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二人に偉人の言葉

ガンジーの有名なことばがある。「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」。この言葉は、社会運動や思想的なことだけでなく、日々の生活のなかでの、幸福追求のことにも言えるであろう。

ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領ホセ・ムヒカの言葉
あなたが生きている限り、他者との衝突は避けられない、。大事なのは、対立を起こさないことではなく、どうやって対立を解決していくかということです。
あなたが対立に対して闘争しないと社会は変わっていかない。


戦争をしない国 明仁天皇メッセージ

戦争をしない国 明仁天皇メッセージ
    戦争をしない国 明仁天皇メッセージ
    

敗戦から、今まで明仁天皇陛下が、皇太子殿下時代から歌として、お言葉として述べられてきた、国民へのメッセージが詰まっています。
今の、明仁天皇がいかに国民のことを思っているかがよくわかります。
それに対して、今の政治のリーダは国民より、宗主国?の方に気を遣い、片や相矛盾するようにかつての日本の栄光を夢見ている人の言葉とは大違いです。

この明仁天皇陛下の、歌で詠まれたり、お言葉として国民に向けられたメッセージをよむと。天皇陛下の国民へ向けられる気持ちは並々ならぬものを感じます。

保阪正康氏の「天皇 「君主」の父 「民主」の子」を読んでも、自分が始めた戦争ではないが、過去の戦争の過ちを悔い反省し国民への寄り添ったお考えを持っておられることを感じます。

    天皇 「君主」の父 「民主」の子」

そして、自分は天皇になるしかなく、そのことから逃げることができないことをよく自覚されています。それは、天皇が15歳の時に英語の授業で、「将来、何になりたいか書きなさい」と言う課題に、「I shall be Emperor.(私は必ず天皇になります)」と回答したということです。天皇はこのことについて、1987年9月の即位の1年4ヵ月前にアメリカの報道機関からの質問に、「普通の日本人だった経験がないので、何になりたいと考えたことは一度もありません。皇室以外の道を選べると思ったことはありません」。と答えています。

また、先の戦争で唯一地上戦が行われ、多くの犠牲者をだした、沖縄に対しての思いれも深いものがありあます。皇太子時代に沖縄を訪問する前に、「石ぐらい投げられてもいい。そうしたことに恐れず、県民のなかに入っていきたい」とのべられています。そして、沖縄訪問をしますが石以上の、大きな抗議が皇太子を待っていました。しかし、それ以降も何度も沖縄を訪問し「花よおしやげん(ゆうしゃぎゆう) 人(ふいとう)知らぬ魂 戦(いくさ)ないらぬ世よ(ねらぬゆゆ) 肝(ちむ)に願いて(にがてい)」(花を奉げます 人知れず亡くなった多くの人の魂に 戦争のない世を 心から願って)と詠い。沖縄戦の最激戦地に建てられている『魂魄の塔』に花を奉げています。
そのように沖縄訪問を繰り返すことにより、沖縄の人たちは天皇に好感を抱く人が多いです。
米軍と共同作戦を海外で展開できるようにする首相は、帰れと罵声を浴びされれたのと大違いです。

このほかに、この本には、広島長崎の原爆、自然災害や公害のこと、また戦争で外国に迷惑かけたことなど、そしてこれからの日本がどうあってほしいか、皇太子時代や天皇のメッセージが載っています。

福沢諭吉の「心訓」

福沢諭吉の「心訓」

一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。
一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。

どれも、現代人にとって耳の痛いことばです。福沢諭吉がこのような言葉をのこしているのは、当時の人々にもこのようなことが足りなかったのでしょう。

この心訓を、今の時代に照らし考えてみました。
一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。
青山を見つけようとしても、労働者派遣法などにより、そこから抜け出せななる人が増え、貧しさ故せれが世代の連鎖が起きている。

一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
昭和60年代ころまでは教養主義が謳歌し、古典を紐解き先人の知恵を吸収してきたが、テレビなどの普及で廃れ、ゲーム機の普及でますますそれが加速しているように思う。

一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。
先に述べてある、一生涯貫く仕事を見つけられないばかりか、日々の生活の糧を得る仕事にもつけない人がいることは、国として危うい以前に人としてさびしいことです。

一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。
ついつい自分と他人を見比べ、隣の家の芝生は青いと言うようにみてしまいます。唯吾知足。

一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
なかなかこのことはできないことですが、一番大切なことだといえるでしょう。しかし、このことはなにも持っていない人ほど、周囲の人の世話をやいたり面倒を見たりして、何らそれによる見返り期待などしていない人がほとんどと言っていいでしょう。
しかし人から尊敬される仕事をしていて一定の成果を上げ、信頼を得て地位を得た人の中の多くは、信頼や地位を得た人ほど、保身に廻ってしまう人が多いようです。自分や周囲の動きがよくないと感じ判っていても、それから目を逸らしたり耳を塞いでしまう。そのこと考えないようにする人もいる。そのうえ、官僚などは自分が粉骨砕身働いたのだから、天下りをして当然だと思っている人がいる。


一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。
このこともなかなかできないことです。自分の夢を実現するためみ、その周囲の人だけでなく、全ての人に気配りを使用とする人が少なくなってきているように思う。また、人だけでなく自然や物に対しても大切にし、それらが周りにあることがために、今の自分があるのだと感謝する気持ちが薄らいでいるのではないだろうか。自然を壊してまでの乱開発や、いらなくなったらすぐに捨ててしまう、古くなったからとまだ使えるのに捨ててしまう。経済の維持のために消費は美徳としているよのなか、全ての物に愛情を持つ事ができなくなってきているのだろうか。それのためか、「遣り繰り」や「算段」や「始末」という言葉を最近使わなくなってしまっている。
 ケニアのワンガリ・マータイさんの「MOTTAINAI」「モッタイナイ」の言葉を思い出す。


一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。
嘘をついて人のお金をだまし取る、詐欺の犯罪はあとを絶たず、年々増え続けています。しかし、嘘をつくのはそのような輩だけでなく。もっとひどい人もいる。最近の政治家は自分の夢の実現のためには、民衆を欺いて嘘を平気でつく人が増えてきているように思う。しかも、自分の夢は正しいことで、誰もが同じ思いだと信じている。

テーマ : 日本古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

ヒットラーの右腕ゲーリングのことば

著名や有名な人物の発言を集めた、ウィキクォートから、

ヒットラーの右腕ゲーリングのことば。
ニュルンベルク裁判で、「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。(中略)しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。(中略)とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。」

そういえば、「ナチを見習えばいい」と言った大臣がいました。また、公共放送の長が「政府が右と言ったことを左とは言えない」といっていました。「私が責任者だ」と言う人も、隣国からの脅威をひたすら言い、後藤さん殺害の事件で政権の対応を質したことに、外交上の秘密で明らかにできないとしながら、それは当たらないと質問者を批判する。
なんか、ゲーリングの言葉がこの日本を闊歩し出してきているように思える。

しかも、今は非常時だと国民に知らして、報道すべきことを自粛したりしている。国民への情報が制限されしまうと、国民は判断材料がすくなくなり、誤った判断をしてしまう。その誤りに気づくのが遅くなったり目を背けたりして、後戻りができなくなることが多い。
そのために、ジャーナリズム精神があるのだが、それもどこかにおいてきているジャーナリストが増えてきているようだ。

Wikipediaより。
報道の自由、言論の自由を含む、政府からの表現の自由は民主主義の基本原則の一つであり]、近代憲法の中で共通の権利として保障されている
このように民主主義国では、政府の干渉からプレスの自由は強く守られているが、記事を入手するために記者がやってよいことには道義的制約が課せられている。プレスの自由の原則から、表現や報道の規制はできる限り法律ではなく、ジャーナリストが自主的に決めた倫理基準によって行われるべきだと考えられている[3]。また、ジャーナリズムの主要な役割に「権力の監視」があり、監視の対象である国家権力にルールの制定・運用を委ねることは不適切でもある[4]。


後藤さんなどは、特定の人が目をそらせたいものを、世界の人に目を向けさせよと、中東の危険な地帯に覚悟して入っている。そのようなジャーナリストは特定の人にとっては、実は五月蠅い存在と言えるのではないだろうか。

テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも
ジャンル : 政治・経済

民これに由らしめるべし これ知らしめるべからず

論語に次のようにある。

泰伯第八 
九 子曰 民可使由之 不可使知之

子曰わく 民これに由らしめるべし これ知らしめるべからず。

国民を従わせることはできるが、それについて国民に説明することはできない。

今から2500年以上の前のことばです。
すでにこのころから民の耳目を覆て、真実を隠すことに時の権力者は腐心していたことを物語っています。

また、書経 冏命に「耳目の官」とある。

耳目の官は、天子の耳となり目となって、国の治安を監視する役職をおく。
耳目の官とは、今風にいうなら秘密警察、昔風にいうなら特高(特別高等警察)、憲兵や敗戦直後の米MPなどもそうであろう。

権力者は国家安泰ため国民の動向が気になり関しするのがつねであろう。

今回のイスラム国による邦人殺害事件により、日本にもテロの危険性が及んできました。それにより警察はテロ対策の特別な組織を作るようです、戦前あった特高のような組織にならないように注視していきたいです。
また、憲法9条が自民党の第二次憲法草案よりもさらに踏み込んだ案を提出し成立を急ぐかもしれない。
確かにテロの驚異を避け取り除く手だてを講じなければならない。だからといて、拙速に憲法を改正改悪することはならないものです。憲法は日本の根幹となるものですから、国民の間で広く深く議論され、国会で審議されていかなければならないものです。そうしないと、時の国会で多数を占めた政党から、国民に押しつけた憲法になってしいまう。まだ、他国から押しつけられた憲法よりましかもしれないが、その中身が民主的で自由と人権などが保障されているかによりその良否が分かれるでしょう。

岡倉覚三 茶の本

1月7日にNHKのEテレの「100分de名著」という番組で、"岡倉天心(覚三)茶の本" を四回シリーズの第一回目をしていました。そのなかで、後援者の大久保喬樹氏が次のように紹介していました。

NHK「100分名著の岡倉天心 茶の本のWebページ」

      NHKテレビテキスト「100分 de 名著」「茶の本」2015年1月

日露戦争に勝ったのと同じころ、新渡戸稲造が英語で「武士道」を著して日本文化を紹介していました。それにより欧米社会は「サムライの国日本」「戦う国日本」というイメージが焼き付きました。ちょうどそのころは西欧諸国は帝国主義、植民地政策を押し進めていたころです。それにより日本は西欧諸国から文明国の仲間入りをさせてもらおうと、帝国主義を旗印にしてあたらしい国を建国しようとしました。
しかし、岡倉天心はそのことに対して、日本には武士道よりもっと深い文化があるとして、「現世のもろもろの事柄は、つまるところ一抹の夢にすぎない、むしろ、茶のようなもっと日常的なものの中に真理・悟りがある」、それが大切なことであり日本はその伝統があるのだとして「茶の本」を著し西欧に紹介した。

当時の日本は日本は今まで鎖国をしていて西欧に比べると遅れているとして、徳川幕府の鎖国時代を一新するため明治政府による廃仏毀釈運動の神道国教化政策と脱亜入欧論が謳歌し、伝統的な日本文かは古いものとされそれら多くが流出していました。しかし、天心はそれを見て嘆き日本には西欧を越える文化があるとして、日本文化の再興をめざし東京美術学校の創設に尽力しました。しかし、決して天心は偏狭な国粋主義者でなく、むしろ逆で進歩的な国際的な感覚の持ち主と言える人でした。

そのことが端的にあらわれている部分は、去年の8月12日に「むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう」という題でlこのブログで書いたことがあります。「血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。」部分を紹介したものです。
ただ、この放送ではその部分を取り上げてなかったです。わたしは、その部分は非常に大切なところだと思うので残念です。何か仏作って眼入れずであり、画竜点睛を欠くに感じます。その部分をわたしなりに見てみようとおもう。
日本が日露戦争に勝ち欧米諸国から注目さえたが、それは文明国というより武力により押し進めるその政策に注目したもので、日本の文化面での理解が得られたのではないと。そして、それより茶の作法、武士であっても刀は茶室に持ち込まず、侍でも庶民でも身分の区別はなく、一緒に茶を楽しむという欧米にはない哲学があるのだと。欧米はそれは幼稚な考えだと言っているが、それが平和を達成するためにたいせつだと天心は言って日本を紹介している。

このことは、21世紀の現代の日本にも言えることではないかと思う、戦後いままで武力を使わない平和主義でいたが、ここにきて時には武力をも使う積極的平和主義が必要だという風潮がでてきている。
内村鑑三が「体表的日本人」の冒頭で、「長く続いた日本の鎖国を非難することは、まことに浅薄な考えであります。日本に鎖国を命じたのは最高の智者であり、日本は、幸いにも、その命にしたがいました、それは、世界にとって良いことでした。今も変わらず良いことであります。世界から隔絶していることは、必ずしもその国にとって不幸ではありません」と書いています。

戦後70年、非戦を貫く平和外交を通じて、他国の戦闘に巻きもまれなかったことは貴重ことです。アメリカの軍事力の傘の下にいたからとしても、アメリカからは軍事力を行使知ることを強いられていました。しかし、今まで政府は憲法を楯にそれを拒んできました。それを愚かなこととして見るのか、また内村鑑三が鎖国政策は悪いことではなかったと言ったことや、岡倉天心が野蛮国に甘んじる・・・云々と言ったように、いままで非戦の平和主義を貫いてきたことを、貴重なこととして見る。その二つの違いよく考え、これからの日本にとってどちらが大切なのかをよく考えてることは重要だとおもいます。

「岡倉天心 茶の本」の放送は、後3回あり、明後日は第1回目の再放送があります。もう一度よく聴いてこの「茶の本」を読んでみようと思います。私は中学の時に美術の先生に紹介され、岩波文庫を買って読んだのでがその時はよくわからなかったです。大学の時にも読み返し、就職してからも読み返してみましたが、まっだまだわからないことばかりです。今度はこの放送を聴きながら、日本の美しい心はとは何かを考えながら読んで、今までより「茶の本」に書かれていることの理解を深めようと思っています。

今ニュースを聴いていと、フランス パリのテロに対する抗議の集会のニュースがありました、そのことを書きます。

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水徳四訓と水五訓

これも五訓で曹洞宗の大本山永平寺諸禅師略伝のWebページ「石徳五訓」の下の方に載っている「水四訓の紹介です。

高階管長さんの水徳四訓 水四訓
水四訓
自から活動して他を動かしむるは水なり。
常に己れの進路求めて止まざる水なり。
障害に逢ひて激しく勢力を倍加するは水なり。
自から潔くして他の汚濁を洗ひ清濁合せ入るる量あるは水なり。
(曹洞宗)管長 (高階)瓏仙書

水の訓と言えば、黒田如水の「水五訓」」がよく知られています。
黒田如水(黒田官兵衛)
「水五訓」
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
二、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
三、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
四、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
五、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失はざるは水なり


一、川の流れは小石を動かす事も在れば、大雨になると大きな岩をも押し流します。自ら動いて模範を示すことで周囲を牽引する。いわゆる率先垂範でしょうか。
二、水の一滴も繰り返されれば、岩をも穴をあけます。たとえ障碍や障壁があっても、その間に貯える力は増してものです。苦しい時も耐えて努力を続ける。一所懸命とでみ言うのでしょうか。
三、流れを止めることなく、信じた道に向かって動き続けていこう。所信(初心)貫徹
四、意見が違うから、嫌いな人だからといって排除したり、追いやったりするのでなく、良いところを見つけそれを伸ばし共に頑張ろう。
五、水はその入れる容器によってその容器の形に収まり形をかえます。しかし水は水で水としての質は変わらない。与えられた環境の中で柔軟に変化し成長するが、自分が持っている芯がぶれたり周囲にあわせて変えて偏向してしまってはいけない。

また、守屋洋氏によれば、老子にも「水徳五訓」があるようです。「老子の人間学」に次のようにかかれある。
一、淡々無味なれども、真味なるものは水なり
一、境に従って自在に流れ、清濁合わせて心悠々たるものは水なり
一、常に低きにつき、地下に在りて万物を生成化育するものは水なり
一、無事には無用に処して悔いず、有事には百益を尽くして、功に居らざるものは水なり
一、大川となり大海となり、雲雨氷雪となり、形は万変すれどもその性を失わざるは水なり

これは、老子の第八章に次のようにある。

上善如水。水善利万物、而不争。処衆人之所悪。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。

上善は水の若し 水は善く万物を利して争わず 衆人の憎む所に居る 故に道に幾し。
居は地を善しとし 心は淵を善しとし 与るは仁を善しとし 言は信を善しとし 正は治を善しとし 動は時を善しとす。
夫れ唯だ争わず 故に尤無し

最高の善とは、水の働きのようなものだ。水はこの地上の万物の成長を助け、自ずからあらそうことがない。衆人が嫌う低い場所の留まっている。それだかあ人の道に近いものといえる。
住みかとして大地を善しとし。心の持ち方としては、淵のようになかなか抜け出すことのできない苦しい境遇ところにも善しとし。人の交わりとしては、いつくしみの心が深いことを善しとし。言葉としては、真心を込め詭辯をつかないことを善しとし。政治は乱れを鎮め安定したありさまをつくるのを善しとして。行動に対しては、その時にぴったりあっているのを善しする。そもそもこの水のように争わないでいれば、間違うことがない。

水のような生き方を心掛けて行くのも善いものだとおもうほどです。

石徳五訓

竹徳五訓ではなく、石徳五訓

大本山永平寺諸のWebページ、大本山永平寺諸禅師略伝がありそこに、「石徳五訓」が紹介されています。
「石徳五訓」は曹洞宗大本山永平寺の七十三世熊沢泰禅禅師が揮毫され「石徳五訓」があるとききました。

石徳五訓-熊沢泰禅禅師
一、奇形怪状無言にして能く言うものは石なり。
二、沈着にして気精永く土中に埋れて大地の骨と成るものは石なり。
三、雨に打たれ風にさらされ寒熱にたえて悠然動ぜざるは石なり。
四、堅質にして大厦高楼の基礎たるの任務を果すものは石なり。
五、黙々として山岳庭園などに趣きを添え人心を和らぐるは石なり。
         永平泰禅九十四翁

詳しくは、大本山永平寺諸禅師略伝の「石徳五訓」に書かれています。

そこに、熊沢泰禅禅師の語録「雪菴廣録」に書かれたことの抜粋がのっています。
その要約は以下のようなものです。
一、奇形怪状、無言にして、能く言うものは石なり。
石はいろいろな形をしていろいろな色がある。大きいのも在れば小石もある。その大小種々様々な石に共通の徳は「無言にして能く言う」ということである。ものを言わなかったらなにを言っているかわからないが、その無言を聞くことができれば、盤石なものを得られることができる。

二、沈着にして気精、永く土中に埋れて大地の骨となるは石なり。
「枕石道人」「懐石」「薬石」という言葉もある。これは石の沈着にしてづっしりしている徳と、気精、の徳が具わっているからである。そして、千万年大地に埋もれていても不平一つ漏らさず、常に大地を支える骨の役目を果たしている。人間たるもの、またその徳を学ばなくてはならない。

三、雨に打たれ風にさらされ、寒熱にたえて悠然、動かざるは石なり。
雨風にさらされ、暑さ寒さにも耐え、悠然たる態度で不動の姿をしている。「八風吹けども動ぜず天辺の月」、「心頭滅却すれば火も又涼し」と言う。人も石徳現成の時節に発せられた語に外ならない。

四、堅質にして、大廈高楼の基礎となり、よくその任務を果たすものは石なり。
石は堅質が石に共通てんである。石は大きな建物の土台として使用され、その期待に応え任務を全うする。人もこの石徳を生活の土台としなければならない。

五、黙々として、山岳庭園に趣きを添え人心を和らぐるは石なり。
堅いばかりが能ではない。庭石に使うならそこつかうための形や質感などに面白味がなくてはならない。人も、そのような石徳を具えれば、人を和ませるようになる。

私が、簡単に解釈してみます。
黙っていてもその存在感があり影響を及ぼす。
周囲に影響されず芯をもち左右にぶれない、周囲に埋没してるかに見えても存在感をしめす。
周囲からの風当たりが強くても動ぜず気にせず、飄々としている。
礎石のように縁の下の力持ちで、目立たないでもその価値は重要なもの。
それぞれの役割があり、そのためにはその個性があってこそよりその必要性がある。

竹徳五訓

竹林の風の話をしましたが、竹について竹の五つの徳と言われるものがあります。

京都亀岡の瑞雲山 神応寺に《竹徳五訓 》です。

竹林自知百卉長(ちくりんおのずからしる ひやつきにちょうたるを)
・竹の子の如く生き生きと
・竹まっすぐが如く実直に
・竹しなるが如く柔和に
・竹の根の如く繁茂せん

節がある、真っ直ぐ伸びる、雪の重みで撓ってもそれに耐え元にもどる。それぞれ昔からよく言われて聞います。
この神応寺の竹五訓の五つは、それらをよくまとめられていますね。

もう少し意味を噛みしめてみます。

・竹の子の如く生き生きと
竹は土から顔を出した竹の子のとき、一日に数十センチ伸び、その成長の速さは目に見える程です。旺盛な生命力と生気みなぎる活動力は見習うべき。

・竹まっすぐが如く実直に
竹は真っ直ぐ天に向かって伸びてゆく、素直で心に澱みなく明らかな生まれ持ったものがある。

・竹しなるが如く柔和に
竹は強い風が吹いても、風が吹くのに身を任せるように順応適応させる。そのしなやかな適応性と融通性には見習うべきところがある。

・竹節の如く節度あり
竹には節ある。二十四節季、苦節十年などといい、それぞれの節目節目を大切にしている。その節目に節度や礼節を守る折り目正しさ見つけるべきです。

・竹の根の如く繁茂せん
竹は地下茎を伸ばし繁殖する。日ごろは人目につかないでも堅実に力をつけていく、旺盛な力強さは活力を見習うべき。

海のお魚はかはいさう

金子みすず の詩につぎのようなものがあります。

海のお魚はかはいさう。

お米はひとにつくられる、
牛は牧場で飼われてる、
鯉もお池で麩を貰ふ。

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたづら一つしないのに
かうして私にたべられる。

ほんとうに魚はかはいさう。(Ⅰー五)


仏教に五戒があります。不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒です。
しかし、人は殺生せずに人は生きることはできないです。野山や海や川で育った獣や魚そして、植物などは、なにも人に食べられるために生きてきているのではないです。その動植物は自分の遺伝子を、子孫に引き継ぐために生きています。そしてその動植物も他の生命を奪って、命を子孫に引き継ぐために紡いでいます。
飼育されたり栽培されたりした、動植物は人間に食べられるために育てられています。しかし、この動植物も自分から好んで、人に食べられるために生まれてきたのではないです。

人に限らず生き物は、自ら生きて子孫を残すために、他の命を殺して食べていきます。だからといって当然のように食べ物を貪り食うだけでいいのでしょうか。感謝の気持ちを込めて戴きますの言葉を忘れずにいたいものです。


食料として生まれてくる生命は食料として生まれてくるのです。ライオンがシマウマの狩りをするのに、罪悪感を感じることはないです。シロナガスクジラがオキアミを食べるのに罪悪感を感じないです。それは自分が生きるためであり、それが自然の摂理です。人間もいくらが崇高な生き物とし自認してもその自然の摂理から逃げ出すことは出来ないのです。

仏教の五戒の一番初めに不殺生戒があります。五戒のなかで一番おこなうのが難しいのがこと不殺生戒でもあるでしょう。
いつの時代でも古今においてこの不殺生戒は、守りきれるもので無いものです。だからといって他の生き物を食として食べ物をなおざりにすことはよくないことです。自分の命が他の生命を犠牲にして成り立っていることをしっかり見つめ、自分の命を紡ぐため消えていく他の無数の命への感謝の気持ちを確認するのは人間だけです。他のライオンやシロナガスクジラなどの動物はそのようなことを思わないです。しかし、人間のように必要以上に獲物を狩ったりまた、テレビ番組で見るようにもてあそんで笑いの道具にはしないです。

海のお魚にかぎらず、生け簀のお魚にも、「ありがとう」の気持ちを込めて「いただきます」をしてゆきたいです。

ならぬもの十訓

永平寺の門前町の土産物屋で売られている「つもり違い十か条」の話に、ある人から拍手をいただきました。
それに、次のようなことを教えてくれました。

「ならぬもの十訓」
忘れては ならぬもの「感謝」
言っては ならぬもの「愚痴」
曲げては ならぬもの「つむじ」
起こしてはならぬもの「短気」
叩いては ならぬもの「人の頭」
失っては ならぬもの「信用」
笑っては ならぬもの「人の落ち度」
持っては ならぬもの「ねたみ」
捨てては ならぬもの「義理人情」
乗ってはならぬもの「口車」
こちらも、驕り高ぶらずに謙虚な姿勢で人と接していきたいものです。

この言葉、私なりに考えてみました。

言っては ならぬもの「愚痴」
愚痴は言っても仕方がないことをで、それを嘆き悲しんでいると物事を明るく前向きに見れなくなる。そうすると人を恨んでしまう。


曲げては ならぬもの「つむじ」
周囲をうらやんで自分の不幸に対し、気分をそこねて逆恨みし意地悪くふるまうと、性質がねじけすなおでなくなってしまう。

起こしては ならぬもの「短気」
不平不満がつのり、辛抱ができなくなると、いらだち忿怒してしまう、短気は損気という。

叩いては ならぬもの「人の頭」
人の頭を叩いて叱るのはよくない。出る杭は打たれるというが、そのような組織は先が発展はしないだろう。

失っては ならぬもの「信用」
信用とは認められることであり、受け入れられてもらえることです、周囲から受け入れられなければ孤立してしまうばかりで、楽しみも生き甲斐もないでしょう。

笑っては ならぬもの「人の落ち度」
人の落ち度を笑っているとところを、周囲の人はよくみています。その人や物にそなわっている品のが疑われ、とどのつまりは笑われるものです。

持っては ならぬもの「ねたみ」
人を羨ましく思うとやがて、憎みたくなってきます、それが憎悪になり、互いの人との関係も悪くなり、自分が孤立してしまうことになりでしょう。

捨てては ならぬもの「義理人情」
社会生活をおくるのに人に対して、守るべきこと果たすべきことは、いつのつねにもあります。それと、他人に対する思いやりの心や情けも大切です。

乗ってはならぬもの「口車」
巧みな口先だけのうまい言い話に乗ってしまうと、大損をしてしまうだけでないです。口車に惑わされ今までの自分の信条と違う方向に進まざるを得なくなり、今まで培ってきた信用も失ってしまいます。

充分に注意したいものです。

つもりちがい

永平寺の門前町の土産物屋で売られているという「つもり違い十か条」の暖簾があります。

つもりちがい十ヵ条
高いつもりで 低いのが「教養」
低いつもりで 高いのが「気位」
深いつもりで 浅いのが「知識」
浅いつもりで 深いのが「欲望」
厚いつもりで 薄いのが「人情」
薄いつもりで 厚いのが「面皮」
強いつもりで 弱いのが「根性」
弱いつもりで 強いのが「自我」
多いつもりで 少ないのが「分別」
少ないつもりで 多いのが「無駄」

この言葉いろいろなところで見かけます。誰が考えたのか言い出したのか知りませんが、己を振り返るにおいて読み返してみたい言葉ですね。

たったひとりしかいない自分

「路傍の石」
『たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない一生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。』
山本有三 路傍の石

この世の中で自分というものは一人しかいない、死んでしまったら代わりの自分はいない、だからこそそのその人生も一度しかなく変わりがない、無駄に生きてしまったり、己を活かさず無駄なことに竟やして死んでしまったら勿体ない。死んだらみなと走ることも感じることも、みなに会うこともそして人と別れることも、みなと喜ぶことも泣くことも、二度とできない。一度しかない人生を充分生かして幸せで悔いのない人生にしなかったらもったいないじゃないか。

山本有三が「路傍の石」を書いたのは1936年、その翌年に1937年7月には日中戦争が起こり、1938年に内務省警保局が「児童読物に関する指示要綱」をだし、皇国史観に反するものは、事実上発行禁止になった。
「路傍の石」とは道端のそこいらにある石ということです。今のように道路はアスファルトで舗装されているのではなく、当たり前の土に道でそこにある何でもない石ということです。
山本雄三が「路傍の石」が発表したころは、日中戦争の前年で、個人の尊厳より国のため、戦争のためという口実で命が軽く扱われたといえます。そのことに雄三は「路傍の石」を発表することにより、人間の尊さを訴え人への差別を批判し、人の個性や人格を守り、可能性を伸ばし力強く生きていく大切さを訴えた小説といえます。しかし、それらの夢も国からの圧力のため有三はは1940年6月に筆を折って、「路傍の石」の執筆を止めていまいました。
有三は「ペンを折る」で次のように述べています。
「日一日と統制の強化されつつある今日の時代では、それをそのまま書こうとすると、特に―これらの部分においては、不幸な事態をひき起こしやすいのです。その不幸を避けようとして、いわゆる時代の線にそうように書こうとすれば、いきおい、私は途中から筆を曲げなければなりません。・・・・・」(昭和15年6月20日)。

分福の説

前回、幸田露伴の「努力論 惜福の説」を紹介しました
今回は、その次に書いてある「努力論 分福の説」を紹介します。

幸田露伴は次のように書いています。
「福を惜むということの重んずべきと同ように、福を分つということもまたはなはだ重んずべきことである。惜福は自己一身にかゝることで、いささか消極的の傾があるが、分福は他人の身上にもかゝることで、おのづから積極的の観がある。・・・・
・・・・分福とはどういうことであるかというに、自己の得るところの福を他人に分ち与えることである。たとへば自己が大なる西瓜を得たとすると、その全顆を食しつくすべくも無かつた時、その幾分を殘し留むるのは惜福である。その幾分を他人に分ちあたへて自己と共にその美を味はふの幸を得せしむるのは分福である。またたとえば自己が一つの小な蜜柑を得たる時にしてこれを食い尽すもなおその足らざるを覚ゆる如き場合にも、その半顆を傍人に分かち与えるはすなわち分福である。・・・・。
惜福は自ら抑損するので、分福は他に分与するところあるのであるから、彼は消極的、此は積極的なのである。」

福は惜しむべきで、ジャブジャブと無駄に使うべきないといっていました。しかし、福を独り占めして惜しむのではく、福は周りの人にも分け与えるのがよいといっています。
そして、分け与え方にも二通りがある、十分にあり余っている福を分け与える。自分が足らなくてもその福を得た喜びを周りの人たちと分かちあう。

マイクロソフトのビル・ゲイツが、マイクロソフトの経営を隠居して、今までパナソニックの創業者、元、松下電器の松下幸之助は、PHP研究所や松下政経塾などをつくり、人の生き方や会社の経営の仕方や政治の在り方は何かを問い、物質的な繁栄だけでなく平和と幸福が添うことが大切だと問い続け社会還元のために使いました。また、松井や野茂なども大リーグで活躍して得た報酬を、日本の野球振興のために、還元して使っています。俳優などでも社会福祉や社会事業の活動に参加さしている人は多いです。
また、大きな会社や小さな会社などでも、事業で得た収益を社会還元をしています。
日本の江戸時代からある老舗などの家訓にも、次のようなものがあります。
私費を割いて公共事業に取り組め(キッコーマンの茂木家)。
勉めて公共事業に尽くせ(菊正宗の嘉納家)があり、菊正宗は現在の進学校で有名な「灘高」を作っています。
これらは昔からの儒教の教えや、中国の古典の中に勉めて行うことが、善とされているからだともいえる。

裕福な人がその富を、分かち合うのはよく聞くことですが。なかには、露伴が書いているように「世には大なる福分を有しながら慳貪鄙吝の性癖のために、少しも分福の行爲に出でないで、憂は他人に分つとも、好い事は一人で占めようといふが如き人物もある。」のです。

しかし、それより明日の生活も事欠くひとが、自分が得たわずかな福を、周りの人に分け与えることは、あたりまえのようによく見られることです。
富みに目がくらみ富が欲を産み逆に貪欲の貧里に迷うがごとくです。白隠禅師の和讃に「たとえば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず」といっています。善い行いには、善い結果が得られます。悪い行いには、悪い結果が待っています。欲の煩悩・執着をすてさり必要以上の欲望を抑えることにより。分福の理を知り行うことができるのでしょう。

惜福の説

幸田露伴 [努力論]の「惜福の説」に次のようにある。
「船を出して風に遇ふのに何の不思議は無い。水上は廣闊、風はおのづからにして有るべき理である。しかしそのの風にして我が行かんと欲する方向に同じき時は、我は之を順風と称して、その福利を蒙るを得るを悦び、また我が方向に逆行して吹く時は、我はこれを逆風と称して、その不利を蒙るを悲み、また全くの順風にもあらず、全くの逆風にもあらざる横風に遇ふ時は、帆を繰り舵を使ふの技術と、吾が舟の有せる形状との優劣善悪によつて、程度の差はあるがこれを利用するを得るのである故に、余り多くの風の利不利を口にせず、我が福無福をも談らぬのが常である。
是の如き場合において風には本来福と定まり福ならずと定まつて居ることも無いのであるから、同一の南風が北行する舟には福となり南行する舟には福ならぬものとなるのである。順風を悦ぶ人の遇つて居る風は、即ち逆風を悲む人の遇つて居る風なのである。福ならずとせらるゝ風は即ち福なりとせらるゝ風なのである。して見れば福を享くるも福を享けぬも同じ風に遇つて居るのであるから、福を享けた舟が善い故福を享けたといふ事も無く、福を享けぬ舟が悪い故福を享けぬといふことも無く、いわゆるめぐり合せといふもので有つて、福無福に就ては何等の校量計較によつて福を享け致すべきところもないやうなものである。」

帆を持った船は、風まかせのように見えるが、それは船に乗る人の腕次第で、臨機自在にとはいえないですが、逆風でも風に逆らって前に進むことができます。しかし、操舵帆の扱いが未熟だと、逆風の中では前に進むことは難しく、自分の操船技術を悔やむしかないでしょう。

最近「自己責任論」を称える人が巷に多くなってきているように思えます。
そのような中で少し前のことですが、全盲の方がヨットで太平洋横断を試みようとして、それに同伴した人がいるがこの人も「自己責任論」を強く訴えた人の一人です。
しかし、出航直後救助を求めざるを得なくなり自衛隊に救助されました。原因はいろいろといわれていますが、ヨットは風任せ浪任せでもあり、吹いてくる風が順風になることもあり、逆風になることもあるものです。このヨットの捜索費を事故責任だからと賠償せよと言う人がいますが、ここで「自己責任論」を持ち出して批評するのはよくないと思います。

これと同じように、世の中の大海原で進学に失敗した、就職に失敗した、仕事や事業に失敗したからと、「自己責任論」で切り捨ててしまうのは余りにも、人でなしと言わざるを得ないです。しかし、この人たちに努力が足りないとか、自業自得だとかで片づけてしまおうとする声が、いつ自分もそのようになるかわからない身の人の巷からも聞こえてきます。
そしてもっとひどいのは、一部の政治家や事業の雇用主などから、その人の努力が足りないからなどと、自己責任論で片づけようする声が漏れ聞こえてくることです。

本当の本心があれが、迷うことはない

人心に一部の真文章あれども 都て残編断簡に封錮し了らる
一部の真鼓吹あれども 都て妖歌艶舞に湮没し了らる
学ぶ者は須く外物を掃除して 直ちに本来を覓むべく 讒に個の真受用あり
菜根譚 57

人の本心のなかには、理性のある信実の考えがあり、本当の深い意味があり、この心の声を素直に聞くことができれば、わざわざ先人の書物を紐解く必要がない。しかし、多くは周囲のいろいろな、とるにたらない下らない考えに取り付かれ、その人の本心は都合のよいように、自身が解釈してしまったり、また他人からも都合のよいように解釈されてしまう。

また、人の心の中にはすばらしい感性があり、歌や踊りなどの心を表すものをそなえている。この感性の心に気がつけば、わざわざ他の歌や踊りなどを聴く必要はない。しかし、とるにたらない先人の演舞にとらまれて、自分の素直な心を表すのに、時にその枠に縛られて自由に表現しにくくなるものです。
歌や踊りなどの基本は大切で、しっかりと稽古をしなくてはならないです。しかし、稽古をするなかで真似ることが稽古だととらまえられてしまい、その歌や踊りの本質やその道の奥義から離れてしまってはいけない。

物事を学ぼうと思ったり行おうとするときは、その考えを一度整理して、過去の事にとらまえられていないか、よけいな思いが入り込んでいないかをみて、もしそのようなものがあれば、部屋の中の塵を箒で掃き出すように一掃することにより、本当の自分の考えの考えや感性を見つけだし粗朶出てて行かなくてはならない。それが本当の自分を生かす道である。

見方や立ち位置を移して言い換えれば、政治家の言葉の本心は、みな素直な正しい言葉だと言えます。しかし、その言葉はその人の所属してる党の考えにとらまえられたものであり、また、その人個人の特定の理念に固まった考えからでたものです。そうなればその人の本心を表したものかと言えば、かなりそれとはかけ離れたものになってしまうものです。

そして、何より、先人の書き残したことや、歌や踊りなども、どのようにとらまえて、どう理解し、どう活用するかが大切で、それにより自分の考え方や立ち振る舞い方がかわってくるということでしょう。

足らぬ身とは思はじ

江戸時代の禅僧、良寛さんの三首です。良寛禅師は、さんづけでよばれる不思議なお坊さんです。
その人となりを表しているのではないかと思う三首です。

こと足らぬ身とは思はじ柴の戸に月もありけり花もありけり
                    良寛

人は私のこの庵を荒ら屋というかもしれない、確かに戸は柴折り戸で隙間風が入ってくる。しかし、そこからは月は見えるし、花も愛でることができる。わたしが、托鉢で乞食をしているのは、解脱の修行をする身で、何をこれ以上に望むことがあるだろうか。


出づる息また入る息は世の中のつきせぬことのためしとを知れ
                    良寛

人が生きていく上で、息を吐きそして、息を吸いまた、息を吐きそして息を吸う。つきることなく繰り返される。人の世の物事もこれと同じで、良きこともあれば、辛いこともある。世の中に善きこともありば悪っしきこともある。だから、それらにいちいち欲を出したり、恨んだり、怒ったりしていて限りがないことをしるべしだ。
きである」



いかなれば同じ一つに咲く花の濃くも薄くも色を分くらむ                    良寛

どうして、同じ花で同じ里、同じ時に花が咲いても、その花には色の濃いもあれば、薄いものがある、世の中のいろいろな出来事や有り様やまた、その移ろいも色々あってそれがまた楽しみとも言えるのでは

自分の暮らしは自分で立ててゆかねばならない

宮本常一の「庶民の発見」のなかに一人の庶民が言った言葉が書かれています。
改めて考えさせられたので紹介しておきます。

戦後間もないころ、石川県内灘で米国軍の射撃地を作るとき、漁民たちが地引き網の漁場が奪われ、「金は一年、土地は万年」と書いた筵の幟を掲げて反対運動を起き、四年ほどで米軍の接収は終わり終結したこについて書かれています。
その時に反対運動をした住民の一人が言った言葉です。
「あんなことしてみんな我々をけしかけるけど、やってきた人たちが我々の生活をみてくれるわけでもなければ、責任を負ってくれるわけでもない。自分の暮らしはやっぱり自分で立ててゆかねばならない。話しがどちらかに決まれば外から来てわいわい言った人たちは二度と振り向いてくれないだろう。私たちが恐れているのは、我々が永い年月掛けて打ち立ててきた暮らし方が新しく切り替えられることへの不安で、新しく切り替えられてうまくゆくものなら、またそういう方法があるならそれでいいのだが、そういうことを考えてくれる人がいない。」

この言葉を読んでいると、ある事業などの反対運動や、事件などの裁判での支援運動などを見て、今も昔もそのあり様は変わらないのだなと感じます。
推進して押し進める方も、反対する方も同じで、どれだけ本当にそこで生活をしている人のことを考えているかと思います。賛成反対どちらの側にもその事業に対して協力や共鳴する人が押し掛けています。無責任な社会運動家や、政治家などに聞かせたいことばです。
そして、この二種類の人達よりもっとひどいのは、正義を振りかざすジャーナリストと言う人達の中に、結構こういう人が多くいることです。

いくら基地が作られたり、ダムができたり、原発が建設されたりする事による補助金や、生活の生業である漁業や農業などに対する補償金を国からもらっても、そこに住み続ける住民が将来も安心して安定して生活ができ過ごせる事が大切だと思います。そして一度失われた自然は戻ってこないです。

いま、沖縄では基地の移設問題があります。そこに住んでいる人の身になって解決されるのがよいでしょう。そして県民の気持ちは県外移設を望んでいるのでしょうが、先の日米首脳の会談での公にされていない約束もあるでしょうから、なかなかそこに暮らす人のそれも実現されそうにありません。


ところで、今はこの石川県内灘は長閑な海水浴場になっているようです。
最近は地引き網で魚を捕ることは、あまり聞かれなくなりましたが、豊かな海浜が広がっているようですから、介す欲や観光として地引き網をするすることもでき、いま豊の自然が残っているのは、誇ることのできることでしょう。

今に生きる私たちは、目先のことにとらわれたり、惑わさせる囁きに判断を誤らないようにしたいものです。

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「心」のありよう

もう一つ、「京都嵐山の大悲閣 千光寺」に行ったときに、書かれていたものです。

        こころ

「心」

心に、物なき時は、心ひろく体やすらかなり
心に、慢なき時は、愛敬うしなわず
心に、欲なき時は、義理をおこなう
心に、私なき時は、疑うことなし
心に、驕りなき時は、人を敬う
心に、誤りなき時は、人を畏れず
心に、邪見なき時は、人を育つる
心に、貪りなき時は、人にへつらうことなし
心に、怒りなき時は、言葉やわらかなり
心に、堪忍ある時は、事を調ふ
心に、曇りなき時は、心静かなり
心に、勇ある時は、悔やむことなし
心に、孝行ある時は、忠節あつし
心に、自慢なき時は、人の善を知る
心に、迷いなき時は、人をとがめず

これも、良寛さんの言葉だとおもいます。

どれも、このようにありたいと思う言葉です。
特に人と接するときに心がけないといけないと思います。

また、いま教育の荒廃が言われていますが、人を育てるときにはこの「心」が大切だと感じます。

一つ一つの言葉にたいして、私の感じるところ思うところを書くと、長くなるので改めて、何かの機会にこのブログに書き留めていこうかと思っています。


2012-11-20
追加訂正。
この言葉は、良寛さんでなく上杉家の上杉謙信公家訓十六ヶ条でした。
粗忽に間違ってしまいました。

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おのが意地を言いとおす

いよいよ国政選挙です。
これから、選挙運動が始まりいろいろと選挙運動もにぎやかになってきます。個々の政党と立候補者に次の言葉をきかせたく思います。

      ことば


今月の7日に 京都嵐山にいってきました。
そのとき「大悲閣」千光寺に置いてあった紙に書いてあったことばです。
ことば
一、おのが意地を言いとおす
一、人にものを呉れぬ先になになにやろうと言う
一、人のことをよく聞かずして語る
一、よく知らぬことを、はばかりなく言う
一、憂えある人のかたわらに、歌をうたう
一、親切らしく、もの言う
一、人をおだてて、なぐさむ
一、人の言葉を笑う
一、じまんばなし
一、もしり顔に言う
一、学者くさきはなし
一、茶人くさきはんし
一、問わす語り
一、さしでぐち
一、ことばの多き
一、かえらぬことを、幾度も言う
一、さしたる事もなきことを、こまごま言う
一、腹立ちたる人に向かって、道理を言う
一、客の前にて人を叱る

たぶん、良寛さんの言葉です。
良寛さんは禅宗のおぼうさんですが、禅師とか和尚とはみなからよばれず、親しみをこめて良寛さんとさんづけで呼ばれる不思議なお坊さんです。

優しさと、清さと、その中の強さを感じます。

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善い人間を論じるのはいい加減にやめよ

善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて、善い人間になったらどうだ。
マルクス・アウレーリウス『自省録』
 
アウレーリウスの言うとおりです、穴があったら隠れたいほど、耳が痛い言葉です。
 
これを実現し実践することは難しいもので、「人は霞を喰ってはいけない」もいいます。また、葉隠れに、宗龍寺の江南和尚の教えにたいして、「武士の生き方は修行僧などとは違う。武士は、大高慢で、自分こそ日本無双の勇士と思うほどでないといけない。」言っています。
 
しかし、ルクス・アウレーリウスは第16代ローマ皇帝で、ストア派の哲学に長け、学識でそれにより国を治めたことにより、古代ギリシャ時代から「哲人政治君子」を具現させた人とも言われている人です。流石哲人の言葉だと感じます。
 
中国にも帝王学があり、王や君子や帝のありかたは洋の東西にかかわらず、基本的には同じなのでしょう。
今日もこの一言を心がけて取り組んでいきたいと思います。 

自然を究めている者に笑われる

「このキュウリは苦い」ならば捨てるがいい。」
「道にイバラがある」ならば避けるがいい。それで充分だ。
「なぜこんなものが世の中にあるんだろう」などと付け加えるな。そんなことを言ったら自然を究めている者に笑われるぞ。
マルクス・アウレリウス 「自省録」
 
世の中に不要なものがあるのだろうか、「このキュウリは苦い」私の子どもの頃はキュウリのもとの方は苦かった、始めにもとの方を少し切り、切り口を合わせて摺ると苦みの液がでてきました。それか切ってしばらく逆さまに立てかけたりする方法もあったようです。
アウレウスはそのような事をせずに、いろいろ文句を言うのではなく、捨ててしまえと言っています。
中には、なんら苦みを抜くこともせずに、文句ばかり言っている人もいます。ひどいときには周囲に当たり散らす人もいます。その当たり散らす人をみると、滑稽でまさしく笑ってしまいます。
 
この話自然恵みや、災害などの事だけでなく、世の中のいろいろな出来事や、社会の仕組みなどにも、ありようなものでしょう。
キュウリなら食べなくても他のものがあります。イバラの道なら他の道を通ればいいのですが、いつももそうすることですますことができるとは限りません。

しかしなかには、避けて通ることができない場合もあります。そのときのためにそれらに向かい合える心構えはしておかないといけないと思います。
 
しかし、このところ世の中は、不都合なことから避けてしまったりする人が増えているように思います。そしてそのような人の多くは、逆に真っ向から否定して、自分の意見を押し通そうとする人に目を向けたらり、付いていこうとしたりする雰囲気が合るのを感じます。
そのような人が増えていることに、今の世の中の心の不安定さを感じ、世の中がどちらの方向に進むかが心配です。

ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけではなく、耳にも入らないという、すばらしい才能を持っている。

ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけではなく、耳にも入らないという、すばらしい才能を持っている。
ジョージ・オーウェル ナショナリズムについて
 
他人の歯や眼を傷つけながら、報復に反対し、寛容を主張する、そういう人間には絶対に近づくな。
魯迅
 
 
今の国際社会を見ていると、まさにこの有様です。これについては特段付け足すことはないでしょう。
 
日本の国内を見ていても、国会の与党も野党も地域正当もみな仮面をかぶり、直面は同じ顔をしているのではないでしょうか。
 
確か、ニーチェが次のようなことを言っていたとおもいます。
「狂気は個人にあっては希有なことだが、集団、民族や時代によっては普通になることがある」

「ナショナリズム」を追求しすぎると、過度な愛国心に走ってしまうことがあると言える。
愛国心も、良い愛国心と危険な愛国心があると言えるかどうかはわからないが、冷戦が終結してからの最近の国際情勢や日本国内の動きを見ていて、どちらかと言うと危険な愛国心が増長しているように思える。

良い愛国心・危険な愛国心とはなにか。
一口にいって、良い愛国心とは、自分と自分アイディンティティの国やそれを構成する複数の民族とその文化や風習などを愛する心です。

しかし、危険な愛国心は、他民族の文化や風習に嫌悪感を示したり、否定して自国を他の民族や国より優秀だと美化する心でしょう。
 
過去には、これにより一民族を地球上かあら抹殺しようとする集団もありました、そしてその集団多くの民主的で進んだ国民が支持しその指導者について行ったこともありました。
 
冷戦が終結し一国独走時代といわれますが、そのような時こそ国際化の意識を深め、お互いの国や民族やその文化を尊重し合い認め合いうことが大切になってきています。
一部に原理主義的や排他的な考えを持った指導者いますが、そのような国々や指導者とも息を長くして、世界の人々がたとえ仲がよくなくても、手を取り合って歴史を進めていく道を探って歩んでいきたいものです。

理想主義は、よほど本人がしっかりしないと空想になる

理想主義は、よほど本人がしっかりしないと空想になる。どちらかといえば現実主義のほうが間違いが少ない。その代わり、これが間違うと固陋になり、進歩がなくなる。
安岡正篤 これは、数日前の致知のWebページに載っていたことばです。
 
治世で理想を追求し出すととどまることがなしでしょう。現代をみてみると、社会福祉の問題、高齢者福祉の問題、市民生活の安全、住民サービスの充実、原子力発電な廃絶などなど、今以上に高めてほしいものばかりです。
しかし、これらを実現させるためには、財源が必要でそれには限りがあります。消費税を上げる上げないなどの議論があり、方や社会生活の充実の為の議論もされています。

また、国際社会を見てもエネルギー問題や、宗教問題、平和の構築のためにもんんだいなどがあります。
現実を追求していくには、なにを選んで何を捨てっていくかを決めていかなくてはならないでしょう。そしてこれらを決定するには多数決のごり押しになっては、多数決の暴力となってしまうでしょう。少数の意見を省みず数で押し切るのは独裁となってしまうでしょう。

多数決でのごり押しは一時は、安定して見えてもいずれ綻びが見えてくるものです。
理想ばかり追求しては迷走ばかりして、なかなか前に進むことはできないでしょう。
やはり、理想主義と現実主義のバランスと調和が大切でしょうが、今の日本の政局を見ていると、既成の政党集団も、新しく生まれてこようとしている集団も、どちらも自分の集団のことしか見ず、互いに足の引っ張り合いをしています。
 

巷の一市民はである私は、一時の雰囲気や風潮に流されないで、冷静に政治の流れを看ていきたいです。
 
先に紹介した安岡正篤の言葉は、次のように続いていました。
少々進歩がなくても確かなほうが安全だ。だから人間は自然には、だいたい現実主義者である。そういう意味から、少し危なっかしくても理想主義者のいるほうが刺激的で進歩があるともいえる。なかなか人間は難しい。

自の造る 自に因る罪 

自の造れる 自より生ぜる 自に因る罪は愚者を壊る 猶ほ金剛の宝石を壊るが如し
  法句経一六一
自分の蒔いた種は、自分の中で芽生えて、いつの間にか大きくなってしまうものです。それは悪行であれば、愚人をは道を外れてしまい自分の価値を損なってしまう。まるでダイヤモンドの宝石も扱い方によってキズツいてしまうのと同じようなものだ。

人若し少しも戒を持たずんば 蔓の滋れる沙羅樹の如く 自ら敵の欲するままに挙動ふ
  法句経一六二
自分の行いを少しも悔い改めないものは、堅い沙羅の木に宿り木の蔓草が、木を覆い尽くすと蔓の根が、木の幹奥深くまで蔓延り、ついには沙羅の木は枯れてしまう。まるで自分から敵の中に身を投げ込んでいるようなものだ。

善いことと悪いことでは、本当は自分にとってよくないことの方が、まま行い易いことが多いようです。善いことを最後まで成し遂げるのは難しいもので、常に自分を振り返り戒めないと、いつの間にか不善への道の方を向いてしまって、気が付くとすでに数歩足を進めてしまっていることもある。そのようなときも、それに気が付いたらすぐに改める勇気と決断が大切になってきます。
最近の世の中を見ていると、政治の世界も商売の世界も、表面の自分を守るためにズルズルトその不善の方にのめり込んでしまい、ついには身を滅ぼしてしまうことのなんと多いことと思います。
製紙会社の不正な大金引き出しや、年金運用の投資会社も、最初から多額のお金を横領しようと思ってはいなかったでしょう。始めの投資の失敗を覆い隠そうとして、その躓きが己の目を曇らして、転落の一途をたどったのでしょう。
福井の原子力発電所の事故は、人災と結論づけられました。これも、始めの事故への風評や世間の混乱を恐れ、その考えが判断を誤まらさせて、真相を隠したり逸らしたりして、それが事故をより大きくする結果になったのでしょう。
 
私たちの、日常の生活でもままよくありそうなことです。ついつい人の悪口を言ってしまう。悪口などはそれが周り回ってその本人の耳に入ることもあれば、それに尾鰭がついて取り返しの付かないこともある。しかし、それより悪口を聞かされる方は、この人はそれぐらいの人と、悪口を言っている人を評価してしまうので、結局は自分自身の評判を落としてしまうのです。
ほかにも、カロリーの高い美味しいものばかり食べてします。ちょっと気分がいいからとお酒を飲み過ぎてしまう。いや逆に物事が思い通りにならないために、投げやりな気持ちになって酒を飲み過ぎることもある。これも自分自身に自制をきかすより自暴自棄になることが容易いからでしょう。
いろいろと気をつけたいものです。

自分自身を愛することから始まる

・人若し己を愛すれが須らく善く慎みて己を護れ、智者は三時の中一たびは自ら省みる所あるべし
・初めに自ら応為に住すべし 而して後他人を誨へよ 斯くする智者は煩はざらん
・他に誨ゆる如く自ら剋修すべし 自ら善く調めて而して後能他を調むるは実に難し
   法句経
先日書いた法句経の己身の部の一番始めに書かれている言葉です。
 
もし人は、自分自身を愛することから始まることが解れば、自分自身を大切にすることの意味が解るでしょう。この道理をわきまえたならば、修行の正法時・像法時・末法時だけでなく、それ以外の過去・現在・未来などにおいても、自分自身を振り返り厳しく修養しなくてはいけない。
人に物事を教えるには、まず自分自身が何をなしどうするかを知って置かなければならない。それから他人を教え諭すことができるもので。人を教えようとするならこのことを、めんどくさがったり疎かにしてはならない。
菜根譚や言志録にも同じようなことが書かれているように思います。
人を教えることをするなら、その前に自分自身を修養すべきことを心に刻まなければならない。そのように、自分を修養してからでないと、他人を教えることであるが、このことは難しいことで、それを続けないといけないのでしょう。
荀子の一番始めにも、「学は已むべからず、青はこれを藍よりとれども藍より青く。」と書かれています。私は教鞭を執っていましたが、拙輩であった私にはなかなか難しいことですが、少なくともそうあるべきだと常々思い続けていました。
 

己を以て主とす 他に何ぞ主あらんや 

己を以て主とす 他に何ぞ主あらんや 己を善く調べぬれば能く得難き主を得   法句経

人類が二本足で歩くようになり、文明がが滞ることを知らず発展し続け生活が便利になり、経済も高度に発展してきました。そんな中、自分に自信を失いかけている人がたくさんいるようです。
一つのつまづきや失敗で、自分を見失い後々まで尾を引き、自己を喪失してしまっている人が多いようです。

他力に頼むのも一つの方法ですが、しかし根源的には自分を救済するのは自分ではないでしょうか。

自分を救う本当の救護者は自分自身である、だれがこの自分の身の外に救ってくれるものがあろうか。よく自分の意に従わせるのは自分自身であり、自分の気持ちなどを押しとどめコントロールするのは、自分自身です。それを知れば他に得難い救護者を見つけたことになる。

どの様なことがあっても、自分を見捨てず自暴自棄にならず、己を大切にしなければならないです。

この法句経の後方に、次のようなことが書かれています。

「不善と己を益せざることは為し易し 益し且善くある事は甚だ為し難し   法句経」
自分にとって悪いこと不益なことはたやすく行いやすい、しかし自分にとって有益で善い行いは、極めて難しいものであるが、それこそ大切なもので勉めて行うべきものです。

貧しくもなく、また富みもせず、

旧約聖書の箴言三十章
わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。
うそ、偽りをわたしから遠ざけ、
貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです
箴言 30章

また、論語に次のようなのがありました。「中庸は徳の至れるものなり。過ぎたるは及ばざるがごとし」。聖書の言葉もこれとよく似ています。

中庸とはある意味で、曖昧ですが最近の世の中の風潮として、それが許されないようになってきているように思えます。

自分の意見を言うときに、自分と対立する話題を批判して、話を展開させる人が増えてきたように見えます。
何か事件や事故が起きる、その原因は何かすぐに白黒を明らかにせよと、世論は沸騰しマスコミはそれに合わせた報道をする。

政治の世界でも、法案の修正の応じると言いながらも、難癖を付けて議論がなかなか前に進まない。

自分とは違う意見を言う人に、徹底に批判し正常な議論が成り立たない。

このようなんな構造で議論を進まされると、どちらが勝ちどちらが負けるかという「勝敗」に気が取られてしいましい、本当の肝心な議論の核心を見失ってしまいそうになります。

私たち第三者として、双方の良いところも悪いところも見たうえで、時の雰囲気に流されずに、冷静な判断を下せるように、視点を持ち続け見守り判断していきたいものです。

独治無くば、賛明有り

正倉院の宝物に「鳥毛篆書屏風」がる。「鳥毛帖成文書屏風」と違いこちらは四言二句です。六扇  
同じ漢字を小篆書体と繆篆書体の二種類の文字が配置して作られています。  

聖武天皇が身近なところに置き毎日この屏風を読みながら、朝に今日一日を戒めて政をおこない、夕に今日の一日を反省しと、伝えられた鑑戒の文言です。  

主無獨治 臣有賛明  
箴規苟納 咎悔不生  
任愚政乱 用哲民親  
明王致化 務在得人  
見善則遷 終為聖徳  
近賢無過 親接多惑  

今の政治家や企業のリーダは、この句を読むのでしょうか。

平成十八年の第五十八回の正倉院展に、二扇が出品されている。その図録に次のように書かれています。
    主無獨治 臣有賛明 
        主が、獨治すること無くば、臣、賛明すること有り
    箴規苟納 咎悔不生 
        箴規、苟も納められるれば、咎悔生ぜず

・君主が政を自分勝手に治めなければ、臣下は君子を助け治世を明らかにする。
・戒言を聞き入れ規範を護れば、世の中に過ちや悔いを生むことは無い。

他の四扇は、どのようなことが書かれているのか、漢文に疎いわたしが、読んでみましたが正しくはどのように読むのだろうか。

任愚政乱 用哲民親
    愚を任ずれば政乱れ 哲を用うれば民親しむに多し
明王致化 務在得人
    明王、化を致す 務て人を得るに在り
見善則遷 終為聖徳
    善を見ては則ち遷る 終に聖徳と為す
近賢無過 親接多惑
    賢に近づけば、過ち無く 妾に親しめば、迷い多し

・愚な宰相に政治を任せれば、世の中が混乱する。学識が豊かで、道理に通じた人を用いれば国民は心に隔てをおかずに生活も善くなる。
・聡明で徳の高い君子は、国民を徳でもって善い方向に導く。 自分のすべきことをする人を登用するに尽きる
・道義にかなっていることを見て適材適所をはかる。
遷る つまるところ真理を正しく知るにつきる
・賢人近ければ過ち無し、色や物欲に惑わされると道を誤り迷いも多い。

天平の時代に天子が憂い戒めの言葉としていました、今の政治家も本当に見習って欲しいものです。

貧しとも清しは長く楽しめ 富も汚と恒に憂う

正倉院の宝物に鳥毛帖成文書屏風があります。
その屏風に鑑戒的な四言四句の詞が書かれています。屏風は六扇で作者は、墨書きから谷田部咋万呂とされる。

千三百年ほど前に書かれたものだが、今の世にも通じるものがいくつかあるので、私なりに解釈してみました。

清貧長樂濁富恒憂
孝當竭力忠則盡命
貧しとも清い生活は長く楽しめ、富があると汚れて得ていると思い煩う
孝行に尽くし切ること、真心もって君主に仕え尽くす

君臣不信國政不安
父子不信家道不睦
君と臣下が信頼関係になければ、国の政治は安定しない
親子が互いに信じ合わなければ、家庭は円満でない

種好田良易以得穀
君賢臣忠易以至豐
好い種を良い田に蒔けば、穀物が好く稔る
賢い君に忠誠な臣下であれば、国は豊かに栄える

諂辭之語多悦會情
正直之言倒心逆耳
へつらいの言葉は、耳障りがよく心地良い
嘘や偽りのない言葉は、耳障りが痛く心にも痛い。

正直爲心神明所祐
禍福無門唯人所召
正直な心は、天のが見守り助けてくれる所がある。
禍や幸せは門地ではない、唯だ人の行いから来るものだ

父母不愛不孝之子
明君不納不益之臣
父母は親不孝ものの子を可愛がらない。
優れた君子は、役に立たない臣下を重要な地位に取り立てない。


昨今のニュースを聞いていて、巷の家族での不幸な事件や。
国や自治体でのいざこざは、いつの時代にもあったようです。
この天平の時代には仏教の教えなどで、規範を守ろうとする心があり、後の時代も江戸時代までは、儒教などの教えを守り行うことにより、武士などの為政者は貧しくても品と誇りをとり修養し庶民から敬われ、商人は富をとったが、清貧の誇りを持った武士の姿をを見習おうとしました。

しかし、今の政治家は自分が正しいと独断で主張し、なりふり構わぬ行いにをする人がいます。庶民は庶民で富ばかり追い求めたいたり、自分の今の快楽を追い求めたりです。
また、政治家の自己の保身や主張を無理に通そうとする姿に、庶民は品のなさを感じ愛想を尽かすしています。しかしそれに気づかぬ人が政治家などが多すぎ、この海原の航海先を憂うのは間違っているのでしょう。

■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

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記事へのコメント
  • 今村氏の発言より二階氏のマスコミへの苦言
    アジシオ次郎 (04/28)
    こんにちは。

    自民党・二階幹事長のこの発言は「報道規制」につながりかねないが、自分たちに都合の悪い情報や報道を抑圧しようとするのは客観性がない以前のもので、
  • 山本大臣の発言
    竹林泉水 (04/22)
    自民党の議席を多数とったことによる驕りと、下野に下った時のトラウマがあり、自分のすることが正しい思いこんでいるのでしょう。

    アメリカ追随が自民党の一部の反動的
  • 山本大臣の発言
    アジシオ次郎 (04/21)
    こんにちは。

    どうも閣僚や若手議員の不祥事が相次いでいる自民党、正直言って自分たちは政権与党だとか一強状態なことから慢心して周りが見えなくなっているんじゃな
  • 社会の管理化が巧みになり監視社会になるのか
    竹林泉水 (04/07)
    愛国者法での通信傍受は、国民は当初、イスラムなどのテロ犯罪者対象と思っていたが、アメリカ国民全員の通信が監視傍受されていたいいます。

    ツイッターやフェースブッ
  • 社会の管理化が巧みになり監視社会になるのか
    アジシオ次郎 (04/05)
    こんにちは。

    日本で議論の的となっている共謀罪をアメリカに一時期あった「愛国者法」になぞらえて指摘する声もありますが、テロ対策を理由に司法が国民生活に干渉で
  • 道徳教科書
    竹林泉水 (04/04)
    私が教鞭を執っていたころは、市が作成した特別授業の副読本もとに道徳の授業、また、時限立法の同対法や地対法がありそれにより、県の作成した人権に関する副読本をもとに
  • 道徳教科書
    アジシオ次郎 (03/25)
    こんにちは。

    「道徳」が必修科目になるのに伴い教科書検定が行われたが、本気で道徳教育を強化しようと言う狙いでもあるんでしょうか。

    そもそも道徳や倫理と言っ
  • 東日本大震災追悼式で安倍首相は原発事故に触れなかった。
    竹林泉水 (03/18)
    今一度野田首相が宣言したように、安倍総理は原発事故は収束したと本当は言いたいのでしょう。政府は必ず嘘をつく、それは、オリンピックの施設建設や、豊洲市場もそうです
  • 東日本大震災追悼式で安倍首相は原発事故に触れなかった。
    アジシオ次郎 (03/18)
    おはようございます。

    今年の東日本大震災追悼式典で福島第一原発事故に言及しなかった安倍総理だが、未だに原発事故処理が解決していない、避難区域解除も進んでいな
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