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売茶翁 10円易者

10日に売茶翁の話を書いた。そのとき松山の10円易者と呼ばれた村上桂山の紹介もした。売茶翁である高遊外ももとは僧であったり、桂山も僧であったが還俗して俗界にまみれながら生涯を終えている。
一度功徳をつむため清貧の生活をし修業するが、出家遁世するが還俗してしまう。清貧の生活は赤貧ではなく、赤貧では貧すると鈍すになるおそれがるが、清貧を目指すことにより貧すれど鈍さずとなることを目指した。
良寛は出家したままで清貧の生活を過ごし修業をしたが、この二人は在家に戻り清貧の中で自由奔放にすごした。
このそれぞれの生活をみていうると、人の生き方はどのようなものであるか、どのように自己を磨いていけばよいのかを考えさせられる。そのように考えていると、6月にNHKで放送された「100分de名誉」の「維摩経」を読み返してみたくなった。

維摩が病になり床に臥すと釈迦は弟子たちに見舞いに言うことを依頼するが、10大弟子たちはみな固辞しる。その理由は維摩に以前にやりこまれたからでした。
維摩は釈迦の弟子たちになんと言ってやりこめられたのか。
・舍利弗(シャリホツ)
樹下で坐禅をしていると、そのような修業ではだめだ坐禅は行住坐臥ですべきで、修業で獲得したものを棄てないで、普通の生活の中で修業べきです。
・大目揵連(ダイモッケンレン)
在家に説法をしているとき、出家者の道を説くだけではだめで、ありのままの姿をとくものです。
・大迦葉(ダイカショウ)
托鉢をしていたときに、贅沢な施しをされないように富豪を避け、生活が困窮している人に功徳がつめるようにと貧乏な人ばかりに乞うている。
・富楼那弥多羅尼子(フルナミタラニシ)
修行僧に説法をしていると、話す相手の内面をみて説法を考えるべきで、あなたは修行僧の志を見抜いていない。
・優婆離(ウバリ)
戒律を守ることにたいして、ただ戒律を守れと説くだけでは意味がない。水や鏡に月が映るが水や鏡の中に月があるわけではない
・羅(目+侯)羅(ラゴラ)
出家の功徳や利益を説くのはいかがか、利益も功徳もないのが出家ではないか、それらから離れた世界であるはずです
・摩訶迦旃延(マカカセンネン)・須菩提(ソボタイ)・阿那律(アナリツ)・阿難(アナン)なども維摩からやりこめられている。
釈迦はそこで、弥勒菩薩に維摩の見舞いを頼むが断られてしまう。その訳は。
維摩に、あなたは仏になることを約束されているがそれはおかしいのでは、仏教ではすべてのがこの瞬間にしか存在しないとううので、過去や未来があるのはおかしいのでは。
釈迦は文殊菩薩に頼みようやく引き受けてもらう。
維摩は、文殊菩薩が見舞いに来ることを知って、家の者を外出させ、部屋の中のものすべてを出して空にしてしまう。
訪れた文殊は維摩次のように尋ねる、どうして部屋にはなにもなく家の人がいないのですか。と。
維摩は、「それは空だからです。空だから空っぽなのです」と。「空は分別がないことで、認識したりすることができない。認識することじたいが空ということにならなければ、無分別とは言えない」といいて、世俗の中に身を置いて生きることが大切で、それにより自らと他者を解放できる。

このことは、売茶翁も村上桂山も世俗のなかで生活し、何物にも縛られずに京の市井の人に茶を振る舞い、松山の多くの人に易を見て解放して、多くの人に慕われたのでしょう。

天台小止観に何が書いてあるか 2

天台小止観に何が書いてあるかの目次だが、今回は第五章の方便行から第十の証果までを試みてみた。

第五章「方便行」 方便としての行 坐禅をするうえでの五つの法
 一 欲 欲 世間の妄想や自己の善果からの顛倒から離れる
 二 精進 精進 堅く仏教の教えを守り専精する
 三 念 念 世間の欺瞞を賤しみ禅定を尊む
 四 巧慧 巧慧 世間的な楽と禅定智慧の楽の軽重を量る
 五 一心 一心 念と慧をはっきりさせ心を動かされないようにする
第六章「正修行」 正修の行 止観を修習う法
 一 坐中修止観 坐禅に中に止観を修せ 坐禅の中で止観を修習する五つの法がある
 二 歴縁対境修止観 縁に歴り境に対して止観を修せ 生活の中でそれぞれの行いの中での修習のしかた。
   この第六章でいつも、途絶えてしまうのだが、これをさらに細部に分けてみたいが、紙幅の都合でまた改めてすることにし、先に進むことにする。
第七章「発善根相」 善根が発する相 止観を修習して良い結果が発してくる
 一 明善根発相 善根が発する相を明かす どのようになったのが善根が発したのか
 二 分別真偽 真偽を分別せよ 邪なるものと真正なるもの分ける
 三 明修止観長養諸善根 止観を修して諸の善根を長養せよ 止観を修習して得た善根を長養う方法
   この第七章もさらに細部に分けてみたいと思う、改めてすることにし先に進む。
第八章「覚知魔事」 魔事を覚知せよ 
 一 魔事相 魔事の相 魔事には煩悩・陰入界・死魔・鬼神魔の四種類がある
 二 却法 魔事を却くる法 止を修習して却ける、観を収集して却る二種類の魔事を却ける方法
第九章「治病患」 病患を治す 仏道を修習することにより禅病にならないようにする
 一 明病発相 病が発する相を明かす なぜ禅病が起きるかの原因
 二 明治病方法病を治す方法を明かす 禅病が起きたときどのように対処し治すか
第十章「証果」 証果 止観の修習のすべての物事は心から生じたもので実体はない
 一 初心証果相 初心の証果の相 
 二 後心証果相 後心の証果の相 

一応私なりの、細かい天台小止観の目次を作ってみた。これから読み返すとき、この目次をインデックスとしてみたく思う。

また、もう少し目次の階層を深めていきたくもおもいます。

天台小止観に何が書いてあるか

今までの何度も天台小止観について書いていくことをこころみているが、今まで何度も途中で頓挫してしまっている。その原因は私自身の未熟と愚かさにあるのだろうが。自分で誤魔化してしまっている。いまの政治などの時勢が今までの流れや勢いとあまりにも異なっているので、そのことが気になってしまう。そのたまえそちらのことばかりこのブログに記事を投稿して、いつも中途半端になってしまっている。
今回はそれぞれの段にないが書いてるかの目次をまず作ってみようと思う。まず初めに第一章の具縁から第四の調和までを試みてみた。

『天台小止観』の構造について
序  坐禅の要門を学ぶ <戒学>
第一章「具縁」 縁を具えよ 坐禅の準備を整えよ
 一 持戒清浄 持戒清浄なれ 心身を清浄に勉めよ
 二 衣食具足 衣食を具足せよ 衣食の準備をしておく
 三 閑居静処 静処に閑居せよ 落ち着ける静かなおところで行なう
 四 息諸縁務 諸の縁務を息めよ 雑務から解放されるよう努める
 五 得善知識 善知識に近づけ 善き指導者を選べ
第二章「呵欲」欲を呵せ 欲望を呵責する 五種類の欲望を叱り責めよ
 一 呵色欲 色欲を呵せ 色欲に惑わされること叱り責めよ
 二 呵声欲 声欲を呵せ 美しい声に惑わされること叱り責めよ
 三 呵香欲 香欲を呵せ 艶やかな香りにに惑わされること叱り責めよ
 四 呵味欲 味欲を呵せ 美食に溺れることに惑わされること叱り責めよ
 五 呵触欲 触欲を呵せ 異性の肌の軟らかさに惑わされること叱り責めよ
第三章「棄蓋」 蓋を棄てよ 善い心の育成を阻む五種類の心を覆いを棄てよ
 一 棄貪欲蓋 貪欲の蓋を棄てよ 前の章で述べた五種類の欲を棄てよ
 二 棄瞋恚蓋 瞋恚の蓋を棄てよ 善法を失う瞋恚(いかり)を棄てよ
 三 棄睡眠蓋 睡眠の蓋を棄てよ 善法をだらけさせえる睡眠を棄てよ
 四 棄掉悔蓋 掉悔の蓋を棄てよ 身体と口と心の揺れ動きを棄てよ
 五 棄疑蓋 疑の蓋を棄てよ 信ずる心を妨げる疑う心を棄てよ
第四章「調和」 調和 五法を調えること
 一 調節飲食 飲食を調節せよ 過食をさけ節度を持って調節せよ
 二 調節睡眠 睡眠を調節せよ 過眠・寝不足をさけ、レム睡眠とノンレム睡眠の調和をとれ
 三 調心 心を調えよ 心の乱れ浮き沈みをしずめ調和をとれ
 四 調身 身を調えよ 心が落ち着かなければ身も動く、身が動けば心も動く、身体の調和を図れ
 五 調気息 気息を調えよ 三の心と四の身とこの呼吸のは合わせて調和を図るものである。

宇宙教と吉村長慶

4月15日に佐保川と大仏鉄道記事を書いたが、大仏鉄道の橋脚痕の話を書いたが、その橋脚痕のよこの川の護岸壁に石碑が埋め込んである。
なにやら「宇宙教」や「宇宙菴」と何やら得体のしれないことが書かれています。
カメラを持っていなかったので、写真での紹介はできないのが残念です。手帳に書き写してみましたが、かなり特徴のある刻リ方なので判読しにくい文字もありましたが、書き写してみました。

その一つの碑文の石版は「宇宙教典」と題されいる。
?の部分は判読不明

右側の碑には

    喝?
 
   及??
   信??
?髙光太?
?に合掌?
?せよ長慶
?宇宙菴吉村長慶
??

右の石碑には絵がレリーフされ、右上に太陽と雲のような模様が彫られ、左端に十字架に張り付けられた人、その脇に二人の人が彫られています。右側の人は僧のようにも感じるので、キリストとブッダなら真ん中は孔子ではないだるか、そうなれば三聖人の図となるだろう。

左側の碑は

宇宙経典
夫天地萬有?悉以
不正等為原則而其
王等之也有日輪在
而不違焉即宇宙絶
對神髓地由是吾 
開創之宇宙教體得
?神髓善用之干人
道?常以誠?報国
?本教唯一義諦者
宇宙菴吉村長慶

と書かれ、「宇宙教」や「宇宙菴」と何やら得体のしれない文言田並んでいます。
もっとも、この彫られた文字を書いどくするのはむつかしいので、間違って文字に写しているかもしれません。
今度は、写真にとってこのブログにのせてみます。

これはなんだろうと、川の横にある八百屋さんに訪ねても昔からあるが何かわからないと言っていました。

もう少し調べてみようとおもいます。

八正道の正見は

仏教の根本的な教えに八正道と言うのがある。

八正道とは、正見(しょうけん)、正思惟(しょうしゆい)、正語(しょうご)、正業(しょうぎょう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)

、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう)です。
日頃使わない言葉でわかりにくいです。
日頃使われている言葉に置き換えて見ると、次のような言葉になるでしょうか。

正見  正しい立場や見解
正思惟  正しい思想や決意
正語  正しい言論や言葉
正業  正しい行為
正命  ただし生活
正精進  正しい努力
正念  正しい思念や精神
正定  正しい瞑想や三昧

こうしても、分かり難い言葉や、よく使われている言葉ほど、どのように定義をして理解をすればよいか見極め難いです。

正見は、人生に関する四つの真理とされる四聖諦をさすもので、苦諦、集諦、滅諦、道諦の、「苦集滅道」の本質を追究してそれらの奥底まで知り

つくし自分なりに明らかにすることです。
この「苦・集・滅・道」とは、この世界の一切は苦から逃れられない真理、苦の原因に関する真理、苦を滅した悟りに関する真理、悟りに到る修行

方法の真理で以上の四つです。そのため「苦集滅道」ということもあります。
苦諦 人生は「苦」であるという真理、その代表として四苦八苦などがあり、四苦は生・老・病・死の苦であり八苦はそれに愛別離苦 、求不得苦

、怨憎会苦、五陰盛苦の四つを加えたものです。

それを自分なりに明らかにすることは、ありのままに見ることだというが、自分なりにありのままというが、自分の好き勝手に解釈して見ると言う

ことではない。
ありのままとは、
この世の中に存在するものすべては、刻一刻変化しているが、俗世にいる我々は変化を嫌いその変化を嫌い認めたくない意識が常にあります。
仏教でいう、この世の一切のものは、絶えず生じ、滅び、変化して、永遠不変のものは一つもないという諸行無常で物事を見ることが重要といえる



集諦の集とは招き集める意味で原因のこと集諦とは、「苦しみの原因についての真理」ということで、仏教では、先にみた八苦の原因を「煩悩であ

る」としる。その煩悩をより深く見つめていくと激しい欲望があり、この欲望こそが苦の原因であると説いている。なんだか意味不明な説明になっ

てきた、具体的に考えてみると貪欲や瞋恚、愚痴などの三毒に陥る心のけがれをさし、その根本であるものは渇愛をだという。これらは欲望を求め

てやまない衝動的感情ということになる。天台小止観をまた読み返してみよう。

滅諦とは、苦滅諦といわれ、苦のなくなった涅槃のことを言い、いっさいの心が煩悩や妄想や外界の事物のために束縛されて、二進も三進も行かな

くなり、自由を失った状態でその繋縛から解放された境地の解脱の世界でと言われている。一言でいうと煩悩の火の吹き消された世界ともなるでし

ょうか。

道諦とは苦滅道諦で、苦を滅した涅槃を実現する方法をいう。これに八正道が説示される。

初めの苦、集の二諦は、明らかに迷の現実とその原因を示したもの。後の二諦は悟りの結果とその方法を示したものになる。

この続きはまた、後程

天台小止観を読んで 0006-2-2-4

天台小止観を読んで 0006-2-2-4

天台小止観 正修行 0006-2-2-4

なかなか書けいなかった天台止観の続きを書いてみる。

先に「足を知る」ことについて書いたが、その中で、『即是呵責五欲也』と『謂棄五蓋』について触れてみた。
いずれも欲を棄て足を知ることが難しいものだが、その中でどのようにしていけばよいかが述べられている。
人の欲は無限なもので、それを戒めようと自分で思って、修養するよに勤めようとしても、いつしか気がついたら欲を貪ろうとしていることが往々にしてあるのではないだろうか。

そこで、天台小止観に次のようなことが書いてあった。
修行者である自分の都合のよい方法で止観に努めることが第一だと、しかし足を知ることに貪りがおこり、心が好ましくない状況の方向に陥り込みでしまう。そのような時は、まずは観をためしてみる。観とは精神を一つの対象に集中させて雑念を止め寂静になるようにすることである。それでだめな時は、止を試してみる、止とは正しい智慧によって対象をありのままに観察することです。止観のそ
れぞれ、観と止を試してみて、観で身も心も落ち着いた常態になれば、観がよかたのであり、止で落ち着いた常態になれば止がよかったことになる。と書かれている。

論語の為政に『観其所由』とあるが、真理を観察し細かな分別心が大切だと書かれている。
自分の行いを外から思いはかるようによく自分を観察し、理性で物事の善悪道理を区別しわきまえることが重要なのでしょう。
しかし、徒然草に「分別みだりい起こりて、得失やむ時なし」とあるが、修養すればするほどいろいろな心が浮動して『即是呵責五欲也』と『謂棄五蓋』は難しいものです。

法句経 道の部から 八支聖道

法句経 道の部から

法句経 岩波文庫 荻原雲来訳註

第二十 道の部
二七三 諸道の中にて八支を勝とし、諸諦の中に於て四句を(勝とし)、諸徳の中に於て離欲を勝とし、二足の中に於て具眼を(勝とす)。
八支> 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定 八支聖道。
四句> 苦、集、滅、道 四聖諦。

八つの正しい道、道理にかなった正しい修行はこれ以上のことのない道である。苦集滅道の四句は多くの   心理   の中に於いて最も優れている道である。

人生欲を貪ることから離れることは諸々の徳の中で最も勝っている。二本足で歩くものにとって一番大切な尊貴なものは、物事の本当のすがたを見抜く目を持つものである。
八支はのこと
正見 正しい見解 智恵
正思惟 正しい思惟(思い) 善悪の弁別と論理への自覚
正語 正しいことば 正語 嘘や粗暴を吐かない
正業 正しい行い(行為) 生類を憐れみ殺生しない
正命 正しい生活 正命生活規律 戒律
正精進 正しい努力 修行を怠らない
正念 正しい気づかい 教えを頭に刻み込む
正定 正しい瞑想 
四句は四聖諦のこと
衆生無辺誓願度
はてしなく繰り返すことで誓願するのある
煩悩無尽誓願断
尽きることがない煩悩を断つことである
法門無量誓願学
修行して学ぶことは果てしないほどある
仏道無上誓願成
仏の悟りに達することはこの上ないことである


科学技術も経済的な仕組みもまさに極まり掛けているように見える。しかし、人々はさらなるものを追い求めてしようがなく走り続けている。
八支聖道と四聖諦を求めることにより、いまの科学技術と経済追求によりおきている、今の様々な問題を見直し考え直し、今までとは別の道を歩むことが大切ではないだろうか。この日本など豊かな生活が暮らせられるのも、世界各国からあらゆるものを採掘したり、採取したり収穫のため漁されて、豊かな生活が支えれている。
日本でも明治大正と足尾鉱毒の事件や敗戦後も熊本や新潟で起きた水銀汚染の水俣病、三井金属のカドミウム汚染、カネミ油症のPCB汚染などや、工場のばい煙による、四日市喘息や川崎や尼崎などの大気汚染などいくつでもある。今でもアスベストの問題は深刻です。しかし、これらを経験し日本では法的な改善策や規制が整ってきて、それらは大きく改善されてきています。
しかし、私たちが裕福で安全で快適な暮らしができるのは、まだ公害に対する理解や知識
また、法的な整備がされず技術的にも安全策が取られていないところから、製品や原料が輸入されておりその地域の人は公害に苦しめられ入るのが現状です。スマートホンやパソコンや家電に使われている基板には、コンゴなどから輸入される希少金属がつかわれている。そしてコンゴでは公害問題だけではなく、その希少金属を巡って内紛や戦争が起きているが、そのことは日本の新聞などでまずは記事にならないで、私たちはそれをしらないでいる。

このようなことを知らないで私たちは豊かで楽な生活を送り続けてよいものでしょうか。
正思惟をするには、正見が必要であり、正命、正精進がたいせつであり、正念することにより今の生活を振り返ることができるのではないでしょうか。

法句経 賢哲の部

法句経 岩波文庫 荻原雲来訳註

第六 賢哲の部
七六 伏藏を告ぐる人の如く、(人に)避くべきことを示し、訓誡する聰慧者に遭ふときは此の賢人に侶となれ、斯かる人を侶とするときは勝利ありて罪過なし。
七七 教授せよ教誡せよ、不應爲の事を避けよ、彼は善人の愛する所にして不善人の愛せざる所なり。
七八 惡友に伴なはざれ、下劣の人を侶とせざれ、善友に伴なへ、上士を侶とせよ。
七九 法(水)を飮める者は快よく眠り、心淨く、(斯かる)賢人は常に聖所説の法を樂しむ。


76 次のような人が、人生航路の宝のありかを教えてくれるような人だ。過ちや罪を指摘してくれ、諌めたり訓戒してくれる人にあったら、その人を大切にしつき従うと、自分がまだ見つけていない人生の財宝をありかに導いてくれるだろう。そのような人につき従うと、善いことがあっても悪いことは無い。77 人に教え諭し戒めなさい、道筋にかなっていないことから遠ざからせなさい。そうするとその人は善人から喜ばれ、悪人から疎まれるだろう。
78 悪い友とは付き合ってはならない、品性がいやしい人とは付き合ってはならない。善い友と交わり尊い人と交わりなさい。
79 真理の水を飲んだものは、心清らかに澄んで、心地よく眠ることができる。かかる賢い人は、聖者の説く真理を楽しむ。

友達を選ぶということの大切さ、仕事をするうえでも自分の周囲に置く人選は重要な要なのだが、自分の目指すところが最善だと思い、自分の周囲にお友だちのような人ばかりを置いていると、間違いを指摘してくれたり暴走すると諌めてくれる人がいなくなる。周囲に自分の考えに近い人や自分の思いを察し窺う人ば狩りと付き合っているとどうなるだろうか。
独善的になり人の意見に耳を傾けなくなり、自分のしていることが正しいと思い込んでしまう。度量の狭い人になってしまうだろう。
このような人には決してならないように、常に心掛けて調子よく行っている時こそ独善的にならないように心がけていきた。それには多くの人と交流を深めていく必要があるのだが、真理の水に交わり、悪水で手を汚さぬように心がけよう。

アーミッシュ

ふたたび、アーミッシュの人たちについて

このブログでアメリカのキリスト教徒で、現代の文明社会の対して問いかけている、アーミッシュについてかいたが。再び考えて見たいとおもう。

アーミッシュは、敬謙なキリスト教徒で近代文明を捨て、アメリカで今も移民当時の生活様式を貫く人々といてもよいでしょう。
移民当時の生活様式というのは、やや誇張したいいかたですが、いまの現代技術を抑制した生活様式を一貫して通しています。アメリカのオンタリオ州などに20万人程のひとが、そうやって周囲の人たちから見れば中世の生活を送っているように映るひとです。そして、その人たちが特殊なひとではなく、そのような生活をする人が、今は増加傾向にあるといわれています。それぞれのコミュニティがあって、そのコミュニティによってそれぞれの生活様式や亀鑑などが違い、服装も異なっているそうです。しかし、共通する所は現代文明から距離を置くというところです。

自動の運転や所有をしない、移動の手段は馬車や徒歩。電気を使わないが、電池はよいそうです。派手な服装は着ない、成人はコミュニティで決められた色の服を着る。固定の発動機を使って自家発電はしてもよい。電気は自家発電で風力水力、ガスもボンベによりプロパンガスはよい。他に、喧嘩・離婚・飲酒などしてはならないとされています。読書も制限されているようです。

この人たちは、ドイツ系スイス系の人たちで、非自覚的な幼児洗礼を非聖書的として、成長してから改めて洗礼志願者に洗礼を施した人たちで、再洗礼派と(アナバプティスト)呼ばれる流れを汲んでいる人で、カトリック教会等から迫害を受けてドイツからアメリカに移民した人たちです。しかし、アメリカ移住したが、豊かな土地が開拓使され高度成長するアメリカ見て、聖書の「質素に暮らすべきである」という教えを守ることが、神の教えに下ずく生き方だとしたひとたちです。

アーミッシュといえば、中世の生活をまもっている人だという思いがちですが、実際は近代技術も受け入れ現代社会の生活を拒否をしてはいないです。
その一つに、自動車は使てはいけないが、馬車は使ってよいそこで馬車には方向指示器を付けています。これは自動車に義務付けられているところによるものですが便利なもの、必要なものは何かを考えてとりいれられています。
現代世界の文明の中からテクノロジーを吟味し、必要でよい物は取り入れている。電力会社からの電気は使わないが、風力や水力発電をした電気を蓄電池のため、夜の明かりに使ったりしている。さらに、電球よりも経済的でエコであるLED等も取り入れているそうです。ハイテクジャブジャブの生活を送っているひといじょうに、火を燃やしたときの環境的リスクや資源の事が考えているとも言えるのではないでしょうか。

アーミッシュに限らず、カトリックでの修道院での生活もそうでしょうし、仏教でも寺で過す修行僧も同じだと言えないでしょうか。それが修行の場だけでなく普通に生活するコミュニティでそのように生活していることが重要だとおもいます。

アーミッシュの人たちはなにも、頑なに文明を拒否しているのではなく、聖書の「質素に暮らすべきである」ことを守り実践しているので、電気を完全に拒否しいるわけではない、それぞれのコミュニティで独自の文化を築き、現代社会と技術とに共存して、独自の文化があり、独自の芸術があり、考えがあるのでしょう。
ただ、読書が禁じられいるのは、個性を持つことはより集団のために生活をするということでしょうが、自身の考えを深めるためにはどうなのかと思います。しかし、ただ質素に生活するという理念を徹底することは感銘するとともにその難しさをかんじます。たしあに、書物にも質の高いものもあれが風俗的で下劣なものもり、それはラジオもそうだしテレビもそうです。また芸術もそうですが世の中には、誘惑が満ち満ちています、それに対して拒絶し背を向けるのも一つの方法でし。ただそのことで気を付けないといけないのは、原理主義的になり一切のはみ出しを許さないとなれば、本来のその理念の生活からそれてしまうでしょう

似欲割狗肉 当陽掛羊頭

似欲割狗肉 当陽掛羊頭

此の二つの詩は良寛が托鉢しながら新潟についたら、思わず友人の有願老子が俗人の家で説法をしているところに出逢うそこで二首を読んだもの。

似欲割狗肉
当陽掛羊頭
余亦同臭者
優々卒末休

狗肉を割かんと欲し
当陽に羊頭を掛けるに似たり
余も亦た臭を同じくする者
優々卒に未だ休めず

始めから犬の肉を売るつもりで
おおっぴらに羊頭の看板を掲げるのに似る
実はこの自分もあなたと同じようなことをしてる人間
無頓着にも同じことをやめられず繰り返している



伊余疎慵者
乞食此他游
逢著鬧市裏
一笑共悠々

伊れ余は疎慵の者
乞食をもて此の地にたどり着く
鬧市の裏に逢著し
一笑して共に悠々

がんらい自分は気が利かない者
乞食をしながらここまでたどり着いた
にぎやかな市で思いがけなく友人に逢った
思わず笑い合って悠々

前の詩は、どこかの国政治の行われ方を言い当てている。
確信犯で悪法を強硬に押し通したり、平気で嘘をつく責任者にぴったりだ。

しかし、後ろの詩は全然違い、次のように読み替えてみた。


伊余夜郎者
腹痛此地位
徒党組同志
狗肉売一笑

わたしはもともと身の程を知らない人間だ
ポンポンが痛くても此の地位にいる
同じ思いのお友達を集めて
羊頭狗肉を掲げても笑ってすまされる。

良寛の詩 人心各不同

人はそれぞれ個性があり、それぞれ違いがあるものです。しかし、最近その個性の違いがあることを、空気を読めとか和を乱すななどの言葉で、ひとくくりにしようとする空気が漂ってきている。
そして、相手も自分と同じだと考えると、どのようになってくるのか。良寛が次のような詩を二つ残している。

誰もみな同じ考えでいて、価値観をもっていると思いこんでしまうと相手の自分の意見を押しつけしまうことになる。
そして、自分の考えが正しいと思い相手の意見を聞き入れようとしなくなる。そうすると、それが間違っていたりしても、それが正しいことだ見誤ってしまう。それどころか相手の考えを受け入れる余裕がなっくなり、相手の正しいことも、自分の考えや価値観と違うと、それは正しくない誤りだと決めつけてします。
これは、自分の価値観や考え方ですべて決めつけてしまうことで非常に恐ろしいことです。
世の中には、多様な意見があって初めて、その中で意見を述べあい戦わしあって、切磋琢磨しお互いに成長していくものであり、世の中も発展していくものだと言える。
それを、世の中すべて同じものだという見方は、良寛に言わせると、棹もって海原を航海するものだと、それは海底まで棹がとどかず、ただ無駄な労力を使うだけで疲れ果ててしまうだけだと。


人心各不同
如面有相違
倶執一般見
到処逓是非
似我非為是
異我是為非
是我之所是
非我之所非
是非始在己
道固不若斯
以棹(竹+高)極海底
祗覚一場疲

人心は各々同じからず
面の相違があるが如し
倶に一般の見に執して
到る処逓似是非す
我れに似れば非も是なり
我れに異なれば是も非となす
是は我の是とするところ
非は我の非とするところ
道は固より斯くの若くならず
棹を以て海底を極めんとすれば
祗だ一場の疲れを覚えるのみ

人の心はそれぞれ同じではない
ちょうどう顔がそれぞれ違うようなものだ
ところが誰もみな同じ料簡に固執する
どこでも誰もがみな相手の是非を決めつける
自分に似ていれば、その人の非も是とし
自分に似ていなければ、その人の是も非とする
是はすべておのれの是とするところで決める
非はすべておのれの非とするところで決める
是非の基準は始めか自分にあるという料簡だ
だが道理というものは無論そんなものではない
棹もって海の底まで突こうとするようなもの
ただがっくり疲れ果ててしまうだけだ


さらに良寛は、前の詩と対になり同じようことを、次のように言っている。

人心各不同
如面有相違
倶執一般見
到処逓是非
是我之所是
非我之所非
只麼如是去
何似不是非

人心は各々同じからず
面の相違があるが如し
倶に一般の見に執して
到る処逓似是非す
是は我の是とするところ
非は我の非とするところ
只麼に是の如くして去くば
是非せざる何れぞや

人の心はそれぞれ同じではない
ちょうどう顔がそれぞれ違うようなものだ
ところが誰もみな同じ料簡に固執する
どこでも誰もがみな相手の是非を決めつける
是はすべておのれの是とするところで決める
非はすべておのれの非とするところで決める
ひたすらこういう風にやってゆくのは
始めから是非をやらぬのに比べてであろう


今のよのなか、みなおなじと言う空気が強まって同調を強いるようなことは、のっけから物事の善し悪しを、やらぬのに比べてでますます変な世の中になってきている。
特に永田町に党本部のある政党のこの空気が強まっている。これは、生物の多様性が失われるとその生物は絶滅していまうよいうに何れ終焉の兆しとも言えるのではないだろうか。

夜船閑話の内観法と自律訓練

夜船閑話の序
に白幽から教わったことが書かれている。

「若し此の秘要を修せんと欲せば、  らく工夫を放下し話頭を拈放して、先須らく熟睡一覚すべし。其末だ睡りにつかず、眼を合わせざる以前い向かって、長く両脚を展べ、強く踏みそろへ、一身の元気をして臍輪気海、丹田腰脚、足心の間に允たしめ、時々此観をなすべし」とある。
つまり、内観の法を実践せよと説いている。この内観の法は「自律練法」とよく似ている。
自律訓練法の標準練習として、七つの言語公式がある。
1、背景公式 安静練習
2、第一公式 両手足が重たい
3、第二公式 両手足が温かい
4、第三公式 心臓が自然に静かに規則正しい
5、第四公式 自然に息をしている
6、第五公式 お腹が温かい
7、第六公式 額が気持ち良く涼しい

白隠禅師の言う、内観の法は、夜船閑話に、今まで激しく修行してきたことを捨てて、先ずは深く熟睡して眠ることだとしている。そして、その前に仰向けに横になり、両脚を伸ばし、踏み揃え、一身に気を臍の周りから臍下丹田へと下ろし腰、脚から土踏まずへと落としていく。そして、気を落ち着け満たしていく。と書かれている。

自律訓練法は名の通り自律神経を訓練するものだが、自律神経は随意にコントロールできるものではないです。しかしその能力を高めることはできるとされています。
呼吸筋は自律神経の支配されているものだが、息を止めたり深く息をしたり、激しく息をしたりと随意に呼吸することができる。
また、寿司職人の板前さんは、まな板の前にたちシャリを握ると手の温度が数度下がるそうです。それにより魚の刺身が変化しないように、シャリが手に付かないようにするためだそうだが、これも板前さんが意識して呼吸の時のように意識して下げているのではないです。
このように、その無意識かでも自律神経は左右されることがわかる。

では、自律訓練法では、どうするか先ず仰臥位姿勢では、枕は深く首に掛かるようにするが、方までかけない。歯はかみしめないで顎をゆるめるが、口は開けず唇はやや開く程度。眼を閉じる。両足は肩幅ほどに開き、脚の筋肉は弛め足先は扇のように開く。肘や手首の下に手折ろう等を置き楽になるようにする。此の姿勢ができたら、呼吸を静かにして整えながら深くしていく。それと同時に両手脚が重くなっていくと思う、これは、四肢一度になろうとすると難しいので、右手右腕から左手左腕、右脚右腿左脚左腿と思い、四肢の緊張を抜き取っていく。次に、血の循環がよくするために片手両手片足両足と温かくなっていくと思う。さらに、心臓の鼓動が落ち着いていくことを想像し思う。そらに、同じように呼吸がさらに深くなってくことを思う。

まさに、「夜船閑話」に書かれていることそのもので、同じようにこのことは「天台小止観」にも書かれている、調心、調身、調息の心体息の調整のこといえる。

夜船閑話

仏教の雑誌「大法輪」の今月号の特集は「白隠ーその人と禅」です。
手にとって買ってみると、案の定「夜船閑話」についてのことも書かれている。
現代では「夜船閑話」は白隠禅師が顕した、健康法としてよく読まれていることで知られれている。
白隠禅師が、修行に励み悟りを開いたと感じたので、よりいっそう修行に励んだが逆に、心火逆上し肺金焦枯して、脚は氷のように冷たくなり、両耳は常に蝉が鳴いているように耳鳴りがするようになった。いわゆる修行をしすぎて逆に身体を壊す禅病にかかってしまう。これは、スポーツ選手が練習のしすぎや、間違った方法によりにより身体を壊し故障するようなものです。
そこで、いろいろと手を尽くし医者に診てもらったり、百石をするがよくならない。ある人が、白河の巖穴に居らす白幽と言う仙人に教えを請うたらよいと聞き、その教えに従ったら禅病が直ったことについて書かれたものです。

このブログにも「夜船閑話」につて書いたことがあるが、今一度読み返してみようと思う。

新約聖書の「コリント人への手紙1」

新約聖書の「コリント人への手紙1」に次のようにある。
体は一つにして肢は多し、体の肢は多くとも一つの体なるがごとく、キリストもまたしかり。
我らはユダヤ人・ギリシヤ人・奴隷・自主の別なく、一体とならんために、みな一つみたまにてバプテスマを受けたり。しかしてみな一つみたまを飮めり。
実際体は一肢より成らず、多くの肢より成るなり。
足もし『我は手にあらぬ故に体にぞくせず』というとも、これによりて体にぞくせぬにあらず。
耳もし『それは眼にあらぬ故に体にぞくせず』というとも、これによりて体にぞくせぬにあらず。
もし全身、眼ならば、聴くところ何れか。もし全身、聴く所ならば、臭ぐところ何れか。
げに神はおぼしめのままに肢をおのおの体に置きたまう。
もしみな一肢ならば、体は何れか。
これは実際に肢は多くあれど、体は一つなり。
眼は手に対して『われ汝を要せず』と言い、頭は足に対して『われ汝を要せず』と言ふこと能はず。
否、からだの中にて最も弱しと見ゆる肢は、かえって必要なり。
体のうちにて尊からずと思はるる所に、物をまといて殊にこれを尊ぶ。かく我らの美しからぬ所は、一層すぐれて美しくすれども、
美しき所には、物をまとふの要なし。神は劣れる所に殊に尊栄を加へて、人の体を調和したまへり。
これ体のうちに分争いなく、肢々一致して互いにあい顧みんためなり。
もし一つの肢苦しまば、もろもろの肢ともに苦しみ、一つの肢尊ばれなば、もろもろの肢ともに喜ぶなり。

これは、「コリント人への手紙1」の12章の12節から抜き取ったものです。
これは何も、体のことについて述べたものではないです。しかし、よく体にたとえてその意を言い得ているといえるでそう。

身体は、手足の四肢があるから、歩いたりものをつかんだりする事ができる。体幹だけではからだとは言えない。
歩くのに必要なのは脚だが、だからといって腕や目や耳が必要でないとは言えない。むしろそれも必要なもので、それらがあるからちゃんと歩けるのです。
このように、身体には体幹だけでなく四肢と五感の器官があって初めて身体になるものです。どんな小さな身体の一部でも必要なものなのだ。

人の身体は四肢五感五臓六腑が釣り合いがとれてまとまって行くことがたいせつです。小さいからとかほとんど活動市内からといって不要なものはない。

それらに優劣ををつけていくと、身体のそれぞれはバラバラになり、肢々一致して互いに顧みることができなくななってしまう。

いま、新自由主義とかいい競争原理を全面に打ち立て、勝者が生き残り敗者は切り捨てられている。まさに、ここにいう肢を顧みないで疎かにしているといえる。そのような境はいずれ滅びてしまうだろう。
しかし、いまだに、大きいことは良いことだと、強い日本を目指している政治家が多い。敗戦後日本は経済成長にいそしみそれを成し遂げ、一億総中流を実現させようとしたが、それ以上を目指したことにより、逆に格差が生まれてしまっている。
そろそろ、北欧のような成熟した社会や、明治維新後から走り続けている路線ではなく、江戸時代の爛熟した社会を評価し直したらどうだろうか。

先看米便看砂 先看砂便看米

道元が著した「典座教訓」に、典座の心構えと、典座の仕事の実際について書かれている。
典座(てんぞ)とは、修行中の僧の食事を賄う仕事を引き受けている人でありその仕事を言う。

典座も重要な僧の修行の一つであり、その料理をつくる取り決めが細かく決められています。その細かな決まりは、修行僧の特別なものではなく、私たちの日常生活においても重要なことですが、今の便利な生活の中では疎かになってしまっています。

いま手元にある、講談社現代文庫の「典座教訓・赴粥飯法」を読んでみて、大切なことを考えてみたいと思う。

【典座の心構え】
禅苑清規云 須運道心 随時改変 令大衆受用安楽。
昔日 イ(サンズイ+爲)山洞山等勤之
其余諸大祖師 曾経来也
所以不同世俗食廚子及饌夫等者歟

『禅苑清規』によると、「当然すべきこととして、必ず仏道に帰依する心をめぐらし、その季節の旬に随って、食事に変化をつけ、修行僧が修行に励めるよう、受用安楽樂になるように心がけなければならない」と書かれている。
昔から、イ(サンズイ+爲)山(いさん)霊祐禅師や洞山(どうざん)守初禅師も、この典座の職を勤められた。
其のほかにも一宗一派を開いた僧なども、この典座を経験し勤められている。
だから世俗の料理人や給仕をする人と同じように考えてはいけない。

山僧在宋之時 暇日咨問于前資勤旧等 彼等聊擧見聞 以為山僧説。
此説似者 古來有道之仏祖所遺之骨隨也。
大抵須熟見禅苑清規。
然後須聞勤旧子細之説。

拙僧が宋に留学していた時、暇な時に、前資勤旧等に諮問してみると、
彼等は少しずつ拙僧のために説いてくれた。
そのときの教えは、
昔から仏道の祖師の教えと根本的に同じだった。
たいがいの教えはぜひとも『禪苑清規』をよく読んでから、先輩の説明を聞かないといけない。


【典座の仕事の実際】
淘米調菜等 自手親見 精勤誠心而作 不可一念疎怠緩慢 一事管看一事不管看。
功徳海中 一滴也莫譲 善根山上 一塵亦可積歟。

米をといただり、菜を調えたりするのは、典座自身が自ら手を下し、細かな点まで心を配り、誠心誠意にし、一念も疎かにしたり、手を抜いてはならない。一つのことに注意をはらい、一方のことでは気を抜いたりしてはいけない。功徳は海のように広く深いものでなくてはならない。
大海の水の一滴でも人に任すことが無いようにすべきである。よい報いを受ける行いは、さまざまな善を生みだすもとになりそれは、泰山のように大きいが、泰山の一粒の砂のように、功徳は自分で積み重ね泣けないといけない。。

禅禪苑清規云 六味不精 三徳不給 非典座所以奉衆也。
先看米便看砂 先看砂便看米 審細看来看去不可放心 自然三徳円滿 六味具備。

『禅苑清規』に次のように書かれている。「六味(苦い、酢い、甘い、辛い、塩からい、淡い)が調和して整っていないなら。
また、料理の三徳(料理のでき具合、見た目、内容)がそなわっていないなら、典座がその職を全うして、僧に食事を振る舞ったことにならないと。
まず、米をとぐときは、一粒の砂をも見逃さず、一粒の砂を取り除くとき、一粒の米も流さないように気をつけなくてはならない。ないににでもそのように、審細に気を配り、気をゆるめないように細心の注意をはらったなら、自ずと三徳は行き渡り満ち足りてゆく、それにより六味も調いそなわってゆく。


ここに書かれていることは、料理の話であり、しかも修行僧の料理をつくる典座のはなしだが、私たちの日頃の起居動作にもいえることです。それは、気張ってすることではなく、少しの心遣いからくるもので。米を研ぐときいい加減に何気なくしていると、研いでる最中の水を換える時でも、米を一粒どころか幾粒かの米を流してしまう。さらに、米を流してしまても何とも思わないようになってしまう。
一番大切なのはその、米を流しても何とも思わなくなってしまうこが怖いです。
米を研ぐ例え為ですが、他の食材でも見た目が悪いからと、調理するとき食べれるを捨ててしまう。またこれは調理する方のことだが、食べる方にもいえる。不味いからとと食べなかったり、バイキングなどで多く取りすぎて、残してしまっても何とも思わない。
調理のことだけでなく、仕事でも日常生活でも同じといえよう。そのようになってはならないので、気を配ることが大切と言える。

良寛禅師の詩から二つ

良寛禅師の詩から二つ


人心各不同 人の心は同じからず
如面有相違 顔の相は違いがある
倶執一般見 倶に一般の見に執して
到処逓是非 到る処 たがいに是非ず
似我非為是 我に似れば非も是となし
異我是為非 我に異なれば是も非となす
非我之所非 非は我れの非とするところ
是非始在己 是非は始めより己に在り
道固不若斯 道は固より斯くの若くならず
似[竹高]極海底 [竹高](棹)を以て海底を極めんとすれば
祇覚一場疲 ただ一場の疲れを覚ゆるのみ


人の心は同それぞれ違うものだ
顔の相には違いがあるように
ところが誰もが同じものだと見なしてしまう
どこでもお互いに相手の是非を決めつける
自分に似ていれば、相手の非をも是とする
自分と違うところは、相手の是も非とする
是はすべておのれの是とするところで決まる
非はすべておのれの非とするところで決まる
是非のよりどこは、始めから自分にあるのだ
しかし、ことわりというものは、もちろんそんなものではない
棹でもって、海の底まで突こうとするようなものだ
ただ、がっくりと疲れ果てるだけだ


次も同じことを主題にした詩です

人心各不同 人の心は同じからず
如面有相違 顔の相は違いがある
倶執一般見 倶に一般の見に執して
到処逓是非 到る処 たがいに是非ず
是我之所是 是は我がに是とするところ
非我之所非 非は我の非とするところと
只麼如是去 只麼もかく如くもそ去くは
何似不是非 是非せざるに何似ぞや


人の心は同それぞれ違うものだ
顔の相には違いがあるように
ところが誰もが同じものだと見なしてしまう
どこでもお互いに相手の是非をきめつける
是はすべておのれの是とするところで決まる
非はすべておのれの非とするところで決まる
ひたすらにこういうふうになってしまうのは
始めから是非をやらぬのに比べてどちらが優とも言えない。


今までもよく、日本人は金太郎飴のようだといわれてきた。最近その傾向がますます強まている。今までは、個々が同じようになろうとしていたが、このごろは個々の人が、相手も自分と同じ考えだと思おうとする傾向が強まっているように思える。

これは、巷の社会的傾向だけでなく、政治のなかもそのような傾向がある。とくに、今日本の政治を引っ張っていく位置にある人に、この傾向が強いようです。

それぞれ人は、個人として個性がりそれが尊重されることにより、その人の存在があるのです。ところが、自分の考えが正しいと信じ込んで、善意でそれを押し通そうとしている。
自分の意見に異を挟む人に対し、必要に間違っていると攻撃したり。論戦を挑んできてもまともに応えないで、はぐらかして、論点をすり替えたりしてします。
自分の考えがすべて正しく、是に沿って進むのが正しいと、独善的になるとどうなるか。それは、棹を刺して進む船で、海を航海するようなものでしょう。そのようなことをしても海を航海できない。何れは、うまくいかなくり、修復しようのない状態に陥ることになる。そうなる前に、このいやな雰囲気に歯止めをかけよないと、ますます世の中が息苦しくなであろう。

天台小止観を読んで 6-2-3

天台小止観を読んで 6-2-3

天台小止観 正修の行

第二に、心が沈んだり浮かれたりする病的な状態を対治するために止観を修習することである。・・・・中略・・・・ もし坐禅をしていて、その心が浮動し、さわいでおちつかないようなときには、まさに止を修してこれを止めるがよろしい。

精神疾患の一つに、気分が昂揚して行動が活発になる躁状態と気分が憂鬱に沈み込む鬱状態が単独に、または周期的に交互に現れる症状があります。
これは、双極性感情障害Ⅱ型といるでしょう。いわゆる躁鬱病と言ってよいでしょう。

精神治療では、心理療法と薬物療法が行われますが、坐禅によっても、その症状を緩和させることが出来るようです。
しかし、この場合やはりよき指導者のもとに、修養のための坐禅をすることが大切だと思います。
そうしないとただがむしゃらに、坐禅をするなら若い頃の白隠禅師のように、禅病にかかり症状をより悪化させてしまうかもしれないです。私は精神科医医でも禅僧でもないので何とも言えないですが。

天台小止観には、鬱のときは観を、躁のときは止をすべしと書いてある。
それでは、「観」とは何か、「止」とは何かであるが、天台小止観の序に次のようにかかれている。止は、まよいへのとらわれを押さえつける第一歩であり、観は、まよいそのものも断ち切る力である、止は、人の心識を愛養するためのよき助け、観はものごとの正しい理解をおこすための妙術である。止は、禅定を得るためのすぐれた因となり、観は正しい智慧を発するより所である。と書かれています。

現代の私たち生活は、毎日様々なストレスがあります。だれもがその時々に気分の浮き沈みはあるとものです。
しかし、そのようなことがあるからといって、双極性感情障害ではないです。ただ、テンションが激しく上がったり下がったりして、自分でコントロールをするのが難しくなっている人が増えているようです。
これはなぜかと考えてみると、今の社会はスピードが強く要求されてきています。また、コンピューターなどの管理のもとシステム化されてきているので、ちょっと違うことをするとエラーが出たりして、多少の余裕や違いが認められず速さが求められることにあるのではないかと思います。また、中庸は嫌われ白か黒かの判断が即断即決が強いられています。ちょっと考えさせて下さいと言っても、早く決めなさいと責められてしまいます。まあ、政治家の考えさせて下さいは、やらないということで認められますが。私たち一般の人とには許されないようですが・・・。

そのような世の中の状態ですから、なかなかのんびりすることが難しいのが現状です。だからこそたまに、坐禅をしてみるのもよいのではないかと思います。

そして、次のように書いてあります。
これが心の沈浮の病を対治するために止観を修習することの原則である。ただしよく薬と病との相を識ってこれを用いるがよい。もし一一に効果が得られなければ、両者が一致しなかったという失敗があるわけである。

精神疾患の治療では、精神療法と薬物療法とを組み合わして治療されるようですが、この天台小止観にも、普段の坐禅での心の浮き沈みは問題がないが、それが激しく躁鬱になってしまっているなら、止観の修得と修養と薬物を使いその使いかは、その二つをよくしって使わないといけないと書いてある。

躁鬱薬は、躁に効く薬と、鬱に効く薬の相反する薬をつかうので、その使い方は非常に気をつけて使わないといけないと言われています。天台小止観は六世紀後半に書かれたほんですが、すでに現代精神医学が言っていることを述べているのでしょう。

蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである

岩波文庫の「ブッダのことば」の最初に、蛇の章となっています。その1に、蛇の項があり、その言葉の最後は、「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」で締めくくられている。
岩波文庫の「ブッダのことば」を訳した、中村元によると、蛇は日本人にもなじみはあるが、日常的にそう身近なものではないです。しかし、ブッダの生まれたインドでは、毒蛇もそうでない蛇も含めて、よく見かけ身近な動物で親しみを感じさせるものだそうです。

そのなかで、心にとまった言葉のなかから、一つ紹介してみる。

17 五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

この五蓋とは、貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・擬のことで、天台小止観でもいろろと考えてみました、これらを捨てることにより、いろりとな悩みや疑念をがなくなりそれによりどうしようもない悩みから、抜け出すことが出来ることにより、安穏になり患いがなくなり、心が清浄で快楽になるというのです。

天台小止観を読んで 6-2-3

天台小止観 第六章 正修行

一 坐禅中に止観を修行する方法 
1 坐禅を始めた時に乱れがちな心を調える止観法
2 病的な浮き沈みする心の状態を調える止観法
3 止観の効果を上げるための方法
4 禅定に入った時の誤った認識を調整する止観法
5 禅定と智慧のバランスを取るための止観法

1 坐禅を始めた時に乱れがちな心を調える止観法

観に二種がある。
一には対治の観と、二には正観がある。
対治の観は修習するのに、障害となる煩悩などをどのように滅ぼすのか。それを対治の観といい、不浄観をもって婬欲の心を対治し、慈心観をもって瞋恚の心を対治することで。改めて説明する必要なないだろう。

二の、正観とは、諸法の実相を観ずる智慧のことで、この世のあらゆるものの、偽りのない正しい姿をみようとつとめるため、欲望や怒りや憎しみや執着などを、消滅させ心の迷いを会得しようとすることといえるだろう。
このことに対して、天台小止観で釈尊が詳しく説いていると書いてある。
「諸法は牢固ならず 常に念に立在す すでに解して空を見る者は 一切に想念なし」

この世のあらゆるものは揺らぎやすく壊れやすいもので、常にどこでもそれがあらわれて迷いを起こすものである。しかし、そのことをよく解って、空を見ることができる者は、そのような心の中に浮かぶ考は起きてこない

坐禅に入るとき初めは空になることができず、妄念を抑え断ちきろうとしても、逆にますますそれらが沸き起こってくることがありがちです。そのような時は「心の縁ずるところの一切の諸法に随うべし。」と書いてある。
この諸法に随うとはなんだろうか、

坐禅をする時していない時にかかわらず、いろいろな妄念や三毒と言われる怒りや憎しみなどが沸き起こってくることは当たり前だとまずは思うことだろう。
いろいろな妄念や三毒が生まれてくるのは、過去からの未練などの思いがあるからだが、過去はすでに過ぎ去ったものだと割り切らないといけない。未来を悲観的だと思いこんでしまうのも同じで、現在に在るもは何かを考えるべきでしょう。

煩悩のためものの見方やあり方を見誤ってしまうと、道理を正しく判断して違いを見極めることができなくなる。そして、そのように道理を見極めることができなければ、言い争いをするだけでになってしまう。
言い争う事などがなくなれば、愛したり怒ったりする心も静まる。
愛したり怒ったりしなくなれば、心に自由な思いがなくなったりあらそいは起こらなくなる。そしてそうなれば心の平安はおとずれ、そこから悟りへとすすみ仏果がおとずれる。

釈尊はつぎのように言っている。
般若波羅蜜は 真実の法であって顛倒せるものでない 念も相も観もみなすでに除かれ 言語の法はみな滅する
無量の罪も滅除し 清浄にして心は常に一である かくのごとき尊妙な人は すなわち般若を見る

坐禅の初心者が、坐禅を始めたころは、心が乱れて穏やかに坐禅に取り組めないの当たり前と考え。焦らず気張らずに取り組んでいくとそのうちまずは心を平安にしする法が解ってくるだろう。そえには、欲をださず気張らず焦らずにするこを意識していければと思う。

天台小止観を読んで 6-2-2

天台小止観 正修行

この章の始めの、坐禅をするのに気が散ってはだめで、坐禅から心が放れないようにしないこととのべられていた。その次に坐禅の仕方にはいるのだが、ここでは「行者が初めて坐禅を学び、十万三世の仏法を修せんと欲せば、まさに重誓願を発し、衆生を度脱し、無上道を求むべし。」とかいてあることから、修行僧に対して述べてあるといえる。
それでは、修行僧の心構えとはどの様にあるべきなのか。その坐禅に取り組む心構えは、坐禅をするという揺るぎない心とを鋼鉄のように固く持たないといない。精進勇猛にして身命を惜しまなく仏法を学ぼうと、心を正しくして真実の相を深く考える気持ちを持たないといけない。
この心構えは、一日中を修行の場とする僧はむろんだが、坐禅に取り組もうとする人にもいえることだろう。

十地経に書いてある一節が紹介されている、「衆生が生死をくり返す、三つの迷いの世界である欲界・色界・無色界というものは、別の法無しといわれ ただこれ一心の作ることがたいせつだ」。

この一文、よく分からないのだが、読んでいて白隠禅師の「座禅和讃」が頭に浮かんだ。
衆生本来仏にて 水と氷の如くなり
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠くを求るはかなさよ
譬へば水の中に居て 渇と叫ぶ如くなり

人は、悟りにつても欲についてもおなじで、なかなか足を知ることができないもので。本当は今あることで十分なのであろう。
心の迷いをいなすことができれば、なにに対してもかわらない、真理を自分のものにすることができるということだろうか。

続けて経の一文が紹介されている。
「心にあって心をしらず 心は心を見ず 心に想を起さばすなわち癡なり 無想はすなわち泥〈サンスイ亘〉」
と。

さらに「座禅和讃」に次のように書かれている。
譬へば水の中に居て 渇と叫ぶ如くなり
長者の家に子となりて 貧里に迷うにことならず
六種輪廻の因縁 己れが愚癡の暗路なり
暗路にやみふみそへて 早晩か其の苦を遁べき
其れ摩訶衍の禅定は 称嘆するに餘あり

十地経に書いてあるように、三界すなわち欲界・色界・無色界というものは、きりがないので足を知らなければならないということであろう。

天台小止観を読んで 6-2-1-1

天台小止観 6-2-1-1
天台小止観 正修行を読むにあたって、止観を修習するのに、日常生活のなかの、すべてから四威儀すなわち、縁に歴り境に対して修習する行住坐臥から学ぶべきでるのであるが、その中でも坐禅が最良であると述べられている。しかし坐禅は一定の環境や時間を作らないと行けないので、今まで、第六章 正修の行の後段に書かれているところから読んできたが、それを読み終えたので、始めのところに書かれている坐禅についてこれから読んでいこうと思う。

坐禅について止観を説明するには、五つのことが重要だと書かれている。
一つは、坐禅をするはじめに乱れがちな心をうち破らうとする方法。
二には、心が沈んだり浮いたりする弊害を正そうとする方法。
三は、それぞれにあった止観を修する方法。
四は、禅定のなかの微細な心についての誤りを治そうとする方法。
五は、禅定と智慧とを均斎ならしめるたの方法。

第一の坐禅をするはじめに乱れがちな心をうち破らうとする方法止観をどのようにすべきか。
どのようなことでも、初めてするときは、緊張してしまうものです。そしてその緊張はあせりになったりすると、どうしても心があらく乱れてしまうことがある。そのようなときは、「止を修してこれを除くことにを試みる。しかし、それでもダメなときは、観を修してみる」。それが止観を修習する方法と書かれているがこれはどのようなことだろう。

止には三種があるがその一つは、

縁を繋ぎとめて離れてしまわないように、鼻隔・臍間等心を繋ぎとめ散ってしまなようにること。
坐禅をしていても、集中しようと思っていても、いつしかいろいろなことが思い浮かんでしまい、そのことをつい考えてしまう。だからそのようにならないように、猿を鎖でつなぐように鎖でつなげるように、人の心も枷や箍をはめないといけない。

しかし、心がうごいてきたら、それをおさえて馳けださないよにするのが二だと書かれている。
それには、10月28日に書いた、ニ 日常生活の中で止観を修行する方法の、2 境(色・声・香・味・触)のことと同じことが、端的な言葉でのべられている。
「この五根は 心をその主となす この故に汝等 まさによく心を制すべし」と。
眼・耳・鼻・舌・身は、迷いを起こさせる物が入ってくるところです。しかし、その迷いの主体は心であるから、自分の心が駆け出さないように、ちょうどよい程度に調整できないといけない。ちょうど調教師が馬を調馬するように自分の心を制御すること。
自分の揺れ動く心をコントロールできるようになれば、次の段階で五根が色・声・香・味・触にとらわれない様にすることで、それができればそれを止とと言う。

天台小止観に次のように書かれている。
経のなかに説けるがごとし。
「一切の諸法のなか、因縁は空にして主なし、心を息して本源に達す、故に号して沙門となす」

直接原因となる因と、間接原因である縁は実体のないもので、心を迷いなく安らかにゆったりさせることで、初めて物事の本源にたどりつくことができる。それの境地にはいると初めて修行者と呼ぶことができる。

呼吸法の危険性

呼吸法の危険性

白隠禅師は、若いとき誤った修行のしすぎで禅病にかかったと「夜船閑話」に書いている。そのことは、ブログで何回か書いたことがある。
白隠禅師の症状はどんなものだったかが、「夜船閑話」には、次のように書かれている。「心火逆上し 肺金焦枯して 双脚氷雪の底に浸すが如し 両耳渓声の間を行くが如し 肝胆常に怯弱にして 挙措恐怖多く 心神毛困倦し 寐寤種々の境界を見る 両腋常に汗を生じ 両眼常に涙を帯ぶ。 此において遍く明師に投じ 広く名医を探ると云へども 百薬寸功なし。」
意訳
心火逆上して、動悸がして、頭痛がして、胸騒ぎがして、息切れがし、手足は氷のようにつめたく、常に耳鳴りがして、集中心がなくなり、なにもする気が起きなくなり、悪い夢をみて眠れないで、常に腋の下は汗をかき、目やにがだらだらでる。このようになったので、名医を訪ねたり、あらゆる薬石を使えども、いっこうに効果がない。


白隠禅師の禅病は、このように医師に見てもらってもお手上げの状態になっています。白隠禅師がこのようになったのは、修行の仕方が悪かったからと言うより。初期の段階での修行のしかたの誤りが、重症化してしまったのです。白隠禅師は「夜船閑話」この前に次のようなことを書いています。

「勇猛の信々を憤発し 不退の道情を激起し 精錬刻苦する者 既に両三霜 乍ち一夜忽然として落節す 従前多少の疑惑 根に和して氷融し 曠劫生死の業根 底に徹して おう滅す 自ら謂へらく、道 人を去る事 寔に遠からず 古人二三十年 是れ何の捏怪ぞと 怡悦蹈舞を忘るゝ者数月 向後日用を廻顧するに、動静の二境全く調和せず、去就の両辺総に脱洒ならず。自ら謂へらく、猛く精彩を著け、重ねて一回捨命し去らむと、越て牙関を咬定し、双眼睛を瞠開し、寝食ともに廃せんとす」

簡単に現代訳にすると。
奮起して修行に励んでいること、2ー3年すると、突然一までの迷いが氷が融けるようになくなた。人が言うのに悟るのに一生かかると言うので足は舞い手は舞う喜びだった。悟ってから数ヶ月たって顧みてみると、坐禅の動静が合わないところがある。そこでさらなる悟りを高めるため、寝食を断ってでも修行に取り組んだ。

ここで注目したいのは、白隠禅師は一度は坐禅の修行をして悟りを開いたのですが、日々の生活を点検してみると、まだまだ足りないところがあるので、さらに厳しい修行に取り組んだとることです。それにより心火逆上するような、重度の禅病に患ってしまったことです。

前置きがながくなったが、いま様々な呼吸法の本が書店をにぎわしています。それだけ呼吸法がブームになっているのでしょう。私も、このブログで、「天台小止観」について書いているとき。朝の散歩のことを書くときに、呼吸のことについて多く述べています。
しかし、白隠禅師だけが禅病を患ったのではないです、比較的一般によく起こり得る病とされ、呼吸法などをするときは適切な指導者の管理の下ですることが大切です。

呼吸を深くすると、それだけ酸素を多く身体の中に取り込むことになります。その結果活性酸素が多くなります。活性酸素と言えば、老化の原因だとしてよく言われません。しかし、体内にある病原菌などを殺すために、活性酸素は活躍します。何でもそうですが一概に活性酸素を悪者にすることは間違いです。酸素を取り入れようと過呼吸になるような度を越した呼吸法は、体内の活性酸素が過剰になり危険です。体内に過剰な酸素が取り込まれると、強直性の全身痙攣を起こしたりする事が知られています。
白隠禅師は若いとき普段体験したことがない、幻覚などを感覚しそれを悟りを得たと勘違いし、さらに厳しい修習に励んだことに問題があったのです。
呼吸法などをして単なる悪い副作用を、それが修習の成果だと勘違いしてしまうことが一番恐ろしいことです。

これらの悪い副作用にがでたとき、その対処法として書かれている本をみると、どの本も「あせらず」「ゆっくりと」「ゆったりと」や気がちるなら「環境をかえる」「無理をせずあらためてする」また、「目標を高くしすぎない」などと書かれている。

また、29日に書いた自律訓練法では、7種類の言語公式したあと、「消去動作」をすることが定められている。
私が、太極拳教室で練習のあと必ずクールダウンのたいそうをします。他の運動でも準備体操をして、その運動に入り、最後に整理体操をします。どれもこの終わり方終熄の仕方が大切なのでしょう。

黄帝内経 素問 上古天真論

黄帝内経の素問 上古天真論に昔は四種類の仙人がいた、その四種とは、真人、至人、聖人、賢人と書かれている。
真人とは:心身とも天地の運行にとけ込み、天寿は無限である。
至人とは:天地の大道にかない、寿命は限りない。
聖人とは:心身とも疲れることなく百歳以上を享受する。
賢人とは:正邪をわきまえ、邪気・悪気に当たらないよう気をつけ長寿する。
昔は百歳を越えても、衰えなく元気な人が沢山いた。しかし寿命は段々と短くなってきているのはなぜだろうか。昔の健康長寿の人の、生活をはそれぞれこのようだと言うことだろう。


上古天真論には、聖人と至人に次のようにある。

余聞上古有真人者。提挈天地、把握陰陽、呼吸精気、独立守神、肌肉若一。
故能寿敝天地、無有終時。此其道生。

中古之時、有至人者。淳徳全道、和於陰陽、調於四時、去世離俗、積精全神、游行天地之間、視聴八達之外。
此蓋益其寿命而強者也。亦帰於真人。

余聞く上古になる者あり。
天地を提挈し、陰陽を把握し、精気を呼吸し、独立して神を守り、肌肉一の若し。
ゆえによく寿は天地をつくし、終る時あること無し。これこの道の生ずればなり。
  真人:天地陰陽の法則を解ってその通り行える人
  精気:天と地の間の万物を創世する気

中古の時、至人なる者あり。淳徳にして道に全く、陰陽に和し、四時に調え、世を去り俗を離れ、精を積み神に全く、天地の間に游行し、八達の外を視聴す。
これ蓋しこの寿命を益して強き者なり。また真人に帰す。  至人;広く深い道徳性を備えた人
  八達の外:八方の外の遠くまで


この「陰陽を把握し、精気を呼吸し、独立して神を守り、肌肉一の若し。」の下りを読むと、坐禅の呼吸法や気功に書かれているものと通じるところがあるように感じる。
天台小止観に「調和をはかれ」に説明されている。気功にも「精、気、神」の三要素の調和を求めている。
精とは、人をつくる血であり筋肉であり内蔵で身のことです。それと同じと考えてよいと思います。
 気とは、生命のエネルギーのことで、中医でいう経絡や 気脈のことです。
 神とは、精神や意識のことで心ことです。


「自分が聞くに、はるか太古には真人と呼ばれる、天地陰陽の法則を掌握している者がいたと聞く。
地を携え、天を挙げ、陰陽を把握し、精気を呼吸し、独り精神を守って肌肉と一体しているようであった。そのため寿命は天地から授けられた年を全うし長かった。これはこの道理の結果である。

昔は至人と呼ばれる、広く深い淳徳を備えた人がいたと聞く。
無駄なことのない養生法を見極めて、陰陽に調和し、四季の気候の変化に合わせ、世俗の世界から離れ、精気を積み重ね神気を合わせ、天と地の間を悠然と遊び、あらゆることの外の遠くまでを見聞きできた。このようであれば寿命は延びしなやかで強くなるのである。至人も真人も同じようなものである。

ここに書いたように、中国最古の医学書である黄帝内経も仏教瞑想法もヨーガも気功も、みな同じようなことを述べているように思う。

自律訓練法

自律訓練法は1920年にドイツの精神科医のJ.H.シュルツ博士ば考案したもので、自己調整法で自己催眠療法とも呼ばれてるそうです。

無理なく段階的に心身の弛緩状態が得られるよ組み立てられているもの、心身のひずみを自分で調整できる、系統的な心身の訓練法とされている。日頃の心身の健康の維持や増進のため、職場や教育現場などでもストレスの緩和法としても注目されています。私も特別支援学校に勤めていたときに、臨床心理動作法と組み合わせたことがあります。

自律訓練法のやり方は概ね次の通りです。
訓練をおこなう姿勢は、椅子に腰掛けた姿勢.寝ころんだ姿勢、ソファーに座った姿勢の3種類がある。
言語公式
軽く目を閉じて、決まった言葉(言語公式)を呪文のように唱える、声は出さずに心の中で繰り返す。
言語公式は次の7種類。
背景公式(安静練習)「気持ちが落ち着いている」
第1公式(四肢重感訓練)「右腕が重たい→左腕が重たい→両脚が重たい」
第2公式(四肢温感訓練)「右腕が温かい→左腕が温かい→両脚が温かい」
第3公式(心臓調整訓練)「心臓が規則正しく打っている」
第4公式(呼吸調整訓練)「自然に楽に息をしている」
第5公式(腹部温感訓練)「お腹が温かい」
第6公式(額部涼感訓練)「額が心地よく涼しい」
自律訓練法を終えるときは、効果の有無に関わらず、必ず
次の消去動作をする。
1.指の開閉運動を5~6回
2.肘の曲げ伸ばしを3~4回
3.背伸びしながら深呼吸
4.最後に目をあける。

練習の要点は次の通りです。
・動機づけ:目的意識を持つ
・練習環境:落ち着きやすいところ
・練習姿勢:椅子やソファーに座る、仰臥位姿勢の自然な姿勢
・深呼吸:深呼吸のあとの自然なリラックスした呼吸
・閉眼:目を閉じて集中させる。
・言語公式:言語公式を繰り返す
・補助イメージ:言語公式に合ったイメージを思い浮かべ補完する
・受動的注意集中:リラックスしようと意識しすぎると、逆に緊張しってしまう。自然に感じられるのを待つそれを「受動的注意集中」という
・練習時間:一回2~3分で行い、それを2~3回行う、これを1セッションとし、一日2~3セッションする
・消去運動:筋肉が弛緩し意識も眠りに近くなっているので、ゆっくりと覚醒させる
・開眼:すべて目を閉じて行う、消去運動から目を開ける
・訓練記録:記録することにより、自分がどこまで到達しているか確認して次の訓練にやくだてる。

   (「医療従事者のための補完・代替医療」金芳堂 参照)

気功の臥式静功

次は、気功の臥式静功を見てみます。

気功に「臥式静功」がありその一つの方法として仰臥式すなわち仰向けになる方法がある。
その要領と注意すべき点は次のようにすとされている。
・全身リラックスして、硬めの床に仰向けになる。
・背筋を伸ばし、四肢を自然に開き伸ばす。
・両手は腰の横に開き置くか、腹の上に重ね置く。
・枕の高さは負担のないほどの薄さ。
・口と目は軽くとじ、顔は微笑むようにする。
呼吸の方法は、吐く息で腹が凹み、吸う息で腹が膨れる腹式呼吸でする。息は止めないようにし、吐く息を長くし吐く息とともに全身が緩んでいくように念じる。

なかなか入静状態に入れないときは、放鬆功の方法を取り入れる。放鬆功とは、身体の各部分を順番に放鬆(緩んでいく)するのを念じながら、筋肉、骨接をまんべんなく弛緩させて、全身をゆるめていく方法です。放鬆すると身体が大地にとけ込んでいくような境地になるといわれている。


次に、ヨーガのシャヴァ・アーサの方法を見てみる。
・床が堅い方がよいが、固い毛布などの薄い敷物をしく。
・静かに仰向けになる。
・両腕は身体から少し離して置き、手のひらは上に向けるが、落ち着かなければ下向けでもよい。
・足はほんの少し開き、手や足は自分が気持ち良く感じる位置を見つける。
・頭の位置や腕や脚の位置、背中や尻の部分、顔などがリラックスして弛んでいるか感じとる。
・呼吸は静かに深めにおこなう。
・シャヴァ・アーサから抜けるときは、始めに静かに手足を動かし、ゆっくりと目を開ける。
・起き方は、開いている脚を閉じ、伸びをするように両腕を上方向に大きく伸ばす。(上とは解剖学的に上で、頭の方向)
・身体を十分伸ばしたら、全身の力を抜く。
・息をはきながら、両膝を抱えガルバ・アーサナ(退治のポーズ:両脚を抱え頭を付け全身を丸く小さくする)をする。そして、息を吐きながら顔も膝にしっかりとつける。
・両脚を静かにのばし状態を起こす。
・パシュチマターナ・アーサナ(背中を伸ばすポーズ:脚を伸ばし頭を膝につ、人差し指で足の親指を掴む)をする。
・好みの坐法で静かに坐り、深めに呼吸をし自分の身体のかく部分を感じ取る。
・シャヴァ・アーサをする場所の明るさは、明るからず暗からず。

これとよく似た方法に自律訓練法と言うのがある。それにつては次回に書こうと思う。

寝禅について

寝禅のことを書いたが、気功に「臥式静功 仰臥式」があり、ヨーガには「シャヴァ・アーサ(しかばねのポーズ)」というのがある。

寝禅について白隠禅師の夜船閑話序に、白隠が白幽仙人から学んだ、寝禅の方法がかかれている。
それをここで紹介してみることにする。

寝禅の要は「且らく工夫を抛下し、話頭を拈放して、先づ須らく熟睡一覺すべし。其の未だ睡りにつかず、眼を合せざる以前に向つて、長く兩脚を展べ、強く踏みそろへ、一身の元氣をして、臍輪氣海 丹田腰脚 足心の間に充たしめ、時々に此の觀を成すべし。」

・参禅の工夫をすることや公案を考えることを止めること。
・第一にぐっすりと眠り目を覚ますこと。
・それには仰臥位なり、両脚を伸ばし、脚を強く踏みそろえる。
・身体の中の元の気を臍下丹田と腰と足と土踏まずに充実させる
・熟睡できるようになると、気も心も身体も充実するのを感じ取るようになる。

そのようにして、気を臍の下の丹田から腰、脚、足裏に集中させることができたら、次四句を念ずること。
四句とは、
・我が此の気海丹田、腰脚足心、総に是れ我が本来の面目、面目何の鼻孔かある。
・我が此の気海丹田、総に是れ我が本文の家郷、家郷何の消息かある。
・我が此の気海丹田、総に是れ我が唯心の浄土、浄土何の荘厳かある。
・我が此の気海丹田、総に是れ我が己身の弥陀、弥陀何の法をか説く。
と四句が述べられている。気海丹田とは、東洋医学で、臍下一寸あたりのあるとされるものです。

ここに書かれていることをは、同じようなことが気功にも、ヨーガでも述べられてています。天台小止観の第四章の「調和をはかれ」で、調身 調息 調心の重要性が述べられているが、この白隠の夜船閑話序で端的に短文で述べていると思う。
両脚を伸ばし 強く踏み揃え 気海丹田 腰脚足心に気を充たす。つまり、下半身を充実させる。そのためには肩を弛め上虚下実にすることです。上虚下実とは上半身の力がぬけ下半身に気をみなぎらせることです。
そのためには、呼吸法が大切で、無理をしないで、吸う息はふつうに、吐く息はゆっくりと長く気持ちを集中させてする。
そして、その調息の呼吸法は、逆腹式呼吸で行うのがよいとされている。息を吐くとき下腹部をせり出し、吸うときに凹める、これを繰り返しながら、先の四句を念じよとしえいます。
これが寝禅の方法と私は思っています。


次は、気功の臥式静功を見てみます。

天台小止観を読んで 6-1-10

天台小止観を読んで 6-1-10

これで、正修の行の章は終わり次のように書かれている。

止観を修習すると、修行の中や日常の生活の中で、人は菩薩の摩訶衍となり悟りに導くことができる。
この第六章は、最後に釈尊言った次の言葉で締めくくっている。

閑かに林樹の間に坐し
寂然として諸悪を滅し
澹泊にして一心を得る
この楽は天の楽にあらず
人は世間の利
名・衣・好牀蓐を求む
この楽は安穏にあらず
利を求むれば厭足することなし
衲衣にして乞食を行じ
動止に心は常に一にして
自から智慧のを眼をもって
諸法の実を観知し
種種の諸法のなかの
みな等観をもって入り
解慧の心が寂然たらば
三界に倫匹なし


静かに林樹の中で坐禅をして
寂然としてこれまであった諸悪が絶えなくなってゆく
欲や執着が強くなくなり心が一つにまとまる
その楽しみは天の楽しみではない
人間は世間の利益や
名や衣やよい牀蓐をもとめるが
そのようなとで楽は本当の心の穏やかさは得られない
利を追い求めると満足をすることはない。
粗末な衣で乞食をおこない
動止に心は常に一にして
自分自身で煩悩を消滅させて真理を悟る正邪・成否・真相などを見抜く能力もて
あらゆる物事のありのままのすがたを観察し
種々の諸法のなかにたいし
みなひとしくものを見る見方をもってかかわり
智慧の心が寂然としているなら
このよの三界すなわち欲と色と無色において倫匹なくすぐれた人となることができる。

天台小止観を読んで 6-1.1-

天台小止観 第六章 正修行を読んでそれにつていかいているが、「正修行」は、始めに(1)坐禅中修止観(坐禅中に止観を修行する方法)について書かれている。
しかし、ここでは、(2)の歴縁対境修止観(日常生活の中で止観を修行する方法)の方から書き始めてみた。
しかし、その中でそれぞれの行・住・坐・臥・作作・言語の仕方や、色・声・香・味・触の感じ取り方について、繰り返しこれが要で大切だと述べているものがある。それは、坐禅中における禅定と智慧のバランスを取るための止観法のことです。

その部分について、そのことについて、第六章の正修行を読み終わる前に、読んでおこうと思う。

第六章 正修行の坐禅中に止観を修行する方法の5番目に禅定と智慧のバランスを取るための止観法とし次のようにある。

○第五に、定・慧を均斉ならしめんがために止観を修すとは、
というのは、禅定と智慧とを均等に調和さえ活用させないと修行ににならない、

この定と慧の二つは、車の車輪と車軸のようなもので、どちらが欠けても止観の修養にならないといえる。定心は身体で得るもので、智慧は心のはたらきだと言える。この二つが調和して一体になって修行ができるのだろう。
気功や太極拳やヨーガや様々な呼吸法も同じようなことを言っている。

定・慧のどちらが先でも後でもなく、どちらが主で従でもなく、どちらが重でも軽でもないことなのだろう。
しかし、どうしても意識の方が先にたち身体の方が後になってしまう。太極拳を練習してもいると、次はこのように動かすのだと意識してしまうと、手の方が先に動いてしまったり、手が身体の軸よりも越えて動いてしまう。眼方を据えて身体が動いて行くようにするようにと言われる。

○智慧すでに多くして心は豁然として開解し、智慧は分明なれどもしかも定心を得ず。定心少なきが故にすなわち心は動散す。故に風中の燈が物を照らすこと了らかならざるがごとくならん。

どちらか一方は主であったり、先に行きすぎると定・慧もバラバラになり、より迷路にはいるように解らなくなると言うことだろうと思う。

仏典に次のように書かれている
「もし定心なければ
空・無相等を観ずる智慧ありといえども
これを顛倒の智慧となし
これを狂の智慧となす 生死を出離することあたわず」

このことは、繰り返し繰り返し
「定」「慧」の二法を全体がつりあい整わせることが止観を身につけるのに大切だと説いていると私は理解する。

坐禅をして端身正坐するも日常生活の中でもこのことが大切なことなのだといっている。

白隠禅師の寝禅と天台小止観 正修行の臥

天台小止観を読んで 6-1-4のところで、第六章 正修の行で、臥について書いたが、寝禅について白隠禅師の夜船閑話序に、白隠が白幽仙人から学んだ、寝禅の方法がかかれている。
それをここで紹介してみることにする。

「我に仙人還丹の秘訣あり、爾じが輩試に是れを修せよ、奇功を見る事、雲霧を披きて皎日を見るが如けん。若し此の秘要を修せんと欲せば、且らく工夫を抛下し、話頭を拈放して、先づ須らく熟睡一覺すべし。其の未だ睡りにつかず、眼を合せざる以前に向つて、長く兩脚を展べ、強く踏みそろへ、一身の元氣をして、臍輪氣海 丹田腰脚 足心の間に充たしめ、時々に此の觀を成すべし。」

仙人が私に教えてくれた、なんじがこれを試せば、不思議なほどに、もやもやがとれて明るく先が見えてくるであろう。この寝禅を修めようとするなら、まず参禅の工夫をすることや公案を考えることを止めることで。一にぐっすりと眠り目を覚ますことだ。それには床についたら寝る前と、目覚めたときに長く両脚を伸ばし、脚を強く踏みそろえ、身体の中の元の気を臍下丹田と腰と足と土踏まずに充実させることにより、熟睡できなかったのが熟睡できるようになり、気も心も身体も充実することを感じ取るようになる。

要するに、寝るときはいろいろな悩み事があっても、ただ寝ることをするだけで、いろいろなことを考えたり思いめぐらしたりしないことだといっています。
夜寝る前と朝目覚めた時にするのが一番ようのだが、私もそうだが夜眠りにつくとき、今日の出来事や明日のことをいろいろ考えてしまう。特に仕事などしていると何も考えないで眠りにつくことはまず不可能に近いだろう。
それでは、朝起きた時はそれがしやすいと思う。今日一日のことは朝の目覚め寝禅が終わってから考えればよい。
朝、目覚めると床の中で延びをして、ゆっくりと呼吸をして行くのです。
再度の紹介になりますが、2011-12-13に書いた記事、<蒲団の中でのウォーミングアップ><蒲団から起きあがってのウォーミングアップ>を照らし合わせると、同じようなことをしているようです。あながち間違っていないかもしれないので、もう少し気持ちを入れて行ってみようと思う。

よく考えてみると私は朝目覚めたらまず、からだを伸ばしその後、早朝の散歩をします。この散歩も動禅とすることができるだろとおもう、これからそのことをもっと思って朝の散歩しすることにする。

天台小止観を読んで 6-1-9

天台小止観 6-1-9

第六章「正修行」の触について。

次に、触であるが、感触のことである。様々な触る感触もあれば、寒暖の感触もある。それらをどのように受け止めて感じていけばよいのだろうか。
特に触ることはそのさわり方で大きく違ってくることを知っておく必要があるとおもう。
天台小止観のこの項には次のように書かれている。

○ 覚するところの触にしたがってすなわち化幻のごとくにして実ならずと知り、もし順情の楽触を受くるも貧著を起さず、もし違情の苦触を受くるも瞋脳を起さず、非違・非順の触を受くるも憶想分別を起さざれ、

手や肌に物がふれたときの手ざわり肌ざわりによって、化幻のようなものであって、実体があるものではないと知り、気にいっったもの楽しいものに触ることにより、うれしさを露わにしたり、気に入らないものに触ってもそれと反対に、怒りや嫌悪の気持ちを露わにしない。また、そのどちらでもないような感触も、憶測をめぐらしたりその是非を勝手に判断してしまわないようにする。

人の身体は宇宙が凝縮したものと、東洋思想や東洋医学や仏教では考える、この後に[頭等の六分が四大と和合せるを、これ名づけて身となす。]と書かれているが、六分とは頭、身体と四肢のことで、陰陽思想などで四大とはすべての物質を構成する要素で地・水・火・風のことです。
触れた時の感触は、心中の表に出ない感触と外見が一致しにくいものです。

触れることについて述べているが、ここで横道にそれるが、私は身体の運動が不自由な子供たちと接してきたが、そこで子供たちの運動改善のために、九州大学で研究開発されてきている、臨床動作法という療法を学習に取り入れてきた。そこでは、子供たちに実際に手で触れて、身体の動作の動きを伝え押していくのだが、そのときの触れ方により学習の度合いが大きく違ってくる。言葉ではなかなか説明できないが、適度な触れ方が必要になってくるのです。
このことは、わかりやすい例として、按摩や指圧などの治療で例えるといいかもしれない。触ることにより初めて治療できるものですが、療治者は患者に触れるに対して、その患部に対して適切に治療が施されるように触れなければならない、それが弱すぎても強すぎても行けないし、心地よすぎても不快に感じてもいけない。それは医療者としてその適切な感触を知って置かないと、相手を不快にさせたり痛がらせたりするだけで、治療効果はないと言える。


話を天台小止観のはなしにもどす。
○誰かよく触を受けん。和合の因縁もてすなわち身識を生じ、つぎに意識を生じて苦楽等の相を憶想分別す。故に名づけて触を受くとなす。すなわちまさに反って触を縁ずるの心を観ずべし。相貌を見ざらん。まさに知るべし。

和合のその触ろうとするものと触られるもの因縁は、その身のが感じ取るものでそれにより、その感触がどのようなものかを意識するのである。それが楽しいとか苦しいとかの感触になる。だからそこで、触ったことによる感じた感触よりその感じた心がどのようであるかを注意深く見ることが大切となる。
この触についても、今までのべてきた見る聞く嗅ぐ味わうなどと同じようおとりだと書いている。
■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

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記事へのコメント
  • 茶番の衆議院選挙
    アジシオ次郎 (10/05)
    おはようございます。

    民進党の解体、小池百合子東京都知事が立ち上げた希望の党、ハッキリ言って今回の選挙は乱立の様相を呈しそうですが、野党票割れを起こして自民党
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/26)
    > 政策に反対表明するための無抵抗なデモ行進、座り込みや集会を無理に解散させようとする警察官たちが、職務とは言え反対する人たちを排除しようとするのを見るとむし
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/24)
    民主的な選挙で政権交代がなされるようになり、政府への反対で暴力を使うことは、民衆の支持を失い反発され逆効果になるようになりました。>政策に反対表明するための無抵
  • 独裁者の国会解散
    竹林泉水 (09/24)
    日本人は長いものにはまかれろ、付和雷同性の国民性もあるのは確かだと思います。それは別段日本人に限ったことではないと思います。
    第二次世界大戦でフランス政府はドイ
  • 独裁者の国会解散
    風と雲 (09/23)
    かかる為政者の存在を許してきたのは、日本人の「ながいものにまかれる、お上に任せば・・、なるようにしかならない」と付和雷同性の強い国民性に由来するものではないでし
  • フェイクニュース
    アジシオ次郎 (09/16)
    おはようございます。

    ネットの普及に伴い様々なニュースが見れるようになった昨今、ただ自分の好みに合った情報しか信じないという弊害が出ることもそうだし、多様性を
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    竹林泉水 (09/10)
    顔認証技術が進み、個人の識別だけに利用されるならまだしも、個人の管理に利用されるのは非常に問題が多いと思います。

    松井知事の発言があまり問題になっていないのも不
  • ギャンブル依存症に顔認証は問題
    アジシオ次郎 (09/09)
    こんにちは。

    いくらギャンブル依存症対策とはいえ、入場確認や顔認証システムを導入するのは一部から「プライバシーの侵害だ」と批判を浴びてもおかしくありませんね。
  • 終戦の日の前後のテレビ番組
    竹林泉水 (08/23)
    国際的な政治・外交問題は素人的な言い方をすれば、早い者勝ちで勝ち逃げすればセーフ的なところがありますね。
    国の名前に「帝国」冠して大日本帝国として、そのころ時代
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