になり、その能力を十分に発揮することはできないものだ。


何事も一面だけを見て判断してしまうのは危険なことです。林の中に入って木を見て、林は何処だと叫んだり。鹿を追うもの山を見ずという言葉もあります。また、二人の盲人が象を見たときの話もあります。
どれだけの観察眼と多くの情報からその的確な整理が必要になってくるでしょう。
今の世の中、この蹴り馬のように一つの情報だけしか得られないことはなく、逆に情報が氾濫しています。しかもその情報の中には不確かなものも多く、また、故意にねじ曲げられたり誘導させるようなものもあります。それに惑わされないようにするには、己の考えを持ち芯をぶれさせないようにして、多くの情報を整理することが大切だと感じます。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

天の欲と人の欲 

天の欲と人の欲  呻吟語

有天欲 有人欲 吟風弄月 傍花随柳 此天欲也 
声色貸利 此人欲也 
天欲不可無 無則禅 
人欲不可有 有則穢 
天欲則好底人欲 人欲即不好底天欲 

欲には天のものと人のものがある。風と歌い、月と遊び、花を傍らに、柳に随う、これは天の欲である。
名声、色、利子を貪るのは、人の欲である。
天の欲は持つべきであり、持たないならば、禅となってしまう。
人の欲は、持つべきでない。持てば、穢れる。
天の欲は、人が持つべきものであり、人の欲は、天の欲ではない。


仏教の世界観に苦しみと迷いの世界の、欲界、色界、無色界の三界があります。欲界は下界であるこの世の、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲があります。そしてその中に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道があるとされています。
色界は性欲・食欲・睡眠欲の三欲を離れた命のあるものが住む、汚れや濁りなどがなく澄んでいて美しいところとされています。
そして、無色界は最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界といわれています。

呻吟語のいう天の欲と人の欲の、天の欲は最高処を有頂天というのでしょう。
しかし、人の欲で俗界で欲を貪ると俗界の有頂天外となってしまうい、我を忘れてしまう
天理にそった人欲こそが、本来人が求めなければならない人欲でしょう。しかし、なかなか人は人の欲を避けて進むことは難しいです、そのうえ物質文明にあふれている、発展したところは煩悩欲の方がまさり、天理の欲が忘れられてしまっい、それが正しいとして突き進むことがよいことだと思ってしまっています。しかし、それに対してどんな天から誅が伏されるかと思います。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

後を見るのは難しい

  見前面之千里 不若見背後之一寸
  故達観非難 而反観為難
  見見非難 而見不見為難
  此挙世之所迷 智者之独覚也
   呻吟語 呂新吾

前は千里先まで見ることができるが、後ろは、一寸を見るのも難しい。
故に、広く見渡すことは難しくはないが、内面を見抜くのは難しい。
見ることができる所を視るのは易しいが、見えにくいところを視るのは難しい。
これは、世の人の迷うところである、智者は、そのことを独り肝に銘じている。

この言葉について改めて付け加えることはないでしょう。
私のような凡夫は、先のことも見ることができないので、過去のことを正しく反省することは、いろいろな迷いや欲があって難しいです。
人を指導する立場にある者は、人の隠れているよい面を見抜きそれを引き出すことが出きる人です。

体罰のことが話題になりましたが、特にスポーツの指導には、その人の個性や技法や体力などを欲見きわめて、本人も気がついていない隠れた特性を引き出すことが必要でしょう。それを、全体のことだけに捕らわれて、指導するのはその人の指導力の資質がことではないでしょうか。

世阿弥の著した「風姿花伝」にも書かれています。
「七歳の稽古は、自然とし出だす事に 得たる風体あるべし。」そして、「十二三歳の稽古は、やすき所を花に当て 態を大事にすべし 働きをも確かに」。
その年々の成長にあった基本を大切にしないといけないと、そして、最後に、風姿花伝の序でいった、「稽古は強かれ、情識はなかれ」と、稽古修行は一所懸命にし、驕り高ぶった道理のないことは慎めと強調しています。
今から600年ほど前に書いています。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

人形の顔の作り方

中国の古典「韓非子」に書かれているお話です。

韓非子 説林下  第二十三

人形の顔の作り方
桓赫は言った。「人形の顔を彫るには、鼻は大きいに越したことはなく、目は小さいに越したことはない。
鼻は大きければ小さくできるが、小さく彫ってしまえば大きくはできない。
目は小さければ大きくできるが、大きく彫ってしまえば小さくはできないものだ」。
万事ものごとを行うにも同じことが言える。やり直しのできないことをするように慎重にしたなら、ものごとは失敗も少ない。

このことは改めて、付け加えてなにか言うこともないまでのことです。
どのような事にも余裕を持たせることは必要です。鼻を小さく彫り、目を大きく彫れば直すことができなくなります。このように余裕の持たせ方が間違っていたら、どうすることもできなくなってしまいます。このどのように余裕を持たせるかは、深い洞察力と多くの経験などから自分の身に付けてゆくものでしょう。
このことは、人形作りのことだけでなく、人間関係や仕事のことや商売のこと、さらには政治経済や国と国の外交のことにも言えることでしょう。

政治家はどは特にこの余裕の持たせ方考えてほしいものです、さいきん公正や効率などを追い求めすぎこの余裕がなさすぎるように思います。
国を守るためでなく国民である人を守るための代表者である政治家だということを忘れないでほしいものです。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

弟子への教え

中国の古典「韓非子」に書かれているお話です。

韓非子 説林下  第二十三

弟子への教え
伯楽は、憎いと思う弟子には千里を走る足の速いすばらしい馬の見分け方を教え、気に入りの愛弟子には普通ののろい馬の見分け方を教えた。
千里を走る足の速い駿馬はまれにしかいないもので千頭に一頭いるかいないかである。一頭の儲けは大きいがその儲けはめったにないものである。
ところが、普通ののろい駄馬はそこいらにいて毎日売れて、一頭の儲けは少ないがその儲けは頻繁にあるからだ。
これこそ『周書』に言われている「卑俗な言葉で上流にも通用するのは、稀れだ」ということである。


この伯楽という馬の師匠はいささか人の、指導者としては質が落ちるのでしょう。
しかし、往々にしてこのような依怙贔屓は、意地悪をしてやろうという気があるなしに関わらず、なにがし出てきたりします。人を指導する立場の人は得に気をつけないといけないでしょう。
世間でよくいわれる派閥というものは、その最たるものかもしれません。

学問の世界でも学閥とか言われ、人の命をあずかる医者の世界でも○○系の大学の医者が多い病院とか、スポーツの世界でもそうですし、会社なども大学の学閥があったり、その人の人脈などにより利害などによって結びついている人々の排他的な集まりがあります。

特にそれが汚いのは、政治の世界かもしれません。政党どうしの争いより、党内の派閥の争いの方が醜いようです。国民は自民党より民主党の方がクリーンかと思っていましたが、3年間の民主党をみてその醜い争いをみて愛想をつかしたのが、先の選挙結果の一つの要因でもあったでしょう。

不死の仙薬

韓非子の説林 第二十二に次のような話があります。

不死の仙薬

不死の仙薬を楚の王に献上する者がいた。取次の役人がそれを持って奥に入って、宿衛の士は問いかけた。「これは食べれるのか」と。すると「よいのです」と答えた。これ幸いとその仙薬をさっさと食べてしまった。
王は非常に腹を立て、人をやってその宿衛の士をころさせようとした。宿衛の士は人に頼んで王に弁解をしてもらった。
「わたくしめ、取次の役にたずねたところ、食べてもよいとの返事でした。そこで、わたしは食べたのです。ということは、わたくしには罪がなく、罪は取次の役にあるのです。その上、献上された仙薬は不死の薬です。わたしがそれを食べて、王様が私を殺したなら、これは不死の薬ではなく死の薬になります。そうすると献上した者は王をだましたことになります。そもそも罪のない私を殺して、献上した者が王をだましたことが表沙汰になるよりは、わたしを許した方がよろしいでしょう」と。
そこで、王は宿衛の士を殺すのをやめた。


まことに、詭弁で危弁というか奇弁で、王もこの宿衛の士の言葉に、まどわされるれてしまうのも情けないです。しかし、最近この宿衛の士のような人を惑わす人が多くなってきたように見受けられます。

蹴り癖のある馬の見分け方

中国の古典「韓非子」に書かれているお話です。

韓非子 説林下  第二十三

蹴り癖のある馬の見分け方
伯楽が二人の男に蹴り癖のある馬の見分け方を教えた。
二人は伯楽の教えを確かめようと、一緒に趙簡子の厩に行き馬を観察した。
一人が教えに従って馬を診て、この馬は蹴り癖があると指摘した。別の男が馬の後ろの方からついてまわり、三度馬の臀を撫でてみた。しかし馬は後ろ足を蹴り上げなかった。
前の男が自分の見定めが誤っていると思った。そうすると、別の男がやってきて言った「君の見定めは間違ってはいない。この馬の前脚をよく視ると、足の付け根が縮んで膝が腫れ上がっている。馬が後ろ足で蹴るには、前足で体を踏ん張って支えことにより、後ろ足で蹴ることができるものだ。ところが、膝が腫れていては体を前脚で、支えることは出来ない。だからこの馬は、後ろ足を上げることをしなかったのだ。君は蹴り足を見定めることは巧みだが、膝の腫れを見抜くのを忘れていたのだ」。と。
そもそも、ものごとには物事がいろいろ絡み合って一つの結論がでるものだ。そこで、腫れた膝というものがあって体を支えられないということは、道理を知るものであったらはじめてわかることである。
恵子は「猿も檻の中に入れられたのでは、豚と同じだ」と言った。
だから、情勢をよく観察しないと不利になり、その能力を十分に発揮することはできないものだ。


何事も一面だけを見て判断してしまうのは危険なことです。林の中に入って木を見て、林は何処だと叫んだり。鹿を追うもの山を見ずという言葉もあります。また、二人の盲人が象を見たときの話もあります。
どれだけの観察眼と多くの情報からその的確な整理が必要になってくるでしょう。
今の世の中、この蹴り馬のように一つの情報だけしか得られないことはなく、逆に情報が氾濫しています。しかもその情報の中には不確かなものも多く、また、故意にねじ曲げられたり誘導させるようなものもあります。それに惑わされないようにするには、己の考えを持ち芯をぶれさせないようにして、多くの情報を整理することが大切だと感じます。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

老馬と蟻の知恵

韓非子の説林 第二十二に次のような話があります。
老馬と蟻の知恵

斉の国の管仲・濕朋が桓公に従って、孤竹国を討伐をしにいったが、春に出陣して冬に凱旋したが、道に迷ってわからなくなってしまった。管仲が「老馬の知恵を借りるといい」と言ったので、老馬を放してその後からついていくと、帰る道が見つかった。
山の中の道を進んでいくと水が無くなった。濕朋が「蟻は冬に山の南面にいて、夏には北の面にいる。高さ一寸の蟻塚の下七尺の下に水があります」と言ったので、蟻塚を見つけてそこを掘ると、その通り水がでてきた。
管仲と濕朋の聡明な知恵者であっても、わからないことがあれば老馬や蟻のようなものに師とすることをはばからないものです。
今、人々は愚かな心を持ちながら、しかも聖人の知恵に教えをこい師とすることを知らないでいる。なんと間違ったことではないか。


この管仲・濕朋の二人は、斉の国だけでな世に知れ渡った者で、賢く物事を筋道立てて考え適切に処理する能力賢い人とされています。その二人が迷うこともあることを教えています。ですから、凡人の私たちならなおさら、迷ったり分からなくなったりすることがあるのは当然でしょう。しかし、この管仲・濕朋の二人は、問題の答えはありふれた身の回りにあること。そして、自然の摂理や自然の中の道理は何処にあり、何処から学んだらよいかを判っていたのです。そして、その物事を見定め見抜く知恵は、仏教でいう煩悩を消滅させ、真理を悟る精神の働きが必要なのでしょう。

しかし、現代の科学技術が進んでいくにつれ、自然環境の厳しさにさらされなくなり、生活がどんどん便利になっています。そのなかで、自然の中で暮らす大切な知恵を疎かにして、だんだんとその研ぎ澄まされた知恵と感覚が鈍って消えていくように思えます。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

愚公移山

中国の古典「列子」の湯問編に、愚公移山という話があります。
話の大筋は次のようなものです。

昔、北山愚公というとしがもう90にもなろうという老人がいた。その愚公の家の前には、太行山・王屋山という大きなあって、出入りを塞いでいてなにかにつけて生活に不便をきたしていた。
そこで、愚公は家族の者を集めて言った。
「儂はお前たちと全力をつくして山の険しいところを平坦にし、豫州の南部に向かって道路を通じ、漢水の南岸に到達させたいと思うがどうだろう」。と。
すると、家族の者たちは口々にみな賛成した。ところが愚公の妻だけが疑問に思い反対していった。
「年老いたあなたの力では、小さな丘を崩すことさえとてもできません。ましてや太行・王屋のような大山をどうして崩せるというのですか。それにいったい崩した土や石はどこに捨てるのですか」。と。
すると、みんなはこたえた。
「それは渤海の隅っこか、隠土の地方の北部にでも捨てたらいい」。
このようにして、愚公は息子たちや孫たちを引き連れ、太行山・王屋山を堀だし、かついで運ぶ者は三人、岩石を打ち砕き、土地を切り開いて、土や箕や畚で渤海の隅っこに運んだ。
そうしていると、愚公の隣家の京城氏の寡婦に忘れ形見の男子がいた。ようやく歯の抜け替わる年頃であったが、いさんで出かけ、愚公の仕事を手伝った。一回土を捨てに運ぶのに半年ほどかかる状態であった。

それを見た愚公の隣の河曲の土地に住む、智叟という悧巧者の老人は、その愚公の話を聞いて笑い出し、その仕事を止めさせようとしていった。
「なんて愚かなことだ、お前の馬鹿さ加減は笑ってしまう。年老いたお前のわずかな力は、山の草一本たってろくにむしれない。ましてや土や石をいったどうしようというのだ」。と。
すると北山の愚公は、ため息をついていった。
「きみは自分の思いこみにとらわれてそう言っているのだろう。そのかたくなさは手のつけようがない。あの寡婦の幼児の頭にも及ばない。僕が死んでも子どが、その子どもがさらに孫に、その孫はさらに子どもに引き継ぎこの事業を続ける、こうして子々孫々とこの事業は引きついでいくのだ。これにたいして、山はこれ以上たかくなることはない、子々孫々削り取っていくのだから、なにも平坦にできないなどと気にやむこなどない」。これを聞いた河曲の智叟は返す言葉もなかった。
この話を聞いた、太行・王屋の蛇を手に持つ山の神は、愚公がこの事業をあきらめて中止してしまう様子がないのを恐れて、この愚公の事業のことを天帝に報告した。
すると、天帝は愚公の真心に心か動かされ、袴蛾氏の二人の息子に言いつけて太行・王屋の二つの山を背負わせ、一つを朔北の東部に、一つを雍州の南部に移した。
それからというもの、冀州の南部から漢水の南側にかけて険しい丘陵はなくなったのである。


この話は、いろいろなところで使われるので知っているひとも多いとおもいます。
どんなに困難なことでも辛抱強く努力を続ければ、いつか必ず成し遂げることができると教えてくれるものです。そして、必ず天帝があらわれその人のおこないを理解して、支援や援助をしてくれる者があらわれることを教えてくれています。


今の日本には、二つ大きな山でなく、幾つもの大きな山がゆく末に立ちはだかっています。
経済や産業の問題、国民生活をどう守るかの問題、領土の問題、少子高齢化の問題、福祉・教育の問題などなど沢山あります。

今の日本の政治には、この愚公のように芯をぶれさせずに最後まで貫く政治が必要ではないかと思います。
しかし、日本にこの愚公のような政治家や政党がいないように思えます。

民主党はもともと、考えの違う人が集まって作った党のためか、内部の意見がまとまらず分裂してしまい。そして、意見が大きく違う人が離党したり、にわかに選挙に立候補して新しく政治家になった人が離れていきました。民主党はこれからが政党としての進化が発揮されるのでしょうか。

自民党は、目先の利益を追うことでお茶を濁し、野党の三年間で反省し、考えを新たにしたというわりには、依然と同じことの繰り返しをしています。そのうえ、国民に耳障りのよいことを囁き、次の参議院選挙でも絶対多数をとり、捻れ国会を解消しようとしています。

ほかの、政党も目先の議員数を増やすこをねらって、にわか仕立てに、選挙に立候補してみようと思う人を募集しています。

この「愚公移山」のはなし、日本の今の政治の状況に合わすとどうなるでしょうか。
どうも智叟という悧巧は、自民党や民主党や日本維新の会など沢山いるようですが、愚公はいないように思えます。今の日本に必要なのは、智叟という目先のことばかりで政治をおこなうのではなく、国民の子どもや孫の将来を考えた、先々の政策をおこなうことが大切ではないでしょうか。そして、この話にでてくる「天帝」とは国民に当てはめることになります。
天帝は、太行・王屋の蛇を手に持つ山の神の、言葉を聞いて惑わされず、その心意気と誠実さに感銘しました。私たち国民は智叟や蛇を手に持つ山の神などに惑わされないようにしっかりとした目を持っていきたいです。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

吾れ安くんぞ能く南面の王の楽しみを棄て

吾れ安くんぞ能く南面の王の楽しみを棄てて 復た人間の労を為さんやと。

荘子 至樂編 四

荘子楚に之き 空髑髏を見る コウ(骨堯)然として形有り うつに馬捶を持ってし 因りてこれに問うて曰 夫れ子は生を貪り理を失いて 此れと為れるか 将いは子に亡国の事 斧鉞の誅ありて 此れと為れるか 将いは子に不善の行いあり 父母妻子の醜を遺さんことを愧じて 此れと為れるか 将いは子に凍たいの患いありて 此と為れるか 将いは子の春秋 故より此に及べるかと 是に於いて語り卒り 髑髏を援き 枕して臥す

荘子が楚に旅をしたとき、路傍にある髑髏に目に止まった。干からびてしまっているが何とか形は留めている。馬の鞭でむちで突ついて、髑髏に尋ずねた。一体あなたは喜び楽しみを貪て、ついには道理を踏み外してのなれの果てか。あるいは亡国の事変にあい、粛清されてこのようになったのか。あるいは不道徳を働き、父母妻子にまで恥辱を残す事を恥じてこうなったのか。あるいは飢え凍える災難にあって、こうなったのか。あるいは寿命の年月がもともとこれまでのものだったのか。そして話し終わると、荘子は髑髏を手にとって、それを枕にして眠ってしまった。


夜半、髑髏夢に現われて曰く 子の談は弁士に似たり 子の言う所を視れば 皆な生人の煩い累なり、死すれば則ち此れなし 子 死の説を聞かんと欲するかと 荘子曰く、然りと 髑髏曰く 死すれば上に君なく下に臣なし 亦た四時の事なし 従然として天地を以て春秋と為す 南面の王の楽しみと雖も 過ぐる能わざるなりと
荘子信ぜずして曰く 吾れ司命をして復た子の形を生じ 子の父母妻子と閭理の知識に反さしめば 子 これを欲するかと 髑髏深く顰蹙して曰く 吾れ安くんぞ能く南面の王の楽しみを棄てて 復た人間の労を為さんやと。

その夜半に、髑髏は夢枕にたって言った
「あなたのはまるで弁舌家のようだ、あなたの話した事を考えてみると、どれも生世話で人の苦しみだ。私は死んでいるのでもうそんなものはない。あなたは死の世界を知りたいのか」。荘子曰く「いかにも」と。髑髏曰く「死んでしまえば、上に君主は居らず、下に臣下もいない。さらに春夏秋冬の四季に追われる仕事もなく、心広々と天地自然の悠久の時間を春秋としている。南面の王者の楽しさでさえ、とてもこれには及ばないのだよ」。荘子は信じられずに反論した「神に頼んで、あなたを蘇らせ、父母や妻子、郷里の知人たちとの元の通りに戻そうと思うがそれを望むかね」。髑髏は不快に感じてまゆをひそめて言った「君子としての王者の楽しさを捨てて、いまさらまた人生の苦労をもう一度繰り返すなどをどうして望もうか」。



喜びや楽しみを飽きることなく追い求めることがいいこのなのか
正しい道筋や考えとされるものを無視して、常道からはずれることをしていいのか。
横暴な政治を行うといずれは、クーデターや亡国の事変にあい、追放処刑されるのは歴史の繰り返しです。
反社会的な生活や行いをして、個人が守るべき規範を無視して、ついにはその行為は己だけでなく、家族父母妻子にまでが辱めを受けてしまう。
天変地異などで飢え凍える突然身におこった不幸な出来事でのことか。
もともと、人の命には限りがあります。
このように、いろいろな人の生き方があり、それなりの結末があります。
髑髏が言っているように、人は死んでしまえば、身分の上下や貴賤の上も下もないのです。地獄極楽まで金を持っていけるわけ
ないです。
今生きている現実の世界では、上に立つものは、他のものにはわからない苦労があるものです。しかし、その苦労をいとわずその苦労を求めて生きるのか。また、一度引退したら、引き際をよくして残りの己の身を楽しむのもいいかもしれません。

政治の指導者や会社の経営者などにも、二種類の人がいるようです、いつまでも権力や欲望に未練がありいつまでも経営に口を挟もうとする人と。引退したら社会奉仕に尽くしたり、趣味に興じたりする人です。
どちらがその人の人生として楽しく有意義なのでしょうか。
そんなものは、どうでもいい好きにしろと、この髑髏は言いたいのでしょう。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

心焉に在ざれば、視れども見えず

心焉に在ざれば、視れども見えず

所謂脩身在正其心者、身有所忿チ[(恨)]、則不得其正。
有所恐懼、則不得其正。
有所好樂、則不得其正。
有所憂患、則不得其正。
心不在焉、視而不見、聽而不聞、食而不知其味。
此謂脩身在正其心。
右傳之七章。
釋正心脩身。
 大学 七章

いわゆる身を修むるはその心を正すにありとは、
心に怒り憤怒の情があれば、心がその忿恨に揺り動かされ、すなわちその正を得ず。
心に恐れおののく情があれば、心がその恐懼って、すなわちその正を得ず。
心に好み欲することに溺れると、心がその好楽に惑わされ、すなわちその正を得ず。
心に心配して心を痛めるると、心がその憂患に押し殺されてしまい、すなわちその正を得ず。
心が浮ついてこの地に着いていなければ、ものを視てもその本質はわからず、話を聴いてもその言うところの本質を理解できず、ものを食べてもその美味しさの味を知ることはできない。
だから、自分自身の心や行いを正しくし、学問などを学んで修得することは、偽りや飾りのない本当の気持ちを持ち、ゆがみや乱れなどをきちんと直すにあり、というのであうる。
このことは大学の七章の示すところで、心を正しくし身を修むるを解き明かしたことであ。

自由気まま好き勝手に物事を為していくと、怒りがでてきたり、嫉妬がでてきたり、欲望にうつつをぬかしてしまい、世の中とその時の雰囲気に流されてしまうものです。そうではなく、一日一日自分の行いに目的を定め、そしてその一日を振り返り自分を見つめていかないといけないでしょう。
とくに今の世の中、政治の世界も身近な生活の世間も、右に揺れたり左に揺れたり、また、インターネットなどのに空間において、流言飛語がその中だけに収まりきれなくなって外に溢れてしまっています。それらのものに惑わされ右往左往してしまわないように。自分自身を視つめ心を正して行かなくてはならないでしょう。
■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

記事の整理棚
禅 (2)
最新の30の記事
月別の過去の記事
02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   09   08  
単語による記事検索
竹林の過去の戯言のタイトル

過去の記事タイトルを100件づつ表示します

記事へのコメント
  • 「無意味だ」ヤジについて思う
    幽村芳春 (02/19)
    「桜を見る会」の論戦はいったん棚上げにして、今国会ではコロナウィルスなどの防疫問題を論議してほしいと思います。
  • 昨日の続きである、「カラクテール」から
    竹林泉水 (02/07)
    コメントありがとうございます。
    五観の偈をとなえて食事をなさっておられるのですか。 頭がさがります。

    企業活動や時の政権も、この「五観の偈」を、政治や商売に置き
  • 昨日の続きである、「カラクテール」から
    幽村芳春 (02/03)
    私も必ず「五観の偈」を唱えてから食事をいただいています。実際に唱えると五観の偈の意味がよくわかります。
  • 津久井やまゆり園の裁判
    竹林泉水 (01/15)
    こちらこそ 今年もよろしくお願いします。

    やまゆり園の裁判で、被告が突然暴れ出したとニュースされたとき、詳しいことが報道されなかったので、よく分からなかったです
  • 地球温暖化の問題点
    竹林泉水 (01/15)
    年始葬送のコメントありがとうございます。
    今年もお互いに良い年でありますようねがっています。

    ハイ 温暖化問題の解決の一番は、私は人間活動に足るを知ることだと考
  • 津久井やまゆり園の裁判
    アジシオ次郎 (01/13)
     遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。

     さてやまゆり園無差別殺傷事件の被告に対する初公判は、開廷して被告が謝罪したと思いきや突然口に手を突っ込むとい
  • 地球温暖化の問題点
    荒野鷹虎 (01/10)
    温暖化問題は難解ですねー。
    直ぐ原発再稼働に走りがちになりますのでとんだ飛躍ですよねー。
    水力や風力発電はいかがなものでしょうかね。
    恐ろしいことが現実化されてい
  • 日韓関係が戦後最悪
    竹林泉水 (01/05)
    北朝鮮脅威論や韓国敵視政策をとるような国の指導やがいるが、韓流ブームもあるし民間の間では、一部の政治の指導者が選挙の票集めのために嫌韓を煽っても、それは、一部の
  • 伝統食
    竹林泉水 (01/05)
    そうですね、食が便利にないり、曹洞宗の五観の偈のようなことを考えずにいることが多くなっています。
    だから、テレビ番組で、食べ物を笑いものに扱うような番組が制作さ
  • 記事へのトラックバック
    ブロとも一覧

    うたのすけ

    山下道場

    荒野鷹虎

    海空居士

    紀瀬美香

    marihime

    お父さんの旅

    キラベル

    silver camellia

    kbrkのつぶやき

    魚京童!

    俊樹

    アジシオ次郎

    ほんわか?絵日記

    吾輩と旅と副業

    Chronos Moon

    ざっくり読書感想文

    Taiwa Sato

    びとら

    Resale Japan

    QWERT 5w1h

    (o ̄∇ ̄o)♪

    HIROGACHAN+

    しんのすけたろ

    勝ち組の日経225

    ハセッチブログ

    五月雨 時雨

    諭吉

    さくらさくら1

    不思議な不正義2
    ブロとも 申請フォーム

    竹林乃方丈庵のブロとも申請はこちらからです。

    Webページへのリンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    更新履歴
    今日の暦と天気

    日めくりカレンダの説明

    ■2016年旧暦 日月の出入■

    01 | 2020/02 | 03
    ------1
    2345678
    9101112131415
    16171819202122
    23242526272829

    ★☆今宵の夜空☆★

    NHKらじる★らじる
    大阪東京第2FM大阪
    何の日



    ご訪問ありがとうございます
    竹林泉水のTwitter
    ■□FC2のブログ□■
    _/_/_/竹林乃方丈庵を_/_/_/
    _/_/_/ リンクに追加 _/_/_/
    □■□■徒然諸諸■□■□ □■□■心の時代■□■□ □■□■息身心/健康■□■□ ----- □■□■厚生福祉■□■□ □■□■その他■□■□
    □■FC2以外のブログ■□
    諸諸 徒然 「身・息・心」 こころの時代
    RSSリンクの表示
    QRコード
    QR