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三行半と姻族関係終了届

江戸時代は「三行半」とよばれる離婚通知書があった。
参考までにウイキペディアに載っていた文を紹介します。
 離別一札の事
一、今般双方勝手合を以及離
  縁 然ル上者其元儀 何方縁組
  いたし候共 私方に二心無
  依之離別一札如件
亥十一月廿四日    長吉
      おせいとの

読み下し:
離別一札のこと。
一つ、今般双方勝手合を以て離縁に及び、然る上は其の元儀、何方に縁組み致し候とも、私方に二心無く、これにより離別一札くだんの如し。
亥十一月二十四日。長吉。
      おせい殿。

意訳:
離別状。
この度、双方協議の上、離縁いたします。したがって、今後あなたが誰と縁組みしようとも、私に異議はなく、翻意することもありません。以上、本状を以て離別状と致します。
亥年11月24日。長吉。
      おせい殿。

はじめから唐突な書き出しになったが、現在、姻族関係終了届というものがあるそうです。

配偶者と死別後、その親戚兄弟との関係を書類だけで解消するために「姻族関係終了届」を出す人が増えているそうです。
義理の親や同じ墓に入ることに抵抗感がある人が届け出をするそうです。もっとも法的な効力や扶養義務はなく形式的な意味合いのものです。嫁ぎ先の家と「絶縁」できる届け出といえるが、今でも昔ながらの家制度に縛られている感じている人がいるのだろう。

江戸時代は「三行半」の内容は、あなたとは今後いっさい関わりがなく、あなたがどのようなことをしようと口出しはしませんと言うものです。
そして、三本と半分線を引いても同じ意味をもち効力があったといいます。

これは離縁のことですが、死別でもその家にとどまるなら、その家に縛られることになるでしょう。しかし、しべつして家をでて独立するなら同じ三行半と同じようなものだったのではないでしょうか。

江戸時代はいまの日本のように、近代的な法整備がなかったが、三行半をみると江戸時代のほうが、別れる女性にとってその人権は大切にされているようにおもいます。

それはそれとして、最近ここにきて「姻族関係終了届」が注目されているのは、夫との家と絶縁する気持ちにさせるのは、昔ながらの家制度に心のどこかで縛られるからだろう。
日本国憲法には第24条に、〔家族関係における個人の尊厳と両性の平等〕として、
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」
とされています。
まだまだ、明治時代の家への縛り意識がつよいのでしょう。また、自民党の憲法改正草案をみると、現行憲法より家への縛り強くなるように感じられます。
配偶者が死亡しても、法律上、配偶者の親族との関係は消えないのです。
解消したいときは市区町村に届けれれば認められるこの制度。相手の了解は不要で通知も行かず、配偶者の遺産を相続することも可能なので、「姻族関係終了届」への関心が高まって届け出を出す人が増えると思います。

ノールウェーの犯罪者更正の取り組み

アメリカには、スリーストライク法とううのがある、犯罪に対して厳罰化するものです。アメリカでは犯罪に対して厳罰で抑止し治安をよくすると考え方です。これは世界で同じよう動きがされています。

日本でも、凶悪な犯罪が起き、少年の犯罪もニュースになります。そのようなか、刑事裁判の対象外が引き下げられ、厳罰化の声が高くなっています。また、ある程度の重罪を犯した人に対して、人権剥奪や社会保障の剥奪が必要でだという声も高まっています。
しかし、アメリカでは犯罪が多発し、厳罰化により刑務所は満杯状態です。それにより生活環境は悪化し、喧嘩は多発し病気の感染も深刻な状態だそうです。
私は、いままでに、このブログで「人権」のカテゴリーの<http://tikurinnnohoujyoann.blog.fc2.com/blog-category-22.html>なかで、さまざまなことを書いてきました。
犯罪加害者の人権や更生、死刑囚の人権や教誨、また罪を犯した人に対して懲罰を中心に考えるのか、更正により社会的自立をするかなどを考えてきました。
そんな中、2009年10月25日にNHKBSで放送された「未来への提言 犯罪学者ニルス・クリスティ~囚人にやさしい国からの報告」を見る機会がありました。
ノルウェーでは、「刑罰を厳しくすれば、犯罪は減るどころか治安は悪-化し社会は崩壊する」と警鐘を鳴らした、オスロ大学教授、犯罪学者のニルス・クリス-ティ氏の提言により、犯罪者の社会的更生プログラムが行われています。ノールウェーの刑務所では、世界でもっとも“囚人にやさしい国”といわれています。まるで自宅でくつろいでいるかのような囚人たち。テレビやパソコンも自由に楽しめる快適な刑務所生活。休暇を取って自宅に帰ることもできます。
ニルス・クリスティ氏は次のように言っています「犯罪者への刑罰は報復ではない、更生のための作業だ、むしろ犯罪者は多くはすでに社会で酷い目にあっている、酷い目にあった人に更に酷い目にあわせればより犯罪を犯しやすくなる」といっています。

NHKBSで放送された「未来への提言 犯罪学者ニルス・クリスティ~囚人にやさしい国からの報告」


日本では犯罪を犯す人は、社会から虐げられた社会的弱者に多くみられます。そして裕福な人たちは罪を犯す人は、とても凶暴で邪悪な人たちなんだと思っている人が多くいます。そしてだから社会から隔離しなければいけないと思っています。

しかし、クリスティ氏は「私は凶悪犯罪をおかしてしまった多くの人と会ってきましたが、これまでモンスターのような犯罪者に会ったことはありません。どんな犯罪者でも人間です。生活環境を整えれば必ず立ち直ります」、「犯罪につながるような問題、たとえば貧困や差別、ドラッグなどの問題は、市民も参加して話し合うことが必要なのです。身近な場所で話し合うことによって解決の道が見い出せるのです」「日本の刑務所に入っている受刑者たちは、みんな普通の人間です。私たちは、彼らは特殊な人間なんだから、自分たちから遠ざけておきさえすればいいんだという考えはやめて、受刑者のことをもっと知ろうとつとめなければなりません。刑務所の環境についても、受刑者たちはもちろん、私たち市民もともに責任を持って考えていかなければなりません。日本の刑務所の状態をよく見れば、あの中にいること事態が拷問なんです。拷問は本当の意味で人を更正させることはできないのです。ノルウェーの刑務所でもかつてまずいものを食べさせるのが罰になると考えられ、ひどくまずい食事が出されていた時代がありました。それではダメです。たとえそれが犯罪者であっても衣食住の環境が劣悪であってはいけません。私は、世界の多くの刑務所のように、犯罪者をひどい状況に置けば、それに懲りて二度と罪をおかさなくなるといった考えは間違っていると思います。」と言っています。

番組の最後にクリスティー氏は次のことをいっています「全ての人間は人間だ」この言葉の意味をそ­れぞれ考えてほしいと。

ネブラスカ州の死刑廃止

毎日新聞の記事に、保守の色濃い州であるネブラスカ州で州知事の拒否権を覆し、死刑廃止法が成立したと報じています。
これで、アメリカの死刑を廃止した州は、19州と首都ワシントンD.C.になります。
なぜ保守色の強いネブラスカでしかも州知事の死刑は犯罪抑止になるという理由での拒否権行使まで覆して成立したのか。

それは単に、死刑は人権的に問題があるという理由からだけではないらしい。ネブラスカ州で現在で、死刑囚として収監されている10人は、刑を終身刑に減刑される見通しだ。同州には30年間服役していた11人目の死刑囚がいたが、26日にがんのため死亡した。

この法案を提出したアーニ¥・チェンバース議員のフェースブックにそのことが書かれて、毎日新聞が紹介している。
http://mainichi.jp/feature/news/20150531mog00m030002000c.html

その記事の内容を幾つか紹介してみる。
「法案を提出したアーニー・チェンバース議員(77)は、これまで40年以上にわたり40回近く死刑廃止法案を提出したという。なぜ今回は成立したのか。電話で取材すると、現実的な理由をあげた。」
そしてネブラスカ州で最後に死刑執行があったのは1997年で、20年近く執行がない。そのことから死刑が殺人を抑止するという議論はあたらないとしている。また、時代の変化のなかで保守な考えを持っている人の中にも、死刑は失敗した政府のプログラムで、結果的にコストが高くつき、扱いにくく効果的でないと考える人が多くなってきた。その上、死刑判決がでても執行されることが少なく、やめるべきだと考える人が多くなってきているようです。

日本でも死刑廃止を唱える人もいるが、それがなかなか議論として深まらないようです。それより被害者の気持ちを考えろとかいい、刑罰を更生のためでなく、報復や復讐的なことを是認する意見が多いように思われる。

経費の面では、毎日新聞の記事では次のように書かれている、「アメリカのNPO死刑情報センター(本部・ワシントン)によると、ネブラスカ州では1973年以降、死刑の可能性のある殺人が205件あり、31件に死刑が宣告されたが、執行は3件。同州では薬物注射に必要な薬が2013年に切れて執行できない状況にあったという事情もあるが、米国では命を奪う死刑は特別だとして、裁判手続きが長く、弁護士費用などのコストもかさむ。例えば、2013年に死刑が廃止されたメリーランド州が2008年に行った調査によると、裁判や上訴、投獄にかかる費用は死刑の場合、約300万ドル(約3億6000万円)で、終身刑の約3倍と推計している。」

また、被害者遺族の中に、「非効率的で長期にわたる死刑制度は遺族にとっても苦痛だという」死刑廃止を求めて議会で証言に立った人がいる。共和党のジョン・マッコリスター議員(68)は「(死刑は)刑事手続きを繰り返す中で被害者遺族に殺人を再体験させる。それは正しいとは思えないとして、法案に賛成しています。

また、これは一般的な死刑廃止に関る考えである。
誤判の危険性
薬物注射の問題(アメリカの一部の州では電気椅子、日本では絞首刑、ある国では銃殺刑もあるようです)
宗教的理由などさまざまな要因が影響があって、死刑廃止法が可決されたといっています。

そして、毎日新聞の長野宏美氏よるとこのことは今後は他の保守州にも広がるのだろうとの見通しを、コンラッド氏の「死刑は崩壊しており賢明な代替策を見つける時がきていると政治的なコンセンサスが強まっている」。チェンバース議員の「ネブラスカでできたなら私たちもできると他の州は考えるだろう」して、死刑廃止の広がりがあるとしている。

日本でも先に述べたように死刑廃止論が出るにはでるが、あまりその議論は深まらない。この事例を踏まえても日本でももっと広く一般の人にも考えるきっかけになって欲しいとおもう。

面前ドメスティクバイオレンス

面前ドメスティクバイオレンスという言葉があります。
親が配偶などに子供の前で、暴力を振るったり振るわれたり、暴言を浴びせられたりすると、それを目撃すると子供の心理は深く傷つきます。児童虐待防止法では、これは心理的虐待の一つとして定義されています。

兵庫県警が児童相談所に通告した子供のうち、心理的な虐待に人数が過去5年で25倍にも増えているそうです。
そのなかでも、家族が暴力を振るわれる光栄を目撃する「面前ドメスティックバイオレンス」が急増していることが分かりました。
児童虐待の内訳は、暴力を受ける「身体的虐待」、暴言を浴びせる「心理的虐待」、「養育拒否、怠慢」などがあるが、このうち心理的虐待の中で、「面前ドメスティックバイオレンス」はその84%を占めるそうです。
特にこの「面前ドメスティックバイオレンス」は児童保護のいしきが市民のなかでたかまり、家族以外からの通報が増えているそうです。

この「面前ドメスティックバイオレンス」は、子供の心理を非常に不安定にさせるものです。児童相談所によると、子どもの精神的なダメージが大きな場合、感情を抑圧しがちになり、対人関係障害に陥ったり、自己肯定感情がもてなくなったりすることがあると言っています。そして、心理的虐待を受けたこどもは、きちんとしたケアが必用で、病院での治療や養護施設などの通所を進めています。

特に最近「面前ドメスティックバイオレンス」が増えているのは、長い不況で失業や貧困などの経済的不安定さにより、親やその周辺が心理的に追い込まれ、DVが増えているのではないかと思う。親が互いに感情的位なり、暴力を振るわなくても言い争ったり罵り合ったりすることは、大人に頼らざる得ない子どもにとて、心理的虐待になり今後の心理的成長を阻害さえてしまう。これは大きな社会問題で周囲の地域社会はもちろん、地方の行政や国もこの問題が急増していることを深刻に受け止めなくてはならな。

ジャンバルジャン銀行

韓国で「ジャンバルジャン銀行」という、市民団体「人権連帯」が立ち上げるそうです。

貧困が原因で軽微な罪を犯したが、罰金が払えず労役に就かねばならない人がいる。労役で拘束されることにより、就労が困難になり再び、万引き等の罪を繰り返してしまう。
そこで、「ジャンバルジャン銀行」は、貧困で罰金が払えない人に対し、無利子で罰金と同じ額を貸しだし釈放支援をするシステムです。
親がいない未成年者や生活保護受給者など、拘束されれば生活が一層困難になる人から申請を受け、半年後から分割して返済するものです。これには、性犯罪や政治犯罪などは対象外です。

日本でも犯罪者が刑期を終えたが、職に就くことができず再び犯罪を犯してしまう人がおり、社会問題になっています。日本の市民団体でも、万引きなどの軽微な罪を犯し、出所した人を支援しようと活動している団体があるがその韓国版といえるでしょう。
キリスト教の国などでも、協会や信者の市民団体が宗教活動とし盛んにおこなわれていますね。韓国はキリスト教徒が多いそうです。慈善運動が盛んなのはうなずけけます。

日本では、浄土真宗の親鸞の教えに、悪人ほど救われるという「悪人正機説」があります。このように過ちを犯した人に対する、支援こそが大切だとおもいます。むろん犯罪被害者に対して支えていく必要があるのは言うまでもないです。

反省させると犯罪者になります

本の紹介です。

     一泳ぎ
     反省させると犯罪者になります 岡本茂樹 新潮新書

岡本茂樹 立命館大学産業社会学部教授で、日本ロールレタリング学会の理事長を勤めています。
また、刑務所の職員の刑務官でなく、刑務所の職員に対して指導助言をする外部支援者のスーパーバイザーをしています。また、別の刑務所では篤志家として面接員をしています。

この本のなかで、もめごとや犯罪などが起きた起きたとき、よく「反省文」を書かせます。それはよくないむしろ逆効果だと書いています。
学校などで生徒が問題行動を起こしたとき、よく「すみませんでした、もう二度としません」などと反省文を書かせたりしますが、これはよくないとと書いています。また、著者は、是非とも学校の生徒指導の先生に読んでいただきたいと書いてあります。

さまざまな場面でこの、反省させることが常識的価値観として行われているが、この著書を読んでそれこそそれは間違いと反省させられます。

また、この本は子どもの言動や友達関係に対しての、しつけに悩んでいる子育て世代の親や、それを見守る地域の人にも解決策のヒントが得られのではないかと思います。

今までは刑務所は罰を与えるところで、厚生教育はおざなりで、厚生プログラムがあっても、被害者の手記を読ませたり、法務省が作ったビデオを見せ、感想文を書かせる程度だった。それが2006年に「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律)」ができ、出所してからの再び犯罪を犯すことなく、自立生活が送れるよう厚生教育が問われています。

問題を起こすと出所が遅くなり問題をおこさず過ごすこと、仮出所につながるので、受刑者はずっと気持ちは抑え込んでいる人が多いと推測できる。しかし、そのように気持ちを抑え込んで、真面目に務めることは刑務官から評価は得られても、社会自立の厚生に対して何も学んでないことになり、その人の価値観や人生観は何も変わってないことになる。そうなると、刑期を終え外へ出た時に同じような罪を犯してしまう。

そこで、著者は反省をうながす厚生ブログラムでなく、自分の今までの人生と向き合う、カウンセリングが大切のなってくるとと述べています。
そのカウンセリングは一般のと同じで、人間関係がしんどい、自分の性格がすぐにカッとしてしまう、などのことは自分の問題として捉えています。そのようなことを聞きながら、いつからそういう風な感じになっている聞いてきます。そうすると、罪を犯した人は一応は、人に悪いことをしたという自覚はあることが分かります。そして、罪を犯したもともとの原点は「自分が傷ついていたこと」にあったことに気付くと、人はガラッと変わっていくと述べています。
この本にはそれらのことが書かれています。

是非とも、刑務所や拘置所にたずさわっている人だけでなく、学校関係者や子どもを育てている親など、多くの人に読んでもらいたい本です。

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テーマ : 教育問題について考える
ジャンル : 学校・教育

求刑の1.5倍の判決は不当か

求刑の1.5倍の判決は不当か

犯罪の刑罰に対して、市民感覚を反映させるとして、裁判員裁判制度が導入されました。その結果犯罪に対しての判決が厳罰化の傾向にあります。
そのような中で、求刑の1・5倍の懲役刑を言い渡した一、二審判決に対して、他の裁判結果との公平性を著しく欠いたものは許されないと、最高裁は24日、裁判員裁判の量刑判断のあり方について判断を示しました。

裁判員裁判になり求刑より重い、刑を言い渡すことがみられるようになっています。
そのなか、今回の最高裁の判断は産経新聞のように「「直感的」評議を戒めた。裁判員の「求刑超え」判決が増える中、厳罰化への一定の歯止めともなりそうだ。」という論調が多いようです。

私は、以前から裁判員裁判で求刑より重い刑が言い渡されることに対し、感情的になり早急で直感的に、刑が下れることに、ある程度不安があります。それは、
過去の裁判例を追随するようなことはよくないが、他の裁判との公平性を保つ必要性があるでしょう。
なにより、検察は法律に照らし合わせ、過去の裁判の量刑も考慮にいれ公正公平に求刑しているはずです。
裁判員裁判で裁判員が時の、風潮やそのときの感情で結論を出してしまうと、それは私刑のようなものにならないです。
そのために、白木裁判官は、量刑傾向を考慮しなければ「評議は合理的な指針もないまま直感による意見の交換となってしまう」と指摘し。
元東京高裁部総括判事の門野博法政大学法科大学院教授は「国民感覚を反映させながら説得力のある判決にするには、先例の意義を踏まえ、裁判官が裁判員に丁寧に説明することが必要だ」言っていることは大切なことだと言えるでしょう。

そして、裁判員裁判が導入され、日本人の誰もが裁判に参加する可能性があるので、今後の日本の裁判はどのようであるべきかを考えるべきでしょう。
特に、判決が厳罰化に向いているなか、裁判は罪に対して罰を加えることを決めるのか、罪を犯した人を厚生させる為に刑を決めるのか。多くの人は前者を唱えるようですが、私は後者を支持します。なぜなら、加害者に罪を与えるだけなら、被害者の復讐をする事になってしまいます。それでは、被害者の心も癒されることはないでしょう。すこしでも、被害者の慰めになるのは、加害者が自分の置かした罪に向き合い、人として立ち直れることだと考えるからです。

先生の年次休暇

小中学校学校の先生が、自分の子供入学式のために、勤務する学校の入学式を年次休暇をとり休んで欠席した。
授業参観の日にNHKののど自慢に参加した。これらのことにつていネット上で論議され新聞にも取り上げられている。
私はこのことについて、特段に第三者が問題にすることはないとおもいます。それだけ教育に対してみんなが興味関心を持っている現れならよいのですが、教師個人のことについてなぜこんなに話題になるのか気になります。

私自身、子供の入学式も卒業式にも仕事の勤務があり、出席したことは無かったです。職業に関係なく不要不急な用事は別として、仕事をしている人として、職場の仕事を優先させるのは当たり前のことです。しかし、その人の価値観や人生観や考え方があり、家庭第一、我が子を優先させる、まなのど自慢などの一つの自分の取り組み事を優先することは悪いことではないです。

今回の、先生の休暇を取り私事の用事を優先させたことは、その手続きは正しく踏まれて、管理職も認めているので問題はなです。
それを、その当事者同士で問題になるならわかり、その当事者で解決すべきことです。それを、なぜ第三者が横から出てきて口を出し、大きく騒ぎ立てるのか、その必要が在るのか合点がいきません。

この先生のことにかかわらず、最近、特にインターネット上で何か一つのことが起きると、第三者がその当事者をバッシングしたりすることがよく見られます。先行き観が不透明で自分に自信ががいことにより、不安感をもっていることにより、他人に自分と同じ意見の同調を求めたり、そうでない人を攻撃したりするのでしょうか。それがだんだんと、衆人監視の雰囲気が醸成されていかないことを願うのみです。

裁判員

死刑判決などの裁判員裁判で裁判員になった人の心のケアが問題になっています。
裁判員裁判で、殺人等の凶悪な事件で裁判員裁判でしめされる、事件の陰惨な証拠などの提示により、裁判員が心的外傷後ストレス障害などにならないか。そしてどのよう証拠などがそうなるのか、裁判員に見せない方ががよいのかなどの研修が、心理学や等を交えて判事の研修がなされたそうです。
重大な事件ほどその事件の証拠や、その犯人の置かれていた状況などは、裁判でできるだけ多く提示されて、慎重に審議されるべきでしょう。それはたとえ陰惨な証拠であっても、裁判員が刑を判断する上で必要なことだと思います。
もし、裁判員にこの証拠は裁判員に見せると心理的な負担が大きすぎるととして見せず隠してしまうことは、公正な裁判でなくなってしまう恐れがあります。
難しい問題だが裁判員裁判制度のもとでは、判事も弁護士も裁判官も裁判員も、よく考えておくべきだと思います。裁判で判決を導くため有利だとか、裁判員の心的負担があるなどで、その証拠を裁判員の目から隠すことは如何と思う。それなら、その裁判は何のために裁判員を使うのか、それなら裁判員を使わない裁判にすべきだと思います。

日本は公開裁判ですから、裁判を一般の第三者が傍聴することもできます。傍聴とは当事者以外の者が許可を受け、発言権なしに場内で聞くことです。裁判の中身を知るには、加害者や被害者やその周辺の人のプライバシー等の問題もあが、それらの多くも傍聴者も知る事ができることが大切ではないかとも思います。最近のプレゼンの技術を使えば、大型ディスプレーなどで、傍聴者にも見せることは可能だと思います。
ただ傍聴やにも資料を見せることによりし、犯罪者への憎悪を助長させることになってはいけないです。大切なことは犯罪者にとって、公正な裁判がなされることだと思います。

こんなことを書いたら、よく被害者やその遺族の気持ちはどうなのだと、第三者に叱られそうです。私自身被害者になったことも、その家族にもなったこともありません。また加害者になったこともないつもりです。加害者の親族になったこともありませんから、その所の本当の気持ちを汲むことは、自分勝手に想像することしかできません。
私が思うに言えることは、ただ、加害者が更生されなければ、被害に遭った人達は、報われないのではないかと思います。この恨みを晴らさでかと、解決する方向に向くのは、野蛮で愚者のすることだと考えます。恨みの連鎖となり蛮土となるだけでないかと思うのです。

裁判員制度を取り入れたなら、市民は刑罰の在り方に正面から向き合う必要があるでしょう、そのためには裁判資料は隠すことなく裁判員には提示すべきで、裁判員はそれらの守秘義務の重荷を負う重責を自覚すべきでしょう。
それによる、裁判員への心的外傷後ストレス障害に対する心のケアにとられるべきでしょう。

しかし、受刑者や刑務所、それに関わる人について書いた本をよんでいると、拘置所や刑務所に勤務する刑務官や、刑務官以外の死刑囚や受刑者に関わる人、精神科医はともかくボランティア要素が強い、教誨師やカウンセリングをする人への心の支援などが充分でないです。
それを見ると正直いって、裁判員制度や裁判の制度また、今の日本の社会にはまだその風土が成熟していないようにも感じます。しかし、現に裁判員制度が施行されてる以上は、もっと市民にそれらのことを啓発していくべきでしょうが、国も司法界もあまり取り組まず、マスコミも視聴率や購読数を上げるための興味本位の報道が多いことが気になります。

裁判員制度

刑務所や拘置所での生活について、罪を犯した人にも人権があり、人としての尊厳は確保される必要がある。今の刑務所や拘置所は1970年頃以前と比べると、管理が強化され人権が疎かにされて、教育刑罰より応報刑罰的要素が強くなってきている。また、社会の声もこのところ厳罰化すべきとの声が高まっているように感じると、ブログに書いてきました。
すると、意見を罪を犯したらそれ相応の罰を受けるのが当然だと言うこと。また、刑務所内での生活は、健康管理され食べるものにも不自由しない、まじめにこつこつと生活している人より、食べ物のに困らないで楽な生活をするのことは、罪を犯した罰にはならないから管理強化されて当然だと言う意見をいただきました。

わたしは、罪を犯したならそれ相応の罰を課すのは正当だと思います。ただ、その正当な刑罰とはどのようなものかを、真剣に考えられ聢りしたものないといけないです。
また、自分よりよい生活だと言うなら、その受刑者の生活と交替してみてはどうかと言いたくなります。

罪を犯したからと幽閉された生活が、どのようなものかを知っているのでしょうか。それは、社会の中で暮らす生活とは、全く違うもののようです。そこには罪を悔い改める教育的は配慮より、応報的なことに重きを置かれていようですが、それより別の処に問題が在るようです。それは、刑務所や拘置所ないで、喧嘩や自殺や暴動などの事故が起きたとき、それがもし外に漏れたときには、大きな問題になり政権の基盤にも影響しかねないと言われているからです。刑務所や拘置所は国が運営し統治しているものです。それ故にその中で騒乱や受刑者が自ら命を絶ったりすることは、統治のあり方が問題とされてくる恐れがあるからでしょう。
いま、裁判員制度により市民が裁判に関わることになっています。それは、市民が今まで以上に裁判がどのように行われどのようなものか、そしてそこで刑に服するようになった人がどのような生活を知る必要があります。しかし、裁判の公開されて誰でもが傍聴できますが、ほとんどの人は裁判を傍聴したことはないでしょう。ましてや罪を犯した人が、どのような生活をしているかを、考えたり想像することはないでしょう。いま、成人になりえばいつ裁判員になり、裁く側の人間になるかわかりません。そのために日頃から裁判のあり方や刑に服している人が、どのような場所でどのように過ごしているかを、知っておく必要があります。そのためには、刑務所や拘置所での中の様子を秘密にするのでなく明らかにしておくべきでしょう。


いま、少年の犯罪が凶悪化してきていると言う人がいます。わたしは、確かにニュースになり目にすることが多くなりましたが、実際に統計的に今までと比べて増えているのか変わりないのかは、知らないので私は何ともいえません。そして、少年法の適用年齢を引き下げることもされ、その年齢はよい引き下げようとする意見もあります。
触法少年に対する罰の厳格化や厳罰化と同じように、成人の罪を犯し人に対しては、より厳しくあるべきだと言う声が広がってきています。

裁判員制度は、犯罪に対して刑法の適用を検事や裁判官だけ判断するのでなく、市民の感覚も取り入れてゆくという趣旨です。それは、犯罪を犯したことによる刑罰は、市民も責任を負わなければならないということです。死刑が確定した人には、自分の罪を認めきれず自暴自棄になってしまう人もいるでしょう。また、死刑が確定したことにより自分と向き合うことをはじめ、自分が犯したことにたいし、悔いて被害者に対し罪をあがなおうとする人もいます。また、冤罪という可能性もありますせ。
それらのことにたいして、裁判員であるでないに関わらず、判決にたいして国民は責任を負わないといけないとおもいます。
責任を負うとは、犯罪が起きその裁判に対して、国民が自分には関係ないこととして無関心でいてはいけないと言うこです。第三者的なものの見方をして、そのことを考えるのではなく、被害者の当事者として、また加害者の立場に立ってその事件を考えて見なければならないと言うことだです。

犯罪については、いつ自分が被害者になるかわかりません。また、自分は絶対に加害者にならないと思っている人も、加害者にならないとは言い切れないはずです。そのうえ、自分が犯罪に対して刑を判断する立場に立つ可能性もあります。ですから、日頃から自分の生き方や社会のあり方などに無関心でいてはいけないということだと思います。

刑に服している人のことば

冤罪として無罪を主張していた、袴田さんの再審請求が認められしかも、48年ぶりに釈放されました。
今まで日本人は裁判については、検事や弁護士や裁判官のすることとして、自分にとって関係のないこっと思っていました。しかしこのことは、裁判員裁判が行われるいまは、自分にも直接関わってくる問題です。
裁判員に指名されたときになってあわてるのではく、普段の日常から裁判のことや刑を勤めっている人や死刑のことについて考えて置きたいと思います。

以前にもこのブログで、教誨師のことや刑務所のことなどの本を紹介しましたが。
<刑務所の中で生きる人の人としての生きるあり方>
ほかに、刑に服している人自身が著した本が、私の書架に並んでいるのを紹介してみます。


死刑囚句死刑囚
郷隼人夜の記録死刑囚の祈り

異空間の俳句たち 死刑囚いのちの三行詩
海曜社
死刑囚たちの句集

処刑前夜
北 山河・北 さとり編
東京四季出版
北 山河(1893年 - 1958年)は俳人で、極刑者に俳句を教えた。大阪拘置所を訪れ、「大樹」を主幹し、俳句を指導し囚人の心を支えた。その囚人たちの句集。

死刑囚 島秋人 獄窓の歌人の生と死
海原卓編
日本経済評論社
島秋人(本名中村覚)
強盗殺人事件を引き起こし、1960年の一審の死刑判決、1967年の死刑執行、享年33歳。獄中で7年間短歌を詠みつづけ、1963年に毎日歌壇賞を受賞

棺一基 大道寺将司全句集
大道寺将司
太田出版
三菱重工爆破事など9件の「連続企業爆破事件」で起訴され、最高裁において1987年3月24日に死刑が確定。
2014年現在、東京拘置所に収監され、再審請求中。現在、癌(多発性骨髄腫)を患い、一時は自力での歩行も困難になり拘置所生活を送っている。


夜の記録 聖母文庫
正田昭
聖母の騎士社
バー メッカ殺人事件の犯人、1969年12月9日、死刑執行。享年40歳


死刑囚の祈り 聖母文庫
山野静二郎
聖母の騎士社
死刑囚山野静二郎の日記。不動産会社社長山野静二郎は、同業の不動産会社社長を殺害し、1996年死刑確定。現在、事実の一部を否認し、2010年11月、第三次再審請求。


LONESOME隼人 獄中からの手紙
郷隼人
鹿児島県出身。若くして渡米。1985年、殺人及び殺人未遂の二件の罪で有罪の宣告を受け収監。以後、終身服役囚として服役中、カリフォルニア州立刑務所で服役。現在ソルダッド・プリズンに在監中。96年に、「囚人のひとり飛び降り自殺せし夜に“Free as a Bird”ビートルズは唱う」が朝日歌壇初入選以降「朝日歌壇」の常連


裁かれた命 死刑囚から届いた手紙
堀川惠子
講談社
1966年、長谷川武は東京国分寺市で主婦を被害、強盗殺で逮捕され、裁判ではさしたる弁明もせず、半年後に死刑判決、5年後に刑の執行。長谷川死刑囚が、独房から関係者に送た手紙からのノンフィクション。



最後に、先日の新聞の書評にあった本を紹介します。
教養としての冤罪論
教養としての冤罪論 森 炎
岩波書店 2,730円
裁判員裁判では、冤罪がおきたら裁判員のわたしたち自身にもその責任を負わなくてはならなくなってきていること。冤罪はまれにあることではなく、いつでもどこでも起こり得るものだと説いています。そしてもっと冤罪を身近な問題として考えないといけないとしています。

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

歎異抄
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。

現代語訳
善人でさえ救われる、ならばなおさら悪人は救われる。


このことば、親鸞の歎異抄の有名な言葉ですが、間違って解釈されてしまいがちです。「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」。と、解釈してしまう人が良くいると言われます。
被害者より加害者の方が救われるなら、罪による被害者やその遺族たちの心情はどうなのかと言われることがあります。もちろんそのことは考える必要があるでしょうが、同じ土俵で考えると、どちらか一方を立てろとなってしまいいます。両方を立てることもできないです。加害者が救われて罪を悔い改心しなければ、恨みは消えず被害者の心は癒されにいるのではないでしょうか。


私は最近、教誨師につての本や、刑務所や拘置所で刑を服している人に接している精神科の医師が書いた本や、刑務所や拘置所で刑を勤めている人の俳句や短歌や詩を開いています。
それらを読んでいると、罪を犯した悪人こそが、救われなければならないと感じます。
自分の犯した過ちは消し去ることはできないし、その罪は償わなくてはならないです。その罪に正面から向かい合って、罪を償う罰を受け入れることがでれば、その罪による責め苦から解放されるのではないかと感じます。

私も嘘をついたりごまかしたりした、小さな過ちはいくつもしてきました。また、そのような過ちを犯したことがない人は、いないでしょう。しかし、どのような人にも、地位があり名誉があり、経済的にも恵まれて、周囲からも善人だと言われている人は救われているとします。
その反面、名もなければ富も知識もない、また生育環境も良くなかったと、すべての意味で恵まれていない人をお悪人とするなら。そのような人こそ救われて極楽浄土のいけるべきと、親鸞は教えているのだと思います。

そして、善人である限りいつまでたっても、救われないとも考えられます。
巷で生活している善人は、社会的にいろいろなことがあり、そこには着飾ったり背伸びしたり、時には偽ったりしなければならない時もあるでしょう。善人はそれらを取り去るためには、自我を捨て果てなければならないでしょう、「空即是色 空即是空」でつまり一切のものを捨てて、愚に返ってはじめて救われると言うことでしょうか。しかし、善人はそれがなかなか出来ないから、救われないともいるように思います。

22日のブログで紹介した、『処刑前夜』北さとり編著の「ここ(獄中)におりますと、外では必要な飾りや嘘がいりません。いくらすましてみようとて、人からは彼奴は罪人だと指され、自分でもすなおにそれを認め、詫びるよりほかに道のない身。ここには裸になった人間の本当の姿があります」。を再びおもいだします。『処刑前夜』北さとり編著は、大樹社から出版されましたが絶版になっていまいたが、平成22年に東京四季出版から再版されています。

刑務所の中で生きる人の人としての生きるあり方 5

刑務所の中で生きる人の人としての生きるあり方 5

「教誨師」堀川恵子 講談社
このほんに、次のような話がのっていた。
ある死刑囚が教誨師との面談で、
「先生、あの法務大臣はとんでもない男ですね、いくら死刑囚だって、虫ケラを殺すんじゃあるまいし、次から次ぎへと幾らなんでもやりすぎです」(竹林註:その法務大臣は、10月下旬から11月上旬にかけてわかっているだけで、二十七枚の死刑執行命令書にサインしている。その大臣は署名当日、新聞記者を大臣室に招き、机の上に観音像を置き、数珠を片手に死刑執行命令書に署名する様子を写真に撮らせたと、この本に書いてあります。)
教誨師は軽い気持ちで「ま、法務大臣もそれがしごとなんだからな、職務熱心だろうよ」と応えてしまた。
死刑囚は「私はいつ吊されるか怖くて・・・・・・」
そのご、この死刑囚はその後、教誨にこなくなり。
死刑が執行されてしまった。そのときこの死刑囚は、一切の教誨師の立ち会いを拒否し、一人で逝ったそうです。

ちょっとした軽い言葉が、どれだけ人を突き放すことになり、貶めてしまうのかを物語っています。
教誨師は、特に死刑囚に対しては、凶悪な殺人の罪を犯したのだが、これから権力によって殺される人に対して、すこしでも心が救われることをすべきですが。このときの教誨師はその責任を果たせず、ついには最後まで見届けることができないことになりました。
この、何気ないちょっとした受け答えが、相手に対して大きく一生に影響する事もあります。それは、この教誨師の話だけでなく、私たちの日常の周りにも極ふつうにあるでしょう。

親と子供、教師と園児・児童・生徒との関係も同じことだと思います。ちょっとした言葉が、どれだけ相手に対して傷をつけるか、また反対にそれが励ましになり、どれだけの救いの言葉になるかわりません。

先生のちょっとした、叱責また冗談が、深く子供を傷つけ、それが原因で自殺したのではないかと、言われた事件もあります。
また、逆に生徒が成人してから会ったときに、あのときの一言が、自分を目覚めさせ救ってくれたと言われてこともあります。それを言った私の方は忘れているのですが、生徒の方はよく覚えています。
このようにどのようなことでも、その場その場は一瞬たりとも気を抜くことは出来ないものだと教えられます。

しかし、自分の今していることを間違いなく、ことをこなそうとすっると、また、その組織や団体が正しく行おうとさせると、そこには管理化され規則から外れることは、許されなくなる畏れがあります。そのような状況になれば、思うことを自由に行うことや、言うことはできなくなってしまいます。

話は戻って、昭和40年代ごろの刑務所や拘置所と、今の刑務所、拘置所のそれは随分違うそうです。昭和40年ごろまで死刑囚は広いところで運動したり、囚人同士で野球をしたり、花壇で花を育てることも出来たそうです。また、刑の執行は前日に告げられ、家族と別れを交わしたり、家族に遺言を書いたり、被害者の遺族の詫びを綴ったりする時間がとられたそうです。
しかし、今の死刑囚は刑が執行されるまで生かさず殺さず病気もさせずの生活を強いられ、外部との接触も極端に制限されているようです。そして、刑の執行はその時に告げられ執行されるそうです。
これは、死刑のある法治国家として、刑の執行が出来ない事故があってはならないからです。刑の執行ができないとは、病気になって死んだり、囚人同士が喧嘩して死んだりたり、死刑囚が自殺して刑の執行が出来なくなうことです。そのため、死刑囚は極度に管理監視されそた生活を送っているそうです。

そのように、思わぬ事故が起きてはいけないので、管理が強化されているのです。このことは、拘置所内のことだけでなく、今生きている私たちの周りでも、管理が巧みの強化されだしていることを感じます。
会社での仕事のしかた、お金の流通のしかた、物品の流通のしかた、学校での生活のしかた。それらの統計の取り方集計のしかた、成績の出し方などなどは巧みなっています。管理のマニュアルから外れるものは許されなくなっています。

そうなってくると、そのマニュアルをこなすことが目的になってしまい、仕事に余裕やゆとりがなくなり、少しでも間違いや歪みがあることがゆるされなくなり。ミスがでないようにと気をつかい、迅速さが要求されるので、時間をかけて物事を、自由に自分で念入りに考え、行動に移すことが出来なくなってしまうでしょう。
そうすると忙しさにかまけて、この教誨師のように軽い気持ちで応えた言葉や、教師がちょっとした言葉を発してしまうことにもなると思います。


刑務所や拘置所はどのようなところかは、世の中から隔てられたせかいです。そのため、多くの人はそこがどのような世界か知ることが出来ないし、法務省などは進んで中の様子を、公にしようとは考えていないです。もっとも、受刑者にも人権がり、プライバシーは守られるべきです。また、特異な事件の受刑囚などになると、マスコミなどが興味で取材して記事にしたりするから、無制限に公開すべきではないでしょう。

特に死刑囚の生活している空間や、刑の執行現場は極秘にされています。ただ、いろいろな書物や文献を読んでいくと、いま死刑廃止か存置かと議論になったり、世の中全体人権が叫ばれている現在、死刑囚生活する拘置所の生活は、昭和中程からどんどん管理化が進み、刑が執行される人の生活は息苦しくなっているようです。
凶悪な犯行をしたのだから、当然だと言う人もいるでしょうが、私などの凡人はいつその立場の人になるかわからないので、そのことを考えると気持ちが暗く萎えてしまいます。


また、話があちこちに飛びまくってしまいました。読みにくく理解出来ない記事になりすみませんでした。

袴田事件の袴田さんが釈放

袴田事件で死刑が確定していた袴田さん(78)が、静岡地裁に第2次再審請していたが、27日に求審で再審開始を決定しました。また併せて「拘置の続行は耐え難いほど正義に反する」として、刑の執行と釈放を言い渡しました。それにより袴田さんは午後5時半前、東京拘置所を出ました。逮捕から48年ぶり。死刑囚が再審決定と同時に釈放されるのは初めてです。

村山浩昭裁判長は「重要な証拠は捏造された疑いがあり、その必要と能力があるのは捜査機関のほかにない」と強く批判しました。また、「元被告は死刑の恐怖のもとで極めて長い間、身柄を拘束された。これ以上勾留を続けることは耐えられないほど正義に反する」と指摘して死刑の執行と勾留を停止したのです。これに対して、検察は再審を認めた決定を取り消すよう不服を申し立てる方針だそうです。しかし、勾留を続ける法的な根拠がなくなったとして釈放したそうです。
これまでに死刑囚の再審が認められた5件のうち、名張事件はのちに決定が取り消されましたが、ほかの4件はその後、いずれも再審が開始され、無罪となっています。

袴田さんは、長期の拘禁生活のため、精神的に病み認知症の症状がでているともいわれています。また、糖尿病にも罹っているともききます。

こんご、袴田さんの長期の拘禁に対する、心と身体のケアを必要とするでしょう。それと長期に社会と隔離されていために、社会的自立のための資源がないため、その支援も必要でしょう。また、48年間の社会との隔離されていたのですから、浦島太郎となってしまていますから、それに対する心の自立支援も必要でしょう。
また、再審が認められたということは、無罪になったことではなく、裁判がこれから続くということです。それに対する心のケアも必要でしょう。そして、もし冤罪ならそれに対する補償もしていかなくてはならないでしょう。

いずれにしろ、再審請求が開始されることになったのと同時に、拘禁を解かれたのは、今までになかった画期的なことと言えるでしょう。

これからの、日本の刑事処罰などの在り方にも関わってくるのではないでしょうか。

刑務所の中で生きる人の人としての生きるあり方 4

刑務所の中で生きる人の人としての生きるあり方 4

死刑判決を受け刑が執行されるまで、人によって違うがいくつかの過ごしかたをしている。
なかには、冤罪であるが死刑判決を受けている人。
自殺志願の死刑囚
自暴自棄になった死刑囚
敬虔な信仰にはいる死刑囚
冤罪だと罪から逃避する死刑囚

死刑執行は突如告知され執行される、日本の絞首刑は床が抜けてから、頸椎が折れての即死でなく、10分以上は意識がある恐れがある。絞首刑は首を絞めて殺すので、窒息死させるので、少なくとも床が抜けてからも、心臓は鼓動していると言われている。しかし、このあたりは日本ではまったく秘密にされえいるので、本当の所はよくわからないようです。


死刑は死刑を恐れての、凶悪犯罪の抑止力になるといわれますが、そのようなことはないと言う意見もあります。

見逃してはならないのは、自分が死にたいが死にきれず、人を殺す犯罪を犯す人が少なくないことです。
最近無差別に人を殺す凶悪な犯罪が起きています。これに対してマスコミや世の中では、刑の厳罰化の声が高くなっています。しかし、世を恨み悲観し自らの命を絶ちと思う人が、世間の注目を浴びて死ぬ舞台をつくるとすれば、それは人を殺して死刑になることです。
特定の人を恨み殺意を抱く人には、死刑は抑止力になるかもしれません。しかし、死刑になったら死ねると思い、何の関係もない人を殺す犯罪があるのは事実です。


森達也の「死刑」という本に、「判決文によく『生来人格下劣であって』というフレーズを裁判官が書くんです。」とかいています。他のところでも「死刑判決の理由に『矯正の余地がない』とかいいます・・・」。また、神戸の少年連続殺人事件の弁護士を取材したときの話が紹介されいる。弁護士は元刑務官であるという珍しい前歴の持ち主だが、刑務官で死刑執行に立ち会った人の話のなかで「一審の裁判官が死刑判決をだしながら、控訴しなさいと勧めたらしい・・・」と書かれてあります。
私はこれらのところを読んで、死刑判決の判決文を読んだことがないですが、その判決文を考え書いた裁判官は何様だと思っているのでしょうか。もし本当にそのようなことを書く人がいたら、私は総選挙の時に行われる裁判官の国民審査では、×を書くでしょう。もっとも判決文は一人で書くのではないでしょうが。
話は裁判官の意識の問題にそれてしまったが。これらは、裁判官の驕りと無責任で偽善者そのものだと言えないでしょうか。
罪を犯した人の刑について、私の思うところは、実際なにが良いのかわからず、択一的な答えることができないし、裁判官のような人を裁くような考えもできないです。

話はもどして、死刑は残虐だというが、死刑囚が拘置所で刑の執行という死と向き合いながら、刑務官や教誨師や精神科の医師や臨床心理士などと、過ごす中での罪を悔い改めそこらの坊主より帰依する人もいます。限りある残りの人生を過ごせることは、その人たちにとっては迷いがないかもしれません。逆に無期懲役の人は、労働に従事しながらも、永遠に毎日同じ時程の日課を過ごさなくてならないです。逆に言えば生殺しで生きた屍のようでもあります。それではどちらが残酷でしょうか。

また、被害者遺族の苦しみはどうなのか、憎しみは死刑にしないと晴れないといい、死刑は国家によって被害者遺族の応報感情を代わってする復讐だという人もいます。それなら、凶悪な犯行を起こされた遺族に、その恨みを晴らすために、絞首刑の床がはずれるボタンを押させてはと思ったりもする。
また、死刑が罪の抑止力になるとするなら、殺人事件だけでなく、他の事件に対しても死刑にしたらよいと思ったりもする。
逆に殺人犯は、目には目を歯には歯をと、惨たらしい罰を毎日お仕置きをしたほうが、抑止力になるのではないだろうかと思ったりする。いわゆる地獄絵を刑場につくるのです。
こんなことを書いてしまって、自分の頭がおかしくなってきた、このあたりで書くのをやめる。

しかし日本は法治国家であり、人権を重んじる民主主義の文化国家であると思います。そこには、お互いの人権を認め合い受け入れ合い、少数意見などやいろいろなことに対しても、心広く赦す気持ちを持つ心に決めるられることです。

しかし、最近はそれと逆の方向に進んでいるようにおもわれます。多数と違った少数意見に対して。また特異な事件が起きるたびに、その罪への厳罰すべきといわれ。被害者の心情どうするのかと、一言でその加害者やその家族までもが、パッシングを受けています。それは、インターネットの世界だけでなく、マスコミなども大きくそれを報じ助長します。また一部の政治家なども世論がそのような雰囲気だと、票集めのためか声を大きくして叫ぶ人もいるようです。
そのようなことについて私はどこか、襷が掛け違っているように思います。


最後に次の文を添えておきます。
『死刑囚いのちの三行詩 異空間の俳句たち』海曜社発行の本のあとがきに、一人の死刑囚が書いた文章が紹介されいる。
「ここ(獄中)におりますと、外では必要な飾りや嘘がいりません。いくらすましてみようとて、人からは彼奴は罪人だと指され、自分でもすなおにそれを認め、詫びるよりほかに道のない身。ここには裸になった人間の本当の姿があります」。『処刑前夜』北さとり編著 大樹社

刑務所の中で生きる人の人としての生きるあり方 3

刑務所の中で生きる人の人としての生きるあり方 3

今の死刑の執行の仕方、また無期懲役の収監のされかたは、まるで、ギリシャ神話のゼウスがプロメテウスにした仕打ちのようです。

ゼウスは、プロメテウスが自分が土から作った人に、天上の火を与えた廉で罰します。プロメテウスはコーカサスの岩に頑丈な枷で縛られ、苦痛を与える鎖により柱に緊縛。その上ゼウスは、鷲にプロメテウスの不滅の肝臓を食べさせる苦役を課します。プロメテウスの肝臓は不滅なので、鷲に食べられても夜になり、鷲が巣に帰っている間に肝臓は復活します。そして朝になると再び、鷲に肝臓を食べられます。生きながら地獄の苦しみを、来る日も来る日も味わうのです。しかし、プロメテウスはゼウスの息子ヘラクレスにの働きかけで赦免されます。

日本国憲法に次のようにあります。
〔基本的人権〕
第11条国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔拷問及び残虐な刑罰の禁止〕
第36条公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

日本では死刑囚に対しては恩赦はないと聞きます。また、終身刑の人に対しても、今までほとんど恩赦は無かったと聞きます。
死刑囚の中には犯した罪に対して、反省や償いの情になるのではなく、、自暴自棄になりより他人を恨んでしまうひともいるとききます。それとは反対に、教誨師との交流や刑務官との関わりなどで、宗教に帰依して心落ち着き、やすらかに刑の執行を待つ人も多いと聞きます。

日本では死刑の執行は、朝の9時ごろ行われるそうです。また、土日は行われないそうです。つまり、朝9時を過ぎると、後24時間生きられることを思い、翌日までお時間を大切に過ごそうとします。翌朝起きて9時まで死刑の執行があるかに怯えるのです。金曜日の9時を過ぎると、あと3日は生きられると思い、その3日を大切に過ごそうとするのです。
しかし、無期懲役の人は、単調で厳しい規則の中での刑務所の生活を毎日繰り返します。人はそのような状況の中で生活を続けると、自ら生きようとする気力をなくしてしまうと言われています。事実無期懲役の人の多くは、気力がなくし刑務官からの指示に従順になってしまう人が多いとも言われます。
これらの話は私が読んだ本から得られたものから書いたものです。事実は刑務所は世間から閉ざされ、外の者は中の様子を知ることはないので、私が実際の確かめたものではないです。

人によっては、罪を犯したものが罰を受けれるのは当然だ、「被害者の身になって見ろ、自分の身内が殺されたらどう思う」と言う人がいるでしょう。それに対して私はどちらともいえません、そのときにならないとどういう気持ちになるかわからないです。
ただ言えることは、憎しみを持つとその憎しみは増幅し、たとえその犯人に死刑が執行されても、自身の心に受けた傷は癒えることはないと思います。
犯人が自分の犯した罪に対して、悔い宗教に帰依していると聞き、犯人と交流することができその中で、犯人への憎しみは薄れるなら、自分の心の傷も消えることはないでしょうが少しは癒されるのではないかと思います。
実際に、自分の息子を殺されたが、犯人からの謝罪の手紙を読み、犯人と文通しているなか死刑廃止運動をしておられる方もいると聞きます。

死刑の廃止・存置だけでなく、自分が被ったことに対して、恨み辛みを募らせるだけなら、復讐心しかわいてこないのではないかと思います。赦す心をもつことにより、恨み辛みの心から逃れられるのではないかとも思います。

ネルソン・マンデラ元大統領ではないですが、なんでも、「対話 赦し 融和」から始まるのではなかとおもいます。

刑務所の中で生きる人の人としての生きるあり方 2

裁判で被告は拘置所に拘留され、判決後刑務所に収監されるが、死刑囚は拘置所に留め置かれる。刑務所は刑の罰を労働をもて務めるとろだが、死刑囚の罰は死をもて償うもで、労働をもって償うものではないから。もし死刑執行まで労働をもって償わせるなら、憲法の39条に書かれてる「同一の犯罪について重ねて刑事上の責任を問われない」に接触するからです。
また、死刑囚は外部との接触を厳しく制限されていること。死刑囚には自暴自棄になってしま人、深く宗教に帰依して巷の宗教やより深く考えている人、などがいること。
1970年第半ばまで、死刑囚の処遇は各拘置所の裁量に任されていたそうです。拘置所により死刑囚の集団処遇をして、茶道や華道などをしたり運動時間はグランドでソフトボールなどもしたそうです。そして執行の言い渡しは二日前に行い、親族との面会をさ充分ではないかもしれないが時間をとっていたそうです。
ところが、死刑執行を告げ執行の前日に布団の中で首に布を巻き付け自殺した人がいます。それ以降、厳しく外部との接触を制限され、死刑執行を告知しないようになったようです。死刑囚は処刑されるのが判るのは、いつもと違った廊下を通り刑場にいく途中でしょう。
などなど他にもいろいろあります、もっと詳しいことは上記の本を読んでください。

無期懲役の人と死刑囚とを比較して考えると、死刑囚の人の方がいつ来るかわからないが、必ず死というものが来ることが決まってことによるのか、無期懲役の人より有意義に日々を過ごしている。
無期懲役の人は、日々と毎日同じことの繰り返し、次第に生きる気力を失ってしまう人も多いと聞きます。人の言わせればそれが犯した罪への罰だと言う人もいるでしょう。ただ、私が思うにそのように、生ける屍のように毎日いかされるのと、死を待つ覚悟を悟った人とみると、どちらが残酷な刑罰かとも思います。

こんなことを書いていたら、「殺された被害者の人権はどうなる!」といわれるでしょうが、日本は法治国家であり立憲主義の国家です。
憲法には次のように書かれています。
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。 第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
被害者の人権はどうなる遺族の心情はどうなるといい、これらを無視しするなら法治国家を否定してしまいかねないです。
もちろん、被害者遺族の心情を無視してはならないし、大切にもしなくてはならないでしょう。しかし、そこで被害者遺族の皆が皆犯人を憎み恨んでいるかというと、そのような人ばかりでないようです。被害者からの謝罪の手紙を受け取り(ほとんどの人がそのような謝罪の手紙など読みたくないだろうが)、その手紙を開いたことをきっかけに、その死刑囚と文通を交わすようになる人もいる。そしてその多くは、犯人を許す許さないは別にして、犯人への憎しみは消え、被害者遺族としての自分の中の心も解放されていく人もいるようです。

私は、死刑を残すべきか廃止がよいかはよくわかりません。ただ、死刑囚だといえ人間であるので、残虐な刑罰はならないでしょうし、それが今私たちが生きているこの日本で、その残虐なことが起きていることから、目をそらすことはよいことだろうかと思う。死刑執行の告知のしかた、それまで一人孤独に過ごすこと、そして日本の絞首刑という執行法は、以前は安楽死と思われていた。しかし、絞首刑は窒息させるのだから死ぬまで時間がかかり悶絶するものと言われている。また、先進国で死刑を執行しているのは、アメリカと日本だけ。アメリカはかつては絞首刑だったが、苦痛が伴うとして電気椅子になり、その電気椅子も苦痛が伴うとして、薬物注射が主流になっている。そのアメリカも多くの州では、すでに死刑を停止している。
もっとも安楽死は、昔フランスで行われた斬首であると言われている。現在はフランスは死刑制度を廃止している。

裁判員裁判制度になり、日本人はもっと死刑制度につて考えるべきでだが、法務省は死刑のことについての内容は明らかにされない。
死刑囚の刑の執行が合ったことすら公表されないです。マスコミなどに流れるニュースは、拘置所から刑の執行が合ったから、遺体を引き取るように通事があったと、家族からの死刑囚の支援団体への連絡によるものだそうです。

刑務所の中で生きる人の人としての生きるあり方

裁判とは、罪を法律により罰するこ決めること。
刑務所とは、法律によって罪を犯した者に科せられた罰を、決められた任務や役割を果たための施設。といえるでしょう。

これだけだと、刑務所は簡単に言えば罰を受ける所となります。
そこには、こらしめのために罰を与える考えです。
此の考えは、江戸時代は罪を犯したものに、お仕置きを与える考えと同じです。
しかし、明治以降そして、特に戦後、民主主義に憲法のもの、あらゆる人に基本的人権として天賦人権の考えが取り入れられました。

そのため、拘置所や刑務所には、罪を犯した者にたいしての、更正指導、矯正教育などがなされます。
また、刑務所の隔離された世界での、精神的な圧迫感から通常の精神を保ことができなくなる人もいます。
また、精神的な不安定や疾患から、罪を起こしてしまったひともいます。それらの人に対して、単に強制的に罪に対しての仕置きのための罰を与えるのことは、より精神的に不安定になります。このことは、受刑生活を不良にしてしまい、そこでの罰が与えられ刑を終えることをできなくします。
そのためい、刑務所には精神科医師が受刑者の相談にのっています。
また、ボランティアの教誨師という民間人が刑務所で活動しています。教誨師は仏教の僧侶や神社の神主やキリスト教の神父・牧師などがその活動にあたっています。
教誨師といえば、死刑の執行前後に死刑囚に執行前に癒し、執行後に弔うだけと思われている人もいますが、死刑囚の宗教的心の相談にのったりします。また死刑囚以外の刑で入所している人に対しての活動もしています。

刑務所は国の設置するところですから、刑務所が受刑者が特定の宗教の信仰を深めたいと言っても、そのことを助けることはできないので、民間人がボランティアで行っているようです。

「全国教誨師連盟」のホームページの次のように書かれています。
全国教誨師連盟は、教誨師が矯正施設において被収容者に対し精神的・倫理的・宗教的な教誨活動を円滑に行えるよう支援することを本旨としています。
 教誨は自己の信ずる教義に則り、宗教心を伝え被収容者の徳性を涵養するとともに、心情の安定を図り、被収容者には自己を洞察して健全な思想・意識・態度を身につけさせ、同時に遵法の精神を培い、更生の契機を与える。もって、矯正の実を上げ、社会の安定に寄与することを目的とします。

とくに、死刑囚はいつ自分が死刑になるのか、今日か、今日かとおののいて毎日をすごしています。その精神的重圧は残酷だともいえるでしょう。そこで、精神科医の指導や宗教篤家の教誨の活動が、死刑囚や受刑者の精神的安定をはかり、心の癒しを培わせることが大切だといえるいえるでしょう。
ここには一つの矛盾があると感じます、日本の死刑は判決が下されてからすぐおこなわれないです。
私は賛成論者でないですが、死刑囚をだらだら生かしておくのは、人の尊厳を無視したもので、人道的にもそう許されてよいものかと考えます。
死刑囚が教誨師により帰依したり洗礼を受けし信仰してもそれは、それはどれほどの死刑囚の心の拠り所や慰めになるだろうかと思う。
外との関わりを強く制限させられ、外とのつながりを断たれているなか、いくら読経に勤しんでもそれは、刹那的で儚くその場しのぎでしかないかもしれない。それより大声で読経して今の自分の気持ちを紛れさせているのが現実的な見方だと言う人もいます。中には真に改心して信仰に入った人もいるでしょう。
それは、死刑囚本人と教誨師や精神科医やその囚人にかかわる刑務官の連携と協力が合ったからでしょう。

そして、この精神科医と教誨師の活動が、死刑囚以外の無期・有期刑の収監者にもなされることで、受刑者が更正して出所後の、生活再建と自立活動と心の自律の安定につながるでしょう。

わたしが、読んだそれらに関連する関連する本を紹介してみます。

   『教誨師』講談社 堀川惠子
   >『教誨師』講談社 堀川惠子
   『教誨師』講談社 堀川惠子
   一人の教誨師のことを綴ったドキメンタリー

   『死刑囚の記録』中公新書 加賀乙彦
   >『死刑囚の記録』中公新書 加賀乙彦
   『死刑囚の記録』中公新書 加賀乙彦
   拘置所で死刑囚を診ている精神科医の著書

   『ドキュメント 死刑囚』ちくま新書 篠田博之
   >『ドキュメント 死刑囚』ちくま新書 篠田博之
   『ドキュメント 死刑囚』ちくま新書 篠田博之
   
   『死刑』朝日出版社 森達也
   >『死刑』朝日出版社 森達也
   『死刑』朝日出版社 森達也

   『死刑のすべて 元刑務官が明かす』文春文庫 坂本敏夫
   >『死刑のすべて 元刑務官が明かす』文春文庫 坂本敏夫
   『死刑のすべて 元刑務官が明かす』文春文庫 坂本敏夫

   『刑務所のすべて 元刑務官が明かす』文春文庫 坂本敏夫
   >『刑務所のすべて 元刑務官が明かす』文春文庫 坂本敏夫
   『刑務所のすべて 元刑務官が明かす』文春文庫 坂本敏夫


私はこれらの本をよむまで、死刑という刑事罰に対して何も知ら無かったことに気づかされます。

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世界の差別と人権

ミャンマーのイスラム教徒のロヒンギャ族と仏教徒との衝突が問題になって、国際社会の批判が高まりっているそうです。
ミャンマーのロヒンギャ族はバングラデシュからの不法移民のとして国籍が与えられていない。しかしロヒンギャ族族はバングラデシュでも不法移民とされている。そこで、人権団体はミャンマー政府にたいして、ロヒンギャ族に国籍を付与するように求めています。
国際社会の圧力からそれに対して、ミャンマーの大統領は国籍付与の検討に入ったそうです。

しかし、この問題は国籍の問題だけでなく宗教的な問題もあるようなので、解決にはまだ長引くでしょう
 
政治的な解決より経済的に互いに豊かになってくれば、生活に余裕がでてきて互いの立場を受け入れられるようになってきて、それらの問題もお互いに歩み寄り解決でっきるでしょうがまだまだ時間はかかりそうです。
それには、生活が互いに苦しくて深刻な憎しみが深まらない打ちに、先進国が援助による利益を考えた援助でなく、ミャンマー自身の自立になる本当の意味での援助をしていく必要があるでしょう。それが、ひいては世界経済の発展につながり、援助をさしのべる側の先進国の利益として帰ってくるものだと思います。
 
話は飛びますが。幸せの国といわれているブータンですら、国際社会から注目されている難民問題があります。
ブータンは19世紀にネパールから多くのネパール人が土地を求めて移り住みだしました。ブータンの人はチベット仏教徒で、ネパールの人はヒンズー教徒ですが、当時の国を治めている人たちは受け入れていました。しかし、その後、移り住む人は増え続け国勢調査をすると、人口がヒンズー教のネパール系の人のほうが、もとの仏教とのブータンの人たちより多いことがわかり、このままでは国の安定が脅かされる存在として警戒するようになり、国籍が与えられる条件が厳しくなり、過去にさかのぼって国籍が取り上げられたりして、難民問題が発生するようになりました。
  
また隣国中国には、世界人民は団結しようという、スローガンをかかげていますが、自国の少数民族などに対しての、差別などがあり時々暴動があったことがニュースになっています。
 
このことは、ヨーロッパでも移民に対する差別や排他的な問題がニュースになています。アフリカ系のアメリカ人が大統領になった、アメリカでも未だに白人優位を唱える人も多いようです。これらの問題は今後も続くでしょうが、皆が考えて解決していかないといけないことでしょう。
そしてこれらは、国際社会から注目されて、多くの人が知っているところであるが、世界中でこのような少数民族や難民また在留外国人に対しての、偏見や差別や迫害などは大なり小なりあります。
それを知らない、自分たちに関係ないと過ごしていていいのでしょうか、大きな宇宙の青く浮かぶ小さな地球です。自分たちでできる小さなことはどのようなことでしょうか。

日本でもアイヌの方に対して、沖縄の方に対して、在日外国人に対して、いまだに差別や偏見などがあり、排他的な主張をする人もおり、裕福な人もいますが経済的にも苦しい状況にある人もいるのは事実です。

テーマ : 世界恒久平和を実現しよう
ジャンル : 政治・経済

■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

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記事へのコメント
  • 東日本大震災追悼式で安倍首相は原発事故に触れなかった。
    竹林泉水 (03/18)
    今一度野田首相が宣言したように、安倍総理は原発事故は収束したと本当は言いたいのでしょう。政府は必ず嘘をつく、それは、オリンピックの施設建設や、豊洲市場もそうです
  • 東日本大震災追悼式で安倍首相は原発事故に触れなかった。
    アジシオ次郎 (03/18)
    おはようございます。

    今年の東日本大震災追悼式典で福島第一原発事故に言及しなかった安倍総理だが、未だに原発事故処理が解決していない、避難区域解除も進んでいな
  • マンションの挨拶禁止
    竹林泉水 (03/13)
    アジシオ次郎さん
    コメントのお返事大変遅くなり申し訳ありません。
    いまのよのなか、スマホが行き渡り本当におかしくなってきた感じですね、友達と集まってもみなそれぞ
  • マンションの挨拶禁止
    アジシオ次郎 (03/01)
    こんにちは。

    マンションで挨拶禁止って、正直近所づき合いを否定するようなものだし、挨拶をしっかりすると言う人としての常識に思いっきり反する行為だと思います。
  • これからの世界のゆくへ
    竹林泉水 (02/20)
    わたしには、トランプ大統領のメディア批判は、日本の首相を見習っているように思えてしまいます。
    アメリカは自由と民主主義国の国でこのようなことはないと思っていまし
  • 軍隊は国民を守るにあらず国を守るもの
    竹林泉水 (02/20)
    コメントありがとうございます

    自衛隊法にどのように明記されていようが、文官と武官との考えの違いはあるのではないでしょうか。
    栗栖弘臣の言ったことは、上級指揮官
  • これからの世界のゆくへ
    アジシオ次郎 (02/18)
    こんにちは。

    アメリカのトランプ大統領のメディア批判は、自分に都合の悪い話をする者はケチョンケチョンにこき下ろすと言う子供じみた言動にしか見えないが、自分に
  • 軍隊は国民を守るにあらず国を守るもの
    まり姫 (02/07)
    自衛隊法第三条に人命救助をする仕事として書かれていますよ。
    主たる任務ではないけれど、副次的任務としてきちんと規定されています。
    元統合幕僚議長の述べていること
  • 世界の民主主義が行き詰
    竹林泉水 (01/26)
    以前から時々コメントされるのですが。
    コメントを投稿されても、ロシア文字のような文字化けや、タグを書き込みそれがそのまま表示されるコメントがります。

    そのよう
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