FC2ブログ

竹林の Twitter 新しいウインドウで開きます。

独治無くば、賛明有り

正倉院の宝物に「鳥毛篆書屏風」がる。「鳥毛帖成文書屏風」と違いこちらは四言二句です。六扇  
同じ漢字を小篆書体と繆篆書体の二種類の文字が配置して作られています。  

聖武天皇が身近なところに置き毎日この屏風を読みながら、朝に今日一日を戒めて政をおこない、夕に今日の一日を反省しと、伝えられた鑑戒の文言です。  

主無獨治 臣有賛明  
箴規苟納 咎悔不生  
任愚政乱 用哲民親  
明王致化 務在得人  
見善則遷 終為聖徳  
近賢無過 親接多惑  

今の政治家や企業のリーダは、この句を読むのでしょうか。

平成十八年の第五十八回の正倉院展に、二扇が出品されている。その図録に次のように書かれています。
    主無獨治 臣有賛明 
        主が、獨治すること無くば、臣、賛明すること有り
    箴規苟納 咎悔不生 
        箴規、苟も納められるれば、咎悔生ぜず

・君主が政を自分勝手に治めなければ、臣下は君子を助け治世を明らかにする。
・戒言を聞き入れ規範を護れば、世の中に過ちや悔いを生むことは無い。

他の四扇は、どのようなことが書かれているのか、漢文に疎いわたしが、読んでみましたが正しくはどのように読むのだろうか。

任愚政乱 用哲民親
    愚を任ずれば政乱れ 哲を用うれば民親しむに多し
明王致化 務在得人
    明王、化を致す 務て人を得るに在り
見善則遷 終為聖徳
    善を見ては則ち遷る 終に聖徳と為す
近賢無過 親接多惑
    賢に近づけば、過ち無く 妾に親しめば、迷い多し

・愚な宰相に政治を任せれば、世の中が混乱する。学識が豊かで、道理に通じた人を用いれば国民は心に隔てをおかずに生活も善くなる。
・聡明で徳の高い君子は、国民を徳でもって善い方向に導く。 自分のすべきことをする人を登用するに尽きる
・道義にかなっていることを見て適材適所をはかる。
遷る つまるところ真理を正しく知るにつきる
・賢人近ければ過ち無し、色や物欲に惑わされると道を誤り迷いも多い。

天平の時代に天子が憂い戒めの言葉としていました、今の政治家も本当に見習って欲しいものです。

貧しとも清しは長く楽しめ 富も汚と恒に憂う

正倉院の宝物に鳥毛帖成文書屏風があります。
その屏風に鑑戒的な四言四句の詞が書かれています。屏風は六扇で作者は、墨書きから谷田部咋万呂とされる。

千三百年ほど前に書かれたものだが、今の世にも通じるものがいくつかあるので、私なりに解釈してみました。

清貧長樂濁富恒憂
孝當竭力忠則盡命
貧しとも清い生活は長く楽しめ、富があると汚れて得ていると思い煩う
孝行に尽くし切ること、真心もって君主に仕え尽くす

君臣不信國政不安
父子不信家道不睦
君と臣下が信頼関係になければ、国の政治は安定しない
親子が互いに信じ合わなければ、家庭は円満でない

種好田良易以得穀
君賢臣忠易以至豐
好い種を良い田に蒔けば、穀物が好く稔る
賢い君に忠誠な臣下であれば、国は豊かに栄える

諂辭之語多悦會情
正直之言倒心逆耳
へつらいの言葉は、耳障りがよく心地良い
嘘や偽りのない言葉は、耳障りが痛く心にも痛い。

正直爲心神明所祐
禍福無門唯人所召
正直な心は、天のが見守り助けてくれる所がある。
禍や幸せは門地ではない、唯だ人の行いから来るものだ

父母不愛不孝之子
明君不納不益之臣
父母は親不孝ものの子を可愛がらない。
優れた君子は、役に立たない臣下を重要な地位に取り立てない。


昨今のニュースを聞いていて、巷の家族での不幸な事件や。
国や自治体でのいざこざは、いつの時代にもあったようです。
この天平の時代には仏教の教えなどで、規範を守ろうとする心があり、後の時代も江戸時代までは、儒教などの教えを守り行うことにより、武士などの為政者は貧しくても品と誇りをとり修養し庶民から敬われ、商人は富をとったが、清貧の誇りを持った武士の姿をを見習おうとしました。

しかし、今の政治家は自分が正しいと独断で主張し、なりふり構わぬ行いにをする人がいます。庶民は庶民で富ばかり追い求めたいたり、自分の今の快楽を追い求めたりです。
また、政治家の自己の保身や主張を無理に通そうとする姿に、庶民は品のなさを感じ愛想を尽かすしています。しかしそれに気づかぬ人が政治家などが多すぎ、この海原の航海先を憂うのは間違っているのでしょう。

人を観る方法は人からも同じように見られている

人を観る方法は「呂氏春秋」に八つの観る方法と、六つの調べ方があると書かれています。
また他人を判断するときは、六戚と四隠があるとかかれてある。

通則観其所礼 
貴則観其所進 
富則観其所養 
聴則観其所行 
止則観其所好 
習則観其所言 
窮則観其所不受 
賤則観其所不為 
これを八観といいこれは、先に書いたので改めてかかない。「貧したときに何を取ろうとしていないかを見る 」と「人物をみる観法 」を見ていただければと思います。

喜之以験其守 
楽之以験其僻 
怒之以験其節 
懼之以験其恃 
哀之以験其人 
苦之以験其志 
これを六験といい、喜怒哀楽と恐懼の時にどのようなことをするかをしらべて観ると、その人がどのようなひとか判るといっている。

このほかに、人を観るのには、六威四隠をがある。
六威とは、父母兄弟妻子のことであり、その人の家族関係がどのようなもので、どのように大切に扱っているか。

四隠とは、交友 故旧 邑里 門郭のことで、その人がどのような社会環境で過ごしているかをいう。
交友はどのような人とつき合っているか 故旧は古くからの友人をいい。 邑里は故郷をいい 門郭はその人の住んでいる所をいう。

人の観方とするのではなく、人は自分をこのように見られているのだと考え、日ごろの生き方に注意を払って、生きていければと感じます。

浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ

浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ

このブログの自身の記事「ヒステリックな両議論・・・」のコメントを返すのに、「ぼやき漫才」の人生幸路が生きていたらどんな漫才をするだろうかと書きました。すると昔の二人のやりとりを思い出しました。「ぼやき漫才」の人生幸朗と生恵幸子の二人が出てきて、「浜の真砂は尽きるとも世にボヤキの種は尽きまじ」とすまして人生幸朗が言う、相方の幸子が「なにキザなこと言ってる」と突っ込みを入れるところから始まっていました。この言葉は釜茹でになったことで有名な大盗賊の石川五右衛門辞世の句「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」から取ったものと知ったのは、私が大学生になってからでした。

このところ本当に色々な事件や事故が起きて、毎日いろいろな記事が新聞をにぎわしますが、また悪事も「浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」と詠んだごとく、「浜の真砂は 尽きるとも 世に新聞の 種は尽きまじ」で事件事故は尽きないものですね。

その中でも、おれおれ詐欺や迷惑メールなどは、辺の砂のように無数にはびこっています。そしてこれらの種を行う下賤なやからは、尽きることがなく性懲りもなく、同じことを繰り返しているようです。この種のものは本当になくならないのはいつの世も常なのでしょうか。

しでかす人や罪をとやかくではなく、このようなことを行おうとする気持ちにさせる、行き詰まって荒んだ世の中のをどうしたらよいかと思ってしまいます。

人物をみる観法

李克が人を見る五つの要訣を先日書いたが、安岡正篤が同じようなことをいっていました。

安岡正篤は[人物をみる八観法]として、八つをあげています。そこで、李克が言ったこと以外の他の言葉を、私なりに解釈して紹介してみます。

・物事が順調にいっているときは、どのようなことを尊重しているかを観る
・善いことを聞いたらそれを受け入れて行動に移せるかを観る
・物事を習熟したらその人が天狗になっているかいないかを観る
・習熟して一人前になれば今までの生活とどう変わっているかを観る

順調にいっているときこそ気を引き締めて、油断をしないようにしなくてはならないのは当たり前です。
それより、成功をするなり、地位が上がるとそれは自分の実力や徳があると、思いこんで驕ってしまうことがあります。しかし驕ってしまうと周囲の人はよくみていて、そのような人には諂う人しかついてでしょう。直言や諫めてくれる人は遠退いてしまうものでしょう。

この[人物をみる八観法]は人を見る法としてだけでなく、己はどのようにあるべきかを考えるのに良い言葉だと思います。

貧したときに何を取ろうとしていないかを見る

魏の臣 李克が文侯に次のように問われた、人を見るときどのような所を見たらよいかと、
そして次のように答えたといわれています。
居視其所親
富視其所与
達視其所挙
窮視其不為
貧視其不取
李克 李子

その人が普段誰と親しくしているかを見る。
その人が富めばどういう人に与えているかを見る。
地位につけば誰を登用したり推挙しているかを見る。
困ったときに何をせずに耐えているかを見る。
貧したときに何を取ろうとしていないからかを見る。

一番目の言葉は、どのような友達を持っているか、人付き合いを選べてよくいわれます。以前に紹介した老舗の商家の家訓に「主人は雇用人と共に働け」「雇用人はわが家族と思え」と言う言葉があります。長たる者は、どのよに部下などと接するかや普段の人付き合いもどのようにすべきかを言っているように受け取れます。
二番目の言葉は、今風に言えば社会還元で、アメリカなどキリスト教の教えが強いところでは、慈悲の心の教えがあるので成功した人などは、慈善事業に接触的に投資する人もおおいし、東洋でも己の富は人助けにより富いるので還元しないといけない。など儒教の慈悲の教えがあります。これも先の商家の家訓に「勉めて公共の事業に尽くせ」と言うことばがあります。
三番目の言葉は、直接は権力者について言っている言葉で、自分の都合の良い人ばかり周囲に置くのか、自分に使えここぞと言うときは諫めてくれる人、公正公平な視野でものを見、考える人を置いているかということでしょう。
四番目と五番目の言葉は、困っていうるときや窮極のおいこまれたときでも、やってよいことと悪いことがあります。何をせずに耐え、何をして取り組んでいるかが大切と言うことでしょう。ムヤミヤタラと八方働き回っても、窮地に陥っているときは空回りするだけです。これも先の商家の家訓に「時勢を見抜いて商機を逸するな」と「必ず投機的事業を避けよ」言うことばもあり通じるところが亜量に思えます。

因みに、この老舗は今も関西の有名私立学校の理事をして、多くの実業家や政界人や知識人を排出しています。
この家訓を作った人物は「李克」のこの言葉を知っていたか知らなかったは、わからないですが、二千五百年ほど前に李克が言ったとされる言葉ですが、少し今の時代に合わないところもありますが、解釈を変えてみれば現代にも言えることだと思います。

先の投資会社の国会での答弁を聞いていると、いい加減に子ども以下の言訳をするのやよしなさいといいたいです。このことがを知らしめたいと思ったりします。
また、その会社に資金を預けてしまった団体も、のもこの言葉を知っていれば、預けることもなかったでしょう。

最後に李克は魏王文侯に次のように言って席を辞したそうです、「この五点を見れば、人物を選定するのに十分です。どうしてわたくしなどにお問いになることがございましょうか。」

心を喜ばして怒らない

心を喜ばして怒らない

心をしづかにしてさはがしくせず、ゆるやかにしてせまらず、気を和にしてあらくせず、言を少なくして声を高くせず、高くわらはず、つねに心をよろこばしめて、みだりにいからず、悲を少なくし、かへらざることをくやまず、過あらば、一たびはわが身をせめて二度悔ず、只天命をやすんじてうれへず、これ心気をやしなふ道なり。養生の士、かくのごとくなるべし。
貝原益軒 養生訓  二 二六

日頃からやたらとハシャいだりすることなく、心を落ち着けて静かにして、気持ちにゆとりを持ち、時間などに追われ続け窮屈なことをしないで、気持ちをしなやかにして、杓子定規に生真面目になりすぎ角を作らずに、正しくないからといい気持ちをあらげないでおく。たとえ相手が悪いからといって言葉もまくし立てるように喋るのはよくなくいので少なくして、声をあらげて大きい声をださず、笑うのも大げさに大きな声を出すのは良くない。
いかなる時も、いろいろな周囲の出来事などを好ましいこととしてうれしく思う心を持ち、意味も無いのに何かと不平を言ったりして心を怒らせたりしない。悲しみをすくなくして、過去の失敗などを何時までも悔やみ自分を責め立てるのは良くない。
只、天から与えられた使命として受け入れ、心悩まないのがいい、これが養生の秘訣で、これらを忘れ怠ることのないようにするのがよい。

何でもハイハイ受け入れるのが良いと言っているのではない。自分を持たずに心の動かされるままに、気持ちが揺れて動いてしまうのは良くないといっている、端から見ても風見鶏のようにも見え、根無し草のようにも見え、雲助のようにも見える。そのようなのは生き方としても良くないし、身体の養生の面からも良くない。自分をしっかりと持ちゆったりと日々を過ごせと言っているのでしょう。

人の命は我にあり、天にあらず

人の命は我にあり、天にあらず

人の命は我にあり、天にあらずと老子いへり。人の命は、もとより天にうけて生れ付たれども、養生よくすれば長し。養生せざれば短かし。然れば長命ならんも、短命ならむも、我心のままなり。身つよく長命に生れ付たる人も、養生の術なければ早世す。虚弱にて短命なるべきと見ゆる人も、保養よくすれば命長し。これ皆、人のしわざなれば、天にあらずといへり。もしすぐれて天年みじかく生れ付たること、顔子などの如くなる人にあらずむば、わが養のちからによりて、長生する理也。
たとへば、火をうづみて炉中に養へば久しくきえず。風吹く所にあらはしおけば、たちまちきゆ。蜜橘をあらはにおけば、としの内をもたもたず、もしふかくかくし、よく養なへば、夏までもつがごとし。
貝原益軒  養生訓 1 7

これは、貝原益軒の養生訓の一節です。
このととは、改めて現代の言葉に訳す必要なないでしょう。まさにこの通りです。同じことが昔の中国の医書「黄帝内経」にも書かれています。黄帝内経は今から二千五百年前に書かれ書物です。
その中に次のようなことが書かれています「昔の人は百歳まで元気で生きていたと言われている。しかし今は五十歳になるともう衰えてしまっている。」
医学の発達した現代人からみると、織田信長が好んで舞った「敦盛」に「人間五十年化天のうちに比ぶれば・・・」とあるように、昔の人は50歳ぐらいの寿命だと思われているし、私の小さいころは50歳と言えばかなりかなり高齢の老けた人に見えていました。そのようなことですから、二千五百年前の人が、昔の人は百歳まで生きれたようなことを言っているのは。中国の独特の誇張した表現と思ってしまうでしょう。
しかし、「黄帝内経」に次のように書かれています。「今の人は食に贅沢で、酒は浴びるようにのみ、色を好み節制がなく、欲深く怒りをすぐにあらわにする。それでは寿命を縮めているようなものだ。昔の人はそのようなことはなかった。もともと食べ物もそんなになかったし、いろいろな遊びもなかったので、朝起きたら働き夜になると寝ると自然の流れに沿って生きていたので、百歳まで生きれたのだ」と書かれています。
このことを聞くと、今も二千五百年前の昔も不養生はそんなに変わらないようです。
若いから自分は元気だからと言って不摂生をし不養生をして、思いもかけず病気になったり短命で終わってしまう人がいます。
逆に子供の病弱でいたが、自分の身体に気を使い、精進し養生し用心して生活をしている人は、病気もせず天寿を全うする人がたくさんいます。
やはり、養生は大切なのですね。

日本では「人間五十年」と昔からよく言われ、織田信長が好んで謡ったとされる「敦盛」がよく知られています。
ところで、「黄帝内経」の中国では「生年不満百」と言う詩があるそうです。
内容は、詳しくはしりませんが、人生の短さを心配しながら、財をケチりながら生きるのは笑いもので、どうせなら楽しく生きたらいい。と言うところでしょうか。
「敦盛」は、人生というものは儚いものので、邯鄲の夢のようなものだ、と言っているのでしょうか。

この二つ大きく違いますが、どちらの生き方がいいのでしょうか。

Boys, be ambitious.

青年よ、大志を抱け。
Boys, be ambitious.

この言葉はクラーク博士が札幌大学を退官するときに学生たちに講話したときの言葉です。しかし、多くはこの言葉しかしりません。その後に博士は次のようにいています。
Boys, be ambitious. Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame.
Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.

青年よ大望を持て。金銭や利己的ために大志をいだくのではない。世の人々の世間からの地位や役職を得たり称えられたりするためにするのは、もろくて長続きしない束の間に消えていくようなものである。大望は、人としてあるべき姿を実現するために物事を成し遂げることである。このことを心することは間違いのないことである。

罪を憎んで、人を憎まず

罪を憎んで、人を憎まず
イエスを罠にはめようとして、不倫の女をイエスのもとに連れて来て、イエスを陥れようとした者たちが、ひとり残らず立ち去っていった話です。

ヨハネによる福音書 7章53節
そしてえ、人々はおのおの家へ帰って行った。
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早くまた宮に入られると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスは座って彼らを教えておられた。すると、法律学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時に捕まえられた女を引っ張ってきて、中に立たせた上、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の場で捕まえられました。モーセは法律の中で、こういう女を打ち殺せと命じましたが、あなたはど思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた。「あなた方の中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついにイエスだけになり、女は中にいたまま残された、「女よ、みんなはどこにいるのか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない、お帰りなさい、今後はもう罪を犯さないように」。


権力者たちがイエスを罠にはめようとした話しです。
不倫の現場で捕らえられた女を連れて来て、律法通りに石で打ち殺さ断罪させるか、赦すか赦すことは律法に反することになります。
イエスが律法に同意すれば、罪を赦す神の愛を説いたイエス御自身の教えと矛盾することになります。
この問題にイエスは、かがみ込んで地面に何か書いて、無視して取り合わないようにしました。そして、刑罰を執行するには、完全に潔白な人でり、罪を犯したことのない純潔な人だけが、罪人に対する罰を執行できるのだといいました。

今の世の中を見ていると、他者を断罪するばかりで、自分自身の罪を見ようとしない人が多く、罪を憎まないで、人を憎んでいるように見えます。
大切なのは、人を憎んだり、傷つけたりして怨みを晴らすことではなく、罪を犯した人も被った人も、罪と戦うことではないでしょうか。そうしないといつまでもその罪の呪縛から解き離れることはないでしょう。
罪人を法廷で裁いたり、犯罪者を矯正するこを悪いと胃っているのではないです。
罪や悪意を持った敵を憎んで、目には目歯には歯のようであったり、復習のために、悪事に手を染めてしまってはなにもならないのではないでしょうか。

金は鉱より出で 玉は石より生ず

金は鉱より出で 玉は石より生ず 幻に非ざれば 以て真を求むることなし
道を酒中に得 仙に花裡に遇い 雅なりといえども俗を離るる能わず
菜根譚 後八五

金のような価値のあるものでも、精錬しないと使い物にならない。ダイヤなどの宝石も、磨かないと輝きが出てこない。優秀な成績を結果を出す人も、周囲の人によって磨かれ、自分の努力によって成し遂げられたものでしょう。人を育てることは大切ですね。
最近注目されているレアメタルも、それを採掘するのに周囲を自然を破壊して得られる。そのことに目をそらしがちであるが、それだけの代償を払っていることを忘れてはいけない。また、取り出しものもそのまま使えるのではなく、多くの手間暇を賭けて精錬されて、始めて貴重なレアメタルとして利用できるのです。
しかし、貴重な金属だけでは機会はできない。ふつうの鉄鉱石があって鉄があり、いろいろな機械ができるのです。そのように特定な希少価値があるものだけが重要なのではない。どこにでもあるものが本当は大切であり、そこに
真実があり、この現実の世界の中にある。
酒を酌み交わしながらでも、人の道を見つける事ができるし、桃源郷のようななかでも道を見つけることができる。風流も巷の現実の世界と別のせかいではないのである。

白隠禅師の「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の他に仏なし」を思い出した。

倦むに因って終わりを鮮くすべからず   

喜びに乗じて諾を軽くすべからず   
酔いに因って怒りを生ずべからず   
快に乗じて事を多くすべからず   
倦むに因って終わりを鮮くすべからず   
菜根譚 前二一六   

どこかの商家の家訓にありそうな言葉ですね。  

喜びに浮かれて、後先の事をよく考えずに、約束事などを承諾してはいけない。
酒の酔いにまかせて、怒って無闇矢鱈に腹を立ててはいけない。
調子がいいからといって、事業を広げたりするのはいけない。
飽きたからといって、しかかっていることを途中で投げ出してはいけない。

耳が痛い言葉ばかりです。
いつもは慎重なのに、何かいいことがあると、気分も良くなり調子に乗って、安請け合いをしてしまう。そして後で気が付き後悔をする事もありますね。
何か意に添わないことに成ってしまうと、やけ酒をのんでしまいグチばかりでてしまったり、酔いに任せて罵ったりしてしまう。それならまだ酔い方で、喧嘩を始めてしまう人も時々見受けます。
商売が順調だからといって、調子に乗って手を広げすぎると、その時流が過ぎると一転て調子が悪くなってしまう。
飽きたからとか今うまくいかないからなどと、言って途中で投げ出すなどは以ての外です。最後までやり抜くことが大切ですね。

ある江戸時代からつづく老舗の家訓に、
祖父の業を専守せよ、
必ず投機的事業を避けよ、
時勢を見抜いて商機を逃すな
主人は雇用人と共に働け
勉めて公共事業に尽くせ

分け隔てなく、 幸せであれと願う

幸せであれと願うのは誰しも同じです。また誰しも多かれ少なかれ、憎しみ、嫉妬、羨み、怨みなどを抱くのものです。しかしそのような相手にも幸せになれと願うことは、自分自身が心穏やかになり幸せになる簡単で確実な近道だと、昔から言われている。

自分自身に対しても、
好きな人に対しても、
嫌いな人にたいしても、
自分を嫌いな人にたいしても、

苦しみがなくなり、
願いが叶えられ、
悟りの光が輝かんとする
ことを誰かれなく分け隔てなく、
幸せであれと願う事が大切です。

これらのことは、頭で分かっていてもいざ実践するとなると、なかなかできないものです。
しかし、唱えるだけ、常々思うだけならできます、常々唱え思っていると、心の奥底のそれが種となり、やがて小さな芽となっていくのではないでしょうか。そして、それがいつかは綺麗な花を咲かせ、やがて実になるかもしれません。
植物には種を蒔くと一年で花を咲かせ、毎年実を稔らせるものもあれば、花が咲くまで数年ものによると数十年かかるものもあります。しかしどの植物もやがては花を咲かせ実を稔らせるものです。
上の言葉をいつも心のどこかにしまっておき、時々唱えるのもよいかもしれません。

これらの種をまき、分け隔てなく、幸せであれと願うことが大切ですね。

この世は前世の蒔いた種、未来はこの世で蒔いた種しだい

この世は前世の蒔いた種、未来はこの世で蒔いた種しだい

善い行いには必ず良い果報が伴い、悪い行いには必ず悪い結果が生じ、前世・現世・来世、過去・現在・未来は繋がって、結果として自分の身に受け、現在や未来の果報に報いるが生じることですね。
白隠禅師が、このことを現世に生きていくための行いとして、歌にして教えてくれています。必要以上の欲をもつこと、人のために尽くすことを怠ること、富めるのは何が為に富めているのかを忘れて施しをしない。これらを戒めている歌です。
詠んでみると改めて、反省させられるところが多いです。

白隠禅師施行歌

今生富貴する人は 前世に蒔をく種がある
今生施しせぬ人は 未来はきわめて貧なるぞ
利口で富貴がなるならば 鈍なる人はみな貧か
利口で貧乏するを見よ
此世は前世の種次第 未来は此世の種次第
富貴に大小ある事は 蒔種大小あるゆへぞ
この世はわづかの物なれば よい種ゑらんでまきたまへ
たねを惜みてうえざれば 穀物取りたる例なし
田畑に麦稗蒔ずして 麦稗取りたる例なし
麦稗一升蒔きをけば 五升や一斗は実るぞや
然れば少しの施しも 果報は倍倍あるものぞ
況や施し多ければ 果報も多しと斗りしれ
それ故へお釈迦も観音も 施しせよと進めたり

さすれば乞食非人まで 救うこころおこすべし
おのおの富貴で持つ宝 有ば有ばほどたらぬもの
おほくの宝をゆづるとも 持子はあつぱれ持ものぞ
我子の繁昌祈るなら 人を倒さず施行せよ
人をたおして持つ宝 我子にゆづりて怨となる
人の恨みのかかるもの ゆずる我子は沈みきる

舛や秤や算盤や 筆の非道をし給ふな
常々商いする人も あまり非道な利をとるな
死んで三途に入事ぞ 其身は三途に落入て
屋敷は草木が生い茂り
非道は子孫の害と成る 悪事が身に酬ふ
世間に数々有るものぞ

一門繁昌する事は 親が悪事せぬゆえぞ
若又親にはなれなば ますます重恩思ひしれ
子を慈しむ親ごころ 荒ひ風をも厭ひしぞ
それ程親に思われて 親を思わぬおろかさよ
おやに不幸な人びとは 鳶や烏に劣りたり
娘息子をしつけるに 惜しむたからはなき物ぞ
親の後生の為ならば 其金出して施行せよ
飢死ぬ人を助けなば 是に勝れる善事なし

たとひ万貫長者でも 死んで身につく物はなし
妻も子供も銭金も 捨て冥途の旅立ぞ
冥途の旅立する時は 耳もきこえず目も見えず
行方しらずに門をいで 闇をやみじに入事ぞ
其時後悔限りなし 兎角命のあるかぎり
菩提の種をうへたまへ

命は脆きものなれば 露の命と名づけたり
今宵頭痛が仕始めて 九死一生なるもあり
強い自慢をする人も 暮に頓死をするもあり
けふは他人を葬礼し 明日は我身のぞ
然れば頼みなき娑婆に 金銀蓄へ何にする

ふうきさいわいある人は 貧者に施しせらるべし
貧者に施しせぬ人は 富貴でくらすかひもなし
狗でも口はすぐるぞや 飢人貧者を助くべし
慈悲善根は其儘に 家繁栄の御祈祷ぞ
慈悲善根をする人は 神や仏に守られて
天魔外道はより付かず 然れば祈祷になるまいか
よくよく了簡せらるべし
恵施しならぬとは 餘りどうよく目にあまる
飢死ぬ貧者を見ぬ振りに 暮らすこころは鬼神か
慈悲善根のなき人は 子孫はんじょう長からじ
宝は餘りはなき物ぞ 施行で借銭し始めよ
それこそ真の信心よ

上なる人を始めとし 頭立たる人びとは
われもわれもと共どもに 厚く施行に身を入れよ
貧者の命救うなら 広大無辺の善事也
平生貧者に敬はれ 身に付果報有るまいか
人の喰物すつるのを 好んで拾ふてくう物は
前世に蒔種たらぬゆへ 是非なく袖乞する事ぞ
かかる有様見ながらも をのおの仁心起らぬか
ともに角にも人として 信心なければ人でなし
此節信心起らねば 全牛馬にことならず



友を呼ぶ鳥は 共に友と生きる鳥

友を呼ぶ鳥は 共に友と生きる鳥

詩経の小雅に[伐木]と言う詩があります。

伐木丁丁  
鳥鳴嚶嚶  
出自幽谷  
遷于喬木  
嚶其鳴矣  
求其友声  
相彼鳥矣  
猶求友聲  
矧伊人矣  
不求友生

山の木を伐る音がとうとうと木霊がする
森に住む鳥たちが呼び合う
奥深い谷から鳥たちが飛び立ち
安全な高い木々に飛わたる
鳥たちが鳴く声がする
共に友を励ましあう声がする
この鳥たちでさえも
友を求めて呼び合う声がする
いわんや人間同士なら
友に生きていこうと声をかけないことがあろうか

一族を集めて宴を開いても、集まるだろうかと心配し、一族が団結して栄えるのを願った歌だそうです。

鳥に負けないように、声を掛け合って互に手を携えて、協力し合って生きてゆくのが人間でしょう。
人は、一人では生きてゆけないので、近くの人、遠くの人と声を出し合っていきたいですね。
声を出さないと、困っているのも、何をしてほしいのかも、楽しいのかも、悲しいのかもわかりません。
人に手を貸そうと思っていても、声を出していかないと、場違いのことをしたり、自分のしたいこと、協力したいこと、力添えになれることが、わかりません。互いの掛け声があって共に生きていけるのでしょう。

そして、木が伐り倒されて住処を失った鳥のように、より安全な場所にみんなで移り住めたらと思います。
そしてそこでの新たな生活も、声を掛け合って初めて生活が始まるのでしょう。


春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ

春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ
夏目漱石  草枕  

春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。

夏目漱石の草枕のこの一文を読んでいて、唐の詩人孟浩然の「春眠暁を覚えず」と、清少納言 枕草子の冒頭である「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは」を思い出した。
今まで冬の寒さで身を縮めていたのが、暖かくなり夜の明けるのも早くなってきて、春が近づいているのを感じる。特に三月初旬の今ごろは、毎日一分ずつほどの速さで日の出が早くなっているので、知らないうちに東の空が白んで明るくなっている。そうすると散歩をしていてもウキウキしてっきます。また、周囲を見渡すと草木も芽吹き出し鳥もさえずっています。散歩をしていると、ウグイスのさえずりも、下手ながら賢明に泣き上手に鳴くために練習しています。もう少しすると空高く飛びながら、雲雀の鳴き声も聞こえてきます。

そんな時期になると、鼠を捕るのが仕事の猫も、季節のよさに寝ぼけてしまい、鼠を捕るのも疎かになってしまうのでしょうか。人間はぬるま湯に浸かったように、春のくるのに浮かれてしまう。借金などでいやなことも、春の野山を見ると、一時であろうが忘れて気持ちがすがすがしくなる。
現実の世界に戻ると都合の悪いことを忘れてしまいたくなり、自分の持っている、確固たる判断基準を見失ってしまう。雄大な大自然を眺めていると、欲や憎しみから離れ無心になっていると、目先のことから逃れたい気持ちから醒めて我に返る。

雲雀は大空の高いところで、あの小さな身体で、懸命に鳴いています。私もその雲雀の懸命に鳴く声を、身と心で感じ雲雀が鳴くように、自分自身も生きている中で小さなことでも懸命の返していかなくてはならないのを教えられる。

そしてシェレーの雲雀の詩を思い出して、辿々しくおもいだしている。
シェレーの詩とはどんなのだろう。

徳に進み道を修めるに

徳に進み道を修めるに

徳に進み道を修めるに 個の木石的の念頭を要す もし一たび欣羨あれば 便ち欲境に赴かん 世に済い邦を経するには、段の雲水的の趣味を要す 若し一たび貧着あれば 便ち危機に墜ちる
菜根譚 四六

徳を高めすぐれた品性や人格を身につけようと修養するなら、路傍の石や木にのような心境でいなくてはならない。もし一度でも巷の誘惑を羨ましく思うなら、欲にむけてずるずるとはまりこんでしまう。
世の中のため人のため国のために身を尽くそうとするなら、行く雲と流れる水のように無心になって取り組まなくてはならない、一度でも地位や名誉などに執着心が起きると、始めの志の人のため世のためなどは、どこかにいってしまいあったものではない

始めは理想を高く掲げた政治家が、次第に汚職に身塗れてしまうのは、巷ではよく見ることです。周囲の誘惑がそれほど多いと言うことでしょう。
ただ、このことは政治の世界だけでなく、一人の個人の生活の中にも言えることではないでしょうか。
少しでも楽しく快適な生活をと望むのは悪いことではありません、しかし今までより楽な生活をすることによって、今まで得ていたものが得られなくなるものもあるのです。また、一度楽を感じると次はこれ、その次はこれと楽を追求するのが止まらなくなってしまうこともあります。
今一度自分の生活を振り返り、今の自分を反省してみたく思います。

一隅を照らす

一隅を照らす
最澄  山家学生式

国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。
古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用なり、能く行い能く言うは国の宝なり。三品の内、唯言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為す。乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。

国宝とは、金銀財宝を言うものではなく、自分の置かれたその場での道徳心を持った人である。それは何物にも換えることはできない。自分の使命、役割を自覚し小さくても、その場で明るく光り輝くことが国宝というものだ。
古くからの教えにもある、口先だけで立派なことを言う人、なにも言わないがする事はする人、言うことは言いする事はする人こそ大切のしなければならない。言わない人、なにもしない人は盗人と同じである。
道徳心がある人は、悟りを追求し努力している人であり、正しい行いをする学識と人格を兼ね備えた人である。辛いことやいやなことでも進んでして、よいことは他人と分かち合う。ことこそが慈悲のこころの大切な部分といえる。

しかし、最近自信を失い自分はなにもできない、取り柄がないと思っている人が多いようにおもいます。
自分の存在価値は、自分自身が創り上げるもの。どんな仕事でも、何処にいようが、金銭的に恵まれなくても、いま認められていなくても、いま辛くて苦しくても、それはその中に、使命、役割を見つけて取り組むことが必要だとおもいます。。

「己を忘れて他を利する」という忘己利他(もうこりた)と「その場で明るく光り輝く」一隅を照らす。このようにありたいですね。

怨みを捨ててこそ息む  

怨みを捨ててこそ息む  
ブッダ  ダンマパダ  

「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。
(岩波文庫版 ブッダの真理のことば 感興のことば 第一章三、四、五)


あの人は、わたしを口汚く悪口をいった 悪い影響やわざわいをもたらした じぶんより優位にたち自分を負かした 脅したりして無理矢理に奪い取った。このような心が沸き起こるうちは、いつまでも心がやすまることはない。
しかし、それらの心を静めていくと、心は安まるものだ。
この世の中は、怨みを持って怨みを沈めようとしても、怨みは晴れるものではない。それらの怨みを捨て、それまでの関係を断ち切って構わないでおくと、心は安らぐものである。
このことは、いつでもどこでも変わらない、否定のしようのないことである。

私たちが生活をしていると、いろいろなことがある、楽しいことやいいことばかりでない。些細なことで腹を立てたり、妬んだり恨んだりしてしまう。そしてそのようなことに腹をたて怒ったりする。
あの人より私の方は実力があるのに、あの人の方が出世している、などと嫉妬をする。ちょっと他人の持っているものを羨んだりもする。そのような様々な欲の心に蓋をしなさい。そうすれば怒りの心は鎮まり、周囲のみなと仲良く楽しく気持ちよく過ごすことができる。
そのようなことは、よく判っているがそれがなかなか出来ないからこそ、ひびそれに努めようとする心が大切なのでしょう。

天に星 地に花 人に愛

天に星  
地に花  
人に愛    
実篤   
先日、昼食を食べに入った、食堂に飾ってあった、色紙に書いてあったことばです。

あるべきところに、あるべきものですね。
天に星がなくてはならないし、目印がない海を航海するときには、動かぬ星を頼りにできます。
地には花がなければ大地の恵みはない上に、春になっても花が咲かなければ、暖かくなっても不毛の続くばかいりです。

人にはやはり愛がなけれは、人生はどのようになるのでそうか。

剛毅木訥

剛毅木訥、仁に近し。(ごうきぼくとつ じんちかし)
孔子  論語 子路篇  

意志が強く、ほかの人の言葉に迎合したりしないで、うわべを飾って、自分をよく見せようとしない人は、他を思いやり、いつくしむ心を以ている。他を思いやる心を持つことは自己を完成させる最高の徳をそなえた人と言えるに等しい。

愛想がなくてとっつきにくい人は、利己的な打算がなく飾ることもしないので、、当然かざりけがなく話し下手な木訥になるでしょう。
みずから正しいと信ずるものの前には、その生命さえ惜しまぬなら、当然剛毅になるであろう。

しかし、このような人間でも、仁である完成した徳をそなえた人そのものではない。

聖人と呼ばれるような、徳のある人とは、いないもので人とはなにがしの欠陥があり、それがまた人たる人と言えるのでしょう。

初心の人 二つの矢を持つことなかれ

初心の人 二つの矢を持つことなかれ
卜部兼好 徒然草

ある人 弓射ることを習ふに 諸矢を手挟みて的に向ふ 師の曰く 「初心の人 二つの矢を持つことなかれ はじめの矢に等閑の心あり 毎度ただ得失なく この一矢に定むべしと思へ」といふ
わづかに二つの矢 師の前にて一つをおろかにせんと思はんや 懈怠の心 みづから知らずといへども、師これを知る この戒め 万事にわたるべし
道を学する人 夕べには朝あらんことを思ひ 朝には夕あらんことを思ひて 重ねてねんごろに修せんことを期す いはんや 一刹那のうちにおいて 懈怠の心あることを知らんや なんぞ ただ今の一念において直ちにすることの 甚だ難き

弓術で弓を射るのに二本の矢を持って的の立つ。しかし師匠は、初心者の練習では、矢を一本持って練習させる。これは、射る矢が二本あるのと、一本目の矢を外しても二本目の矢があると思い、一本目の矢への中心が疎かになるり何らいいことがないからである。一本目の矢に集中することを肝に銘じさせるためである。

だれも二本しかない矢を、師匠の前で疎かに射ることはないであろう。しかし、心の何処かに気の緩みが生まれて、射ることに集中を欠くことがでてくる。師匠はそれがわかっているのです。このことはなにも弓術に限ったことでなく、あらゆることに通じることである。

道を修めようとする人は、明日があるからと、今日なすべき事を疎かにしてはならない。怠け心は一瞬の隙に忍び寄って襲ってくるものです。これを肝に銘じて、事を思い立ったときが、吉日でその場でやり終えるのがよい、しかしこれは難しい事でなかなかわかっていても出来ないものである。

(*私は弓術のことは詳しくは知らないが、弓を射るとき二本の矢を持つのを、「諸矢」といい甲矢 乙矢の二本の矢を一対として一回の射的するそうです。  *そして、「手挟む」で手・指にはさんで持つことです。)

仕事をする上でまだ期日まで日があるからと、今日出来る仕事を先延ばしにしてしまう。そして期日が迫ってきてあわてて取り繕ってしまう。今出来るなら仕上げてしまし、明日は別のことをしたらいのだが、そうはしないでだらだらと仕事をしてしまう。いやはや己の怠け者には呆れてしまうものです。

しかしこれは、じっくり吟味しながら、時間を掛けて行うのとは違う。

能く人を容るる者ににして、而る後以て人を責むべし。

能く人を容るる者ににして、而る後以て人を責むべし。人も亦其の責を受く。人を容るること能わざる者は人を責むること能わず。人も亦其の責を受けず      
言志録  佐藤一斎   

おおらかで心の広い人は、物事をよく受け入れることができる。そうすることによって始めて、他人の過ちや欠点を指摘し、責める資格があと言える。それにより人もその責めを、受け入れることができるものである。人を受け入れることが出来ない人は、人の過ちや欠点を責める資格はない、またそのような人からの責めは受け入れられない。

ごく当たり前のことですが、人の過ちや欠点は目に付ききになるものです、例え人のすることが間違っていても、頭ごなしに責めるだけでは、反感を買い反発されてしまうことが多いものです。
世間一般の通念から合わないことをする人も、その人はそれなりのそうなるに至った事情や、それなりの根拠があるものです。そのようなことをする人には特に、その人言い分や話を聞き入れて、間違いを指摘し指導すべきでしょう。それが出来ない人は誠に度量が小さいと意わざるを得ない。
一方的に相手の間違いなどを指摘し正すのは、手っ取り早く手際がよいように見える。しかしそのような人は指導力があるように見えて、一時はもてはやされるが長くは続かないでしょう。
学校の教師や会社の役員など人を指導する立場にある人は、このことは肝に銘じて於かなければならないでしょう。

情に循って情を制し 欲を達して欲を遏む

情に循って情を制し 欲を達して欲を遏む 是れ礼の妙用なり
佐藤一斎  言志録 六八

物事に感じて相手を思いやる心が強すぎると、いろいろと弊害がでてくる。夏目漱石は「草枕で、「情に棹させば流される」と書いているのは、はまさにこのことだ。
だから、情は制し、相手をおさえつけて、目的にそって動くように束縛しなくてはならない。
欲は目的をある程度達成したら、それ以上求めないで満足しておくべきだ。
このことは、大切なことで、社会生活をおこなう上での作法や慣習である。

私たちの身の回りでよくありがちで、人に便宜をはかるのはいいが、その便宜を図りすぎてしまう。便宜を図ってもらった方も、ここまで便宜を図ってくれたのだから、もう一つこれもお願いしたいと思ってしまう。それを要求してしまう、それは無理だと断られると、今まで便宜を図ってくれてたのを忘れて、不満に思い別の要求をしてみる。
このようなことがないように、互いに節度を持って常識的な礼を忘れないでおきたいです。

人の言は、須らく容れて之を択ぶべし。拒むべからず。また惑うべからず。

人の言は、須らく容れ、之を択ぶべし。 拒むべからず。 また惑うべからず。   
言志録 斎藤一斎   

人の言うことは、まずは話をよく聴きいれて、その善し悪しを判断して決めるべきである。聞く前から断ったり否定してはいけない。また、人の言うことに惑わされてはならない。   

人の話をよく聞きかないといけないと言われます。
それには自分の考えをしっかりと持って、相手の言うこと理解し判断しないいけない。
そうしないと、一時のその場の雰囲気などで惑わされ流されてしまいます。

最近、いろいろな商品を言葉巧みに紹介されて、結局はだまされて買ってしまったり、契約を結んでしまったりするニュースを聞きます。これも、自分の考えや目的目標をしっかり持っていれば、そのような話に乗ってしまうことはないのであろう。

また、みんなが不満に思っていることを、悪いものとして批判して、自分は正しく道徳的に政治をするとして、支持を集めている人がいる。その話を聞き入れる私たちは、その主張が良い悪いは別にして、自分の考えをしっかりと持ち、一時の雰囲気に惑わされないように判断して、その人の話を受け入れる入れないを択んでいきたいと思う。

面欲冷 背欲煖 胸欲虚 腹欲実

面 冷ならんことを欲し 背 煖ならんことを欲し 胸 虚ならんことを欲し 腹 実ならんことを欲す    
言志録 佐藤一斎  

面冷ならんの面と顔のことよりも、面構えと言うようにその人となりを指し考えなどをさしているのだろう。周囲の状況をよく見て、自分の頭で冷静によく考えれば、其の時々にあった正しい判断ができる。 
背中が暖かとは、情熱を持って事に当たると言うことで、周囲の人は付いてきてくれる。 
胸虚ならんとは、先入観やわだかまりがなく心が素直であると言うことで、他人を受け入れる懐の深さを持てる。 
腹実ならんとは、肝が据わって何事にも動じない腹の大きさのことで、このような人になりたいと言うことです。 

誰でも、このようになりたいと思い、多くの人がそのように日々を過ごそうとしているが、わたしなど毎日が反省の日々です、いや反省することすら忘れてしまうほどです。 


凡そ事の妙処に到る

凡そ事の妙処に到るは 天然の形勢を自得するに過ぎず 此の外更に別に妙無し  
言志録 佐藤一斎

世の中のどの様なことも、何とも言いようのない味わいになのは、物事が変化するその時その時のありかたを、自分の力で理解し会得するこに他ならないだけで。それ以上のことはなく、実際のありさまや本当の姿は、何とも言えないほど素晴らしいとしか言いようがない。

素晴らしい、和歌や、漢詩や、琳派の絵画や水墨画だろうが、どんな近代のテクノロジーだろうが、奥深く微妙なこと。趣が深くすぐれていることに、自然の奥深さと成り行きがあり、常人にははかりしれない不思議な真理がそこにはある。それを自分の力で悟ること。自分自身で理解し、自分のものとすることがいいのでしょう。
それを追求するのが、仏教で言うなら修行であり、武道や芸事なら稽古でしょう。

漁歌 浦に入って深し 

酬張る少府  王維   

晩年唯好静  
万事不関心  
自顧無長策  
空如返旧林  
松風吹解帯  
山月照弾琴  
君間窮通理  
漁歌入浦深  

晩年は唯だ静を好む  
万事 心に関わらず  
自ら顧みて長策無し  
空如として旧林に返る  
松風 解帯に吹き  
山月 弾琴を照らす  
君は窮通の理を問うも  
漁歌 浦に入って深し  

晩年に近づいてくると 静かなことを好むようになり 変化を望まなくなる  
世の中のすべてのことに 関心を引かなくなる  
自らを振り返りみても 長い方策を見いだせない  
むなしくただ もといた林に戻ろうとする  
松風は くつろいだ身体を吹き抜け  
琴を弾けば 山の月が照らす  
あなたは、人の世の栄華と困窮を問われるが  
融通無碍な歌が 岸辺深くまで聞こえている。  


私自身一回りした歳を過ぎて、人生の後のことを考えるようになってきたが、まだまだ私はここまで行き着いていない。
最近は世の中の流れに対して付いていけないのか、どちらかというと嘆きを感じることが多い。そのためか、あまりにも急展開するのには、戸惑いを感じてしまう。
この「静を好む」だろうか。だけど私には、竹林の方丈庵に住ましても、「弾琴」の優雅さもなく、「漁歌」の滄浪歌も未だ遠い道です。


自己の革新  

自己を新たにするにも、他によるのと自らするのと二ツの道がある。   
幸田露伴  努力論   

簡単に言うと、自分を新たに成長させたのは、自分の努力によるものか、他からの力を借りて成長させたのか、この二通りがあるがどちらが良い悪いというのでない。   

露伴はさらに次のように言っている。   
「他力によって自己を新たにするには、何より先に自己を他力の中に没却しなければならない。」そして、人々が自ら新しくしようしなくなると、国は老境に入ってしまうと言っているが、「他力に頼って自己を新たにしようとするにしても、信というものは自己によって存するのであるから、即ち他力に頼る中に自己の働きがる。」と書いている。   
筍子の勧学に「蓬麻中に生ずれば扶けずして直し」とあり、詩経の小雅 鶴鳴には「他山の石 以て玉を攻むべし」とあります。
筍子の言うように、長く成長した蓬でも麻の中に成長したら、真っ直ぐ伸びざるをえない。孟母三遷でしょうか?
詩経に書かれているように、粗悪の石でもそれを砥石として玉石を磨けるように、他人の力を吸い取り盗み取りながら成長してゆく。
多くの人は、この二つのうちのどちらかではないでしょうか。

「自ら新たにするの第一の工夫は、新たにせねばならぬと信ずるところの旧いものを一刀の下に斬って捨てて、余蘖を存せしめざることである。」
このつぎに露伴は、畠で野菜を育てていて雑草がはびこってしまえば、今まで育てていた野菜も捨てたり、土を入れ替えたりしてから、新たに野菜を植え直すことをすることを例えている。

このように、今までの習慣や考え方が悪いものだと分かると、思い切って捨てることがよいのだが、なかなか未練や今までのしがらみを棄てる事は難しいです。しかし何処かでそれをしないと、新しい自分を改革することはできないでしょう。


其人口を莟めて言無かりきとて笑われける

西郷隆盛は、西郷南洲遺訓で、このあとに次のように言っている。   
「世人の唱ふる所 何が文明やら 何が野蛮や些とも分からぬ 予嘗て或人と議論せしこと有り 西洋人は野蛮ぢゃと云いひしかば 否な文明ぞと争う 否な野蛮ぢゃと畳みかけしに 何とて夫れ程にもうすやと推せしゆゑ 実に文明ならば 未開の国に対しなば 慈愛を本とし 懇々説諭して開明に導く可きに 左は無くして未開朦昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢゃと申せしかば 其人口を莟めて言無かりきとて笑われける」   

明治維新前後の、勤皇の尊皇攘夷だけでなく佐幕派も同じように思っていたであろう。現代の国際社会の通念では、驕り高ぶっているような所もありますが、気高き武士としての誇りと品格を大切にしていることを感じます。  
文明やら野蛮やらとについては、その民族の誇りを無視して、埒もあかないこをとりとめもなく議論をする人を、ひょっとすると今の方が見うけるのではないだろうか。そうなると明治時代からさほど進歩していないというより、品格が下がってしまっているのでしょうか。 



■竹林乃方丈庵の主から■

・いつも拙文を読んでいただきありがとうござます。
・見聞きしたことを独断と偏見で、気ままに綴ったものです。
・自分のために無責任に書き留めたものですから、読み終わったら捨て下さい。

記事の整理棚
禅 (2)
最新の30の記事
月別の過去の記事
07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   10   09   08   07   06   05   04   03   02   01   12   11   09   08  
単語による記事検索
竹林の過去の戯言のタイトル

過去の記事タイトルを100件づつ表示します

記事へのコメント
  • 不自由な国、日本
    竹林泉水 (06/29)
    日本語に「世間」と言葉があります。「世間体が悪い」「世間がうるさい」「世間を渡る」「世間に顔向けできない」「世間の目を気にする」「渡る世間に鬼はいない」などとつ
  • 不自由な国、日本
    アジシオ次郎 (06/27)
     おはようございます。

     日本はやはり集団主義が根強い社会であり、いわゆる「ムラ」社会的価値感が強い為に変に「和」を重んじる傾向の上に上の言うことは絶対だという
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    竹林泉水 (06/26)
    なんで日本人は欧米人に対してコンプレックスを持っているのだろうか。明治政府は今までの幕藩体制をぶっ壊し廃藩置県をし、国内の不平不満のエネルギーを外に敵を作ること
  • 人種差別抗議行動への共鳴が日本で起きないのは
    アジシオ次郎 (06/25)
     こんにちは。

     日本人は長年欧米コンプレックスを抱いたせいで白人に対して好意的に見る一方でアジア人や黒人を平気で見下すような傾向が強いけど、自分たちが置かれて
  • 長期政権
    アジシオ次郎 (06/24)
     おはようございます。

     長期政権がもたらすもの、それは腐敗と閉塞感以外の何物でもないが、一人の人間が十何年、何十年と居座ってては健全さなど皆無だし、変化を知ら
  • 人種差別から思ったこと
    竹林泉水 (06/21)
    コメントありがとうございます。

    人間は、自分は他よりも優秀だ思いたいがります。逆に自分はあの一人より仕事ができないと感じたり、あの人より低く見られていることに対
  • 人種差別から思ったこと
    アジシオ次郎 (06/18)
     おはようございます。

     相変わらず現代において根強く蔓延る人種差別の問題、長い歴史において人種差別や偏見はヒドかったけど、その歴史から何を学んでいるのかとも思
  • 人生二十最
    omachi (05/23)
    あなたの知らない日本史をどうぞ。
    歴史探偵の気分になれるウェブ小説を知ってますか。 グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索するとヒットし、小一時間で読めま
  • 100年前の教訓
    竹林泉水 (05/09)
    コメントありがとうございます
  • 記事へのトラックバック
    ブロとも一覧

    うたのすけ

    山下道場

    荒野鷹虎

    海空居士

    紀瀬美香

    marihime

    お父さんの旅

    キラベル

    silver camellia

    kbrkのつぶやき

    魚京童!

    俊樹

    アジシオ次郎

    ほんわか?絵日記

    吾輩と旅と副業

    Chronos Moon

    ざっくり読書感想文

    Taiwa Sato

    びとら

    Resale Japan

    QWERT 5w1h

    (o ̄∇ ̄o)♪

    HIROGACHAN+

    しんのすけたろ

    勝ち組の日経225

    ハセッチブログ

    五月雨 時雨

    諭吉

    さくらさくら1

    不思議な不正義2
    ブロとも 申請フォーム

    竹林乃方丈庵のブロとも申請はこちらからです。

    Webページへのリンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    更新履歴
    今日の暦と天気

    日めくりカレンダの説明

    ■2016年旧暦 日月の出入■

    06 | 2020/07 | 08
    ---1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    262728293031-

    ★☆今宵の夜空☆★

    NHKらじる★らじる
    大阪東京第2FM大阪
    何の日



    ご訪問ありがとうございます
    竹林泉水のTwitter
    ■□FC2のブログ□■
    _/_/_/竹林乃方丈庵を_/_/_/
    _/_/_/ リンクに追加 _/_/_/
    □■□■徒然諸諸■□■□ □■□■心の時代■□■□ □■□■息身心/健康■□■□ ----- □■□■厚生福祉■□■□ □■□■その他■□■□
    □■FC2以外のブログ■□
    諸諸 徒然 「身・息・心」 こころの時代
    RSSリンクの表示
    QRコード
    QR