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天台小止観を読んで 0006-2-2-4

天台小止観を読んで 0006-2-2-4

天台小止観 正修行 0006-2-2-4

なかなか書けいなかった天台止観の続きを書いてみる。

先に「足を知る」ことについて書いたが、その中で、『即是呵責五欲也』と『謂棄五蓋』について触れてみた。
いずれも欲を棄て足を知ることが難しいものだが、その中でどのようにしていけばよいかが述べられている。
人の欲は無限なもので、それを戒めようと自分で思って、修養するよに勤めようとしても、いつしか気がついたら欲を貪ろうとしていることが往々にしてあるのではないだろうか。

そこで、天台小止観に次のようなことが書いてあった。
修行者である自分の都合のよい方法で止観に努めることが第一だと、しかし足を知ることに貪りがおこり、心が好ましくない状況の方向に陥り込みでしまう。そのような時は、まずは観をためしてみる。観とは精神を一つの対象に集中させて雑念を止め寂静になるようにすることである。それでだめな時は、止を試してみる、止とは正しい智慧によって対象をありのままに観察することです。止観のそ
れぞれ、観と止を試してみて、観で身も心も落ち着いた常態になれば、観がよかたのであり、止で落ち着いた常態になれば止がよかったことになる。と書かれている。

論語の為政に『観其所由』とあるが、真理を観察し細かな分別心が大切だと書かれている。
自分の行いを外から思いはかるようによく自分を観察し、理性で物事の善悪道理を区別しわきまえることが重要なのでしょう。
しかし、徒然草に「分別みだりい起こりて、得失やむ時なし」とあるが、修養すればするほどいろいろな心が浮動して『即是呵責五欲也』と『謂棄五蓋』は難しいものです。

天台小止観を読んで 6-2-3

天台小止観を読んで 6-2-3

天台小止観 正修の行

第二に、心が沈んだり浮かれたりする病的な状態を対治するために止観を修習することである。・・・・中略・・・・ もし坐禅をしていて、その心が浮動し、さわいでおちつかないようなときには、まさに止を修してこれを止めるがよろしい。

精神疾患の一つに、気分が昂揚して行動が活発になる躁状態と気分が憂鬱に沈み込む鬱状態が単独に、または周期的に交互に現れる症状があります。
これは、双極性感情障害Ⅱ型といるでしょう。いわゆる躁鬱病と言ってよいでしょう。

精神治療では、心理療法と薬物療法が行われますが、坐禅によっても、その症状を緩和させることが出来るようです。
しかし、この場合やはりよき指導者のもとに、修養のための坐禅をすることが大切だと思います。
そうしないとただがむしゃらに、坐禅をするなら若い頃の白隠禅師のように、禅病にかかり症状をより悪化させてしまうかもしれないです。私は精神科医医でも禅僧でもないので何とも言えないですが。

天台小止観には、鬱のときは観を、躁のときは止をすべしと書いてある。
それでは、「観」とは何か、「止」とは何かであるが、天台小止観の序に次のようにかかれている。止は、まよいへのとらわれを押さえつける第一歩であり、観は、まよいそのものも断ち切る力である、止は、人の心識を愛養するためのよき助け、観はものごとの正しい理解をおこすための妙術である。止は、禅定を得るためのすぐれた因となり、観は正しい智慧を発するより所である。と書かれています。

現代の私たち生活は、毎日様々なストレスがあります。だれもがその時々に気分の浮き沈みはあるとものです。
しかし、そのようなことがあるからといって、双極性感情障害ではないです。ただ、テンションが激しく上がったり下がったりして、自分でコントロールをするのが難しくなっている人が増えているようです。
これはなぜかと考えてみると、今の社会はスピードが強く要求されてきています。また、コンピューターなどの管理のもとシステム化されてきているので、ちょっと違うことをするとエラーが出たりして、多少の余裕や違いが認められず速さが求められることにあるのではないかと思います。また、中庸は嫌われ白か黒かの判断が即断即決が強いられています。ちょっと考えさせて下さいと言っても、早く決めなさいと責められてしまいます。まあ、政治家の考えさせて下さいは、やらないということで認められますが。私たち一般の人とには許されないようですが・・・。

そのような世の中の状態ですから、なかなかのんびりすることが難しいのが現状です。だからこそたまに、坐禅をしてみるのもよいのではないかと思います。

そして、次のように書いてあります。
これが心の沈浮の病を対治するために止観を修習することの原則である。ただしよく薬と病との相を識ってこれを用いるがよい。もし一一に効果が得られなければ、両者が一致しなかったという失敗があるわけである。

精神疾患の治療では、精神療法と薬物療法とを組み合わして治療されるようですが、この天台小止観にも、普段の坐禅での心の浮き沈みは問題がないが、それが激しく躁鬱になってしまっているなら、止観の修得と修養と薬物を使いその使いかは、その二つをよくしって使わないといけないと書いてある。

躁鬱薬は、躁に効く薬と、鬱に効く薬の相反する薬をつかうので、その使い方は非常に気をつけて使わないといけないと言われています。天台小止観は六世紀後半に書かれたほんですが、すでに現代精神医学が言っていることを述べているのでしょう。

天台小止観を読んで 6-2-3

天台小止観 第六章 正修行

一 坐禅中に止観を修行する方法 
1 坐禅を始めた時に乱れがちな心を調える止観法
2 病的な浮き沈みする心の状態を調える止観法
3 止観の効果を上げるための方法
4 禅定に入った時の誤った認識を調整する止観法
5 禅定と智慧のバランスを取るための止観法

1 坐禅を始めた時に乱れがちな心を調える止観法

観に二種がある。
一には対治の観と、二には正観がある。
対治の観は修習するのに、障害となる煩悩などをどのように滅ぼすのか。それを対治の観といい、不浄観をもって婬欲の心を対治し、慈心観をもって瞋恚の心を対治することで。改めて説明する必要なないだろう。

二の、正観とは、諸法の実相を観ずる智慧のことで、この世のあらゆるものの、偽りのない正しい姿をみようとつとめるため、欲望や怒りや憎しみや執着などを、消滅させ心の迷いを会得しようとすることといえるだろう。
このことに対して、天台小止観で釈尊が詳しく説いていると書いてある。
「諸法は牢固ならず 常に念に立在す すでに解して空を見る者は 一切に想念なし」

この世のあらゆるものは揺らぎやすく壊れやすいもので、常にどこでもそれがあらわれて迷いを起こすものである。しかし、そのことをよく解って、空を見ることができる者は、そのような心の中に浮かぶ考は起きてこない

坐禅に入るとき初めは空になることができず、妄念を抑え断ちきろうとしても、逆にますますそれらが沸き起こってくることがありがちです。そのような時は「心の縁ずるところの一切の諸法に随うべし。」と書いてある。
この諸法に随うとはなんだろうか、

坐禅をする時していない時にかかわらず、いろいろな妄念や三毒と言われる怒りや憎しみなどが沸き起こってくることは当たり前だとまずは思うことだろう。
いろいろな妄念や三毒が生まれてくるのは、過去からの未練などの思いがあるからだが、過去はすでに過ぎ去ったものだと割り切らないといけない。未来を悲観的だと思いこんでしまうのも同じで、現在に在るもは何かを考えるべきでしょう。

煩悩のためものの見方やあり方を見誤ってしまうと、道理を正しく判断して違いを見極めることができなくなる。そして、そのように道理を見極めることができなければ、言い争いをするだけでになってしまう。
言い争う事などがなくなれば、愛したり怒ったりする心も静まる。
愛したり怒ったりしなくなれば、心に自由な思いがなくなったりあらそいは起こらなくなる。そしてそうなれば心の平安はおとずれ、そこから悟りへとすすみ仏果がおとずれる。

釈尊はつぎのように言っている。
般若波羅蜜は 真実の法であって顛倒せるものでない 念も相も観もみなすでに除かれ 言語の法はみな滅する
無量の罪も滅除し 清浄にして心は常に一である かくのごとき尊妙な人は すなわち般若を見る

坐禅の初心者が、坐禅を始めたころは、心が乱れて穏やかに坐禅に取り組めないの当たり前と考え。焦らず気張らずに取り組んでいくとそのうちまずは心を平安にしする法が解ってくるだろう。そえには、欲をださず気張らず焦らずにするこを意識していければと思う。

天台小止観を読んで 6-2-2

天台小止観 正修行

この章の始めの、坐禅をするのに気が散ってはだめで、坐禅から心が放れないようにしないこととのべられていた。その次に坐禅の仕方にはいるのだが、ここでは「行者が初めて坐禅を学び、十万三世の仏法を修せんと欲せば、まさに重誓願を発し、衆生を度脱し、無上道を求むべし。」とかいてあることから、修行僧に対して述べてあるといえる。
それでは、修行僧の心構えとはどの様にあるべきなのか。その坐禅に取り組む心構えは、坐禅をするという揺るぎない心とを鋼鉄のように固く持たないといない。精進勇猛にして身命を惜しまなく仏法を学ぼうと、心を正しくして真実の相を深く考える気持ちを持たないといけない。
この心構えは、一日中を修行の場とする僧はむろんだが、坐禅に取り組もうとする人にもいえることだろう。

十地経に書いてある一節が紹介されている、「衆生が生死をくり返す、三つの迷いの世界である欲界・色界・無色界というものは、別の法無しといわれ ただこれ一心の作ることがたいせつだ」。

この一文、よく分からないのだが、読んでいて白隠禅師の「座禅和讃」が頭に浮かんだ。
衆生本来仏にて 水と氷の如くなり
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠くを求るはかなさよ
譬へば水の中に居て 渇と叫ぶ如くなり

人は、悟りにつても欲についてもおなじで、なかなか足を知ることができないもので。本当は今あることで十分なのであろう。
心の迷いをいなすことができれば、なにに対してもかわらない、真理を自分のものにすることができるということだろうか。

続けて経の一文が紹介されている。
「心にあって心をしらず 心は心を見ず 心に想を起さばすなわち癡なり 無想はすなわち泥〈サンスイ亘〉」
と。

さらに「座禅和讃」に次のように書かれている。
譬へば水の中に居て 渇と叫ぶ如くなり
長者の家に子となりて 貧里に迷うにことならず
六種輪廻の因縁 己れが愚癡の暗路なり
暗路にやみふみそへて 早晩か其の苦を遁べき
其れ摩訶衍の禅定は 称嘆するに餘あり

十地経に書いてあるように、三界すなわち欲界・色界・無色界というものは、きりがないので足を知らなければならないということであろう。

天台小止観を読んで 6-2-1-1

天台小止観 6-2-1-1
天台小止観 正修行を読むにあたって、止観を修習するのに、日常生活のなかの、すべてから四威儀すなわち、縁に歴り境に対して修習する行住坐臥から学ぶべきでるのであるが、その中でも坐禅が最良であると述べられている。しかし坐禅は一定の環境や時間を作らないと行けないので、今まで、第六章 正修の行の後段に書かれているところから読んできたが、それを読み終えたので、始めのところに書かれている坐禅についてこれから読んでいこうと思う。

坐禅について止観を説明するには、五つのことが重要だと書かれている。
一つは、坐禅をするはじめに乱れがちな心をうち破らうとする方法。
二には、心が沈んだり浮いたりする弊害を正そうとする方法。
三は、それぞれにあった止観を修する方法。
四は、禅定のなかの微細な心についての誤りを治そうとする方法。
五は、禅定と智慧とを均斎ならしめるたの方法。

第一の坐禅をするはじめに乱れがちな心をうち破らうとする方法止観をどのようにすべきか。
どのようなことでも、初めてするときは、緊張してしまうものです。そしてその緊張はあせりになったりすると、どうしても心があらく乱れてしまうことがある。そのようなときは、「止を修してこれを除くことにを試みる。しかし、それでもダメなときは、観を修してみる」。それが止観を修習する方法と書かれているがこれはどのようなことだろう。

止には三種があるがその一つは、

縁を繋ぎとめて離れてしまわないように、鼻隔・臍間等心を繋ぎとめ散ってしまなようにること。
坐禅をしていても、集中しようと思っていても、いつしかいろいろなことが思い浮かんでしまい、そのことをつい考えてしまう。だからそのようにならないように、猿を鎖でつなぐように鎖でつなげるように、人の心も枷や箍をはめないといけない。

しかし、心がうごいてきたら、それをおさえて馳けださないよにするのが二だと書かれている。
それには、10月28日に書いた、ニ 日常生活の中で止観を修行する方法の、2 境(色・声・香・味・触)のことと同じことが、端的な言葉でのべられている。
「この五根は 心をその主となす この故に汝等 まさによく心を制すべし」と。
眼・耳・鼻・舌・身は、迷いを起こさせる物が入ってくるところです。しかし、その迷いの主体は心であるから、自分の心が駆け出さないように、ちょうどよい程度に調整できないといけない。ちょうど調教師が馬を調馬するように自分の心を制御すること。
自分の揺れ動く心をコントロールできるようになれば、次の段階で五根が色・声・香・味・触にとらわれない様にすることで、それができればそれを止とと言う。

天台小止観に次のように書かれている。
経のなかに説けるがごとし。
「一切の諸法のなか、因縁は空にして主なし、心を息して本源に達す、故に号して沙門となす」

直接原因となる因と、間接原因である縁は実体のないもので、心を迷いなく安らかにゆったりさせることで、初めて物事の本源にたどりつくことができる。それの境地にはいると初めて修行者と呼ぶことができる。

呼吸法の危険性

呼吸法の危険性

白隠禅師は、若いとき誤った修行のしすぎで禅病にかかったと「夜船閑話」に書いている。そのことは、ブログで何回か書いたことがある。
白隠禅師の症状はどんなものだったかが、「夜船閑話」には、次のように書かれている。「心火逆上し 肺金焦枯して 双脚氷雪の底に浸すが如し 両耳渓声の間を行くが如し 肝胆常に怯弱にして 挙措恐怖多く 心神毛困倦し 寐寤種々の境界を見る 両腋常に汗を生じ 両眼常に涙を帯ぶ。 此において遍く明師に投じ 広く名医を探ると云へども 百薬寸功なし。」
意訳
心火逆上して、動悸がして、頭痛がして、胸騒ぎがして、息切れがし、手足は氷のようにつめたく、常に耳鳴りがして、集中心がなくなり、なにもする気が起きなくなり、悪い夢をみて眠れないで、常に腋の下は汗をかき、目やにがだらだらでる。このようになったので、名医を訪ねたり、あらゆる薬石を使えども、いっこうに効果がない。


白隠禅師の禅病は、このように医師に見てもらってもお手上げの状態になっています。白隠禅師がこのようになったのは、修行の仕方が悪かったからと言うより。初期の段階での修行のしかたの誤りが、重症化してしまったのです。白隠禅師は「夜船閑話」この前に次のようなことを書いています。

「勇猛の信々を憤発し 不退の道情を激起し 精錬刻苦する者 既に両三霜 乍ち一夜忽然として落節す 従前多少の疑惑 根に和して氷融し 曠劫生死の業根 底に徹して おう滅す 自ら謂へらく、道 人を去る事 寔に遠からず 古人二三十年 是れ何の捏怪ぞと 怡悦蹈舞を忘るゝ者数月 向後日用を廻顧するに、動静の二境全く調和せず、去就の両辺総に脱洒ならず。自ら謂へらく、猛く精彩を著け、重ねて一回捨命し去らむと、越て牙関を咬定し、双眼睛を瞠開し、寝食ともに廃せんとす」

簡単に現代訳にすると。
奮起して修行に励んでいること、2ー3年すると、突然一までの迷いが氷が融けるようになくなた。人が言うのに悟るのに一生かかると言うので足は舞い手は舞う喜びだった。悟ってから数ヶ月たって顧みてみると、坐禅の動静が合わないところがある。そこでさらなる悟りを高めるため、寝食を断ってでも修行に取り組んだ。

ここで注目したいのは、白隠禅師は一度は坐禅の修行をして悟りを開いたのですが、日々の生活を点検してみると、まだまだ足りないところがあるので、さらに厳しい修行に取り組んだとることです。それにより心火逆上するような、重度の禅病に患ってしまったことです。

前置きがながくなったが、いま様々な呼吸法の本が書店をにぎわしています。それだけ呼吸法がブームになっているのでしょう。私も、このブログで、「天台小止観」について書いているとき。朝の散歩のことを書くときに、呼吸のことについて多く述べています。
しかし、白隠禅師だけが禅病を患ったのではないです、比較的一般によく起こり得る病とされ、呼吸法などをするときは適切な指導者の管理の下ですることが大切です。

呼吸を深くすると、それだけ酸素を多く身体の中に取り込むことになります。その結果活性酸素が多くなります。活性酸素と言えば、老化の原因だとしてよく言われません。しかし、体内にある病原菌などを殺すために、活性酸素は活躍します。何でもそうですが一概に活性酸素を悪者にすることは間違いです。酸素を取り入れようと過呼吸になるような度を越した呼吸法は、体内の活性酸素が過剰になり危険です。体内に過剰な酸素が取り込まれると、強直性の全身痙攣を起こしたりする事が知られています。
白隠禅師は若いとき普段体験したことがない、幻覚などを感覚しそれを悟りを得たと勘違いし、さらに厳しい修習に励んだことに問題があったのです。
呼吸法などをして単なる悪い副作用を、それが修習の成果だと勘違いしてしまうことが一番恐ろしいことです。

これらの悪い副作用にがでたとき、その対処法として書かれている本をみると、どの本も「あせらず」「ゆっくりと」「ゆったりと」や気がちるなら「環境をかえる」「無理をせずあらためてする」また、「目標を高くしすぎない」などと書かれている。

また、29日に書いた自律訓練法では、7種類の言語公式したあと、「消去動作」をすることが定められている。
私が、太極拳教室で練習のあと必ずクールダウンのたいそうをします。他の運動でも準備体操をして、その運動に入り、最後に整理体操をします。どれもこの終わり方終熄の仕方が大切なのでしょう。

黄帝内経 素問 上古天真論

黄帝内経の素問 上古天真論に昔は四種類の仙人がいた、その四種とは、真人、至人、聖人、賢人と書かれている。
真人とは:心身とも天地の運行にとけ込み、天寿は無限である。
至人とは:天地の大道にかない、寿命は限りない。
聖人とは:心身とも疲れることなく百歳以上を享受する。
賢人とは:正邪をわきまえ、邪気・悪気に当たらないよう気をつけ長寿する。
昔は百歳を越えても、衰えなく元気な人が沢山いた。しかし寿命は段々と短くなってきているのはなぜだろうか。昔の健康長寿の人の、生活をはそれぞれこのようだと言うことだろう。


上古天真論には、聖人と至人に次のようにある。

余聞上古有真人者。提挈天地、把握陰陽、呼吸精気、独立守神、肌肉若一。
故能寿敝天地、無有終時。此其道生。

中古之時、有至人者。淳徳全道、和於陰陽、調於四時、去世離俗、積精全神、游行天地之間、視聴八達之外。
此蓋益其寿命而強者也。亦帰於真人。

余聞く上古になる者あり。
天地を提挈し、陰陽を把握し、精気を呼吸し、独立して神を守り、肌肉一の若し。
ゆえによく寿は天地をつくし、終る時あること無し。これこの道の生ずればなり。
  真人:天地陰陽の法則を解ってその通り行える人
  精気:天と地の間の万物を創世する気

中古の時、至人なる者あり。淳徳にして道に全く、陰陽に和し、四時に調え、世を去り俗を離れ、精を積み神に全く、天地の間に游行し、八達の外を視聴す。
これ蓋しこの寿命を益して強き者なり。また真人に帰す。  至人;広く深い道徳性を備えた人
  八達の外:八方の外の遠くまで


この「陰陽を把握し、精気を呼吸し、独立して神を守り、肌肉一の若し。」の下りを読むと、坐禅の呼吸法や気功に書かれているものと通じるところがあるように感じる。
天台小止観に「調和をはかれ」に説明されている。気功にも「精、気、神」の三要素の調和を求めている。
精とは、人をつくる血であり筋肉であり内蔵で身のことです。それと同じと考えてよいと思います。
 気とは、生命のエネルギーのことで、中医でいう経絡や 気脈のことです。
 神とは、精神や意識のことで心ことです。


「自分が聞くに、はるか太古には真人と呼ばれる、天地陰陽の法則を掌握している者がいたと聞く。
地を携え、天を挙げ、陰陽を把握し、精気を呼吸し、独り精神を守って肌肉と一体しているようであった。そのため寿命は天地から授けられた年を全うし長かった。これはこの道理の結果である。

昔は至人と呼ばれる、広く深い淳徳を備えた人がいたと聞く。
無駄なことのない養生法を見極めて、陰陽に調和し、四季の気候の変化に合わせ、世俗の世界から離れ、精気を積み重ね神気を合わせ、天と地の間を悠然と遊び、あらゆることの外の遠くまでを見聞きできた。このようであれば寿命は延びしなやかで強くなるのである。至人も真人も同じようなものである。

ここに書いたように、中国最古の医学書である黄帝内経も仏教瞑想法もヨーガも気功も、みな同じようなことを述べているように思う。

自律訓練法

自律訓練法は1920年にドイツの精神科医のJ.H.シュルツ博士ば考案したもので、自己調整法で自己催眠療法とも呼ばれてるそうです。

無理なく段階的に心身の弛緩状態が得られるよ組み立てられているもの、心身のひずみを自分で調整できる、系統的な心身の訓練法とされている。日頃の心身の健康の維持や増進のため、職場や教育現場などでもストレスの緩和法としても注目されています。私も特別支援学校に勤めていたときに、臨床心理動作法と組み合わせたことがあります。

自律訓練法のやり方は概ね次の通りです。
訓練をおこなう姿勢は、椅子に腰掛けた姿勢.寝ころんだ姿勢、ソファーに座った姿勢の3種類がある。
言語公式
軽く目を閉じて、決まった言葉(言語公式)を呪文のように唱える、声は出さずに心の中で繰り返す。
言語公式は次の7種類。
背景公式(安静練習)「気持ちが落ち着いている」
第1公式(四肢重感訓練)「右腕が重たい→左腕が重たい→両脚が重たい」
第2公式(四肢温感訓練)「右腕が温かい→左腕が温かい→両脚が温かい」
第3公式(心臓調整訓練)「心臓が規則正しく打っている」
第4公式(呼吸調整訓練)「自然に楽に息をしている」
第5公式(腹部温感訓練)「お腹が温かい」
第6公式(額部涼感訓練)「額が心地よく涼しい」
自律訓練法を終えるときは、効果の有無に関わらず、必ず
次の消去動作をする。
1.指の開閉運動を5~6回
2.肘の曲げ伸ばしを3~4回
3.背伸びしながら深呼吸
4.最後に目をあける。

練習の要点は次の通りです。
・動機づけ:目的意識を持つ
・練習環境:落ち着きやすいところ
・練習姿勢:椅子やソファーに座る、仰臥位姿勢の自然な姿勢
・深呼吸:深呼吸のあとの自然なリラックスした呼吸
・閉眼:目を閉じて集中させる。
・言語公式:言語公式を繰り返す
・補助イメージ:言語公式に合ったイメージを思い浮かべ補完する
・受動的注意集中:リラックスしようと意識しすぎると、逆に緊張しってしまう。自然に感じられるのを待つそれを「受動的注意集中」という
・練習時間:一回2~3分で行い、それを2~3回行う、これを1セッションとし、一日2~3セッションする
・消去運動:筋肉が弛緩し意識も眠りに近くなっているので、ゆっくりと覚醒させる
・開眼:すべて目を閉じて行う、消去運動から目を開ける
・訓練記録:記録することにより、自分がどこまで到達しているか確認して次の訓練にやくだてる。

   (「医療従事者のための補完・代替医療」金芳堂 参照)

気功の臥式静功

次は、気功の臥式静功を見てみます。

気功に「臥式静功」がありその一つの方法として仰臥式すなわち仰向けになる方法がある。
その要領と注意すべき点は次のようにすとされている。
・全身リラックスして、硬めの床に仰向けになる。
・背筋を伸ばし、四肢を自然に開き伸ばす。
・両手は腰の横に開き置くか、腹の上に重ね置く。
・枕の高さは負担のないほどの薄さ。
・口と目は軽くとじ、顔は微笑むようにする。
呼吸の方法は、吐く息で腹が凹み、吸う息で腹が膨れる腹式呼吸でする。息は止めないようにし、吐く息を長くし吐く息とともに全身が緩んでいくように念じる。

なかなか入静状態に入れないときは、放鬆功の方法を取り入れる。放鬆功とは、身体の各部分を順番に放鬆(緩んでいく)するのを念じながら、筋肉、骨接をまんべんなく弛緩させて、全身をゆるめていく方法です。放鬆すると身体が大地にとけ込んでいくような境地になるといわれている。


次に、ヨーガのシャヴァ・アーサの方法を見てみる。
・床が堅い方がよいが、固い毛布などの薄い敷物をしく。
・静かに仰向けになる。
・両腕は身体から少し離して置き、手のひらは上に向けるが、落ち着かなければ下向けでもよい。
・足はほんの少し開き、手や足は自分が気持ち良く感じる位置を見つける。
・頭の位置や腕や脚の位置、背中や尻の部分、顔などがリラックスして弛んでいるか感じとる。
・呼吸は静かに深めにおこなう。
・シャヴァ・アーサから抜けるときは、始めに静かに手足を動かし、ゆっくりと目を開ける。
・起き方は、開いている脚を閉じ、伸びをするように両腕を上方向に大きく伸ばす。(上とは解剖学的に上で、頭の方向)
・身体を十分伸ばしたら、全身の力を抜く。
・息をはきながら、両膝を抱えガルバ・アーサナ(退治のポーズ:両脚を抱え頭を付け全身を丸く小さくする)をする。そして、息を吐きながら顔も膝にしっかりとつける。
・両脚を静かにのばし状態を起こす。
・パシュチマターナ・アーサナ(背中を伸ばすポーズ:脚を伸ばし頭を膝につ、人差し指で足の親指を掴む)をする。
・好みの坐法で静かに坐り、深めに呼吸をし自分の身体のかく部分を感じ取る。
・シャヴァ・アーサをする場所の明るさは、明るからず暗からず。

これとよく似た方法に自律訓練法と言うのがある。それにつては次回に書こうと思う。

寝禅について

寝禅のことを書いたが、気功に「臥式静功 仰臥式」があり、ヨーガには「シャヴァ・アーサ(しかばねのポーズ)」というのがある。

寝禅について白隠禅師の夜船閑話序に、白隠が白幽仙人から学んだ、寝禅の方法がかかれている。
それをここで紹介してみることにする。

寝禅の要は「且らく工夫を抛下し、話頭を拈放して、先づ須らく熟睡一覺すべし。其の未だ睡りにつかず、眼を合せざる以前に向つて、長く兩脚を展べ、強く踏みそろへ、一身の元氣をして、臍輪氣海 丹田腰脚 足心の間に充たしめ、時々に此の觀を成すべし。」

・参禅の工夫をすることや公案を考えることを止めること。
・第一にぐっすりと眠り目を覚ますこと。
・それには仰臥位なり、両脚を伸ばし、脚を強く踏みそろえる。
・身体の中の元の気を臍下丹田と腰と足と土踏まずに充実させる
・熟睡できるようになると、気も心も身体も充実するのを感じ取るようになる。

そのようにして、気を臍の下の丹田から腰、脚、足裏に集中させることができたら、次四句を念ずること。
四句とは、
・我が此の気海丹田、腰脚足心、総に是れ我が本来の面目、面目何の鼻孔かある。
・我が此の気海丹田、総に是れ我が本文の家郷、家郷何の消息かある。
・我が此の気海丹田、総に是れ我が唯心の浄土、浄土何の荘厳かある。
・我が此の気海丹田、総に是れ我が己身の弥陀、弥陀何の法をか説く。
と四句が述べられている。気海丹田とは、東洋医学で、臍下一寸あたりのあるとされるものです。

ここに書かれていることをは、同じようなことが気功にも、ヨーガでも述べられてています。天台小止観の第四章の「調和をはかれ」で、調身 調息 調心の重要性が述べられているが、この白隠の夜船閑話序で端的に短文で述べていると思う。
両脚を伸ばし 強く踏み揃え 気海丹田 腰脚足心に気を充たす。つまり、下半身を充実させる。そのためには肩を弛め上虚下実にすることです。上虚下実とは上半身の力がぬけ下半身に気をみなぎらせることです。
そのためには、呼吸法が大切で、無理をしないで、吸う息はふつうに、吐く息はゆっくりと長く気持ちを集中させてする。
そして、その調息の呼吸法は、逆腹式呼吸で行うのがよいとされている。息を吐くとき下腹部をせり出し、吸うときに凹める、これを繰り返しながら、先の四句を念じよとしえいます。
これが寝禅の方法と私は思っています。


次は、気功の臥式静功を見てみます。

天台小止観を読んで 6-1-10

天台小止観を読んで 6-1-10

これで、正修の行の章は終わり次のように書かれている。

止観を修習すると、修行の中や日常の生活の中で、人は菩薩の摩訶衍となり悟りに導くことができる。
この第六章は、最後に釈尊言った次の言葉で締めくくっている。

閑かに林樹の間に坐し
寂然として諸悪を滅し
澹泊にして一心を得る
この楽は天の楽にあらず
人は世間の利
名・衣・好牀蓐を求む
この楽は安穏にあらず
利を求むれば厭足することなし
衲衣にして乞食を行じ
動止に心は常に一にして
自から智慧のを眼をもって
諸法の実を観知し
種種の諸法のなかの
みな等観をもって入り
解慧の心が寂然たらば
三界に倫匹なし


静かに林樹の中で坐禅をして
寂然としてこれまであった諸悪が絶えなくなってゆく
欲や執着が強くなくなり心が一つにまとまる
その楽しみは天の楽しみではない
人間は世間の利益や
名や衣やよい牀蓐をもとめるが
そのようなとで楽は本当の心の穏やかさは得られない
利を追い求めると満足をすることはない。
粗末な衣で乞食をおこない
動止に心は常に一にして
自分自身で煩悩を消滅させて真理を悟る正邪・成否・真相などを見抜く能力もて
あらゆる物事のありのままのすがたを観察し
種々の諸法のなかにたいし
みなひとしくものを見る見方をもってかかわり
智慧の心が寂然としているなら
このよの三界すなわち欲と色と無色において倫匹なくすぐれた人となることができる。

天台小止観を読んで 6-1.1-

天台小止観 第六章 正修行を読んでそれにつていかいているが、「正修行」は、始めに(1)坐禅中修止観(坐禅中に止観を修行する方法)について書かれている。
しかし、ここでは、(2)の歴縁対境修止観(日常生活の中で止観を修行する方法)の方から書き始めてみた。
しかし、その中でそれぞれの行・住・坐・臥・作作・言語の仕方や、色・声・香・味・触の感じ取り方について、繰り返しこれが要で大切だと述べているものがある。それは、坐禅中における禅定と智慧のバランスを取るための止観法のことです。

その部分について、そのことについて、第六章の正修行を読み終わる前に、読んでおこうと思う。

第六章 正修行の坐禅中に止観を修行する方法の5番目に禅定と智慧のバランスを取るための止観法とし次のようにある。

○第五に、定・慧を均斉ならしめんがために止観を修すとは、
というのは、禅定と智慧とを均等に調和さえ活用させないと修行ににならない、

この定と慧の二つは、車の車輪と車軸のようなもので、どちらが欠けても止観の修養にならないといえる。定心は身体で得るもので、智慧は心のはたらきだと言える。この二つが調和して一体になって修行ができるのだろう。
気功や太極拳やヨーガや様々な呼吸法も同じようなことを言っている。

定・慧のどちらが先でも後でもなく、どちらが主で従でもなく、どちらが重でも軽でもないことなのだろう。
しかし、どうしても意識の方が先にたち身体の方が後になってしまう。太極拳を練習してもいると、次はこのように動かすのだと意識してしまうと、手の方が先に動いてしまったり、手が身体の軸よりも越えて動いてしまう。眼方を据えて身体が動いて行くようにするようにと言われる。

○智慧すでに多くして心は豁然として開解し、智慧は分明なれどもしかも定心を得ず。定心少なきが故にすなわち心は動散す。故に風中の燈が物を照らすこと了らかならざるがごとくならん。

どちらか一方は主であったり、先に行きすぎると定・慧もバラバラになり、より迷路にはいるように解らなくなると言うことだろうと思う。

仏典に次のように書かれている
「もし定心なければ
空・無相等を観ずる智慧ありといえども
これを顛倒の智慧となし
これを狂の智慧となす 生死を出離することあたわず」

このことは、繰り返し繰り返し
「定」「慧」の二法を全体がつりあい整わせることが止観を身につけるのに大切だと説いていると私は理解する。

坐禅をして端身正坐するも日常生活の中でもこのことが大切なことなのだといっている。

白隠禅師の寝禅と天台小止観 正修行の臥

天台小止観を読んで 6-1-4のところで、第六章 正修の行で、臥について書いたが、寝禅について白隠禅師の夜船閑話序に、白隠が白幽仙人から学んだ、寝禅の方法がかかれている。
それをここで紹介してみることにする。

「我に仙人還丹の秘訣あり、爾じが輩試に是れを修せよ、奇功を見る事、雲霧を披きて皎日を見るが如けん。若し此の秘要を修せんと欲せば、且らく工夫を抛下し、話頭を拈放して、先づ須らく熟睡一覺すべし。其の未だ睡りにつかず、眼を合せざる以前に向つて、長く兩脚を展べ、強く踏みそろへ、一身の元氣をして、臍輪氣海 丹田腰脚 足心の間に充たしめ、時々に此の觀を成すべし。」

仙人が私に教えてくれた、なんじがこれを試せば、不思議なほどに、もやもやがとれて明るく先が見えてくるであろう。この寝禅を修めようとするなら、まず参禅の工夫をすることや公案を考えることを止めることで。一にぐっすりと眠り目を覚ますことだ。それには床についたら寝る前と、目覚めたときに長く両脚を伸ばし、脚を強く踏みそろえ、身体の中の元の気を臍下丹田と腰と足と土踏まずに充実させることにより、熟睡できなかったのが熟睡できるようになり、気も心も身体も充実することを感じ取るようになる。

要するに、寝るときはいろいろな悩み事があっても、ただ寝ることをするだけで、いろいろなことを考えたり思いめぐらしたりしないことだといっています。
夜寝る前と朝目覚めた時にするのが一番ようのだが、私もそうだが夜眠りにつくとき、今日の出来事や明日のことをいろいろ考えてしまう。特に仕事などしていると何も考えないで眠りにつくことはまず不可能に近いだろう。
それでは、朝起きた時はそれがしやすいと思う。今日一日のことは朝の目覚め寝禅が終わってから考えればよい。
朝、目覚めると床の中で延びをして、ゆっくりと呼吸をして行くのです。
再度の紹介になりますが、2011-12-13に書いた記事、<蒲団の中でのウォーミングアップ><蒲団から起きあがってのウォーミングアップ>を照らし合わせると、同じようなことをしているようです。あながち間違っていないかもしれないので、もう少し気持ちを入れて行ってみようと思う。

よく考えてみると私は朝目覚めたらまず、からだを伸ばしその後、早朝の散歩をします。この散歩も動禅とすることができるだろとおもう、これからそのことをもっと思って朝の散歩しすることにする。

天台小止観を読んで 6-1-9

天台小止観 6-1-9

第六章「正修行」の触について。

次に、触であるが、感触のことである。様々な触る感触もあれば、寒暖の感触もある。それらをどのように受け止めて感じていけばよいのだろうか。
特に触ることはそのさわり方で大きく違ってくることを知っておく必要があるとおもう。
天台小止観のこの項には次のように書かれている。

○ 覚するところの触にしたがってすなわち化幻のごとくにして実ならずと知り、もし順情の楽触を受くるも貧著を起さず、もし違情の苦触を受くるも瞋脳を起さず、非違・非順の触を受くるも憶想分別を起さざれ、

手や肌に物がふれたときの手ざわり肌ざわりによって、化幻のようなものであって、実体があるものではないと知り、気にいっったもの楽しいものに触ることにより、うれしさを露わにしたり、気に入らないものに触ってもそれと反対に、怒りや嫌悪の気持ちを露わにしない。また、そのどちらでもないような感触も、憶測をめぐらしたりその是非を勝手に判断してしまわないようにする。

人の身体は宇宙が凝縮したものと、東洋思想や東洋医学や仏教では考える、この後に[頭等の六分が四大と和合せるを、これ名づけて身となす。]と書かれているが、六分とは頭、身体と四肢のことで、陰陽思想などで四大とはすべての物質を構成する要素で地・水・火・風のことです。
触れた時の感触は、心中の表に出ない感触と外見が一致しにくいものです。

触れることについて述べているが、ここで横道にそれるが、私は身体の運動が不自由な子供たちと接してきたが、そこで子供たちの運動改善のために、九州大学で研究開発されてきている、臨床動作法という療法を学習に取り入れてきた。そこでは、子供たちに実際に手で触れて、身体の動作の動きを伝え押していくのだが、そのときの触れ方により学習の度合いが大きく違ってくる。言葉ではなかなか説明できないが、適度な触れ方が必要になってくるのです。
このことは、わかりやすい例として、按摩や指圧などの治療で例えるといいかもしれない。触ることにより初めて治療できるものですが、療治者は患者に触れるに対して、その患部に対して適切に治療が施されるように触れなければならない、それが弱すぎても強すぎても行けないし、心地よすぎても不快に感じてもいけない。それは医療者としてその適切な感触を知って置かないと、相手を不快にさせたり痛がらせたりするだけで、治療効果はないと言える。


話を天台小止観のはなしにもどす。
○誰かよく触を受けん。和合の因縁もてすなわち身識を生じ、つぎに意識を生じて苦楽等の相を憶想分別す。故に名づけて触を受くとなす。すなわちまさに反って触を縁ずるの心を観ずべし。相貌を見ざらん。まさに知るべし。

和合のその触ろうとするものと触られるもの因縁は、その身のが感じ取るものでそれにより、その感触がどのようなものかを意識するのである。それが楽しいとか苦しいとかの感触になる。だからそこで、触ったことによる感じた感触よりその感じた心がどのようであるかを注意深く見ることが大切となる。
この触についても、今までのべてきた見る聞く嗅ぐ味わうなどと同じようおとりだと書いている。

天台小止観を読んで 6-1-8

天台小止観 6-1-8

第六章「正修行」の耳 鼻 舌ということについて。

耳 鼻 舌についても、目と同じことが言えると書かれている。

○ 聞くところの香にしたがってすなわち化のごとく実ならずと知り、もし順情の香を聞くも著心を起さず、違情の臭気にも瞋想を起さず、
○ 鼻に香を嗅ぐときに止を修すとは、聞くところの香にしたがってすなわち化のごとく実ならずと知り、もし順情の香を聞くも著心を起さず、違情の臭気にも瞋想を起さず、
○ 舌に味を受くるときに止を修するとは、受くるところの味にしたがってすなわち夢のなかに得たる味のごとしと知り、もし順情の美味を得るも貧著を起さず、違情の悪味にも瞋心を起さず、非違・非順の味にも分別憶想を起さざ、

日常生活を送っていると、さまざまな話が耳に入ってくるよいいい話ばかりでなく、心地よいが心を惑わす声もあれば、怒りを覚えるような声もある。また臭いもおなじである、臭い、匂い、香り、薫り、漢字で書けばいろいろある。これも同じで心を惑わす香水のにおいもあれば、経をあげるときにたく香の薫りもある。
味も同じで、食欲をそそる味もあれば、食すれば死ぬことになりかねない毒の味もあれば、美味しい味のあまり貪欲になってしまう味もある。また、いやな味のあまり気分が悪くなってしまうような味もある。
味には六味あると言われる。六味とは、苦味 酸味 甘味 辛味 鹹味 淡味であるが、これには実体がない。

それと同じように、この味に関することだけでなく、音にも音階があり音色がある。においにも同じように違いがある。それらはみな実体がないものだが、色と同じようにそれを受ける人の、心の気持ちによって変わってくるものである。

それらには、繰り返しが実体のないもので、空なものだと知って置くべきでああろう、それにより貪欲になりすぎたり、憤りや怒りや腹立ちなどを持つことが、真剣に取りあげるだけの価値がないことを知ることにより、それらへの取り組み方も変わってくるであろうと思う。

自分もそうありたいと思うが、未熟者の私にはなかなか遠いことである。

天台小止観を読んで 6-1-7

天台小止観 6-1-7

第六章「正修行」の見るということについて。

今までは、日常生活での身体の動き動かし方について述べられていた。

こんどは人間の五感について述べてある。
五感とは、見る 聞く 嗅ぐ 味わう 触れるのことです。

一番初めは、ものの見方についてです。
一言でいうと、見るものにより心が惑わされたらいけない、ということを述べています。

○色を見るときにしたがってすなわち水中の月のごとく定実あることなきを知り、もし順情の色を見るも貧愛を起こさず、もし違情の色を見るも恚悩を起こさず、もし非違・非順の色を見るも無明および諸の乱想いを起さざれ、

池の水に写った月のように、目に見えているものはそこには実態がないことを知るべきといっている。気に入った者や心地よいものを見ても、心がとらわれてしまうと心が乱れるもとになる。なぜならそれは得ることができないものに執着してしまい求め続けることになるからという。
また、意に合わないものや嫌なものを見ると、恚に囚われたり気分が萎えたりしがちだが、そのようなことに心を惑わされると、より恚りの気持ちが膨らんでしまたりするので、やはりそれらに囚われてしまうのはよくない。
そのほか日常のさまざまなことを見ても、心を乱したしまってう、この世は煩悩に囚われ事実が見えず、因果の道理に暗くなり、心が乱れてしまう。

しかし、よく考えると眼でみたことによって、起きたいろいろな思いや考えや、好きだとか嫌いだとかいう、それ自体には実体がないことを知っておくべきです。
だからそれらをいつまでも思い悩んでいると、心の平安はいつまでたっても訪れないだろう。

だかっら、最後にこの見ることについて、次のように締めているのだろう。

○これに因ってすなわち一切の善・悪等の法あり。すなわちまさに返って色を念ずるの心を観ずべし。相貌を見ざらん。まさに知るべし。見る者および一切の法は、畢竟して空寂なり。これを名づけて観となす。眼に色を見るなかに預かり五番に止観を修するの意あり。前に分別せるがごとし。

天台小止観を読んで 6-1-6

天台小止観を読んで 6-1-6

第六章「正修行」の言語について

「口は災いの元」という言葉がある、まさにこのことである。自分の口から出た言葉が、周り回って返ってくるのである。また、人の悪口などを言っていると、ますますその人を憎むようになってしまう。

○ われ、いま、何等の事のために語らんと欲するや。もし不善・無記の事に論説せんと欲するがためならば、すなわちまさしく語るべからず。もし善・利益のためならば、すなわちまさに語るべし。

話す時も、妄念を起こしてはならない、悪口を言うとそのことで頭の中は、妄念の想像はますます膨らみ、人を憎む気持ちでいっぱいになってしまう。それでは心の安楽など起きるはずはない。そして呼吸は粗くなり心にも身体にもよくない。だからよく「口にする前に考えて言うべし」というのだろう。


○心の覚観によって気息を鼓動し、咽喉・脣舌、歯齶を衡くが故に音声・言語をだす。これに因ってすなわち一切の善・悪等の法あり、故に名づけて語となす。反って語の心を観ずるに相貌を見ざらん。まさに知るべし、語る者および一切の法は畢竟して空寂なり。これを観を修すと名づく。語のなかにまた預かりて五番に止観を修するの意あり。前に分別せるがごとし。

穏やかな心や怒りなどの心の動きにより、呼吸はかわり気息の鼓動も変わる、喉・脣舌、歯齶を衡くそれにより、言葉の調子や抑揚も変わってくる。
このことから人が話す言葉を聞いていると、その相手はどのように考えているかわかってくるものです。
だから、第六章「正修行」の縁のなかに言語あるのです。
言葉と言うものは、今まで述べて来たことと同じように、形や色はなく、実体もない、つまり語ったことや語られたことには空無だと天台小止観の正修行でいっている。ことことも前から説明しているとおりである。

天台小止観を読んで 6-1-5

天台小止観を読んで 6-1-5

第六章「正修行」の作作について

縁について行・住・坐・臥・作作・言語について述べている、四番目の作作とは、身体の動かし方のこについて言っている。

○こう考えるがよい。心が体や手を動かすことによって、いろいろものごとを作すことになり、それによっていろいろな善悪等のものごとがあることになる。ところが反って作す心を観察してみるに、すべて相貌は見られない。すなわち作す人も、作されるものごとも、結局は空である。これを観を修習するという。作すことのなかにもまた五番に止観を修行する意味があること、前に説明したとおりである。

太極拳をしていてそれぞれの套路をする時、動かすことに意識を向けるとその動きがバラバラになってしまう。意識をしまいと思うと今度は緊張をしてしまい、それぞれの動きが硬くなってしまう。太極拳の動きで一見手を動かしているように見えるが、実はからだ全体の動きの中で、結果的に胸を広げて腕が開き打解いているのです。それについてよく師から言われるのは背骨背筋から手がでていると思えと言われます。また、気功の本などを見ると、手を動かすときも手だけが動いているのでなく、丹田から手は出ていることを知るべしという。丹田は宇宙と繋がり気に通じているので、手だけが独自に動くことはありえないと言う。人の身体の動きは一挙手一投足は丹田から出ていてそのまま、宇宙とつながっていると言う。

太極拳の套路をしているとき、この動きは間違っているかなと思ったり、いま自分の身体の軸や重心が捻じれたりズレタリしていると感じることがある。そのようなとき自分の身体の動かし方が良くないと思えば、そのまま続けるのではなくそこからやり直してみることが大切だと言われる。
悪い動きを続けるとそのままいつまでも悪い動きを引きづってしまうので、いつまでも上手にならないばかりか正しい動きが身につかず逆に間違った動が癖になってしまう。

これらのことは、今まで、行・住・坐・臥で述べてきたことと同じでことだと言える。

天台小止観を読んで 6-1-4

天台小止観を読んで 6-1-4
第六章 正修の行

坐の次は臥についてかいてある。臥とは寝ることです。

○もし不如法・放逸などの事のためならば、すなわちまさに臥すべからず。

寝るときは今なぜ寝るのか、ただ怠惰で怠けたいから寝るならそれはよくない。

○もし四大を調和せんがための故ならば、まさに臥すべし。臥するときは、まさに師子王の臥するがごとくなるべし。

寝るのはからだの調和をはかるために寝るのであって、寝るときは泰然として熟睡できるように寝るのがいい。
人の体は寝ることによって、心の疲れとからだの疲労をとることはよいことは、現代の医学でも大切なこととして、いろいろな健康本にも書かれているとおりです。それにより天台小止観止観にも書かれている。

よく、なかなか眠れない、いろいろ心配事があり、酒の力でそれを紛らわせ酔っぱらってのむ、それは善くないということだと思う。
そのことについて、今の私は反省しきりである、心配事があるとついつい、酒に頼りそれを忘れて眠ろうとする。
それは結果的に何ら解決しないで、問題の先送りをしているだけである。その上にしまいに酒を呑む量が増えればいや増えなくてもアルコール依存症と言えるだろう。

臨済宗の中興の祖といわれる、白隠禅師の夜船閑話に仰臥禅のことが書かれている。
仰向けの姿勢で行う禅であるので、床に入り就寝まえに行えるものです。
床の中で仰向けになり、からだを楽にして、呼吸を整えて、気持を安定させて自分の意識の流れを感じようとする。それにより結果的に日中に緊張していた自律神経をゆるめることにより、副交感神経作用を得ようとするものです。副交感神経作用は体の修復関係を促すから健康法としては期待できると思う。
これらについては、依然呼吸法でこのブログに書いたことがあるのでそれを見直してみようと思う。

2011-12-13 蒲団の中でのウォーミングアップ
http://tikurinnnohoujyoann.blog.fc2.com/blog-entry-472.html

天台小止観を読んで 6-1-3

天台小止観を読んで 6-1-3

第六章 正修の行

○何等の事のために坐せんと欲するや。不善・無記の事のためららば坐すべからず。善・利益の事のためならば、坐すべし。

ここでは、行と同じようなことが書かれてる。自分がここになぜ坐っているのかよく考えてみて、よくないことのために坐っているのか、ただぼんやりと目的もなしにすわっているなら、そのような場所に坐っていない用がよい。なにか目的があったり、よいことをするために座っているなら坐り続けるのがよい。


○一切の善・悪等の法あるも、しかも一法の得べきなし。すなわち妄念は起らざらん。これ止を修すと名づく。いかんが坐のなかに観を修せん。まさにこの念をなすべし、

自分が坐っこと原因で、善いことや悪いことを起こすことになるのだが、そのことがわかっていれば、妄念に近寄らないことをすることができる。よからぬ迷いの心が湧きおこり心に迷いから生じないようにするには、観を修することが重要としている。

○心が念をなすによって脚を累ねて身を安んず。これに因ってすなわち一切の善・悪等の法あり、故に名づけて坐となす。反って坐の心を観ずるに相貌を見ざらん。まさに知るべし。

心の中に妄念がわき起こってくるのは、これが善いこれが悪いという思いがあるからで、それをなくすことがだというのだが、それにはあらゆる世俗のかかわりを捨てなくてはならないのだろうか。
キリスト教の聖人のアッシジのフランチェスコは、裕福な商人の家に生まれ放蕩生活を送っていたが、神の声を聞いてから、世俗を捨て貧しい神の貧しさとりに倣い生活したという。宗教の修行の中に生きる者はそれでよいが、世俗の中に生きている私たちはどのようにしたらよいのだろうか。
それは、行でも書いたように、よからぬことは気がついたらそこで止める引き返すことが大切だろう。

天台小止観を読んで 6-1-2

天台小止観 正修行
第六章 正修の行

昨日のブログで、行の中に観を修めることで、同じところに留まっていたると妄念が沸き起こってしまうと書いたが、この住とはその立留まることによって起きてくることについて書いている。

○つぎに、もし住のときにおいては、まさにこの念をなすべし。われ、いま、何等の事のために住せんと欲するや。もし不善・無記の事のためならば、すなわちまさに住すべからず。もし善・利益の事のためならば、すなわちまさに住すべし。・・・・すなわち妄念は起こらざらん。これ止を修すと名づく。いかんが住のなかに観を修せん。まさにこの念をなすべし。

悪いことをするためにそこにとどまるなら去るのがよく。善いことをするためなら、そこにとどまり行うべき。
悪い妄念が起きたときにはそこを立ち去ると、妄念は起きてこない。

○反って住の心を観ずるに相貌を見ざらん。まさに知るべし。住する者および一切の法は、畢竟して空寂なり。これ名づけて観を修すとなす。住のなかにまた預かりて五番に止観を修するの意あり。前に分別せるがごとし。

人の行いというものは、心があるから行えるのであって、身をたてて立ち直ることができるものだが。
返って住するための心をコントロールする事を意識しすぎると、住することを続けてよいか、去るのがよいかがわからなくなる。そのためには、呼吸を静かに落ち着かせて軽やかにしていくと、頭の中に湧き起ってくるものや、考えることは無常なことと思うのがいい。そうすると心も体も落ち着いてきて気が広々としてくる。これには呼吸を軽やかに深くしかも、吸うことより吐くことを重きにおくのがよいと言えるでしょう。

太極拳では、一番最初は予備勢(ユイベイシー)と呼ばれる姿勢から始まり、起勢(チーシー)に移るとき、左脚開歩と呼ばれる動作をする。この予備勢は静止状態から始まり、左脚開歩で立禅の状態になります。この予備勢と左脚開歩して立禅になることが大切といわれる。呼吸を整えて気持ちを落ち着かせ、自分のからだに聞く準備をするわけです。そしてその感じたからだが、次の動作の準備ができているなら次の動作に移る。準備ができていないならよくない動きをしてうので、次の動作に移ることをやめ体に聞き直すようにする。と太極拳では教わります。それと同じことが日常の中の正修行につて書いてあると私は理解している。
このことは、太極拳だけでなく日頃の日常生活の行いや、自分が行う事業や行事につていも同じことが言えるだろう。よからぬことは気がついたらそこで止める引き返すことが大切です。

天台小止観を読んで 6-1-1

天台小止観を読んで
第六章 正修行正しい止観の修行法

ニ 日常生活の中で止観を修行する方法 
 1 縁(行・住・坐・臥・作作・言語において)
 2 境(色・声・香・味・触において)
とは、具体的にどのようなことなのでしょうか。

縁は、
・行(行く)・住(じっと止まる)・坐(坐る)・臥(横になる)・作作(行為する)・言語(話す)。

このことについて考えてみたいと思う。
行とは、行くことであり行くことは歩くことでもあります。
私は毎日早朝に散歩しています。そのときの歩き方などはこのブログに紹介しました。からだを意識して歩く、歩き方を意識して歩く、からだを感じながら歩くなどについて書きました。しかし、それを意識しすぎるとよくないです、意識しすぎること緊張して余分所に力が入ってしまいます。禅には意識せずにただ坐るだけと言います。これは、坐ることに意識しすぎそれに執着してしまうと、とらわれてしまい、悪い結果が出てしまうのだと思います。
だけど、何も意識しないと止観を求める「やる気」や「モチベーション」が低下してしまいます。

また、散歩をして歩いているときに限らず、何かしようと目的地に行くのに歩いているときも、何も考えずに歩くことが大切でしょう。特に何かしようと目的地に行くときは、いろいろと行先でどうしようかと思案しながら歩くことが多いものです。
天台小止観に次のようにある。

○ 行者は、もし行のときにおいては、まさにこの念をなすべし、われ、いま、何等の業のために行かんと欲するや。もし不善・無記の事のためならば、すなわちまさに行くべからず。もし善・利益のため、如法の事のためならば、すなわちまさに行くべし。

まずは、自分は何のために行くかを考えて、善きことをしに行くなら行くのがよい、悪いことをしに行くなら行かないようがよい。

○ いかなるをか行を修すと名づくるや。もし行のときにおいては、すなわち一切の善・悪等の法あるも、しかも一法の得べきなし。すなわち妄念は起らざらん。これを止を修すと名づく。

まずは、そこに行くことによって結果として悪いことをしてしまったり、善いことをしたりする。とくに善くないことそれは自分いとって一つも得なことで内ことを肝に銘じておくべきでないかと思う。しかし、もう妄念が沸き起こりしてしまいがちです。だから行く前にもう一度それすべきか行くべきかを考えるべきです。ハムレットではないですが、To Be Or Not To Be ですね。

○いかんが行のなかに観を修せん。まさにこの法あり、故に名づけて行となす。反って行って心を観ずるに相貌を見ざらん。まさに知るべし。行く者および一切の法は畢竟して空寂なり。それを観を修すと名づく。行のなかにまた預かりて五番に止観を修するの意あり。前に分別せるがごとし。

行の中に観を修めとはそのことであり、同じところに留まっていたとするとあれでもないこれでもないと、妄念が沸き起こってしまうものだし、立ち止まらず進んでいる時でも様々な誘惑などがあるが、それに惑わされないようにしないといけない。
そのためには、呼吸を静かに落ち着かせて軽やかにしていくと、頭の中に湧き起ってくるものや、考えることは無常なことと思うのがいい。そうすると心も体も落ち着いてきて気が広々としてくる。これには呼吸を軽やかに深くしかも、吸うことより吐くことを重きにおくのがよいと言えるでしょう。

天台小止観を読んで 6

天台小止観を読んでいくと、いつもこの第六章で滞ってしまう。
この章は、坐禅を正しくおこなううえでの心構えを書いてある。その内容は次のようなものです。


第六章「正修行」 正しい止観の修行法
一 坐禅中に止観を修行する方法 
 1 坐禅を始めた時に乱れがちな心を調える止観法
 2 病的な浮き沈みする心の状態を調える止観法
 3 止観の効果を上げるための方法
 4 禅定に入った時の誤った認識を調整する止観法
 5 禅定と智慧のバランスを取るための止観法
ニ 日常生活の中で止観を修行する方法 
 1 縁(行・住・坐・臥・作作・言語において)
 2 境(色・声・香・味・触において)

一も大切ですが、二の日常の生活の中でどのような心で過ごしたら良いかをについて考えて見ようと思う。
それから、一の坐禅中修止観について見てみようと思う。
どのようなことで止観を学ばないといけないのか。

縁とは次の六種類である。
行(行く)、住(じっと止まる)、坐(坐る)、臥(横になる)、作作(行為する)、言語(話す)である。

境とはどのようなことに対して止観を学ぶかというと、六塵の境がある。
眼は色に対し、耳は声に対し、鼻は香に対し、舌は味に対し、身は触に対し、意は法に対してである。


止観を学ぶの最も効果的なのは坐禅をすることです。それにつては今までにも書いてきたが。いつもいつも坐禅をしているわけにはいかない。現代の忙しい日常生活の中では、仕事もあればいろいろと煩わしいことも多いです。
そこで止観を学ぼうと言う人は日常生活のなかで、六つの縁がある。「行・住、坐・臥・作作・言語」天台小止観に書かれいる。これは、日常の営みや仕事の中で、見たり聞いたり感じたり考えたりする一切の中に、止観を学ぶ機会があることを心得ておく必要がある。

境とはその対象は、人間の五感と意と言うもので、眼は色に対し、耳は声に対し、鼻は香に対し、舌は味に対し、身は触に対し、意は法に対してである。
この、六塵の境は人を惑わすもとになるので、それに対しての感じ方を止観を学ぶのだということを心得て置かなければならい。

この「正修行」にはその方法が具体的に書かれている。これから読んで行こうと思う。

天台小止観を読んで 5

天台小止観 方便行

第五章 方便の行 

方便とは、坐禅とは涅槃の道に入るための仮の手段ということでしょう。
でその行には五つあるといわれている。
一に欲、
二に精進、
三に念、
四に巧慧、
五に一心。

一の欲は、妄念の貪欲からくる欲ではなく、自分自身の向上心のことです。心の迷いから真実でないものを、真実であると考えてしまい、迷いからうろたえ気が転倒した誤った考えを遠ざけようと欲する心です。
それは、「一切の善法は 欲をその本となす」と仏が云っているものです。
それを他の置き換えるなら、「志す」「願い」「好む」「楽う」とも言う。

二の精進は、
雑念を去って一心に仏道を守り、修行することに打ち込んで励むことです。
これは、修行をしているときは、夜も朝も気をゆるめずに、専精にして途中でやめたりしないことである。
仏が阿難に云っている。「諸仏は 一心に勤精進せるが故に、三菩提を得たり」

三の念とは、
世間は欺瞞や誑かしが多く、品がなく慎みがないものとして蓋をして、禅定と智慧は尊重して貴いもの念ずることです。この禅定を得ると、それが十分自分にそなわり、いっさいの神通・道・力を得られ、自分だけでなくその徳を、周囲の人にも分け与えることできるようになる。
だから、この禅定と智慧を念じることが大切なのです。

四の巧慧とは、ものの本質を見抜く智慧のことでしょう。
世間的な日常生活の世間的な楽と、修行の禅定での楽があるが、
世間的な楽は、実は楽が少なく苦が多いもので、惑わされるものが多く実体がないもので、それは真実なものではない。これ進むべき道が分からなくなるもので、これ重要ではない。
禅定の楽は、煩悩がなく無為自然であり、乱れがなくひろくゆったりとして、迷いがなく苦しい思いから離れられることができる、これはすなわち利のあることであり、大切なことである。
すなわち巧慧は、禅定を手際よくやりくりし巧みにその時々にあたるのに、その本質を見抜く鋭い洞察力をもつことといえる。すなわち炯眼な洞察力といえるでしょう。
そして、修行をするときは、今までに書かれてきたように、その方法を身につけるのには、心をおちつける法を自分のものにすることで、それが巧慧と言うものだとする。
五の一心とは、修行の方法に迷ったり、煩悩などに惑わされてはいけない、一心に修行することが、禅定・知慧の功徳を得られる修習の方法だといいます。
このことは、坐禅に限らずほかのどのようなことにも言えることでしょう。
そして巧慧・一心と説く。仏が
「智にあらざれば禅ではなく 禅でなければ智でもない」といっています。

天台小止観を読んで 4ー4

天台小止観 4ー4

前回は坐禅への入るときに心がけ用心する点を述べた。
次に、坐禅中の注意点が書かれているのせ、それを読んでみる。
坐禅をしている中で、身・息・心の調和が乱れてくることがある。それに気がついたらその乱れているところを直ぐに直さなくてはならない。
身体が調っていても、呼吸が不調和なこともあれば、逆に呼吸はしていないように調っていても、身体が揺れたり前屈みにや反り気味になったりすることもある。それに気づいた直ぐに直すことが肝要である。また、身と息は調っていても、心が沈や浮また寛や急になり調っていないこともある。そのときは、気がつけば、坐禅に入るときの要領で調えて行くことが大切である。

この坐禅中の乱れに気がつくのに順番もなれれば、それを正していく順番もない。しかも、自分がそのように乱れていることに気がつかないこともある。だからこそ、気づいたらそこから、調えていくことが大切といえる。
そして、そのことができ調えられは、以前からの調子の悪いところが消えていき、病も治っていき健康になってゆく。
このことは、臨済宗の中興の祖と云われる白隠禅師が、若いときに修行に励み過ぎ、頭痛胸痛はし肺と心臓は焼けるようになり、常に耳の中に蝉がいるように耳鳴りがし、手足は氷のように冷たくなり、重い禅病にかかってしまったが、白幽老師に教えをうけ、禅病が治ったことが「夜船閑話」にも詳しく書かれている。
坐禅は、養生の健康法の一つともいえるのでは内でしょうか。


最後に坐禅を終えるときの方法が書かれています。
坐禅をいきなり終えるのではなく、段階を追ってゆっくりと身体を楽にして戻して行くべきだと書いてある。
暖房で燃やしているファンヒーターを、いきなりコンセントを抜いて止めるのではなく。運転ボタンを押してファンヒーターの余熱を冷ましてから、電源が切れるのと同じようなことでしょう。
また、運動をしていても、必ず始めに準備運動をし、終わってからは整理運動をします。太極拳などのゆったりゆっくりしたものでも、準備運動と整理運動は大切にしています。それは坐禅にも同じことがいえるようです。

それでは、どのようにして坐禅から抜け出るのか。
始めに、引き締め緊張している気持ちを、楽にして心を解き放つ。、
つぎに口を開いて息を吐き、気を放つことにより、身体に給っている気を外に出て行くことを想像する。
その後、身体をゆっくりと少しずつ動かし、肩・肘・手・首・頭・などを動かし、次に両の足を動かしていく。
その後に両手であまねく全身の摺り合わせ摩擦する。
掌を摩擦し血行をよくし温かくし、その手を両眼をおおい眼を開く。
身体の余分は火照りを取り去り、そこで初めて動き出す。そうしないと、坐禅がうまくできたしても、坐禅により細かい要素がまだ残っていて、頭痛になったり、体の節々が痛むことがあたりする。
それは、先に紹介した白隠禅師と同じです。

また、22日に朝の目覚め方についてかきました。そのとき布団の中で少しずつ身体を動かしてゆくとかきました。この始めと終わりの大切さは、人の一日にもいえることでしょう。機会を見て夕食を済ませ、風呂に入り床に入る方法を考えてみたいと思います。

だから天台小止観には、二つの経を紹介して、始めと終わりの大切さを説いています。
「進止に次第あり 麁細相違せず 譬えばよく馬を調練 去らんと欲し住せんと欲するがごとし」

また、法華経に
「この大衆の緒の菩薩等は すでに無量の千万億劫において 仏道のため故に勤行精進し よく無量百千万億の三昧に入・住・出し 大神通を得て久しく清浄な行を修し よく次第に緒の善法を習えり」

天台小止観を読んで 4-3-6

天台小止観を読んで 4-3-6

坐禅をするのに心を調えるのが、なぜ大切なのか。
次にあげる二つのことがそこには隠されている。

坐禅をしていても、心配事や興味が有ることを、思い出すことがある。それらは、心を乱す原因になり、ひいては坐禅どころで無くなることがあるので、その芽がでる前から摘んでおくためです。
もう一つは、沈・浮・寛・急を調えるためと天台小止観にかかれてある。

それでは、沈とはなにか、浮とはなになのか。どちらも気持ちが、浮ついて坐禅に入るどころではない状態です。沈の状態とは、心がうす暗く、記憶もはっきりせず、頭がどうしても低く垂れがちになるのが沈という状態です。そういうときは、精神を鼻の頭に集注し、心をつねに一つのことのなかに集注して分散させないようにする。これが沈を治す方法である。
浮というのは、落ち着きのない状態で、坐禅をしていても心がゆれ動き、体も落つかないで、ついほかのことを考えたりしてしまうときのことです。そういうときには、心を下に向けて落ち着け、精神を臍に集中し、心が乱れないようにします。
そうすると心が定まって、落ち着いてこれば心は安静になります。簡単にわかりやすい言葉で言うなら、沈んだ心でもなく浮ついた心でもない、心が調和した様子にすると言うことです。

そして、寛とは寛簡なことで、心が鷹揚で気軽な状態で散漫になりやすい状態だとされます。そうなると、坐禅にとりくむ意志がだらけ、身体のバランスも崩れ姿勢が悪くなってくり、そして心も乱れてくる。そのようなときは姿勢をきちんと取り直し正して、心を引き締める必要がある。急とは、気が焦り正しく坐禅して、速く禅定に入ろうとするときの起きると言っている。胸が痛み心が痛むようなときは急になっているので、一度気を解放して焦る気持ちをなくしてしまうと、自然に禅定に入れるようになる。

心に不満があったり、思いを出し惜しみしたりするさまを渋と言う。また、心が上擦って思いが不安定になり、ものの本質を見抜けず大切なものがすりぬけ、よけいなことを考えてしまうものを滑と言う。この心が渋・滑になるのは、沈・浮・寛・急が調えられてないからで、坐禅をして禅定に入る方法として重要なことといえる。
坐禅をするのに、まずは大きな基本を押さえて、少しずつ細かな細部に気を配って順序立てて、坐禅に取り組み禅定に入っていく。

全身の身体をゆったりと調えていき、身体の細部まで気を使ってゆく。心もゆったりと静かに落ち着かせてゆく、これが禅定に入るときまずはじめに取り組む方法である。

天台小止観を読んで 4-3-5

天台小止観を読んで 4-3-5

9月4日に、「天台小止観を読んで 4-3-3」で呼吸について書いたが、改めて読み直して考えてみる。

坐禅に限らずどのようようなことでも呼吸は大切だとよく言われます。
スポーツはもちろん、歌をうたうこと、舞踏などでも呼吸が重要だと言われています。
また、人と話すときでも相手のペースに飲み込まれるのを防ぐことができます。

天台小止観では、呼吸のあり方には四種類あるといっています。
一に風、
二に喘、
三に気、
四に息。
風・喘・気の呼吸は乱れていてよくなく、息の呼吸が調った呼吸でよいとされている。

風といわれる状態続けていると、気が散って集中できない。息をしているとき、息に出し入れに鼻のところで音がする呼吸の状態です。
喘といわれる状態の呼吸を続けていると、心が塞ぎ気分がふさぎ憂鬱になりやすい。息をすると、鼻からの呼吸の音はしないが、息の出入が滑らかでなく滞りや途切れることがあ状態です。
気といわれる状態の呼吸を続けていると、疲れがでる。息をしする音もなく、息が滞ることもないが、呼気と吸気が滑らかでない状態です。
息といわれる状態を続けていくと、心が落ち着いて次第に気持ちが落ち着いて何事にも惑わされず定まってくる。息をするとき音もしないし、息が途切れたり滞ったりする乱れもなく、粗くもなく、出入りが同じ調子で絶えることなく続いていて、息をしているのかしていないのかわからないようになり、身を資けて息に変わったことがなく穏やかになり、よい気持ちにななってくるの息です。
要は風・喘・気の三つの呼吸は、調わない悪い呼吸で、坐禅をするうえでは、集中できず煩悩が沸き起こったりして心も定まりにくい呼吸です。

ここからは、9月4日書いた再掲です。
・風の呼吸とは、鼻で息をするときに空気の出入りする音がする状態です。普段でもスースーとかヒューヒューとか音がする人がいるがいます。ゼーゼーと苦しそうな音がするのは、、咽喉周辺の炎症や心臓、や気管支などに異常があると言われています。ヒューヒュー音がするのは気道が敏感に反応して気管支の筋肉が緊張して収縮して気道が狭くなっているかもしれません。
そして、このような音が少しでもすると、気が散り気持ちを集中させることはできないといわれます。鼻息が荒いいう言葉があるが、気性の激しい人や興奮しやすい人などをさそます。集中心や穏やかな心が欠けている状態といえます。つまり、まだ禅定に入る心の準備ができていないともいえます。坐禅をしないといけないと呼吸の意識しすぎると、逆に呼吸が乱れて余計に鼻息が荒くなり音が出てしまうこともあるでしょう。風の相と気づいたときは、鼻からゆっくり息を吸い込んで、口を窄め口から少しづつゆっくり吐き出してゆくと、呼吸が落ち着いてきます。私はそれを練習するときは、ストローを咥えストローから息を吐きます、そうすると口からより鼻からより少しづつ息を吐くことができます。このとき無理に息を吐こうとしてはいけません。息苦しい時はストローの太さを太くして少しづつ細いのに換えればいいです。紙パックについているストローなどは細すぎます、私は最近それで練習していますが・・・・。

・喘の呼吸とは、呼吸するとき音はしないですが、息が滞ったり途切れたりするもので、呼吸をするのに意識し過ぎたりすると起きます。ヨーガなどの練習で呼吸を意識し過ぎて途切れる人がいると聞きます。そのときヨーガの身体の動かし方と呼吸の仕方のバランスが崩れるからでしょう。このときは身体の動かし方より呼吸の方を優先して穏やかに深い呼吸を意識するように言われているようです。
これと同じように、息が途中で途切れたり、ゆっくりと息をすると息苦しくなって、呼吸が滑らかな状態を保つことができなくなると、心が乱れて落ち着かなくなり雑念も湧いてきます。そのようなときは、坐禅をするのだという意識を棄て、平らに息をするのだと心もを落ち着けることでしょう。

・気の呼吸は、呼吸するとき音もしないし、息の滞りなどないが、息の出入りが滑らかでない状態でしす。滑らかでないとは一定の規則唯いいリズムでないことでしょう。その状態を続けると、やがて疲れがでて呼吸をしようと頑張りすぎると、息をすることに集中しすぎて、腹に力が入りすぎたりして、身体に全身に力が入っていたりしまいこれもよくないものです。前の二つはどちらかと言うと外的なものもあるのですが、この気の呼吸は自分自身の意識の持ち方に在るようです。何事も頑張り過ぎないように凡凡とすることが必要なのではないでしょうか。


「息」といわれる呼吸を続けるには、気持ちを落ち着けて、体の下の方に気が落ち着くのをイメージする。身体を広く解き放ったイメージを持つ。三には、気が偏り無く隅々に行き渡り全身の毛孔から出入りしていくのを感じる。そのイメージや気を持つことを、疑い邪魔するもの心に思い浮かべことが大切で。それをして続ければ自然と息も微然となり、息が調え患は生じず、坐禅の中に入っていける。

天台小止観を読んで 4-3-4

天台小止観を読んで 4-3-4
心構えについて書こうとおもったが、もう一度坐禅の入り方を復習してみる。

天台小止観の第四の調和の中の「身息心」この三つは別々に語ることが出来ないものでとありるが、特に息について自分の感じていることなどを、この天台小止観に枯れていることから離れながらもかいてみた。

これから、坐禅の仕方につていその具体的に書いてあることを、改めて読んで行こうと思う。

坐禅を始めるのその座る場所は、心が落ち着き邪魔されない場所を選ぶように書いている。騒がしい場所や来客で坐禅が途中で中断せざる終えない処はよくないと言うことです。
そして、姿勢を正して座ることで座り方は、半跏趺坐また結跏趺坐ですると書いてある。
その坐り方は、左足を右腿の上に乗せ、踵を股につくくらいまで引き寄せる。結跏趺坐の場合はさらに、右足も左の脚の上に置く。
この脚の組み方が正しく出来ているかのチェックポイントは、両膝を床に着き尾てい骨の三点で三角形を作る。
身体の纏っている
衣帯をゆるめるが身体からずり落ちてしまわないようにする。
次は手の置き方は、左手の掌を右手の上に置き、両手をかさねて相対にしゆったりと、左脚の上に置き、身体に引きつけて、下腹に当ておちつける。いわゆる法界定印の相に組む。
これでいよいよ坐禅の瞑想に入っていくのですが、身体の軸を真中心に置き、身体を振り子が振るように左に右に前に後ろに七八回振って自然に止める。これは自分の身体が一番落ち着くところを探すためです。
そして、手足など身体の節々の間接に余分な緊張や力が入っていないように心がける。そのためには、全身を端正にし、脊骨をまっすぐにして、身体が前のめりになったりそり返っていないかチェックする。つぎに頭・頸を正しくする。鼻と臍が垂直線上にあるようにし、それが偏らず斜めにならず、顔をを平らかにして正しくする。
これが姿勢の取り方であり、身体の弛め方になります。

次に呼吸のしかたです。
口を開き、肺の中にある汚れた空気である穢気を吐ききります。息を吐くのも物理的に肺の中にある汚れた二酸化炭素を吐くのではい。そのときに、自分の身体の具合が悪いところに滞っている気も一緒にはき出て行くイメージを作ることです。次に口を閉じ鼻から新鮮な空気とともに、精気が入って身体の隅々に行き渡るイメージを描く。このイメージ呼吸を何回か繰り返し、心の中が落ち着いて心身が調和しているかを確認する。
調和していることが実感できると、口を閉じて鼻から吐き鼻から吸うようにする。
唇と歯をそっと相合わせ、舌は上の歯の付け根の処に当たるようにし、上顎に舌を向けるようにする。
つぎに眼は半眼といい、わずかに外光を断つ程度でに目をじます。床2メートルぐらい先を見る程度です。もう一度坐り方を確認し端身正坐します。
身体のお尻から床を突き抜けて、碇を降ろしたようにどっしりとさせる。碇のごとくあり、身や首や手足を細かく動くようだと、もう一度始めからチェックしてみて出来ていないところを直していく。
これが禅定に入るときの、身を調える方法である。要諦は「寛ならず急ならざる」でこれが「身・息・心」の調った相である。

天台小止観を読んで 4-3-3.1

天台小止観を読んで 4-3-3.1

天台小止観では、ここで、坐禅の入り方、坐禅中の姿勢、坐禅の呼吸の仕方を詳しく書かれているのだが。

気功の本を読んでも「形が正しくなければ気のめぐりも正しくなく、気のめぐりが不順なら意もまた安寧でなく、意が安寧でなければ精神も散乱する」と書かれている。
これは練功をするときの姿勢の大切さを言った言葉です。要は体に軸をつくりぶれさせず、体を自然にしてリラックスさせ、心もリラックスさせ、呼吸も坦々と一定させなければいけないと言っているのです。坐禅も同じことのようです。

そして、養生をするにはよく「形と神(精神・心)が一体になる」ことが大切だと言われています。
そして、昔から身息心の調和を無理にとろうとすると「気を使えば即ち尽き、息を潜めれば即ち損なう」と言って、リラックスして自然に静かにすることが大切だといっています。

このことを考えると、坐禅は単なる精神修養だけでなく、健康法や養生法にも通じるところがあるようです。

先に呼吸の仕方について書いていたが、次に心の調えかについて書かれているので、それを詳しく読んでいこうと思う。

天台小止観を読んで 4-3-3

天台小止観を読んで 4-3-3

これまでは、坐禅をする前と坐禅中の姿勢作りの方法、その心がけについてであったが、これからは実際に坐禅の姿勢作りができたので、坐禅中の呼吸法について書かれている。

息を調える方法にについて述べるまえに、呼吸のあり方について考えてみると、四種類の相があると天台小止観にかかれている。
一に風、
二に喘、
三に気、
四に息。
前の三種は調わない相で、後の「息」一種だけがよく調った相である。

「風」の相とは、息をしているとき、息に出し入れに鼻のところで音がするのが「風」の相で。
「喘」の相とは、息をすると、鼻からの呼吸の音はしないが、息の出入が滑らかでなく滞りや途切れることがあるのが「喘」の相で。
「気」の相とは、息をしする音もなく、息が滞ることもないが、呼気と吸気がなめらかでないのを、「気」の相という。
「息」の相といわれるのは、息をするとき音もしないし、息が途切れたり滞ったりする乱れもなく、粗くもなく、出入りが同じ調子で絶えることなく続いていて、息をしているのかしていないのかわからないようになり、身を資けて息に変わったことがなく穏やかになり、よい気持ちにななってくるのが「息」の相である。

風といわれる状態でいると気が散る。
喘といわれる状態の呼吸をつづけていると心にもむすぼれができやすい。
気といわれる状態の呼吸をつづけていると、やがて疲れがでる。

息といわれる状態を続けていくと、心が落ち着いてやがて定まってくる。
つまり風、喘、気の三種の相があるときは、これを調わない呼吸といい、坐禅にはまた患いのもとともなる。心も定まりにくい。

・風の呼吸とは、鼻で息をするときに空気の出入りする音がする状態です。普段でもスースーとかヒューヒューとか音がする人がいるがいます。ゼーゼーと苦しそうな音がするのは、、咽喉周辺の炎症や心臓、や気管支などに異常があると言われています。ヒューヒュー音がするのは気道が敏感に反応して気管支の筋肉が緊張して収縮して気道が狭くなっているかもしれません。
そして、このような音が少しでもすると、気が散り気持ちを集中させることはできないといわれます。鼻息が荒いいう言葉があるが、気性の激しい人や興奮しやすい人などをさそます。集中心や穏やかな心が欠けている状態といえます。つまり、まだ禅定に入る心の準備ができていないともいえます。坐禅をしないといけないと呼吸の意識しすぎると、逆に呼吸が乱れて余計に鼻息が荒くなり音が出てしまうこともあるでしょう。風の相と気づいたときは、鼻からゆっくり息を吸い込んで、口を窄め口から少しづつゆっくり吐き出してゆくと、呼吸が落ち着いてきます。私はそれを練習するときは、ストローを咥えストローから息を吐きます、そうすると口からより鼻からより少しづつ息を吐くことができます。このとき無理に息を吐こうとしてはいけません。息苦しい時はストローの太さを太くして少しづつ細いのに換えればいいです。紙パックについているストローなどは細すぎます、私は最近それで練習していますが・・・・。

・喘の呼吸とは、呼吸するとき音はしないですが、息が滞ったり途切れたりするもので、呼吸をするのに意識し過ぎたりすると起きます。ヨーガなどの練習で呼吸を意識し過ぎて途切れる人がいると聞きます。そのときヨーガの身体の動かし方と呼吸の仕方のバランスが崩れるからでしょう。このときは身体の動かし方より呼吸の方を優先して穏やかに深い呼吸を意識するように言われているようです。
これと同じように、息が途中で途切れたり、ゆっくりと息をすると息苦しくなって、呼吸が滑らかな状態を保つことができなくなると、心が乱れて落ち着かなくなり雑念も湧いてきます。そのようなときは、坐禅をするのだという意識を棄て、平らに息をするのだと心もを落ち着けることでしょう。

・気の呼吸は、呼吸するとき音もしないし、息の滞りなどないが、息の出入りが滑らかでない状態でしす。滑らかでないとは一定の規則唯いいリズムでないことでしょう。その状態を続けると、やがて疲れがでて呼吸をしようと頑張りすぎると、息をすることに集中しすぎて、腹に力が入りすぎたりして、身体に全身に力が入っていたりしまいこれもよくないものです。前の二つはどちらかと言うと外的なものもあるのですが、この気の呼吸は自分自身の意識の持ち方に在るようです。何事も頑張り過ぎないように凡凡とすることが必要なのではないでしょうか。

この三つの呼吸を調わない呼吸といい、坐禅をすることはできずそれどころか心も定まりにくいので、十分に注意してこれが起こらないようにしなければならない。

息といわれる状態を続けていくと、心が落ち着いてやがて定まってくる。と言われていますが、それはどのような状態なのでしょうか。
そのためには、三種の方法を試みるがよいといわれています。
一には、精神を体の下のほうにおちつけて、そこに精神を集結する。
二には、身体を寛放してみる。
三には、気があまねく全身の毛孔から出入りしていて、それを障礙るものがないと観想することである。もしその心を静かにしていれば息も微微然となり、息が調えば、患は生じないし、その心も定まりやすい。
これをわれわれが初めに坐禅するときに息を調える方法とする。要点をあげていえば、渋ならず、滑ならずというのが息の調った様子である。
まさに、坐禅は精神修養ではなく、身息心の調和だり養生でもあると言えるところでしょう。
■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

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記事へのコメント
  • しあわせ
    風と雲 (06/26)
    何故?国会は一年の半分以下しか開催されないのでしょうか。国内外に毎日大きな動きのある現代に於いては、さまざまな問題を国民の前に提示し、議論を深め理解を求め、国民
  • 森友・加計問題を見ると、今の日本は法治国家だろうか
    竹林泉水 (06/20)
    まずは自分を正当化して自画自賛をしてさらには、「印象操作のような議論に対して、つい、強い口調で反論してしまう。そうした私の姿勢が、結果として、政策論争以外の話を
  • 森友・加計問題を見ると、今の日本は法治国家だろうか
    風と雲 (06/18)
    >自分が思うことは法を飛び越えてでも粛々と進める安倍政権・・

    飛び越えてではなく、→ 潜り込み裏をかき開き直って、鉄面皮と二枚舌で、 と言うのが最近の安倍政権
  • 国連人権理事会の日本の表現の自由の特別報告書
    竹林泉水 (06/15)
    マスコミは権力を監視するというより、権力者が何をしようとしているのかを主権者である国民に知らせるのが使命であり、権力を監視するのは国民ではないでしょうか。

  • 国連人権理事会の日本の表現の自由の特別報告書
    アジシオ次郎 (06/13)
    こんにちは。

    本来権力を中立的な立場で見て、時に監視する役割であるマスコミ、そのマスコミに対して自分たちに不当な報道を禁止するのは報道規制であり独裁国家のや
  • 女系皇族に反対するわけ
    竹林泉水 (06/09)
    自民党が女性天皇や女系皇族をみとめたくないのは、安倍政権の閣僚の多くが所属している、日本会議の影響もあうのでしょう。日本は天皇を頂点とする家族的な国家という藩閥
  • 女系皇族に反対するわけ
    アジシオ次郎 (06/06)
    こんにちは。

    天皇陛下の退位問題について、これからの皇室のあり方が問われる問題にもなっているけど、今の皇室において男性は悠仁さまのみであとは佳子さまなど女性
  • 安倍政権の功罪は何だろうか
    竹林泉水 (06/03)
    [GHQの幻想から]は何かよくわからないのですが、欧米との対等の関係だけでなく、強いあいてとも弱い相手とも相手を認め対等の関係を築くのが大切ですね。しかい、どうも
  • 天皇退位の審議が2時間半
    竹林泉水 (06/03)
    天皇退位の法律が成立しそうですが、一部の議員が反対、自由党は欠席で議論が深まらないのが残念です。自民に押し切られたているようです。
    敗戦後に日本人が自ら民主的な
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